中世興福寺の声聞師編成
著者
中村 崇志
雑誌名
国史談話会雑誌
巻
52
ページ
1-24
発行年
2012-02-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127068
中世興福寺の声聞師編成
はじめに!本稿の課題 声聞阪とは、陰陽道や千秋万歳悼すの雑芸能を生業とする中 する大乗院凶係史料に設場し、近世に歪り姿を消す。 奈良の声聞師の特徴は五ヶ所十腔という組織に編成され たことである。五ヶ所十践に関する従来の見解は次の一一一点 に集約される。第一にその特権について。五ヶ所十随は都 市内の芸能民である﹁七道者﹂を支配し、十座は大和閣内に つ い て 。 十 肢 は 興 一 福 寺 守 門 と 大 乗 院 の 支 配 下 で 、 五 ヶ 一 昨 は 大中
村
直
,旦cf,. 耳ミ 士 山 乗院のみの支配下で人夫役を負担し、五ヶ所は大乗院が使役 するために特別に組織されたものであるということ。(木前 では五ヶ所自専論と呼ぶ。)また十度芦間山師の明宛に率いら れ 石 築 地 造 作 に 携 わ る 技 術 集 開 凶 が 存 在 す る こ と 。 第 一 一 一 に 一 政 調 ﹁移住闘争﹂について。文明七年(一四七五)頃から、五ヶ 所の声倒師が他簡に移住することで大乗院の課する人夫役に 従わなくなったということ。以上である。それぞれの見解の 関係は以下の﹁移住闘争﹂に関する基礎史料から理解されよ、
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︻ 史 料 一 ︼ ﹃ 雑 事 一 記 ﹄ 文 明 九 年 ( 一 四 七 七 ) 五 月 十 三 日 条 一 侠 淵 妊 叩 脱 げ 川 、 以 一 一 泰 弘 一 申 ニ 入 之 二 五 ヶ 所 問 事 也 、 所 詮 五 ケ 所 声 間 ハ 、 板 本 木 辻 子 獄 、 西 坂 暁 京 ハ テ ・ 貝 塚 鳩 鹿 内 、 以 ) ⋮ 此 五 ヶ 所 一 為 一 一 恨 本 一 、 在 々 一 昨 々 ニ 居 住 ス ル 者 也 、( 中 略 ) 近日途乱事 京ハテ貝塚両所ハ近来無二止住者一也、木辻子商坂 問所之内之隈削七八人、自こ去々年比↑他所一一引ニ遊在 所 一 テ 、 一 首 ニ 門 跡 人 夫 役 一 、 一 再 二 三 棟 方 人 夫 役 一 、 不 レ 致 一 一 其沙汰一之問、災在所領主成身院ニ問問答最中也、崎潤座 ハ 南 北 市 川 所 也 、 白 一 一 大 鳥 居 一 北 ハ 悉 以 為 一 一 芝 辻 子 製 本 一 、 夜 々 所 々 号 ニ 十 践 唱 間 一 テ 、 門 跡 打 寺 門 事 中 公 致 一 五 共 沙 汰 一 也、自二大鳥蔚一関ハ号二五ヶ所一シ、門跡奉公一向致ニ 其 沙 汰 二 割 也 、 不 レ 羽 目 一 止 伎 之 在 所 之 是 非 一 、 於 ニ 唱 間 一 ︹ 列 V 烈一者為ニ門跡御被宮人一御自専也、然而成身院知行在 所候之問、不レ可レ随ニ其役一之曲、彼而々申条、以外次 第也、所詮 致 二 奉 公 一 敗 、 一 、 如 レ 本 ニ 帰 立 欺 、 一 一 、 唱 間 道 ヲ 遁 鍬 、 一 一 一 、 可ニ存定一事也、唱聞道ヲ遁ハ、一切唱聞之沙汰条々、 陰 陽 師 金 口 ・ 暦 恩 官 久 世 舞 ・ 盆 彼 岸 絞 毘 沙 門 経 等 芸 能 、 七 道 物 自 前 守 山 弟 、 於 ニ 彼 商 々 一 者 可 ニ 停 止 一 也 、 南 北 之唱問弁仕丁以下一一仰ニ付之一、万一致ニ其沙汰一者可レ 任 レ 法 也 、 此 一 一 一 之 内 可 二 決 一 也 、 即ち、五ヶ一敗・十座は人夫役負担によりその得分にも間関わる 特権(﹁一切順則之沙汰条々﹂)が大衆院から保持され、人夫 役を負担しなくなることは特権を保障されない事を怒味する の で あ る 。 このような奈良の戸捌般に測する研究は、戦前の喜田貞 官、森末義彩による被差別民・芸能民の先駆的研究に始ま る。戦後、熱田公、川嶋賂生は声聞郎の移住を被差別民の身 分解放闘争とし、大衆院への隷属関係を断ち切ろうとする積 極的な動きと評価した。七
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年代に中世非人論が展開し非人 集聞の非設局的自律的な存在形態への注自がなされると、 奈良の声捌姉研究にも解放闘争の視点のみならず社会集岱論 の視点が導入される。問問的安啓は人夫役を含めた声聞阪の職 能を考察し、また﹁移住闘争﹂を再検討して、権門の付与し た殴的特権の動絡を前提に、戸山師が新たな庇護者を求めた のが﹁移住闘争﹂であるとした。そして到迷点とも蓄えるの が森田竜雄の研究である。森田は従来の研究が社会柴田とし ての戸間飯集向山内部の突態を明らかにしておらず、また解放 問争という祝点のみでは近世へ至る声聞師築防の分化の動向 を明らかにできないという間姻認識に基づき、五ヶ所。十座 という権門による組織を超えて内部に償資的秩序を有する戸 開削集団﹁惣座﹂の存在と、﹁移住附争﹂後の声聞附の郷民 化専業陰陽師州化といった近世への展開聞を描いた。さらにこ れらの研究成果を含めて中役大和悶の非人研究を総括した ﹃奈良の被差別民衆史﹄は、五ヶ所。す陸は南北朝則に大乗A U } 院により編成された人夫徴用に対応する組織と説明した。一 方その問、近世史研究においては身分的周縁論が活況を塁 し、士口代史研究においても中世非人の本質に関わる考察が示 { M V さ れ た 。 こ れ を 受 け て 中 世 史 の 側 で は 、 一 一 一 枝 紘 子 が 自 律 的 な 非人柴田凶と権門による編成を併せた研究の必要性を説き、低 調となった非人研究の新たな方向性を示している。 以上に整理した中世非人論の動向と奈良の戸間師研究の現 状を受けて、自律的な戸間関師集団と大乗院による編成の関 連、及びその編成の近世への展開を考察することが求められ ると考える。そこで本稿では、先行研究において米だ本格的 に検討されていない声倒師の人夫役に着
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する。五ヶ所・十 肢が人夫徴用に対応する組織であるならば、編成の媒介とな っている人夫役自体の検討が右の要請に応えるために必要と 考えるためである。よって本稿の課題は、第一に芦間闘の人 夫役を実例に基づいて検討すること、その上で第二に、自律 的な声聞削集団と彼等を五ヶ所十肢として編成している大 衆 院 と の 関 係 、 及 び そ の 問 問 問 聞 の 一 端 を 明 ら か に す る こ と で あ る。問時にこれは、声聞師を問中に非人の一つとして捉える視 点を招対化する試みに他ならない。 第 翠こ 声閉師の人夫役の実態 声聞附の人夫役についてはどのような説明がされてきただ ろうか。第一にその職務について、声防御の人夫役には、単 純労働だけでなく、石築地造作等﹁特殊な技術を必要とする もの﹂や﹁本来の民間陰揚削等としての機能を反映したもの﹂ があるという見解がある。これは造図の河原者普阿弥や近江 の穴生散所等、中役非人と土木工事との関わりを怒識したも のであろう。第二に﹁移住川附争﹂との関連について、人夫役 に媒介される大乗混との関係は声倒削袋町山にとって径倍とな っており、そこで一部の声倒師が﹁移伎闘争﹂を引き起こし たとする見解がある。大乗院との関係が樫椅となっていた理 由は、﹁移住闘争﹂を強調した熱田公の研究以来、人夫役が 負担の重すぎる労働であったためと説明されてきた。そして 究極的にはこのような負担一を強いられる身分からの解放を声 聞獅が求めたと考えられ、声倒郎の移住は﹁移住総争﹂と名 付けられたのである。しかし非人論の登場とともに、身分を 決定するのは彼の領主ではなく中世社会特有の観念であるこ とが明らかとなり、その段階では﹁移住闘争﹂は身分の問題 と切り離され、負肢となる人夫役を逃れることを目的とした 運劫と理解されるようになったと忠われる。この見解は尾崎 安啓森田竜雄によって改められ、大乗院との関係の払拭が 目的ではなく手段であるとされた(後述)。しかし何れにせ よ、戸間師集団が人夫役を媒介とした大梁院との関係を断と うとしており、それが一部の戸開削の移住という形で表而化4 したとする点は共通している。 以上より、先行研究は戸間師限布の織能を生かした人夫役 が存寂することを想定し、また芦間山郁集団は人夫役を媒介と した大梁院との関係の払拭を志向したと考えてきたといえ る。(以下、前者を職能人夫役説、後者を人夫役経給説と呼 ぶ。)来たしてこれらの見解は妥当なのだろうか。大乗涜の 賦課する人夫役全体を祝野に入れて検討しよう。 第一節大乗院の人夫役賦課 先ず考察の起点として、大乗院の賦課する人夫役全体に m 開 サ る ﹃ 一 一 一 筋 院 家 抄 ﹄ の 規 定 を 確 認 す る 。 ︻ 史 料 二 ︼ ﹃ 一 一 一 筒 際 家 抄 ﹄ ﹁ 京 上 人 夫 ・ 伝 馬 丹 下 可 召 馬 事 ﹂ ( 傍 線 引 用 者 。 以 下 向 。 ) 民 約 問 大 市 庇 夫 間 人 ・ 下 河 沼 一 疋 倉 庄 一 一 一 人 一 一 一 疋 ・ 下 司 召 一 疋 ( ・ 中 略 ) 経 庄 一 一 一 人 協 本 庄 一 円 御 後 見 方 以 上 一 色 地 、 州 刈 削 総 則 ゴ 側 聞 州 例 掛 け 剖 け 山 、 別 外 州 問 門 制 阿 川 刷 剖 刊 訂 甘 勺 剖 到 刊 判 川 出 制 叶 刈 吋
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悉皆奈良中止住如レ此也 ︻ 史 料 一 ニ ︼ ﹃ 一 一 一 筒 続 家 抄 ﹄ ﹁ 奈 良 巡 人 夫 事 ﹂ 倉 庇 越 間 尻 庄 大 市 、 匂 回 、 1 J 員、
新 木 、 若 槻 、 院 入 、 小 大 郎 、 出 窓 、 消 滋 、 波 多 、 大 宅 寺 草 川 、 河 合 、 羽 津 恩 仲 介 、 肉 悶 、 刻列刑法制剣十文、成山将司野田郷 結城 南 百 九 横 需 下 条 回 条御、、
仮 小縫 以 上 仰 一 一 御 後 見 ⋮ 召 レ 之 、 十座一法剛創刊羽例刻話 1 法衆院郷 元興寺郷 以 上 以上に規定された通り、興福寺の賦課する人夫役は、奈良 京都問で運搬にあたる京上人夫役(門史料二︼)と、奈良部市 内 で の 労 働 に あ た る 奈 良 巡 人 夫 役 ( 門 史 料 三 ︼ ) に 分 け ら れ る 。 但し、以上の規定は大乗践の権限による奴課であり、大和悶 守護たる興福寺の公権により人夫役が賦課される場合がある ので、説明を加えたい。興福寺内では主に寺門大乗院一 乗院が諮権限を分有し、各々が郷の領主として、或いは寄人 である殴衆の本所として、郷民に夫役を淵附した。座に属する 郷民は、日間住地の領主と所属する座の本所を具にする場合が あるが、その場合郷の領主の認す夫役を免除される特権を有 した。ところが、守門を本所とする寺番医寺鍛冶のうち大 乗院が領主である郷に蔚住する郷民が、京上人夫が多く必要 な時は大梁院へも人夫役を府中仕すると起詩文を怒いたよう 花幽郷に、郷の償支の課する夫役を免除される特権が無効となるこ とがあった。このような京上人夫は、興福寺の公権により斌 A m } 剖附されるものである。この京上人夫の級務が京への贈答物運 搬、即ち室町殿や摂関家を始めとする京の諮権門と興福寺と の州知与を通じた関係維持を担うものであったことが、その所 以 で あ ろ う -。 従 っ て 、 ﹁ は じ め に ﹂ で 述 べ た 五 ヶ 一 般 自 専 論 を 事実とする従来の見解は正確ではなく、五ヶ所声聞郎も興福 寺公権により大乗院以外に使役される場合があることに注意 し た い 。 さて、右の﹃三筋院家抄﹄の人夫役の区分には単に活動範 凶の羨異という以上の意味があった。︻史料一一︼及び︻史料 一 一 一 ︼ の 傍 線 部 に は 十 円 聞 師 の 人 夫 役 を 賃 金 労 働 と す る 規 定 が あ { U V り、京上人夫は一間七十文、奈良巡人夫は一回十文が支給さ れる原別であった。声郎防集聞の経済基盤全体は明らかでな いものの、京上人夫と奈良巡人夫の違いは七倍の援となっ て 、 声 郎 防 集 聞 の 収 入 に 大 き く 即 時 轡 を 与 え る の で あ る 。 人夫の徴用はどのように行われるか。大衆院の場合門史料 一 一 ︼ 及 び 門 史 料 一 ニ ︼ の 一 一 重 傍 線 部 に ﹁ 仰 ↓ 一 御 後 見 乙 と さ れ ム 幻 } る通り御後見(大梁院政所)が差配する。 ︻ 史 料 四 ︼ 成 就 院 諸 問 以 滋 状 羽山崎封則禁引)大進御房盟事消賢﹂ 就 一 ユ 止 ヶ 所 法 師 飯 事 一 、 被 二 仰 下 一 候 之 趣 、 存 一 一 其 出 回 一 、 帥 拙 而 首 候 て 、 可 レ 加 二 下 知 一 候 、 次 木 津 之 舟 事 、 可 レ 加 二 下 知 一 候 之 由 、 可 レ 得 一 一 御 怒 一 候 、 恐 々 謹 言 、 {村民総問有力) 八 月 廿 九 日 浩 賢 大 進 御 一 服 用 車 御後見職である消授から尋坊の近習の孝承(大進寺主)へ、 人夫役賦課を了承した旨を伝える訴状である。ここから大衆 院門主劫尊の仰せが近習孝承経由で御後見へ伝達されること が指定される。次に御後見の下知を受付た各組織内で人夫が 結 番 さ れ る 。 ︻ 史 料 一 一 ︺ 及 び ︻ 史 料 一 一 一 ︼ の 傍 線 部 に は 戸 間 師 柴田山の﹁沙汰者﹂なる者への佼金支給額が記救されており、 これが門跡の要請を受けて人夫となる声聞師を巡わす担当者 だろう。郷民の人夫役負相一は、それぞれの郷の組当者である 沙汰者が毎月郷田町を結番して徴用に応じる。同様に五ヶ所・ 十座の沙汰者も、公事足である声聞邸を結番して徴用に応じ て い た と 考 え ら れ る 。 ︻史料五︼司雑事記﹄文明十一年(一四七九)十月十一日条 一 今 度 減 土 公 事 一 一 三 党 者 共 白 一 一 衆 中 一 召 日 一 仕 之 一 、 士 口 市 沙 汰 血、其後蚕一一近日一古市へ陣夫ニ召仕之問、五ヶ所鳴門 事ハ各別儀由、不レ可レ然、殊更近日ハ八人分奉公仕者 也 、 此 分 可 レ 附 刷 之 由 問 答 了 、 名 字 ヲ 可 レ 被 二 注 下 -、 対 ヲ ト ナ 共 可 レ 被 ω一 召 下 -之 曲 山 中 入 之 問 、 一 紙 巡 一 一 i r 口 市 代 官 北 野 山 方 ニ 一 泣 レ 之 了 、 則 徳 丸 ニ 申 付 一 広 々 、
五ヶ所人夫事 中尾分 五 郎 兵 衛 太 郎 兵 衛 次 郎 以上回人公事足 六郎次郎彦三郎 以上二人ヲトナ、公事せス 本 辻 西坂分 徳 善 次 郎 五 郎 福 善 次 的 事 係 六 以上五人、比内一人ハシキシ、公事足四人 水 ハ テ 心 覚 小 次 郎 八 郎 次 郎 以 上 = 一 人 ヲ ト ナ 、 公 事 せ ス 合御公事足八人 ( 後 略 ) 兼ねてより注目されてきた五ヶ所芦聞師の内部構造を窺える 貴重な史料である。官符衆徒の古市民が五ヶ所声聞師を陣夫 として使役したことに大乗院が反対し、声聞師の名前を列挙 して使役の停止を古市方に勧告した際のものである。集団の 代表者たるヲトナと公事足たる声聞師の他に、傍線部に﹁シ キシ(職事)﹂なる者が確認されるが、これが沙汰者に相当 合 対 ︺ する。以上より、﹁大乗院門主←御後見職←沙汰者←公事足﹂ と い う 人 夫 徴 用 の 過 程 が 導 き 出 さ れ る 。 ところで、中世後期の人夫役の特徴として人夫役の代銭納
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由 民 W 巳 白 目 的 化 と 人 夫 の 借 用 ・ 一 一 雇 用 が 挙 げ ら れ る 。 人 夫 役 は 本 来 荘 園 制 下 での領主・領民関係を確認する儀礼的性格を持った公事であ ったが、代銭納が浸透するとともに、京の権門領主の下では 他家からの人夫借用や京内の日雇人夫による代替が行われる のが実態であった。これらの事態は奈良でも確認される。人 夫の借用については、他ならぬ声聞師の人夫としての借用 が、大乗院領内に居住し且つ大乗院の寄人である五ヶ所声聞 A m v 師が一乗院に使役されていることから、確認される。人夫の A m q ︺ 雇用についても史料中散見される。そしてこれらを誘発する 代銭納の進展も確認される。例えば寛正年間に大乗院領波多 荘が夫貨を納めていることを理由に京上人夫にも奈良巡人夫 にも現夫を出さず度々相論となり、結局奈良巡人夫のみの下 知に応じ、京上人夫は三百疋の夫賃で代銭納とした例があ ︽ 却 V る。郷民に至っては賄賂を用いる例すら見られる。文明十二 年(一四八O )
に七郷のうちの西芝辻子西城土・符坂郷が 京上人夫を免れるため衆中に賄賂を贈り、支証を獲得してし まうが、興福寺別当がこれを許さず西城士から人夫を使役し 他は夫銭を納めさせたという事件がある。このように大乗院 膝下の都市内でも代銭納が浸透しているのである。声聞師の 人夫役は以上の状況と無関係ではなかろう。代銭納の進展は 権門領主の膝下に代替となる労働力が存在することを条件と するが、大乗院の場合その労働力こそ声聞郎の人夫であるという仮説が成り立つ。また労働そのものから逃れようとする ならば代銭納という手段が当時常套手段であったが、声聞師 が代銭納を志向した形跡は見られず、寧ろ収入源として人夫 を 必 要 と し た 可 能 性 も 考 え ら れ よ う 。 以上、大乗院支配下の民衆と中世後期の社会情勢の中に声 聞師の人夫役を位置付けて考察するとともに、若干の見通し を述べた。では、芦聞師の人夫役を具体的な使役例から検討
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hフ 。 7 第二節声聞師の人夫役の実例検討 ︻ 表l
︼は﹃雑事記﹄中の声聞師集団の人夫役負担が明ら かな史料の一覧である。また﹁移住闘争﹂が問題化した時期 について、声聞師の人夫役を大乗院支配下民衆の人夫役全体 の中に位置付けて作成したのが︻表2
︼ で あ る 。 ︻ 表l
︼ 及 び︻表2
︼ か ら 以 下 の こ と が 指 摘 で き る 。 第一に、声聞師の人夫役の職務と郷民・荘民の職務に差異 がないことである。既に述べた通り人夫役賦課は大乗院の政 所が各組織の担当者に下知し、集団内で人夫が結番される。 そのため賦課の単位となる組織である﹁五ヶ所・十座﹂、或 いは単に﹁人夫﹂を徴用したと記される史料が声関節への人 夫役賦課を示す史料である。逆に﹁声聞師某﹂や﹁大工﹂等 特定の声聞師を徴用したとする史料は人夫役賦課を示さな い。すると表の通り、職務は何れも単純労働と考えられ、先 行研究の想定した﹁民間陰陽師等としての職能を反映した﹂ 人夫役は皆無である。﹁特殊な技術を必要とする﹂石築地造 作の職能については簡単には済まされない側面があるので後 述するが、ここでは声聞師の人夫役の職務が声聞師固有の職 能を必要とするものではないことを確認したい。従って職能 人夫役説のように、声聞師の人夫役に特殊な技術者や宗教者 としての職能を生かした職務を想定することはできないので あ る 。 第二に、﹁移住闘争﹂との関連が見られないことである。 京上人夫については、応仁の乱の時期に芦聞師の京上人夫が 確認されない。文明七年に﹁移住闘争﹂が問題化した後、文 明九年に京で乱が終結すると京上人夫としての侠伎は戦前と 同様に再開されるのである。これが戸開師の人夫役に限った 動きでないことは︻表2
︼からも窺えるが、この背景には大 乱による社会情勢の変動があった。即ち、毎年七月の瓜進上 ︻ 辺 一 ) に代表される恒例の贈答儀礼が公家の諸国下向に伴い途絶し てしまう事態、南山城の土一挟蜂起により交通路が遮断され ︽ 幻 ︺ てしまうという事態である。また奈良巡人夫については、維 摩会・慈恩会といった法会における人夫の需要の高さが窺え る。尋尊は特定の事柄について別記を作成したが、﹁文明三 年 慈 恩 会 記 ﹂ 目 ﹁ 文 明 七 年 維 摩 会 講 師 方 条 々 ﹂ な る 別 記 は 後 継【表1
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W雑纂記』より、声聞闘の人夫役負按が明らかな史料。 『雑lJCff(1.J~l {-'J 人 央 1,
1 f内 戸間師 │郷民 荘悶 i日l正3(1457)1/29 横 │七 10築地。 2"
3/26 横 10築地。 3I
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院 4端 4長滋2(1458) 4/7 五 コ仏生会。 5長禄4(14印)7/23 五 │大 大 ⑧ 6 /ノ 10/20 五 コ l 71"llf 凶 五 座 ⑧ (不明]) 8"
12/18 五 !大 コ築地。 911'l正2(1461) 12/8 │五 コ 10│克正3(1462) 2/! 五 十 内山の木京上cI
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築j也。HIリtJ~ITej 日付 「惑j少「文明三年務思会記J、「紘J→「文明七年維照会総似I品々」 使位対挫の骨組 JI1聞師。五→五ヶ所、す→一!~N~、横 JlIポ11出師I 郷11¥
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-1:;→じ郷(寺I“i 悩)、大吠'w幌郷、元岨興寺郷、脱→!1!~そ " " 闘 大 吠 拡 散 州l附 目的の分fJi O→奈良巡人夫、@→京上人夫、{血サ〈以外の述悶への人夫 刻、奈良県立同和問題i町長史料センター縮『大和問中l止世長5]1]民間部史料1(奈良県教口重民会、 2005年)は『経J!在、型妙』や『政党大的正記J悼の向時代史料を制部されており、表の作成句会唱と させてTfiいた。本報告では司時の視点にlli中l I大議院苛社雑"*記』以外の何時代史料を駆使できな かったが、r
大和問中世世珪別民{則係史i'f1に収録されない史料5点(4-102. 103 -116)を追加し 守 ー 。11 【表2】『雑事記』より、文明七年 十年の人夫役賦課。 日 (.1 人 戸川削I 刻:民 夫 ~E l日 1] 的 文1YJ7 (l.1i5) 3/10 (.tl! 3人 10:問3。1Fl岳石部時i右五下,立部のも散た発め'1.ill!
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3/11 f'/1!2人 コ同上。 (~17 日か) " 7/21 │三保 53見 川崎付信、計15人 不'J"
9/1 4殴l人 O沿治以問。 " 10/5 211iヶ翌}日Vrl人O入、 0船艇会道路)JJ目的如水;迎l録。"
12/3 十段2人 0以目。"
12/3 Ii.ヶ所3人 コf干物. " Jを陪<J 文明8(1476) (1 --3月r緒1JC;iel欠巻)"
5/13 i飽1人。
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6/3 1-)'1' 5人 ヱ(-辻-f梁院郷) O(築J ll! t:5~1lか)"
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(1111,) コ窮地修理。 (7--12}Jr維 )J~JL口火器) 文明9(1477)(1 --:l月『怨*;[1口火怪)"
4/2 C蹴 多 肉 倒 大 宅 守4主力 0'十,1EIのJJ沙訓汰ET。dz 衆徒昨ii!'Il!"
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[2/16五十座ヶ所 1人 1入、 l1IR小火m荘、計2人 0劫掠長谷;'j'参討し"
12/30 1:託ヶ所2人 持物。 凡例、E災1Jに同じ。荘闘のC一 歩M村山な荘憐不明。門跡政党がそれぞれ竪義者総師を務めたため特別に作成し { 羽 } たものである。中世後期の興福寺の法会は縮小中止するこ ︹ 符 } とが頻繁になり、応仁の乱を通じてこの徴候が顕著となるこ とから、奈良巡人夫役の減少も想定される。このように人夫 役負担の内容頒度の変動は応仁の乱による政治的。社会的 情勢の影級を大きく受けており﹁移住闘争﹂との関連は児出 せ な い の で あ る 。 以上の考察より、戸開削悶有の融制能と人夫役の服務には直 接的な連関はなく、両者は区別すべきであること、声聞師の 人夫役奉仕の頻度や内容は﹁移住闘争﹂ではなく政治・社会 情勢の彩機を受け変動したことが確認された。ここに織能人 夫役説が否定されると問時に、人夫役経結説への疑問も生じ る。何故ならば、声聞師集団の人夫役負担の実態からは、彼 等が大乗院との関係を否定しようとしている様子が表取でき な か っ た た め で あ る 。 人夫役経桔説を検討しよう↑。先ず︻史料一︺の通り、そも そも﹁移住闘争﹂を引き起こしたのは僅かに﹁唱聞七八人﹂ であることを磁認したい。何故﹁移住阪争﹂は起きたのか。 尾崎安啓は、声聞師袋路の本所としての大乗院の衰退を背景 A M ) に、戸間附集団が新たな庇設者を求めたためと考えた。森田 泡維は奈良の都市化の進展による需袈に伴う声聞師集悶内部 の分化専梁化の動向を明かすことで、戸間郎集問内部にお ける独立した絞済基継を持った柴田山の分化により、人夫役を { 幻 ) 媒介とした大乗院による編成が極措となったためと考えた。 確かに移住した声聞師が大梁院との関係を否定しようとした のは間違いなく、同説がその背玖にある社会情勢を指摘した のはい阜見である。しかし、移住していない大多数の戸間師連 は来たして大乗続との関係を否定しようとしたのだろうか。 尾崎は戸間師が新たな庇護者(ここでは移住した先の領主で あ る 成 身 抽 出
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衆中の筒井氏)を求めたのが﹁移住倒争﹂であ ると考えたが、後に衆中による使役を停止するよう五ヶ所が A m v 大乗院へ申し出ており旦っその閲も問題なく大乗院へ人夫役 を奉仕し統けているので、五ヶ所は大乗院へ人夫役を奉仕す ることを志向していると考えざるを得ない。移住問題が最初 に発覚した際に、移住した芦間前が人夫役に従わない旨を五 ︽m v ケ所が大乗院へ申し出ていることも設問されよう。さらに森 聞は集団内部の分化によって大衆院による編成が接結となっ たと考えたが、石築地の職能をもって大衆院に奉仕する明党 等こそ、分化によって成長した職能集団ではなかったか。機 能人夫役説を否定したことを踏まえると、声聞編集団は人夫 役を媒介として編成されるだけでなく、職能を媒介として編 成され、大乗院との関係を保っていると考えられるのである。 ﹁移住闘争﹂はあくまでも接聞から逸脱した一部の戸開削 の励きと考えるのが妥当であり、相米関全体としては大乗院との関係を否定しようとはしていないのである。このことは、 移住した戸間附の動向だけでは、人夫役を媒介として編成さ れた畑組織である五ヶ所・十座に属する声聞獅迷の、惣座から の分化を経た近批への股閲を一市せないことを怒味しよう。従 って、大乗践による問問師編成の浪闘を明かすためには移住 していない芦間帥にこそ注目しなければならない。これが本 稿第二章の視角である。 第二章 大乗院の声聞師編成とその変化 本稿の第二の課題は、人夫役を通じ声倒師集団を編成する 大来世間と編成される戸間師集団との関係、及びその近世へ向 けた股聞を考察することである。後者は具体的には、人夫役 を媒介としない編成、即ち惣座からの分化を緩て登場したで あろう機能を媒介とした編成を解明することである。
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第一節人夫としての編成←戸間師集団の側から 先ず、芦間師集団は何段人夫役負担を通じた大衆院との関 係紺持を志向したのか、考察する。第一に人夫役が経済法縦 であることである。既に門史料二︼及び門史料一ニ︼の規定を 確認し戸間師集団が収入源として人夫役を必要とした可能性 を指摘したが、経済法銚としての人夫役の重要性は人夫役の 賃上げ姿求という動きから窺える。 ︻史料六︺﹃雑事記﹄文明八年(一四七六)五月廿一一日条 一 昨g
五ヶ所十践物共申、長谷寺人夫滋物事、如二京 上一可レ被レ下之処、如ニ奈良巡一被レ下条、歎申入候、御 下知分、此題目一段事旧了、宇治・長谷寺問所ハ、時雌レ 為 ↓ τ 七 恩 道 一 以 二 奈 良 巡 分 一 一 叶 レ 致 ↓ 一 奉 公 一 也 、 則 至 二 近 日 一 御 後 見 召 ↓ 一 仕 其 分 一 也 、 入 総 ハ 可 レ 為 一 一 七 皇 道 一 、 可 レ 為 一 一 京上分一、可-一挙公一之由一決治定果、納所下行日記以 下 明 鏡 加 耕 一 一 旦 疋 非 一 事 山 助 、 則 先 年 舞 台 供 養 堂 供 養 河 皮 御 下 向 、 日 別 十 文 宛 被 二 下 行 ⋮ 了 、 畑 山 二 只 今 五 此 申 状 不 レ 可 レ 然旨仰了、重中、さ候ハ、只今事ハ十文外不レ可ニ申 入一、以後事ハ如二京上一被レ下レ之、日帰ナラハ三十五 文之由申一一入之一、以後事も不レ可レ叶旨仰了、何とて其 分ニテハ糧物以下一叶レ成侠哉之由中、自レ一五公事ニ参中 上者、一向不レ給方も則有レ之、少事も下行ハ随分事 也 、 胤 人 ニ ハ 可 一 一 相 替 一 旨 仰 了 、 吋噌柑吋は私的効行のためしばしば長谷寺に参節しており、史料 は長谷寺への人夫を京上人夫扱いとするよう、五ヶ所。十肢 が大乗院へ訴えたものである。傍線部は長谷寺への人夫役を 奈良巡人夫役とするよう決定した文正二年(一四六七)の相 一 川 V 論を指している。ここで注目すべきはやはり声附師側に人夫 役を忌避する姿勢が見られずあくまでも対舗を求めているこ と、そしてこの問題が文底二年。文明八年という、第一なで1
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確認した京上人夫役が減少する時期に起きていることであ る。賃上げ要求は京上人夫役という収入源が減少したために 生じた問慾であると考えられよう。 第二に、人夫役負担により反対給付として特権を大乗院に 保障されるということである。特権の一つは都市内や大和国 内の芸能者支配様である。この特権は先行研究も注目し、そ れが人夫役奉仕の反対給付であることは本稿﹁はじめに﹂で 述べた通りである。この他に、謀役免除の特権の存在も指摘 で き る 。 先正三年(一四六二)、今制御門橋修造のため興福寺六万衆 が五ヶ所戸間附へ間別銭を賦課した。戸防師は先例がないと { 位 w いう理由で賦課に反対し、大乗院は六万衆へ抗議する。しか し六万は、声聞聞の居住している木辻子郷が間別銭を出した A n 吋 ︼ 先例を持ち出す。それに対し声聞師側は﹁当時ハ郷民ハ無レ 之 シ テ 声 聞 計 十 位 レ 之 、 以 前 向 度 例 は 、 非 二 戸 間 ニ ハ 一 シ テ 郷 民 臥﹂と申し入れ、結局賦課しないことで相論は決着がついた と忠われる。この相論について言及した川嶋賂生は、戸間阪 は被義別民であるが故に本来的に附別銭の賦課から免除され ているが、その半十回賦課を逃れるためには自ら被差別民たる ことを甘受しなければならなかったとした。また森閑竜雄は 悶別銭賦課に応じるか否かの違いから、社会集団としての戸 間仰と郷民が別の世界を生きていたことの例としてこの相論 ( 柑 ︼ を挙げた。だが、注目すべきはこの相論の仲介者、即ち芦間 師への賦課を停止しようとする大乗院の強い姿勢である。大 乗院による芦洲姉の謀役免除は次の史料にも一市されている。 ︻ 史 料 七 ︼ ﹃ 雑 事 記 ﹄ 文 色 元 年 ( 一 五O
一 ) 蕊 月 倫 明 日 条 一貝塚辻子小五月銭事、七郎左衛門申間札明処、一克唱門住 所 也 云 々 、 其 分 ハ 不 レ 可 ニ 立 府 一 回 目 仰 了 、 文 抱 一 苅 年 、 小 五 月 銭 の 徴 収 が 難 航 す る 中 、 大 乗 仲 間 は 貝 塚 郷 を 資め立てていた。小五月銭とは、天満校の祭礼である小五月 会の政用を負担する(という建前の)ために設定された小五 月郷に課される間別銭である。貝塚郷は︻史料一︺に﹁京ハ テ 貝 塚 両 所 ハ 近 来 畑 山 一 一 止 住 者 山 田 ﹂ と 守 一 一 口 わ れ る よ う に 文 明 九年時点には芦間仰が居住しなくなっていた。ところが門史 料 七 ︼ の 如 く 、 一 一O
年以上絞った文抱一苅年にかつての声聞師 居住地分の小五月銭を控除することが再雛認されているので ある。大衆続が門史料一︼のように﹁根本五ヶ所﹂を設定し た窓味はここにあるだろう。即ち散所と向様、車中仕の代鍛と して免税対象となる土地が悶定化されているのである。戸間 師の使役に何らかの有用性を見出した大梁院が、車中仕の代償 として蔚住地の課税を免除したものと考えられる。 以上より芦間師集団にとっての人夫役負担は、反対給付と して芸能者支配権や人夫役以外の謀役免除の特権を得るため の務仕、且つ還要な収入淑であるといえる。では、大梁践の見出した有用伎とは何か。第一章で職能人夫役説を官官定した ように、散所と同じくそれをキヨメと関連するものとして説 明するのには似重でなければならない。 第二節人夫としての編成│大乗院の側から 第一節では芦間附が人夫役を通じた大乗院との関係維持を 志向する理由を明らかにしたが、門史料一︼からは大乗院も 人夫役を通じた戸間師との関係の保持を志向していることが 筏える。何故ならば、人夫役を負担していない声隙郎に対し てはその特権の保障を反政にすれば良いはずであるのに、尚 も人夫役を負担し統けることや、課税を免徐された土地へ帰 住することを選択肢に含み、求めているからである。このこ とはやはり、戸間師の人夫役が大乗院にとっても怒義を有す ることを示すが、どのような意義であろうか。それを考える ために次の史料は翁過できない。 ︻ 史 料 八 ︼ ﹃ 雑 事 記 ﹄ 文 明 十 年 ( 一 四 七 八 ) 七 月 一 一 日 条 一京上瓜共上レ之、林教為二上使二(中略) 人夫参上方 一 人 作 手 、 一 人 首 謀 三 i 文 下 行 、 一 人 尚 町 、 一 入 院 入 ¥ 15 一人野日 一 人 俄 間 三 十 文 ド 行 、 一 人 古 川 、 一 人
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一 人 小 古 山 ¥ 一 人 小 大 問 、 分 1 1 出 一 人 上 この年の瓜京上は六月二十七日に法制明荘検問荘・出雲荘。 大 市 荘 倉 務 ・ 高 閲 荘 河 合 務 院 入 荘 ・ 小 大 医 渡 服 法 ・ { 伯 v 小吉田技へ人夫が沼請され、大市荘倉荘は別の日に京上人 ( 印 ) 夫役を務めていることが確認されるが、小大田荘と出雲殺は 人夫役負担が確認できない。史料の傍線部はこのうち小大問 荘の分として十座戸間師が京上人夫とされたことを示すもの である。この他﹁加用人夫十座(中略)加用五ヶ所﹂等、声 郎郎の人夫が郷民・荘民に追加された事例、或いは急逮決定 した上洛に際して﹁不足五ヶ所十座﹂を使役したという事 例も挙げられる。これらの史料から郷民荘民の人夫役を補 完するのが戸間師の人夫役であったと考えられよう。戸間獅 の人夫役がこのような役割を但った背景に代銭納の進展が惣 定されるのは既に述べた通りである。このような戸間師の人 夫役の性格は、次の例にも確認される。 ( 臼 } ︻史料九︼泰弘書状 尚 々 し 無 一 一 相 違 一 様 、 御 申 御 沙 汰 候 て 可 レ 給 候 、 今日者人夫被レ下候て、添袋入存候、次明日、私門前石倉 を つ ミ 度 候 、 五 ヶ 所 一 一 一 人 御 許 可 候 様 、 御 披 附 路 可 レ 為 ⋮ 一 恐 悦 一 候 、 徐 々 見 苦 侠 問 問 、 思 立 候 、 可 レ 然 様 得 一 一 御 怒 一 候 、 可 レ 務 一 御 披 m 時 一 候 、 恐 々 議 言 、 { 程 d 一 一 h q カ} 筏月十八日 泰 官、1
6
大 進 守 主 御 一 一 局 泰弘が私的な舟途で使役する人夫を大衆院門主へ要求した史 料であることが︻史料四︼と併せれば政解できよう。この史 料に初めて注目した森田竜雄は、これを戸間師の人夫役と石 に関する職能との関連の根拠としたが、そのように解釈する 必然性はないだろう。この史料は銃 Jろ、姉崎私的な目的で 人夫を必要とする際に戸間師の使役が絞適であったことを表 す と 解 釈 し た い 。 以上より、大乗践にとっての戸間獅の人夫役の意義は、郷 民荘民の人夫役を補完する役割を果たすことであったと言 える。このような位置付けは、本稿で引用した史料中に度々 登場する人夫のリストにおいて、世戸間附が例外なく末尾に記 されることに表れている。 戸開削集凶の人夫役負担と賦諜は戸間師閲有の職能を媒介 としない。しかし人夫役負担と賦課は戸間師集団・大梁院双 方にとっての重要性をもち、双方がこの関係の維持を必要と したと言える。戸開師閲有の職能は人夫役奉仕によって保障 されるものであって、人夫役そのものではないことを強調し た い ( ︻ 悶 l ︼ ) 。 第三節座としての編成│篠田内部の分化と衆中 さて、人夫役負担によって保障される職能の一つがお築地 (主主hb古文目己椛と剖l役免除を保町t) 中年柿付り 人夫役奉仕 (大来│涜の補完的労働力) 【図I1戸間師築印と大乗院の基本的な関係。 に関わる職能である。この職能は、石築地造作等の土木工事 ( し 川 ) に際して民間陰陽師たる声聞師が池鋲を行う事例があるこ と、そして十座声聞阪の明覚なる者に添いられ石築地造作に 携わる級能集郎が存複することから確認される。これらがま さに職能人夫役説の根拠であるが、前者は人夫役ではなく家 ろ人夫役務伎により保障される職能であった。問題は惣肢か らの分化によって発股したであろうこの職能集団である。こ の職能集防の泰仕が人夫役の車中仕とは区別されることを指摘17 したいま、これを位置付け値さなければならない。人夫とし て の 奉 仕 と 職 能 接 聞 と し て の 奉 仕 は ど の よ う な 関 係 に あ る か 。 ︻ 表
3
︼は戸初師集団の土木工事への関与を示す史料であ る。ここから土木工事に州関与するのは声聞師だけではなく郷 田 内 の 人 夫 や 番 匠 肢 も あ る こ と が わ か る と 同 時 に 、 戸 閉 山 師 剛 の 車 中 伎が五ヶ所・十践による奉仕と明寛ら特定の芦間前による奉 仕に二分されることが明らかである。土木工事に附加する五ヶ 所十肢の使役と明寛等の使役が別系統であると考えられる のである。このことは次の史料から袈付けられる。 門 史 料 十 ︺ 町 叫 脚 本 一 記 ﹄ 長 手 一 一 一 年 ( 一 郎 八 九 ) 七 月 十 二 日 条 一 束 石 築 地 六 イ 丈 分 未 レ 下 、 今 日 悉 以 下 一 一 行 之 一 、 今 不 二 出 来 一 分 十 丈 、 盆 以 後 可 レ 築 之 由 、 唱 門 共 市 中 二 入 之 一 、 合 八 十四食文代也、此外粉骨分二食文五百最初申二入之一、 下行、御祝方一一一気文下行、古市サキカケ分一貫二百 文 、 水 桶 分 凹 足 ア i 、 六 百 文 、 合 九 十 一 貫 工 一 百 文 比外辰夫一貫文五ヶ所数物百文、 土木工事に際して人夫役を奉仕する五ヶ所十人(二重傍線部) とは別に石築地造作に腕わる声聞附の集団が奉仕しており (傍線部)、陰陽師としての性格も表すその職務と言い、莫大 な 報 酬 と 言 い 、 人 夫 役 を 車 中 ι比する芦間附との迷いは歴然であ る 。 さて、この機能集団は初めからその活動が確認されるわけ ではなく、次第に活動の機会を得て発展していったことが ︻ 表3
︼から窺える。その到達点とも言えるのが︻史料十︺ に も 示 し た 長 卒 三 年 の 禅 定 院 束 中 嶋 一 苧 の 築 地 普 諮 で あ っ た 。 そ の 時 大 工 と し て 粉 骨 し た 声 聞 師 一 一 一 郎 次 郎 に は 以 下 の 措 置 が な さ れ る 。 ︻史料十一︺﹃雑事記﹄長亭三年六月十二日条 一 十 座 之 明 究 法 問 之 忠 一 一 一 郎 次 郎 男 、 今 度 東 方 石 絞 為 一 一 大 工 司 、 先 以 無 為 ニ 成 レ 弁 之 閥 、 大 夫 ニ 成 レ 之 了 、 設 下 山 且 舜 寺 主 ニ 仰 一 一 付 之 二 御 祝 二 百 疋 向 給 レ 之 、 尾 崎 安 感 は 、 こ の 史 料 を 境 に 一 一 一 郎 次 郎 が ﹁ 明 神 地 ﹂ を 襲 名 し て い る こ と か ら 、 石 築 地 造 作 の 功 に よ っ て 一 一 一 郎 次 郎 な る 大 工 が 一 M m v ﹁大夫﹂郎ち﹁一磁大工の地位﹂に補任されたと解釈とした。 しかし、大工の根本的な理解が欠如している。大工とは、工 事を行う際に番陵座の木所が座内の器用の者を選んで補任す るものであった。それが物件化し売買・枇裂される大工臓と なると箆或いは座内のイ工がそれを所有するが、大工臓を所 有するためには本所に対して補任料を払い、年末年始の贈答 ( 貯 ザ 儀礼を務める等の条件があった。よって大工と鵬次を関連付 けることはできない。とはいえ、尾崎が石築地専業の集回を 発見したのは援要である。大工の理解を正せば、惣座戸間師 集団の中に、職能をもって本所大乗院へ車中位する番匠座が存【表3] W雑翠記』より、長率三年東中嶋率石築地まで声聞闘の参加した工率。 l J:j 『筏 lJ~;it;.! r~H 1 Hl!ln 18
19 f維n3l付fJ己,j 1', 'i.: 工 jllUt!師の{制定 持 創 9文II]J7(1475) 3J:jWf:I・llEJ 3)]101'1
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"l'I:li一人 l'随 一 人 総~,幼下総伎マr役o.t". 刊誌袈坊行Ifi;世世) へP,r.石1ヲit型在機地。位 の た め 元 興 版 部 出 3月llU 0'1邸 二 人 服部坊へf;illlij能。 10文明1I(1品川 2 )J 3U~21!] 2 JJ 3日 河)¥;(次悶mす。 (併前) 2)] 6日 。 十Hfニ 人 十t1~ニ人使役。戸iJ)JjüJ..: flll 沼す。 2}j8 El 。 五 ヶi芳一人 五ヶi9r一人{史役。河)J;(次 郎 容 る。今日が五日!'lであり、下行。 2 JJ !3EJ 河!日次日11-=人容るe 2 J]17日 0'1',主ー人 l 庄日人使役目 2 }-)!8EJo
'I'~巨人 '1,恋人使役。 2 Jj2日fl 。 五'1所 一 人 五ヶji]f一人使役。 2JJ21EIo
Ii.ヶ所二人 五ヶi9f二人使役。三郎君主る。11
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1','J9HI6 El~!O)j 211,'['j9}]IGn i!ii1iにより!!Ii1J院 山 の 域i¥"rn問(四万院11iJ成世話) 針?。 1 ','.19 JJ 17n 。 五'rE!j-咽 !-tlf 奈良中人夫徴J1J.一党習にむ仰使 せつけ五ヶ i苛‘十 t~江a{T内'il"/',' 役 1iヶ19rの 活JlZ.胞 は!ii. 近。'l主役したばかりなので内唱に 使役する。 I~'J 9 JJ 18日 協mg~~t lTJl1(人j、使役e 10)] 1 n
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]J: ヶ jfr. 十tl~ f一史党没。fi'を散発し、五ヶJ苛ー十日f 10月2El 古"ゆ市t失と。筒 井 の 乱 闘 勃 発 し 活 力 院 12文明17(]485) l!JllHI II)J 14日 @ 十r巨 大 工 人 院?叫す大院 公納 1;~ijÎI郷民使役。, (/jit~~お石係修.JlJl) 工一入、ヒ)1:下行。 13文19115(1486tF);白llJlI9n-2:1日 1IJ]!昔日 O jt1!l!lIiil 同郡 大*院〈観郷栄子Y11)拠制$[I!;{'史 (仰地防策j也 ) 役邸。J入M附聞信 紙楽幼下 院大工~サ。 11}]20日e
{jH問白11i詑,I'i"子百すか)1I'Fnとr.,]tXiIこ使役。 llJJ21 EJ 大工左近五郎容る。 1 !JJ22日 築地古来。 ieil(u1111l定i521(11f 487左)右1'1の'jllJJ 9 1:1 1'tJ]1}j9H 0'1脱 二 人 7口典';lj'到;.所持の人夫[主役。十 門 領地時~i'i) 陛二人に下行。 同 氏Cir.本iT131院皇(制14ヲ89係)行2前JJ)3R 2 J:J3 1] ? jllUa自i.] jll開文。聞首下H,行j'院七十文、公取二人二 ! 関郷Jt;~浮使役。 i 6 0 t時JF2Z路Jl地地6位JJ、 2JJ17El .I_!JJ立配下の者 去“l'ニ日より1u方石合の石を日II (禅定院東'1 辿鉱ilIU日 I~。 !]O 4 }:j26日 @ 可11"1方へ下行 三十八!,四百文下行。 6 HI2日 @ ゆi究I正三郎次郎 一郎した次の郎で大大E夫とにし初て任無。事仁、l'終 了 7 Jj 12羽 @ 可¥1") 八1 凹fl文、 扮と未を什完ti分成索の二。j'総T五 百 文 以下降行。iこ~I.I!"Jが 分 を 盆 策くこ 。 五 ヶ 所 五 ヶ 所fJHちJ!:i文。 ※戸Il!開iの使役の分矧 O→7iヶ所 !.H~の関与需人夫としての関与、@→矧むの織他をイ!とかした特定の戸附帥 0)1則与 '*工ijf5で使役されているのは後に訴悶サる戸川剖りJT,U.:lolj一人物と考えられ。が、史料では「ゆI1ZJとしか記されず、 伎が戸市11師であるとは苛い切れない.2
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十 位 す る こ と と な る の で あ る 。 こ の 職 能 集 岡 山 を 本 航 で は 石 築 地 座 と 呼 ぶ 。 ︻ 表3
︼から、人夫として工事に奉仕する傍ら次 第に石築地専業の職能集団が形成される様子が察せられよ う。そしてこの石築地践の発股こそ、森罰竜雄が独立した久 A 旬 } 世 加 仲 耐 臨 や 陰 陽 師 集 団 を 例 に 指 摘 し た 抑 制 践 集 団 内 部 の 専 業 化 ハ ハ 有 化 、 即 ち 特 定 の 職 能 に 収 数 し 特 権 を 独 占 し よ う と す る 動 き の、新たに加えるべき事例の一つである。 さらに、以下の事突は大工械の成立も示すものである。第 一に十殴声倒師の大工による正月参賀の始まりである。戸間 師柴田山の大衆院へ対する儀礼としては正月の﹁南北横行千秋 万歳酒肴済々給レ之﹂、即ち惣座の千秋万歳とそれに対する 報酬が規定されていたが、延徳二年(一一間九O )
には﹁石館 A 印 ︺ 大工十殴物見沙門持参﹂というように石築地授の大工が正月 参 加 凡 を 行 っ て い る 。 つ ま り 、 惣 鹿 戸 間 師 集 岡 山 と は 別 に 、 石 築 地耐胞が大工織を通じて大乗院と新たな関係を築いているので あ る 。 第 二 に 明 究 息 の 一 一 一 郎 次 郊 が 大 工 臓 を 受 け 縦 い で い る こ とである。これは声聞師のイエの成立をも示唆するととも に、批波大工制の確立を示すものであり、戸間師酬が大工職を 所有していると判断されるのである。 こ の よ う に 石 築 地 肢 が 発 展 し た 嬰 悶 は 、 由 戸 間 山 師 集 団 、 大 衆 院 、 そ し て 衆 中 の 一 一 一 者 の 動 向 に 求 め る こ と が で き よ う 。 声 防 御集邸内にお付る嬰闘は、惣践声聞師柴田山からの分化の動き である。十践に問附する芦防仰が石築地殴へ分化したのは波由 があろう。十座の居住地は芝辻子を中心とするが、石材の調 途地である岩井川流域に近く、それ故そこに居住する庭者で ある河原者との競合があったのである。一方、大乗院は長享 三年の禅定院束中総亭のヱ本等、石築地修造事梁に芦間師の 職能を必要とした。そして衆中は応仁の乱後、戸開仰の陣夫 としての動員、特に築城県寸のための動員を磁んに求めるよう ( 臼 } になっている。﹁はじめに﹂で述べた五ヶ所自専論は大乗抽出 の主張であるが、これが例外なく衆中を相手としたものであ ることに今まで注怒が向けられたことはない。だが五ヶ所自 専論の存在こそ、労働力を保持しようとする大梁院と、戸間 師の石築地に関する職能を利崩しようとする衆中の対立の表 現に他ならない。︻史料五︺で衆中の士山市氏が公事足でない 戸 山 山 師n
ヲトナをも動員しているのは、単に人夫としてでは なく特別な職能を期待しているためであろう。戸間師の職能 を人夫として利用しようとしたのは大衆院ではなく、町四 Jろ衆 ( 悶 } 中 な の で あ る 。 以上より、石築地附出発展の嬰閉山は、大采院衆中の石築地 造作の職能への需要と、戸間師柴田山内部における職能集聞の 自立である。見方を変えると、衆中の伎役と声聞師柏市団内部 の動向に対する大乗院の対応が石築地座の公認と大工臓の公 認であったとも言えよう。大乗続は十防団内に分化した戸開削よ;乗院 石築地座の公認により対抗 特権H守 人夫役
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声倒師築関内部の分化、衆中による使役と大乗院の対 応。 集団と結びつきを強め、ここに人夫役を媒介としない大衆続 による新たな戸間部編成が生まれたのである(︻図2
︼ ) 。 そ してこの新たな編成が大工臓を通じたものであることは、芦 間師遠のその後の展開を考える上で重姿であろう。何故なら ば、大工職の成立は職人が寺社との関係を強化することであ るとともに、寺社を領主としての地位から単なる職場として の地位に転洛させる契機でもあるからである。 おわりに j 今後の課題 本稿では、声倒郎の人夫役に関する従来の見解を改め、大 乗院による人夫役を媒介とした声聞師集団編成を明確にし、 その上で職抽出集団の分化と衆中の台頭により戸開削集団の一 部が大乗院所属の座として展開することを明らかにした。権 問の側の動向が非人集悶の動向を大きく左右することは瞭然 たる事実であると一言わなければならないだろう。さらに大乗 読が非人身分支配を取り込んで成り立っている点に、興煽寺 という寺社権門の特質を見出す事も可能ではなかろうか。そ こで次に注目すべきは、興福寺権門を解体に導く衆中の動向 ( 日 間 } で あ り 、 非 人 身 分 を 編 成 し た 寺 社 機 門 の 一 一 決 退 が 、 芦 間 的 迷 を 含めた権問支配下の都市民の近世へ向けた展開にどう彩馴判別し たかを考察することが今後の課題である。 設 ( l ) ﹁ 声 聞 郎 ﹂ と い う 用 組 問 に つ い て は 、 史 料 上 ﹁ 唱 門 的 ﹂ ﹁ 唱 問 問 ﹂ 等 と も 表 記 さ れ る が 、 先 行 研 究 の 表 記 に 従 っ て 本 稿 で は ﹁ 戸 山 師 ﹂ に 統 一 す る 。 ( 2 ) 近 年 の 成 果 は 世 界 人 権 問 題 研 究 セ ン タ ー 編 ﹃ 放 所 声 附 附 舞 々 の 研 究 ﹄ ( 岡 山 文 郎 出 版 、 一 一OO
四 年 ) を 参 照 。 中 世 初 期 に 検 非 逃 使 牌 防 総 下 の 乞 食 が 院 御 所 や 寺 社 に 付 さ れ 散 所 が 成 立 し た2
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が、散所に組織された笈一能を生業とする乞食が戸間獅であっ た。それにより戸間師は蔚住地在的問、臨時淑役を免除される傍 ら、権門との関係による職能(キヨメ)を有したとされる。(隠 お 山 本 尚 友 執 策 部 分 に よ る 。 ) ( 3 ) 以下吋雑事記﹄と略。典拠は、竹内理一ニ編﹃別補統史料大 成 大 乗 附 師 寺 社 雑 事 記 ﹄ ( 臨 川 市 町 応 、 一 九 じ 八 年 ) 。 ( 4 ) 密閉貞吉﹁大和に於ける悶門闘の研究﹂(﹃著作集﹄十、平凡 社 、 一 九 八 二 年 。 初 出 一 九 一 一O
年 ) ( 5 ) 森末義務﹁中世寺院内に於ける野州側の研究﹂(吋日本宗教史 研 究 ﹄ 隆 諮 問 、 一 九 一 一 一 一 一 一 年 ) ( 6 ) 熱田公﹁中世大和の戸郎師に閲する一考祭﹂(部落問題研究館 一 一 一 綿 、 一 九 五 八 年 ﹀ ︹ 7 ) 川崎将生﹁中枇戸山師の一考祭﹂(日本史研究一O
一 一 号 、 一 九 六 九 年 ) ( 8 ) 賂 郎 俊 雄 ﹁ 中 役 の 身 分 制 と 卑 賎 観 念 ﹂ ( 部 港 問 題 研 究 一 二 三 号 、 一 九 七 一 一 年 ) 、 大 山 裕 平 ﹁ 中 世 の 身 分 制 と 悶 家 ﹂ ( 岩 波 講 殴 吋 日 本歴史﹄八、一九七六年)、網野義彦﹃日本中佐の非政栄民と夫 議 ﹄ ( 岩 波 泌 応 、 一 九 八 四 年 ) 等 に 代 表 さ れ る 。 ( 9 ) その制矢となるのが、山田洋子﹁中枇大和の訓人についての 考 察 ﹂ ( 年 抑 制 中 役 史 研 究 開 問 号 、 一 九 七 九 年 ) で あ る 。 網 野 非 人 論 を中枇奈良の非人に適用した山田は、市化初期に大和闘の訓人 集聞が奈良淑非人絹(北宿﹀支配から分化し、五ヶ所・十耐出, 仲 伯 者 そ れ ぞ れ が 権 門 と 結 び つ く 過 程 を 部 い た 。 ( 叩 ) 尼 崎 安 啓 ﹁ 中 世 戸 間 師 の 石 築 地 に つ い て ﹂ ( 花 園 史 学 一O
号 、 一 九 八 九 年 ) 、 ﹁ 中 位 戸 間 師 の 夫 役 と 身 分 ﹂ ( 吋 ﹁ 浮 淡 ﹂ と ﹁ め ぐ り ﹂ ﹄ ボ l ラ文化研究所、一九九一年) (HH) 尾崎安啓﹁中世大和における戸開削﹁一一一線﹂と﹁移住﹂を め ぐ っ て L Q 除 隊 道 議 性 ﹄ 二 、 名 省 出 版 、 一 九 九 三 年 ) 。 (ロ)森田泡鮒﹁中世後期奈良の戸川附集聞に関する一考察ーその 問 削 迭 と 民 間 ﹂ ( 部 落 問 題 而 究 一 一 一 二 日 一 号 、 一 九 九 五 年 ) (日)奈良県立同和附間関係史料センター編吋奈良の被差別民衆史﹄ ( 奈 良 県 教 育 委 員 会 、 一 一OO
一 年 ) ( は ) 吉 野 秩 二 ﹁ 非 人 身 分 成 立 の 隆 史 的 協 挺 ﹂ ( ヒ ス ト リ ア 一 六 沼 号 、 一 九 九 九 年 ) ( 日 ) 一 一 一 枝 暁 子 ﹁ 中 散 後 期 の 身 分 制 論 ﹂ ( 中 世 後 期 研 究 会 編 ﹃ 室 町 戦 罰則を読み植す﹄印 U I X 悶出版、ニOO
七 年 ) 。 一 一 一 枝 の 実 践 は ﹁ 中 世 犬 抑 人 の 存 在 形 態 ﹂ ( 部 諮 問 題 研 究 二 ハ ニ 号 、 一 一OO
一 一 年 ) 。 (凶﹀湖、大和国司護権を揺る興福守寺内では興福寺寺門(学侶 六 万 衆 中 ) e 大乗院一乗院といった務組織が権問問を分有し、 複雑さ故に明らかでない点も多いが、適笈本文中で言及する。 永ぬ福太郎﹃奈良文化の仰流﹄(目黒訂版、一九五一年)、稲築 仲 道 ﹃ 中 段 寺 院 の 権 力 構 造 陥 ( 岩 波 お 脂 、 一 九 九 七 年 ) 等 を 参 照 。 ( げ ) 尾 附 前 拘 註 ( 山 山 ) 、 一 九 九 一 年 。 脱 出 、 初 め て 声 倒 師 と 土 木 工 事 の関わりに白及したのは熱田公(前的註 ( 6 乙であり、その後 森 捌 屯 雄 ( 前 掲 註 ( ロ ﹀ ﹀ も こ の よ う に 評 価 し て い る 。 ( 叩 同 ) 母 時 の 箔 に な る 町 一 一 一 筋 院 家 抄 ﹄ は 文 明 元 年 ( 一 間 六 九 ) 頃 成 立、大梁院の家産機構の全貌が犯され、その後書き継ぎが行わ れ た と さ れ る 。 典 拠 は 、 統 群 訴 判 例 扱 完 成 会 編 吋 史 料 大 成 一 一 一 筒 説 家 抄 ﹄ ( 平 文 社 、 一 九 八 一 年 ) 。 ( 叩 ) ﹃ 雑 事 記 恥 康 正 一 一 一 年 八 月 十 日 条 (初)脇閉附子は、寺内問門跡が守護権を分割領有するという特殊 性をもった大和陣内の領主経済の特質について、﹁個別羽闘側主 的収取形態﹂と﹁大和留守護臓に般拠を求めるような公般によ る斌深形態﹂が併存寸ることを街摘し、さらに前者の京退を後者で補うという実態を明らかにした(﹃日本中世商業発達史の研 究 ﹄ ( 御 茶 の 水 市 房 、 一 九 六 九 年 ) ) 。 ( 引 ) こ の よ う な 公 権 に よ る 賦 課 の う ち 、 衆 中 に よ る ﹁ 一 一 一 党 者 ﹂ の 動員がある。衆中とは、衆徒(的兵)の中から選ばれた官符衆 徒の組織である。学侶六万の下で奈良中の貸借の裁判権、徳 政公布権や疏人 4 時打の取り締まり等の笑務に当たった一方 で、彼らの本質は在地領主であった︿安田次郎﹁興福寺吋衆中隔 についてーその呪術的側聞﹂名古屋学院大学論集一一