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マックスシエーラーtに於ける
倫理的名目論の問題
三
輪
健
司
Die Problem der ethische Nominalismu,s in Max Seheler. Kenji Miwa Die materiale Wertethik Max Schelers ist eine E’thik, die in dem Tatsache ’ eines Zusammenhangs zwischen dem Wesen des Gegenstands (Wert) und dem Wesen der intententionalen Erlebnisses fundiert wird. Die Ethik muss also in den Tatsachen ebenso wie in alle anderen Wissenschaften fundicren. Aber wir k6nnen irberhaupt die Ethik die ethische Nominalismu.s nennen, wenn eine Ethik die sittliche Tatsachen leugent und zuglich die Wert (sitt− liche Wert) als menschliche Erfindung halt. Deshalb k6nnen wir die Theorie Thornas Hobbeses und die Friedrich Nietzsches. als die reprtisentitative Theorie in die ethische Nominalismus bezeichnen. Dem Ansicht Hobbeses nach,Gut und B6se ist nur etwa eine Nomine, die Wir begehren und absc− heuen, und dem Nietzsches nach, es gibt keine moralisqhen Phanomene, sondern nur eine moralische Ausdeutung von Phanomenen; Aber Die Sache, dass solche Wertsubjektivismus falsch ist, muss durch die Analyse der mo− ralischen Phanomene klar und deutlich gemacht werd’en. 1.所謂事実豊道徳的事実 事実と法則どの関係に於ては,一般に法則は事実に ロ リ 基づくとせられるが故に,法則は新しい事実の発見に よって修正せられて,より普遍引当性を得るとされる コ ロ のに対して,事実に道徳的と云う形容詞が冠せられる と,此の事実が変更され,逆に法則によって,道徳的 ら に無記な事実が初めて道徳的事実と呼ばれるようにな るのは,如何なる理由によるのだろうかQ事実に基づ かない,逆に事実をして初めて道徳的事実たらしめる が如き法則ほ,一体如何なる性質:の法則であり,何庭 にそして如何にして求められ得ようか。仮令か檬の法 則が求められるにもせよ,此の法則自身の道徳性ほ更 に問われなければならないだろ5・。如何ならば,か様 の見解によれば,此の法則によって初めて道徳的二値 が生ずるとされるから,此の法則自身は,それ故に, 贋値無関係なものであらねばならないだらう。若しま ゆ の たか様の法則が本來道徳的法則であるなちば,同檬に コ サ 何故に個々の意欲や行爲の道徳的根源性を是認するこ とが出來ないのだろうか。 カントに於ては,「道徳法則は経瞼的事実ではなく (1) て三吉理性のみの事実である。」そして此の事実は理 ゆ 性の所與,叡知界の事実として実践的に確証されるQ 「理性が実践的であり得ることは,理性が肖ら実践的 であることを事.実によって証明し得るのみである。か くて実践理性の原則の演繹に於て重点は当然実践理性 の事実にあることとなる。実践理性の事実が実践理性 の可能を保証するのであり,理論理性によってなされ たその句能の澗駆的証明は,二二に事実の中にその積 (“) 極的証明を見出し残された室長を満すのである。」と されるが,然し消極的証明と積極的証明とを戴然分離 する事実とはなんであるか。靴の純檸理性の事実への 途が,その理論哲学に於ける途とは大いに異なり, 「域はカントが認識の理論に於て大いに排斥しながら, 道徳に於ては大いに称讃しているところの常識の,道 徳的判断の個々の.事例の分析であり,或は道徳法則は 一他のあるものに更に頼ることなしに一簡明に示 (3) されるところの純埣理性の事実である。」道徳の形而 上学的基礎付けに於て,経験的実質的なものとして撞 否された常識が,道徳の原理の証明に於ては何時の間 にか秘かに取り容れられている。印ちカントによれば, 「格奪の如何なる形式が普遍的立法に適し,また如何4
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1 9 5 3 なる形式が適せぬかということは,教えられなくとも (4) 常識で区別することができる。」のであるから「意志 の自律の原理に從って何を爲すべきかは常識の極めて 容易にまだ遅疑なく洞察し得るところである。これに 反して意志の他律を前提した上で何を話すべきかは難 事にして世聞的知識を必要とする。換言すれば義務が (5) 何であるかは,凡ての入におのつから明かであるQ」 (6) 更にカントは白面理性の方法を論じ「いろいろな論議 の中でも,諸他の論議の場合ならば忽ちに倦怠を感ず るような入蓮をも引きつげて一座に加おらせ,一種の 活氣を会合に注入するものとしては,或る睦め性格を の 決定するに足るような某々の行爲の道徳的贋値を論議 する場合に如くものはあるまい。ほかの場合ならば理 論問題に於ける細かい分析や穿さくをすべて無味だ面 倒だと思う人々でも,問題が今話題になっている善い 或は悪い行爲の道徳的当面を示すことに関係して語る と,忽ち仲聞入りをする。そして彼等は,意向の純罫 線や,從ってまた意向に於ける徳の程度を減じ得るも の,或は軍に疑わしくなし得るにすぎないものすら も,いろいろと考え出すことについて,到底如何なる 思弁の対象についても彼等に期待することのできない (7) ような,精密と繊細と微妙とを示すものである。」と (9) して,常識に於ける「理性の傾向」を璽硯すべきこと を強調して更に次のように云う。「純梓道徳性は本論 何であるかと問うならば,この問題の決定に疑を鋏み 得るものは,哲学者を措いてほかにないことを余は告 白せねばならない。何故ならば,常識に於てはこの問 題はなるほど抽象的一般的な方式によっては決定せら れていないが,然し:普通の使用によってはいわば左右 の手の区別のよ5なものとして夙に決定せられている (9) からである。」かく考察するとき,一体実践理性の事 実と密なる心理学的事実及び常識の道徳的判断の事実 り とは,何によって区別されるのだろうか。これに対し てカソ1・は次のように云う。「哲学者は殆ど化学者の 如く,如露な道徳的規定根族と経験的根嫁とを区別す るために凡ての入の実践理性についても実聴し得ると いう雄蕊をもつている。鄙ち彼は経回的に触発せられ た意志(例えばそれによって彼が何かの利幅を得るこ とができるから祈言を云わうと欲する人の意志)に道 徳的法則(規定根出として)を加えるのである。恰も それは化学分析家が楽友土の塩酸溶液巾にアルカリを 加えるが如くである。塩酸ほ直ちに石荻を遊離してア ルカリと結合し,石友は底に沈澱する。これと同様に 他の点では正直な(或はこの場合はただ考の中で正直 な人の地位に身を置く)人に,彼をして嘘言者の無湯 元を知らしめる道徳的法則を示すならば,彼の実践理 性は(爲されねばならない事に関する到断によって) 直ちに利釜を捨てて彼自身の入格に対する奪敬を彼に (10) 維持せしめるところのもの(貫実性)と結合する。」 印ち道徳的法則は実践理性の規定根擦が純梓の道徳的 なりや否やの判定の法則である。然るときか檬の法則 を何故に事実と呼ぶのか。r道徳的法則の表現するも のは,純然な実践的理性の自律,換言すれば自由にほ (11) かならない。」 とすれば,実践理性の事実はまた実践 理性の構成ではないのか。rカントの倫理学の構成的性 格を帯びていることは,道徳法則は理性の自己立法か ら生ずるとか,理性的入格は道徳法則の立法者である とかいう云い廻し一一道徳法則は実践的なものとして の,純檸意志の叉は理性の内的機能法則であると云5 場合には異なるのではあるが一の中に於て屡々表現 (1:1) される。」か檬の構成的立場に於ては,事実は凡て経 肉的事実と見倣らされようから,カントがその倫理学 の出発の原点に於て,「凡ての実質的倫理学は必然的 に貨財倫理学(GUterethik)及び目的倫理学(Zwec一 (13) kethik)であらねばならない。」 とするのは当然では あらうが,その時,カント倫理学に診ては必然的に先 り ロ ロ リ 天的倫理学が基付けられる豊かな先天的な出直世界が 見逃がされる結果となる○此のカントによって見逃が された先天的二値気立の上にのみ,カントとは反対に 門口ち「実質的倫理学のみが一虚血に一恣意的構成 物とはちがって,事実に依直することが出來るのであ (14) る。」 ところでか様の先天的実質的贋値事実を否定す る理論一般として,倫理的名目論 (Ethische Nomi− nalismus)と評贋理論(Beurteilungstheorie)とが挙 げられるが,此処では前者についてのみ述べよう。 2.倫理的名目論 倫理的名E−i論によれば,道徳的事実(Sittliche Tat・ sache) 善悪一の先天的所與は否定せられ,善悪 は恣意的な入間の発明(Menschl{che Erfindung)に よる畑物として,軍なる名目(Nomen)とされる。 邸ちそれは情緒的志向的作用の内実(Gehalt)として ではなく,生命維持の,叉は権力意志の力(Macht) に対する言語的表現(Sprachliche Ausdruck) とさ れる。ボツブスによれば「善及び悪は吾々の欲求及び (lb) 忌避を表示する名辞」であり,ニィチェによれば「道 徳的現象はなく,あるものは現象の道徳的解繹のみで (16) ある。」 とされる○プラトニズムは一見之等の説とは 極めて異なっているように見えるが,情緒的志向的便 値認識の作用を認めず,從ってまた先天的な道徳的細 細事実をも認めない点に於て一種の名目論と云うこと が出品る。マックスヲェ崩ラーに於ける倫理的名目論の問題 (三輪) 5 さて名目論によれば既に道徳的事実がない以上,善 悪の到定標準がたてられなければならない。邸ち「道 徳的に鼠紙あるものの認識ではなくて,論義あり之呼 ばれるものの定立(Festsetzung)が,そして明証と翼 理とではなくて合目的性が道徳的争いを決断しなけれ (17) ばならない。」 ことになろう。然るとき,此の合目的 性と云う標準は如何にしてたてられるだろうか。此の 設の本病的見解によれば, 「此の入がよい行爲をし た」と云う形の命題は,内容的には,その行為に於け り り の る此の入の満足感の箪なる表現命題でしかない。そし て既の行鳳よ庇の表現に於て,既の人によって初めて その債値の有無が規定せられることになる。從って此 の り む の設によれば,償値は嚴格に相対的であって,それ故 り に吾々は何にかが善なることを洞察するが故に欲する の ゆ のではなくて,逆に吾々が欲するところのものが善と なると云われるQある意欲が善叉は悪と云われるのは り それが善の意欲悪の意欲であるからではなくて,現 実にか又は想像に於て充された(叉は充されない)意 ロ の り り 欲に於ける吾々の満足(叉は不満足)の感情によるの である○此の欲望の充実(又は不充実)に俘う満足 (又は不満足)の感情の表現が,善叉は悪と云う慣値言 表(Wertaussagen)の形に於て表現される。既に儂値 事実がないのだから,善悪標雌の合目的性は満足感の 彊弱に,從ってその贋値言表は此の満足感の強弱に比 の つ の 例して一種の是認の要求(Aufforderung)を持つだろ ロ う。それ故に此の合目的性は償値言表の中に秘む一定 方向を有する要求に帰着しなければならないだろう。 ロ か檬の要求を持つた言表は実は命令(Befehlen)に他 ならない。從って名目論に於ける善悪標準の合目的性 は此の命令関係に,そして終極的には力の関係(Ma− chtverhaltnisse)に南元される。それ故に此の説に於 ては,傾値言表と命令とは本質的には何等の相異もな いことになる。両老の相異は言表に於ては此の要求が 潜在的,從って間接的であるのに対して,後者に於て はそれが顯在的直接的であると云う点に絶てのみ存ず る。かくてまた名目論によれば,命令が,自Pち支配関 ゆ の ゆ 係に於ける権威意志の称讃 面面が善悪を規定する ことになろう○從って既記では「道徳的経瞼に替って 多様の仕方に点て相互に闘い合5意志に於て,何れの の の
意志が勝者で脇何れの酷継者であるか噸察
が,善悪の凡ての規定に先行する。」善とは力に対す るシンボルであり,悪とは無力に対するシンボルであ る。ホソブスによれば,「国家が存在しないところに は,凡ての人間が凡ての爲に権利を持っている所有権 なるものが存在しないのであるから,国家一強制的 権カーの存しないところに不正なるものはまったく (10) 存在しない。」此処では道徳的評慣は最早吾々の道徳 酌生活には何等の関係もない。ニィチェによれば「超 (20) 人が進化の象徴」であり,「一度超人が生れたならば, 入の生は新しい強い光に照され,すべての大震講義は 論るる如く湧き出るであろう○人は超人に於ておのれ (’21) の意義を明らかにする。」 かくて名目論によれば,倫理学の課題は,第一には 償値判断を意欲の力の関係に帰着ぜしめることによつ は の り り て標準意志を求め,そして第二に,此の標準意志一一 それが神の意志,国家の意志総体意志等であろうと ロ の内容(lnhalt)を出血る限り精確に示すことで あろう。そして此の意志の命令が一切の善悪の根源で あるから,此処では此の意志自身の善悪を問5と云う ことは全く無意味であり,從ってまた,孤立意志作用 (isolierter Wlllen3akt)の善悪の問題もまた同檬に 無愚昧であるQか橡の善悪の標準としての権力意志こ そ,道徳の創造者として道徳を超越し,それれ故に正 に道徳的天才と云わるべきで,彼は善悪一一道徳的事 の り む の ロ 実 の発見者(Entdecker)ではなくて,発明者 (Erfinder)であり,彼の行詰,意欲,命令なるが故に これに從うことが善であり,これに反する一切が悪で あって,彼の行爲意欲,命令の内容は更に問われな いし,問われることは出來ない。 3.批 評 道徳的事実一一善悪一は丁度物理学や数学に於け るが如く任意に定められた磁位によって其の大小,長 短,軽重等が計測せられ,量的に規定せられると同檬 に,人間の恣意的発明によるある慣習的尺度を以て任 意に規定し,解訳され得る現象だろ5か。物理的現象 が凡ての人に対する共通の現象であるが如く,道徳的 り事実もまた共通の事実であり,それ故に,此の行爲, コ む ロ の 此の意欲,此の入格の夫々の善及び,私の行爲,私の ロ リ 意欲私の旧格の夫々の善と云うことは,道徳と矛盾 した事実であろうか。本質性を普遍妥当性と同視する ことは主知的啓蒙主義の共通の偏見である。「本質性 叉はそのもの自体(Washeit)はそれ自身であって, (22) 一般的なものでもまた量的なものでもない。」 とすれ ば,本質としての雨漏は悪は本來普遍妥当性とは何等 のかかわりもない実質:である。此の道徳的事実の質的 相異を無視し,慣習的尺度による計測可能の量的相対 的相異に帰することは,名目論の共通の根本的誤謬で ある。道徳的事実の替わりに個入の欲求を以て善悪の 尺度とする名目論に於ては,人間の自然状態はボツブ (L)r・) スの副章通り「総ての入聞に対する総ての入間の戦争」 の衰態であり, 「入聞は宛も茸のように,相互の間に6 滋 大 論 集
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1 9 5 3. まったく何らの約束事もなく,地面から生えでて,そ (24) のまま生長したようなものである。」その結果ほ,「ま たとりわけて不幸なことは残虐な死に対する不断の恐 怖や危瞼に晒され,孤独,貧困,駆歩,殺伐な,そし (25) て短い生涯を過ごさなければならないことである。」 そして「そこには正邪,正不正というような観念は存 .在しない○共通の権力がないところには法律は存在し ないし,法律のないところには不正は存在しないので ある。寒に暴力と欺磁こそは戦争に於ける二つの基本 (26) 的な徳である。」 以上が名目論の典型的帰結であるが,その前提は上 述の如く道徳的事実を否定し,從って此の道徳的事実 (即値)と力の欲求の充実 (又は不充実)に思う満足 (又は不満足)の感情状態との混同にある。それ故に 次ぎの批判は主として此の前提についてなされなけれ ばならない。 第一に,感情及び意志の表出(Ausserung/en)と同 じものについての言表及び贋値言表との間には本質的 な相異がある。表現(Ausdruck)叉は表出は本当内 的な生(innere Leben)の表現である。それ故に「既 に植物的存在に歴ても,表現の根源現象(das Urpha− nomen des Ausdrucks)帥ち,疲労せる,力に充ち たる,豊饒な,貧易易な等々とい5内的状態についての ある一・種の観相学(Physiognomik)がある。か1茉の 表現は正に生命の一根源現象であって,ダーウィンが 考えたように,決して隔世遺制的な目的行動の総体で (:)7) はない。」吾々は,美しい絵や景色に出会するとき, これに対して「あ1」 とか「お!」とかの如き情 緒約表現をするQ然し此の場合,これに対する,「玩 の絵は美しい」,「此の景:色は優美である」と云5:吾々 の言表は,一種の償愚子新であって,情緒的表現とは 本質的に異なる作用である。 「あ1」とか「お!」と かの表現に撃ては端山にその時の吾々の感情状態が表 現されているのに過ぎないが, 「既の絵はi美しい」, 「此の景色は優美である」と云う言表は,此の絵や此 の景色の中にある何かについての言表であって,從っ て,既の言表に於ては此の何にかが直接1こ思念され, 意昧されている。師ち此処での直接的志向的対象は, コ ゆ ロ サ の コ リ の り の 此の思念されたもの,意味されたものであって,吾々 ロ の中なる感情状態ではない。それは丁度吾々が何かを 見つつ,叉何かをききつつそのものの色や晋について 言表するとき,吾々は直接その色や書に結び付き,そ して端約にその色を見,その晋を聴いているのであっ て,その時に於ける眼筋や耳殻に於ける感覚が全く氣 付かれないと同率である。これと同.檬に美しい道徳的 行爲に関する感動の表現,反対に醜悪なる行掛に関す る嫌悪の感情の表現は,「此の行爲は道徳的に美しい」 「吐の行瀬ほ道谷川に汚い」と云う時の言表とは本質的 に区別されなければならない。郎ち言表に於ては,夫 り の 々の行爲の側測生質が先論理的に直観され,此の直観 の事実に勘付いて初めて吾々はその担持者 (Trtiger) について,.贋値判断をするのである。言表に先行ずる かかる直観の内実が郎ちアプリオリな贋値実質であ る。それ故に「此の絵は美しい」,「既の景色は優美で ある」,「此の行爲は道徳的に美しい文ほ汚い」と云5 ような言表は,親覚的形象的な絵,景色,行爲ではな く,既の絵や景色の美しいと云うこと,此の行爲の道 徳的美醜と云らことの把握に基付く。そして之等のも のは吾々の主観的な感情状態とは本質的には何等の関 係もないアプリオリの性質自身である。此の贋値性質 は本質的には吾々の多様に変化する感情状態に鍋.され ることなく,情緒的に直観される。それ故に「吾々ほ 吾々の敵に於ける早智と卓越と道徳的便値さえもま た,開明とその表現なしに,極めて冷淡に確認ずるこ (26). とが出來る。」 し「かくて吾々は危険の仕事に於て, 自分が負傷していたと云うことや,叉は波労感情や苦 痛自身がか檬の仕事に対して抗議していると云うこと に氣付かない凡ての情熱的意欲が,既に一一より高い 形態の意志ほ爾更であるが 同時的な叉ほ予期され (Ll”)る感覚的感情歌態を全く.所與の将外に置くのである。」 肉体的感覚的な喜怒哀樂の眞只中に於て,修士に湯身れ ることなく精進努力が出御,又難行苦行の中に高き道 徳的意欲を堅持し得るのほ,、か檬の事実に基付くので ある。 第二に,償値言表と国玉力求及び時値反抗(Werts・ treben und Wertwiderstreben)ともまた本質的に区 の別されなければならない。印ち慣値言表の本質は言表 にあるが故に,その中には翠純に贋値実現への力求は 内含されてほいないQ此処に知と行との関係について の極めて困難な問題がある。注意すべきは,此処での 知は,主知主義的な知ではなく情緒的直観知であると いうことである。 「意欲がより張力[Li勢力的であれば ある程それだけ,意欲に於て與えられた一実現すべ きものとして與えられた一.償値と形象内容に於ける 自己消失(Sichverlieren)がより大となり,かくて最 の 強の意志の場合には,内容が,吾々;によって=意欲 ・ り る な な む されて=いること(das Durch=Uns=gewollt=sein) の意識さえ最少となる。正に弱少意欲の場合に丙容自’ 身の意欲がまた努力(Anstrengung)と共により鋭く (:10) 現われる。」対象の中への此の自・己喪失 (Verloren・ sein)こそ,偉犬な凡ての実行家(Tatmenschen)の の の コ 根本的態度であるQそれ故に此の態度には,私が意歓マックスッエ隅ラ炉に於ける倫理的名目論の問題 (三輪) 7 の する,と云うが如き意欲の意識は殆んど含まれていな い。云わぼ彼は此の自己喪失に而て逆に自己を超越し た偉大なものの中に生き更るとも云い得る。かくて彼 り り の の の の コ コ の 等は自分からではなくて,偉大なものによっての体瞼 を自証する。彼等はその意志活動を,或は恩寵と感じ, 負托と感じ,或は使命と感ずる。「偉人論は偉入によつ )てではなぐ,常に偉人の観察者によってのみなされ t41) る」と云うことは深い意味を持っていると云うべきで あるQソクラテス以來の有名な知行合一の命題も此の 意昧に於てのみ正当化されるであろう。か檬の志向的 情緒的認識に於て,初めてそれは必然的に意欲と結び 付く。「それは出品感の,生活への,凡ての事物感への 滲透であり……自己の倫理的存在をその見地で貫通す ることであり,実践の,面面関係的な不易の根本把握で (32) ある。」此の意味に於てのみまた悪入は無知者であるQ 「然し潭徳的認識のか様の全領域ぽ,判断領域や命題領 域からは全く独立のものである。許償やその償値態度 はまた感得(FUhlen)に於て與えられた二値に於て充 実せられ,その限りに於てのみ,明証的である。それ故 にソクラテスの命題は,債値叉は道徳的債値について の凡ての軍なる概念的知識や判断的知識に対して六盗 (33) しないと云うことは全く自明的である。」それ故に一 丸態度は本質的に情縮的高値認識に基付かなければな らないが,情緒的儂値詔識は本:質的には道徳的態度を 何等予想しない。此の両者が本質的に異なるが故に, 吾々はその実現の不可能の便値をも爾明瞭に把握し得 る。例えば吾々は天体の崇高性や夫々の個性的人格儂 値や,二ってまた夫々の人格の晶晶レ意欲,心情等の 憤値をも直観することが出來るし,又吾々は何等その 実現への力求を感じない二値を,更にはむしろ反対の 力求を感ずるような贋値をも明瞭に把握することが出 來る。 第三に,贋値言表(慣値判断)は告知(Kundgabe) (命令)とも本質的に異なる。贋値言表は一種の贋値 判断であるが,告知は命令の一種である。既に述べた 如く値値言表に於ける言表は,その対象とそれに於け る贋値との関係についての書表である。鋼断は一般に は,「AはBである」という命題の形に於て,A−B つ の関係についての立言であるから,「AはBである」 と云5幽魂は,「A−Bほ翼である」という形に書き 換えられる。それ故に判断の虞の賓辞は,「貫である」 と云5ことであるQ從って心心は一般的には臨画判断 の の形に改められる○ところで判断によって,初めて眞 儒が云われるならば,「A−Bは演である」と云うこ とがまた「眞である」と云われなければならない。然 るとき「A−Bは翼である」は眞であるほ眞であると 云5風に無限に反復されよう。それ故に論断はその充 実のために指値の直観を前提しなければならない。A −Bは眞であると云うことは,A−Bが眞であると云 う判断から初めて眞となるのではなくて,A−Bの本 質関係の直観に感付き,そして此の直観の内実によっ て充実せられて初めて藁となる。それ故に判断が置の 到断たるためには,それに先行する事態の直観を要 し,此の直観の内実が判断の貫の賓辞であるQ高値言 表は此の直観の画品についての言表であって,此の内 実の存在自身とは本質的に何等の関係もない。これに 対して告知の本質は,縞入の意志との関係である。鄙 ちそれは,他入の意志の制約と云う志向’(lntention) であるQそれ故に翫に此の告知機能は,ある程度二二 生活を営む動物に隔ても見出される社会的機能であ (34) る。告知に診てはその志向対象が漢然なる一定範囲で あり,從ってまた他人の意志の制約は間接的なのに対 して,ある特定範囲の入日の意志の制約を,而も直接 に志向する場合には告知は命令と云う形をとる。命令 の本質は力関係として,他入の意志の直接的支配で, 此の意味に於て命令は本來権威の命令であり,從って 境処では減点自身の善悪も,それ故にまた命令の善悪 も問われない。何故に命令に服忌するかと云5問いに 対する回答は,此処ではそれが命令なるが故にと云う こと以外にはないQそれ故に「権威倫理学は正に道徳 的洞察を権威の命令によって代置しようとするため に,権威の道徳的自己贋値を否定するものである。権 威がかくかくと定義するところのものが善叉ほ悪であ るならば,正に権威自身には何等の洞察的な道徳的贋 値も相寄することは出鼻ないだろ5。然らば命令も服 (3の 從も同様に盲目であるに稽訳ない。」 と云われなけれ ばならない。贋値言表には仮令,償値の他入への傳蓬 (Mitteilung)が含まれているにもせよ,傳達は本二 言表贋値の傳達であって,告知に於けるが如き縞入の 意志の制約と云う志向を含んではいない。減点すべし (Du sollst)と云う当爲表現に於て,仮令理想的当爲 (ideales Sollen)と存在当爲(Seinsollen)とが,此 の表現形式に於て混同せられていようとも,理想的当 爲には,その当面要求の実現への志向は何等含まれて いない。不正はあるべきではない(Unrecht soll nicht sein)と云うことは,その実現の如何にかかわらず, 不正と云う非贋値自身の要求である。それは贋値性質 自身に基付く本質要求である○正義はその実現の如何 にかかわらず,理想的存在当爲としての当爲要求をそ れ自身持っている。それ故に吾々はそれの力求意識を 特つことなしに,傳達一血統傳承一によって, 歴史や藝術の世界に於て理想的な入々の優れた道徳的
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1 9 5 3 贋値や美の贋値を感得することが出來る。此の故に, (:1(;) 「町回を力求のX」とする名目論は根本的に誤謬に陥 っていると云わなければならないσ力求の対象となり 得る便値は,把握せられる白面の巾に顧て,吾々に実 現可能のもののみである。「倫令や目的には常に耳必 ず諸贋値が面懸するけれども,然し隠しも凡ての値贋 (;17) に目的叉は命令が対目する訳ではない。」「なぜなら, ’意志に対する命令,又は力求の目的として問題となる ことの全然ない一それが既に実現せられてあるにも せよ,載いは,その内容上その実際の努力にとっても 問題とはならないと云5ことにもせよ一一ところの便 (3巳) 値もまた明かに存し得るのであるから。」若しも印面 の置界が力求の対象に限られるものならば,それは極 めて内容の貧弱な世界となるだろう。 「純暇なる当爲 倫理学は道徳的眩惑(sittliche Verblendung)であり (39) 現実物に対する{副直盲(Wertblindheit)である。 吾々は色や音に対するとき,仮令吾々に知覚された 色や暑は人々によって夫々異なった色や書であって も,吾々は既の知覚された色や晋の外に術同一の色や 同一の音を思念していると同様に,吾々は云わば吾々 の外なる客観的な同一の贋値を感得し得るからこそ, 此の贋値によって初めて,人格や意欲や行爲について の吾々の道徳的宮漏もまた客観的たり得るのであるQ それ故に便値言表は,名目論に於けるが如く,穏密裡 に,一定の仕方に於て意欲し叉は止血すべきことの要 求や命令では決してない。それは対象に於ける贋値そ のものと直結し,此の贋値についての言表であって, その実現とは何等の関係もない。即ち「便値言表ほ, 此の人は善であると云うような言表に於て存する贋値 を思念し,意味するところの命題であって,願望や力 (4の 求の表現や告知ではない。」 最後に曜日論と道徳的認識の錯覚の問題が残る。1以 上によって仮令道徳的臨画が客観的事実たるにもせ よ,それを把握する認識の側に於ける認識能力や関心 の程度の異なるに從って,異なって把握されると云う ことを吾々は認めざるを得ないQ然しその故に,此の ことが,か檬の客観的事実の存在否定を意昧するもの ではないだろ5。「錆覚や迷誤(Tauschung und Ir. rしum)があるところでは,それは事柄(Sache)との 不一致(Nichttibereinstimmung)に依存ずるb認識. の虞傭から独立した,確固たるものとしての事柄,換 言すれば,正に自体存在としての事柄が錯覚の前提で ある。さもなければ,錯覚は全く錯覚たり得ないであ ろ5。……それ故に便値の自体存在に対して何にかが 証拠になるとするならば,正にそれは錯覚の現象であ (ll) る。」それ故に錆覚は如何なる條件で起るにもせよ, それは自存的贋値の否定ではなく,逆に此の贋値の唐 存性に対する確固たる証拠である。若しもか檬の自存 心良値がないならば,一体錯覚を錯覚とする証拠は何 処に見出され.るだろうか○寄値を欲望のXに対する軍 なる記号とする名目論によれば,此の主観的恣意的な 欲望は凡て雫等の権利を以てその正当性を主張し得る が故に便値錯覚はあり得ないであろう。ホツプスによ れば,「凡ての人が凡ての物に権利を有している場合 には,いかなる行爲をなすも,それは決して不正とはい (4三∼) ● ● ● e ● えないQ」從って上値錯覚の本來の座は,贋値自身の り の り の 領域ではなくて,種々なる欲望や関心に依存する吾々 む の む ロ コ む り の の道徳的認識の領域であるQ贋値錯覚は贋値の存在自 身についてではなく,便値の存在の認識についての錯 覚である。 吾々は往々確に人々の同一の特性,同一の意欲や心 情,更には同一の態度や細引等に関して極端に相反す る評贋をする。ある人が大胆であるとして称讃する行 進を他の入は軽率であるとして否難し,ある入が愼重 であると詐隠するのに他の人は臆病と許贋する)か檬 の例は吾々の日常生活の列る処に見られる現象であ る。此の場合,大胆,愼重,軽率,臆病と云うような 表現には,か棟の表現を充実する客観的な自体存在が あり,此の自体存在によって初めて意欲や行爲がかく 呼ばれるよ5になるのか,それとも行爲や意欲につい ての吾々の称讃 否難によって,初めて行爲や意欲 がかく呼ばれ得るようになるのか,と云うことは,極 めて重要な意味ある問題である。 扱て,称讃 無難の細魚に対して決定的な役割を 演ずるものは,吾々の事態に対するときの関心的態度 である。関心を惹き起すものは称讃せられ,嫌悪を生 ぜしめるものは否難せられよ・う。それ故に称讃一否 難の評贋以前には,道徳的と云われ得るような何物も 存しないっそれ故に称讃一一否難の評贋に於ける一致 は,自存的存在に基付く一致ではなくて,その時々の 「関心の同形性」(Gleichf6rmigkeit der Interesse (一1:∼) selbst)に基付くこととなろう。此の意昧に於ては功 利主義の最大多数の最:大幸福の原理は, 「善及び悪の ・・ ● (4t) 社会的評贋についての唯一の正当なる理論であるQ」 と云い得る。 ところで名目論は,何故にか様の関心や欲望に其の 直接的な表現を與える代わりに,此表現を,贋値判断 と云う廻りくどい形式きに於て表現するのだろうか。私 は此の行爲に関心を持ち,そして私の此の関心が充さ れるから私は此の行爲を満足に思うとか,又は反対の 場合には,私は此の行爲を嫌悪するが故に不満足に思 うと云うような表現の代わりに,既の行爲を善心は悪マソクスシエーラー一 }C於ける倫的名目論の問題 (三輪) 9 であると云う表現をとるの1ま如何なる理由によるのだ ろうか。名目論によれば,約束を放棄する人は,その 後関心の変ることによって,私との関心の相異を意昧 するに過ぎない.入であるのだろうに,か檬の違約者を, ゆ 何故に違約者として否難し,それ故に悪人と呼ぶのだ ろうか。吐のことに対しては名目論は全く沈黙せざる を得ない。そして正にか様の事実が,客観的便値論か ら正当に了解ぜられるのみならず,客観的債値論を要 求しているのである。即ち「道徳乱勺黙黙事実は,それ の現実的把握と云う現象から解放せられた自存的客観 (4r)) として,兀ての人からその是認を要求する。」からで ある。吐の要求との一致,不一致に発てのみ,称讃一一 一難の卸値到断は,関心的態度の主観駒恣意的性格か ら解放せられて,その客観的妥当性を主張し得るので ある。それ故に名目論にとっては,自己関心に奉仕す る人を,自己関心に奉仕する人と云弓ことの代わりに 道徳的善玉と呼ぶことは極めて重大な関心事であり, またそうすることは極めて有効なことであって,か檬 の入をただその通りに,自己関心に奉仕する人と呼 び,それ故に道徳的善入と呼ぶことは極めて不利のこ とと云わなければならないQ人間性の奥潔くに喰い込 んでいるパリサイイスムは,その私的関心の実現のた ,めに,常に此の道徳的三値の普遍的是認の本質要求を 利用ずることによって,悪徳の汚名を巧妙に濫ける。 1爲善が徳の井野を得るためには,常に善の仮面を利用 するとい5此の事実に斯て,道徳的事実が,関心から 全く独立した自体存在であるということが最も明らか に現われている。偽善者はか『様の道徳的事実の本質嬰 む 求に名を借りて,自己関心を実現する者である。彼は また最もよくか檬の道徳酌事実の存在と,此の事実の 把握の可能を是認している者であり,それ故に彼ぽま た入間性に根導く災喰うパリサイ.イスムの最も巧みな 利用老である。 以上から明らかであるように,名目論は,道徳的贋 値の自体存在を否定し,そしてそれを本來便値無記的 な事柄に対する恣意的自製の記号とする。然し此の記 .号が=普遍妥当性を得るためには,名目論は必然的に自 己の理論の枠外に出てで,自存的な道徳的贋値を容認 しなければならない○名目論は自己保持のために,傭 善を善の仮面で蔽うと云うことは,その不可避的宿命 である。そして此のことは,いよいよ以て道徳的贋値の 自存性の証拠となろう。そしてか檬の追川の本質的相 関者として,一種独特な情緒的春野認識の諸作用があ るのである○入間は問題にし得るものしか問題にし得 ない。吾々は贋値あるものに関してのみ関心を持つ。 (46) 「称讃一郭難には等値志向が先行するQ」倫理学の ’戦 任務は,関心と欲塑との誘惑に耐えて,豊かな便値の 世界の発見にある。関心と欲望とに制約せられた倫理 的名目論は,此の豊かな贋値の匿界に対しては全く盲 目である。 (1952.11.23)