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郡符木簡再考―郡家出先機関と地域支配の様相― 利用統計を見る

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(1)

郡符木簡再考―郡家出先機関と地域支配の様相―

著者

森 公章

著者別名

Mori Kimiyuki

雑誌名

東洋大学大学院紀要

52

ページ

415-391

発行年

2015

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008707/

(2)

はじめに

律令制下の地方支配は国郡里制を基本としており、国には四~六 年 任 期 で 交 替 す る 国 司 が 中 央 か ら 派 遣 さ れ て 国 府 で 政 務 を 執 り、 郡・ 里 に は 在 地 豪 族 出 身 の 郡 司、 里 長( 郷 長 ) が 任 命 さ れ て い た )( ( 。 郡には郡家が存 し )( ( 、「郡司是自勘自申之職也、国司則隨 レ申覆検之吏 也 」( 『 三 代 格 』 巻 五 弘 仁 十 年 五 月 二 十 一 日 官 符 ) と 言 わ れ る よ う に、国司の国務遂行には郡司による在地社会の統括・郡務の集積が 不可欠であったと考えられ る )( ( 。 最 末 端 の 里 に 関 し て は、 「 五 十 戸 家 」 の 墨 書 土 器 の 出 土( 平 城 宮 跡 下 層〔 『 藤 原 宮 』 二 三 号 木 簡 に 見 え る「 倭 国 所 布 評 大 □〔 野 ヵ〕 里」に関係か〕 、兵庫県神戸市宅原遺跡) 、発掘によって検出された 郡 家 よ り 小 規 模 な 官 衙 風 の 遺 跡 の 存 在 を ふ ま え て、 考 古 学 で は 里 ( 郷 ) に 関 わ る 官 衙 の 存 在 を 想 定 す る 見 解 が 有 力 で あ っ た が )( ( 、 文 献 史 学 で は 里 長( 郷 長 ) の 拠 点 と し て の 官 衙 の 存 在 に は 否 定 的 で あ る )( ( 。戸令国郡司条集解古記には、 「須 下所部検校者、謂預雑政 事 一 行 也。 不 レ 姓 迎 送 一、 謂 国 司 巡 二 部 内 一、 郡 司 侍 二 郡 院 一、 郡 司 巡 二 部 内 一、 里 長 待 二 里 内 一、 不 レ 姓 一 待 及 送 上 レ 」 と あ り、 法 制 上 も 里 の 官 衙 は 想 定 さ れ て い な か っ た と 考えられる。 但 し、 郡 家 よ り も 下 の レ ベ ル の 官 衙 が 存 在 し た の は 事 実 で あ り、 郡家を含めたこれらの地方官衙遺跡では木簡など出土文字資料が検 出される事例も多く、地方行政の実態解明に期待されるところが大 きい。近年は郡家よりも下のレベルのものを郡家出先機関と位置づ け、郡司は郡内にいくつかの出先機関を設置して、分散的な形で郡 の 統 括・ 郡 務 遂 行 に 努 め て い た と す る の が 有 力 な 見 解 に な っ て い る )( ( 。そこには「郡的世界」と称すべき郡内の複雑な関係を体現した 郡雑任が郡司の下に組織されて活動しており、郡務に関わる文書行 政に関連して木簡などの文字資料が使用されていたのであ る )( ( 。 発 掘 さ れ た 遺 跡 が 郡 家 や 郡 家 出 先 機 関 に 比 定 し 得 る 根 拠 と し て

文学部史学科教授

 

  

公章

郡符木簡再考

―郡家出先機関と地域支配の様相―

(3)

は、建物配置・規模などの考古学的知見とともに、出土文字資料の 中 に 郡 務 遂 行 に 関 連 す る 内 容 を 有 す る も の が 存 す る こ と、 「 召 」 と い う 書 き 出 し で、 人・ 物 の 召 喚 を 命 じ る 召 文、 「 郡 符 」 と い う 形 で 同 様 の 召 喚( 「 召 」 文 言 を 含 む 場 合 あ り ) や 様 々 な 指 示・ 命 令 を 伝 達する郡符木簡、紙の文書や木簡を封納するための封緘木簡、複数 枚の紙の文書を巻子に仕立てたことを示す題籤軸、また郡司解など 郡司が発給した様々な文書(控)等の存在が挙げられよ う )( ( 。特に符 系統の下達文書である召文を加えた広い意味での郡符木簡(郡から の下達文書)は、郡家など発信先から宛先に下達された後に、そこ に記された指示内容や人・物の進上の遂行に伴って、命令を受けた 側がその木簡を持参して発信元に赴き、その段階で不要になって廃 棄されるという"木簡の一生"を辿るものと考えられており、郡家 や郡家出先機関の存在を強く示唆するものと位置づけられている。 紙 の 文 書 の 郡 符 の 事 例 は 僅 少 で あ り( 『 平 安 遺 文 』 一 三 号 延 暦 十 五 年 五 月 四 日 越 前 国 坂 井 郡 符 )、 近 年 出 土 点 数 が 増 加 す る 郡 符 木 簡 は、郡家・郡司レベルの文書行政のあり方を知るのに貴重な材料で ある。但し、郡司署判の郡符木簡が郡家に戻らずに郡家出先機関止 まりで廃棄されるのは何故か、郡家出先機関と目される遺跡出土の 木簡には郡雑任がさらに下位の存在に発信した符、あるいは下位の 存在からの報告の上申文書が見られる例もあり(石川県畝田・寺中 遺 跡、 加 茂 遺 跡 な ど )、 郡 家 本 体 と 郡 家 出 先 機 関 と の 関 係、 郡 司 の 郡務遂行形態、また郡雑任の活動と文書行政のあり方など、種々の 問題を考える糸口があることにも留意した い )( ( 。そこで、小稿ではこ の郡家関係の文書木簡を検討することを通じて、郡家よりも下のレ ベルでの郡統括の実相を明らかにしたいと思う。その考察により郡 家出先機関の必要性や地域支配上の役割などを具体化することを期 したい。

 

郡符木簡の用法

「 は じ め に 」 で 触 れ た よ う に、 召 文 を 含 む 郡 符 木 簡 は 公 式 令 に 規 定された符系統の下達文書である。数少ない紙の文書の郡符である 越 前 国 坂 井 郡 符 で は、 欠 損 部 分 が 多 い も の の、 「 郡 符 」 の 文 言 で 始 まり、田地侵害に対する「郡裁」の請求を受けて、侵害者の「正得 参 □ 申 耳 」、 郡 家 等 へ の 出 頭 を 命 じ る 内 容 に な っ て お り、 「 符 到 奉 行」の書止め文言、郡司四等官の署名の後に日付が記される書式は 公式令符式に合致している。 こうした書式の遵守という点では、紙の文書に比べて、書写スペ ースが限ら れ た木簡で は、必ず し も符式に と ら わ れ な い も の が多く、 紙の文書の形態を意識した表 (― ((の加賀郡牓示札が唯一の正格な ものと言えよう。但し、平城宮跡出土のものには、 ・府召   牟儀猪養   右可問給依事在召宜知

(4)

表1 地方官衙遺跡出土郡符・召文一覧 0(長岡京跡右京二条四坊大路(山城国乙訓郡)〔木研((〕 ・御司召田辺郷長里正一々人[ ]□〔野ヵ〕苅丁一人又[ ]依不 ・□召知状令々急々向□□勿怠々□〔忘ヵ〕       大領 八月廿二日□ (((・((・( 0(( 0(伊場遺跡群(遠江国敷智郡)〔伊場遺跡((号〕  □〔符ヵ〕竹田郷長里正等大郡 (((()・((・(0 0(( 0(伊場遺跡群(同上)〔伊場遺跡((号〕  今急□□〔召竹ヵ〕田□□□〔郷長里ヵ〕〈□/[ ]語マ□□ □一〉 (((・((.(・(.( 0(( 0(宮ノ西遺跡(遠江国城飼郡)〔木研((〕  郡符    右依大伴直/於郡家不得怠々今状得 (((・(((・(( 0(( 0(御子ヶ谷遺跡(駿河国志太郡)〔『焼津市史』資料編((00(年)〕 ・召〈□□ [ ] 以前□〔人ヵ〕/□□□[ ]〉 ・女召 付里正『丈部麻々呂』 (((()・((()・( 0(( 0(御子ヶ谷遺跡(同上)〔同上〕  人足可沽事〈□□召勘問安人□□〔召文ヵ〕/[   ]安人[ ]〉    □□〔如件ヵ〕 (((・(0・( 0(( 0(西河原遺跡群(近江国野洲郡)〔木研((〕 ・郡司符馬道里長令 ・女丁〈又来□女□/□□〔来又ヵ〕道□□〉 (((()・((・( 0(( 0(弥勒寺西遺跡(美濃国武義郡)〔木研((〕 ・〈建マ□□〔男ヵ〕/建マ□□〉 …右件人等以今時参向 ・若怠者重       …〈 □/□□□□〔万呂ヵ〕〉 ((0(+((()・((・( 0(( 0(屋代遺跡群(信濃国埴科郡)(((号〔木研((〕 ・符 屋代郷長里正等 〈 敷席二枚 鱒□一升 芹□/匠丁粮代布五段勘夫一人馬十二         疋/□〔神ヵ〕宮室造人夫又殿造人十人〉 ・□持令火急召□□者罪科       少領 (((()・((・( 0(( (0屋代遺跡群(同上)((号〔木研((〕 ・符 余戸里長 ・[  ]□□ ((()・((・( 0(( ((屋代遺跡群(同上)((号〔木研((〕 ・〈 事 □□□□□〔書生ヵ〕[ ]一人令急□〔参ヵ〕/社〉 ・[      ]〈十七日卯時□〔酒ヵ〕/主帳〉 (((0)・((0)・( 0(( ((八幡林遺跡(越後国古志郡)(号〔木研((〕 ・郡司符 青海郷事少丁高志君大虫 右人其正身率[ ] ・虫大郡向参朔告司□〔身ヵ〕率申賜 〈符到奉行 火急使高志君五百嶋/九月廿八日主帳丈部[ ]〉  (((・((・( 0(( ((八幡林遺跡(同上)〔木研((〕  郡符□□ ((・((・( 0(( ((観音寺遺跡(阿波国名方郡)(((号 ・召粟永□〔継ヵ〕〈 右為/使宗□〔我ヵ〕〉 ・□〔知ヵ〕副使参向不□〔得ヵ〕 ((0()・((()・(0(( ((元岡・桑原遺跡群(筑前国志麻郡)〔木研((〕 ・□□□〔符白ヵ〕□里長□□〔五ヵ〕戸[      ]…□者大□神廿□〔二ヵ〕物 ・□□□政丁□□ア□□□□□□□□□一□□□〔婢馬ヵ〕□□□ …□〔瓦ヵ〕田 余戸人在 □□□嶋里□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□      … ((((+(()・((・( 0(( ((上長野A遺跡(豊前国企救郡)〔木研(0〕 ・郡召税長膳臣澄信〈右為勘/持事番□□等依□〉 ・不避昼夜視護仕官□〔舎ヵ〕而十日不宿□〔直ヵ〕  只今暁参向於郡家不得延□〔怠ヵ〕□□  大領物部臣今継  □□□ (((()・((・( 0(( ((矢玉遺跡(陸奥国会津郡)((号〔木研((〕〈参考〉 ・[       ] ・符宣承知不得追廻符[  ] (((()・((()・( 0(( ((荒田目条里遺跡(陸奥国磐城郡)(号〔木研((〕 ・郡符 立屋津長伴マ福麿 可□召  右為客料充遣 召如件長宜承 ・「[  ]」 (((0)・((・( 0((

(5)

((荒田目条里遺跡(同上)(号〔木研((〕 ・郡符 '里刀自'手古丸'黒成'宮沢'安継家'貞馬'天地'子福積'奥成'得内'宮内'吉惟'膳法'圓隠'百済部於用丸 /'真人丸'奥丸'福丸'蘓日丸'勝野'貞継'浄人部於日丸'浄野'舎人丸'佐里丸'浄継'子浄継'丸子部福継『不』 足小家/'壬部福成女'於保五百継'子槐本家'太青女'真名足『不』子於足『合卅四人』/右田人為以今月三日 上面職田令殖可扈発如件 ・大領於保臣〈奉宣別為如任件□〔宣ヵ〕/以五月一日〉 (((・((・( 0(( (0畝田・寺中遺跡(加賀国加賀郡)〔木研((〕 ・郡□〔符ヵ〕 大野郷長□〔等ヵ〕 件□[ ] ・罪科知□出火急〈「主政」/「主帳」〉 (((()・((・( 0(( ((畝田・寺中遺跡(同上)〔木研((〕〈参考〉  追 召 阿マ淮下女/山邊志祁良 (((()・((()・( 0(( ((加茂遺跡(加賀国加賀郡)〔木研((〕 (郡)符深見村□〔諸ヵ〕郷駅長并諸刀弥〔祢〕等/應奉行壹捨条之事/一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状/ 一以禁制田夫任意喫魚酒状/一禁断不労作溝堰百姓状/一以五月卅日以前可申田殖竟状/一可捜捉村邑内竄宕 為諸人被疑人状/一可禁制无桑原養蚕百姓状/一可禁制里邑之内故喫酔酒及戯逸百姓状/一可填〔慎ヵ〕勤農 業状 □村里長人申百姓名/(検)案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔偁ヵ〕勧催農業/□〔有ヵ〕法条而 百姓等恣事逸遊不耕作喫/(酒)魚殴乱為宗播殖過時還称不熟只非/(疲)弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治/ 《(過)》之□《〔甚ヵ〕》而豈可o然哉郡宜承知並□示/(符)事早令勤作若遵符旨称倦懈/(之)由加勘決者謹 依符旨仰下田領等宜/(各)毎村屢廻愉〔諭ヵ〕有懈怠者移身進郡符/(旨)国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加 禁/(田)領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為/罪背不/(寛)有〔宥ヵ〕符到奉行/大領錦村主 主政八戸史 /擬大領錦部連真手麿 擬主帳甲臣/少領道公夏[ ] 副擬主帳宇治/□〔擬ヵ〕少領勘了/嘉祥□〔二ヵ〕 年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日/□〔二ヵ〕月十五日田領丈部浪麿 (((()・(((・(( 0(( ((山垣遺跡(丹波国氷上郡)(号+(号 ・符春部里長等 竹田里六人部  □□ □依而□ ・〈春マ君廣橋 神直与□/春マ鷹麻呂 右三人〉  □〔部ヵ〕里長□□〔弟足ヵ〕木参  出来〈四月廿五日 碁萬呂/少領〉/今日莫不過急々 □ (((・((・( 0(( ((山垣遺跡(同上)(号 ・□□〔等召ヵ〕[  ]   □  □□□侍□ ・□□〔給ヵ〕物  朼至   □侍申〈十一月十三日 [ ]/碁万呂附兵士田□〉  (((0)・((()・( 0(( ((延永ヤヨミ園遺跡(豊前国京都郡)〔木研((〕〈参考〉 ・符 郡首□□少長□[  ] ・[        ] (((・((・( 0(( ((香住ヱノ田遺跡(但馬国出石郡穴見郷の中心)〔木研((〕 ・召史生{奈胡□}何故意□□不召今怠者大夫入坐 ・{牟}待申物{曽}見々{与}見各{与}   六□□日〈主帳/少□〔領ヵ〕〉  (((・((・( 0(( ((飯塚遺跡(豊後国国埼郡の宇佐宮の封戸)〔木研(0〕〈参考〉 ・召□□可作人 [  ]智□□ [      ] ・知月廿日以前作畢其状申於殿門不得怠倦 専当珎栄師 十一月十八日被宣国前臣刀佩 (((・((・( 0(( (備考)遺跡名・関連郡名・出典を略記した。木簡釈文表示は必ずしも字配りを正確には反映していない。〈〉 は割書、「/」は改行、{}は右寄せ小文字を示す。『木簡研究』(木研)の号数以外の出典は次の通り。『伊場 遺跡総括編』(浜松市教育委員会、(00(年)、滋賀県文化財保護協会調査成果展『古代地方木簡の世紀―文字資 料から見た古代の近江―』(滋賀県立安土城考古博物館、(00(年)、長野県埋蔵文化財センター『長野県屋代遺 跡群出土木簡』(((((年)、『更埴条里遺跡・屋代遺跡群―総括編―』((000年)、『観音寺遺跡Ⅳ』(徳島県教育委 員会、(00(年)、会津若松市教育委員会『矢玉遺跡若松北部地区県営ほ場整備発掘報告書Ⅰ』(((((年)、『若松 北部地区県営ほ場整備発掘報告書Ⅱ』((000年)、『荒田目条里遺跡』(いわき市教育委員会、(00(年)、『金沢市 畝田遺跡群Ⅵ』(石川県教育委員会、(00(年)、『津幡町加茂遺跡Ⅰ』(石川県教育委員会、(00(年)、兵庫県教育 委員会埋蔵文化財調査事務所編『山垣遺跡発掘調査報告書』((((0年)、『飯塚遺跡』(国東町教育委員会、(00( 年)。なお、〈参考〉は郡司発給か否か不明のもので、参考として掲げたことを示す。/((を郡家関係の木簡と 見ることについては、拙稿「古代阿波国と国郡機構」(『在庁官人と武士の生成』吉川弘文館、(0((年)を参照。 /((に関しては、拙稿「木簡から見た郡符と田領」(『地方木簡と郡家の機構』同成社、(00(年)により、若干 釈文・校訂を改め(《》で示した)、かつ横長の長文にわたるため、改行を「/」で示し、字配りを大幅に崩し た形で掲げた。なお、写真版からの検討、および(00(年(月(日石川県埋蔵文化財センターにおける保存処理済 木簡の実見によれば、私見では冒頭の「符深見村□郷駅長」の□部分は、残画からはここを「諸」と推定する のは難しいと考えるが、有力な代案を得るに至っていないので、姑くは現行案の形で表示しておく。

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い、融合する形で運営されていたと考えられる。したがって符と移 の区別が曖昧であるなど、必ずしも公式令通りの文書体系にはなっ ていないところが見受けられる。 符・召文についても、次に掲げる事例のように、日付の前に署名 が施されるものもあるが(城 (( -(( )、多くは日付の次に署名が記さ れる書式になっている。         長屋皇宮侍 ・召   若麻続□麻呂         急   ・従七位下石城村主廣足  九月十九日付  ( ((( )・ (( ・ (  0((   こ の 木 簡 に 署 名 す る 石 城 村 主 廣 足 は Ⅱ 系 統 の 家 政 機 関 の 家 従 で あ り、これは「長屋皇宮」=平城京の長屋王邸にいる人物をⅡの所在 地に召喚する内容であることがわかる。但し、廣足は長屋王邸で勤 務 す る こ と も あ っ た ら し く、 「 以 大 命 符〈 牟 射 / 廣 足 〉 等 」 で 始 ま る 長 大 な 符( 『 平 城 京 木 簡 』 一 六 八 八 号 ) で は、 五 月 十 七 日 の 日 付 の後には家令・家扶の署名があるのみで、家従の署名はない。この 場合、廣足はⅠの所在地である平城京内にいて、Ⅱからの命令を受 け取り、Ⅰに伝達する役割を果しており、Ⅱからの符の署名に出て こないのは当然であった。とすると、署名にはその時々の文書作成 者や役割分担などが反映されていると見ることもできよう。 以上、都城跡出土の事例も加味して、木簡における符・召文の書 式上の特色を検討した。長屋王家木簡の場合はⅡの所在地における ・状不過日時参向府庭若遅緩科必罪   翼   大 志   少 志 四月七日付縣若虫  ((( ・ (( ・ (  0((   の よ う に( 『 平 城 宮 木 簡 』 五 四 号 )、 兵 衛 府 の 四 等 官 の 多 く の 署 名、 そ の 後 に 日 付 を 記 そ う と し た 事 例 が 存 す る( 同 上 五 五 号 も 参 照 )。 表 (の中には日付が記されたものは少ないが、それでも 0(・( (()・ ((などは署名・日付の順序を意識したことが看取される。とはいう も の の、都城跡の符・召文木簡で も、そ の よ う な事例は多く は な く、 完存するものであっても、他の文書木簡と同様に、日付の次に署名 が記されているもの、また日付・署名がないもの(官司内の簡便な 伝達方式の存在を示すか)などの方が目立つ。 一組織に関わる木簡中に符・召文がある程度まとまって知られる 事 例 と し て は、 平 城 京 跡 左 京 三 条 二 坊 出 土 の 長 屋 王 家 木 簡 が あ る )(1 ( 。 長屋王家木簡にはⅠ平城京長屋王邸に存した長屋王の家政機関(家 令・ 書 吏 )、 Ⅱ 高 市 皇 子 の 香 具 山 之 宮 の 家 政 機 関 を 継 承 し た 組 織 ( 家 令・ 扶・ 従・ 大 少 書 吏 ) の 二 つ の 存 在 が 看 取 さ れ、 全 体 と し て 高市皇子に始まり、現在は長屋王が当主である「北宮王家」の家政 を支えるしくみになっていた。平城京跡で出土した長屋王家木簡に は飛鳥・藤原地域に存したⅡから平城京のⅠに齎された文書木簡が 存しており、Ⅰは三位クラスの本主、Ⅱは二品相当の本主の家政機 関 で、 家 令 職 員 の 相 当 位 に は 等 差 が あ る も の の、 Ⅰ・ Ⅱ は と も に 「 北 宮 王 家 」 を 支 え る 部 署 で あ っ て、 相 互 に 人・ 物 の や り と り を 行

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さ れ て い る )(1 ( 。 表 (― 0(が 代 表 的 な 事 例 で あ り、 こ の 木 簡 は 冒 頭 の 「 符 屋 代 郷 長 」 の 部 分 に 裏 面 左 側 か ら 刃 物 を 入 れ、 上 か ら の サ キ と 組み合わせる形で五分の一破片が切り取られ、さらに刃物を入れて 二 片 目 の キ リ・ オ リ を 行 っ た 上 で、 最 後 に「 屋 代 郷 長 」 部 分 が キ リ・オリされる。そして、上部の処理後に、再び「里」部分に刃物 を入れて縦方向のサキを行い、下端も裏面から刃物を入れてキリ・ 木簡のあり方が不明なので、確言とはいかないが、ⅡからⅠに届い た 符・ 召 文 は Ⅰ で 廃 棄 さ れ て い る。 即 ち、 発 信 元 か ら 宛 先 に 到 来 し、 宛 先 で 廃 棄 さ れ た の で あ る )(( ( 。 一 方、 「 は じ め に 」 で 触 れ た よ う に、地方官衙遺跡出土の郡符は発信元である郡家から宛先に届いた 後、再び郡家ないしは郡家出先機関に戻って廃棄されるという形に なっている。これは平城宮跡出土のもの、平城京跡出土二条大路木 簡にも見られ、式部省や造酒司などの召喚を受けて、到来した木簡 を 持 参 し て 召 喚 先 に 参 向 し、 そ こ で 廃 棄 に 至 る と い う" 木 簡 の 一 生"で、発信元に戻っての廃棄というパタンーンである。これは文 書木簡一般に看取される二つの廃棄方法であり(発信元・宛先とは 異 な る 第 三 の 場 所 で の 破 棄 と い う パ タ ー ン も 想 定 さ れ る )、 木 簡 の 特質や出土地の性格比定の際に留意すべき点とな る )(1 ( 。 都城跡出土の木簡については、木目方向の細長い断片に割いて廃 棄する縦割き廃棄と折損・焼痕から窺われる焼却廃棄の二つの方法 が推定されてい る )(1 ( 。前者は藤原宮木簡、また長屋王家木簡などに多 く看取され、長屋王家木簡には焼痕のあるものが知られるので、後 者の方法も想定されたところであるが、その後に平城宮跡東方官衙 で検出された焼却土坑出土の宝亀年間頃の一大木簡群がこの確実な 事 例 で あ る こ と が 判 明 し た( 『 平 城 宮 発 掘 調 査 出 土 木 簡 概 報 』 三 十 九) 。 一方、地方官衙遺跡出土木簡では、特に郡符などの文書木簡に関 して、刃物で数断片に分割した上で廃棄する方法があることが指摘

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の召喚を担当したとすれば、やはり郡務と国務の連関を窺わせる事 例になることなどを述べた が )(1 ( 、史生=郡書生の可能性は皆無ではな いと、解釈が揺れているところである。ただ、いずれにしても、召 文が当地で廃棄されていることはまちがいなく、郡家に戻ることな く( 召 喚 を 拒 否 か )、 受 信 の 地 で 廃 棄 さ れ る 場 合 も あ っ た と 考 え ね ばならない。 また紙の文書の郡符や表 (― ((には郡司四等官の署名があり、郡 符木簡は彼らが揃う場所、即ち郡家で作成され、郡家本体または郡 家出先機関に戻ってきて廃棄されると説明し得る。郡家本体で廃棄 さ れ て い る 事 例 は 勿 論 の こ と、 主 政・ 主 帳 の 署 名 が 見 え る 表 (― (0、郡家等には戻ってこなかったが、主帳・少領が記される ((など もそのようにして作成されたと解してよいであろう。では、郡家本 体に戻らず、郡家出先機関で破棄されたのは何故であろうか。 (0が 出土した畝田・寺中遺跡は『日本霊異記』下巻第十六縁「女人濫嫁 飢 二子乳故得現報縁」の舞台となった加賀郡大野郷畝田村の地に 比定され、畝田村の有力者と目される横江臣は伴出木簡(後掲史料 a )に田領として知られており、正しく郡雑任が拠点とした郡家出 先機関が所在したものであ る )(1 ( 。同様に、 ((の加茂遺跡も交通の要衝 と な る 加 賀 郡 英 多 郷 深 見 村 に 所 在 し て お り( 『 万 葉 集 』 巻 十 八 ― 四 〇 七 三・ 四 一 三 二 題 詞 も 参 照 )、 田 領 丈 部 氏 の 活 動 拠 点 と な る 場 で あったと考えられる。 ((は全体が一筆と見なされるので、田領丈部 浪麿が加賀郡家において郡符を書写したものか、あるいは深見村に オ リ が 施 さ れ て い る と い う( 図 ()。 こ れ は 郡 符 は 郡 内 で 最 も 権 威 のある文書であり、下部の文字を削って修正して再利用(悪用)す ることも可能であるために、特に重要な差出しと充所の部分を丁寧 に切断、いわばシュレッダーにかけるような方法がとられたものと 考えられている。 ((・ ((も文意の切れ目に即して三片に切断されて お り( ((・ ((は 二 片 に 切 断 さ れ て い る )、 こ れ ら は 人 の 召 喚 に 関 わ るものであるが、やはり再利用を封じる措置が講じられていること が窺われ、表 (の中で欠損が知られるものを含めて、総じてこうし た処置が施されるのが通例であったことがわかる。 この郡符木簡の廃棄方法に関連して、次に廃棄場所のあり方を考 えてみたい。上述のように、文書木簡の廃棄場所や木簡出土遺構の 性格決定には二つくらいの可能性があるが、郡符木簡については郡 家または郡家出先機関において用務を終えて処理されたものと解さ れている。但し、表 (― ((は今のところ郡家や郡家出先機関と位置 づけることは難しく、とすると、宛先において廃棄された数少ない 事例となる。 「史生」については、国衙の史生で、 「地方における郡 衙と国衙、あるいは郡司と国司の政治的・行政的関係を知る上で貴 重な史料である」という見解 と )(1 ( 、史生=書生で、これを郡書生とす る見解も呈されてい る )(1 ( 。私は先には郡司の職名もきちんと記されて いるので、国司の下僚の史生と見るべきこと、史生には在地出身者 の登用が推定され( 『三代実録』元慶七年十二月二十五日条) 、また そうでなくても、郡内に所在する人物に関しては郡司が国府などへ

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戻 る こ と な く、 当 地 で の 廃 棄 と な っ た と 説 明 す る こ と が で き よ う。 加賀郡家は金沢市広坂遺跡などに比定されており、大野郷長等は郡 家まで参向することなく、地元に存した郡家出先機関を介して用務 を果すことができたとすれば、郡家出先機関が存する便利さ、行政 のきめ細かな把握と郡家の機能を分掌するその役割・権能の大きさ を窺わせるものとなる。 郡務の分掌と言えば、別に検討した越前国足羽郡の事例も興味深 い )(1 ( 。考察材料となるのは、神護二年十月十九日足羽郡大領生江臣東 人解( 『大日本古文書』五―五五一~三) 、同年同月二十日足羽郡少 領阿須波臣束麻呂解(五―五五三~四)である。足羽郡では生江臣 と阿須波臣が譜第郡領氏族として拮抗して存立しており(郡名から 推して、阿須波臣の方が古族で、立評ないしは郡制施行当初は序列 が 逆 で あ っ た 可 能 性 も あ る )、 大 領 の 東 人 は 造 東 大 寺 司 史 生 と し て 中央出仕した経歴を持つ人物で、当時当地で進められていた東大寺 領北陸荘園の開発にも大いに関与、少領の束麻呂は在地に留まった まま、郡領になった人物と、履歴が大きく異なっていた。 ここで問題となったのは、東大寺領栗川庄と野田郷百姓車持姉売 の口分田との境界相論に関連して、束麻呂が郡書生委文土麻呂と田 領別竹山の二人を派遣したが、田堺が未決となっていること、郡家 で預佃し、束麻呂が専当を務めている勅旨田の灌漑用水である寒江 沼の水に関連して、東大寺領道守庄が妨停しているので、その水守 である草原郷の宇治知麻呂を勘問したことである。後者の知麻呂は 届 い た 郡 符 を 転 写 し た も の か と 推 定 さ れ、 い ず れ に し て も 当 地 で 「 牓 二 路 頭 一 す る と い う 用 に 供 せ ら れ た も の で あ っ て、 当 地 で 廃 棄されるに相応しいと言えよう。 一方、 (0は大野郷長等を充所とし、肝腎の指示内容部分が不明で はあるものの、何らかの召喚を命じたものと解される。この場合は 郡家で作成された郡符が直接に大野郷長等に下達されたのか、また は当地を拠点とする田領横江臣らを介して大野郷長等に下されたの かであり、郡家ではなく、大野郷に存する郡家出先機関たる当地へ の参向で用務が片付くものであったために、郡家本体までは木簡が

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遺 跡 が 所 在 す る 丹 波 国 氷 上 郡 は『 和 名 抄 』 高 山 寺 本 に よ る と、 粟 作・ 誉 田・ 原 負( 石 負 ヵ) ・ 船 城・ 春 部・ 美 和・ 竹 田・ 前 山 郷 が 「以上東県」 、佐治・賀茂・氷上・石前・葛野・沼貫・井原郷が「以 上西県」と記されており、東県・西県という東・西の二区分が存し た こ と が 知 ら れ る( 『 平 安 遺 文 』 一 一 〇 一 号 延 久 四 年 九 月 五 日 太 政 官府には「氷上東県司」が見え、後代には完全に東・西に分割され て い る )。 こ れ は 東 部 の 竹 田 川( → 由 良 川 を 経 て、 日 本 海 に 流 れ 込 む ) と 西 部 の 佐 治 川・ 葛 野 川( → 加 古 川 を 経 て、 瀬 戸 内 海 に 注 ぐ ) と い う 地 形 上、 水 系 に 基 づ く 二 区 分 で あ り、 西 部( 後 の 氷 上 西 県 ) の氷上郷に郡家、東部(後の氷上東県)の交通の要衝春部郷に郡家 出先機関としての山垣遺跡が置かれたと考えられるとい う )1( ( 。 山垣遺跡からは「丹波国氷上郡」と記された封緘木簡が出土して お り( 一 一 号 )、 郡 家 や 郡 司 に 宛 て た 封 緘 木 簡 が 郡 家 本 体 以 外 か ら 検 出 さ れ る の は 珍 し い。 本 遺 跡 か ら は「 春 マ 」「 春 部 」 の 墨 書 土 器 が出土しているので、当地が春部郷の中心に所在したことはまちが いなく、 (0・ ((と同様に、郡雑任などの活動の拠点となる郡家出先 機関が存しており、春部里長等は郡符による召喚命令を果すために 当地に参向し、木簡は郡家本体に戻ることなく、当地で用務を終え て廃棄されたものと解される。 ((・ ((に登場する碁萬呂なる者が郡 雑任であった可能性がある。それに加えて、少領のみが作成に関わ った郡符木簡があることと上述の封緘木簡の存在を併考すると(郡 家本体に届いたものが当地に転送されたか、あるいは当地の少領に 東人が「私誂」した人であった。前者の問題についても、東人は自 分 は 既 に 寺 田 で あ る 旨 を 判 定 し て い る の で、 「 他 司 所 勘 」 に 関 し て は知らないと答弁している。この「他司」が束麻呂である。束麻呂 は勅旨田専当などを務め、東大寺領荘園の展開を抑制する立場を担 っていたのに対して、東人は上述の経歴もあって、東大寺側に協力 する立場にあり、大・少領の間で郡務遂行の姿勢が異なっていたこ とが看取できる。田領別竹山は栗川庄との間に所訴田を抱えていた こ と が 判 明 し( 五 ― 五 四 三 ~ 六 )、 現 地 の 情 勢 を 熟 知 し た 人 物 で あ る点とともに、東大寺に対する立場の共通性が少領束麻呂によって 現地調査員たる田領に起用される要因であったと考えられる。した がって郡司は自らの意に適う人物を郡雑任に登用し、円滑な郡務遂 行を目指したと見ることができるが、時には郡領間の齟齬・対立を 惹起する場合があったことが知られる。 こうした郡領間の隔意に関連して、郡領がそれぞれに別の拠点に いたのではないかと考えられる事例も存する。表 (― ((・ ((が出土 した八幡林遺跡は越後国古志郡家関連であるが、ここからは「上大 領殿門」と記された封緘木簡(一二号) 、「長官尊」宛の進上状(二 四号)など大領に宛てられたと思われる木簡や大領関係の多くの墨 書土器が検出されており、大領が担当した郡関連の施設で、郡領間 での分掌的郡務遂行のあり方を示すとする指摘がなされてい る )11 ( 。こ の見解を参考にすると、 ((に少領のみの署名の郡符木簡がある山垣 遺跡にもそのような性格が看取できるのではないかと思われる。本

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文書行政の諸相

前章末尾では郡家出先機関に拠点を有する郡領が発給する郡符木 簡の存在の可能性を指摘したが、別に考察を加えたよう に )11 ( 、郡雑任 が 下 達 文 書 を 作 成 し、 ま た 下 位 の 存 在 か ら 報 告 が 届 く と い う 形 で、 郡家出先機関を一つの中心とする文書行政のあり方がわかる事例も 見られる。 a 畝田・寺中遺跡出土木簡〔木研二 四 )11 ( 〕      〔竹万呂ヵ〕横江臣床嶋□ ・符   田行笠□等             西岡□物□         〔部ヵ〕          〔状ヵ〕 ・口相定田行率召持来今□以付          田領横江臣「□」  ( ((( )・ (( ・ (  0((   b 加茂遺跡出土木簡〔木研二三〕 ・謹啓   丈部置万呂   献上人給雑魚十五隻      □□□□消息後日参向而語奉   无礼状具注以解         〔伯姓ヵ〕 ・        『勘了』     七月十日   潟嶋造□主  (( 0 ・ (( ・ (  0((   a は田領横江臣が発給した符であり、前章で触れたように、当地 は横江臣の拠点であったから、他に所見がないものの、田領よりも 下位の郡雑任と目される田行に対して、何人かの人物の召喚を命じ たものと解される。郡符木簡と同様に、この符木簡は田行のところ 直 接 宛 て ら れ て 届 い た も の か )、 こ こ に は 少 領 の 活 動 拠 点 が あ り、 郡符木簡も当地で少領と配下の郡雑任が発給したのではないか、氷 上 東 県 と し て の 自 立 に つ な が る よ う な 実 質 上 の 郡 務 遂 行 を 独 自 に ( と は い う も の の、 郡 家 本 体 に 存 す る 大 領 と の 協 議 や 一 部 に 委 任 を 受けた形で)行っていたのではないかと推定してみた い )11 ( 。 以上を要するに、郡符木簡が郡家出先機関で出土するのは、木簡 に記された用務が郡家本体に行かなくても、郡家出先機関で済むよ うなしくみになっていたためであり、分掌的な郡務遂行の機能、郡 家出先機関の役割・権能をもう少し評価することができるのではな いかと考える。その背景には郡家出先機関を活動の拠点とする郡雑 任の存在、さらには郡領のうちの一人が郡家本体ではなく、この郡 家出先機関を拠点としている場合などがあったと見なされる。氷上 郡 以 外 で も、 『 続 紀 』 和 銅 六 年 九 月 己 卯 条「 摂 津 職 言、 河 辺 郡 玖 左 佐 村、 山 川 遠 隔、 道 路 嶮 難。 由 レ是、 大 宝 元 年 始 建 二 舎 一、 雑 務 公 文、 一 准 二 例 一。 請 置 二 司 一。 許 レ之。 今 能 勢 郡 是 也 」 と あ る の は、 そうした実例であり、玖左佐村には後に能勢郡の郡司となるような 豪族がいて、独自の郡務分掌に与っていたのであろう(河辺郡の郡 領 氏 族 は 凡 川 内 直 氏 、 能 勢 郡 の 郡 領 に は 神 人 姓 の 者 が 知 ら れ る )。 そ こで、章を改めて、この郡家出先機関における文書木簡の様相をさ ら に探究し、地域支配上の位置・役割な ど を検討す る こ と に し た い。

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          〔口ヵ〕   物マ鳥丸野田村奈良田三段又中家田六 ・物部郷□□里戸主物マ多理丸□           □人伊神郷人酒君大嶋田直米二石一斗         〔有ヵ〕          物マ比呂  〔呂ヵ〕 ・        田沽人   多理丸戸人      天平七年三月廿一日相知田領神田君万□  ((( ・ (( ・ (  0((   c が出土した延命寺遺跡は越後国頸城郡の郡家出先機関と考えら れており、都宇郷野田村に所在していたようである。郡家は南西約 九キロメートルの栗原郷の栗原遺跡に比定されている。 c について は、一旦郡家本体に進上された上で、そこで紙の文書を作成、その 後 に 資 料 と し て 当 地 に 戻 さ れ て、 賃 租 契 約 が 切 れ る ま で 保 管 さ れ、 当 地 で 廃 棄 さ れ た と い う 理 解 が 示 さ れ て い る )11 ( 。 c の 伴 出 木 簡 に は 「 道 智 僧 稲 在 野 田 村 船 木 直 麻 呂 所 四 百 斤   大 蔵 」 と 記 さ れ た も の が あ り、 道 智 は『 温 泉 寺 縁 起 』 に 奈 良 時 代 の 人 物 と し て 登 場 し て お り、 時 代 的 に も 整 合 し て い る。 四 百 斤 は 稲 一 束( 米 一 斗、 舂 米 五 升)=大十斤の換算だと、稲四十束になり、僧道智は野田村の豪族 ないしはそこで経営に携わる人々の下に、四十束(以上)の稲を有 していたこと、当地に所在した組織はこうした稲の所在把握(徴収 の た め か)や c の如き田地売買な ど を掌握し て い た こ と が窺わ れ る。 伴 出 木 簡 に は ま た、 「 天 平 八 年 三 月 廿 二 日 」 の 日 付 を 記 し た も の や 天平八年八月の具注暦の断片が存しており、当地が暦をも利用しつ つ )11 ( 、文書行政、郡務遂行の一つの中心として機能していたことが推 に下達され、田行は指示された人物らを引率して木簡とともに当地 に 参 向 し、 そ こ で 用 務 が 終 了、 本 木 簡 も 廃 棄 さ れ た と 考 え ら れ よ う。充所を「田行竹万呂等」と釈読することができれば、田行は名 前のみが記されていたことになり、田領にとっては田行は姓を書か なくても判別できる親密な関係にある存在で、田領―田行の上下関 係の下に郡務遂行、郡家出先機関としての役割を果していた様子が 窺われる。 同様に b も田領丈部氏の拠点か ら出土し た も の で、こ こ で は ま た、 「 文 書 文 書 文 書 生 書 」 と 記 さ れ た 木 簡 が 出 土 し て い る か ら、 郡 書 生 の如き存在もいたのかもしれない。ともかくも、 b の充所の丈部置 万呂は田領の一族と推定され、その人物に対して下位の存在と目さ れる潟嶋造□主なる者が「伯姓消息」を報告するために後日参向す る旨などを上申している。表 (― ((の牓示札の掲示、伴出している 能登国羽咋郡羽咋郷長発給の道路造営のための人夫の過所木簡など ともど も )11 ( 、当地がそうした情報や人・物が往還する要衝であったこ とが知られる。但し、 a ・ b はいずれも九世紀の事例であり、八世 紀当初からこのような文書行政が郡家出先機関で構築されていたの か否か、確言できないところもある。 c 延命寺遺跡出土木簡〔木研三〇〕

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e 矢玉遺跡出土木簡一号〔木研二二〕 ・請立 廌 弐巻   右附石嶋所請如件 ・十一月廿八日   陸奥藤野  ((( ・ (0 (  0((   矢玉遺跡は陸奥国会津郡に所在したもので、郡家に比定される河 沼郡河東町郡山遺跡からは南西約二・五キロメートルに位置し、郡 家に関連した物資の集積施設と目されている。八世紀後半~九世紀 中 葉 の 掘 建 柱 建 物、 倉 庫 群、 区 画 の 柱 列・ 溝 な ど が 検 出 さ れ て お り、円面硯や大戸窯産須恵器なども出土している。伴出木簡には種 子札が存し、勧農の拠点としての性格を窺うこともでき る )11 ( 。本遺跡 ではまた、焼土遺構から「返抄」の文字が見える漆紙文書が出土し てお り )11 ( 、紙の文書の利用も知られるところである。 d は「見台政所」が下した符で、田中村(遺跡の北、湯川村に田 中 の 地 名 が あ る と い う ) に 在 住 す る 仏 典 講 読 者 と 目 さ れ る「 読 祖 等」の参向を命じた召文と考えられる。現状は〇五九型式になって いるが、これは二次的に尖らせたもので、本来は短冊形であったと 見 ら れ て お り、 文 書 木 簡 に 相 応 し い 形 状 の も の と 思 わ れ る。 「 見 台 政所」は不詳であるが、これは郡家本体から発給された郡符ではな く、 当 地 に 存 し た「 見 台 政 所 」、 即 ち 郡 家 出 先 機 関 が 独 自 に 発 信 し た下達文書と解されよう。その意味では表 (― ((を「参考」として おいたのは、これも郡符木簡か否かは確言できず、同様に当地の組 定できよう。 では、当地は田領神田君の拠点と見てよいのであろうか。 c に登 場する物部郷・伊神郷(五十公郷か)は都宇郷の東方に存する郷で あり、都宇郷野田村は周辺のいくつかの郷、郡家から北方の地域の 中心となるような支配拠点であったと目される。とすると、 c は当 地に届けられ、当地に存した郡家出先機関で処理されたものであっ て、郡家本体までは送付されないで(但馬国府に関わる祢布ヶ森遺 跡出土の題籤軸「・二方郡沽田結解/・天長□〔四ヵ〕□」から窺 われる、国府への報告作成のために、情報が郡家に別途送付された 可 能 性 は あ る )、 当 地 で 用 務 を 終 了 し 廃 棄 さ れ た と 考 え る こ と も で きるのではあるまいか。即ち、当地は田領よりも上位の郡雑任、あ るいは郡領のうちの一人が駐しており、ある程度独自の郡務遂行を 担っていたと見るのである。 c はまた、天平七・八年頃の状況を示 す も の で あ り、 前 章 末 尾 で 触 れ た 摂 津 国 能 勢 郡 の 前 身 施 設 と 合 せ て、こうした郡家出先機関での文書作成のしくみが八世紀当初から 構築されていたことを窺わせる事例となる。 d 矢玉遺跡出土木簡五号〔木研二二〕   〔見ヵ〕 ・□台政所符   田中村読祖等 ・□□召符如件宜承知□□  ( ((( )・ (( ・ (  0((  

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使者・立薦とともに当地に戻ってきて、完形を保持したまま廃棄さ れたものと見ることができよ う )1( ( 。 f 荒田目条里遺跡出土木簡三 号 )11 (          正料四升           〔領ヵ〕 ・返抄検納公廨米陸升       卅七石  丈部子福□          調度二升   右件米検納税如件別返抄 ・        仁寿三年十月□日米長 「於保臣雄公□」       ( ((( )・ (( ・ (0   0((   以上、いくつかの事例を挙げながら、郡家出先機関における文書 行政のあり方を見てきた。その知見をふまえて、再検討しておきた いのが f である。 f が出土した荒田目条里遺跡は陸奥国磐城郡に所 在し、郡家である根岸遺跡からは北西約一・五キロメートルに位置 する。本遺跡からは表 (― ((・ ((の郡符木簡が出土しており、津長 を召喚する拠点、また大領於保臣(磐城臣)の職分田の所在やその 耕営などのあり方がかわる点で、特筆すべき材料とな る )11 ( 。 f について、荒田目条里遺跡の発掘報告書は、これが公廨米の収 納領収書であり、国司公廨米が郡から国に、舂米の形で進上されて いた実態を示すものと位置づけている。但し、公廨米として収納さ れたのは三十七斛六升のうちの僅か六升であり、その六升分のみに ついて返抄を作成したのではないかという。また公廨米の納入先は 国 府 で あ り( 『 大 日 本 古 文 書 』 四 ― 七 六 ~ 八 〇 越 前 国 雑 物 収 納 帳 を 織 が 下 し た も の で あ っ て、 受 信 者 は 本 木 簡 を 持 参 し て 当 地 に 参 向 し、ここで用務が終了、廃棄されたものと見ることができるからで ある。 では、 e もそのように位置づけてよいのであろうか。 e に関して は、その請求先は明言されていないが、地方官衙遺跡出土木簡のシ ュ レ ッ ダ ー 方 式 に よ る 廃 棄 に 関 連 し て、 「 し か し、 本 文 書 木 簡 は 完 形のままの状態で廃棄された稀有の例である。これは、一つの施設 内の簡略な請求ゆえにあえて割ったり、折ったりすることなく、廃 棄 し た と 推 測 さ れ る 」 と い う 見 解 が 呈 さ れ て い る )11 ( 。 し か し な が ら、 日下の陸奥藤野は姓名を記しており、例えば長屋王家木簡中の伝票 木簡のような名前のみを記すのが原則である邸宅内での使用とは異 な る と 思 わ れ る。 陸 奥 姓 は『 続 後 紀 』 承 和 七 年 二 月 癸 亥 条 に よ る と、 伊 具 郡 に 見 え、 ま た 承 和 八 年 三 月 癸 酉 条、 『 三 代 実 録 』 貞 観 十 一年三月十五日条などから考えると、柴田郡にも分布していたと目 される。会津郡(後に耶磨郡を分出)はこれらからは離れた位置に 所 在 す る が、 e に よ り 陸 奥 姓 者 の 存 在 が 知 ら れ る の も 重 要 で あ る。 その点はさて措き、 e は正規の文書で、請求先は自明のこと、即ち 郡家への請求であったので、日下に姓名を記すことになったと考え る 方 が よ い の で は あ る ま い か。 「 一 つ の 施 設 内 」 を 郡 家 の 機 構 と い う拡大されたものと解せば、正規の文書なのに、年紀がないことや 請求先が記されていないことも充分に説明することができる。とす る と、 e は 郡 家 出 先 機 関 が 作 成 し た 請 求 木 簡 で、 郡 家 に 齎 さ れ て、

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系『 律 令 』( 岩 波 書 店、 一 九 七 六 年 ) 三 四 八 頁 頭 注 が 官 物・ 正 税 の ことと解しており、律令条文にも「官物」の語は散見している。例 えば儀制令元日国司条には「其食以 二当処官物及正倉充」という本 注があり、集解諸説は「謂、官物者、郡稲也。正倉者、正税也。穴 云、 謂 依 二 条 一 稲 一也。 正 倉、 謂 正 税 也。 或 云、 官 物、 謂 動 用、謂郡稲也。朱云、官物、謂動用之物。若無 二動用之物者、乃合正税 一 」( (( ~ (( / ((( )と述べる。賦役令貢献物条の「皆准 レ 為 レ價、 以 二 物 一 充 」 で も、 集 解 は「 古 記 云、 以 二 物 一 充、 謂 郡稲也。 『諸条用諸国貢献物者、皆以官物買充、亦是郡稲也。 』官物 者皆以 二郡稲充也。朱云、謂市而充官用者。穴云、官物、謂郡稲 也」 ( ( ~ (0 (( ( )11 ( )、厩牧令駅伝馬条の「伝馬以 二官物市替」の集解 に も、 「 釈 云、 官 物、 郡 稲 也 」( ( ~ ( / ((( ) な ど と 記 さ れ て い る。 fの「公廨米」については、こうした用法も考慮しておく必要があ ろう。 次にこの木簡を作成したのは、日下の米長であると思われる。米 長は正史や律令格式には登場せず、僅かに長岡京木簡(一〇七号・ 一 五 八 一 号 ) や 宝 字 六 年 七 月 九 日 造 東 大 寺 司 符( 『 大 日 本 古 文 書 』 十五―二二一~二二二)などにその活動が知られるのみである。長 岡 京 木 簡 一 〇 七 号 は「 米 長 舂 米   」( ( (( )・ (0 (  0(( )、 一 五 八 一号は「収米長」 ( ((( ・ (0 (  0(( )とあるだけで、具体的役割は 不詳であるが、米の徴収に従事する郡雑任と目されている。造東大 寺司符には、 参 照 )、 返 抄 は 国 か ら 郡 に 出 さ れ た も の と 考 え て、 本 木 簡 は ま ず 付 札として国に移動して(それ故に、左右に切り込みがある。上端の 「返」 「右」の文字は切り込みを避けて書かれており、切り込みは当 初から存したと目される) 、返抄として郡に戻ってきたと考えられ、 返抄木簡が郡に齎された段階で、納入責任者である郡司が郡内に通 用させる目的で、返抄を受け取った際の確認として署名したものと 説明できるとされ る )11 ( 。 まず「公廨米」を国司得分とのみ先験的に理解するのは問題があ る と 思 わ れ る。 儀 制 令 春 時 祭 田 条 に は「 凡 春 時 祭 田 之 日、 集 二 之 老 者 一、 一 行 二 飲 酒 礼 一、 使 三 知 二 長 養 老 之 道 一。( 其 酒 肴 等 物、 出 二 公 廨 一供。 )」 と あ り、 律 令 条 文 で「 公 廨 」 の 語 が 出 て く る の は こ の 箇 所 だ け で あ る が、 こ れ は 唐 令 の「 物 出 二 廨 一 」( 儀 制 令 二 四 〔唐〕 )に依拠したものであ る )11 ( 。この場合の「公廨」は、日本思想大

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して文書を発給し、また上申文書などを届けられるという形で、独 自の文書行政の中心となり、郡務をある程度自立的に遂行する場合 があったことが窺われる。そこで、最後にこうした郡家出先機関の 機能や郡務全体における位置づけを整理して、まとめに代えたい。

 

郡家出先機関の機能

前二章では文書木簡の様相を中心に、郡家や郡家出先機関の位置 づけを検討した。ここでは他の側面も加味して、特に郡家出先機関 の機能や存在意義について考えたい。前章で取り上げた荒田目条里 遺跡に関しては、矢玉遺跡と同様に、種子札が出土しており、郡司 職 分 田 の 耕 営 と も 合 せ て、 勧 農 の 拠 点 と し て の 役 割 が 看 取 さ れ る。 その他に、次のような木簡も伴出している。 g 荒田目条里遺跡出土木簡六号             〔事ヵ〕 ・     □買上替馬□   赤毛牝馬   歳四 験无   直六百 ・真       斗   □        立六日  ( ((( )・ (( ・ (  0((   司 符、 秦 足 人・ 穂 積 河 内 等。 右、 先 日 足 人 并 米 長 等 召 遣 既 畢。 此 迄 二 日 一向。 若 有 二 故 一、 宜 下 状 一、 徴 所 米 等 令 レ持、 火急参向 上。不 レ怠。今具状、即返丁等 一。故符。主典安都宿 祢。案主下。六年七月九日。 とあり、米長は宝字四年封戸租米の徴収に関連するもので、綱丁と 同様の役割を果していると考えられ、郡雑任の一つと見てよいであ ろ う )11 ( 。 f の裏面にはこの木簡の文面が記された後に、大領と目される於 保臣雄公=磐城臣雄公の署名が施されており、その署名の意味は大 領として郡雑任の行為を勘定するものと考えたい。即ち、 f は荒田 目条里遺跡の地に存した米長が作成した郡務に関わる公廨米の返抄 で、これが郡家に提出されて郡司の勘定を受けたもので、大領の署 名 を 得 て、 再 び 当 地 に 戻 っ て き て、 ( 一 定 期 間 の 保 管 の 後 に ) 廃 棄 されたのではないかと解される。郡務関係の文書であるが故に、大 領の勘定を得ることが必要であり、郡家の機構に残存するものであ ったと説明することができるのである(矢玉遺跡の「返抄」の漆紙 文 書 の 存 在 も 参 照 )。 こ の よ う に 郡 家 出 先 機 関 で は 郡 家 と の 間 に 取 り交わされた文書が存するのが特色であり、また自らも文書行政の 一つの中枢となっていたと考えられる。 以上、いくつかの事例を見たが、郡雑任、あるいは郡領のうちの 一人が拠点とする郡家出先機関は、郡家の指示、文書のやりとりを 通じて、出先としての役割を果すとともに、自らが下位の存在に対

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m 小茶円遺跡出土木簡(木研一五) ・判祀郷戸主生部子継正税   (削消)           (年脱ヵ) ・大同元年九月□□日「大同元十月三日」   ゝゝゝゝゝゝゝゝゝ  ((( ・ (( ・ (  0((   g ・ h によると、伝馬の運営に関わる業務が窺われ、表 (― ((の 立屋津長への郡符ともども、当地が水陸交通の要衝に所在し、両方 の交通手段を掌握していたことがわかる。 i は正倉院文書中の優婆 塞貢進文に相似した文書で、 j ・ k は写経体の書体、また k は写経 用の定木に墨書したものと目されており、これらは仏教とのつなが りを示す木簡と言える。磐城郡では郡家比定の根岸遺跡に近接して 夏井廃寺跡が検出されており、これが郡寺ないしは郡領が建立した 氏寺と考えられてい る )11 ( 。とすると、大領於保臣雄公の職分田が存し た当地では郡家と関係の深い夏井廃寺に連なるような宗教活動が行 われており、 i の如き沙弥などの修行状況を記した報告が齎される 場になっていたと見ることができよう。写経活動もなされていたと 目される。 l は( 地 名 ) + 人 名 + 数 量 な ど を 記 し た 簡 便 な 書 式 の 荷 札 で あ り、郡内での徴税・納入に関わるものと考えられる。 m の小茶円遺 跡は荒田目条里遺跡に北接しており、一連の施設であったと見なさ れ て い る。 m は郷名か ら始ま る荷札で、こ れ も や は り郡内で の納税、 h 荒田目条里遺跡出土木簡一三号 厩伝子丈部  ( ((( )・ (( ・ (  0((   i 荒田目条里遺跡出土木簡一〇号           〔遍ノ意ヵ〕 ・     □□二 ノ   千手 ノ        〔羅ヵ〕      陁フ尼廿遍    浄土阿弥    大仏頂四返   千手懺海過           (ママ) ・定□   俗名丈部裳吉      〔総ヵ〕   〔百ヵ〕      「□   経   □     」 ( ((( )・ (( ・ (  0((   j 荒田目条里遺跡出土木簡二三号   〔即ヵ〕 □正観□□□  ( (0 ( ) ・( (( )・ ( ( )   0((   k 荒田目条里遺跡出土木簡二四号 我   吾  ( ((( )・ (( ・ (  0((   l 荒田目条里遺跡出土木簡二〇号 ・丈マ有安追料 ・     十月  ((( ・ (( ・ (  0((  

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o 大猿田遺跡出土木簡(木研二三)         石足二斗      〔已上ヵ〕 ・白田          合五斗□□         □山三斗        〔筑ヵ〕 ・     「欠二升」  ((( ・ (( ・ (  0((   n の大猿田遺跡は根岸遺跡から北方九キロメートルに所在し、磐 城郡の北半を掌る郡家出先機関で、 「玉造」 「官」 「代」 「田条」 「厨」 な ど の墨書土器が出土し て お り、玉造郷と の関連が示唆さ れ て い る。 木簡は一〇点出土、奈良・平安時代の竪穴住居一八軒・掘立柱建物 八棟が検出されており、竪穴住居一二軒と掘立柱建物七棟が見つか った中島川西側の調査区西端では、北側に竪穴住居群、南側に掘立 柱建物群が集中して分布する傾向があるという。出土遺物には灰釉 陶器・彩釉陶器、円面硯・転用硯、羽口、椀型滓を含む鉄滓、帯金 具(丸鞆)などがあり、官衙に密接に関連する木製品・須恵器・鉄 などの生産拠点であったと評される所以である。 出 土 木 簡 の 中 に は 文 書 木 簡、 判 読 不 明 な が ら、 封 緘 木 簡 が あ り、 文書行政が行われていたことが知られ、また判祀郷・玉造郷・白田 郷などからの米の荷札が存する。大猿田遺跡が玉造郷に所在したと 目されることは上述の通りであるが、 n が「郷家」への納入、郷内 で の 移 動 で あ れ ば、 「 玉 造 郷 」 と 書 く 必 要 は な く、 郡 家 へ の 納 入 を 想定して作成されたものであって、他の郷からの荷札の到来と合せ 出挙の返納に関係するものである。荒田目条里遺跡出土木簡には複 数 の 人 名 を 列 記 し た も の が あ り( 九 号 )、 何 ら か の 徴 発 の た め の 記 録簡と解される。こうした物実の納入や労働力の徴発の拠点として の性格も看取されるところである。 n 大猿田遺跡出土木簡(木研一九) ・玉造郷四斗 ・七月廿日  (( 0 ・ (( ・ (  0((  

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る )11 ( 。 r 田令郡司職分田条 凡 郡 司 職 分 田、 大 領 六 町、 少 領 四 町、 主 政・ 主 帳 各 二 町。 狭 郷 不 レ要満 一。 *集解 古記云、問、狭郷皆隨 二郷法給、如何其意。答、准百姓口分之例 一 増 減 耳。 問、 公 廨 職 田、 当 国 郡 无 レ 者、 遙 受 以 不。 答、 亦 受。 / 跡云、狭郷不 レ要満此数 一、未 レ知其意。答、与百姓口分共相折 給 耳。 / 穴 云、 狭 郷 不 レ 満 二 数 一、 未 レ知、 欲 二 受 一 聴 乎。 答、 可 レ聴。 〈 今 師 云、 不 レ 也。 〉 / 朱 云、 狭 郷 不 レ 満 二 数 一、 謂率 二百姓口分数折者。問、狭郷不足分田、聴寛郷遙受 一。又本 郡 専 无 レ 之 類 等 如 何。 答、 不 足 分 田、 更 不 レ 者。 未 レ知、 而 者 本 郡 无 レ田、 専 不 レ 耳 歟、 何。 私 案、 欲 レ 者、 如 二 姓 一 受 一 何。 s 『続紀』延暦十年五月戊子条 先 レ是、 諸 国 司 等、 校 二 常 荒 不 用 之 田 一、 以 班 二 姓 口 分 一、 徒 受 二 名 一、不 レ租。又王臣家・国郡司及殷富百姓等、或以下田 二 易上田 一、或以 レ便相換不便 一。如 レ此之類、触処而在。於是、仰 所 司 一、 却 拠 二 平 十 四 年・ 勝 宝 七 歳 等 図 籍 一、 咸 皆 改 正。 為 二 年 班 一 レ田也。 以上、荒田目条里遺跡出土の郡符などに関連して、陸奥国磐城郡 の郡家や郡家出先機関の連関を見た。では、荒田目条里遺跡は磐城 て、大猿田遺跡が複数の郷を統括する拠点となる郡家出先機関であ ったことを窺わせるものである。 o 裏面の別筆は不足分を勘検した ことを示しており、そうした勘定行為もなされていたことが知られ る。荒田目条里遺跡出土の l は追加分の納入に伴うもので、その前 段階として同様の勘定作業の存在が看取される。 p 根岸遺跡出土木簡四 号 )11 ( ・玉造郷   戸主□部□□□ □□□□□      〔戸ヵ〕 ・       「□□神□」  ((( ・ (( ・ (  0((   q 根岸遺跡出土木簡六号   〔判祀ヵ〕 ・□□郷生マ足人一石 ・     「□廣寸□」  ((( ・ (( ・ (  0((   磐城郡家比定の根岸遺跡でも木簡が出土しており、泊田郷(白田 郷か)の名称が見える文書、玉造郷・飯野郷・判祀郷などからの荷 札と、郡内各所との関係が反映されている。判祀郷は『和名抄』に は見えないが、北半部を統括する大猿田遺跡と郡家に近い小茶円遺 跡か ら も荷札が出土し て い る の で、中間地帯に所在し た の で あ ろ う。 p ・ q の裏面の別筆は納入の検収にあたった役人の署名と考えられ て お り、 l ・ o に 窺 わ れ る 郡 家 出 先 機 関 で の 勘 検、 郡 家 で の 検 収 と、それぞれの段階で多重的に検納作業が行われていたことがわか

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ので、弟山は後に出雲国造になっているので、元来は意宇郡を本拠 とする国造出雲臣氏の一族であるものの、当時は意宇郡司のポスト が な かった た め に(意宇郡は三等以上親の連任を認め ら れ て い た が、 そ れ で も 就 任 で き な か っ た の で あ ろ う )、 飯 石 郡 の 少 領 に 就 任 し て いたと考えられる。 このような事例を勘案すれば、雄公の本拠地は荒田目条里遺跡の 地にあり、郡家所在の根岸遺跡に「通勤」するか、基本的には郡家 に滞在して郡務を遂行し、時には本拠地に戻ることもあったという 日常ではなかったかと思われる。前章では f について、荒田目条里 遺跡と郡家の往来を想定したが、大領雄公が当地にいる時には当地 で郡務の決済をする場合も考えられるので、郡家と往来することな く、当地で作成→決済→(保管)→廃棄という過程も考慮すべきで あろう。即ち、荒田目条里遺跡は「第二の郡家」の如き地位を占め ており、表 (― ((・ ((の郡符はここから発令されたということも推 定し得るのである。そうした意味合いでの郡家出先機関であるから こそ、文書行政の中心となることが可能であったと目される。 そ の 他、 第 一 章 で 触 れ た 山 垣 遺 跡 の よ う な 少 領 の 拠 点 と な る 事 例、また第二章や別稿で指摘した加賀国加賀郡の田領クラスの郡雑 任の拠点となるような郡家出先機関も存す る )11 ( 。加賀郡の場合は、郡 家出先機関を設置して、そこに郡雑任を配備したというよりは、畝 田村に拠点を有する横江臣の存在形態をふまえると、郡内の中小豪 族を郡務に参画させて、郡の統治を安定化する、郡家の郡務遂行を 郡内ではどのような位置づけにあったのであろうか。表 (― ((の郡 符は郡司職分田の耕営に関わるものであり、この木簡が当地で廃棄 されているのは、当地に大領於保臣(磐城臣)雄公の職分田が存在 したためと推定され る )1( ( 。 r によると、郡司職分田は基本的には当該 郡内にそれぞれの状況によって設定されるものであった。あまり現 実的ではないが、集解古記・朱説では郡内に田地がなければ、別郡 で遙受と い う こ と も想定さ れ て い る。ま た規定数の不足に関し て は、 穴記では遙受を認めるという見解も示されているが、今師や朱説は それに否定的である。但し、本郡に田地がないとか、規定数の不足 は実際には起こり得ないものと思われ、 s のように、優先的に上田 を便地に選定したと見る方がよいであろう。 とすると、当地は大領雄公の経営の拠点となっており、かつ郡家 出先機関としての機能を果すものであったと解される。郡家の所在 地決定には豪族居宅型(郡領となるような豪族が歴史的支配を築い て き た 本 拠 地 に 設 置 さ れ る も の )、 非 本 拠 地 型( 先 行 す る 住 居 跡 な どが検出されず、律令国家の要請などにより、全く別所に設置され る も の ) な ど 様 々 な 要 因 が あ り、 ま た 郡 家 が 移 転 す る 事 例 も 存 す る )11 ( 。さらに八~九世紀の郡司任用に関する法令によると、郡領氏族 間での郡領の地位をめぐる争いも知ら れ )11 ( 、郡家とその時々の郡領の 本 拠 地 の 関 係 は 必 ず し も 固 定 さ れ て い な か っ た と 思 わ れ る。 『 出 雲 国風土記』の各郡条に記された新造院は郡領氏族による建立例が多 いが、意宇郡山代郷の新造院は飯石郡少領出雲臣弟山が造営したも

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ことが窺われ、地方支配の歴史的変遷の源となる力を考究すること にも努めていかねばならない。その意味では「郷長」の墨書土器や 木簡が出土しており、必ずしも郡家の行政事務との関係が明瞭では ない事例、官衙とは言えないまでも、郷の中心となるような集落の 存在は重要な分析材料であって、そうした遺跡から出土した木簡に も留意する必要がある。表 (― ((の香住ヱノ田遺跡では召文、伯耆 国会見郡と出雲国意宇郡との国境付近で検出された陰田第一遺跡の 木簡(木研三三)には大領の署名のある文書(禁制札か)が存する ので、郡家を中心とする文書行政の広がりを探究することが期待さ れる。以上のような課題を記して、蕪雑な稿のむすびにかえたい。

( () 最 末 端 の 里 は 霊 亀 三 年 ~ 天 平 十 二 年 頃 に は 郷 里 制、 天 平 十 二 年 頃 以 降 は 郷 制 に 変 化 し て い る。 岸 俊 男「 古 代 村 落 と 郷 里 制 」( 『 日 本 古 代 籍 帳 の 研 究 』 塙 書 房、 一 九 七 三 年 )、 鎌 田 元 一 a 「 郷 里 制 の 施 行 と 霊 亀 元 年 式 」、 b 「 郷 里 制 の 施 行 捕 論 」( 『 律 令 公 民 制 の 研 究 』 塙 書 房、 二 〇 〇 一年)などを参照。 ( () 郡 家 の 発 掘 状 況 や 考 古 学 的 検 討 に つ い て は、 山 中 敏 史『 古 代 地 方 官 衙 遺 跡 の 研 究 』( 塙 書 房、 一 九 九 四 年 )、 条 里 制・ 古 代 都 市 研 究 会 編 『日本古代の郡衙遺跡』 (雄山閣、二〇〇九年)などを参照。 円滑にするためには、彼らを郡雑任に起用することが不可欠であっ たためと考えられよう。したがってその郡家出先機関も地域の中心 として、郡内の一定区域を独自に支配し得る存在として機能するの である。そこには郡家出先機関を運営する権力・権威を持つ豪族が 歴史的に構築してきた支配形態があり、それを文書行政化して郡家 に結節、郡務の一階梯に組織化することで、郡・郡司の統治が維持 されることになる。そうした関係の中で郡家出先機関が文書行政や 当時の基幹産業である農業のための勧農、また徴税、宗教関係など 様々な郡務遂行に関わる一つの中枢としての役割を果す構造が表出 した次第であった。

むすびにかえて

小稿では近年増加する地方官衙遺跡出土木簡のうち、特に郡務遂 行を象徴する郡符木簡を糸口に、郡家出先機関と地域支配のあり方 を考えてみた。郡家と郡家出先機関の関係、郡家出先機関の由来と なる人的背景、独自の文書行政の様相などをいく分なりとも明らか にしたつもりであるが、それぞれの郡の成り立ち、基盤となる「郡 的世界」の様々な関係性によっては、多くの異なる事例、未解明の 部分もあると思われる。 そ う し た 課 題 と と も に、 「 は じ め に 」 で 触 れ た よ う に、 郡 家、 郡 家出先機関のさらに下にも、複数の歴史的支配地域が重層していた

参照

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