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『ウォールデン』研究:(Ⅲ),(Ⅳ),(Ⅴ)

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『ウォールデン』研究:(Ill),

(IV),

(V)

上 岡ト 克 己.

 (人文学部英文研究室)

A Study

of l/1を&か,z:(Ill)。バIV),ニ(V)

      KatsumiレKamioka  = (Departynent of Efiglisk,Fa回伽of Humanities) ニ         第三章:∧作品Zaの芸術世界一カオスからコスモスヘ      ト      I 多様な中の統一(unity inニmultip!icity)   ニ ト Thoreauが自らのウォールデン湖での実体験を単なる自叙伝的なものに終ちせないために,つま り体験を高度な芸術作品に結晶化させるためには,主題,構造,技法の相互関係を常に考慮しなが ら進めてゆかねばならなかった。主題の中核に19世紀中葉に生きるし「人間の状況」,すなわち世界に おける人間の位置づけ,世界の他の要素と人間の相互関係を据え,それを多角的な視座かち一つ一 つ検討を加えて,新しい人間の生きるヅイジョンを再構築することにThoreauの意図が見出される のであって,決して7?反面sow Crusoe的物語ではないのである。大事なのは,いかにして自らの魂 を失わずして生きるかということなのである。ただし彼のウォールデンにおける存在状況と√それ に付随して湧き起る豊かな想像力の飛翔により,様々な問題が生じで√一筋縄ではゆかぬ複雑極ま る世界が展開されることになる。実際彼自身がWaldenに取り上げるべく多くのデー。マを意識して いたことは,例えば1851年9月4日の日記からも窺われる。この中で次のようjに述べている6「正し い感動させるテーマを見出すためには,多くの話題について書き,多くのテーマノを試してみること が賢明である。‥…・宇宙を多角的に調べよ。……自然が多くのどんぐりから一つのオークの樹を造 るように,正しいテーマを見出す前に多くのテーマを試してみな廿ればならないのである。多角的 な視点を持っている人が賢明であり,体験豊かな人であ‥るのだ。」(ム2:457)このような人生に 対する姿勢から,彼の関心は文学や哲学にとどまらず,宗教,科学,博物学,政治,経済にまで多 岐にわたり,ある意味でHardingがいみじくも述べているように,「廿訪/四が読まれるのは単なる 一つの理由ではなく,多くの理由からなのである白」ということになるが,他方結果として多ぐの 誤ったThoreauの虚像が形成され,最終的に作品評価にまで大きな影響を与えることになったので ある。●      コ  周知のごとくThoreauは各批評家から相反する名称で呼ばれてきた。例えば「詩人博物学者,コ ンコプドの戦士,超越主義的な異常者,怠け者, Rousseauの野生児の一人,文学的反逆者だがよい 社会主義者とは異なる,国立州立公園の父, Chateaubriand的高貴なイツディアンの一人,経済学 研究者,ヤンキーの商人,信仰至上主義者,アマチュアの性科学者,ブルジョア的イデオロギーの 産物,ニューインダランドの奇人√哲学的アナキスト,神経症患者・2」な才と形容されている。こ れらの形容は, Thoreauの人生や作品の中に垣間見られる要素であって,全くの虚像,誤謬とみな すわけにはゆかないが, Thoreauの唯一無二の友人Channingが賢明にもブ詩人博物学者」と呼ん

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232 高知大学学術研究報告 第39巻ト(1990年)人文科学

だことを除き,これら,の見解はあくまでも彼の人間像の一面を語っているにすざず,木を見て森を 見ない狭量な見方といえるであろう。Thoreauの人生や彼の作品には一貫した統一的要素があり, それを探求するのが本章の眼目なのである。      ト

 Thoreauの伝記はThnrenu : ThePoet一Naturalist(1873)という形X\ Channingによって初め でこの世に紹介された6この伝記の内容に関しでは必ずしも満足のゆくものではないことは,多く の批評家が指摘するところだが, ChanningがTh:oreauの特徴を「詩人(poet)」と「博物学者 (naturalist)」であると定義したことは,これからの論を進めてゆく上で重要となる。もっとも詩人 としてWhitmanやDickinsonに,博物学者としてLinnaeusやDarwinに伍するという意味では なく,あくまでも人生に対する基本的姿勢が詩的であり博物学的という意味なのである。多ぐのデ ィレンマを孕みながらもiある事実を丹念に調べ上げる自然科学者の視点と,その事実が人間精神 に与える影響について表現する詩人の視点,つまり自然研究者としてと作家としての二つの視点は, 彼の人間像と作品を語る上で抜きにしては考えられないのである。し詩人と博物学者の接点は自然で ある。自然の構造を支配している法則と同じ法則が人間の構造を支配しているのではないかと彼は 考えた。 natureには外的自然と内的自然(human nature)の二つの意味がこめられているのである。 自然界には神性なもめが見うけられる。それを認識するためには,当然人間の方も常に自jらを完成 させる必要に迫られていたのである。「全体的な人間(a whole man)」という概念がThoreauの脳 裏にあった。それゆえにWaldenにぱHigher Laws” と いう二章が特別に設けられて,人間そのも のの内部の改善,すなわち「人間の開花(flowering of man)」(W, 220)を強調するのである。後 に詳しく述べるように,彼の人間性と作品とが密接な関わりをもっているという事実が肝要であり, 「作品め完成は常に製作者の完成と比例している」というAristotleの言葉が思い出される。 /l仙仙魏 はThoreauという一個の完全な人格が反映されたものであ‰生き方と作品は一致するのである。 との意味で,モラリストとしてのThoreauの側面も抜きにしては語れないのである。実際彼はphi-losopher√poet, naturalist, moralistとして,部分的断片的人間ではなく真・善・美の均衡のとれ

た「全体的な人間像」を探求し続けたのであった。これはLewis Mumfordの言う「全体的人間の 概念戸3に他ならないし, Waldenの最大の主題は,との概念の確立にあり,人間そのものが考察の 主たる対象となったのである。 Walde?zを理解する上でも作者の人間性と作品との関係----一人生と 芸術の均衡-は極めて重要であり,作者は詩人であると同時に一編の詩であることを望んでいた ようにも思われる。Waldenは彼の人生の詩であったのである。このことが,眼清信zの主題と構造 に大きな影響を与えているように思われるのである。  ではThoreauの人生や作品を貫く統一的概念とは何であろうか。それは一言で言えば彼の宇宙観 (cosmology)あるいは宇宙創造観(cosmogony)に他な/らず,コスモス(kosmos, cosmos)とい う概念で物心両方の世界を認識することである。彼はコスモスについて何度か言及する。「虹は天上 にかかる光り輝ぐ荘厳な色彩のアーチである。……・宇宙の製作者が人間との盟約を裏書さしている。 多くのものはこのようにして定まるのであるレ人間に印象を与える構想をもっている。宇宙を眺め るすべての人々は,ギリシャ人が世界にあてはめた形容一世界の名称一−コスモス(koSmos),/ すなわち美の意義を理解し始める。宇宙は人間に印象を与えるための構想をもうていたのだった。」 (ム4 : 284-85) /「ギリシャ人が世界をコスモス(KOffμor).すなわち『美』もしくは『秩序卜と呼 んだことを耳にするが,私達にはその真意がはっきりわかっていない。せいぜい不思議な文献学上 の事実としてのみ尊重しているにすぎないのである。」iWr 5:242)これらの例からも察せられる

ように,コスモスとぱ「美と秩序と配列(beauty, order and arrangement) を意味するギリシャ

語に由来し, Thoreauを初めとして他の超越主義者達も自分達自身や自らの芸術作品がこう七だコ

(3)

『ウォールデン』研究:\(m),/(IV),(V)(上岡) 233 Waldenを解釈する上で極めて重要な示唆を与えることになるのである。        ト  この世は驚くべきほど多彩な世界である。HarivanRaも語っているがごとく↓「我々の眼は讃歌を もってこの宇宙の驚くべく,そして多様なる諸相を観じ,\そして魂に伝える6夜は疑いノもなくこの 栄光ある造化の一部分を覆う。しかし昼は来りて,大地から精気の漂う天空心至るま恰広がるこの 偉大な作品を我々に啓示するjト{W, 282)のであり,実際既公刎こ描かれた世界は複雑多岐な多

様性の世界である。しかしThoreauはこの多様な世界の中にも統一原理(

一性(unity)がある\と考える。それは先程の虹の例にも見られるように,

の調和と美を創造し9・ .I全体を秩序と統一へと導き,更にはこの全体を

をもっ=た存在と関係がある。我々は「造物主が教えようと苦心した価値 く軽視しがちである。 “Economy”の中の「より無限に偉大で不動なるも

principles),統

の秩序の見事なまで

し支配する全能の力

維持されていると信じる」iW,!?,)に始ま万り, Walden中「すぺてのものに一番近くあるものは, それらのものを作ったあの力(that power)である」(Hへ134)「地球の製作者」(叩,308),「宇宙 の創作者」(叩,329),「人間という虫である私を見おろすより偉大な『恩人』と『知慧』」(W,332) そして何よりも“Spring"に見られる宇宙創造過程の一部を目撃して,「世界と私とを作った,あの 『芸術家』の工房に入ったような」(W, 306)と書きとめていることだ。このように何度も言及され ているのは,神の存在以外のなにものでもない。彼は自然の中に内在する神を見出そケとしたので あった。彼はウォールデン湖にも神性さを見出したが√そのウォールデン湖で│さえ後で述べるよう に文明の侵略の危険性が多分にあったのである。そのため彼は最終的に自然を越えた神の世界に絶 対的な信頼をおくようになり,多様な世界は神の下に統一されるべきであるという確信をもつに至 ったのであった。   ト     ∧  このような統ご的世界は真・善・美の調和のとれた世界と考えることもできよう。 Thoreauは

Walden全体にこれらの三要素を展開させ,特に“Where I Lived, and What I Lived For”では真

理,“Higher Laws” では善,“ThePonds”では美を探求する。そしてこれらの三要素の調和が√彼 の場合単に外的な世界にとどまることなく,内的なコスモスの世界になることが肝要であった。「真 の完全性(a true integrity)バ叩,6)を求めて,「眼を内に向け」(W,320),て自分自身を探(Explore thyself)」(叩,322)ることを常に強調する。人間は小さいながらも,均衡のとれた小宇宙(microcos-mos)を追求せねばならないのである。「天の法則と地の法則を正しい比率で遵守する人こそ幸福で ある。……自然や神に受け入れられる均衡のとれた生活(a balanced life) を送る人こそ幸福であ る」(C, 247)と述べる。この例が初期のEmersonの中に見出された一一『愛が支配し,美が取っ て代わる,人間と自然は調和する。』iPJ,2:224)最終的に高度な芸術作品は,作者自身の性格が 完全に統一されてこそ誕生するという信念から, Thoreauは自らの人間性を常に陶治し,そのパラ ダイムとして自然を観察し続けたが,自然と一体になればなるほど不完全な側面をもつ自然を越え た完全な神の世界に惹きつけられるのであった。      ト

 ThoreauぱSpring”の中でWaldenの主題と構造を暗示するー一一「春の到来はカオス(Chaos)

からコスモス(Cosmos)が創成されたように,また黄金時代(G01den

Age)が実現されたように

思われる。」(W,

313) Waldenという作品は,“Economy”というカオス的世界から,多様な世界が

展開する章を経て,“Spring”のコスモスの世界までのメクモフォーシズの過程を扱ったものと解せ

られ,それは裏返せば語り手「私」の意識のメタモフォーシスでもあったノ最後の“Conclusion”は

作者白身の統一のとれたミクロコスモスそのものと考えられる。この意味でSherman Paulが

眼清勿zを「再生の寓話,メタモフォーシスの書注5」と定義したのはもっともであり,

OvidのMeta-morbhosesがWaldeかの構造に大きな影響を与えていると思われる。ただし主題をメタモフォーシ

スと言い切ってしまうほど作法/9の世界は簡単なものではない。Thoreauは首尾一貫した統一的

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234

高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文

全体像(同時に語り手自身の精神的統一)を追求するが,そのプロセスにおいて語サ手に緊張関係 を強要し,その存在すらも脅かす否定的イメージをも数多く提示する。その最大の章と呼んでもさ しつかえない“Economy”は,人間の基本的生活ノタクーンである衣食住のカオス的世界を展開し,

“Sounds”における鉄道,“The Pond in Winter” における水切り人の例にも見られるように,純粋

性,神性,永遠性において絶対的信頼のおけるウォールデン湖とこ体となりたいと欲する語り手の 意識ですら物質文明に脅かされつつある現状を作者は提示するのである。それは同時に工デンとし てのウォールデン湖ですら脅かされていることを意味するのである。この万ためにThoreauは自らの 実体験を超越するためにも,構造上工夫せねばならなかった。その一うが神話の使用となるのであ る。       \  コスモスの概念を知る上で,第12章“Brute Neighbors” の中の疑問一一-一一「なぜ我々が見る丁度こ れらの物が世界を形づくっているのだろうか?なぜ人間は丁度これらの種類の動物を隣人にもって いるのだろうか?」(W, 225)は重要な意味をもつ。これと同じ内容の表現が1852年4月18日の日 記の中に見られる。「なぜこれら目に見えるもの耳に聞えるものが,私達の生活に伴っていなければ ならぬのか?なぜ毎年ブラヅクバードの嚇りを聞き,スカンクの臭いをかがねばならぬのか?=僕は 自分自身とこれらのものとの神秘的関係を探求したい。少なくともこれらのものがなくてはならず, 私達の生活の図となり,その岸辺がどのように曲っているのか,y蝶が再び現われ,それが何時かを 知りたいし,なぜ丁度この創造物の輪が世界を完成させているのかを知りたいのである。」(ム3: 438)これらの発言からもわかるように, Thoreauは身の周りのものー−一自然を構成する4つの要素

earth, water, air, fire一一を観察すればするほど,自然はただ岫つで独立して生きているのではな く他どの関係,相互に依存しあう関係で生きていることを知るのであった。自然界は一見多様で複 雑極まる混沌の世界でありながら,そこに存在する万物は決して盲目で機械的な必然性に支配され ているのではなく,自らの存在の法則に従って秩序と調和の下に均衡した統一的世界を表現してい るのである。「自然の配置にはどこか宇宙的な(cosmical)ところがある」(坦2 : 192)と述べて いる。このような考え方は多分にロマン主義的自然観を反映しており, Donald Worsterによれば 「ロマン主義的自然観は基本的に生態学的なものである。-すなわち,それは関係,相互依存,全 休論に関心を向けていた。‥…・Thoreauは活発な野外生態学者であり,同時に自然哲学者であった が,その考えは現代の雰囲気を多分に先取りしていた。彼の生涯と著作のうちに,次第に複雑にな り洗練されていった生態学的な哲学と,大地に対するロマン主義的な態度の表れを見てとるととが

できる注^oj Thoreauの著作にヱコロジカルな意義を見出して

きであり,とりわけ自然万物を単一の不可分な統一体としてと

ゆくWorsterの姿勢は評価されるべ

iらえる全体論√自然万物を一連の個

別的な部分としてよりも互いに依存し関係しあう全体とみなす有機休論は, Waldenめ構造の基盤 をなすものである。自然を単に見る自己だけではなく√つまりseeとseenという相互依存の関係が 「僕とこれらのものとの神秘的関係」なのであり,宇宙の普遍的法則であると考える。これは哲学で 言えば新プラトン主義的な概念であり, Worsterは次のように定義する一一『一時的で劣った自然 界の上ないしは向こうには変化せず完全なr統一体』があるとする概念に基礎をおく哲学的伝統で ある。‥・‥・新プラトン主義は,あらゆる表現形態において自首に関する全休論的な見地−−一多性性 における統一,共感と相互依存からなる世界一をとってきて,生態学的な思考に重要な影響を及 ぼし七きた作7.」  ■  ■      .I     。・。。  ・ 。 。        。      ・ 。  。  Thoreauによれば自然の基本的特徴はその多楡既にあるが,またそれは統一という特徴をもって いる。多様性の中に統一的なものを見出そうとする彼の姿勢は√最も影響を受けたとされるEmer-SonのNatureの次の一節からも裏付けられる。「至る所で目にふれる『自然』の統一一多様のな かの統一性(unity in variety卜が理解される。……本の葉一枚,水の一滴,結晶体一個,一瞬の時

(5)

『ウォールデン』研究:(Ⅲ), (IV), (V) (上岡) 235 間も全体に関わっており,全体の完成にそれぞれひと役かっている。 分子 のひとつひとづが二個の 小宇宙(midocosmos)であり,世界の似姿を忠実に描き出す。」{CW, 1 :27)これぱなにも自然 にだけあてはまるものではなく,人間の各部分も全体の完成に努めなくてはならぬのである。つま りはheadやhむartだけではなく,肉体や精神も完全に均衡がとれた状態が要求されるのである。人 間は「神のイメージで造られた」け√2 : 208)のに,実際はそれとは程遠いのが彼の実感であった。 したがづて完成された人間像の過度に理想化されたものが,“Conclusion”の中で言及されるクール

ーの芸術家像である。彼の世界は「充実した,うるわしい,均斉をもった世界(a world with full

and fair proportions)」(Uへ327),真・善・美のコスモスの世界であった。しかしながら現実の人々 の生き様を見るにつけ,人間の心だけがこの統一性を失っているよう:にThoreauには見えるのであ る。 Emerson がいみじくも述べているように,「世界が統一を欠いていて,散乱したり山積みになっ たりしている理由は,人間がおのれ自身との統一性を失っているから」(Cf√1:43)なのである。 そもそも個人(individual卜という語を考える場合,本来の語源の意味であるindivided (分裂して いない卜自我の統一のとれた存在でなければならぬごとを肝に銘じなければならぬのである。語源 に精通しているThoreauは当然のことながらこの事実は意識していたので,彼は自然の統一的な世 界を探求すると同時に自己の内的統一をもはかり,部分的断片的な人間ではな=く全体的な人間であ りたいという願いを終生もち続けていたのであうた。その一つの道が詩人になることであり=,それ はEmersonが言うように,「詩人は,片寄うた部分的な人間のあいだで,完全な人間」{CW, 3: 4)を表わしているからであった。古代ギリシャやルネッサンス期に見られた,均衡のとれた全体 的な人間のヴィジョンが作者の考えていた理想的人間像であった。この意味でケ皿7μ四は,普遍的

な人間性探求の書と定義されよう。「人間の中の神院を語れ/ (Talk of a divinity in man ! )」(W,

7)という類の表現がWaldenに頻出するのは, Thoreauの意図が自然の統一性と同時に自己の統 一性を探求していた明白な証拠といえる。彼は自らの完全なモデルとして自然を観察し,「自然の中 の神院な特徴を注意深く表現する。僕の仕事は注意して自然の中に神を見出すこと」(ム2 : 472) と述べている。このように神院なものの探求がWaldenなのである。彼が最終的に辿り着いた理想 の統一的世界は,自然界は必ずしも彼の理念を完全に映すものではないことがわかったので自然を 越え,有限の時の世界を超越した,完全な人間の真・善・美の統一的性格の完成された世界√すな わち神の世界にあることが,│ン轍尽四中何度となく現われる神の世界の示唆によって明白となるの である○       ・   ■   ・ ■■       ■        ■

\ 十      II

Waldenの構造      ‥

Waldenに初めて接する読者は,ニ見無秩序で纏まりがなくプオヴムレスに見えるこの作品に途

惑いを感ずるかもしれないが,入念に分析:してみると‥。極めで機能的な統一のとれた作品であるご

とを知る。実際Waldenを有機体とすれば√各章は他の章と互いに密接に関係し合い,どの章,ど

のエピソードが欠けても全体を損うことになるのである。全体は各部分,各部分は全体と,自然界

の生物と同じく相互に依存し合う有機的統一のとれた構造となっている。     上   … …

 この有機体論(organicism)というのは,自然を一つの円滑な機械とみなす機械論(mechanism)

的見方に対して生まれたもので,当時の口‥マン派の作家達に快く受け入れられている。Worsterの

定義によれば,「生物をあらゆる自然のモデルないし隠喩とみる哲学で,有機体は物理一化学的な分

析になじまない性質をもっており,このことは全体というものが総合的な働きに由来している,換

言すれば,全体は部分の総和以上のものであると考える。この原理を生態学に適用すると√=自然の

秩序は人体に似ていなくもない『複雑な有機体』とみなされる。かくて√自然の各要素-一一-一各々の

(6)

236

高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学

植物や動物一は,それが全体に参画し依存していると考えで初めて十分に理解できる。\相互依存 という性質がここでは最も重要であるが,それは科学上の論議というよ‥りも形而上学的かつ道徳的 な見地となっている注8.」       ニ  有機体論は既に述べたようにロマン主義的自然観の根幹をなすものであり,これがWalden \こあ てはまることは,例えばMatthiessenがAme.tican R心証ssfl-ncfiの中の第4章“The Organic

Principle”でWaldenを扱っていることからも察せられ。よう。 Lauriat Lane, Jr.ぱOn犬the

Organic Structure of 眼z靖だの中でColeridgeの一節を引用して,「有機的形式は生得的で,それ は内部から自らを成長させるにつれて形成され,成長した中味と外面的形成は完全に一致する注9」

と述べ,更にM. H. AbramsのThe Mirror and thelM,mpで言及されたColeridgeの有機理論

(organic theory)に特徴的な5つの段階を補足して説明する。 Coleridge iこよれば,(1)植物は種子

(seed)に始まる……・・(2)tl直物は成長する(srow)……(3)植物は成長しながら自らの中に地,空気,光, 水などの異質で多様な要素を取り入れる……‘(4)1直物は自ら進んで内部エネルギーを使って発達成長

(evolve)する……(5)植物が得た構造は,有機的統一性(organic unity)である。この有機理論が

WaldenにあてはまるというLaneの説は,1仇法7z中に植物のseed, grow, evolveのイメージが頻

出すること,及び“Sprinが’の有名な一節-「無機的なものは少しもない。……大地は書物の紙葉 のように層をなして重ねられ,主として地質学者や考古学者によづて研究されるベノき単なる死んだ 歴史の断片ではなく,花や果実に先がける本の葉のごとき,生きている詩である→ヒ石した大地 ではなく生きている大地である」(W, 308- 9 )を読めば容易に理解されうるであろう。このよケに Waldenが有機的構造をもつのは明白である。ただ重要なのは,植物の内的エネルギーが外的構造を 決定するのと伺じく,作者の人格が相応しい表現及び完全な作品構造を決定することである。\「作品 にフォームを与えるのは,一連の外的か文学的伝統ではなく芸術家の個性注1o」なのであり,「作者の 性格はタイトルペうジから最後まで読み取れる」ipj, 1 : 276)という彼の主張は,イメージやシ ンボリズムでのみこの作品を論じようとする姿勢に警鐘を鳴らすものである。        ニ  WαIdenの構造について考える場合,Thoreauの芸術性が今までどのように論じられてきたか,そ の批評の変遷の歴史を辿ってみることは,これからめ構造論議に多少なりとも有益になるであろう。 彼の師であったEmersonは,彼の詩について「器用さや巧みな技巧に欠け……多くの場合未熟で不 完全なもの」{Wr, 1 : xxxii一xxxiii)と述べ, Lowellは「ThoreaUは偉大な芸術をコントロール して,落ち着いた均衡のとれた完全さまで導く芸術的熟練さを全然もっていなかったが,文や節, あるいはあまりなかったことだが,超然とした思想,感覚,イメー=ジを表現するための短詩を作る

際の絶妙な機械的技巧力はもっていたちしと語る。更にHenry Tames は「Thoreauの才能につい

ては天才的なものは全くないと思う。……彼は不完全で完成されておらず,非芸術的である。粗野 よりも仕未が悪い一一偏狭である…・・・自然現象の観察には顕著な才能が見られた注12。」以上とりあ げた19世紀的な見方に共通するのは,才能の可能性は秘めていたとしても,それを芸術的レベルに まで高める技巧力に欠けていたという認識であった。特にLowellが指摘しているように,部分部分 に評価できる点はあるにせよ,それらを構造,イメージなど均衡のとれた作品の完全さに導く芸術 的熟練さをもっていなかったことである。これはおそらくフォームレスに見えるAI秘話o涜む Concord andMerrimack RiversやWalde万を意識しての発言なのだろう。20世紀になってFred

W. LorchぱThoreau and the Organic Principle in Poetry” を発表したが,せっかく有機的原理

に言及しながら, A Weekと眼7臨治に関しては統一性に欠けると断言するー「Thoreauは適切

な秩序と配列が必要だとは指摘しているが,各部と全体との調和のとれた関係,また全体と各部と

の調和のとれた関係に基づく構造的統一性(structural unity)という意味でのフォームは, Thoreau

(7)

『ウォ≒ルデン』研究=:(Ill), (IV), (V) (上岡) 237 全なまでの統一性の欠除を思い起せば十分であろう。Thoreauは小さな構成単位を構築することに ついては大家であるが,/大きな構成単位の構築に際しては,構成というよサもむしろ中心的気分や 人生に対する態度から生じるような統一性を獲得しただけであった注13.」十〇rganic Principle を l轍臨り7に初めて適用したのは前述したようにMatthiessenで,その大著AmericanノRenaissance の中では,従来言われているようなレ文の大家ではなく,文学的建築術(literary architectonics) の大家であり,文学的技能,技巧,とりわけイメジャリー,象徴,神話を使用することで統−のと れた構造を創造する才能があったことを中心に論じている注"oj MatthiessenはColeridgeの唱え た「内部から自らを発展させる」という有機的フォームに見事なまでに1ン轍哉加の構造がかなって いるとみなし, Waldenは湖畔体験のエピソードの羅列ではなく√各章が季節の循環に合わせて相互 に関連性を保ちながら進展すぶことを指摘している注15.   \       \    十  こうしたMatthiessenの指摘をふまえながら眼疵勿zの構造を考えると,まず基本構造としての 有機的構造があり,有機的構造は外的構造と内的構造の二つに分けられる。外的構造は時間の枠の 中にあり,自然の秩序が基盤となる1年の季節のサイクル構造であり,自然の生・死゜・再生のサイ クルを看取することができる。その象徴の最たるものが「死んでいたウォ十ルデンが生き返ったの だ」(.W, 311)の中に読み取ることができる。内的構造とは,人間の,つまりは語り手の内的変化 の構造であり,そこには意識の再生としてのメタモフォーシスのプロセスが見出される。多様なエ ピソードを取り上げながら,それらを途絶えることのない全体に纏め,統乙感を与えるものjは外的 構造としての季節のサイクルであり,そのような自然の秩序の中で生きる人間は自然の再生のサイ クルに学び,自らの意識を覚醒させて自己を完全にしようとする努力を怠ってはならないのである。 すなわち自然の有機的歩みを知り,メカニカルな「道具の道具」(彫,37)となっ力自己を解放して, オーガニックな生活を試みなければならぬのである。このような外的構造はWaldenで突然生まれ

たわけではなく, William Howitt のA Bookof theSeasonsユ;or the Calendar oリ\latureやJames ThomSonのThe Sfiflso-w-sの影響,及び初期の自然エッセイ“Natural History of Massachusetts”

にその萌芽が見出される。人間の意識の再生としての内的構造の構想は, 1847年完成の第一稿には 見当らず,評価なaが出版される1854年までの7年間に徐々に暖められ形成されていったのであっ た。この過程でThoreauは時間に左右される有機構造を越えた原型的,普遍的,象徴的な神活的世 界を探求しようとしていたので,既に第二章「Waldenの成立過程」で述べたよケに,神話構造が別 途重要な意味をもってくるのであった。      犬

 ……       m 各章と全体との関連性

 EmersonはNα飢花の中で自然の効用として実益,美,言語,訓育をあげているが,

Sherman

Paul

はこれらの自然の効用力汀約/励刀に生かされていると指摘する注16。例えば実益ぱEConomy”,自然

と美ぱSounds"や“S011tude”,言語ぱBrute

Neighbors”, 訓育ぱReading”,“The

Bean-Field”

や“Higher Laws",

理想主義,精神,将来の見込みについてぱThe

Pond in Winter”,“Spring”

や“Conclusion”に見られると語るが,これでは対照を指摘しただけで有機構造を説明したことに

はならない。 Harding

は芸術の有機的理論(organic

theories of artトを次のように定義するー一一

「真の芸術作品は人為的に構成されるというより,芸術家の生活と思想から自然と生まれてくるもの

である。作品臆内部から外に向って成長し,そのフォームは表現される概念の中に個有に存在し

成長するに伴って形成される。作品にフォこムを与えるのは一連の外的な文学的伝統ではなく√芸

術家の個性なのであった。この有機的成長の文学的結果として,すぐに見分けられるフォームは生

(8)

238 高知大学学術研究報告 (1990年)人文科学

ムが見出されるのか,もう少し詳細に検討してみることにしよう。下記に掲げた表は,

Waldenの章

題と頁数,し節数,季節名である。      犬  ノ

Ch 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 Economy   \

Where I Lived, and What I Lived For 犬 Reading Sounds Solitude         , Visitors ’・ The Bean-Field The Village      ‥ The Ponds Baker Farm     犬 Higher Laws Brute Neighbors House-ぺAlarming    十      尚 Former Inhabitants ;and ぺA''interVisitors ぺA'"interAnimals     ト

The Pond in Winter

Spring      : Conclusion

Pages

 78

 18

 12

 18

 11

 15\

 12

68935851719J    2  11111121

Paragraphs

      ︵ − J C X ) O O C S l O n 乙 I 1

  コ ] o o   t > -I I   ﹁ コ Q J 4       o o         7     o o         +     +   4     1   C M C O   つ I 一   ﹁ − J C 7 5 L O C V l O i       1 1 1  うJ 4LOn乙I

D

17

39 48 +9

Seas皿

Spring

」 」

Summer

Fall Winter

Spring

       十     (頁数,節数はプリノンストン版による)  章番号については実際はW屁か刀には存在せず,散慢な読者はそれゆえに眼疵か,zが断片的で単 なるエッセイの寄せ集めであると即断しがちだが,むしろLaneが指摘するように「メカニカルな連 続性を無視し,より巧妙で意義あ名動きのパターンを追求するm8」ためなのである。もっとも本論 では便宜的に章番号を使用することにする。 \コ      犬  上の表から一見してわかるWaldenの構造的特徴は,一言で言えばフォームレスに見えることだ。 章の頁数にアンバランスがあり,一つのパラグラフが異常に長くほぼ一頁に一つあること,季節は 夏が圧倒的に多く,必ずしも均等な四季に分かれていないことである。中心章とされる“The PondS”や“Spring”が他の章よりも長いのは当然としても,全体の垢を占める第1章“EConomy” の長さは異常とも思われ,最も短い第8章“The Village”の13倍もある。“Economy”のその分量 の多さは,作者の想像力に歯止が掛からなかったためで,明らかにWaldenの構造を根底かち揺る がしかねない突出したものといえる。もし均衡のとれた美的構造を目指すのならもっと圧縮されて しかるべきであっただろうし,そのディーテイルの重視の姿勢は後の構造としての虚構性を損いか ねないのである。もっとも“Economy”を“ConcluSion町こ対するプロロニグとみなせば,作者の個 性がフォームを決定するという有機的原理には何ら反するところがない。つまりはこの章は他章と 比較して作者の個性がかなり率直に表われている章と考えることができるからである。ともかく “EConomy”は一つの優れた文明批評論で,独立して十分一つの作品としても読む価値かおる。 “EConomy”の長さは,文明の築き上げたものの多さ√複雑さであり,いかにごの世が人工的なもの が多いカオス的世界であるか,それに対するThoreauの怒りを如実に示す章とみなしてもさしつか えあるまい。     ニ       ● 犬     ,         ニ  ご     >

(9)

「ウォールデン」研究:(HI),(IV)=,(V)(上岡) 239 Waldenの18章はThoreauトの愛読書の一つBhasavad≒Gぬの18章と一致し,‘'Economy"の108のパ ラブラフ(107のパラグラフ+1つの詩)は,ヒンズー教の1年の1/100である。 107という数は√ウ ォールデン湖の最深時の深さと一致するレWaldenの2章からり章までの前半部分には際立ったパ ラグラフの規則性が見出せる。それは図示されているように,第2章と3章のパラグラフの合計が 6章と7章のパラグラフの合計に一致し,べ章と5章のパラグラフの合計が8章と9章のパラグラ フの合計に一致することノ及び2, 3, 4, 5章のパラグラフの合計が6,ト7,ト8,十り章のパラグ ラフの合計と一致する数学的シメトリーが見られる。更にこの上に√10章と11章のパラグラフの合 計24は1日の時間数,12章と1¨3章のパラグラフの合計31は1月の日数と一致する。これら24と31の 数字と,14章と15章のパラグラフの合計39と,16章と17章のパラグラフの合計48を比べてみると, それぞれ十7,十8,+9と数学的シメトリーを保ちながらパラグラフが増加していることがわか る。これちの事実からCulverは「円環というよりは螺旋注2o」のフォームが見られると指摘する。こ れらの事実社確かにWaldenのコスモス構造を実証するものであるが,ただあまりに微に入り細を 穿った数学的シメトリーを強調しすぎると,本来のThoreauの求める「全体的人間像」とは大きく ずれてくる危険性があるので,ここでは指摘だけにとどめておく。    犬 丿  外的構造としての季節に関しては,その大半が夏に集中し明らかに不均衡を呈するが,先のメカ ニカルな章番号の件と同様,これも自然の有機的プロセスに合わせたものと考えれば問題はない。 なぜなら生物にとって最も活動が盛んな季節が夏だからであ‥り,それゆえ夏の描写が多ぐなるので ある。人間の精神構造もそれに似ている。秋については1852年7月14日の日記:「樹木は普通↓年に 2回の成長を遂げるけれども,時には秋の成長が春の成長に匹敵することもある…‥・秋のこめ成長 は新しい春と呼べるものだ」(ム4 : 227-28)にもあるように,第二の春としての象徴的な意味を 理解するに至っていたが,クライマックスの章としての“Spring”の再生の意味を劇的に表現する ために深入りすることは避けたように思われる。  Thoreauはy1所以で実際の2週間の旅を1週間記したのと同じよラに,叩訪かねにおいても2 年2ヶ月2日(1845年7月4日から1847年9月し6日まで)のウォールデン湖での実体験を,犬普遍的

な1年という時の経過に大枠を決める。 “Where, I Lived, and What I Lived For” の 中で 「便宜的

に昔年の体験を1年にする上(叩,84)と語っ七いるが,これは明らかに作品の構造を意識した発言 と解される。“Economy”の中で3月末に森を切り開レ吝小屋を建て始める描写に始まり,次章

“Where I Lived, and What I Lived For”の中で独立記念日にその小屋に住み始めた事実を明らか

にする。その後“Reading”から“The Village”まで主に夏が背景となっている。その後,‘'The Ponds”から“Brute Neighbors”までの4.章が秋に相当する9秋に作物が実るように,語り手の意 識の中でも充実感が感じられる。 “The Ponds”の中に美しく静かな秋の描写が挿入されているー 「9月または10月のそのような出こは,私にとってウォールデン湖は宝石と見紛うばかりの小石を周 囲に散りばめた森の鏡そのものである。湖ほど美しく清らかで,しかも広々としたものは‥…・大地 の表面には横だわっていないだろう。」(W,188)物語が展開するにつれて,季節が秋から冬へと移

る。それを扱っだH ouse-Warming”に続くのが冬の3章と呼ばれる‘'Former Inhabitants; and

Winter Visitors”,“Winter Animals”, “The Pと)ndin Wint ・’であり,最後にウォールデン湖の 氷解,光の春の到来の描写で“Spring”が終り,前年の春から始まった1年の季節のサイクルが閉じ

ることになる。 <      < 十        ト   l  季節のサイクルが全体の大枠を構成しているとしても,作者の視点:は自然にばかり向いているの

ではなく,自然を軸としながらも人間と社会と神との関係にその洞察の中心があることは,特に最

初の3章“EConomy”,“Where I Lived, and What I Lived For",“Reading”と最後の“Conclusion”

(10)

240

高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学

WinterレVisitors”という章題からも推察される。ノ目秘話で見られた構造上の欠陥としての不用意 な脱線(digression)は殆どなく,やや冗慢な箇所と:してBuellが指摘する“ECono血y”の中の博愛 主義(philanthropy)に関する言及や“補足の詩」\がある注21が√後に述ぺ,るようにそれちにも十分 な存在理由があるのであった。\ただ多少気になるのぱ,1年の四季のサイクルの枠をはみだす事実 に関する言及が無造作に数ケ所見られることだ。それは後述するような時間の枠を解体し永遠性を 要求する神話構造の問題ではなく,もっと具体的な日時の言及である。1845年7月4日にウ牙−ル デンに住み始めたという紛れもない事実を明らかにし√更に便宜上という条件を付けたものの「2 年の体験を1年にする」と公表した以上は,それを大きぐ逸脱する表現は避けねばならない。しか しながら湖の深さについて,「今1852年の夏,私が住んでいた時よりも丁度5フィート高くなってい る」{W, 180)という表現が見られ,更に湖の氷結期について, 1849, 50, 52, 53のデーターが紹 介されている。こうした言及は他に数ケ所見出される。読者はShanleyのThe Making可Walden によトり回疵Z四万)第一稿が1846-47年の間に書かれ,その後7度の改訂を経て1854年に出版されたこ とを知っているが,厳密に言えば普遍的な1年という構造は時として忘れ去られていたのだった。 もっともこうした逸脱はごく一部であり,jl仇話のよう力致命的な欠陥にはなりえず,全体とし ての1年の四季のサ了クル構造は確固として揺るぎのない存在となっている○・      。。 以上の論をふまえて各章と全体との関連性について考察してみると,それは一つの大樹のイメー ジとして鮮明に現われてくる。 Thoreauが樹木と自己とをしばしば同一視していた事実は,例えば 「僕はヒイラギカシ(shrub oak)に恋してしまった」(ム9:146)にあるはうに=,樹木は彼にとっ て時計めような生命力を欠いた機械的動きではなく,大地に落ちた種子が根を張‰芽を出し成長 して花を咲かせ実をつけるというダイナミックな有機体のイメージそのものなのである。「樹は象徴 的にぱ宇宙のイメージを帯び,一から多,つまり単一から多楡既が生じ,そして種子となフて単一 へ再び戻り,誕生,死,再生の全周期を繰り返す眸22」のである。 Thoreauが樹木に竿盲の生命力の 源泉を看取していたことは, The M励作Woゐの中の「私が共感でき,私の傷を癒してくれるの は,樹のテレビン油のためにあるのではなくその生きた精神にある。樹ば私と同様不滅で,おそら く天国まで仲び,そこでは私よりもずっと高く聳えることになろう」{MW, 122)という一文からも 十分に察せられる。LaneぱEconomy”を序章とみなし,“The Ponds”を中心にしでWhere I

Lived, and What I Lived For”と“Conclusion”を左右の橋台とする,アーチ状で多層の虹の構造

ご(arching, multipathed rainbow 注23),Andersonは円環と蜘蛛の巣構造(a circle and web 注24卜と みなしたが,大樹構造は太陽と水と上それに種子,根,芽,花,実の豊かな有機的イメジャリーを

示唆するのである。 “Economy”どWhere I Lived, and What I Lived For”を大樹の土台として

の根,“ThePondS”どHigher Laws” を中心としての幹とすれば,他の章が枝であり,章を構成す る一語一句が葉である。葉が万物の原型であることは,“Spring”の中で詳しく述べられている通り である。 “Spring” と“Conclusion”はさしずめ天に向づて伸びる枡に相当しよう。樹に実がなれば, その種子は鳥や他の動物によって他に運ばれ,そこで再び実を結ぶ森林樹木の遷移も考えられる。 このような有機的な樹の生そのものに, Thoreauは再生と復活のシンボルを読み取る。更に表面上 は眼に見えぬ幹の中では年輪が見事な円環を構成しているのであり,にれはAndersonの指摘する 円環構造にも合致するのである。このように樹のイメージで捧読か,zの構造を語ることにより,部 分と部分√部分と全体が有機的な相互依存の関連性を維持していることがわかる。:更にThoreauに とって重要なのは,この樹の成長のイメージが人間精神と緊密な対応関係を要求していることであ る。lournalの中で「人間生活と植物の間には完全なアナロジーがある」(ム2 : 201)と述べ,更 にぱEconomy”の中で「上穣は種子に適したようである。なぜなら根を下の方におろしたからであ る。そしてそれは今や自信をもフてその芽を上に伸ばしてもよさそうだ。なぜ人間はそんなにしつ

(11)

『ウォールデン』 (IH),(IV),(V)(上岡) 241 かりと大地に・根をおろしながら,それに比例して上なる天に立ち上がらないのか?」{W,15)と述 べているように,人間性の樹木的成長,すなわち魂の再生,復活の主題は首尾一貫しているのであ り,まさしくこれが陽7認印の最大の主題なのである。       し  以上のように各章は全体と有機的に結び合わされているが,各章の関連性について言えば,一つ の明白な特徴が見出される。それは多くの研究者が指摘するように,隣り合った章が「文明対自然」, 「社会対個人」というような二つの相反する観点から描写され,コントラストをなしているからであ る。 Thoreau自身がこの「ペア」を意識していたことは,例えば第11章は元来“AnimaIFOod”で

あったのを“Higher Laws”に変え,次章も“Animals”が“Brute Neighbors”に変更され,15章

“Winter Animals” と14章“Former Inhabitants ; and Winter Visitors” の順序を変えた経過から も理解されよう。これらの究極的には精神と物質の二元論的弁証法は,問題の本質を探求するには 極めて有効な手法で,読者もそのペアの組み合わせの中で激しい意識の動揺を喚起させられ,最終 的に覚醒を期待させられるのである。Waldenのエピグラフで,「私は落胆の賦を書くつもりではな く,止まり本の上に立った朝の雄鶏のように昂然と誇らかに歌うのだーたとえ私の隣人達を目覚 めさせるだけでも」と述べていることからして,この意識の落差は作者が狙っていた読者の精神的 覚醒の意図に合致するのであるO    I  相対立する二つの章は,また相補的でもあり,二つが一つとなって作用すれば部分と部分の総和 以上のものをもたらすことが可能である。それにしても二つの対立する世界がこれほど多く描かれ た作品を他に見出すことは不可能であろう。これはWaldenの一つの特徴と言っても過言ではない。 それらは自然対文明,個人対社会,理想対現実にとどまらず,本物対見せかけ,永遠対一過性,善 対悪,聖対俗など多種多様であるが,根源的な対立する世界はプシューケー対ソーマ(精神対物質) の世界とみなすことができよう。 ThoreauはWaldenの中でカオス的世界から,人類が二元性に堕 落する以前の完全なコスモスの世界へ読者を誘おうとするのであった。

 Melvin E. LyonぱWalden Pond as a Symbol” の中で「文明対自然」,「社会対孤独」というペ

アで次のようにWaldenを明快に裁断する注25。

{EこWこご;て

iVed,and WhatI LiVedFOr'プj;ニu;

こ言スにレこご こyに]回

皿こごヘ器こここご二づに]回

 またSchneiderはHenry DavidThoreauの中でLyonと同じくペア構造を提示する注26.彼によ

れば“Economy”はTheScarletLetterの“Custom House” と同じく,後の章で発展するテーマや

(12)

242

高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学

章となる。その後に続く14章が2章ずつペアとなって進行する。それ

的なものを強調する章

と,事実を強調する章のコントラストから成り立つペアであり,自然自らiの変動→満,昼夜,

春秋をまねた構造である。第17j章の“Spring”は,2章“Where

I Lived, ind What

I Lived For”

で始まった話の円環を閉じ,“Conclusion”ぱEconomy”がプロローグであったのと同じくエピロ

−グとしての均衡を保っている。もっともSchneider自身も認めているように注27,このペアの法則

を過度に単純化することはできず,最も事実の含まれた章にも理想的なものは見出されるし,その

逆も然りなのである。ただThoreauが自然対文明,理想対現実あるいはコスモス対カオスという二

つの対立的世界を十分意識していたことは紛れもないことであり,季節の│サイクルの中で読者はこ

れらの対立世界を繰り返し往復することで,意識が激しぐ揺さぶられ,最卜的に意識の覚醒を求め

られ,真実探求と再生の主題に目が開かれるのである。        ・

      ,    IV Waldenのスタイル

 各語,各文,各節,各章が有機的に統一されて完成したWalden

と言えば,それは作者の言葉に対する並々ならぬ洞察をおいて他に

の芸術性を

・よ考柚れ

最も完全な芸術作品である」(万,1

: 160)言葉を使って,「目覚めつ

人々にするがごとく私は限界なしに語りたい」{W,

324)と語り手

の言葉の使用のため,実際Waldenは文体上の多様な特徴を見せjて

の展示場の観さえするほどである。そもそもWaldenの成立過程

更に高めている要素 ない。「この世の中で 間が目覚めつつある の際限のない語り手 はまるでレトリック らかなように,

Wai-denの原型となった講演が,文体上の特徴と大いに関係しているのであり,’そのため蔵言風の言葉が

数多く見出せる。講演原稿を書く際「Thoreauは入念かつ細心に各文に手を加え,あらゆる単語や

単節を比較検討し,適確な単語を探求する。それから各文を声を出して読み上げ,聴衆の反応を窺

う。それから何度も何度も書き直し,修正するのであった注28。」聴衆に新しいパースペクティヴを提

供し,意識の覚醒を狙う以上,言葉の戦略にThoreauが関心をもっても些4然であり,何よりも彼は

学生時代から言葉に精通してぃたのだった注29。更にウォールデン滞在中Waldenと平行して書かれ

てぃだThomas

Carlyle and His Works” の中におけるCarlyleの文体的特徴(際限なく語る癖,

聖書の言及,ユーモアなど)の影響があったことは,既に指摘した通りである。

 Hardingは皿/勿zの中に50以上の比喩的表現があり,大学における修辞学や文法のテキストと

しての存在意義があると語る注3o。 Thoreau

は読者の価値観,人生観の転換を図るための手法として

これらを駆使したのである。その中でもJoseph

J. Moldenhauerは逆説(paradox)を高く評価す

る。彼によれば,

Waldenの言語は戦略的で,読者に「目覚めの瞬間」をつくりだすために「強力な

誇張表現と対照法,不一致のレトリック注31」を使用する。それがすなわち迦説であり,「肋た加の

文学的構想であるテーマ,象徴,登場人物,プロットに相応しいもの注32」│なのである。

Waldenの

主要な文体上の特徴は逆説にあり,読者の意表をつく言葉によるショック療法の一つと考えられる。

Thoreau自身Journalの中で逆説を自らの欠点の一つに挙げてぃるが,

EtnersonもThoreauのこ

のような傾向には気がつぃてぃて,「ものを外見(appearance)の逆だと見るリアリストの習性ゆえ

に,ともすれば彼はあらゆる意見を逆説の形で述べ……彼の初斯の著作を汚してしまった一一一後に

なっても完全には抜け切れなかった修辞学上の癖……」{Wr,

1 :

xxxvi)と述べる。しかしTho-reauが若い頃表明した「真理は常に逆説的である」(阿八

: 143)というヶ文こそ,19世紀中葉の

アメリカ社会では最も核心を衝く言葉であった。なぜなら「この文明生活という荒れ狂う海の只中」

(叩,91),「この落ち着きのない,神経質な,サわしない,こせこせした11世紀」(W,329)におい

て√真理は殆どappearance

c下に隠れて見えなくなってぃたからであぎThoteauぱWhere

l

(13)

「ウォールデン」研究:(Ⅲ),(IV),(V)(上岡) 243

Lived, and What

l Lived For”の中でrealityとappearanceを対照し,真理に至る一つの方法と

してsimplicityを提唱する。実際彼はウォールデンで簡素な生活を営み,その結論として「生活を

簡素化するにつれて,宇宙の法則は複雑でなくなり」(W,324),真理に触れることができたと語る。

また真理に触れることによってのみ,「はじめて崇高なもの高貴なものを把握することができるので

ある。」(W,97)つまり物のappearanceをsimplifyすることにより,

realityという堅い底(hard

bottom)に到達できるのと同じように,修辞的に見せかけの意味から根源的な意味を甦らせる技法

としての逆説がある。このようにしてWaldenにおいて物と言葉はその本来の意義を再度読者の前

に表わすのである。この意味でWaldenが真理探求の書と呼ばれる所似である。

 逆説の一つの例を挙げれば,「我々が鉄道に乗るのではない,鉄道が我々の上に乗るのだ。君は鉄

道の下に敷かれたあの枕木(sleepers)はどういうものであるか考えたことがあるか?」(附,92)

があろう。人間が鉄道に乗るのは赤児でもわかる自明の事実だが,

Thoreauはあえてその事実を逆

転させて「鉄道が我々の上に乗っているのだ」と語る。一見矛盾したように見えるこの表現が,よ

くよく考えてみれば真理を衝いていなくもないのである。つまり人々は時代の産物である便利な鉄

道に夢中になり,どこに出かける際にも今までのように足を用いることなく鉄道を利用する。しか

しそれはある意味で鉄道に縛られ,「鉄道的に」(W,118)考えることを余儀なくされ,それなくし

ては身動きのとれぬ状態に陥ってしまうことでもある。いつの間にか主客転倒した関係の中で

Thoreauは再度「一番速い旅行者は徒歩で行く人間」(H/,53)という逆説を一言葉によるショッ

ク療法-をも使用して,

appearanceとrealityの関係を逆転させるのである。このようにして読

者は真理への覚醒を呼び起されるのである。ちなみに先程の鉄道の逆説の中で使われたsleepers

は, Thoreauが多用するpunの一つであり,鉄道の「枕木」という意味と,文字通りの「眠ってい

る人々」の意味がこめられており,生きる屍的な生き方を余儀なくされている読者はその二重の意

味に目覚めるはずである。

paradoxはpunによってつ層痛烈な風対比を帯びるのである。

 「外で見るものはすべて内部のものを象徴している」(ム3

: 201)とあるように,

Thoreauにと

って外部の自然の世界は自己の内面の象徴であった。この信念は彼の文学を貫いている。それゆえ

にこれらの象徴性を読み取ること力川仙波77を解釈する上で重要な過程となる。そもそも「調和の

とれた規則的な自然の移り変わりと人間とを一つにし√人間を更に大きな統一体である社会や宇宙

と結びつけ七いるものが象徴注馬なのであるから,

Thoreauは自然の象徴を多用する。音,光√水,

火,朝,春,太陽,星などがそれに含まれる。しかし前にも述べたように,それらコスモスの象徴

に対立する奴隷制度,病気,鉄道などのようなカオスの象徴も頻出する。

Thoreauはそのようなカ

オス的世界からコスモスヘの世界を夢見る。実際絹漬か刀に描かれたのは,一人の人間の,真・善・

美の心が統一されたコスモスの世界→体的な自己の完成-だったのであった。象徴やイメジ

ャリーに関してはあまりに多様かつ多岐にわたるので,各章を論じる所で言及することにする。

1 . Walter Harding, “Five Ways of Looking at Walden,”Critical Essavs on Henry DavidTko花心’s  mz/ぱen edited by Joel Myerson (Boston : G. K. Hall & Co., 1988), p. 86.

2 . Stanley Edgar Hyman, “Henry Thoreau in Our Time," WaWew and CivilDisobedienceedited by Owen  ThomaS(New York : W. W, Norton & Company, Inc., 1966), pp. 316-17.

3. L.マンフォード著久野収訳『人間一一過去・現在・未来(下)』(岩波新書, 1984), p. 112.

4 . Kathleen Anne. Culver,“Mandala : The Deep Structure of Waldeが' (Ph. D. dissertation, University of  Florida, 1977), p. vi.

(14)

244

Press, 1958), p. 294.

高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学

6 . Donald Worster,Nature's Ecowomy: A Historyof Ecoloがcal Ideas〔Cami〕ridge: Cambridge, Univer- sity Press, 1985), p. 58.中山・成定・吉田訳『ネイチヤーズ・エコノミー』(リブロポート, 1989), p. 84. 7。Ibid., pp- 379-80.

8.乃 「。p. 380.      1       −

9 . Lauriat Lane Jr.,“On the Organic Structure of Walden" College万万g治み21 (January 1960), p. 195. 10. Walter Harding and Michael MeyeT, Tfte New ThoreauHandbook(New York : New York University  Press, 1980), p. 179.

11. James Russell Lowell, “Thoreau”Walde.n am. p. 286. 12. Henry James, Ha 「ko四八London : Macmillan, 1967), p. 97.

13. Fred W. Lorch,“Thoreau and the Organic Principle in Poetry”PMLA, 14.Tk≪ ]v四丿ThnreauHandhoohp.180.

15. F. O. Matthiessen, American Renaissance(New York : Oxford 16.TfeeShoresof America,p.301.

17.The New Tho花皿Handbook,p.179.

18.“On the Organic Structure of 科公認召が’・p.197. 19.“Mandala : The Deep Structure of Walden”pp. 51-54. 20. Ibid., p. 57.

21. Lawrence Buell, Literary Transc四面ntalism(Ithca: Cornell University

      !     り a − − r a − (1938) p. 292 Press, 1941), pp. 168-70. pUss, 1973), p. 199 22.シーン・C・クーパー著白井・日下訳『シンボリズム』(渓流社, 1987), p. 71・

23.“On the Organic Structure of 眼漬かがp. 187.

24. Charles R. Anderson, The MaskC仔山原Walden(New York : Holt, Rinehart and Winston, 1968), p。  18.      ;  1

25. Melvin E.LyonバWalden Pond as a Symbol" PMLA, 82, (1967), pp. 295-よ

26. Richard J. Schneider,HenryDavidThoreau(Boston: Twayne Publishers, 1987),pp. 5ト55. 27。Ibid.,p. 52.

28. Walter Harding, “The Influence of Thoreau's Lecture upon his Writin沙汰阪恥辱服l\Irw Yo池  PublicLibraryIX,(1956), p. 78.

29.拙論「Walde刀一言葉に関する一考察」『ペルシカ』第15号, (1988)参照。

30.“Five Ways of Looking at H/ぶゐがpp. 93-94.

31. Joseph J. Moldenhauer,“The Eχtra-vagant Maneuver : Paradoχ in  DavidThnrRau'aWaldp.np.98.

32.1bid.,p. 99.

33.『シンボリズムj p. 12.

(15)

『ウォールデン』研究:(Ⅲ),(IV),(V)(上岡) 245

第四章:“Economy”ど‘Where

I Lived, and What I Lived For・・-「カオス的世界」と

    「真理のコスモスを求めて」

       I

 1854年8月に出版されたWaldenの初版のタイトルページを見ると,妹のSophiaの描いた小屋

のスケッチ画とともに有名なエピグラフが記されている。本来エピグラフは作者の製作意図を要約

するものであり,これを書くに際しThoreauは大層悩んだに違いないのである。Waldenの本文

(W,S4:)からとられたこのエピグラフ一一「私は落胆の賦を書くつもりはなく,止まり本の上に立

った朝の雄鶏のごとく,たとえ私の隣人達を目覚めさせるだけでも昂然と誇らかに歌うつもりだ」

(傍点筆者)は,

Coleridgeが“Dejection : An Ode”

で歌ったような自己の詩的想像力の衰退を嘆く

のではなく,冒頭にもあるように,一人称の「私」を高らかに「際限なく(Extraでα

324)語ろうとするのであり,

Walde刀中1817回使用された一人称代名詞「私」の存在がこの作品を

否応なく決定することになる。ここで作者Thoreauと,作者の代弁者(ペルソナ)である語り手「私上

との関係について一言述べておくと,脱法ZaではThoreauと「私」の関係を明言した箇所はなく,

他の登場人物に至っても実名で登場するのは少ない。1・応晶肖を単なる伝記や社会批評,自然史とせ

ず芸術作品とみなすためには,作者Thoreauとフィクティヴなペルソナは区別して考えるべきであ

 るとするAndersonの説注1は,至極当然なものである。ペルソナは,「実際に湖畔に住んだ者よりも

 純粋で,英雄的で,自律的,成熟し,冷静である注2。」ただ前章で作者と作品の関係について述べた

 ように,作者と作品の間,作者と語り手の間には密接な関わりがあるわけで,全面的に作者Thoreau

 を排除することは無理なのである。したがって以下論旨を進めるにあたっては,フィクティヴなペ

 ルソナ(作者の理想像)と作者とは一定の距離をおくが,適宜Thoreauの他の作品からの引用は付

 け加えることにする。

  このエピグラフにはWalden全体を貫く「朝」と「目覚め」の主題が十分生かされている。更に

雄鶏の性格と象徴性は,次の“Walking”の一節,に最もよく表われている一一「時をつくる雄鶏の声

を聞かないとすれば,それは手遅れになった哲学である。雄鶏の声は,我々に我々の仕事や思考の

ならわしが古くさく時代遅れになりつつあることを思い出させるのである。……それは自然の健康

と健全さを表すもの,正しく自然の誇りとするもの一一-その健康なことは,時間のこの最後の瞬間

を祝うために,詩神たちの新しい泉としてほとばしりでた泉の健康さに似ているのである。」(Wr,

5 : 246)      十

 では語り手の「私」は一体何を誇らかに歌おうとするのであろうか。この手掛りとして1842年3

月26日付の日記があるー---「僕は自らの生活の最も貴いものを伝えたい一僕の才能の中で最も貴

いものを伝えたいのである……僕はできることならもう一度繰り返してもよい自分の一生の貴い部

分を伝えたいのである。」(フヅ,1 : 393)この一節が暗示するように,

Thoreau自身が伝えようと欲

するのは,他人の生き方ではなく彼自身の生き方,それゆえの「私」の主張であり,19世紀中葉に

生きたThoreauという人間の生きた刻印を記したかったのである。これは考察の主たる対象が人間

であることを明確に示している。

 なおエピグラフに関して補足すれば,原稿段階のタイトルページには雄鶏の絵と共に超越主義者

が好んだペルシャの詩人Sadi

(1184 ? -1291)の引用「日々の糧を手に入れることができるように,

雲,風,月,太陽,空が人に協力してくれるので,j無関心に食べるべきではない。すべては人のた

めに展開し,思うがままになる。そのためにも人は自然に対して従順であるという平等の条件がな

ければならぬ注3」が掲げられていた。このSadiの引用は,自然の秩序の中で生きる人間,自然と人

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