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大同団結運動と議会政党の成立-1- 利用統計を見る

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(1)

大同団結運動と議会政党の成立-1-著者

松岡 八郎

雑誌名

東洋法学

7

1

ページ

61-82

発行年

1963-09

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007823/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

大同団結運動と議会政党の成立

(

)

げ ハ ド 白 H h m 目 次 て ま え が き 二、大同団結運動の蔚芽 三、三大事件の建白運動 四、大同団結運動の開始(以上本号) 五、大同団結運動の展開 六、大同団結運動の分裂 七、帝国議会の開設と政党の再編成 入 、 む す び

*

もミ

わが国における政党運動は、 明治七年(一八七四年)一月、 前年秋の征韓論争に敗れた旧参議板垣返助、後藤象 郎たちによって結成された愛国公党を、その蔚芽として出発した。その後、国会開設運動 H 自由民権運動の幾多の曲 大同団結運動と議会政党の成立付 _,__ ノ、

(3)

京 洋 法 主主己 づ・ -.L. /'-. 折を経て、その流れを汲む自由党が、板垣を総理に推し、最初の全国的基盤に立つ政党として、十四年秋に創立され た。やや後れ十五年春には、十四年の政変によって政府を追われた大限重信を中心として立窓改進党が結成され、さ らには政府党たる立忠帝政党が結ばれ、ここに中央におけるいわゆる三党問立の時代を迎え、また諸地方政党の勃興 と 相 ま っ て 、 一時、華々しい政党運動が展開された。 だが、とりわけ反政府的政党運動は、自由党の活動に典型的にみられるように、藩閥専制政府の厳しい抑圧政策に よって、その後、充分手足を仲ばすことができず、また十五年末の福島事件を始めとする地方における諸激化事件の 瀕発のため、内部統制が困難となったことなどもあって、十七年末頃までには、そのほとんどがやむなく、あるいは つ 解 たT党 0'-"し あるいは党首脳部が崩壊し、 ﹁公然の政党歓みて世は暗黒に復ヘり、﹂またもや、いわば政党の無い時代とな しかしながら、藩閥専制政府の激しい圧迫に対抗して、やがて反政府的勢力も、なんらかの形において、再び政党 にまで結集し、再組織されていくのであるが、このような政党再組織化の運動が実を結ぶにいたるのは、明治二十二 年の憲法の発布、それに続く二十三年の第一回総選挙および第一議会の開会の過程を待たねばならなかった口だが、 このような政党の復興は、勿論、政府の一連の諸施策││忠法発布、総選挙、談会開設ーーーに消極的に対応していく のみでなく、さらに積極的に反応していこうとする反政府側の運動の結果でもあった。その運動が、すなわち、後藤 象二郎を主唱者とする大同団結の運動であり、 ﹁諸政党の萎鹿﹂後、分裂した当時の反政府戦線に、統一をもたらそ うとしたものであった。したがって、この大同団結運動は、政党復興の生みの親でもあるとともに、これまでの自由

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民権運動の総決算であり、締めくくりでもあった。 ( 2 ) だが、従来、大同団結運動にたいする評価は、あまり高いということはできない。主唱者後藤の政略のために利用 された運動であるとし、後藤の哀切り││入閣ーーによって、 たんなる法閥政府への割り込み運動に終ったとするの である。しかしながら、当時の分裂した反政府戦線に統一をもたらそうとし、﹁小泉を拾てふ大同を取らん﹂とするこ の運動は、たしかに、後藤の入閣によって、その企図が失敗に帰したものの、意気法滞していた反政府運動に元気を 与え、自由民権運動の締めくくりをなさんとし、殊に、その後の反政府的諸勢力が、政党に復活していく契機を与え たことにおいて、この運動を再評価すべきではないだろうか。その際、 いうまでもなく、前述のような後藤の思想と 行動を考慮におきながら、考察を進めていくべきであることは勿論である。なおまた、このような運動を契機として 復活した政党たとえば立憲自由党は、 て、それは、いわゆる議会政党)として成立していったといわれているが、その議会政党は、どのような特殊性をもつ ものであったろうか。すなわち、近代的政党の概念に照らして、この復活した政党をいかに評価すべきか D 従来、こ 一体、どのような性格をもっ政党であったろうか。総選挙、議会開設と相まっ の政党にたいする評価は、必ずしも明確となっていないのではなかろうか口 以上のような問題意識にもと守ついて、本稿は、大同団結運動およびそれに続く議会政党の成立過程を追求しようと 窓自由党の復興、 するものである。年代的には、主として、明治二十年十月の後藤による大同団結の提唱から始まって、二十三年の立 および第一議会にいたる期間であるが、十七年末頃の諸政党の壊滅後から、二十年十月以前までの 段階も、大同団結運動の前奏曲としての現象については、当然、考察の対象としなければならない口なお、これ以前 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 付

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(5)

京 洋 法 ~ι 寸 ノ、 四 の反政府運動のすべてがそうであったように、中央政府の動向との関連において、考察を進めていかねばならないこ ( 5 ) とはいうまでもない。 ( 1 ) 明治七年の愛国公党の結成から、十七年十月の自由党の解党にいたるまでの政治過程の分析については、拙著﹁自由党小 史﹂を参照されたい。なお御用党たる立憲帝政党は政府の支持を失ってすでに、十六年九月に解党した。また立窓改進党は十 七年十二月解党論がおこり、解党を主張する大隈、河野敏鎌らが脱党したが、解党することなく、その後は、沼間守一、島田 三郎、尾崎行雄らによって細々ながら維持されていった。 ( 2 ) たとえば、井上清・鈴木正四著﹁日本近代史﹂上巻一五二頁は﹁それは(大同団結 H 筆者註)、もはや革命的統一戦線 の意義をうしない、薩長藩閥政府にたいする、藩閥外の地主・ブルジョア的政治勢力の結集をはかり、藩閥政権にわりこもう とするものであった﹂と述べている。 ( 3﹀ここに議会政党(司 ω ユ

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・ユ己とは、議会主義政党を意味し、したがって、この政党の活動の主点は、主とし て院内の議事運営と選挙対策にある。このような政党の典型は、イギリスにみることができる。(﹁政治学事典﹂﹁イギリスの 政 党 ﹂ の 項 四 六

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八頁参照) ( 4 ) 近代的政党の概念については、拙著前掲三頁参照。 ( 5 ) 明治七年の愛国公党が前年の中央政府の分裂から生まれたことに典型的にあらわれているように、わが国の政党運動は、 いわば中央政府との措抗関係として展開されていった。

大同団結運動の萌芽

また十八年十一月には、 ( 1 ) 自由党の解党後も、各地に旧自由党員による直接行動の企てが起ったが、それらも政府の鋲圧するところとなり、 いわゆる﹁大阪事件﹂が発覚して、旧自由党の急進分子の多数が捕えられ、反政府運動はよ

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うやく洗滞の一路を辿りつつあった。 この問、落閥専制政府は、着々と支配体制を整備し、十八年十二月末には、従来の太政官制度を廃止し、伊藤博文 ( 3 ) の尽力によって内閣制度が採用されて、来るべき立憲制施行のための基礎が築ずかれた。だがこの制度は、総理大臣 を首班とし、各省の長官を兼任する国務大臣よりなる合議体であることから、立憲的形態を具備した近代的変革であ ったにもかかわ知⋮、実質的には従来の藩閥的支配になんら変更を加えたものではな匂政府の最も意図するところ は、二十三年を期して聞かるべき議会に拠るであろう反政府的勢力に対抗すべき制度的装置の樹立であったのであ る。このように政府は、国内体制を整備、強化しながら、また反政府的勢力の後退に乗じて、さらに明治初年以来の 懸案であった条約改正問題)を解決して、その功をおさめんことを企てた。 この改正問題は、幕末以来の不平等条約を改正して、治外法権を撤廃し、関税自主権を回復して、国家の独立を確 保しようとするものであった白だが明治政府は、成立以来すでに幾度かこの改正交渉を行なってきたが、成功しなか を成功させる手段として、 った。このたび、外務大臣となった井上馨も、すでに外務卿就任以来、各国と交渉を内々進めるとともに、その交渉 いわゆる﹁欧化政策﹂を採用して、盛んに西洋文化の模倣に腐心していた。第一次伊藤内 閣が成立し、井上が外交の担当者として再任されるにいたり、その内閣の方針としても、条約改正問題が受けつがれ、 欧化政策は一層奨励された。かくて反政府運動の小康を得た政府は、十九年五月より、かねてから準備されていた列 ( 9 ) 国共同の条約改正会議を聞いた。この会議には、裁判管轄条約案と通商航海条約案とが提出されたが、その内容につ ( 印 ) いては、民間にはなにも知らされず、秘密のうちに審議が進行した。ただ欧化政策による西洋模倣の風潮のみが高か 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 付 六 五

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東 洋 法 宇 六 六 っ た 。 十九年から二十年の前半にかけては、政府にとって比較的無事安穏な期間であったが、この間における反政府的勢 力の動向はどうであったろうか。勿論、目覚しい行動はなかったものの、将来への足固めともいうべき年であったろ 立憲改進党は、十七年暮れ、党首大限重信を始めとする首脳部の脱党によって、党の指導体制が弱体化し、党勢は 低調となっ凶 v だが直ちに臨時会を聞いて、党運営の暫定的処置がなされ、ついで十八年二月には大会を聞いて、正 式に党規約の改正を行ない、従来の総理および掌事を廃止して、七名の事務委員をもって党を運営することとなり、 また同じころ、演説会を開いて、人心の鼓舞に努めた D その後は、規約にもとずいて十九年四月、二十年四月と定期 大会を開き、同時に演説会をも開くを例とし、枕滞せる人心の興起に努めたが、党を維持するのが精一杯であり、勿 論藩閥政府に打撃を与えるまでにはいたらなかった。 このように改進党は細々ながら維持されていったが、旧自由党のその後の動静はどうであったか口十八年十月出獄 した星享ぽ、暫らく状況を静観していたが、やがて旧自由党員のみならず、改進党員や政党に参加していない知名の 人々にも説いて、 十九年十月二十四日、 全国有志大懇親会を京京に開いた。 来会者二百余名、 庄は発起人総代とな 洗滞せる在野勢力の元気を鼓舞し、 ( お ) 捨てて大同に就くべき旨をもってした D だが改進党からの来会者は少数にとどまり、旧自由党の懇親会のような観を ( 日 ﹀ 口正し、星たちの意図はあまり達成されなかったけれども、この会合は、いわば﹁大同団結の蔚芽﹂として評価するこ り 開会の趣旨を述べて、 それぞれの聞の恥際を除いて親睦をはかり、 小異を

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と が で き よ う 。 ついで二十年五月十五日には、さらに関西地方における在野勢力の結集を目的として、第二回の全国有志懇親会が 大阪で聞かれ、二百余名が集合した。まず星が開会の辞を述べて、前回と同様に大同団結の必要を説き、 つぎに土佐 より来会した板垣返助が立ち、板垣個人としての意見を開陳して、在野勢力の結集とやがて関かるべき国会への心柄 ( ロ ) えを説いた。この会合は、大阪事件の公判がまさに聞かれんとする時に当っていたため、 一 層 活 況 を 呈 し た 。 だがこのように、二十年の前半までには、反政府勢力がまだ具体的な政治問題について反対運動を展開するにはい たっていなかった。すなわち、洗滞せる在野勢力に活を入れ、その足並みを整えようとする努力がなされていたので ある。ただ政府の欧化政策にたいする批判の戸は日毎に高まり、それに伴って、反政府的気運が昂進した口この時に 当って二十年五月九日、政府は、在野勢力の首領たる板垣、後藤、大限らに伯爵を与え、反政府的空気を緩和しよう かえってその気運が助長された。しかも、 と謀ったが、板垣の辞爵問題が起るにおよんで、 ついで政府の条約改正に ついての反対意見が、政府自体の内部から起るにいたって、反政府勢力ははっきりした攻撃目標をつかみ、反政府運 動を展開するにいたるのである。このように、反政府運動の再出発にきっかけを与えたのは、欧化政策と条約改正問 題 で あ っ た 。 ハ 1 ﹀十七年十一月には、秩父事件、同じころさらに、飯田事件、名古屋亭件、とおこり、十九年六月には、静岡事件がおこっ た 。 ( 2 ) 大 阪 事 件 の 精 細 に つ い て は 、 平 野 義 太 郎 ﹁ 民 権 運 動 の 発 展 ﹂ 四 九

l

九 四 頁 参 照 。 こ の 事 件 の 評 価 に つ い て は 、 平 野 義 太 郎 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 付 六 七

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京 洋 法 Aヱ4 寸a 六 八 氏のように高く評価する説(平野義太郎前掲五 O 頁)とそれに呉議を唱える説(井上清﹁条約改正﹂一 O 三

l

七頁﹀とが あるが、筆者は後説が妥当ではないかと思う。この事件に関係した主なる人々は、旧自由党左派と呼ばれる人たち││大井志 太郎、新井章吾、磯山清兵衛、稲垣示、景山英子らであった。 ( 3 ﹀内閣制度の成立過程、意義等については、辻清明﹁日本官僚制の研究﹂六七頁以下参照。 ハ 4 ﹀ 辻 清 明 前 掲 九 八 頁 。 ( 5 ) たとえば土陽新聞は﹁之れ決して新内閣に非ず、依然たる旧薩長内閣なり、即ち唯だ其の名称を異にし、其の組織を変じ 其の椅子を交換したるに過ぎずと﹂論じている。鈴木安蔵編﹁自由民権運動史﹂一六七 l 八頁。ちなみに第一次伊藤内閣の顔 触を示せばつぎの通りである。括弧内は前職と出身地を示す。内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文ハ前参議兼宮内卿、長州)、 外務大臣井上襲(前参議兼外務卿、長州﹀、内務大臣山県有朋(前参議兼内務卿、長州﹀、大蔵大臣松方正義(前参議兼大蔵 卿、薩州)、陸軍大巨大山巌(前参議兼陸軍卿、薩州)、海軍大臣西郷従道(前参議兼農商務卿、薩州)、司法大臣山田顕義(前 参議兼司法卿、長州)、文部大臣森有礼(前参事院議官、薩州)、農商務大臣谷干城(前学習院長、土州)、逓信大臣榎本武拐 (前特命全権公使、旧幕臣)、なお辞任した前太政大臣三条実美は新たに設けられた内大臣(常侍輔弼の任をもっ)に、前左 大臣有栖川宮は参謀本部長に任命された。この顔触からもわかるように、この改革によって、宮廷勢力が著しく後退し、従来 の薩長の落問的支配が一層強化された。 ( 6 ) すでに伊藤博文は、十八年八月十八日付の井上襲宛書簡において、﹁関堂の基礎を充分に盤固ならしむる丈けの改良を断 然挙行相成、二十三年に到る迄確乎不動の政略を決定相成候様云々﹂(界畝公追頭会﹁伊藤博文伝﹂中巻四四六頁)と述べ ている。また当時、オ l ストラリヤ駐在公使であった西国寺公望は、十九年一月十五日付の伊藤宛書簡において、﹁客冬は意 外断然の御改革にて、実以倖躍不菅候。(中略)考ふるに到底吾邦政府が実腕と訂任とを有するの第一歩なるべく、果して然 時は、実に吾邦千古未曽有の大美事大事業と奉存候。於此子文明諸国と同等の政府たるを得ベく、於此乎他日議院を開設する も変なかるべし﹂ハ﹁伊藤博文伝﹂中巻四九一頁)と述べて、この改革のもつ立冠的意義を桓歌しながらも、来るべき議会 への配慮がなされている。 ハ 7 ) 条約改正問題については、井上清﹁条約改正﹂参照。

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( 8 ) この欧化政策は、鹿鳴館ハ十六年十一月二十八日竣功)に象徴されており、この西洋心酔の時代を称して、鹿鳴館時代と 呼ぶ。井上清教授は﹁鹿鳴館時代の官僚の道楽は、ふつうに欧化政策とよばれるが、これほどまちがったよび方もない。彼ら は何一つ﹃欧化﹄したのではない﹂とし、この欧化政策は、﹁第一に、外国外交官と在日洋商にたいする大がかりな買収政策 にほかならない。第二にそれは官僚や富豪の彼らの自身のための放あである﹂(井上市前拐一一一頁)ときびしく批判して おられるが、﹁欧化政策の意図は、条約改正を実現してわが民族の独立に役だてようという悲別に根ざしていたことも亦、無 視されてはならない﹂﹁後進国がその発展の途上において迎えた悲忍削というべきであろう﹂(岡義武﹁近代白木政治史﹂ I 二五九頁) ( 9 ) 仏渡英伊白米独蘭西葡露瑞の十二個国であった。 ( 叩 ) 井 上 清 前 拘 一 O 九 頁 参 照 。 (日)尾崎行雄は当時の状況を﹁大隈侯といふ大傘下に集ってゐてすら、経営の困難であった改進党が、いま急に党の首脳部を 失ったのであるから、党勢ます/¥悲境に陥るは、止むを得ないところであった﹂(尼崎行雄一日本怒政史を語る﹂(上﹀一 三七頁)と述べている。 ハロ)藤田茂吉、尾崎行雄、箕浦勝人、島田三郎、肥塚竜、中野武営、沼間守一の七名が選ばれた。いわば集団指導体制を採っ た の で あ る 。 (日﹀十八年二月、十九年四月のいずれの演説会も超満員の盛況であったが、これは当時余り閃かれることのなかった反政府側 の演説会を機として、民衆が不満のェ、不ルギーを発散させたのではなかろうか。これらの演説会の演題から見るとき、二十年 四月初めごろまでには、条約改正問題はほとんど関心の対象とはなっていないようである。指原安一ニ﹁明治政史﹂明治文化全 保 九 巻 正 史 篇 上 巻 四 七 四 頁 、 四 九 七 頁 、 五 O 六

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七 頁 参 照 。 ( U ) 十七年九月新潟にて北陸七州懇親会が聞かれ、二十一日の演説会の演説にて、星は官吏侮辱罪に問われ、屯-禁銅六ヶ月、 罰金四十円の刑を受け、十八年十月出獄した。その後、暫ら︿実践運動を起す余裕なく、海外諸国の怒法を翻訳して、これを ﹁各国国会要覧﹂と題して刊行したり、これを参考資料として日本憲法を私編していたということである。中村菊男﹁明治的 人間像││星写と近代日本政治﹂七 O 頁 参 照 。 大同団結運動と議会政党の成立付 ノ ¥ 九

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東 洋 法 ~ 寸ー 七

(日)板垣退助監修﹁自由党史﹂下(岩波文庫版﹀一五四頁参照。 (日)改進党へは当時中立的立場にあった末広重恭が交渉した。改進党の人々もその趣旨は賛成したものの、実際にはほとんど 出席しなかった。前田蓮山﹁自由民権時代﹂=二二頁参照。 ハ げ ) 板 垣 退 助 前 掲 下 一 七 三

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五 頁 参 照 。 (四)板垣の辞爵問題については、板垣退助前掲 することにあった。 下 一 七 二 頁 、 一 七 五

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一入九頁参照。板垣辞爵の趣旨は﹁門間﹂を排斥

三大事件の建白連動

藩閥政府は、前述のように、伊藤総理大臣、井上外務大臣のコンビのもとで、欧化政策に熱中しつ♂ J 条約改正交 渉を秘密裡に進めていたが、二十年四月二十二日にいたって、列国との問に、裁判管轄条約えを議了し、各国の全権 は、この突をそれぞれ本国政府に送って承認をまつこととなった。またその聞に通商航海条約案の審議も進行した。 ここまではまさに政府の意図通りことが運び、条約案の秘密も守り適された。だが意外なところから、すなわち政府 自身の内部から、この条約案にたいする反対の声が挙がった。 新たに伯爵を授けられた旧幕臣勝安房は、 五月、時弊二十一条を挙げて内閣に建白

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、その中に欧化政策の行き過 ぎを正さんとしたが、まだ条約改正問題にはなんら触れるところがなかった。ついで六月にはいると、内閣法律顧問ボ ︿ 4 ﹀ ︿ 5 ) アソナ l ド ( の ・ 開 ・ 国 o -g o g B O ) が、長文の﹁裁判権ノ条約草案-一関スル芯見﹂を内閣に提出して、改正案がむしろ現 状にたいする改思案であることを詳論し、廃案とすべきことを強調した。さらに七月には、欧洲視察から最近帰朝し

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たばかりの谷干城農商務大臣によって、意見常炉提出され、今回の改正案には﹁亡国の兆﹂があり、二十三年の立窓 制の施行をまって、人民にはかったうえで改正交渉を行うべしと痛論した。しかもその意見が容れられないのをみる ( 7 ) ( 8 ) と、辞職し野に下った。このように政府の内部および周辺から烈しい具議が起り、しかも裁判官轄条約案とともに、 ( 9 ) これらの怠見書が漏洩するにいたって、改正案反対の戸が在野勢力に燃え移った。 かくて二十年の後半にいたり。すでに欧化政策に反対していた在野勢力は、 一斉に政府攻撃を展開した。ここにい たって、政府の内外からする反対のために、政府は遂に譲歩せざるをえなくなり、七月二十九日、外務大臣より各国 全権に条約改正交渉の無期延期を通告した。このように井上案は葬りさられたが、反政府勢力は、これに満足するこ となく、さらに政府を追及し明八月一日には、旧自由党員林包明らの主唱による﹁谷君名誉表彰運動台が行われ ﹁ 封 事 ﹂ を て、気勢が挙がり、同月十二日には、さきに伯爵を辞退したが、 ついに受爵せざるをえなかった板垣が、 上奏して、政府の失政十カ条を批判した。この意見書は、たんに伊藤内閣の打倒を目ざすものではなく、現体制の変 草を要求したものであった。ついで同月十七日には、東北壮士が井上外相に詰問にでかけ、九月二日には、九州、中 国、関東、東北および高知の十七県の有志総代が宮内省におしかけて、天皇に上書せんとしたのをはじめ、請願、陳 情、建白はあいついで行われた。かくては政府もついにその力に屈し、九月十七日、井上外相は辞任し、伊藤首相も 宮内大臣兼任をやめた。だがこのような政府の態度も、反政府勢力の緩和には役立たず、さらに反政府勢力は、外交 の立直し、地租の軽減、言論集会の自由という三要求をスローガンとする、 いわゆる﹁三大事件の建白﹂運動を展開 して政治的不満を結集し、政府を窮地に陥れようとしたのであった。この結果、三問題に関する建白書をたずさ与えた 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 付 七

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東 洋 法 ぶ主主. 二子 七 各地総代の上京が相つぐ有様であった。 このような反政府勢力側の攻勢にたいして、政府側は勿論、後退を続けるばかりではなかった。井上外相の辞任に よって有力閣僚か・失い、弱体化せんとする内閣を補強するために、同じ目、谷干城のいわば後任として、薩摩派の代 表的人物とみあれている黒田清隆が、内閣顧問の閑職から農商務大臣に選任された。このことは、反政府勢力の攻勢 にたいして薩長が提携して、落関政府の政治的支配を維持し、防衛しようとする体制の強化にほかならなかった。さら ( 日 ) に進んで九月二十九日には、山県内務大臣は省令を発し、建言と称して官吏に面会を求め、抗論するのを制限した。 また同じ日、伊藤首相は、地方長官を召集して、 ﹁憲法ノ親裁ヲ異議スルモノアラハ、断シテ﹂これを処分すべしと ﹁外交ノ事ヲ以テ之ヲ人民ノ公議ニ付セントスル﹂は﹁凡ソ立憲王国-一於テ断シテ取-フサル所﹂これまた容赦 ( 日 ) すべからずと訓示した D その後には各控訴院検事長も召集され、各鎮台司令官も召集されて、同じ趣旨の訓示を受け な し 、 た。このように政府側の弾圧体制は着々と固められたのであった。 だが政府のこのような対策にもかかわらず反政府運動は日毎に滋しさを加えていった。しかしながら、これまでの 段階では、この滋しさを増していく反政府運動も、その中心的人物をもたず、 したがってその戦線もまだ十分統制さ れではおらず、組織されてもいない状況であった。そこでかかる風雲に来じて登場してくるのが、すなわち後藤象二 郎であり、その提唱にかかる大同団結運動である。 ( 1 ﹀殊に舞踏会が搭行をきわめ、二十年四月二十日の伊藤総理官邸における仮装舞踏会ごときは、世間の大評判となった。板 垣 退 助 前 拘 下 一 五 五 │ 入 頁 参 照 。

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( 2 ) その主要なる内容はつぎのとおりである。付条約批准交換後、二年以内に日本全国を外国人のために開放する。仲外国人 に日本臣民と平等の権利および特権を与える。同日本政府は﹁泰西ノ主義ニ則リ﹂司法組織および刑法、刑事訴訟法、民法、 商法、民事訴訟法を制定する。帥右の諸法律は条約批准交換後二年以内に頒布し、および批准交換後十六カ月以内にその英文 を外国政府に通知する。国外国籍の判事、検事を任用する。約内外人交渉の訴訟を審理する裁判所には外国人判事数名を置く。 伯批准交換後十七年間有効である。内容の精細については、明治文化全集十一巻外交篇四六四 l 九 頁 参 照 。 ( 3 ﹀ 勝 の 建 白 の 全 文 は 、 板 垣 退 助 前 掲 下 二 一 四 1 入頁、あるいは明治文化全集十巻正史街下巻﹁名家意見書﹂四 八 四

l

六 頁 参 照 。 ( 4 ) フランスの法学者、明治六年来日し、以来二十八年までわが国の立法事業に尽力した。彼はかねて裁判管轄条約束に反対 して、井上外相に警告していたが、かえりみられず、また山田顕義司法大臣に意見を述べたところ、自分の管轄外の問題とし てことわられた。そこでさらに伊藤首相の諜将井上毅と二十年五月十日会談して、その所信を訴えた。明治文化全集十一巻 外交篇﹁井上毅ポアソナ!ド両氏対話笠記﹂四四九 1 四 五 二 一 貝 参 照 。 ( 5 ) こ の 全 文 は 、 板 垣 退 助 前 掲 下 一 九

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一二四頁、あるいは明治文化全集十一巻外交筋四五二│四六四頁参照 ( 6 ) こ の 全 文 は 、 板 垣 混 助 前 掲 下 一 一 一 八 1 二四五頁、あるいは明治文化合集十巻正史篇下巻﹁名家芯見書﹂四五 七 l 四 七 O 頁 参 照 。 ( 7 ) この外、陸軍の山県反対派の中将たち、烏尾小弥太、三消栴楼、曽我祐準らが、外人に内地旅行、雑居、土地所有権を許 すことと外人法官任用にたいする反対をあおった。井上清前掲一一四頁参照。 ( 8 ) この条約案を世上に漏洩したのは、当時、外務省翻訳局次長であった、小村芳太郎であった。彼はこの条約案を回辱的で あるとしてかかる熊度にでたのであった。岡義武前掲二六二買参照。 ( 9 ) これらの意見舎は、秘密出版の形で世上に流布した。 (叩)問題は井上突のロ担非にのみあるのではなかっ?。谷の烹見書も述べているように、外にたいする民族の独立と内における 民椛の献立とは京可分の一体をたしているのである。したがって、政府追及の運動は、なおも継続され、それが三大事件の建 白運動となってあらわれていくのである。 大同団結運動と議会政党の成立付 七

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京 洋 法 学 七 四 (日)この模様については、指原安三前掲五二八

l

九頁参照。これは運動会と称する示威行進であり、デモンストレイ γ ョ ンである。わが国の人民運動でかかる斗争形態が発見され、実行されたのは、これがはじめてであるといわれている。谷はこ の運動にたいする謝辞のなかで、﹁斯る集会はあまり度々催ほされさる方然るへしと存するなり﹂と述べて、あまり好意的で はなかった。これによって、彼の思想をうかがうことができよう。 (ロ)その全文については、板垣退助前掲下二四七│二七四頁、あるいは、明治文化全集十巻正史筋下巻四七一 ー 四 八 九 頁 参 照 。 (日)﹁自由党史﹂に害かれた建白者あるいは諸県の総代に名のでてこない県は徳島、呑川、佐賀、石川の四県のみであった。 板 垣 退 助 前 掲 下 二 七 九

i

二 人 三 頁 参 照 。 ( M ﹀伊藤が宮内大臣兼任をやめたのは、谷の意見書も攻撃しているのであるが﹁欧洲各国総理大臣の兼ぬる所は内務、大蔵、 外務の三省に外ならず、宮内大臣を兼ぬるが如きは某未だ聞かざる所なり﹂(板垣退助前掲下二二七│八頁)とするい わゆる宮中と府中の別をみだすものとする非難にたいして、行われたのである。この問題については、﹁伊藤博文伝﹂中巻 五四七 l 八 頁 参 照 。 ハ日)内務省令第二号については、指原安三 (刊)この訓示の内容については、指原安三 前 前 掲 掲 五 三 四 頁 参 照 。 五 三 四

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六 頁 参 照 。 囚

大同団結運動の開始

前述のように、星享らの大同団結の首唱によって反政府勢力は蘇生し、条約改正問題を契機としてその運動は活、議 ( 1 ) 化し、さらに星をはじめとする旧自由党員や改進党員尾崎行雄らの運動によって、三大事件の建白運動ピまで昂騰し たものの、反政府運動は、その反政府戦線を統一し、その首領となるべき中心的人物を欠いていた。そこで、この迩

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( 3 ﹀ 動を成功させるために、星、尾崎らは、その人物として、後藤象二郎に白羽の矢をたてたのである D 当時、関地にあ っ た 後 藤 は 、 一議に及ばずその勧誘にしたがった。かくてこれに元気をえて、反政府運動は、益々昂騰していった。 ( 4 ) まず後藤は、二十年十月三日には芝公園三縁亭に、在野の知名の士、七十余名を招待し、 ﹁諸君と互ひに政友たる 交誼を今一一回憶かめんが為めに、我々は弦に謹んで祝杯を挙げ﹂ょうとすると述べ、さらに﹁外には独立の国経振は ( 5 ) ず、内には資生の管血将さに枯れんと﹂するときに際して、経起を要望したのであった。ついで﹁世間の広き、志趣 相同じき者何ぞ限らん。各人各地に割拠して、互に戸息を通ぜざるが故に、捉扮扶持して同一の行路を進むこと能は ざるのみ﹂として、有志がたがいに連絡する機関として﹁丁亥倶楽部以の設立を発表し、賛同を求めた。倶楽部の運 営費は、創立者たる後藤が一人で負担するというのであり、まだ﹁同人交通の使に供す﹂る機関であるので、出席者 中不参加を表するものはだれもなかった。 このようにして、後藤のいわゆる大同団結運動は開始されたのであるが、後藤の演説あるいはその倶楽部の趣意書 からも明らかなように、在野の各派を糾合しようとするものであり、その統一戦線の結成を呼びかけたものではあっ て居る空気を新鮮ならし﹂むるために、 たが、藩閥政府に反対するための具体的な政策 H 目標を当初、明確にもってはいなかった。ただ﹁此眼前腐敗し切っ ﹁諸君と共に起﹂とうというのであっ(幻 o このように、当時分裂していた反 政府戦線(特に旧自由党系と改進党系との対立)の統合の契機として、この運動は、具体的な政策よりも、後藤自身 のパーソナリティを重要な要素として出発したのである。かくて大物(!)であり(維新の大功臣であり、旧自由党 家傑である(豪放快 の領袖である)怪物(?)であり(借金が山積しているといわれながら、 豪 壮 な 邸 宅 に 住 む ) 、 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 付 七 五

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京 洋 法 手 七 活な性格)後藤が出馬したことによって、そのあたえた影響力は大きく、従来の建白運動にさらに油がそそがれ、反 政府運動はいやがうえにも盛りあがった。 翌十月四日には、全国有志大懇親会が浅草鴎遊館にて聞かれ、集まるもの﹁府下改進自由両派の諾士は勿論、九州 の政党員京北の志士中国の政論家等無庖二百余名﹂であり、殊に自由改進両派の和解がその主なる目的であった。だ が従来多年にわたって烈しく反目しあってきた互の感情は、簡単には解消することはできず、これがため、改進党員 でこの運動に参加したものは依然として少なかった。ついで十月九・十日には、有志聯合の演説会が同じところで閲 ( U ) 位され、非常な盛会であったが、閉会直前、笠官が中止解散を命じたため満場が沸騰し、検束者をだすにいたった。 さらに十月十六日には、壮士の団結である愛国有志向盟会によって、上野公園に大運動会(示威運動)が関かれ、こ ( ロ ﹀ れまた警官隊と街突し、斎藤新一郎らが拘引された。このような警官との街突は、反政府運動に殺気をあたえ、 居 燃えあがっていった。 かくて当時、反政府運動を指導していた星享、中島信行、林有造らによって運動方式が討議され、十月二十九日に は諸県の代表四十余名が集まって、 ﹁一、来十一月十日を限り各地方より上書建白を為すべきこと。 一、各地方の有 志者は右日限を期して速かに委員を摂み、上京せしむべきこと。 ( 日 ) 志と相合し、京京に於て大懇親会を聞くべき亭﹂を申し合わせた。ここにいたって従来非常な昂騰をみせてはいたも 一、各地方より上京したる委貝は、直ちに全国諸有 のの、ややもすれば秩序を失なう傾きのあった反政府運動に統制があたえられ、十一月十五日には、各地の委員が多 数上京したので、臨遊館に大懇親会が開催され、改進党員を除く三府三十五県北海道の委員三百四十余名が集合した口

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後藤も出席して、 ( M ) ﹁姥れて後己まん﹂の精神を強調し、星は改進党攻撃の演説をおこない、改進党に惑わされること なく、運動に努め、団結の強花を希望い伐口このように、改進党系の脱落はあったものの、反政府運動は足並みをそ ろえて前進し、出京せる各県の総代たちは、それぞれ元老院に建白書を提出し、あるいは内閣の大臣、高官に面会を 求めて主張を訴えるなど、まさに政府にたいして波状攻撃を展開した。 そして十二月二日には後藤が﹁版然起て﹂宮内省にいたり、拝認を乞うたが、土方宮内大臣に拒絶されたため、﹁封 おを提出し、条約改正問題を中心として内閣の失政の責任を追及して、内閣の交代を天皇に要望した。日和見主義 者と目されていた後藤が、身を挺して波澗の渦中に投じたことは、 いよいよ藩関政府との対決の近きことを思わしめ た の で あ っ た 。 この上うに意気大いに挙がる反政府的勢力にたいして、その後政府はどのような対策をとったか。伊藤首相自身は ( 口 ) 十一月八日、大山陸相とともに西海に航行して反政府運動の攻勢を避け、そのあとはさきに内務省令を発して反政府 運動を押さえんとした山県が、さらに十一月十日、命じて警察令により、自由なるべき屋外集会および列伍運動(デ モ)を制限したのである D また十一月二十八日には、さきごろ世論を大いに喚起したといわれる秘密出版が露見し、 ( 臼 ) 六十余名が捕えられた。このように依然として政府は弾圧政策を続けたのであるが、元老院の尾崎三良議官一派は、 ( 却 ) 反政府運動に同情的であった。 かくて反政府的勢力は、この尾崎議官たちを通じて元老院に働きかけ、その意志を貫徹せんとし、十二月十五日、 二府十八県の総代九十余名が相会して、即日、元老院に建白書を提出した。またなおも、各地方から有志がぞくぞく 大同団結運動と議会政党の成立付 七 七

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東 洋 法 字 七 人 上京し、世情はますます騒然となっていった。しかも十七日には伊藤が海遊から帰京し、反政府運動を・無視する態度 を示したため、反政府的勢力は一層憤激した。

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かくて不穏なる空気が巷にあふれ、流言が乱れ飛び、また政府の側における譲歩ないし後退の色はすこしも見られ ず、いよいよ激突せんとするかの切迫した状況を呈したのである D ここにいたって、反政的勢力の側においては、九 十余名の有志が集り、最後の手段として、伊藤首相に面会し、もし拒絶されるならば、すわり込み戦術を断行するに 決し、その談判委員として、まず星享と大石正巳を選んだが、大石が辞退しため、片岡健吉がこれに代って選ばれ、 ( 勾 ) 十二月二十六日をもって伊藤に面会を求めることになった。まさに藩関政府の責任者たる伊藤と直接交渉することに よって、反政府側の意志を貫徹し、切迫せる時局を収拾せんとしたのである。 これにたいして政府側においては、伊藤の帰京後、連日密議を開き、不穏なる世情の責を反政府運動に帰し、従来 通りの断乎たる態度に臨むことに決し、弾圧法規の制定を考慮していに問、反政府的勢力が暴動を起すとの聞識もあ り、また前述のように反政府運動が政府に直接対決を迫ろうとしたため、星享、片岡健吉の交渉委員が伊藤首相に面 会を求めんとした十二月二十六日の前日の深夜、保安条例を官報号外をもって突然発布して、即日施行し、反政府的 勢力の一掃をはかった。その第四条は、 ﹁皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰 謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ、警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経、期日又 ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ、三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得﹂と規定して、反政府的勢力 の首領と目されていた後藤を除き、他の中心的人物 H 星享、片岡健吉、尾崎行雄、竹内綱、中江兆民、林有造、吉田

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正春、林包明、坂崎斌、山際七司、西山志澄などをはじめ、計五百七十名の各地有志に来京市外三里の地への退去を 命じたのでおい。しかも反政府的勢力の蜂起を極度に悲れた政府は、厳重なる警戒のもとにこれを行つ(問。これはま さに、反政府的勢力にたいする一大痛棒であり、このため、片阿佐吉のようにこの処分を不当として拒絶したものもあ %また政府に保安条例廃止の建白書を提出したものもあった側、ほとんどの有志、壮士はやむなく退去せざるをえ ( 2 ) なくなり、反政府運動は一朝にして﹁荒涼索莫﹂となった。首領たる後藤も左右を奪われて、活滋なる運動を展開す ることが不可能となり、この二十年の暮れにいたって反政府運動は一時鳴りをひそめざるをえなくなったのである。 これまでみてきたように、二十年暮れまでの段階においては、反政府運動は、旧自由党系を中心とする三大事件延 白運動として展開しており、首領としてかつぎだされた後藤の大同団結運動は、 ようやくその絡についたばかりであ り、両者の運動は混然としていわば未分離の状態であった。それが保安条例の発布を契機として、前者の運動が一掃 されるにいたり、後者の後藤のみが一人取り残される結果となったのである。これがやがて、翌二十一年には後藤が 孤軍管関する大同団結運動となって展開していくのであり、殊に京京を離れた各地方において花を咲かせることにな る 。 ( 1 ) 尼崎は、﹁日本憲政史を語る﹂(上)一五九頁において、﹁改進党では、私がほとんど単独で、反対運動に起ち、それに 沼間君の一派が、少しく援けてくれたくらゐのもので、我々は充分に戦へなかった﹂と述べている。改進党からの参加がきわ めて少数であったのは、八月の半ばに大隈にたいして井上外相の後任として入閣するよう政府から交渉があったからであると いわれている。ハこの交渉は妥結せず、大隈の入閣は翌二十一年二月になってからであった)﹁伊藤博文伝﹂五五 O 頁以下参 大同団結運動と議会政党の成立付 七 九

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京 法 A主主 寸ー 洋 ]¥

照。前困惑山前拘三一五頁参照。 ( 2 ) この三大事件の建白の内容については、十月(日欠)、高知県総代片岡健吉らが提出した建白書(板垣退助前掲下 二九九

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二三頁参照﹀に典型的にみることができる。地租軽減、外交策挽回、言論集会の自由の三問題のうち、地租軽減と 言論集会の自由の二問題は、運動の主たる目的ではなかったといわれている。中村菊男前掲七八頁参照。 ( 3 ) この中心的人物に、星は最初、板垣退助を推そうと考え、帰郷していた板垣に上京を促がしたが、板垣は辞爵問題で政府 を刺戟していたため、謹慎して動かなかった。そこで星は、当時、その所有の高島炭鉱を三菱に売り、東京高輪に三万坪の地 所を買い、宏壮な邸を構え、風雲を望んでいた後藤に出馬を勧めたのであった。前田蓮山前掲三二七頁参照。また尾崎行 雄も後藤に出馬を勧めている。尾崎行雄前掲一六三頁参照。かくて後藤はこのチャンスをとらえたのであり、かれは﹁日 本最大の議会主義者﹂と呼ばれる。服部之総﹃明治の政治家たち﹂上巻一四九頁。 ハ 4 ) 旧自由党員あり、改進党員あり、あるいは保守派あり、また癖護士あり、新聞記者ありであった。このように在野の各派 の代表を集めた観があった。前田窪山前掲三二八頁参照。 ハ 5 ﹀ 後 藤 の 演 説 に つ い て は 、 板 垣 退 助 前 掲 下 二 八 六

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八 頁 参 照 。 ( 6 ﹀丁亥倶楽部の設立趣意書については、板垣退助前掲下二八八│九頁参照。 ( 7 ) 後藤は三大事件の建白運動のミコシに乗る考えはなかったといわれている。英雄好みで、華やかな、大がかりの仕事が好 きであった後藤にとっては三問題のごときは区々たる小事にすぎなかった。そこで彼はいわゆる﹁国家危急存亡の時﹂という 一語で、一挙に民間各派を統合し、政府を脅かそうと企てたといわれている。前田蓮山前掲三二八頁参照。 ( 8 ) 尾崎行雄は、後藤を﹁ほんとの豪傑とは、かういふ人かと思うような人であった。非常に豪放快活な性質であって、私が 会った人々のなかで、最も快感を与へたのは伯であった﹂と評している。尼崎行雄前掲(上)一六 O 頁 。 ( 9 ) 指 原 安 三 ﹁ 明 治 政 史 ﹂ 明 治 文 化 全 集 九 巻 正 史 篇 上 巻 五 三 八 頁 参 照 。 (刊)たとえば、この懇親会の席上、改進党の沼間守一と旧自由党の星享との問に乱斗さわぎが起った。その精細については、 尾崎行雄前向(上)一六五

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九 頁 参 照 。 (日)﹁明治政史﹂はつぎのように述べている。 ﹁両日共に非常の盛会にして、彼開拓使官有物払下事件の演説以来未た曽て有

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らさる所の雑沓を極めたり﹂指原安三前拘五三九頁。 (ロ)斉藤は当時﹁壮士﹂として著名であった。彼には﹁壮士論﹂の著述がある。岡義武﹁近代日本政治史﹂ I 二七三頁参照 なお尾崎は壮士という言葉は自分が初めて用いはじめたものであると述べている。尾崎行雄前掲(上)一七五頁参照。 ( 臼 ) 板 垣 退 助 前 掲 下 二 九

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一 頁 参 照 U (日)後藤の演説については、板垣退助前掲下二九一頁参照。 ( 日 ) 星 の 演 説 に つ い て は 、 板 垣 退 助 前 掲 下 二 九 二

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三 頁 参 照 。 (時﹀この封事は中江兆民が起草した。全文は、板垣辺助前掲下三一九 1 三 二 六 頁 参 照 。 (汀)﹁仏国が彰湖島を占領せ L に対し、英国が巨文島を占領し、露国が之に対して対応を窺ひ、共の海岸を測量せりとて、咋 冬より防備に着手し、今回実地視察に出掛けたるなるも、伊藤は斯くて世間の攻撃を避けたりと云はる﹂三宅雪嶺﹁同時代 史﹂二巻三二四頁。 (臼)﹁屋外-一於テ公衆ノ集会ヲ催ジ、又ハ多衆列伍運動ヲ為ス者ハ、何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ハラス、会主又ハ幹事等ヲ定 メ、会同ノ場所通行スヘキ線路井ニ年月日ヲ詳記シ、会同三日前ニ其会主又ハ幹事等ヨリ管轄普察署ニ届出認可ヲ交ク可シ﹂ 当時この運動会 H 列佐運動が政治的意志を表明するもの即ちデモンステレ l ジョンとしてつかわれた。指原安三前掲五四 二 頁 参 照 。 ( 四 ) 板 垣 退 助 前 掲 下 三 一 六

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八 頁 参 照 。 (加﹀板垣退助前掲下コ二五頁および三二七頁参照。当時元老院においては、憲法草案を院議に付すべしとし、また同院 の議粧を拡張すべしと唱える一派があり、やや内閣と対立していた。 (幻)海遊より神戸へ帰ってきた伊藤は、﹁仮令如何様に民間の有志者が騒ぎ立つるも、之に依て政府が何するの斯するのと云 う事は決してなき筈なり﹂と述べたが、これが新聞の報ずるところとなり、有志の憤激を買ったのである。板垣退助前拐 下三二八頁参照。 (幻﹀﹁日く、暴徒火を各所に放ち、途に伏して大臣を屠らんと謀ると。日く、某の地某の門に地雷火を埋没せりと﹂などの風 評 が 乱 れ 飛 ん だ 。 板 垣 退 助 前 掲 下 三 三 O 頁 。 大同団結運動と議会政党の成立付 )¥

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来 法 字 洋 l¥. ( お ﹀ 板 垣 退 助 前 拘 下 三 二 人 頁 参 照 。 ( M ) ﹁法制局参事官中、独仏学者多く、仏学者はナポレオンのクーデターを説き、独学者は普国の社会党鎮圧筑より露国の虚 無党鋲圧策に及べるも、長官は山尾子にして、実際は図書顕井上毅が糸を引き、保安条例制定は井上と司法次官三好退蔵とが 主査の形なりと問ゆ。されど真の提案者は参事官中に在るべく、縁の下の力持は功名を損する代り、怨を叉けざるの利あり﹂ 三 宅 雪 嶺 前 掲 二 巻 三 二 四 頁 。 (お)この風評の出処は、尾崎行雄だとの説がある。尾崎の暴言が政府の密偵によって伝えられたというのである。尼崎行雄 前掲(上﹀一七六│一八二頁参照。 ( お ﹀ 保 安 条 例 の 全 文 は 、 板 垣 退 助 前 拐 下 三 三

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二頁、または、指原安三前掲五四三頁参照。 ハ幻)﹁中心が後藤ならば、後藤を処分すべき筈なるも、新伯爵なる後藤を処分し難く、其の手足たる徒与を絶ち、之をして孤 立無援為すこと無からしめんとせり﹂三宅雪嶺前掲二巻三二三頁。 ハお)﹁政府にて点検せる所にては、主として後藤邸に出入せる者にして、陰謀を企つるの軽重を以て決定したり﹂三宅雪嶺 前掲二巻三二三頁。殊に高知県出身にたいしては厳しかった。なお大石正巳、末広重恭の二人が退去者の中から除かれて いたことは、奇怪であった。 (却﹀政府の戒厳体制については、板垣退助前掲下三四二│三頁参照。 (初)これがため、片岡健吉ら十五名は軽禁銅三年に処せられた。板垣退助前掲下三三八頁参照。 ( 剖 ) 板 垣 退 助 前 拐 下 三 三 九 │ 三 四 二 頁 参 照 。 (泣)余りの苛酷な取締りに、伊藤は三島警視総監を戒めたといわれている。かくしてその罪ほろぽしとして、政府は保安条例 発布後三日、十二月二十八日に新開条例を改正し、やや手続を簡にし、取締りをややゆるやかにした。三宅告知前お二巻 三二四

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五頁参照。新聞条例については、指原安三前拘五五二│五頁参照。 なお引用の明治文化全集は、特に註記をつけないかぎり、新版によっている。 ハ付記)本稿は、昭和三十八年度文部省科学研究費交付金(各個研究)による研究成果の一部である。 ハ 未 完 )

参照

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