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京劇と歌舞伎の合作『リュウオー』に見る中日文化交流

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はじめに  中日演劇文化交流の道が開拓されたのは1919年に来日公演を行った中国の「演劇大師」 と称される梅蘭芳によるところが大きい。その道は時代とともにますます広がりを見せ、 形式も多様化している。  1972年9月の中日国交正常化が実現されてから、中日両国の演劇文化交流も大きな発展 を見せた。その主要な柱として、中日両国の代表的な伝統演劇である京劇と歌舞伎の交流 も再開され、新しい一ページを開いた。特に1980年代末の京劇と歌舞伎の合作『リュウ オー』は中日の演劇史においても中日文化交流史の中でも特筆に値する。  『リュウオー』は、中国京劇界の第一人者である李光氏(以下李光)と日本歌舞伎界を代 表する三代目市川猿之助(以下猿之助)を中心に企画され、3年の準備期間の後、公演さ れた。それまで、京劇と歌舞伎の共演は双方の演目を組み合せるだけであった。ところが、 『リュウオー』は京劇と歌舞伎を合体して1つの演目とした点で画期的な取組みであった。 そういう意味でも中日伝統演劇交流にとって大きな意義があり、中日文化交流の新しい潮 流を示唆するものでもあった。  そこで、本文では、『リュウオー』誕生の時代背景、企画から実現までの経緯及び『リュ ウオー』の評価、『リュウオー』の演劇上、中日関係上における意義について考察する。 1.『リュウオー』誕生の時代背景  まず、『リュウオー』公演の時代背景としての中日関係を振返ってみたい。  中日国交回復を果たした後の80年代には、中日関係に不安定な情況や摩擦が発生するよ うになった。  第1は、1982年、1986年の教科書問題である。1982年日本の文部省が検定した教科書 に、「日本の中国侵略という歴史」の真相を歪曲する改悪、すなわち、「華北侵略」を「華

京劇と歌舞伎の合作『リュウオー』に見る中日文化交流

袁   英 明

キーワード:京劇、歌舞伎、リュウオー、李光、市川猿之助、中日演劇文化交流

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北進出」、「中国への全面侵略」を「中国への全面進攻」と変えたという報道を発端として、 中国において日本に対する激しい批判が起きた。また、1986年に中国は、「日本の高校日 本史『新教科書』が近代史における日本の立場を強調し過ぎ、多くの記述が史実に反して いる」と抗議した。結局日本側は多数の修正を加え、双方の抑制と譲歩により、1982年の 教科書問題ほどには事件が拡大しなかった。  第2は、1985年に発生した靖国神社公式参拝問題である。8月、中曽根康弘首相が戦後 の首相として初めて靖国神社を公式参拝した。中国はこれを軍国主義の復活と見て、強く 批判し、多くの政府指導者が懸念を表明した。また85年は「抗日戦争勝利」の40周年記念 と重なっていたことから、中国の学生は天安門広場で抗日犠牲者を悼み、日本軍国主義の 復活と日本の経済侵略に反対する「9・18デモ」を開始し、全国各地に反日行動を拡大さ せた。その結果、両国政府は厳しい政治交渉を行うに至った。1  第3は、1987年の光華寮問題である。光華寮は、戦中から京都に在る中国人留学生の寮 であり、1952年の日華国交回復により中華民国(台湾)が所有していたが、60年代から反 対活動を行なっていた寮内の中国大陸の学生はその所有権を巡って提訴した。1977年に京 都地裁は、政府の外交関係が中国(中華人民共和国側)に転換した結果、中華民国(台湾 側)の所有権は喪失したとの判決を下した。ところが1987年、最終的に台湾側の所有権を 認める判決が大阪高裁から出た。これに対して中国は厳しく批判・抗議し、収束するまで 約半年を要した。この問題の背景には、当時、日台間の政治的動き・経済的進出が頻繁に なったこと、中国における日本の国家主義的意識高揚に対する強い懸念が生まれたことが あった。  第4は、1987年の日本の防衛費1%枠突破問題である。1976年、三木武夫首相は防衛費 の枠を GNP 1%と取り決めたが、1986年、中曽根康弘首相はその枠を撤廃することを閣 議決定した。これに対して鴆小平は「日本で軍国主義が復活した」と批判し、『人民日報』 は「事実上枠を撤廃したに等しく、『軍事大国』の古い道を歩もうと企てるごく少数の者の 手足を縛れなくなる可能性が高い」2 と非難し、日本の外務事務次官が辞任するまでに事態 は発展した。  その他、貿易不均衡を巡る摩擦も生じ、両国外交関係の動揺と中国の内政不安定化の中、 1989年の天安門事件の発生により、中米関係をはじめ中日関係も一気に冷え込んだ。  この「第2次天安門事件」の解決処理のために、中国政府が武力を行使した状況が逐一 テレビや新聞によって世界各地に報道されたこともあり、中国政府による「人権」を無視 した行動であると非難され、国際的に制裁が課された。アメリカをはじめとする西側諸国 は、経済制裁、軍事・経済・文化交流の停止、高官間接触の禁止などの措置を次々に取っ た。しかし日本は、中国の国際的孤立がアジア・太平洋地域の不安定化に繋がる危険性が 高いとして、中国の「孤立化回避」と地域安定の重要性をヒューストン・サミットで西側 諸国に訴えた。同時に、中国への経済協力継続の立場に立ち、第3次円借款凍結の解除の 方針を表明した。

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 要するに、中国は国際社会における地位を高め、影響力を高めるにつれて、欧米を中心 とした国際標準の価値観と行動様式を要求された。一方、中日関係において両国間に内在 する問題が表面化した。しかし、そうした状況下にあっても、関係者の尽力によって中日 文化交流は継続していた。これらの中日関係と国際状況を背景として、中日両国の「国劇」 である京劇と歌舞伎の合作『リュウオー』が誕生し、上演をみたのである。 2.『リュウオー』企画の経緯  『リュウオー』は1989年3月4日から4月27日までのロングラン特別企画として東京新 橋演舞場で延95,105人を動員して74回上演された。招待者も含めて毎回90パーセント(招 待も含め)の入りであった。3  次いで5月に名古屋中日劇場でも37回上演された。  『リュウオー』誕生のきっかけは、猿之助によると、第1回スーパー歌舞伎の『ヤマトタ ケル』が大成功を収め、これに続く次の企画を考えていた時の「ご縁」であった。具体的 には猿之助が以下のように述べている。4    スーパー歌舞伎がこれほど大当たりした以上、当然次回作を期待されるのであ ろう......『ヤマトタケル』の熱の冷めぬうちに、何か同じように実験的で話題 性のある企画はないだろうか......さあて次なる芸当は......次なる芸当 は......  その時だ。つい数日前の十一月一日、たまたま中国京劇院第三団公演で来日中 に『ヤマトタケル』の評判を聞きつけ、演舞場へ観に来て下さった李光氏のこと が頭に浮かんできた。 ......  その李光氏と七年ぶりに思いがけなく再会して、歌舞伎と京劇との合作という 企画がふと私の頭にひらめいたのだ。     さらに、猿之助は次のように話している。5    今に思えば、この李光さんとの再会と少年の頃からの京劇への熱き思い、そし てスーパー歌舞伎の次なる芸当は...という3つの要素が私の頭の中で突然結び ついて此度の合同公演の企画がひらめいたともいえよう。  その再会から10数日後、地方巡演から戻った李光さんを都内の宿舎に尋ねてこ の企画の是非を打診するとその可能性ありとの嬉しい返事が返ってきた。  翌昭和62年(1987年)3月、芝居の休演月を利用して北京へ飛び、呂瑞明京劇 院々長におめにかかり早速合同公演への打合わせを行った。    『リュウオー』を企画する遠因になったのは、3代目猿之助の少年時代に遡るようであ

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る。そこには、世代を超えた祖父とのつながりと23年という歳月にわたって保持された梅 蘭芳の影響が見られ、梅蘭芳の訪日公演や2代目猿之助の訪中公演、この2人による交流 の影響力の大きさがわかる。それについて3代目猿之助は以下のように述べている。6  昭和30年(1955年)、私がまだ15歳の少年の頃、祖父猿翁(2代目猿之助)は日 中国交回復以前の中国へ渡り、北京、上海、広東などで「勧進帳」「吃又」を上演、 戦後初の歌舞伎の海外公演として日中文化交流を果たした。  その翌年、祖父の歌舞伎公演の答礼として名優梅蘭芳を筆頭に袁世海、李少春 などの豪華メンバーが大挙来日し歌舞伎座で大々的に京劇を披露した。  当時慶応高校に進学したばかりの私は、すっかりこの京劇の魅力にとりつかれ 連日学校をさぼっては歌舞伎座へ通いつめた...  これらの京劇の名場面は多感な青少年期の私の心に深く残り、梅蘭芳一行を祖 父の家に迎えての京劇院との交流ぶりはつい昨日のように今尚はっきりと覚えて いる。  歌舞伎と京劇との結びつきという着想に関しては「当時祖父が「『国姓爺合戦』の千里ケ 竹の虎狩りを、虎には京劇俳優に出てもらって上演してみたい」と私に語ったこと等々、 京劇をめぐるさまざまな思いと、スーパー歌舞伎第二作の企画とが結びついたのである」 と猿之助が述べている。7    さらに中国京劇院の俳優李光と知り合った経過について、次のように記している。8  それから23年、日本と中国の国交も回復した昭和54年(1979年)、その国交回復 を記念した京劇公演が国際交流基金主催で開催され、この時来日されたメンバー が此度の李光さんを中心とする中国京劇院第3団の皆さんであった。  京劇ファンの私は忙しい芝居の合間をぬって李光さんの「孫悟空」などを見物 に出掛けたが、京劇院の皆さんも私の芝居を見に来て下さった...  こうした相互観劇が縁となり李光さんと知り合いになり、その後京劇の地方巡 演日程と私の地方公演スケジュールが不思議にもうまく重なって、京都、名古 屋...と各地で李光さんと顔を合わせる機会が多くなった...  以上から、梅蘭芳の後も連綿と中日文化交流が継続したことにより、李光氏と3代目猿 之助が知り合い、2人の親交が深まるにつれて、梅蘭芳訪日の時に見られたような、京劇 と歌舞伎の演目を並べるのではなく、お互いに隣接しつつも京劇・歌舞伎という2つの異 質の演技者集団が、同一の演劇空間と演劇時間の中に溶け込もうとするようになり、さら に進んだ「融合」という形をとらせたことが可能であったことが分かる。とりわけ、この 事実によって交流には継続が大切であることが示されている。

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演目の選択については、以下のような経過をたどった。 9  歌舞伎と京劇の合同公演となると誰しも考えるのが例の近松門左衛門の「国姓 爺合戦」ということになろう。  私も例に洩れずそれを提示したが、近松の「国姓爺」は鎖国で情報不足の江戸 時代に書かれたものなので中国側からみると歴史的に大デタラメがあって具合が 悪い...そこで近松の「国姓爺」の趣向を活かした新しい作品を考えようという 事で双方の意見が一致し、ここに合作に対する中国側の正式の同意を得ることが 出来たのであった。  これについて、脚本の奈河彰輔は、さらに詳しく紹介している。10  歌舞伎と京劇が合同して、同じ舞台で1つの演目を上演するという空前の企画 は、3年前にスタートした。最初「国姓爺合戦」をと考えたのだが、正邪が史実 と異なる内容に問題があり、中国側提案の「封神演義」の中の〈 d 19X の龍退治〉09 をベースにして新しい物語を、中国京劇院院長呂瑞明氏と私が協力して作る事に なった。「封神演義」は、中国3大奇書の1つで、日本では馴染みが薄いが、紀元 前11世紀の初め、殷朝末期の波乱万丈の面白い軍記小説である。単純明快なス トーリー、豪快でしかもきらびやかな運びが、いかにも京劇らしく、そのまま歌 舞伎の王朝の世界にでも、翻案できそうな作品だが、その時代の日本はといえば、 はるか縄文期にまでさかのぼらなければならない。歴史につじつまを合わせるこ とは、到底不可能だが、王朝時代も平安時代も、江戸の世界にして見せる歌舞伎 の融通無礙な手法を頂き、ナタと並ぶ日本の主人公は、日本書紀の内の火明命 (海彦)と、天道日女命の名を借り、平戸に住む漁師夫婦とした。文字どおりの狂 言綺語だけれど、理屈ぬきの夢の世界、ロマンの物語は歌舞伎と京劇の手法を生 かした華やかな舞台の恰好の素材だろう。 歴史に対するこだわりは、奈河の次の記述によってもわかる。11  ...当初、猿之助は「国姓爺合戦」を合同公演の演目にと提案したが、大量の 歴史資料を検討した結果、呂瑞明は1715年に書かれた「国姓爺合戦」は時代的・ 地理的な制約を受けており、登場人物と史実に大きな開きがあるため、人物に よってはその歴史評価がむつかしいと判断した。 「国姓爺合戦」に対する歴史的な考察は、中日、特に中国側が慎重な姿勢であった。さら に中日の歴史を噛み合せ、人物を置き換える努力は、新しい友好の歴史を作ろうという意

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識の表れである。すなわち、上記からは何とかして、中日の歴史までも融合させようと工 夫した苦労の跡がうかがえる。  李光(董志華とダブルキャスト)の演じた d 19X (ナタ)については、野村喬が次のよう09 に紹介している。12   d 19X というのはもともとインドの仏教の護法神である毘沙門天(多聞天とも托09 塔天王とも言う)の第3子として出て来るが、中国では伝奇物語の「封神演義」 という本の第12回より第14回に述べられた話に登場する。殷の時代に陳塘関を守 護していた李靖将軍の妻の殷夫人が妊娠して3年6ヶ月を経て出産した肉塊を、 夫が剣をあてると飛び出した男子を乾元山金光太乙真人が命名して連れて行き弟 子にする。7歳で背丈6尺になり、水浴で水晶宮を騒がすので、東海龍王敖光が 巡海夜叉李良に命じて探らせると、 d 19X は真人に貰った乾坤圏の金色の輪で夜叉09 を撲殺し、さらに竜王の第3子敖丙も殺したため、怒った龍王は天帝に訴えると 李靖将軍を脅迫した。窮地におちいった父を救うために d 19X は割腹自殺し、その09 魂が真人のもとに戻ったのを、仙人は蓮の花に金丹を投じて蘇生させた。1丈6 尺の男子に再生した d 19X は成長して父と共に紂王の軍とたたかって周朝建国に尽09 くす話である。 一方、海彦は、名前のみを妻・天道(あまじ)とともに「日本書紀」から借りており、 『リュウオー』では「国姓爺合戦」の大筋を書き換えている。なお「国姓爺合戦」のあらす じは次の通りである。13  ...「国姓爺合戦」の和藤内は、明帝に諫言し罪を得て肥前平戸に亡命した鄭芝 竜(老一官と名乗る)が日本女性の渚(この『リュウオー』でも同名で海彦の母) と結婚して誕生、日本の和と中国の唐の音の両方をとって名づけられた青年。明 の栴檀皇女の舟が平戸に流れ着いて明国の変事を知り、両親と共に大陸に渡り、 千里が竹で猛虎を退治し、明を滅ぼした韃靼と戦うために味方を得ようと、父を 同じくする腹違いの姉の錦祥女に、その夫の五常軍甘輝将軍を説得するよう頼 む。母の渚ひとりが城内に入るが、甘輝は女の情にほだされての味方を拒否する ので、錦祥女が自殺し、渚も跡を追う。それを見て甘輝は和藤内と義兄弟の盟約 を結び、手を携えて韃靼軍を撃ち破る物語である。 このように日本の近松門左衛門の「国姓爺合戦」の趣向を活かし、中国の3大奇書の1つ である「封神演義」をベースに新たに書き下された作品『リュウオー』の物語は次の通り である。

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 中国の少年・ d 19X は、日本の漁民を苦しめる東海龍王をこらしめるため、龍王09 の息子敖丙を殺してしまう。日本の漁師・海彦は、妻を救ってもらった恩義から d 19X と義兄第の契りを結ぶ。怒った龍王は術を使って09 d 19X の村・陳塘関を水ぜめ09 にすると脅迫し、ついに d 19X は責任を負って、陳塘関を守るために両親の目の前09 で自害する。悲報を聞いた海彦は d 19X の友達・鶴童の案内で、09 d 19X を蘇生させる09 ために中国へ向かう。さまざまな危険を乗り越えた冒険の末ついに d 19X はよみが09 えり、海彦と共に力を合わせて龍王を退治する。  以上の経緯から、『リュウオー』の企画は国の視点から言えば、梅蘭芳が切り開いた中日 両国の演劇文化交流が連綿と引き続いた成果であり、個人の立場から考えれば、3代目猿 之助が祖父猿翁から梅蘭芳との交流、交友関係の影響を受け、憧れた京劇との合作が実現 したものでもある。また、『リュウオー』では、 d 19X の物語から、父のために自殺する息子、09 国姓爺の物語から、夫のために身を捧げる妻と息子のためには死をいとわない母親とい う、中日に共通する自己犠牲の姿、あるいは親に対する子の「孝」、夫に対する「夫唱婦従」 を取り上げて観客に中日両国の価値観の共通性に訴えかけた。作品の内容から、 d 19X と海09 彦に義兄弟の契りをさせることにより中日の義兄弟の関係を親密なものとして暗示したこ とも窺える。 3.『リュウオー』に対する評価及び意義   中日伝統演劇の初合作としての『リュウオー』は演劇界だけではなく、社会全体にも注 目された。様々なメディアに取り上げられ、評価されたが、ここでは代表的なものを取り 上げる。  『朝日新聞』の評価は次の通りである。14  約400年の伝統を持つ歌舞伎と、ほぼ200年の歴史のある京劇の初のジョイント 公演は、はなばなしい成功をおさめた。『リュウオー』...である。  ...芝居を持って行ったり来たりという従来の国際交流のパターンを破り、歌 舞伎は歌舞伎の、京劇は京劇の様式を崩さず、1つの新作を共同で創造するとい う困難で複雑な作業に挑み、さまざまな障害を越えて見事な花を咲かせた点で、 コロンブスの卵のような試みは、深く、実質的な国際交流の実を結んだ...  それにしても、歌舞伎の下座音楽と竹本、そして京劇の音楽が、これほど違和 感なく同じ空間を共有するとは、一体だれが予想したか。今度の成功のもっとも 大きな要因は、この音楽の不思議な調和にあるといっても過言ではない。    『朝日新聞』の猿之助自身による評価は、次の通り紹介されている。15

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 言葉も様式も異なる2種類の演劇を、お互いを殺し合うことなく、むしろ、自 分たちの演劇を誇示し合いながら1つの舞台にのせた、という発想の豊かさ、奇 抜さ。半面、歌舞伎の女形と京劇の女優の絡みを徹頭徹尾排することによって、 男優が演じる歌舞伎の女役と、リアリズムの京劇の女優との違和感を消すこと、 黒衣の登場を極力なくしたという計算のみごとさ...    「合体といっても、一体化と違う。2つの演劇の特徴を尊重し合う。ということ は、反発し合うことでもある。芸の骨格をくずさず、2つの調和をつくり出す。 具体的には、京劇をこっちにまかせてもらったということかな。京劇側がわたし を全面的に信頼してくれたからこそです。でも、世界のどの演劇よりも、京劇が いちばん歌舞伎に合っているでしょ」    歌舞伎の静、京劇の動。時として派手な京劇のアクロバットに目を奪われがち だ。  「両演劇のエッセンスを求めると自然そうなる。動きを見せる京劇には大いに アクロバットをやってもらうし...歌舞伎らしい美しさを追求した結果です。役 割分担をしたわけです」...  「この芝居をやっぱり中国の人たちに見てもらいたいね。中国の演劇界も歌舞 伎同様、新しい機運を求めているんです」  『産経新聞』の評価は次の通りである。16  ...目をみはったのは、京劇側の歌舞伎演技への踏みこみである。義太夫節、 下座の囃子、ツケといった歌舞伎音楽に乗っての演技に全く違和感はない。見得 もぴたりときまり、歌舞伎の技法が身についている。  『演劇界』には下記のように評されている。17  今回の公演で何よりも注目されたのは、二つの伝統演劇の演技様式、とりわけ 一つの舞台に間やリズムの異なる演劇が、どういう形でジョイントしうるかだっ た。基本的には延期の下座音楽を独立させて演奏したことで混乱はなかったもの の、ドンタッポの京劇立ち廻りなどにまだ困惑が残っていた。海彦と d 19X の義兄09 弟の契りでも、竹本に合わせる李光にぎこちなさがみられた。だが、こうした面 は、この交流が単に互いにの個性を出張し合って終わるものではなかったことの 証明にもなりそうだ。

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次に示すように、雑誌の記事においては、猿之助の「水と油」「ミスマッチである」とい う発言が紹介され、歌舞伎と京劇はそれぞれ違った文化のもとで成立したため、完全に一 致することはなく、マッチする部分もあればマッチしない部分もあるのは当然であり、だ からこそ見応えのある舞台になると評価されている。18  「分野を異にするもの同士の交流が盛んな昨今ですが、手法的にも発生的にも 歌舞伎と京劇は親戚のようなものですから、いちばん水と油になりにくい組み合 わせだと思うんです」  「基本的にはミスマッチのおもしろさを味わってもらえたら、と思っています」   ...今回、そしてここ数年間の作品は、歌舞伎をコンセプトにしてどんなこと ができるかという、21世紀の演劇の可能性を模索する実験舞台と考えている...   ...歌舞伎の伝統的な芝居運びと京劇がぶつかりあった、見応えのある舞台が 期待できそうです。  上記のように歌舞伎と京劇の特徴、個性を尊重し合いながら、時には相手の特徴に合わ せる。同じ空間で違う演劇形態が調和的に観客の前に呈示される点、特に音楽が「違和感 なく」、「不思議な調和」をもって空間を共有する点と、同じく様式美を追究する京劇の動 と歌舞伎の静の役割分担などが高く評価されている。猿之助の21世紀の伝統演劇の新たな 可能性を模索する実験は実に画期的であった。  中国側からも合作成功の言葉が残っている。中国京劇院院長・『リュウオー』の脚本を担 当した1人である呂瑞明は次のように述べている。「私は最初から自信をもっていました。 表現方法は異なるけれど同じ東方の芝居ですから合うはずだ、と。京劇と歌舞伎は鳴り物 でつながっていると思いました。言葉そのものは違ってもせりふのニュアンスが似ていま す。二年間、相談しながらやってきましたから困ったこともなく皆の努力で予想以上によ くできたと思います。猿之助先生の大胆な構想に感激しました。」19 また、『リュウオー』の 主人公の1人・ d 19X を演じた李光は次のように話している。「お客さんの反応をみて、成09 功した、と思いました。非常に嬉しい!愉快です。京劇と歌舞伎が合体して新しい道をみ つけたのですから。芸術というものは量りしれない深さと広さがあると、今しみじみ考え ています。猿之助先生とは十年来の友人で互いに理解していますが、一か月あまり共演し て心と心がよりいっそう通じ合うようになりました。」20  この作品の中国公演を実現した場合、中国でどのように評価されるかは演劇界、多くの 観客ともに興味深かった。しかし、中国での公演は、「せりあがり」や回転舞台が中国には ないことから演出に大幅な変更が必要であること、演出効果が減ることが原因で、中日間 の折り合いがつかず結局実現しなかった。時期的には名古屋公演と重なって5月から6月 に中国の「第2次天安門事件」が起こったことも、中国公演が実現できなかった原因の1

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つとも推測できる。  一方、多くの専門家の予想の通り、『リュウオー』は公演準備の段階においても演出上の 問題が大きな障壁となり、幾つかの工夫がなされた。  第1は、演出上のギャップである。歌舞伎側の代表市川猿之助の伝統的な演出の考え方 と京劇側の代表である李光のモダン的、実験的な構想との食い違いで歯車が噛み合わな かった。これは国情や演劇事情の違いによるものであった。21 第2は、床である。京劇では絨毯を敷くのに対し、歌舞伎では板である。歌舞伎では床 を踏み鳴らす場面が重要であるが、絨毯ではこれが表現できない。また絨毯の場合、「せり あがり」を使用するため絨毯を切ることになるが、継ぎ目での転倒や衣装を挟み込む危険 性がある。一方京劇では、床が板であるとアクロバットで手をつく時、着地した時の足の 感覚が異なったり、靴が滑ったりし、危険である。 第3は、新技術の取り入れである。京劇も当時、過渡期にあり、実験的なことを試した 時期であり、李光は、レーザー光線や新しいリズムの使用を提案したが、結局シンプルな 方がよいという猿之助の意見に従った。しかし、この判断が正しかったことは、幕が開い て観客の反応を見て理解できたと李光は猿之助に話している。 第4は、メイクの工夫である。龍王は京劇の従来のメイクでは、白の眉をつけてシワを書 くだけであるが、今回、龍王を演じた袁国林は性格としての暴虐性や好色をより表現する 工夫として、黒・金・ピンク・グレイ・赤・白の色を新たに使った。公演がスタートして からもメイクの改良を重ねた。巡海夜叉は京劇のキャラクターを歌舞伎の俳優市川段四郎 が演じて日本人の役人に変装するため、衣装は京劇、メイクは『妹背』の入鹿、鬘は日本 スタッフが中国風に作成するという中日折衷であった。 第5は、「歩き」の部分で、花道の処理が京劇俳優にとって大きな問題であった。京劇で は、登場退場の距離は短いが、今回の舞台は通常の京劇舞台より横に長く、さらに花道が あった。歌舞伎では演技をしながら歩いての登場や「六方」での退場があるが、京劇では 間がもたないため、京劇風の「六方」を創作した。22 上記の困難を乗り越えるために、双方は友好的、前向な工夫に努めた。例えば、生活面 での交流として次のようなことがあった。23 ① あいさつは中国人が日本語で、日本人は中国語で交わすようになり、お互いに片言 が話せるようになり、中村歌六は京劇の人たちと合間に雑談していた。 ② 段四郎の鏡台脇には、ロイヤルゼリー、咳止めなどの中国健康医薬品が並び、お茶 にはジャスミンティが出された。 ③ 喜三郎と劉連祥は、年令・血液型が同じで外観がそっくりで、暇さえあれば互いに 言葉を教え合ったりし、その様は義兄弟に見えるほどであった。 ④ 市川笑也は京劇の俳優の演技から、「眼の芝居」と「腰が入っている」ことを学ん だ。 日常の細かいことから絆を結び、友好関係を築くことより、演出上の対立が徐々に克服

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された。交流の内容は、演技面から広い意味での文化にまで及んだ。これにより優れた作 品が完成された。3ヶ月間という長い共同生活は内面的にも中日文化の相違の自覚と相互 認識、意思疎通と友情関係の醸成に役立ったのである。 次に『リュウオー』の意義を考察する。 これまでに述べてきたように、いくつか注目すべき点あるいはキーワードがある。 演目そのものに関しては、第1は「言語」についてである。はじめ中国の役者が日本語 を話すのは笑いを取る意図があったが、やがて会話の内容を理解する上で必要となった。 一方、海彦が中国に到着して中国語を話し始めた。この瞬間、観客は、父の故郷に戻って きた海彦ではなく、訓練して中国語をマスターした猿之助というメッセージを受け取り、 猿之助の中日友好に対する熱意を感じとった。 第2は「音楽の融合」である。最初京劇の俳優には京劇の伴奏、歌舞伎は歌舞伎と割り 振られていたが、後半で d 19X が常盤津で演技をして、見得を切った。また別々に演奏して09 いたが同時に演奏するようにもなった。つまり、歌舞伎と京劇が同時に舞台で演じる場面 では、鳴り物、打楽器の演奏がほんの少し前後するが、ほぼ同時に伴奏を行ったため、不 自然さは全く感じられなかった。ここに融合へのチャレンジを見て取ることができる。 第3は「義兄弟の契り」である。中国を代表する d X 19 と、日本を代表する海彦に義兄弟09 の契りを結ばせさせ、あたかも中日が義兄弟であると暗示した。『リュウオー』では、互い に助け合い、恩に対して恩で報い、協力して共通の敵と戦わせている。そして、 d 19X と海09 彦が手を取り合う場面では大きな拍手を受けた。1989年3月4日の初日、古典演劇評論 家、演出家の戸部銀作氏の友人は、戦前から中日関係を知り、両国の俳優から手を組み合 うカーテンコールに感激し、「これで日中のわだかまりは消えた」と、涙を流していた。24   このような中日友好的な演劇行動、演劇の内容に感動した観客が少なくなかった。 第4は「男尊女卑と自己犠牲」という価値観である。中日ともに自己犠牲の美徳を示し た。 d 19X が両親に対し、渚・天道は海彦に対して自殺をもって示した。ここには、儒教思09 想に基づく、男尊女卑と長幼の序、「孝」が表れている。すなわち、このことは「価値」観 の表出でもあり、古くは、梅蘭芳訪日時の「御碑亭」が男尊女卑という共通の価値観の問 題のため共感を得たこととの繋がりがある。  演技の面においては『リュウオー』を通して、歌舞伎と京劇の異同及び両国の文化の差 異と類似性も再認識された。  第1は、「女形」についてである。京劇もかつて歌舞伎と同様に女形の形式で女性を演じ た。中でも梅蘭芳は女性役が得意であった。『リュウオー』では、京劇の女性役は d 19X の母09 親のみで、しかも強い母親役であった。一方、歌舞伎の女性役として、海彦の妻・天道役 の市川笑也は梅蘭芳が得意とした男性による女性らしさの表現に対抗するように、妖艶な までの色気と繊細な感情表現を見事に演じた。これは、猿之助が意図したか否かは不明で あるが、1回目、2回目来日の時、梅蘭芳の演技と比較されて勉強不足と批判された歌舞 伎の女形が今ではその批判を糧として成長したことを物語るものであった。

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 第2は「見得」である。今回の合作により、歌舞伎と京劇が異なる演劇であると共に、 共通点もあることがそれまで以上に認識された。前述した義兄弟の契りの場面のおける京 劇の d 19X 役が歌舞伎の海彦役に合わせて、歌舞伎の「見得」を切る演技、立ち回りの場面09 における歌舞伎の「見得」と京劇の「亮相(リャンシャン)」が同じ空間で表現されても全 く違和感がなく、むしろ調和しているように見えた。そのために観客が無意識に受け入れ、 賛美したと考えられる。歌舞伎の「見得」に相当する京劇の「亮相」を歌舞伎研究家・演 劇評論家である郡司正勝は「あるいはその源を一にするものではないか」と考察した。激 しい立ち回りや演技の精神的緊張が昂揚しきった瞬間に静止してポーズを取り、彫像ない し映画のクローズアップのような注目効果を得、動と静とのコントラストの点において、 見得と亮相は酷似している。また、歌舞伎のポーズに「見得」と「きまり」という強弱の 別があるように、京劇の亮相にも「剛」と「柔」の強弱二種があることが、『リュウオー』の 舞台を通して一層理解された。  第3は「歌」である。『リュウオー』を通して歌舞伎と京劇の演技上の違いがはっきりし ている。京劇の「唱(うた)」の比重の大きさが、地の浄瑠璃や長唄に歌を任せる歌舞伎と 異なる特質を持っている。海彦が妻天道を失う時の悲しい心情はせりふで表現し、歌舞伎 俳優は自ら歌わない。一方 d 19X が自害する前の極端の悲鳴、憤慨、両親と別れがたい辛さ09 の心理は俳優が唱で表現し、「聴きどころ」となっている。すなわち、京劇は情隗昂揚の時 に歌で表現するのが特徴的である。中国の演劇は「戯曲」と称する。これは芝居(戯)が 常に音楽歌謡(曲)を伴うということであり、歌は欠かせない。ペキン・オペラと欧米で 呼ばれる京劇は「眼でみるより耳で聴く」と言われるほど歌は京劇の大きな演技要素であ る。  第4は「立ち廻り」である。今回の合作『リュウオー』には同じ空間で歌舞伎と京劇の 立ち廻りが見せ場になった。その相違もより分かりやすく見えた。京劇の方はスピード感 と緊張感が溢れ、劇場が盛り上がった。一方歌舞伎の殺陣には捕縄などを取り入れ、比較 的緩やかでありながら、徹底的な様式美の追求が示されている。京劇のトンボは歌舞伎と は回転の速度感覚が異なり、両足揃えて返る「束トンボ」であり、歌舞伎の方は片足で着 地する点についても興味深い点である。京劇と歌舞伎の、それぞれのアクロバット演技の ルーツは、古来の散楽系芸能にあった。中日両国の散楽が分離したのは遠い昔のことで、 その軽業芸の演劇的発展には、別個の経緯があったはずである。しかし、立ち廻りは双方 の舞台ともに不可欠な演技要素となっている。  第5は「写実」と「写意」についてである。京劇と歌舞伎は外面的な相似の度合いがい かに大きくとも近縁だとは言えない。詳細に見れば、京劇と歌舞伎は顕著な違いが多いこ とに気付く。京劇の本質は「写実」ではなく、「写意(抽象的な表現法)」にあるとしばし ば言われる。大道具を大胆に省略し、基本的には「一卓二椅」のみの象徴的に用い、城壁、 宮殿、山にいたるまで様々な情景を演技で観客に想像させる京劇の舞台の仮想空間性と流 動的時間性は、歌舞伎の具体的、かつ花道や回り舞台を用いたスペクタクルなそれとは、

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目指す効果を全く異なっている。その点ではむしろ能に近い。今回の合作は舞台美術に関 しては全体的に歌舞伎の特徴に合わせ、具体化し、工夫、統一したが、京劇の演技に邪魔 になることはなく、逆に絶妙に合い、むしろ京劇の場面も分かりやすく、立体感のある舞 台となったと言えよう。 以上のように『リュウオー』という京劇と歌舞伎の合作は、中日友好を目的とした国際文 化交流の手段として、細部に至るまで巧妙かつ精緻に作られている。すなわち中日伝統演 劇それぞれの様式と特徴を尊重して融合させ、それによる相乗効果を生かしており、公演 としては京劇・歌舞伎が単独で公演されるよりもさらに優れたものとなり、興行的にも大 成功を収めたのである。 終わりに  京劇と歌舞伎の合作・『リュウオー』は80年代末の中日関係が不安定な情況、摩擦がある 環境のなかで誕生し、様々な困難を乗り越えて、芸術の面と国際関係の面ともに大きな成 果を上げた。この作品は世界演劇上初の試みであり、画期的な企画である。それは単に演 劇の成功例として歴史に残るだけでなく、今後の中日友好のモデルあるいはあるべき姿と も言えよう。同時に、その作品を通じて中日伝統演劇関係者による新たな「文化」形成の 試みの成功例でもあった。さらに、演劇文化交流の将来の方向を示すことができたのであ る。すなわち、複数の伝統演劇の長所を生かして1つの演目を作り上げ、国を代表する トップの俳優が共演するというスタイルは、演劇としての芸術性の向上とともに国際文化 交流の手段としても有意義であるということを示した。ここに、梅蘭芳のめざした演劇文 化交流による中日友好ということが、新しい形として実現したのである。  今後なお京劇と歌舞伎ないし他のジャンルの伝統演劇の連携実験は、様々な形で進展す る可能性はあろう。ところが、1989年の『リュウオー』以来、27年間このような実験的な 試みが途絶えている。  芸術の面から考えれば、演劇の過去の歴史とは、洋の東西を問わず、改革ないし変革の 経過であった。もとより将来とも同様であろうから、元々他分野の影響を活発に取り入れ ながら形成された京劇と歌舞伎がお互いになんらかの刺激を与え合うのは、演劇文化の停 滞と常套を打破する上に、意義があることと思われる。様々な文化的差異、個性を正しく 認識することにより、今日の私たちは先人たちよりも一層境界を越えた自由な演劇表現の 先鋭的な実験を行うことができるのではなかろうか。  文化交流の面においては、不断の交流と『リュウオー』のような作品の続出が切望され ている。無論文化交流の積み重ねにより、認識や理解が深まる。中日演劇文化交流は、中 断の時期を除いて極端に言えば昔から営々と続けられてきた。三代目猿之助が李光と親友 関係により『リュウオー』を実現させたのも、祖父の代で梅蘭芳との交友関係があり、中

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日ともにその後も演劇交流を続けた成果である。  このように世代を越えて、将来につながる国民同士の連帯と共感を深める不断の交流が 必要である。特に、困難な中日関係の今日こそ、『リュウオー』のような中日両国民の心に 訴え、心の絆を強め、心の交流を促進する芸術作品が多く生み出され、政治の次元を超え る演劇文化交流による中日友好を促す役割が期待されていると言えるのではなかろうか。 ―――――――――――― 1 結局、短期間で平和的に終了したが、「この問題が1985年の学生デモの後でまた起ったこと自 体、両国関係に引き続きまだ他の頭痛の種があることを示すものであった」とアレン・S・ホワ イティングが論評している。アレン・S・ホワイティング著、岡部達味訳『中国人の日本観』、 岩波現代文庫、2000年、96頁。 2 『人民日報』、1987年2月11日。 3 『報知新聞』、1989年4月30日。 4 市川猿之助著『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』、集英社新書0180F、2003年、50頁。 5 新橋演舞場宣伝部『今月のプログラム(スーパー歌舞伎・京劇―龍王―リュウオー 3月・4月 ロングラン特別企画公演)』、1989年、43頁。 6 同上書、42頁。 7 市川猿之助著、前掲書、51頁。 8 新橋演舞場宣伝部、前掲書、42頁。 9 同上書。43頁。 10 同上書、45頁。 11 『人民日報』、1989年2月18日。 12 新橋演舞場宣伝部、前掲書、93,94頁。 13 同上書、94頁。 14 大笹吉雄、『朝日新聞』、1989年3月20日、夕刊。 15 「」内は猿之助の発言。『朝日新聞』、1989年3月27日、夕刊。 16 『産経新聞』、1989年4月4日。 17 森洋三「壮挙のさらなる発展を」、『演劇界』、第47巻・第4号、演劇出版社、1989年4月、51頁。 18 『婦人画報』、4月号、アシェット婦人画報社、1989年。 19 榎その「日本・中国合同公演〈リュウオー〉楽屋訪問」、『演劇界』、第47巻・第5号、演劇出版 社、1989年5月、135頁。 20 同上稿、135頁。 21 市川猿之助著、前掲書、58、59頁参照。 22 榎その、前掲稿、133、134頁。 23 同上稿、134、135頁。 24 戸部銀作「猿之助歌舞伎の軌跡」、『演劇界』、第47巻・第5号、演劇出版社、1989年5月、97頁。

参照

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