トーマス・マンのイタリア体験 (I)
12
0
0
全文
(2) . 第 19 巻. 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和43年12月. ト ー マ ス ・ マ ン の イ タ リ ア 体 験 〔1〕. 岡. 光. 一. 浩. 北海道教育大学岩見沢分校独語独女学研究室. Kazuhi ienischen Er l ro 。KAM工Tstた Die ital ebnisse. Thomas Manns. 序. 論. ドイ ツの偉大なる女人達の 南方への憧れ, 換言すれば向日性は. ‘De Madame de stael が ‘ ” rAI 1 (「ドイ ツ 論」, 1 emagne 81 0 ) で ′”≠宅“e d“ ”“ 〆 と 名 ず け て 以 来, Winckelmann,. Goe the な どに ついての論究の対象となり, 彼 らの精神発展を明 らかにするのに大いに役立 った , そしてその後もこの傾向は ドイ ツの女人達にしば しば見 られるところとなり, 彼らの精神確立に 1 ) Ri 2 9 ) な ど然 り で あ る こ の ) Carossa 4 決して 少 な く な い 力 を 与 え た, He ine lke et zsche , ,) Ni , , 試論では私 はこのような視点に立 って, Thoma s Mann の南方への憧れの 姿勢を検討する, Mann・を研究する人は誰れでも感ずることであろうが 彼には大変多くの問題が潜んでいる , , そのうちで多 くの研究者がこぞってや っている問題は 「精神」(Ge i t ) と 「生」(Leben) の対立 s か ら生ずる芸術家の 問題であろう. しかし現在ではこのよ うな作品論 作家論な どの研究は出 尽 , くした感があり, 色々な角度 か ら考察が試みられている一方, Mann とイ タリアと言うような論 文はほとん ど見当 らない. 着眼するに当らないと考え られているのであ ろうか しかしともか く , Mann のイ タリア観とおぼしきものが指摘されている数行は読んだ ことがある それによると概 . ね. Mann のイ タ リ ア 像 の 研 究 者 達 の 評 価 は 「トー マ ス ・ マ ンも 兄 と 共 にイ タ リ ア に 遊 ん で , ゲ. ーテやニーチェの生涯に一転期を画 した南欧 紺碧の空をながめたのだが, 美しい男女が美しい犯 罪を演ず る情熱の劇場イ タリアは兄 ハイ ソリッヒのものにしかな らなか った」5 ) とする評価に先 取されるもの と言え る. 例え ば, A.. ) F Lion? 6 ) M Schlappner8 ) W Jens9 E1oesser ) 1 . , . , . . , ,. l o ) H. M. Wo旧1 Di 1 ) な どそ う で あ る r sen, , こ の よ う に 私 の 見 た 所 で は Mann のイ タ リ ア 像 を iv negat. と見る研究者がほとん どであ り, これが一般的評価であると言 ってさしつかえないよう. に 思 え る, で は 数 度 に 及 ぶイ タ リ ア 旅 行 を し, 作 品 に お い て, イ タ リ ア と 言 う テ ー マ を 好 ん で用 い る 現 代. ドイ ツ文学随一の精神作家である Mann に と っ て はイ タ リ ア は negat iv な意味しか呈さな かっ た の か, Mann に と っ てイ タ リ ア は 精 神 確 立 に 及 ぼ す 力 と は な ら な か っ た の か 「ドイ ツ 人 の 文 . 化意識において, イ タリア旅行とは, 彼ら自身とは無縁で厳正な, 緊密な形式に対する憧れを意 2 ) と す る Wendr 味 した」1 iner の 言 葉 は Mann には全く無関係な言葉なのか Mann に南欧系 . の血が流れ ていることはよく知 られている が, 彼の文学の ドイ ツ的性格を強調するあまり そこ , にはほとん ど南方の血統を 暗示する趣 きがないと言う 研究者達の評語 まで我々は聞くのである . -158-.
(3) . .・マンのイ タリア体験 〔1〕 トーマス. しかしな がら, この前述の引用 文や研究者達の評価はあまりに一面的で, 冒険的に思える, Mann のイ タリア旅行も, その地を舞台とした芸荷守作品も定ま った時期だけに限 られたもの でなく, 生 涯通じて存在するものであり, 初期に現われた作品, 旅行などから, 第一印象を固定 的 に 持 し て, それを Mann のイ タリアに対するす べての評価に及ぼすのは許されな いことである, 今, 私 i iv な面も持ち, 快適さをも t が Mann はイ タ リ ア に 対 し て 全 く 背 を 向 け て い る の で は な く, pos 物語る作家であり, 向日性を素質と ,してその文学の中に蔵していると言 ったら, その言葉は非常. に唐突に響くであろうか, しかし私は奇を好んでこう言うのではない,「私の心に最も近い作品」 “ ‘ ‘ ‘Der ” r Tod in Venedig ” ‘ (紅. S .115) Tonio Kroger 以降の自伝 的 色 彩の強い作品 De , tus” の こ の 作 家 の 姿 に は, 特 に Zauberberg,” ” Mario und der Zauberer” “ Doktor 封aus. i i t 第一次世界大戦後の姿には多す ぎるく らいの po これ らの作品 v な面を示している. もちろん● s M で問題となるのは作品に現われた主人公の姿が現実の ann とは必ずしも同一のものではないと 言うことである. しかし我々が作品において究めようとすることは現実の Mann そ の も の で は な く, Mann の中に生きている世界, 作家にと ってより高次な生命である内面の生活 である,. これまでの一般的な Mann のイタリア像の解釈には是正 の要があるのではないか. -- これ がこの試論において提出する私なりの課題である, しかしこの矛盾を解くには精細なデータの調 査と一切の予断を排した熟察を待たねばな らない, 以下, Mann のイ タリア旅行に触れている書 簡, 日記並びに作品中のイタリア人及びイ タリア文化 の扱われ方か ら, この精神作家のイタリア 像をあとずけることにする. 註 ine はドイ ツの息づまるような空気 (特に 恋人 Thl 1) 1827年, He ese の婚約のうわさに絶望 して) から ,. 消えるように, 「享楽するために, ……ミ ュ ンヘ ンの酒飲みとは全くちがう俗人でないイタリア人と共に 恋をしたり, 夢みたり, 悩んだりするためにイ タリア」 (Vg 1 . 舟木重信著, 「詩人ハイネ, 生活と作品」 筑摩書房, 昭和41年, p 1) にやって来た, 彼はイタリアの古代芸術に触れ, その街の生きた庶民の息 ,11 ぷきに触れ, 旅の途中, 彼自身の生 涯に決定的な影響を及ぼす7月革命へ繋がる有名な. 「詩人である以上 に人類解放の戦士である」 ことを確信する政治宣言をする. 「文学はどんなに僕が愛 したと しても, それ は常にただ神聖な玩具か, それとも天国へ入る目的のために浄められた手段にすぎなかった, ……僕は自 分の詩がほめられようとげなされようとほとんど問題にしていない, しか し諸君はひとふりの剣を僕の棺 の上に置いてくれなければならない, なぜなら僕は人類解放戦の勇敢な兵士だっ たからだ」 (vg l , 井上正 ”t i l i 蔵著, 「 ・イネ序説」 se” p ノ en s che Rei a ,131) , 未来社1967 , l 2 ) 生地プラハを若く して出で, ドイ ツ, ロシア, フラ ンス, イ タリアなどを旅 し, 一所不在の生涯を送っ l ke はそれぞれの作品にその蓄積を見せている. 1898年, 1903年-190 た Ri 4年, 19 12年のイ タリア旅行. ‘Di ’ “Neue Gedi i l i ds Br igge’ に よ る新 しい 見聞 は特 に ‘ e Auf ze t chnungen des Ma e Laur cht e” , ,の ‘ ‘S aヒherbs ” “ “ i V d i i G h h b G t l i t t e n e t e n e s c c n o m e e v o によく見られる g, n p . 3 t 88 0年春, Ni e zsche は若き音楽家 Pe )1 t t を連れてヴェニスを訪れる, 「生命力の最低点」 を感 e s r Ga. じた最悪の病状は次第に健康を取り戻 してくる. 今まで滞在したイ タリアの地, ナポリ, ソレントを彼は 愛するようにはなっていなかったが, ヴェニスはは初めから彼を征服 したのであった. 「……ヴェニスは 歓喜で彼の心を一杯に したのである, ……ニーチェに必要であったものは, それはヴェニスであった, し ばしば植物が大雨の後で立直るように, 彼は立ち直った. 急に元気づ き, のびのび して過ぎこ し苦悶の回 l 想に, おのずと微笑するようになった」(vg , 平川祐弘著, 「芸術にあらわれたヴェネチア」 内田鶴圃, “ omb 4) 一 ヴ 彼の愛する 昭和3 7年, p の都市 ivenezia“ (「ヴ ェ ニス 唯 ra d ェニス滞在中制作 した Li ,41 , “ ” ’ ’ ” M a を の 副 題 持 つ E H t の影」) orgenr e , cce omo にイ タリアに関する事柄は豊富である. 4) 第一次世界大戦が勃発 した時, ちょうどスイスを通ってイ タリアへの旅を した Carossa は2度目を1 925 年に, その後1935年から数度のイ タリア旅行を している. 叉1 947年にはイ タリア紀行を集大成 している , 「カロッサにおいてはその力動 (あるひとつの状態に自足せんとする傾向にある時, その反対のものに触 れて, 自己を打破していこうとする) の根源となる原力は南方的なものであったと言うことができる, そ してそれに北方的な思想が結んでいるのである. 南方的なものと北方的なものとの不思議な薄融がこの場 合にも行なわれる. 思想と して, 生命力と して両者は幾重にもからみあっている」 g 1 , 手 塚 富 雄 著, -15 9一.
(4) . 岡. 一. 光. 浩. s 「ドイ ツ近代詩人論」 ) o s a の文学に存する陽的なもの, 異国的なも .264 . Car , 生活社刊, 昭和24年, p のは彼の幼少年時代に顕著であり, これは彼の血液的素質に基づくものである. l 5) vg .125 , , 大修館書店, 昭和37年, p , 佐藤晃一著, 「トーマス・マ ンの世界」 i i s 6) A,B1oe ch とのイタリア旅行を取り上げ, 兄に反 し, Mann はイ ner ser は Ma nn の行なった兄 He s Mann はイ タリアによって誘 タリアに少 しも影響されなかったと し, 次のように言っている. 「Thoma 惑されは しなかった, 彼の性質の点でも, 物語においても, 彼がイ タリアの地にいたことに お い て も」. ’ S Fi ‘Thomas Mann Se l in Lebenundse in Werk’ ). l thur E1 er:‘ (vg s oes ,S ,7 . , ,1925 , . Scher Ver . A1 893年, Mann がリュウベックか 7) F, Li on は Man n がイタリアの郡市と接触を持つようになったのは1. らミ ュ ンヘ ンに移って, この最も南方的な ドイ ツの地に住むようになったからだと し, 「彼は南国イ タリ アのどこにおいても, ただ通りすがりの客であり, 本質的にはもはやそこには絶対的に不変な故郷を得る “ 1 こ とはなかった」 と言う. g nn Leben und Werk,” ○precht VerL, , Fe・dinand Lion: Thomas Ma. 1947 ,8) ,S 8) 「Thomas Ma nn は南欧で, イ タリアで決 して内的関係を得ることはできない. 北方人である彼は全く i t tur 1 l i sche Li era ef ranzas t appner: ”Thomas Mann und di n Schl 内にこもって生活 した」 g . Ma S S l i Das Prob 1 9 1 5 l 5 0 ) s a r o u a em der D6ecadence’ , , , , ’”Der Todin Venedig’ “Mar i o und der Za e ube r r” を取り上げ, 南 9) W Jensは ”Tonio Kr6ger/ ,. , i t v であるこ 国と北国の関係を現在の ドイツの東と西が演じていると し, ドイツ人にとって南欧は nega ”Der Got in Di Th d h i d D t b W t J i e oma s Mann c t r u n s e e r e e e r e n s : a とを暗示 している, (vgl , i ike in:“Sta ) turgeschi t t e′ Neske Ver cht teiner Li era i und di e We tder Ant ,S ,168 , , ,1962 10) 1 r sen は Ma nn がイタリア旅行を したのはそこが南国であるからでなく, ドイ ツに椅子が無かった . Di i bens からだとする し己 s s” の言葉を引用 して, Mann にイ タリアに対する憧れがなかったことを示 し abr. ’ Rat in l t en & Loening l er suchungen zu Thomas Mann’ sen: “Unt て い る. (vg r , ,1965 ,Ber , ,lnge Di S 8 ) ,,. 11 ) 「Thoma s Mann の習作はイ タリアでのかなり長い滞在によっても妨げられることはなかった, なぜな ら彼は南国の誘惑的な美に的 して拒絶的な態度を取っていたから. イタリア時代の諸作品において南国の ”: “Thoma l l (vg s Mann Werk und L 影響が見当らないのはそれを示すものである」. . M, Wo , Hans . i Bekenntn く e ver s′ Frani .s .12) リ Bern.1957. , f i k derGot t i i ta t erpre l l t es erne一Ei nelnt on Thomas Mannsノ ner:” Mys ersberg-Wendr 12 ) vgi . Anna He . Francke ver . . ,70 ,1960 ,S. 本. 論. 膨/ I . . sma故 ″の 支 配 が 最 高 と な る 頃, Mann は リ ュ ウ ベ ッ ク の あ る 豊 か な 商 1875年, ドイ ツ で は Bi. 家に堅実で, まじめな典型的な北 ドイ ツ人である父と, ポルトガル系の母の間に次男として生ま ” i 6ge r“ o Kr れた. 彼は幼年時代所謂, お坊ち ゃん育ちで幸 福であ ったが, 少年時代は, Ton i の Ton o 少年に見 られるように特別な学校嫌いで, 最後まで要求きれた課題を満足にや らず, I ) と軽視するような子供であ った. しかし文 学校というものを 「止むを得ざる境遇」 (X .S .99 ら現われていたのであ 学 に携わる生活をしたいという熱望は早くか った. 「……すでにこの (学校生活) 時代か ら早く世上の教育家の精神, 訓練, 教授法等に対して, 一種の文学的反抗運動 をや っていたのである」(X I .S .99) . 「私の創作は子供 っぽい戯曲によ って 始ま った, それ らはいつも弟妹達と 一緒に実演したもので, 見物客は 両親や伯母達であ った」 な (X I .99) .S . 「私が始めて小説 らしい習作を書いたのは……二年後の時に私より上級の革命的 “ とい う実 業 学 校 に は ち ょ と ‘ ‘ l Fmh D i t n s u s r m ていた r e g 思想を持 った生徒達と一緒にや っ っ 00) I 不似合な学生雑誌で, 私は主として哲学的な論説家として認め られていたのだ った」(X .S .1 . ) いたこともあ I しかしなが ら中学人学の時, すでに 「商人に成るものと決め られて」(X .S ,99 って, 彼の詩作はなかなか思うように進まなか ったようであるが,「もちろん私自身でさえお先真 晴の運命であ ったが, かと言 って自分の見識と健康とに自信を 持たなくはない私だ ったか ら, そ 0- -16.
(5) . トーマス・マンのイタリア体験 〔1〕. 1 01 のような未来への不確かさに打負かされてしまうな どということはなか った」 (X ) ので ,S .1 あ る.. こうした何物にも換えがたい彼の詩作への願いは 「自分で満足する だ け の 学 業 課程を終え」 (X f l 1 01)た後の無給社員時代にも挫折することなく,むしろ結晶として処女作 ”Ge l a en” ,S ,1 を生んだのであった, これは彼に最初の文学的収穫をもた らした作品であるが, 新しい世界に, l l f いわば一個の独立人として足を踏み人れようとする彼の願望は 「小生はただ今, Ge t誌 e s s cha l en” を 読 み, 直 ち に も う 一 度 妻 に も 読 ん で 聞 か せ ま し に掲載された貴下の素晴しい短篇 ”Gefal. た, 小生は小生が受けたこの感動と歓喜とを貴下にお 告げせずにはい られません, 今はひとつの 1 ) 体験を単純な精神のあふれた散文の形式に表現し得る詩人という者は 非常に少ないのですか ら」 d h D l h と い う Ri の好意に満ちた励ましの手紙によ a r c e me って増々強固なものとな った, 彼は 「会社勤めを最初か ら一時の腰かけくらいにしか思 っていなか ったので, 自然一年ばかりのうち に辞め」 (紅,S 02 ) 筆一本で立つ決心をして, 本当の 「自由を取りもどすことが出来た」(X 1 .1 , S , 102) ので あ っ た,. 註 ‘Thomas Mann 1n se ” Rowohr 1 l I 1) Vg ddokument bs l i er: ‘ t en, zeugun s sen und Bi , Kraus schrbt Ver S l 4 1 9 6 1 5 8 , , ,. 2 最初 の. Mann イ タリア旅行は18 ) や っと20才に 95年7月か ら1 0月までに行なわれたらしい, 1. ich と 「… …イ タ リ ア に, ロ ー マ や そ の 近 郊 に 滞 在 し て い ったばかりの青年 Mann は 兄 Heinr た. 暑 い 数 ヶ月 を 山 の 中 で 暮 し, 9月 の 末 に ロ ー マ の町 の 中 へ 帰 っ て き た」 (皿.S ,53) ので あ る, そ の 後 Mann は ミ ュ ンヘ ンに 帰 っ て 来 て, 元 の 自 由 放 縦 な 芸 術 家 文 士 ボ ヘ ミ ア ンと し て 生. 活していたのであるが, 再び当時イタリアの地を踏んでいた兄から招 きの知 らせがや って来た, i 「後年, 重要な小説家として非常な名声 を博した4才年長の兄 He i nr ch は当時まだ私 と同じよ うに望みを明日にかけつつローマに滞在していた. そして兄は自分の所へ来るように私に手紙を 送 っ て 来 た」 (X1 ,S , 103) Mann は 翌年10月, 一 年 半 のイ タ リ ア 旅 行 に 出 発 し た 彼 は ミ ュ ンヘ ンか らま ず ヴ ェ ニ ス へ 行 , き, こ の 地 で 約 3 週 間 滞 在 し, そ し て 船 で ア ンコ ナ ヘ, そ こ か らロ ー マ を 経 由 し て ナ ポ リ へ や っ. ) この地で友人にあてた彼の手紙には初めて見た南方に対する喜びが見 られる 「私はこ 2 てくる, . の地で S.Lucia 通 り の28口 に と ま っ て い る, こ こ は 家 賃 が 非 常 に 高 い け れ ど も, 海 と ヴ ェ ス ビア ス 火山 の見える非常に見晴らしの良い所です. この地を私は非常に気持ち良く感じている. 今初 ) め て 私 は 南 方 へ来 た の だ と 言 う 感 じ が す る3 ) 」. 12月4 , 彼 は ナ ポ リ か ら兄 の い るロ ー マ へ や っ て 来 る, そ し て こ こ で 翌 年 の 春 の 終 る ま で 兄 と 一 緒 に, パ ンテ オ ンの 近 く の Via di e Torre Argen- t ina の Nr 34の 4 階 の 「石 の 床 と ワ ラ の 椅 子 を 持 っ た 住 居」 (xl S 1 0 , . 3) で 生 活 す る の で あ ’ にはこ ) “Lebensabiss’ る5 の 当 時 の 模 様 を 次 の よ う に 言 っ て い る. 「ロ ー マ で は 小 さ な 料 理 屋 ,. の月 決 め 客 だ っ た, ゲ ソッ ア ノ と 言 う 屋 号 の甘 い ぶ ど う 酒 と 素 晴 し い コ ロ ッ ケ ・ デイ ・ ポ ル ロ を 食 べ さ せ る 店 だ っ た が, … … 夜 は別 の あ る カ フ ェ で ドミ ノ に 興 じ, ポ ンス を 飲 ん だ. 兄 も 私 も 誰. にも交際を求めなか った, ドイ ツ語の話声を聞くといち早く逃げだした」 (X 3) 1 ,S ,10 , 「最初 画家で身を立てる気でいた兄はその頃しきりに絵を描き, 私は叉, 3センテシモの安煙草をやた らに ふ か し, そ の 濠 々 と した 煙 の 中 で ス カ ン デ ィ ナ ビア 文 学 と ロ シ ア 文 学 を う の み に し た り, 書 1- -16.
(6) . 岡. 光. 一. 浩. )」 ( X I い た り し てい た6 .S , 104) ,.. ローマで彼はこのような静かな生活を送り, 人一倍創作に励み, ミュ ンヘ ン滞在の頃脱稿 した. ’ 誌 に 送 た ので あ ’ を ‘ ‘Neue deutsche Rund ine Herr Friedemann’ schau’ 小 説 ”Der kl e っ っ sche Rundschau” 誌 た 翌年この短篇小説はフィ ッ シャー 書房から発表された 「”Neue deut. .. .. i の 主 幹 osker B e がこれについて嬉しい手紙をくれ, 書きためてある原稿を全部出版社へ送る よ う に 進 め て く れ た」 (紅. S . 104) と Nann 自 身 述 べ て い る よ う に, 彼 は こ れ か ら後 osker ine Nerr Friedemann ” の準備に励むので Bie の要請に力を得て, さ らに短篇小説集 ”De r kle l der あ た 1 89 7年初頭には彼らは共同で風刺的な詩 風刺画 空想な どを織 り込んだ作品 “Bi. っ ,. ,. ,. ) bnch f”r artige Kinder“ を生み出し, お どけてこ の作品を2人の妹弟に捧げたのである7 . しかしローマにおいて彼ら兄弟 は家族史を書きたいと言う考えを持ち, 実際よく話題に上 った ) つ ま り こ れ が ”Buddenbrooks” の制′ 作につなが っ と Viktor Mann は 回 想 記 で 述 べ て い る8 . I Fischer の たのであるが, この長篇小説を書く直接のき っかけとな ったものは出版社主 Samue Maun にあてた5月2 9日付の手紙であ った. 「あなたのも っと大きな散文作品, 多分長いものでな )」 ”Buddenbrooks” は く と も, ロ マ ー ソを 出 版 す る 機 会 を 与 え て 下 さ る と 嬉 しい の で す が … …9 , derbuch fnr ar ige Kinder” 同 様, 兄 弟 2 人 の 手 に よ る も の と 計 画 さ れ て い た よ う l t 最 初 ”Bi. であるが, この計画 は成功しなく, 完全に Mann 一 人 の 手 に よ る 作 品 と な っ た の で あ る. こ の こ i i とは兄 He nr ch の次の言 葉から納得出来る. 「私が自分に名誉を与えることを許されるとすれ ば, ただ単に同 じ家の息子として私 もこの有名 な本に関りを持ったと言うにすぎない. この息子 も与え られた素材に何かの寄与をなすことが出来た訳である. ただし本質的なもの, アイ ディ ア o )」 そのものは作者その人にのみ属するのであったl . 1897年 夏=), 彼 ら兄 弟 は 涼 を 求 め て, ロ ー マ か ら南 へ30km人 っ た 所 に あ る・作 曲 家 の 生 誕 の 地 パ レス トリ ー ナ に 向 っ た. 「私 は 旅 立 っ た.. そ し て 我 々 2人は灼熱のイタリアの夏の長い期間を,. 余 り ドイ ツ 人 の 行 か な い サ ビー ニ 山 の 田 舎 町 パ レス トリ ー ナ に 滞 在 す る こ と と な っ た,. ここは楽. 1 2 ) 聖 の 誕 生 の 地 で あ る」 (xl ,S ,103) . こ こ に 到 着 し た の は 7月 の 第 2 週 の 中 日 の こ と で あ っ た ’ に お い て 悪 魔と芸 術 家 と の契 約 の地 とな てい るマ tus’ 彼 は パ レス トリ ー ナ で, ”Doktor Faus っ. ナルディ 荘, すなわち彼ら2人の宿 である石の床を持ち, 広い2階の客間のある ベルナルディ ニ ‘Buddenbrooks“ の準備をしたのであ た1 ) 荘 で こ のロ マ ー ン ‘ っ 3 , 「いくつかの前仕事を熱中して ” ” や っ た 後, す で に パ レス トリ ー ナ で 私 は Buddenbrooks を 書 き 始 め て い た. こ の 様 な 企 て の 実. 際的な見込みなど大した自 信もおいてはい なか ったけれ ども, 私の生来の緩慢さから来る一種 の 粘り強 さとおそらくは抑制された 神経質と 呼んだ方がず っ と 正しいであろう一種のルウ ズさと, dni は 寡 婦 こ の 2 つ のお 蔭 で … … こ の 小 説 を 書 き 続 け た」 (紅.S.104) . 兄 弟 の 宿 Casa Bernar i 1 ) の 管 理 で, 「こ の 旅 館 は 広 場 と ドー ム か ら礼拝堂 のある 山 の 4 ina とな った女主人 Signora Past Thomas Mann, Poeta di Monaco と記人された宿帳はな ” がイ タ リ ア 語 に 翻訳 され た 後 こ の石 段 道 は ‘ お そ こ に 残 っ て い る, ロ マ ー ン ‘Buddenbrooks , ) 5 」 a Thomas Mann と 名 ず け られ た1 名にな た詩人を尊敬する意味で Vi. 頂きに 通 じる石 段 道 の そ ば に あ っ た, その間に世界的に有. っ. l i ta en“ にある. 叉彼は Mann のイ タ リ ア で の 生 l ll ud‘ の ” Thomas Manni I Br と Max vol ” 6 ) tus か ら 推 測 出 来 る と し て い る1 活 を “Dok[or Faus . 同年秋, 涼しくなると兄弟は再 びローマに帰 って来て, 再び以前の Via die Torre Argentina. 7 ) Nr34 の4階に家に住み, 2度目の冬を過 ごした のであった1 . 「灼熱の南風が雪をはらんだ北 ina 街 さ に 寄 寓 し た, Torre Argent し 婦 の 家 い 人 の 暴 風 と 交 替 す る 冬 は ロ ー マ に 戻 っ て, あ る や -162-.
(7) . トーマス・マンのイタリア体験 〔1〕 ”Lebensabi の石 の 床 と ワ ラ の 椅 子 を 持 っ た 住 居 で あ る」 (X1 ss” に あ る よ う に, こ ,S ,103) と ‘Buddenbrooks” を 8 ) 彼 自 身, 「私 は ‘ の 時 の 生 活 も 以 前 の ロ ー マ で の 生 活 と 同 じも の で あ ろ う1 , l 書き始めた時, ロ ー マ の Via Torre Argentina の 4 階 に い た」 (×.S,10) と 論 文 ”Bi se und i ch” に お い て言 う よ う に, こ の 冬 の ロ ー マ で 彼 は ロ マ ー ソ “Buddenbrooks” を 実 際 に 書 き 始 め た の だ っ た, つ ま り清 書 に か か っ た の で あ る.. こ の ロ マ ー ソ の 最 初 の 日 付 は1897年10月 未 日 で. 9 ) / あるが, 翌年2月10日には第3章の終りまで書かれ, 現在の分量の約1 6まで進んでいた1 , その ノ “ が発刊され ” D F d k l i i H 一年以上かか e r r e ema n n ene err 年の春には って短篇小説集 , 彼は 「ロ 0 ーマの書店の店頭で自分の姿を見ることが出来た」(紅,S .104) のであ った, そして4月末日2 に は 彼 は ”Buddenbrooks“ の ふ く れ あ が っ た 原 稿 を 持 っ て, ミ ュ ヘ ソに 帰 っ た の で あ る.. 189 6年10月 から1898年4月までの一年半のイタリア旅行をした Mann は33年 後 に な っ て. 自 伝 ”Lebensabi ss“ に 当 時 を 次 の よ う に 書 い てい る.. 「少なくとも, 私がこの都に滞在したのはそれが 南国であるという理由からではなかった, 元 来, 私は南国とい うものを好かないので, むしろ単純に故郷にはまだ私の椅子がなか ったからに 3) すぎない」(紅,S ,10 , M この文章は ann 自身のイタリアに対する気持を卒直に述べたものであろうが, このイタリア 滞在から感ずるに, この文章の中には彼の一種の虚栄を感ぜざるを得ない, むしろ当時の気持は 同じこの自伝において後に述べられている次の文章から読み取るのが妥当に思える. 「私はこの古い都会が与えてくれる色々の歴史的な, 審美的な印象を素直に受け入れは したが, 決してそのようなものが私の専門に属する事象であり, 従って直接私自身への促進力となり得る であろうなどと考えたからでは毛頭なかった. 私にとっては ヴァチカ ンの古代彫塑の方が ルネッ サ ンス の 絵画 以 上 に 心 に 打 た れ る も の で あ っ た」 (XI .S.103) . この 文 章 の よ う に 彼 はイ タ リ ア 的 な も の を 受 け 入 れ, “Jnngs te Ger i cht“ に大変感動 したの. である. しかし決してイ タリア的なものが彼の精神の奥深く入り込むということはなかったよう である, 南国にいても北 方精神に没入する彼であ った, 「石の床とワラの椅子を持 った住居」で, 彼は南方精神を否定し, 誰とも交際を求めず, イタリ ア的なものに対して閉鎖的な行動をするの である, ち ょ うどイ タリア人の服装をし, イタリア語を話すだ けでなく, イタリア人の身ぶりま でも学んで南欧人から旅人とは思われないようにした Goethe とは全く正反対の生活だ った, い わ ゆ る Mann は こ の 一 年 半 に 及 ぶイ タ リ ア 滞 在 中, 北 方 精 神 に ひ た り, 北 ドイ ツ の 故 郷 リ ュ ウ ベ ッ ク を 舞 台 と す る ドイ ツ 的 な 小 説 “Buddenbrooks” の 構 想 を 練 り, 書 き 始 め た の だ っ た, こ i の 点 に お い て も Mann のイタリアに対する姿勢は negat v な も の と 言 え る.. 註 i ÷ot ik se ines Lebens” to Mayer 1) vgl n und Hans : ” Thomas Mann Eine Chron . Hans Barg . ,S Fi l s cher ver , ,16 , ,1965 ,S. ” i i ka Mann 2 l e1889-1936” ef scher Ver ) vgl sg , Thomas Mann: Br .von Er , Fi ,1961 ,7 , , Her ,S ,S. d, 3) vg l i ,lb ‘Thomas Mann Eine Chronik se 4) Vg 1 ÷ { ) ine ヒ t o Mayer:‘ s Lebens“ , 日ans Bargin und Hans ,a , ,a 0リ S M 1 6 しか し B a k は 1 8 9 6 年秋ロー 着と しており この旅行を最初のイタリア滞在と a xv r c マ到 , , , , ” ’ in: Merkur XVm Jahrg He i して い る. ( l vg en’ 七 , Max von Brack: Thomas Mann in ltal , , , f i S J 9 6 4 5 3 6 ) . , un l , , 7 “ a a ○ S 45 5) vgl er;”Thomas Mann, aus Schr6t , K1 , . . , , , 【 i Vi kt i i S t i d l ann:”斬J r waren f or M tang nf” v er . Kons .46 , , ,1949 ,S ’a a ○ in und Hans‐ot Hans Burg [ ines Lebens’ k se to M1 i ayer:“Thomas M ann Bine CI ron 1 , . . . ,. -163-.
(8) . 岡. 一. 光. 浩. S .16 . ’ in ina’ i:“Thomas Ma Kar e neue Rundschau I Kdreny nn undder Teufelin Palestr . .jahrg ,73 , : Di S f 3 3 4 1962 . , .. i i 6) Max v l l a pammi の公園を楽 しく散歩した こ と を a Do r . Brack は 2人の兄弟が晴れた日々 V. “Dokt or Fausms” から推測 している, 「ここで彼らは暖かい春や秋の日に, 時々牝牛や放 し飼いの馬 が水を飲みに来る美 しい形の泉のそばで仕事に没頭 した. …… ピアッア・コロナの市音楽堂で行なわれる 午後の演奏会にはほとんど欠かさずに出 かけた. 時には晩はオペラの時間にあてられたが, 普通はコ←ヒ l 1 な g ー店の静かな片隅で熱いオレンジ・ポ ンチのコップを前にドミノ遊びを していた」 ( . ,S . 291) . (v i ○ S 5 3 8 Max v.Brack:“Thomas Mannin ltal ) en” a a . . , , , , , ’ a a ○ S 49) 7) vgt r waren fanf’ nn:”Wi . Viktor Ma , . . . , , .. l bi d 8) vg ,l . l 9) vg er:”Thomas Mann“ aus schrbt . . ○, S .46 , Kー ,a ,a l d S 10) vg b i l 4 , , .5. ’ a a i 11) vgl to Mayer:”Thomas Mann Eine Chronik se nes Lebens’ , . , . Hans Burgin und Hans‐ot ○. .17 , ,S H B日rgin und i I Ker eny 12 ) vgl er:“Thomas Mann” aus Schr6t . K1 , 0. ,48 , 同 様 Kar ,a , ans ,S ,a Hans-ot IScherrer に よ ると 5月末には to Mayer もパレス トリーナ到着は1 897年夏と しているが, Pau ” ackederBuddenbrooks‐ t すでに Mann はパ レス トリ ーナで過 している. g1 .PauIScherrer: Bruchs ’ ’ Urhandschr i f D i h i i 1 : h E 1 9 ‐ 1 0 t und Zeugni l 8 7 8 t t el e u e Rundschau 69 s se zu rer nse ung , . .Jahr ,n S 1958 2 9 5 ) , , . ’ a a ○ S 48 13 ) vgl r6t er:”Thomas Mann’ . Kraus sd・ , . . . , . . d 14) vg l l b i , . ina“ Kar I Kereny i:”Thomas 製[ lin pa l t e es r ann und der Teuf . ,337 .a , o. ,S ,a f 15 i ) vgl en r a x v. Bruck:“Thomas Mannin ltal . .a . ○. ,538 . Ma ,S. 16 b l d i ) vg .l . n令えびえと した陰になっている部屋, 家族の居間, 大きな煙出 しが附いて炊事用の銅 器, 料 理鍋, 深皿, 平皿, スープ皿, 乳鉢, お伽話めいた杓子のある感情を害するような台所」.「……ローマ型 の堂々たる婦人で上層が弓形で, 髪はそれほど褐色ではなく栗褐色だった. 眼はやさ しく, 銀髪のまじっ た頭をなめらかに しっかりと引きしめ, 田舎の人らしく素朴で働き者に見え, 均整のとれた豊かな体つき を した」 宿の女主人. (晒,S ) . .282 ’aa i in und Hans‐ot nes Lebens’ to Mayer:”Thomas Mann Ei ne Chronik se 17 ) vgl , . , , Hans Barg 0, . ,17 ,S. i b 18) Thomas Mann は “Lebensa s” において年月日を附 していない. そのため我々の記述は不明係に r s ならざるを得ない. 19 aus Schr6ter:”Thomas Mann” ) vgl ,55 , , K1 .a . ○. ,S ,a ‘ ・Thomas Mann Bi k se ines Lebens”,a o i H M i H d B a - t ne Chron t n e : s 2 0 u a s o a r a n n n r ) vgl g y , 0, .a , . S .17. 3 ) この 旅 は 当時 190 1年5 月, Mann は ミ ュ ンヘ ン か らフ ロ ー レ ンス, ヴ ェ ニ ス へ の 旅 に 出 る1 , フ ロ ー レ ンス に い た 兄 He inr i ch を 頼 り に 行 な う 計 画 で あ っ た が, 5 月 に. Mann が フ ロ ー レ ン. スに着いた時, 兄が不在であ ったため, 彼はある寄宿舎を利用 せねばならなか った, 彼はこの寄 宿で同宿していた英国生まれの姉妹と友好があ った らしく, 自伝には次のように書 い て い る. 「……同宿していたイ ギリス生まれの姉妹と親しい交際を結んだおり, 暗色の髪を持 っ た 姉 の 方へは共感的な心持ちを持ち, ブp ソドの妹には 魅力的なものを感じた の で あ る. 妹 の 名 は Mary だ っ た か, Mol ly だ ったか忘れたが, 私の心持ちに応じてくれたので極めて隠微な交渉が 発 展 して く る と 共 に, 2 人 の 間 に は 結 婚 と い う 問 題 も お こ っ て き た」 (×{ ,S ,117) . 6 月, 彼 は ミ ュ ンヘ ンに 帰 っ て く る が, 再 び 7 月 に イ タ リ ア を 訪 ず れ, Goethe もその美に十分魅力されたガ l la Cr i t ル タ 湖 の ほ と り の リ バ の 別 荘 Vi oforo に 滞 在 す る. 翌 年 5 月 に も 彼 は こ こ を 訪 ね て い s る, -164-.
(9) . トーマス・マンのイ タリア体験 〔1〕. r この3 度の旅行はす べて一ヶ月にも満たない旅行であり, 彼はただの 「通りすが りの客」 (de t vornbergehende Ga ) にすぎなか ったようである, ただ上述の自伝にあるように, 女性との問 s 題など全く是としない彼がある娘との結婚についてふれているのは面白い. しかし結婚の約束し た女性の名前も忘れるとはこの話はあまり信用できない. この 間 に 当時の 彼 のイ タ リ ア に 対 す る姿 デンマークへ旅する青年を主人公とする ”Tonio Krbgr”. こ の 後 彼 は1907年 ま でイ タ リ ア を 訪 ず れ て い な い が,. 勢を規定できる作品,イタリアを嫌い, 3) が生まれる. 「私の心に最も近い作品」 であるこの小説において, ドイ ツでは倫理性が ( 190 美に, イタリアでは美が倫理性に優越 し, 倫理性と美は対立するものだと彼は言う, それ故全く と い っ て ほ ど ドイ ツ 的 人 間 で あ る Mann に と っ て は 美 の 国 イ タ リ ア は 全 く negativ な存在なの で あ る, 鋳る理 解, dBγ sa cルメ” 〆海 産“〃“ ▽”γ”“ である Tonio は女友達に次のように言う, ta さ ん, イ タ リ ア な ん か ど う だ っ 「と ん で も な い, 真 平 御 免 で す よ, イ タ リ ア な ん か, Li sawe. ていい, 軽蔑したくなるくらいです, 自分の領分はイタリアにあるなんて愚かしくも思いこんで いたのはひと昔前の話です, 芸術, とこうでしょ う. ビロー ドのような碧い空, 熱い酒, 甘美な l l e z za)はすべて私 官能……要するにそんなものは願い下げです. 諦らめますよ. そうい った美(be を焦立たせるんです. それからまた, あそこに住んでいる黒い動物みたいな眼つきのやりきれな い程元気のいい手合にも我慢がなりません. あのラテン人種の眼の中には良心というものがない. … … ち が い ま す … …」, (孤,S .305) , Mann はイタリアには美があ るから, 良心が無いから嫌い だと Tonio の 口 を 借 り て 言 っ て い る. Tonio は Mann の 作 品 に あ っ て, 初 め てイ タ リ ア の 「美」 を示 し, それが持り誘惑的な危険を見 抜き, 北方と南方が対立することを知 っている最初の人物 et の 国 デ ンマ で あ る. だ か ら Tonio は 好 き に な れ な い 「美」 の 国イ タ リ ア に 背 を 向 け て, Haml. ークへ旅立つのである. やましい, うさん臭い芸術にたずさわる芸術家である若き Mann に あ っ て, 「美」 と 「良心」 は対立するもので, 「美」 は嫌悪をもよお すものであることは次の文章では っきりする, 「私にと って 「美」 が大切なものであ ったことは一度もない, 「美」 は私にと ってイ タリア人用のもの, 根本において ドイツ的なものでなかった, わけても芸術的な ドイ ツ市民性の 関心事でなく趣味で なかった. この世界では倫理的なものが美的なものに 優越 している」(組,. ” ”Ni l e unserer Erfahrung に お い て S ein Licht osophi et zsches Phi .106f) , こ こに Mann が. 言う倫理と美の対立が生じる. 「本当は生と道徳は同種のものである. 倫理学は生を支持するも のである, 道徳的人間とは正しい生命の荷い手である. 幾分退屈であるが, 非常に有用 な人間で f ) ある, 本当の対立は倫 理学と美学である」(区.S ,696 , 北方人であり, 耽美家でなく, 倫理性 を 重 ん じ るモ ラ リ ス トで あ る Mann はイ タ リ ア 貴 族 で, ル ネ ッ サ ンス 復 興 を 試 み る 善 に も 悪 に i a を嫌うのも 当然と言える, 「私はこの人生 を 愛 し ま rg も 強 い ルネ ッ サ ンス 的 人 間 Cesare Bo す, … … Cesare Borgia だ と か,. 叉 こ の 男 を か つ ぎ あ げ て い る どこ か の 酔 っ ぱ らい の 哲 学 の こ. となん ぞ考えないで下 さい, そんな男なん ぞ私には3女の値打ちもありはしない ん で す, 私 は i Cesare Bo a なんか全然尊敬しま せん. それにね, どういうわけで世間の人が非凡な魔力的な rg ものを理想として崇める気になるのか私には永久に合点がゆかないでしょう」 (皿, S . 302) , こ iv を示す. 「決して南方的ならざる, このき の よ う に Mann の イ タ リ ア に 対 す る 姿 勢 は negat び しい 魂の 故 郷 で 常 に あ る と こ ろ の … … あ のコヒドイ ツ 的, 市 民 的, デ ュ ラ ー 的, モ ラ リ ス ト的 領 「 タ 域」 (棚.S ,146) の 人 間 で あ る Mann の 倫 理 性 が イ タ リ ア の 持 つ 美」 と 対 立 し, 常 にイ リ iv な姿勢を提供するのである ア に negat ,. -i65-.
(10) . 岡. 光. 一. 浩. 註 ineS Lebens“ to Mayer:”Thomas Mann Bi 1 ) vg1 ne chromkse . 日ans Bdrginund Hans-ot ,a ,Q, ,a S ,22 i f 2) v郡, Thomas Mann:”Br e e 1889‐1936“ ,a , 0, .30 ,S ,a. 1907年 7 月, Mann は 久 し ぶ り にイ タ リ ア の 地,ヴ ェ ニ ス の リ ド訪 れ る こ の 年 は “Fiorenza” .. 初演の年で, 彼自身, ここで水遊びを し, 自分の心に海が しっ かりと結び込まれた ことを Hi l de 1 ) Pi l t べ あ て の 手 紙 で 述 て い る . こ の 後, 1909年 春, リ ポ ル ノ, 1911年 5 月 se , ヴ ェ ニ ス を訪 ‐ d “ れ る. 彼 は この ヴ ェ ニ ス に 一 週 間 滞 在 し, “Der Todin V i ene g の構想を練 ったのであ った, 「妻と私は5月の一部分を曽遊の地リ ドで遇 した, 種々の方面 からの奇妙な事情やおかしな印象 が集 ってくると, 何かこう新 しい世界を人知れずのぞ かれたような気持になり 自然 創作的な , , 観 念 が 起 こ っ て く る も の だ が, ”Der Toゴin venedig“ は こ う した 観 念 の 具 体 化 し た 小 説 で あ. る,これは他の計画同様極めてのんきな意図のも とに書いたもので,いわば一気に書き上げた即興 詩 で あ り, 前 の ペ テ ン師 ク ル ル の 添 え 物 と 考 え て も よ い し, ま た 材 料 な り 分 量 な りが S impl i- ,. 誌に格好な話であろうと言う考えもあ ったのである. だが世界の事象と言うもの は各自 独特の意欲を持 って おり, それによ ってひ とつひとつの形を作りあげるものである」(淵.S 3) .12 .. lmus clss. こ の ヴ ェ ニ ス 滞 在 時 の 創 作 的 観 念 は1913年, 中 編 小 説 ”Der Tod in Veredig” と して 完 成. を見る. イタリア的なものを 「受け入れは したが, ……決してそのようなものが私の専門に属す る事象であり, 従 って直接私自身への促進力となり得るであろうな どと考えたからでなく……」 と言う Mann のこれまでのイ タリアに対する閉 鎖的な姿勢は崩れ, イタリアは彼の 「専門に属 する事象」 とな ったのである. この小説において, 彼は芸術家の内面性 精神性 人間性を描き , , , その芸術家の精神の中にある倫理的なものと美的なものとは 普通対立的均衝関係 にあるものであ るが, ここでは美的なものが倫理的なものに優越してい ると言う つまり彼はここで倫理的な ド , イ ツ芸術家が 「美」 に入り込んだために起こる破滅を物語 るのである 倫理的な芸術家が 「美と . 死, 形式と頒廃, ……南と北な どの融 合的存在, ア ンチテーゼの象徴2 ) 」 ヴェニスに没入した ら,. どの よ う に な る か を 主 人 公 Aschenbach の 運 命 に 物 語 っ て い るの で あ る も ち ろ ん 結 末 に ,. 主人公の破 滅が存在することは小説の冒頭の死の臭いからも明 らかであるが , 彼はこの破滅をイ タ リ ア の 「美」 あ る が 故 の 破 滅 と し て い る. Mann は 北 方 人 が イ タ リ ア に 入 り 込 む こ と は そ の. 「美」 によ って破滅に落ち入 り, 自分の 精神にとって, 芸術にとって悪影響を及 ぼ す と 説く , しかしこの小 説から見るに以前のよ うなイタリアに対する閉鎖的な考えは緩和され, イタリア への興味, わずかな衝動は Mann 自身に現われて きたと考え られる, 私は断定を急がず, 主人 公 の 主 な る面 を あ り の ま ま に 見 て ゆ く こ と に した い “Der Tod in Vened ig“ は こ の 南 方 に 対 す . る Mann の気持を主人公の姿を借りて感 銘的な筆致で述 べている ,. chenbach に 「飛び立ちたいような一種の不安, 若々しく遠い国を烈 しく憧れる気 主人公 As 持」 (l m 4 6)が生き生きとよみ返ってきたのは 「……遁走の衝動だった. --創作からの凝 ,S ‐4 然 と 冷い, そ して情熱的な勤行が支配している毎日毎日の 仕事か らの離脱の 衝 動 だ っ た」(W I . S ・ 1 に も こ の 「遠 く の も の, 新 しい も の へ の 憧 れ, 解 放 と 解 任 と 忘 却 と へ の . 448) の 如 く, Man 渇 望」 (wl ,S . 448) は 遁 走 の 衝 動 と して 働 き, 彼 を 南 国 イ タ リ ア の ヴ ェ ニ ス へ と 走 らせ た の で あ -166-.
(11) . トーマス・マンのイタリア体験 〔1〕. 0才の誕生日に貴族の称号を与えられ, っ た, Aschenbach は妻に死なれ, 一人娘 は人妻となり, 5 自分の著書が国語の教科書に使われ, 名声を目標とし, d“γ臨みαZ Z B” することをモッ トーとす る芸術家である. 「剣や槍で身体を刺しぬかれているのに, 平然として誇らかな叢恥のうち に歯 を く い しを っている」 (皿,S 53) ような英雄的で, 「生」 に全く関係のない孤独な芸術家はイ ,4. タリアという「美」 の乱舞する 「生」 の領域では住めないものである 「生」 への執着がただ名声 , にだけあるような この主人公が 「生」 に憧れて, 「生」 に近ずくのは全く死に入って行く よ う な も ので あ る, そ して こ の破 滅 の 地 ヴ ェ ニ ス で Aschenbach は 「ギ リ シ ャ 芸 術 最 盛 期 の 彫 刻 作 品. を想わせる」(皿,S 9 9 ) ポーラ ンドの美少年 に心を奪われる, この点において倫 理性と美は真 .4 向 う か ら対 立 を 示 し, Aschenbach の心に葛藤が起こる 「美はただ意志の生へのある向上や感ず . る者の精神や徳だけでなく, 特に死への誘惑, みだ らなものへの下降 狂暴への誘いの場 合が多 , ) ’ で も ヴ ニ ス の 持 つ 「美」 は い3 」 と M. Schl appner も 言 う よ う に, ”De r Todin Venedig’ ェ. 誘惑的で, 危険なものとして働く, 「P 1 t a on と共に美によ って最高の生へと誘惑されるばかりで なく, 同時に, 神秘的にも同時に美を死への誘惑の意味にとらざるを 得ない人4 ) 」 である Mann は死に至る決定的要素として, ヴェ ニスの持つ 「美」 を選び出すのである . 「As chenba ch の眼はそこの海辺 に立つ高貴な立像を 抱き取 った. そして抑え がたい焼惚感の うちに, 彼はこの注視によ って美そのものを, 神の思想としての形式を , 精神の中に生きている 唯一の, そして純粋の完全さを--把握しえたと信じた これは陶酔であ った」(皿.S 90) .4 . , As chenbach は美少年を憧影 し, 熱狂し, 陶酔に落ちてゆく。 このためこの倫理的な芸術家に と っ て は,.「美」 は Phaidros よ, 美 の み が 愛 す る に 足 る も の で あ る と 同 時 に , こ の眼にはは っ. きり見えるものなのだ. よく聴くがいい, 美こそは我々が感覚的に受け入れ, 感覚的に耐えうる ことのできるた ったひとつの精神的なものの形式なのだ 事実叉 も しそうでなくて精神的なも , , のが, つまり理性と か真理とかそれ以外 の道で我々の前に感覚的に現われてくるものな ら, 我々 ・ は一 体 どうな って しまうだろうか, 昔 Semele が Zeus の前で身を焼き尽してしま ったように, 我々もまた愛のため に身を焼き尽してしまうにちがいあるまい, だから美は情を解する人間の精 神へ至る道なのだ. -- しかしただ道 にすぎぬのだ. 小さな Phaidros よ, た だ ひ と つ の 手 段 に すぎぬのだ」(皿.S 91 ) と言う,理性とか, 徳とかを持った人間が愛のために美に溺れて しま ,4 ,f うな らどうなるかを教える Sokrates の言葉も無視されたものとなり, まさに彼は 「美と完壁と は容易にデモーニッ シュな冷さと結びつき, それがどこで死の法外な領域 に移ってゆくかは認識 しがたく, ついいましがたまで理想郷の幸福の観照にすぎなか ったものが次の瞬間には陶酔に我 ) を忘れた抑制のない幸福への衝動 に変ずる5 」 方向を取るようになる, ) 「美が支配するところでは節度も, 批評もその影響力, その重要さを失な ってしまう6 」 この 孤独な 「生」 を無視した倫理的な芸術家は 「美」 によ って破滅しな けれ ばな らない, 「生」 に対 して余りに執着が少ない As chenbach には ヴェニスの持つ「美」は余りに強く, 「美」 を拒否するに は彼は余りに 「生」 を持たない人間だ った, As chenba ch は 「生」 に対立する芸術を生みだす芸 術家の行 く先が 「死」 であることを意識 しているにもかかわらず, 「生」 の象徴 「美」 に入ってゆ く の で ある, しか し入 っ て い っ て も い い の で あ る, あ の Toni o のように 「美」 に対 して憧れだけ. を持ち, 精神を しっかりと固持し, その「美」に対 してZ e γo”〆 ,つまり距離を保 っていれば, しか し ながら, Aschenbach は Tonio の 域 に 終 らず, Adalbert の域に達 し, 「美」 の中に入り込み, 精神 を 「美」 の た め に 拒 否 した の だ っ た, Aschenbach の真の精神や 「生」 に執着の薄い生活 , , 叉自ずから 「美」 の領域の者でなく, 彼自身, 「生」 に対立する芸術を描く倫理的な芸術家なの 一16 7-.
(12) . 岡. 光. 一. 浩. である. 自己の精神 が 「生」 と調和 しない 「美」 はその至る 所に死 が潜んでいることは目に 見え ている. 以上 のように, イタリアの 「美」 は倫理的な ドイ ツ人にと っては破滅をもた らすものだ 1 t a en の 「目で美を見た者 と, Mann は言う」 この破滅は唯美主 義への陶酔が原因であ った. P 7 )この小説全体を貫ぬく教訓であ った, はすでに死に委ね られている」 と言う次の詩句 が( i t Augen, 帆′ i t angeschaut n l er d e Sch6nhei l t dem Tode schon anheilngegeben, s VVi enstder Brde 娘ugen, rdf菖r keinen Di Und doch wi rd er vor dem 1ode beben ) ] 区, S t Augenl( wγ i t angeschaut mi e SCh6nhe er di , 269 ,. (つ づく) 註 ’ ’a a ○ S 70 i fe 1889-1936, l 1) vg e :”Br . . . . Thomas Mann , , . l ‘Der Got ‘ t der e We in Di i be und se d D chter Thomas Mann und di J l W i t r e 2) vg e e s t r n : e a , “ f o S Ant ke , a i .a , , ,161. i em der t eratur Das Probl in schi sche Li i ef ranz6s l t 3) vg appner: ”Thomas Mann und di . Ma S 4 D6cadence” a 6 1 . ○. . , ,a , 日 B i i i iner Myヒ e“ lo ogi s t et z Che versuch e t Ber , ram:” Ni 4 , Co ver」 ー965 ) vgi , , ourver u , Erns S 2 6 7 . , l t der e We in Di lomas Mann und di cht er Ti l t der Di t ebe und se er Jens: “Der Got 5 ) vgl , Wa ’ ’ i i 0 S Ant 4 1 6 ‘ e ,a .a , , , , , i d i 6) vg ,S .163 , .lb 93 0年に i t t nn は1 i e” の冒頭の句である. Ma t t e vene sche sone 7) vg a en の ”Di ani , こ の 詩 句 は P1 ‘ ‘Augus ’ ’ 1 tvon P と題する評論を書いている t aen. .. 一次 世 界 大 戦 ま で の 」 では序論及び 本論の 第- 以上, 「トーマス ・マ ンのイタリア体験 〔1〕 1〕 では第一 Mann のイタリア旅行とイタリアと関する事柄を持つ芸術 作品の展開を試みた. 〔1 次世界大戦後の展開と結論を述べたい. lag l scher Ver te Werke in 12 B如de (な お テ キ ス トは Thomas Mann Gesamme . Fi , , S 1960 を使用 した. ). - 168 -.
(13)
関連したドキュメント
はある程度個人差はあっても、その対象l笑いの発生源にはそれ
従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ
ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出
自体も新鮮だったし、そこから別の意見も生まれてきて、様々な方向に考えが
海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を
しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは
単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思
Âに、%、、ÐなÑÒなどÓÔのÑÒにして、いかなるGÏもうことはできません。おÌÍは、ON