• 検索結果がありません。

日本金融システム史に基づく高校「公民科」経済学習の教育内容開発(3) : 近代経済史〔昭和前期(銀行法施行~敗戦)〕の教材化

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本金融システム史に基づく高校「公民科」経済学習の教育内容開発(3) : 近代経済史〔昭和前期(銀行法施行~敗戦)〕の教材化"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Ⅰ.はじめに

 高校「公民科」の科目「現代社会」や「政治・経 済」では,明治~昭和 20 年の政治史を学習するが, 同時期の経済史学習は全く学習しない。他方,「地理 歴史科」の科目「日本史 A」や「日本史 B」では扱う ものの,歴史的事象や事象間の因果関係等の多面的・ 多角的な考察が主で,政治や経済を中心に扱う訳では ない。また,選択科目ゆえ,未履修者は全く学習しな い。  そこで本研究では,星岳雄と A・カシャップの理論 的枠組(「表 1」)を参考に,日本金融システム史の変 遷過程に着目しながら明治~現代までの経済史を学習 できる高等学校「公民科」科目「政治・経済」の教育 内容を開発する。既に,明治期,1)大正~昭和初期の 教材化を試みた。2)本稿では,昭和前期の教材化を行 う(「表 2」に単元指導計画を提示)。

Ⅱ.教育内容開発(Ⅰ)(「昭和初期…頻発

する外的ショックへの対応による金融

システムの進化期(2)」)

1.銀行法(1928 年 1 月施行)を端緒とする金 融システムの変化-銀行合同政策による大 銀行化-   「表 3」の記述には,肝心な「中小銀行の整理・合 併」の理由記述が無い。それは,政府の政策転換によ る。当初は銀行間の自由競争に委ねたが,度重なる恐 慌の過程で政策転換し,中小銀行の整理・合併を促進 し,銀行経営を安定させ,預金者保護を企図したのだ。

日本金融システム史に基づく高校

「公民科」経済学習の教育内容開発(3)

―近代経済史〔昭和前期(銀行法施行~敗

戦)〕の教材化―

TheJournalof EconomicEducation No.34, September,2015

Development Teaching Contents of the High School Civics Economic Lesson Practice Based on the History of Corporate Financing and Governance in Japan (3) : From the Early Showa Era to the Defeat in WW II

Matsui,Katsuyuki 松井 克行(西九州大学子ども学部) 表1 「日本の金融システムの変遷」 時期 主な家計金融資産 主な企業の外部資金調達方法 主な特徴 (1)【第 1 期】   ① 明治期 証券特に株式 「直接金融」中心 証券が極めて重要   ② 大正~昭和初期(1927年,金 融恐慌)   ③ 昭和初期(1928 年 1 月,銀行 法施行~ 1937 年 7 月(日中戦 争勃発) (2)【第2期】   ① 1937 年 9 月(臨時資金調整法 公布)~ 1945 年 8 月(戦時金 融統制) 預金 「間接金融」中心 銀行優位   ② 1945 年 8 月 ~ 1952 年 4 月 (占領統治期)   ③ 1952 年 4 月~ 1990 年代前半 (3)【第3期】   1990 年代後半~現在 預金 「間接金融」と「直接金融」の併存 市場中心 星岳雄,A・カシャップ(鯉渕賢訳)『日本金融システム進化論』日本経済新聞社,2006 年,p.419,表 9・2 を一部改変。網掛部 分が本稿での開発部分。 

(2)

その具体策が銀行法である。4)「表 4」を提示し,この 過程を考察させたい。  銀行法は,銀行の健全性強化,預金者保護,銀行監 督の充実,不当競争防止,銀行整理推進等を目的に,5) 銀行を株式会社に限定,最低資本金を原則 100 万円, 東京・大阪に本支店があれば 200 万円,人口1万人以 下の地方銀行は50万円とし,同法施行後7年,後の改 正で 5 年以内(1932 年末)の達成を義務付けた。6) 行法施行時,最低資本金未満の銀行は 617 行。大蔵省 が単独増資を許さず,銀行合併を促した結果,激烈な 信用収縮が生じた。7)  寺西重郎は,最低資本金規制による銀行合同政策の 背景に,1920 年の選挙権緩和と,1925 年の普通選挙 実現(1928 年,選挙実施)による中間層8)の政治力 の大幅低下を指摘する。「新たに選挙権を持った小作 農や労働者と中間層の利害が交錯するうちに,大蔵省 表 2 「単元指導計画(網掛け部分が本稿の開発部分)」3) 時 主な学習内容 第一時 【第 1 期】① 1867 ~ 1912 年(明治期)…市場中心の金融システム整備期。市場中心の金融システム(直接金融)の確立。 第二時 ② 1912 年(大正期)~ 1927 年(昭和初期)…頻発する外的危機への対応による市場中心金融システムの進化期(1)。大戦景気(1915 ~ 9 年),戦後恐慌(1920 年),関東大震災(1923 年),金融恐慌(1927 年) 第三時 銀行法施行(1928 年),世界恐慌(1929 年)と昭和恐慌(1930 ~ 1 年),金解禁(1930 年 1 月), 高橋財政(1931 ~ 6 年),日中戦争勃発(1937 年 7 月)。 資本市場中心(「直接金融」)から銀行優位のシステム(「間接金融」)への転換。 【第2期】① 1937 ~ 1945 年(戦時金融統制) 第四時 ② 1945 ~ 52 年(占領統治期)…銀行の地位強化。 ③ 1952 ~ 73 年(高度経済成長期)…銀行中心に企業の系列化。銀行借入(「間接金融」)以外 の資金調達手段を政府が制限。護送船団方式。 第五時 ④ 1973 ~ 96 年(高度経済成長の終焉~ビッグバン宣言)…金融自由化(政府の規制緩和)。債券発行による資金調達が著しく増大,銀行借入の重要度の相対的に低下。外債市場による資 金調達の拡大。 第六時 【第 3 期】貯蓄重視から証券・債券重視へ移行 ? ①銀行危機と金融ビッグバン(1996 ~ 2001 年)。銀行優位(間接金融)から資本市場中心システム(直接金融)への再転換。 ②世界金融危機と日本(2002 年~) 〔単元目標〕 ① 生徒が,日本近現代経済史の学習を通して,既習の経済的な考え方を活用できる。 ② 生徒が,統計資料を基に経済の実態を確認し,理論(経済学の概念や考え方)を用いて説明できる。 ③ 生徒が,学習を通して,国内・国際の政治・経済的知識を総合的に考察できる。 表 3 「高校教科書記載例 - 戦後恐慌から金融恐慌へ」 ・鍵言葉(教科書本文中の太字):なし ・本文(抜粋,日本史 B は脚注)「金融恐慌の過程で,中小銀行の整理・合併が進み,預金は大銀行に集中し,三井・ 三菱・住友・安田・第一の 5 大銀行が支配的地位を占めた。(以下,省略)」(下線部は筆者による) ・データ:「業種別払込資本金の財閥への集中」(1930 年末,3 大財閥,8 大財閥,その他)の棒グラフ。 『詳説日本史 B』山川出版社,2013 年,p.340 脚注②。『日本史 A』山川出版社,2013 年,p.138。両者の内容は同一。 表 4 「昭和金融恐慌(1927 年)後の金融システム変化」  昭和金融恐慌は日本の金融システムに大きな変化をもたらした。中小銀行の経営不安から預金者は信用の高い大銀 行や郵便貯金へと預金を移動させた。(略)  また,1928 年 1 月に施行された銀行法のもと,日本の銀行制度・金融行政も刷新された。      (略)  政府は,条件を満たさない銀行にたいし廃業もしくは他行との合併を求め,1926 年末に 1,427 行あった普通銀行数 は 32 年には 538 行にまで減少し,その後も地方銀行を中心に銀行合併政策が進められた。 岸田真「第 1 次世界大戦から昭和恐慌期まで」浜野潔ほか,2009 年,pp.174-175 より引用。

(3)

などの官僚と大銀行などの利益集団の行動が制度変化 を強く規定した」9)との推察である。10)中間層の政治力 低下は,中間層たる在来商工業部門や地方中小銀行を 打撃。銀行健全化の名の下,健全な銀行を含む多数の 中小銀行の減資(銀行合同過程での資本金減額)11) 整理,中間層の商工業者への激烈な貸し渋りが生じ た。12)中間層は,「昭和恐慌」(1930 ~ 31 年)でも打 撃を受け,「株式を手放し,資本市場の優遇から利益 を受ける存在ではなくなった」。13)こうして,五大銀 行体制が確立した(「表 5」参照)。 2.金解禁(1930 年1月)-なぜ旧平価で復帰?-  第 1 次大戦後,欧米諸国は次々と金本位制へ復帰し た。金本位制停止で,「為替相場は変動するし,イン フレ率も高くなる。ドイツやフランスのように,ハイ パー・インフレや高率なインフレを経験する国も出て くるなど,いろいろな問題が発生した」15)からである。  他方,「日本だけが金解禁できない状況は,貿易に も深刻な影響を与えました。円が国際的信用を失った ことで,為替相場は動揺しながら緩やかに下落…略… 為替が安定していないので,もともと戦前は後進国で 国際競争力の弱かった日本は輸出も伸び悩みます。こ うして,国内は恐慌と紙幣発行量膨張によりインフレ, 輸出も不振と,一九二〇年代の日本経済は出口の見え ない慢性的不況に陥っていた」16)のである。  さらに 1927 年の金融恐慌後,金解禁遅延のコスト が急増。17)理由の第 1 が国際的要因である。28 年 6 月, 仏が金本位制復帰(主要国で日本のみ未復帰)。また, 05 年発行の日露戦時公債 2 億 3 千万円(償還期限 31 年 1 月)の借換えは,日本の金本位制復帰が前提との 英米財界の意向もあった。18)第 2 は,在外正貨の減少 である。1919 年末,13 億 4300 万円あった残高が,為 替レート維持のため,連年の貿易収支の入超を在外正 貨払下げで賄った結果,28 年 3 月,9100 万円に減少 (12 月末,1 億 1400 万円)。これは,「…29 年の年間輸 入額のわずか 3%でしかなく,この程度の在外正貨で は国内正貨のアメリカへの現送ないし外債発行によっ て在外正貨を補充しない限り,為替レート水準を高め に維持することは不可能…略…為替が円安化すればす るほど金解禁時の為替投機を招きやすく,…略…金解 禁遅延のコストが無視しえないものとなったため,金 解禁実施が現実味を帯び始め,為替は金解禁の実施日 の予想の変化に反応して激しく変動した。このため以 前の割高物価の是正に代わって,為替安定化の必要が 金解禁即行論の根拠として登場してきた…略…また 29 年頃の円相場の低落を受け,従来から当然と考え られていた旧平価による解禁に替えて,平価切下げを 行ったうえでの金本位復帰という新平価解禁論が登場 してきた」。19)  ここでの主要発問は,井上蔵相は,1.「なぜ,金本 位制復帰を図ったか ?」と,2.「なぜ,旧平価を選択し たか ?」の 2 つである。前述の内容や「表 6」の教科書 記述は,1に関し,以下の 2 つの理由を挙げている。 (a)「為替相場を安定させる働き」の再構築のため。 (b)「円の国際信用を落としたくない」ため。  さらに,篠原総一による以下の説明を補う。20)(a) に関し,①通貨と金の交換を保証,②国内では通貨発 行量を金保有量(金準備)で制限,③固定為替レート に移行,④裁量的金融政策不可(但し,資本移動制限 すれば国内で金融政策可),⑤貿易赤字→金流出→国 内は金融引締めへ。他方,金輸出禁止下での金本位制 で国内は,①通貨と金の交換を保証,②金準備と貨幣 供給量は連動,外国との取引は通貨交換だけで決済, ③為替レートは固定ではなくフロート制(伸縮的為替 相場制),ゆえに金本位制下では金輸出再開で,為替 レートが固定&安定化する。 (b)に関し,篠原は,その理由を 2 点挙げる。① 1931 年に外債の一部の借換え期の到来(前述)。 表 5 「預金の 5 大銀行(6 大銀行)14)への集中」 年 預金(各年末 , 単位:100 万円) 全国普通銀行(a) (1933 年以降は 6 大銀行)(b)5 大銀行 (b)/(a)(%) 1926 9,179 2,233 24.3 1929 9,292 3,210 34.5 1932 8,318 3,430 41.2 1935 9,950 5,340 53.7 杉山,2012 年,p.349 を基に筆者が作成。

(4)

その他,外債発行予定が目白押し。②金本位 制復帰とロンドン会議参加は pair の政策で, 国際協調による海外資金活用と,軍縮による 軽軍事費による経済発展を目指すため。21)  次に,2 に関し,「表 6」の教科書記述は,以下の理 由を挙げている。 (c)「円の国際信用を落としたくないという配慮」。 (d)「円高をもたらして日本の輸出商品を割高に し」,「生産性の低い不良債権を整理・淘汰し て日本経済の体質改善をはかる必要があると の判断」のため。  但し,(c)は新平価での復帰でも国際信用回復が可 能ゆえ副次的理由に留まる。従って(d)が主要因と なる。さらに,(e)「これに加えて新平価による解禁 を行うには…略…貨幣法第 2 条の改正が必要だが,そ の改正が議会で可決される可能性が少ないという技術 上の理由もあった。22)…略…旧平価解禁であれば 17 年 の金輸出を許可制にした大蔵省令を廃止する行政措置 だけでよかった」23)からである。  しかし,金本位制復帰は失敗に終わった。外債借換 えは成ったが,24)世界恐慌の影響で,「主要輸出産業 (綿糸,紡績)の壊滅的被害」と「金の大量流出」に よる「昭和恐慌」を招いたからである。 3.昭和恐慌(1930 ~ 31 年)と地方銀行の危機  昭和恐慌は,金融恐慌と異なり,地方銀行に危機を 与えた。石井寛治は,1925 年,30 年,35 年の都市銀 行と地方銀行を比較し,「都市銀行は預金が増加して いるのに対して,地方銀行の預金は大きく減少してい る点にある」25)と述べている。この間の政治は,1930 年 11 月に浜口首相の狙撃,31 年 4 月に第 2 次若槻礼 次郎内閣に交代(井上が蔵相継続)。同年 9 月 18 日, 満州事変勃発。21 日,英が金本位制を離脱。12 月, 若槻内閣が総辞職した。 4.高橋財政(1931 年 12 月 13 日~ 36 年 2 月 26 日)  1931 年 12 月成立の犬養毅内閣の高橋是清蔵相は, 金本位制離脱,翌年,初の赤字国債発行。「国債の日 銀引受発行」の新方法で金融緩和政策を展開。「『高橋 財政』26)は,国内重視の財政経済政策で,『財政膨張』 『低金利』『低為替』政策として特徴づけられ,一九三 二年から三四年までの不況からの回復を主要な課題と する『高橋財政』前期と,三四年から三六年の二.二 六事件までの軍事費削減・公費漸減方針をはかる『高 橋財政』後期にわけられる」。27)後期の軍事費削減が 高橋暗殺を招いた訳だが,日本史教科書記述は,2.26 事件の被害者と役職の列挙に留まるため,補う必要が ある。28)  「表 7」の最終段落の記述は,従来の代表的見解に 拠り,「高橋財政の成功によるマクロ経済の順調な成 長と軍需産業を中心とする急速な重化学工業化を指摘 する」。29)他方,寺西は,30 年代の経済構造の変化を 重化学工業化のみで把握する点を批判。「30 年代の経 表 6 「高校教科書記載例 - 金解禁と世界恐慌」(下線部は筆者による) 金解禁と世界恐慌 ・鍵言葉「金輸出解禁」,「浜口雄幸」,「世界恐慌」,「昭和恐慌」(以下,省略) ・本文(抜粋)「財界からは,大戦後まもなく金本位制に復帰した欧米にならい,金輸出解禁(金解禁)①を実施して 為替相場を安定させ,貿易の振興をはかることをのぞむ声が高まってきた。1929(昭和 4)年に成立した立憲民政党 の浜口雄幸内閣は,蔵相に井上準之助前日銀総裁を起用し,緊縮財政によって物価の引下げをはかり,産業の合理 化を促進して国際競争力の強化をめざした。そして 1930(昭和 5)年 1 月には,旧平価による金輸出解禁を断行して, 外国為替相場の安定と産業界の抜本的整理とをはかった②  解禁を実施したちょうどその頃,1929 年 10 月にニューヨークのウォール街で始まった株価暴落を契機に世界恐慌 が発生していたため,日本経済は解禁による不況とあわせて二重の打撃を受け,深刻な恐慌状態におちいった(昭 和恐慌)。輸出が大きく減少し,正貨は大量に海外に流出して,企業の操業短縮・倒産があいつぎ,産業合理化によ って賃金引下げや人員整理がおこなわれて,失業者が増大した(以下,省略)」。 ・データ「工業製品・農産物価格の下落」(1920 ~ 36 年)  注①「金輸出解禁とは,輸入品の代金支払いのために正貨(金貨や地金)の自由な輸出を認めることをいい,そ れには為替相場を安定させる働きがある。また,それは金兌換を再開して金本位制に復帰することを意味した」。注 ②「為替相場の実勢は,100 円= 46.5 ドル前後と円安であったが,100 円= 49.85 ドルの旧平価で解禁したので,実 質的には円の切上げとなった。円高をもたらして日本の輸出商品を割高にし,ひいては日本経済をデフレと不況に 導く見込みの強い旧平価解禁をあえて実施したことには,円の国際信用を落としたくないという配慮に加えて,生 産性の低い不良債権を整理・淘汰して日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断があった。  『詳説日本史 B』pp.343-344。『日本史 A』pp.139-140。共に山川出版社,2013 年。両者の内容は同一。

(5)

済は,単に在来産業・軽工業から重化学工業へという 産業構造の変化や近代化論的視点だけではとらえ得な い側面がある。その 1 つは,上述の農業・農村の荒廃 と中間層の疲弊であり,いま一つは,満州事変などに かかわる大陸における権益に関係して経済構造の変化 が生じたことである」30)と指摘。重化学工業化を伴う 経済成長と満州侵略との密接な関連性を示した。「こ の成長を支えた輸出増は,33 年までは主として為替 低落,34 年からは満州への輸出拡大による…略…為 替低落の原因の 1 つは日本の満州向け投資に対する国 際投機筋の危惧であり,また 20 年代に瀕死の状態に あった重化学工業は満州向け輸出で回復の手がかりを 得た」31)のである。

Ⅲ. 教 育 内 容 開 発( Ⅱ )〔 資 本 市 場 中 心

(「直接金融」)から銀行優位のシステム

(「間接金融」)への転換〕

1.1937 年 9 月~ 45 年 8 月-戦時金融統制-  ① 日中戦争の勃発-銀行の企業融資を政府が管理-  日中戦争勃発(1937 年 7 月)で経済統制が本格化。 その端緒が,同年 9 月,「臨時資金調整法」公布,部 分施行である(翌年 2 月,完全施行)。同法は,長期 資金の統制と軍事関連物資への優先的資金配分のため, 銀行等の企業融資を許可制とした。翌 38 年 5 月,「国 家総動員法」施行。政府は,議会の協賛を経ず,勅令 で経済統制する権限を得た(統制勅令)。40 年 10 月, 銀行の企業融資を管理する「銀行等資金運用令」等を 発令。「同令の下,政府は短期・長期の両方の貸出を 指導し,…略…銀行による貸出をも管理すること」32) となった。  戦時中,企業は,銀行借入,社債・株式発行を選択 できたが,「臨時資金調整法」で,証券発行額 10 万円 超は大蔵省の許可制となり,証券市場での資金調達が 困難化。38 年 8 月,許可が必要な最低発行額が 5 万円 に減額。新株発行等による払込資本の増加も大蔵省の 許可制となり,「多くの企業は,銀行借入に依存する しかなく,しかも,その配分も政府の統制下」33)に置 かれたのである。  ② 第 2 次世界大戦の勃発-経済統制の強化と反発, 妥協  1939 年 9 月,第 2 次大戦が勃発し,経済統制は強化 された。市場の資源配分機能は制限され,企画院(37 年 10 月設置。43 年 10 月,軍需省に吸収)による政府 主導の計画経済化が進行。だが,市場機構を無視した 統制は,経済活動を阻害すると財界が猛反発し,政府 は妥協を強いられた。例えば,1940 年,企画院は, 企業の利潤動機を無くす過激な案を掲げたが,同年 7 月成立の第 2 次近衛文麿内閣の小林一三商工相を初め 財界が猛反発したため,12 月の閣議決定「経済新体 制確立要綱」で企業の「適正利潤」を容認。「経済新 体制」は,「経済統制の限界に直面して『官主民従』 から『民主官従』への統制の再編をはかった」34)ので ある。さらに,以下のクイズで,戦時体制と現在をつ なげたい。 クイズ「1940 年 3 月 31 日に戦費調達のために導 入され,現在も継続中の給与所得者への税金制度 は何か?」35)(正解:源泉徴収制度)  ③戦争の長期化と銀行融資団の制度化  1941 年 7 月末,日本軍は南部仏印進駐。直ちに,米 英蘭三国は在外日本資産を凍結。日本は「円ブロッ ク」に基づく閉鎖経済システムに移行し,国内経済シ 表 7 「高校教科書記載例 - 恐慌からの脱出」 恐慌からの脱出 ・鍵言葉「金輸出再禁止」,「管理通貨制度」(以下,省略) ・本文(抜粋)「1931(昭和 6)年 12 月に成立した犬養毅内閣(立憲政友会)の高橋是清蔵相は,ただちに金輸出再禁 止を断行し,ついで円の金兌換を停止した。日本経済は,これをもって最終的に金本位制を離れて管理通貨制度に 移行した。恐慌下で産業合理化を進めていた諸産業は,円相場の大幅な下落(円安)を利用して,飛躍的に輸出を のばしていった。とくに綿織物の輸出拡大はめざましく,イギリスにかわって世界第1位の規模に達した。    (略)  輸出の躍進に加え赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張で産業界は活気づき,日本 は他の資本主義国に先駆けて 1933(昭和 8)年頃に世界恐慌以前の生産水準を回復した。とくに,軍需と保護政策と に支えられて重化学工業がめざましく発達し,金属・機械・化学工業合計の生産額は,1933(昭和 8)年には繊維工 業を上まわり,さらに 1938(昭和 13)年には工業生産額全体の過半を占め,産業構造が軽工業中心から重化学工業 中心へと変化した(以下,省略)」。  (下線部は筆者による) ・データ「工業生産額の内訳」 『詳説日本史 B』pp.347-9。『日本史 A』pp.154-5。共に山川出版社,2013 年。両者の内容は同一。

(6)

ステム強化が急務へ。8 月,日本興業銀行等 11 銀行が, 時局共同融資団を結成,翌42年5月,全国金融統制会 結成で共同融資が制度化され,36)「共同融資を通じて 直接金融から間接金融中心のシステムへの移行がすす んだ」。37)また同年 2 月,「日本銀行法」公布(日本銀 行条例廃止)により,中央銀行の独立性を否定し,市 中銀行への統制力を強化した。38)5 月,「金融事業整備 令」(勅令)で,大銀行の吸収・合併による中小金融 機関の整理・統合が推進された(「表 8」参照)。 表 8 「銀行合併の進展」 年 普通銀行数 背景 1936 424 1940 286 一県一行主義(1936 年,馬場財 政) 1941 186 12 月 8 日,アジア太平洋戦争勃 発 1945 61 金融事業整備令(1942 年 5 月) 星,カシャップ,2006 年,p.77。杉山,2012 年,p.440 を参 考に筆者が作成。網掛は筆者による。  ④経済統制の最終段階(1943 年 10 月~ 1945 年 8 月)  1943 年 10 月,「軍需会社法」制定(12 月施行)で, 経済統制は最終段階に到達。39)戦略的重要性の高い企 業全てを政府の直接管轄とし,11 月,軍需省設立 (企画院と,重工業を管轄する商工省を引継ぐ)。翌 44 年 1 月,「軍需会社指定金融機関制度」開始。各軍 需会社に主要銀行を割当て,銀行の軍需会社への従属 性を進め(例:銀行の独自判断で融資決定を不可), 家計は銀行預金を証券より重視せざるを得なくなった (例:強制貯蓄,株主の権利制限)。翌 45 年 3 月,「軍 需金融等特別措置法」で,一般企業にも指定金融機関 制度が拡張,「1社1行」体制が成立した。40)  まとめとして,「表 9」から間接金融比率の上昇等 の内容を読み取らせるため,以下の発問例を作成した。 1.「なぜ,1932 年に民間企業の株式比率が低下し,内 部留保が増えた ?」〔解答〕1931 年 9 月~ 33 年 5 月の 満州事変の影響(私見)。2.「なぜ,1934 年に民間企業 の株式比率が上昇し,ピークを迎えたのか ?」〔解答〕 新中間層41)が重化学工業株へ活発に投資したから。42) 3.「なぜ,1939 年と 44 年に,民間企業の株式比率が低 下 ?」〔解答〕「39 年の変化は『会社利益配当及資本融 通令』の配当率制限による。44 年の変化は『軍需会 社法』の株主権限の制限による」。43)なお,間接金融 比率上昇の背景には,財閥系企業が,「臨時資金調整 法」施行以降,日本興業銀行や系列金融機関からの融 資が増加し,直接金融から間接金融中心へのシフトが 見られる。44)  ⑤敗戦(1945 年 8 月)  終戦時,「金融システムは混乱状態にあった…略… (筆者注:株式)取引所再開は一九四九年まで許可さ れなかった…略…資金調達手段として頼ることができ るのは,もはや銀行しかなかった」45)のである。

Ⅳ.おわりに-本研究の意義と課題

 本稿では,日本金融システム史に基づく,昭和前期 (1928 年1月~敗戦)に関する,高校「公民科」経済 学習の教育内容を開発した。本研究の意義は,特に, 1937 ~ 45 年の「戦時金融統制」の中で,金融システ ムが,資本市場中心(「直接金融」)から銀行優位 (「間接金融」)へ転換する過程の具体的教材化に認め られよう。  今後の課題は,第 1 に,未だ教員用の授業資料レベ ルの教育内容を,授業指導案レベルに具体化すること である。第 2 は,1945 年以降の教育内容の開発である。 表 9 「民間企業の資金調達(1931 ~ 45 年)」 (フロー値の構成比)(単位:%) 年 株式 債券 民間金融機関 の借入 政府金 融から の借入 内部 留保 1931 34.0 11.7 -3.2 11.3 46.2 1932 22.0 16.7 -54.3 -3.9 119.7 1933 31.1 -4.0 -40.4 8.0 105.2 1934 55.4 2.9 -11.4 -1.6 54.8 1935 32.9 1.1 14.9 -0.5 51.6 1936 33.5 -2.3 18.3 0.3 47.4 1937 35.5 -0.1 31.9 -2.1 33.3 1938 34.6 5.4 29.9 -0.3 30.5 1939 24.5 7.9 38.4 2.1 27.2 1940 26.7 5.5 38.3 1.0 30.4 1941 29.1 10.1 28.1 -0.9 33.6 1942 25.7 8.9 32.9 1.4 31.2 1943 22.6 7.8 35.8 3.4 30.3 1944 9.1 8.3 57.8 0.7 24.2 1945 6.1 0.7 90.9 2.3 0.0 寺西重郎「メインバンク・システム」岡崎哲二・奥野正寛編, 1993 年,p.79 の表 3-3 より抜粋。網掛は筆者による。

(7)

註 1) 松井克行「日本金融システム史に基づく高校『公民科』 経済学習の教育内容開発(1)近代経済史(明治期)の教 材 化 」 経 済 教 育 学 会『 経 済 教 育 』 第 31 号,2012 年, pp.123-129。 2) 松井克行「日本金融システム史に基づく高校『公民科』 経済学習の教育内容開発(2)近代経済史(大正昭和初 期)の教材化」経済教育学会『経済教育』第 33 号,2014 年,pp.61-67。 3) 松井,前掲論文,2012 年,pp.124-125 より抜粋,修正。 4) 内藤純一『戦略的金融システムの創造「一九三〇年代モ デル」の終焉とその後にくるもの』中央公論社,2004 年, p.144。 5) 内藤,同上書,p.144。同法は,1982 年の新銀行法施行ま で,昭和期の金融の基本法となった。 6) 内藤,同上書,p.144。 7) 寺西重郎『日本の経済システム』岩波書店,2003 年, pp.174-175。無資格銀行は,合同・吸収増資を原則。単独 増資はなるべく認めず,特に最低資本金 50 ~ 100 万円で は,原則認めず。内藤,同上書,p.146。 8) 自作農,林漁業の独立生計者,営業収益税を納付した商 工業自営者等。寺西重郎『戦前期日本の金融システム』 岩波書店,2011 年,pp.88-89。 9) 寺西,同上書,2011 年,p.904。 10) さらに,「銀行法を立案した金融制度調査会の委員の主要 部分が大銀行関係者であったこと」を根拠とする。寺西, 前掲書,2003 年,p.183。 11) 寺西重郎「1927 年銀行法の下での銀行の集中と貸出」一 橋大学経済研究所『経済研究』岩波書店,2004 年,第 55 巻 2 号,pp.150-170。 12) 寺西,前掲書,2011 年,p.905。 13) 寺西,同上書,2011 年,p.905。 14) 鴻池,山口,三十四銀行が合併した三和銀行が追加。 15) 竹森俊平『経済論戦は甦る』日本経済新聞出版社,2007 年,p.31。 16) 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 2』 中経出版,2012 年,p.230。 17) 寺西,前掲書,2011 年,p.832。 18) 寺西,同上書,2011 年,p.832。 19) 寺西,同上書,2011 年,pp.832-833。 20) 篠原総一「金本位制,金輸出禁止・解禁,高橋財政,井 上 財 政 」 経 済 教 育 ネ ッ ト ワ ー ク,2011 年 8 月(www. econ-edu.net/activity/ws/Prof.Shiohara%20Takahahi.pdf  2014 年 9 月 17 日閲覧)。 21) 同旨,寺西,前掲書,2011 年,p.840。 22) 日本銀行百年史編纂委員会『日本銀行百年史』第 3 巻, 日本銀行,1983 年,p.391。(https://www.boj.or.jp/about/ outline/history/hyakunen/hyaku3.htm/ 2014 年 9 月 17 日閲覧) 23) 寺西,前掲書,2011 年,p.833。 24) 日本銀行百年史編纂委員会,前掲書,1983 年,pp.443-445。 25) 石井寛治・杉山和雄編『金融危機と地方銀行戦間期の分 析』東京大学出版会,2001 年,pp.16-17。 26) 高橋財政の評価は分かれる。大蔵省・日本銀行は,財政 規律喪失と,戦後のハイパーインフレによる経済破綻の 遠因を招いたと批判。他方,積極的な財政出動と金融緩 和による早期の不況脱出を評価する見解がある。岸田真 「『高橋経済』と 1930 年代の日本経済」浜野潔ほか『日本 経済史 1600-2000 歴史に読む現代』慶應義塾大学出版会, 2009 年,p.200 参照。 27) 杉山伸也『日本経済史近世-現代』岩波書店,2012 年, p.362。 28) 篠山晴生ら『詳説日本史 B』山川出版社,2013 年,p.350。 高村直助ら『日本史 A』山川出版社,2013 年,p.150。両 者の内容は同一である。 29) 寺西,前掲書,2011 年,p.852。 30) 寺西,同上書,2011 年,p.852。 31) 寺西,同上書,2011 年,pp.852-853。 32) 星岳雄,A・カシャップ(鯉渕賢訳)『日本金融システム 進化論』,2006 年,p.74。 33) 星,カシャップ,同上書,2006 年,p.113。 34) 杉山,前掲書,2012 年,p.432。 35) 野口悠紀雄『1940 年体制-さらば「戦時経済」』東洋経済 新報社,1995 年,p.119。「あのよう,知ってりゃーすか 税のミニ歴史講座」(http://no-shouhizei.com/sho-kou-za/s0603.htm)2014 年 9 月 20 日閲覧。 36) 1939 年頃から,銀行間の自発的行動で協調融資団(ロー ン・シンジケーション)が次々に結成。寺西は,この萌 芽的メインバンク制成立の理由を,①銀行間のリスク分 担,②株主支配の後退で,企業経営者の独立性が高まり, 経営者のモニターの必要性が生じたため,と説明。但し, 融資団が制度化された 1941 年 8 月以降(特に,43 年 10 月, 「軍需会社法」制定),銀行は企業経営の監視者から軍需 関連企業の資金パイプに変容した。寺西重郎「メインバ ンク・システム」岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済 システムの源流』日本経済新聞社,1993 年,pp.73-78 参 照。 37) 杉山,前掲書,2012 年,p.440。融資団が戦後の銀行融資 団の先駆けへ。星,カシャップ,前掲書,2006 年,p.75 参照。 38) 杉山,前掲書,2012 年,p.440。 39) 星,カシャップ,前掲書,2006 年,p.79。 40) 寺西,前掲論文,1993 年,p.78。 41) 給与所得者,近代的経営体の管理者,弁護士・医師等の 独立技能者等が含まれる。寺西,前掲書,2011 年,p.89 参照。 42) 寺西,同上書,2011 年,p.808,p.853。 43) 寺西,前掲論文,1993 年,pp.79-80。 44) 永江雅和「敗戦と戦後改革」浜野潔ほか,前掲書,2009 年,p.215。 45) 星,カシャップ,前掲書,2006 年,pp.87-89。

参照

関連したドキュメント

 平成30年度の全国公私立高等学校海外(国内)修

(使用回数が増える)。現代であれば、中央銀行 券以外に貸付を通じた預金通貨の発行がある

主として、自己の居住の用に供する住宅の建築の用に供する目的で行う開発行為以外の開

⑹外国の⼤学その他の外国の学校(その教育研究活動等の総合的な状況について、当該外国の政府又は関

J-STAGE は、日本の学協会が発行する論文集やジャー ナルなどの国内外への情報発信のサポートを目的とした 事業で、平成

奥村 綱雄 教授 金融論、マクロ経済学、計量経済学 木崎 翠 教授 中国経済、中国企業システム、政府と市場 佐藤 清隆 教授 為替レート、国際金融の実証研究.

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

経済特区は、 2007 年 4 月に施行された新投資法で他の法律で規定するとされてお り、今後、経済特区法が制定される見通しとなっている。ただし、政府は経済特区の