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amor facit extasim : トマス・アクィナスにおける愛の諸結果の中の「脱我」

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amor facit extasim

−トマス・アクィナスにおける愛の諸結果の中の「脱我」−

松村 良祐 1.序論:自己愛から他者愛の派生  トマスは人間が他者へと抱く愛を語るに当たって、自己愛をその範型と し、人間が自己自身に対して抱く愛の進むその先に他者愛の成立を見よう とする。こうした「自己愛から他者愛への派生」という考えが他者愛を語 る上でのトマスの基本的な立場となっていることは、従来の諸研究におい て幾度となく指摘されてきた点である1。しかしながら、本稿において見て いくように、トマスの語る他者愛の内にはこうした他者を自己の延長線上 に位置する「もう一人の自分(alter ipse)」として捉える視線とは全く異質な、 他者をどこまでも自己とは相容れない「他者」として捉える視線が存在し ている。トマスが語る「脱我(extasis)」という事態はこうした後者の視 線を浮かび上がらせるものであり、本稿における考察の焦点もそこに置か れている。実際、すぐ後に見ていくように、トマスが脱我という事態を見 取るに当たっての前提とするのは、自己自身へと向けて定められた人間の 固定的な欲求の在り方であり、そうした自己という境界を越えて他者へと 欲求を向けるということが脱我の意味する事態と考えられているのである。 そこで、本稿では、トマスの脱我理解に焦点を当て、これら「もう一人の自分」 と「他者」という、相反する二つの視線がトマスの語る他者愛の内にどの ような仕方で収められているのかを見ていくことにしよう。    

1 Aristoteles, Ethica Nicomachea, lib.9, c.4 (1166a1-2): amicabilia quae sunt ad alterum veniunt ex amicabilibus quae sunt ad ipsum. 愛を語る上でトマ スはこのアリストテレスの言葉を度々引用しつつ、その考察を進めている。例え ば、S.T. 1-2, q.28, a.1, a.6; 2-2, q.25, a.4, c.; 44, a.7, arg.2; S.C.G.3, c.153; Q. de veritate, q.2, a.7, ad 11; Q. Quodlibet, 5, a.5, c. Cf. S.T. 2-2, q.26, a.4, sed c. を参照。

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 ところで、トマスはこの脱我という問題を論じるに当たって初期から 晩期に至るまで常に一貫して擬ディオニュシオスの『神名論』を参照し つつ、その考察を進めているが2、こうしたトマスの語る愛の内に流れ込 む擬ディオニュシオスの影響は、アリストテレスの陰に隠れ、長らく見 過ごされてきた領域でもある。周知のように、トマスは、『神学大全』第 1-2部第26-28問題に展開される所謂 De amore と呼ばれる一連の議論にお いて、愛の定義や愛が生じる原因としての類似性、自己愛から他者愛の 派生といった自身が語ろうとする愛を形作る重要な要素をアリストテレ スに求めている。そして、こうしたアリストテレスからの影響が余りに 明示的なものであったためか、トマスの愛を巡るこれまでの諸研究―例 えば、McGinnis や Gilleman、DeFerrari など―において擬ディオニュ シウスとの関わりが注目された形跡はほとんど見られない。実際、トマ スの愛の思想の内に流れ込む擬ディオニュシオスの影響は、Miner や Kwasniewski らによってようやく近年になって目が向けられ始めながら も、未だ数編の研究がなされるに留まっている状況にある3。しかしながら、 愛によって生じた諸々の結果を主題とする『神学大全』第1-2部第28問題 に目を向けてみるのであれば、そこには擬ディオニュシオスと関わりの深 いとされる合一や相互内在、脱我、張り合い、損傷(更には、溶解、享受、 熱情、憔悴)といった語が並べられ、さながらこの第28問題は『神名論注 解』に次ぐ「第二の注解」と呼べるほどに擬ディオニュシオスの影響があ     2 Kwasniewski, 2006, p.53によれば、トマスは初期から晩期に至るまで一貫し て擬ディオニュシオスを権威として脱我について語っている。 3 Minerは『神学大全』の情念論全体(1-2, qq.22-48)を扱ったモノグラフに おいてトマスがこの情念論において愛を語る第26-28問題において最も信頼を 寄せた権威が擬ディオニュシオスであったと述べている。Miner, pp.138-139. その他、Minerの他に擬ディオニュシオスの役割に注意を喚起するものとし て、Kwasniewski, 1997, pp.587-603, 2006, pp.51-93、Deák, pp.240-249を参照。 Kwasniewski, 1997, 2006は、トマスの語る愛における脱我の役割を考察するも のでありつつも、『命題集注解』を考察の対象とするものであるか、或いは概括 的なものに留まっている。

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ることを映し出しているのである4。確かに、この第28問題において、ト マスはときとしてアリストテレスやアウグスティヌスからも擬ディオニュ シオスが語るのと同様の主張を導き出しており、それらは必ずしも截然と 区別できるものではない。むしろ、その混在にこそ、トマスと擬ディオニュ シオスの関係についての容易な理解を阻む要因があると言えるのかもしれ ない。しかし、そこでの反対異論のほぼ全てが擬ディオニュシオスの『神 名論』によって占められているという事実からすれば5、トマスが愛を語 る上で果たす擬ディオニュシオスの役割にはやはり看過できないものがあ るように思われる。  ところで、Miner や Kwasniewski らによる上記の諸研究は、トマスの 語る愛における擬ディニュシオスの役割に注意を喚起する先駆的なもの でありながらも、そこでの脱我に関する考察は、いずれも簡潔な仕方で 纏められ、『神学大全』の上述の箇所をもとにトマスの脱我理解を詳細に 検討したものとは言い難い。そこで、本稿では、上記の『神学大全』の 箇所におけるトマスの脱我理解に焦点を当てると共に、そこでの脱我に 関する考察が登場する実際のコンテキストにおける「議論の進行(ordo articulorum)」という点からその位置付けを探ることで、トマスが愛を 語る上で果たす脱我の役割を明確にしてみたい6。本稿において見ていく     4 「第二の注解」という表現は Kwasniewski, 2002, p.206による。また、Pinckaers, p.276はこうした合一や相互内在、脱我、張り合いといった第28問題に登場する 用語の多くが中世の神秘主義の系譜に連なるものであることを指摘する。もっと も、トマスの愛の思想に流れ込むものは、これらアリストテレスと擬ディオニュ シオスに限られるものではない。McEvoy, 1993 pp.396-400, 2002, pp.25-31はト マスが愛を語る背後には、それらの他に、アウグスティヌス、ストア派、修道院 神学の影響があったことを指摘している。 5 この点は本稿第4節で詳しく触れる。 6 脱我(extasis)という語は、トマスにおいて必ずしも使用頻度の多い用語で はない。電子的検索(Index thomisticus)によれば、extasis という語がトマ スの著作に現れるのはその活用形も含めて68回であり、それが集中的に論じられ るのも『神学大全』の上述の箇所と『神名論注解』の一部を除いては他の諸著作 に僅かに散見される程度なのである。In 3 Sent., d.27, q.1, a.1, ad 4; In divinis nominibus, C.4, lect.10, nn.430-437; S.T.1-2, q.28, a.3. 本稿では『神学大全』を 基本テキストとしつつも、必要に応じて『神名論注解』や『命題集注解』におけ る脱我に関する記述と対比的に見ていく。

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ように、合一から相互内在、そして脱我へと続く『神学大全』第1-2部第 28問題の冒頭に置かれた三つの項は、愛する者と愛の対象の間に生じた「合 一」という事態をもとに一続きの場面を展開し、トマスが愛を語る上で果 たす脱我の役割は、そうした脱我が置かれた実際のコンテキストから見る ことで一層明瞭な仕方で浮かび上がるように思われるからである。 2.認識と欲求に起こる脱我:脱我についての基本理解  さて、トマスは『神学大全』第1-2部第28問題第3項に見られる問い「脱 我は愛の結果であるか」において、擬ディオニュシオスの『神名論』第4 章を反対異論に置き、神の愛の分有という視点のもとで、どのような愛も 脱我を生じさせると述べている7。いまこの箇所をもとに脱我に関するト マスの基本的な理解を探ることから始めよう。そこでトマスは次のように 述べている。 《引用1》或る人が脱我を被ると言われるのは、その人が自らを越え て外に置かれる(extra se poni)ときである。実際、このことは把 捉的な力と欲求的な力の双方に関して生じる。把捉的な力に関しては、 或る人が自らに固有な認識の外に置かれるとき、その人は自らを越え て外に置かれると言われる。そして、このことは、上位の認識に高め られることによる。例えば、感覚と理性を超えた或るものを把捉する ために高められるとき、理性と感覚という自然本性に合致した把捉の 外に置かれる限りで、人間は脱我を被ると言われるのである。或いは、 下位の認識へと低められることによる。例えば、人が熱狂や狂気の状 態に陥るとき、その人は脱我を被ると言われる。他方、欲求的な部分 に関しては、自身の欲求が或る種の仕方で(quodammodo)自分自     7 S.T.1-2, q.28, a.3, sed c.

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身を越えて外に出ることで他のものへと運ばれるとき、その人は脱我 を被ると言われるのである8  トマスは《引用1》の冒頭において、「人が自らを越えて外に置かれる (extra se poni)」ということを脱我についての基本的な理解として示し た上で、それを認識能力と欲求能力の双方に適用させている。ところで、 上記の《引用1》における反対異論には擬ディオニュシオスの『神名論』 の一節が引かれているが、トマスがその『神名論注解』において脱我を 表す上で用いている表現は、この《引用1》に見られるものとは若干異 なっている。すなわち、『神名論注解』では、上記のテキストに見られる 幾つかの表現(poni extra se/seipsum, exire extra seipsum)の他に、 真理を認識した者の心的状態に焦点が当てられる文脈において、「脱我を 被った者はまるで痴愚な者のようであり、自分から離れ去った者(a se alienatus)のことである」と述べられている9  この『神名論注解』において理性的な状態の喪失という事態と結び付 けられた仕方で登場する「自分から離れ去った/自分とは別のものに    

8 S.T.1-2, q.28, a.3, c.: extasim pati aliquis dicitur, cum extra se ponitur. Quod quidem contingit et secundum vim apprehensivam, et secundum vim appetitivam. Secundum quidem vim apprehensivam aliquis dicitur extra se poni, quando ponitur extra cognitionem sibi propriam, vel quia ad superiorem sublimatur, sicut homo, dum elevatur ad comprehendenda aliqua quae sunt supra sensum et rationem, dicitur extasim pati, inquantum ponitur extra connaturalem apprehensionem rationis et sensus; vel quia ad inferiora deprimitur; puta, cum aliquis in furiam vel amentiam cadit, dicitur extasim passus. Secundum appetitivam vero partem dicitur aliquis extasim pati, quando appetitus alicuius in alterum fertur, exiens quodammodo extra seipsum.

9 In De divinis nominibus, c.7, lect.5, n.739: extasim passum, idest sicut fatuum et a se alienatum. その他、In De divinis nominibus, C.4, lect.10, n.430, n.433では ºponi extra se/seipsum" という《引用1》と同様の表現が見受けら れる。

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なった(a se alienatum)」という表現は、「自分を保持する(compos sui)」という語と対比的に用いられた形でこの項の異論の一つ(q.28, a.3, arg.1)にも登場する。そこで、異論の論者は、脱我とは「自己からの乖 離(alienatio)」という事態を作り出すものであるが、愛はこの種の事態 を常に作り出すわけではないから、脱我を愛によって生じる結果として考 えることはできないと述べている10。その際、トマスはその異論解答にお いて自己からの乖離という事態が起こるのは認識能力に起こる脱我の場合 であると答えており11、alienatioという語をこの項の主文の中では用いて    

10 S.T.1-2, q.28, a.3, arg.1: Videtur quod extasis non sit effectus amoris. Extasis enim quandam alienationem importare videtur. Sed amor non semper facit alienationem, sunt enim amantes interdum sui compotes. Ergo amor non facit extasim.

11 S.T.1-2, q.28, a.3, ad 1: Ad primum ergo dicendum quod illa ratio procedit de prima extasi. Kwasniewski, 2002, pp.172-173は、ºalienatio" とい う語を熱狂や狂気といった人間の精神が下位のものへと低められた状態を表すも のとして理解している。また、『神学大全』第1-2部の情念論(qq.22-48)を担当 した英語版訳者である D'Arcy もこの箇所(1-2, q.28, a.3, arg.1)に登場する“a se alienatum”という語に“some loss of rational balance”という訳語を当 てている。D’Arcy, p.97. D'Arcy や、特に Kwasniewski の述べるように、確 かにこの語は伝統的に狂気や熱狂といった事態との関わりのもとで用いられてき た側面があるものの、トマスは神を見ることや預言的な幻視のような上位の認 識に関わるような場合にも肉体的な感覚からの離脱という意味でこの語を用い ている。例えば、以下のように述べられている S.T.2-2, q.173, a.3, ad 3: motus mentis prophetice non est secundum virtutem propriam, sed secundum virtutem superioris influxus. Et ideo, quando ex superiori influxu mens prophetae inclinatur ad iudicandum vel disponendum aliquid circa sensibilia, non fit alienatio a sensibus, sed solum quando elevatur mens ad contemplandum aliqua sublimiora; In 4 Sent., d.49, q.2, a.7, ad 4. この ように、alienatio という語が上位の認識に関わるような文脈で用いられること は、本節で言及した『神名論注解』において、真理を認識した者の心的な在り方 が問題になっていた際にこの語が登場していたことからも明らかである。そし て、こうした用例がトマスの内にあるということからすれば、ここでの異論、或 いは異論解答において想定しているのは、狂気や熱狂という人間が下位の認識 へと低められる場合と上位の認識に対して高められる場合の双方であるかもし れない。Corvez による仏訳では、当該箇所(1-2, q.28, a.3, arg.1)は原語に近 い ºaliénation" という訳語が与えられている。

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いない。むしろ、トマスが脱我という事態を表すに当たって主文で用いる のは、「人が自らを越えて外に置かれる(extra se poni)」とそれに類す る上述の表現であって12、そこに認識能力と欲求能力に生じる脱我の双方 に当てはまる表現を通じて、脱我という事態をより包括的な視点から整理・ 説明しようと試みる、『神学大全』のテキストにおけるトマスの思索の一 端を見取ることができるのかもしれない。  ここで、《引用1》をもとに「自らの外に置かれる」という脱我の状態 が認識能力と欲求能力のそれぞれに対してどのように語られているかを確 認しておこう。これらの内で、まず認識能力に起こる脱我について見た場 合、トマスはそれを人間が「自らに固有な認識(cognitio sibi propria)」 の外に置かれた状態であると述べている。周知のように、人間が生来的な 認識の在り方として持つのは、感覚的経験を通じて集めてきた素材をもと に知的な認識を築き上げるというものである。そして、そうした感覚や理 性という「自然本性に合致した把捉(connaturalis apprehensio)」の外 にある上位や下位の認識に運ばれる場合、その人は脱我を被ると言われる のである。その意味で、認識能力における脱我はまさに人間に生来的な仕 方で与えられた認識能力そのものが脱我の対象となり、そうした自身の持 つ認識能力がその本来関わり得ない領域へと運ばれるという仕方で脱我と いう事態が考えられている13。他方、欲求能力の内に起こる脱我に関して、    

12 つまり、上述の ºponi extra se/seipsum" や ºexire extra seipsum" という表 現である。 13 《引用1》では、上位の認識に高められることや、狂気や熱狂に陥るといった 下位の認識に低められるといった認識能力における脱我が具体的にどのような仕 方で生じるのかという点に関する説明は見られない。この点について、《引用1》 と同様の脱我についての説明が見られる In 2 Cor., c.12, lect.1, nn.447-448では、 第三の天に到達したというパウロの脱魂体験や、狂気(phrensis)といったこと が問題となる文脈をもとに、それが自らの生来的な能力にとって到達し得る状態 ではなく、神的な力、激しい情念や人間的な認識に結び付く身体的器官の欠損に よるものとしてそれぞれに説明されている。Cf. Q. de veritate, q.13, a.1, c.; Q. de malo, q.3, a.9, c.; S.T.1-2, q.12, a.13, c.

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そこでは「欲求能力が脱我を被ると言われるのは、自己の欲求が或る種の 仕方で自分自身を越えて外に出ること(exire extra seipsum)で他のも のへと運ばれるときである」と言われているから、欲求能力に起こる脱我 において前提となっているのは、個体としての在り方をもとに欲求の向け る先が「自分自身」へと限定付けられた人間の固定的な欲求の在り方であ り、欲求がそうした「自分」という境界を越えて、自分の外にある人や物 を含めた「他者」へ出て行くという意味で脱我という事態が考えられてい るわけである14  ところで、この《引用1》において、認識能力における脱我がその生来 的な能力を超えた上位や下位の領域に運ばれることで起こるとされるのに 対し、トマスが欲求能力に起こる脱我に関して具体的にどのような場面を 念頭に置いているのかはそれほど判然としない。認識能力に起こる脱我の 記述との釣り合いということからすれば、人間が自身に与えられた生来的 な欲求の在り方−つまり、それが自己愛なのであるが−を超えて自己以上 に何らかの対象を愛するというような場面を考えるべきであるのかもしれ ない。  確かに、思想史的な文脈からすれば、例えばDe Mottiniのextasisを巡 る概念史的研究が指摘する通り、この語は擬ディオニュシオス以降の西洋 中世において、神の超自然的な愛によって起こる高揚や神秘的な境地を表     14 『コリント後書注解』には《引用1》と同種の説明が見られる。Cf. In 2 Cor., c.12, lect.1, nn.447-448: Sed et extra se ipsum efficitur homo et per appetitivam virtutem et cognitivam. Per appetitivam enim virtutem homo est solum in se ipso, quando curat quae sunt sua tantum. Efficitur vero extra se ipsum, quando non curat quae sua sunt, sed quae perveniunt ad bona aliorum,(…)Secundum cognitivam vero aliquis efficitur extra se, quando aliquis extra naturalem modum hominis elevatur ad aliquid videndum. また、欲求の内に生じる脱我を巡っては次のようにも言われている。 S.T.2-2, q.175, a.2, ad 1: Potest igitur extasis ad vim appetitivam pertinere, puta cum alicuius appetitus tendit in ea quae extra ipsum sunt.

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すものとして用いられてきた経緯がある15。そして、このことを裏付ける ように、トマスがこの項の反対異論で引用するのも、そうした神の超自然 的な愛が人間の内に脱我という状態を作り出すと述べる擬ディオニュシオ スの『神名論』の一節である。しかしながら、そうした引用をもとに反対 異論で言われているのは、神から与えられる超自然的な愛それ自体のこと ではなく、そうした神の愛を分有する「全ての愛(quilibet amor)」が神 の愛との類似性のもとで脱我を生じさせるものであるということである16 実際、《引用1》において欲求の内に起こる脱我について用いられる表現 に注目するのであれば、それはトマスが『神名論注解』において上記の箇 所を注解して述べるような、人間の欲求が「全体的な仕方で自分を越えて     15 De Mottoni, pp.167-184は extasis を巡る概念史的研究であるが、その論旨 は以下の通りである。つまり、彼によれば、extasis とそれに類する raptus や excessus mentis、stupor mentis などの表現は Acts 3:10、Acts 22:17、Ps. 67:28、2 Cor. 12:2-4など Vulgata に幾つか登場している。しかし、そこでは脱我 を生じさせる原因として愛が取り立てて考えられているわけではない(p.171)。 後に、アウグスティヌスは恐怖(timor)を脱我が生じる原因の一つとして考え るようになるが(p.173)、愛と脱我が結び付いて理解されるようになったのは、 擬ディオニュシオス以降のことである(p.176)。その際、擬ディオニュシオスの『神 名論』第4章に見られる「神の愛は脱我を生じさせる」という表現は13世紀のパ リの神学者に度々用いられ、彼らにおいて脱我は神の持つ愛に起こる固有な現象 と見なされていたが(p.181)、アルベルトゥス−トマスにおいて、脱我を引き起 こす愛は神の愛だけでなく、広く愛一般に拡張されて理解されることになったと される。

16 S.T.1-2, q.28, a.3, sed c.: Sed contra est quod Dionysius dicit, IV cap. de Div. Nom., quod divinus amor extasim facit, et quod ipse Deus propter amorem est extasim passus. Cum ergo quilibet amor sit quaedam similitudo participata divini amoris, ut ibidem dicitur, videtur quod quilibet amor causet extasim.

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その外に出る(totaliter extra se poni)」というものではない17。むしろ、

《引用1》では「その人が脱我を被ると言われるのは、自身の欲求が或る 種の仕方で自分自身を越えてその外に出る(exire quodammodo extra seipsum)ときである」とあり、「或る種の仕方で」という限定を含んだ 表現は、そこでの脱我が愛の対象へと全体的な仕方で運ばれるものではな く、愛の対象へ運ばれながらも、その根底において自己と分かちがたく結 び付いたものであることを傍証しているように思われる18。それゆえ、こ のようにして見るのであれば、《引用1》における欲求の脱我が人間の生    

17 Cf. In divinis nominibus, C.4, lect.10, n.432: Sic igitur cum affectus amantis fertur in amatum superius, cuius aliquid est ipse amans, ipsum suum bonum amans ordinat in amatum; sicut si manus amaret hominem, hoc ipsum quod ipsa est in totum ordinaret, unde totaliter extra se poneretur, quia nullo modo aliquid sui sibi relinqueretur, sed totum in amatum ordinaret.(…)Sic ergo aliquis debet Deum amare, quod nihil sui sibi relinquat, quin in Deum ordinetur. Cum autem aequalia vel inferiora amat, sufficit quod sit extra se exiens in illa ita dumtaxat quod non sibi soli intendat, sed aliis; nec oportet quod totaliter se in illa ordinet.『神名論注解』の当該箇所において、トマスは(1)下位のものが上位の ものを愛する場合、(2)同等のものが同等のものを愛する場合、(3)上位のもの が下位を愛する場合の三つを挙げている。その際、脱我は相手のために善を望む という他者志向的な欲求の在り方を意味し、それはこれらの内のどの場合におい ても見られるものでありながらも、(1)において人間の欲求は全体的な仕方で出 て行くと言う。人間が神を愛するのは(1)の場合である。

18 Garrigou-Lagrange も、《引用1》に登場する「或る種の仕方で(quodammodo)」 という語を、自己を脱して完全に他者へと出て行くことができない制限を孕 んだ人間の欲求の在り方を意味するものとして理解する。Garrigou-Lagrange, p.402: secundum vim affectivam exit quodammodo extra seipsum, jam quodammodo in amore concupiscentiae, sed multo magis in amore amicitiae, si sit valde intensus. こうした《引用1》に対する Garrigou-Lagrange の理解 は Kwasniewski, 1997, p.603、Miner, p.135とも共通する。

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来的な愛を念頭に置いたものであることは明らかであろう19。そして、先 の De Mottini もこのように脱我という事態を、神の持つ愛のみならず、 人間の持つ生来的な愛に対しても当てはめようとするトマス、そして、その     19 このように、《引用1》における認識と欲求における脱我がそれぞれに異 なった文脈に置かれていることは、DeFerrari が指摘していることでもある。 DeFerrari, pp.151-152, esp.152, n.4: St. Thomas does not apply the word ecstasy on the affective plane, as he did with knowledge, to mean the surpassing of a natural capacity. In the answer to the third objection, as was pointed out, he insists that the other is not loved more than self. Cf. Kwasniewski, 2002, pp.182-183.   しかし、《引用1》において認識と欲求における脱我が語られる文脈が相違に 関する理由に対する説明は DeFerrari の内には見られない。この点について、認 識能力と欲求能力が持つ能力としての特性に目を向けることはひとつの手掛かり になるのかもしれない。トマスは『神学大全』第1-2部第27問第2項「認識は愛 の原因であるか」において、認識されていない対象を愛することと或るものを認 識する以上に愛することは同じ性格のものであるが、神に対する場合のように、 或るものを認識する以上にそのものを愛するという場合があるから、認識を愛の 原因として考えることができないと述べる異論(1-2, q.27, a.2, arg.2)に対して、 認識能力と欲求能力の相違を説明することでこの種の異論に答えている。すなわ ち、認識能力はその働きを通じて外的な対象を自身の内に収めることで完成され る能力であるから、その働きが及ぶ範囲は認識する者の能力に大きく依存する。 例えば、質料的な存在である人間は非質料的な存在である神や天使をその結果を 通してしか自然的理性の力では認識することができない。他方、欲求能力はそう した認識の働きを前提としながらも、自身を外的な対象へと傾けることによって 完成するものであるから、欲求能力の対象は認識能力の及ぶ範囲よりも広い射程 を有している。例えば、修辞学をよく知らない者が修辞学をよく愛するという事 態が生まれるように、欲求能力はその生来的な能力において認識能力の及ぶ対象 よりも多くの対象に対して拓かれているわけである。S.T. 1-2, q.27, a.2, ad 2; 1, q.81, a.1, c.: 1-2, q.66, a.6, ad 1; 2-2, q.27, a.4, c.それゆえ、神を僅かに認識して いなくとも神をより完全な仕方で愛することができるというように、認識能力が それを確かな認識として認識するためには神的な力によって高められる必要があ るのに対し、欲求能力はその生来的な能力で以てそこへと到達することができる わけである。   《引用1》において欲求の内に起こる脱我が人間の生来的な能力の内に置かれ るものとされた理由も、以上のような欲求能力に備わる固有な特質という点から 考えることができるのかもしれない。こうした現世における認識能力に対する 欲求能力の卓越性に目を向けるものとして、Synave and Benoit, p.48と Miner, p.128を参照。

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師アルベルトゥスの内に脱我理解の新たな局面を見ようとするわけである20  とはいえ、いまこうした人間の生来的な愛の内に起こる脱我の状態に関 する具体的な記述は、《引用1》には上記のこと以上には見られない。そ こで、トマスが《引用1》に続く文脈で取り上げる「欲望の愛」と「友愛 の愛」という二つの愛の在り方は、こうした自己の欲求が自己を越えて他 者へと出て行くという脱我の状態をより明瞭なものにしてくれる。 3.自己を越え出る愛のかたち:友愛の愛と欲望の愛  さて、トマスは《引用1》に続く文脈で、欲望の愛と友愛の愛という二 つの愛の在り方を提示し、欲求の内に生じる脱我という事態をより明瞭な ものにしようとしている。そこで注目すべきことは、「自己の欲求が他者 へと向けられる」という欲求に起こる脱我の状態がこれら二つの愛に応じ て大きく異なった仕方で説明されていることである。 《引用2》さて、愛は第一の脱我を態勢的な仕方で(dispositive)作 り出す。愛は愛の対象について思い詰めるようにさせるが、先に述べ    

20 Cf. Albertus, In de divinis nominibus, c.4, lect.6: et ideo sciendum, quod extasis, secundum quod hic sumitur, componitur ab ¹ex', praepositione Latina, et ¹tesis' graeco, quod est ¹positio'. Unde dicitur amor facere extasim, quia in se sine amor contineretur, per amorem ponitur extra se, diffundens se in amatum. こうした『神名論注解』に見られるアルベルトゥス の脱我理解は、脱我をex+positio(testis)と語源的に理解し、「愛の対象へと 自らを広げることで、自らの外に置かれること(poni extra se)」をその内実と して考えるという点で、先の《引用1》におけるトマスの理解と大いに通じると ころがある。Torrell, pp.24-27によれば、アルベルトゥスの『神名論注解』はト マスも滞在していたケルン時代の作品(1245-52年)であり、トマスがこの注解 の講義を受けていた可能性は高いとされる。アルベルトゥスの上記のような脱 我理解の背景には、擬ディオニュシオスの語る脱我を「知性を超えた仕方での (superintellectualiter)」神との結合と理解するトマス・ガルスなどの行き過ぎ た神秘主義への危惧がある。この点は、Lawell, pp.155-183、拙稿、42-43頁を参照。

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られたように、一つのことを思い詰めると他のことは捨象されてし まうからである。他方、愛は第二の脱我を直接的な仕方で(directe) 作り出すが、友愛の愛はそれを端的な仕方で(simpliciter)作り出 すのに対し、欲望の愛はそれを端的な仕方ではなく、或る限られた仕 方で(secundum quid)作り出す。実際、欲望の愛において、愛す る者は或る種の仕方で(quodammodo)自分自身を越えて外に運ば れるのであって、つまり、それは彼が自身の所有している善を喜ぶこ とに満足せず、自分の外にある何らかの善を享受しようと求める限り においてのことなのである。とはいえ、その外的な善を所有しようと 求めるのは自分のためであるから、彼は端的な仕方で自分を越えて外 に出ていくのではなく、そうした情感は、結局は自分自身へと戻って きてしまう。他方、友愛の愛において、その人の情感は端的な仕方で 自分を越えて外に出て行く。なぜなら、その人は友人自身のために友 人を気遣ったり、配慮したりするということで、友人のために善を望 み、また行っているからである21  愛が認識と欲求のそれぞれに起こる脱我に関して果たす役割の相違に言 及する《引用2》の記述は、愛する者に起こる脱我の全体を捉える上で重 要である。しかし、そこに移る前に上記のテキストをもとにまず愛と欲求 に起こる脱我の関係に注目してみよう。  さて、トマスは愛が欲求に起こる脱我を直接的な仕方で作り出すと述べ た上で、欲望の愛と友愛の愛という二つの愛の在り方に応じてそこで作り 出される脱我の状態にも相違があることを指摘する。そこで、愛する者の 持つ情感の向かうその先に注目し、そこから二つの愛における脱我の相違 を浮かび上がらせようとするトマスの説明は、明快である。すなわち、ま ず欲望の愛について見た場合、欲望の愛とは愛の対象を自身が享受するこ とを目的とするものであるため、愛の対象の獲得のために一旦は自己の外 へと出て行った欲求も、愛の対象を獲得すると共にそれを享受する自分自

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身の内へと立ち帰ってきてしまう。それゆえ、欲望の愛は、その情感の 向かう終着点を自己自身に置くという点で、「或る限られた仕方において (secundum quid)」脱我を作り出すに過ぎない。他方、友愛の愛において、

愛する者は愛の対象自身のために善を望み、善を行うから、そこでの欲求

   

21 S.T.1-2, q.28, a.3, c.: Primam quidem extasim facit amor dispositive, inquantum scilicet facit meditari de amato, ut dictum est, intensa autem meditatio unius abstrahit ab aliis. Sed secundam extasim facit amor directe, simpliciter quidem amor amicitiae; amor autem concupiscentiae non simpliciter, sed secundum quid. Nam in amore concupiscentiae, quodammodo fertur amans extra seipsum, inquantum scilicet, non contentus gaudere de bono quod habet, quaerit frui aliquo extra se. Sed quia illud extrinsecum bonum quaerit sibi habere, non exit simpliciter extra se, sed talis affectio in fine infra ipsum concluditur. Sed in amore amicitiae, affectus alicuius simpliciter exit extra se, quia vult amico bonum, et operatur, quasi gerens curam et providentiam ipsius, propter ipsum amicum.   ところで、こうした欲望の愛と友愛の愛と脱我の関係を巡る記述は、トマスが 先の『神学大全』のテキストにおいて反対異論に置いていた『神名論』の当該 箇所(c.4, n.168)に対する注解にも見られる。そこで、トマスは愛する者の持 つ「意図の終極(finis intentionis)」という点に注目し、愛の対象の獲得を通 じて自己へと回帰する欲望の愛は脱我を引き起こすものではないと述べている。 In de divinis nominibus, c.4, lect.10, n.430: nam in secundo modo amoris, affectus amantis trahitur ad rem amatam per actum voluntatis, sed per intentionem, affectus recurrit in seipsum; dum enim appeto iustitiam vel vinum, affectus quidem meus inclinatur in alterum horum, sed tamen recurrit in seipsum, quia sic fertur in praedicta ut per ea bonum sit ei; unde talis amor non ponit amantem extra se, quantum ad finem intentionis.このことは、一見すると、欲望の愛に脱我的な性格を認める《引用 2》の『神学大全』の記述との間に齟齬を生むようにも思われるが、『神名論注解』 のこの箇所は「神の愛は愛する者を自分自身に属すのではなく、愛の対象に属さ せることで脱我を生じさせる(Est autem et faciens extasim divinus amor, non dimittens sui ipsorum esse amatores, sed amatorum)」という擬ディオ ニュシオスの言葉の解釈が焦点となる文脈であり、そこでの「愛する者を自分自 身に属すのではなく、愛の対象に属させる」という擬ディオニュシオスの言葉が 『神名論注解』において脱我のより強い限定を生む要因となっているのであろう。

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の行き着く終着点は愛の対象自身に置かれている。そして、そのことのゆ えに、友愛の愛は「端的な仕方で(simpliciter)」脱我を生じさせると言 われているのである22  このように、トマスにおいて、欲求の内に生じる脱我はこれら欲望の 愛と友愛の愛の双方によって生じるものとされつつも、この内の友愛の 愛によって「自身の欲求が他者へと向けられる」という状態が端的に作 り出される。その意味で、トマスが欲求能力の内に生じる脱我として本 来考えているのは、自己が愛の対象に対して友愛の愛を抱くことで、そ の相手のために善を望み、また善を行うという他者志向的な状態のこと だと言える。しかしながら、こうした友愛の愛によって脱我が端的に作 り出されるというとき、このことは人間が自己自身に対して向ける欲求 の在り方、つまり自己愛とどのような関係にあるのだろうか。この点に ついて、前節から見ている《引用1》、そして《引用2》の項(いずれも 1-2, q.28, a.3)に登場する次の異論とそれに対するトマスの異論解答は、 こうした欲求の内に生じる脱我を自己愛との関係で読み解く上での手掛 かりを与えてくれる。  まず、当該箇所における異論の立場から見ることにしよう。 《引用3》既に述べられたように、愛は愛する者と愛の対象を合一 させる。それゆえ、もし愛する者が自分を越えて、愛の対象へと進 むことを目指す(amans tendit extra se, ut in amatum pergat) のだとしたら、愛する者は常に自分よりも愛の対象を愛する(plus diligat amatum quam seipsum)ということになるが、これは明ら

    22 もっとも、この友愛の愛はトマスにおいて他者に対してのみ向けられるもので はなく、自分自身に対しても向けられる場合がある。S.T.1-2, q.26, a.4, c. しかし、 《引用1》で脱我という事態が「自らの外に置かれること(extra se poni)」と 定義されていることからすれば、人間が自分自身に対して友愛の愛を向けるよう な場合は、こうした脱我の表す対象から外されていると考えてよいだろう。

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かに誤りである。それゆえ、脱我は愛の結果ではない23  上記の異論の立場は、愛する者と愛の対象の合一という点をもとに、も し愛する者が自己を越えて愛の対象へと向かうのだとしたら、そこで自己 よりも愛の対象を愛するという事態が生まれてしまうと言う。こうした異 論の立場は「愛する者が自分を越える4 4 4 4 4 4(extra se)」いう脱我を表す言葉 の内に「愛する者が自分を愛する以上に4 4 4 4 4 4 4 4 4愛の対象を愛する(plus diligere amatum quam seipsum)」という事態を読み取ろうとしている点で興味 深い。つまり、異論の立場は「自分を越えて(extra se)」という言葉の 内に「自分よりも(plus quam seipsum)」という優劣を含んだ意味を読 み取ろうとする。ところで、このように脱我という事態の内に自己放棄的 な愛の成立を考える異論の立場は、脱我の内に人間が自己自身から遠く離 れ去ることをその内実として見取る点で、alienatioという語をもとに脱 我の内実を規定しようとしていた前節における異論の立場(1-2, q.28, a.3, arg.1)とも通じるところがあり、この種の理解は「脱我(ex+status)」 という語に関する当時の一般的なものであったのかもしれない。トマスも 『命題集注解』の一節においては、「愛する者は愛の対象へと向かうことで 自分自身から切り離される(a seipso separare)のであるが、このこと のゆえに愛は脱我を生じさせると言われるのである」と述べている24

   

23 S.T.1-2, q.28, a.3, arg.3: amor unit amatum amanti, sicut dictum est. Si ergo amans extra se tendit, ut in amatum pergat, sequitur quod semper plus diligat amatum quam seipsum. Quod patet esse falsum. Non ergo extasis est effectus amoris.

24 ただし、この語は愛が「分割的な力」であるとする異論に対する異論解答 の中で登場する。In 3 Sent., d.27, q.1, a.1, ad 4: amans a seipso separatur in amatum tendens; et secundum hoc dicitur amor extasim facere, et fervere, quia quod fervet extra se bullit, et exhalat. Quia vero nihil a se recedit nisi soluto eo quod intra seipsum continebatur, sicut res naturalis non amittit formam nisi solutis dispositionibus quibus forma in materia retinebatur, ideo oportet quod ab amante terminatio illa, qua infra terminos suos tantum continebatur, amoveatur.

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 それでは、こうした《引用3》の異論に対するトマスの異論解答を次に 見てみよう。 《引用4》愛を持つ者は、友人の善を望み、その善を行っている限りで、 自分を越えて外に出て行く(extra se exit)。とはいえ、彼は友人の 善を自分の善以上に望んでいるというわけではない。それゆえ、自分 以上に他者を愛するということは帰結しない25  さて、《引用3》における異論の誤りは、「愛する者が自分を越える」と いう言葉をそれが自己放棄的な愛を表すものとして誤って理解してしまっ ていることにある。それゆえ、トマスは「自分を越える」とは自分以上に 他者を愛することではなく、自分という境界を越えて他者へと欲求を向け ることであると答え、その誤りを正している。こうしたトマスの異論解答 において注目すべきことは、「愛を持つ者は友人の善を自分の善以上に多 く望んでいるわけではない」と述べるように、トマスが人間の生来的な仕 方で持つ自己愛の優位性を確保した上で、脱我という事態を考えているこ とである。そして、このように自己愛の優位性を確保しつつ、欲求の内に 起こる脱我を位置付けようとするトマスの理解において、人間の生来的な 愛に起こる脱我は或る両義性をもって語られることになる。すなわち、先 の《引用2》において、トマスが欲望の愛と友愛の愛の対比を通じて述べ ていたように、或る人が他者に対して友愛の愛を抱くというとき、彼の欲 求は欲望の愛のように自分へと立ち帰ることなく、他者のために善を望む ことで他者自身へと向かっていく。その限りにおいて、友愛の愛によって 生じる脱我は、その情感の向かう方向性それ自体を見るのであれば、確か に「端的な仕方で(simpliciter)」考えることができる。しかし、そこで    

25 S.T.1-2, q.28, a.3, ad.3: ille qui amat, intantum extra se exit, inquantum vult bona amici et operatur. Non tamen vult bona amici magis quam sua. Unde non sequitur quod alterum plus quam se diligat.

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の脱我を自己愛との関わりの中で捉えるのであれば、それは自分よりも大 きな善を他者へと望むというようなものではない。むしろ、それは自己愛 の優位性が確保された中での働きに留まるものであるから、《引用1》に述 べられていたような「或る種の仕方で(quodammodo)」という制限を孕 んだものでもあるわけである26  そして、我々が前節において見た「自分を保持する(compos sui)」と いう語と対比的に用いられた「自分から離れ去った/自分とは別のもの になった(a se alienatum/alienatio)」という語がトマスにおいて認識 に生じる脱我の状態にのみ用いられ、欲求に生じる脱我を表す上では不 適当であるとされた理由も、こうした欲求に起こる脱我と自己愛の関係 性から説明することができるかもしれない。すなわち、《引用4》に見ら れるように、欲求における脱我はそこに他者志向的の状態が形作られつ つも、そこで自己から完全に離れ去っているというわけではない。つま り、自己愛の優位性の保持という仕方で、自己は自己自身の内に半ば留め 置かれているのであって、そこに認識の脱我に起こるような「自分が自分 とは別のものになった」というような事態は生まれない。それゆえ、a se alienatum や alienatio といった表現は、欲求に生じる脱我を表す上で不 適当であると考えられるわけである。  さて、以上に見られるように、トマスは人間が生来的な仕方で持つ愛を 論じるに当たって、自己愛との調和的な関係のもとに脱我という事態を位 置付けようとする。もっとも、脱我が愛によって生じた結果として語られ るとき、「自己の欲求が他者へと向かう」ということがそこで愛する者の 内に起こっていることの全体であるというわけではない。実際、先の《引 用2》に見られたように、トマスは我々が前節で見た認識と欲求に起こる 二つの脱我に関して、愛は欲求に起こる脱我を「直接的な仕方で(directe)」    

26 Cf. Garrigou-Lagrange, p.402: secundum vim affectivam exit quodammodo extra seipsum, jam quodammodo in amore concupiscentiae, sed multo magis in amore amicitiae, si sit valde intensus.

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原因する一方で、認識に起こる脱我を「態勢的な仕方で(dispositive)」 原因すると述べ、愛が愛する者の関心を愛の対象へと向け、愛の対象のこ とを常に思い巡らすような状態・態勢を作り出すことでその原因となるこ とを明かしていた27。それゆえ、そうした愛によって認識能力の内に起こ る脱我の関係も併せて、愛する者の内に起きた脱我の全体を再構成してみ るのであれば、そこには愛する者が愛の対象を注視すると共に、自己の欲 求をそこへと向け、それが更には外的な行為を伴って愛の対象に働きかけ るという場面があるわけである28。その意味で、トマスにおいて愛によっ て生じる脱我は、愛が欲求能力の内に存在する限りで欲求を対象へと向け ることにその中心を置きつつも、認識や外的な行為をも含めた、自己の働 き全体が愛の対象へと秩序付けられるという事態のことなのである。

4.愛の諸結果の中の脱我:ordo articulorum in S.T.1-2, q.28, aa.1-6.  ここまでにおいて、愛によって生じる脱我がトマスにおいてどのように 捉えられているかについて見てきた。ところで、我々が脱我に関するトマ スの理解を探るに当たってこれまでに手掛かりとしてきた一連のテキスト は、愛によって生じる諸々の結果を主題とする『神学大全』第1-2部第28

   

27 S.T.1-2, q.28, a.3, c.: Primam quidem extasim facit amor dispositive, inquantum scilicet facit meditari de amato, ut dictum est, intensa autem meditatio unius abstrahit ab aliis. Sed secundam extasim facit amor directe.

28 S.T.1-2, q.28, a.3, c.: Sed in amore amicitiae, affectus alicuius simpliciter exit extra se, quia vult amico bonum, et operatur, quasi gerens curam et providentiam ipsius, propter ipsum amicum; et ad.3: ille qui amat, intantum extra se exit, inquantum vult bona amici et operatur.(下線部に よる強調は筆者)こうした欲求に生じる脱我が認識や外的な働きと関わりを持っ たものであることは、Kwasniewski, 1997, pp.157-158, 177-179に示唆を得た。 Cf. S.T. 2-2, q.31, a.1, c.: Voluntas autem est effectiva eorum quae vult, si facultas adsit. Et ideo ex consequenti benefacere amico ex actu dilectionis consequitur.

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問題に置かれ、脱我に関する議論はそこでの全6項に亘る議論の内の第3 項に位置している。次に、我々はこうした第28問題における「議論の進行 (ordo articulorum)」という観点から、愛の諸結果における脱我の位置 付けについて考えていくことにしよう。まずこの第28問題の各項の設問を 纏めてみるのであれば、以下の《表1》のようになる。 項 設問 反対異論 第1項 合一(unio)は愛の結果であるか 『神名論』第4章(709c, 713b) 第2項 相互内在(mtua inhaesio)は愛の結果であるか 『ヨハネの手紙1』4.16 第3項 脱我(extasis)は愛の結果であるか 『神名論』第4章(712a) 第4項 張り合い(zelus)は愛の結果であるか 『神名論』第4章(712b) 第5項 愛は愛を持つ者を傷付ける情念であるか 『神名論』第4章(708a) 第6項 愛は愛を持つ者が行うこと全ての原因であるか 『神名論』第4章(708a) 《表1》1-2, q.28, aa.1-6における設問と反対異論の権威  さて、上記の《表1》の右欄に見られるように、トマスはこの第28問題 の各項の反対異論の多くに擬ディオニュシオスの『神名論』第4章を置い ている。この『神名論』第4章は、第2項を除く全ての項の反対異論に置 かれ、このことは本稿の冒頭でも述べたように第28問題の各項で扱われて いる主題と擬ディオニュシオスとの近しさを窺わせる29。しかし、そうし     29 相互内在における反対異論の権威を擬ディオニュシオスの『神名論』の内に 求めることも全く不可能なことではなかったであろう。やや明瞭さは欠くもの の、擬ディオニュシオスの内にもそうした相互内在に関わる記述は見出される。 In 3 Sent., d.29, q.1, a.1, arg.1 et ad 1.トマスが第2項で引用する『ヨハネの手 紙1』(4.16)は「愛徳の内に留まる者は神の内に留まり、神もその者の内に留まる」 と述べられ、これは愛徳の賦与に基づく神と人間の相互的な交わりについて語る 際に度々引用される箇所であり、トマスも好んでこの箇所を引用している。例え ば、S.T.1-2, q.65, a.5, c.; q.70, a.3, c.を参照。それゆえ、第2項が『ヨハネの手 紙1』(4.16)に求められていることは、トマスがそうした愛徳の場面に対する 視座を持った上でこの項を論じていることを示しているのかもしれない。

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た反対異論における擬ディオニュシオスの言葉は、『神名論』第4章にお ける議論の進行通りに並べられているわけではない。むしろ、それら擬ディ オニュシオスの言葉はトマス自身の手で一度解体された上で各項に配置し 直されており、そこにはこの第28問題全体を或る視点のもとに秩序立てて 取り扱おうとするトマスの狙いが垣間見られるように思われる。それでは、 トマスはこの第28問題の各項をどのような仕方で展開し、脱我はどのよう な仕方で位置付けられているのであろうか。  こうした第28問題全体の進行を考えるに当たっては、Ramírez による『神 学大全注解』が一つの手掛かりとなる。その中で、Ramírez は《表1》に 見られる全6項を「愛によって直接的な仕方で引き起こされた結果(第1-5 項)」と、愛が他の情念の原因となることで「間接的な仕方で引き起こさ れた結果(第6項)」の二つに分けている。その際、Ramírez は前者の議 論に関して二つの読み筋を示している。すなわち、(1)まず Ramírez はト マスが『神学大全』の情念論(1-2, qq.22-48)に共通する一つのフレームワー クをもとにそれを展開していると言う。つまり、彼によれば、トマスは情 念論において個々の情念を特殊的に考察しているが、その際、身体的な変 化についても注意し、記述するところがあるとはいえ、まず欲求的な変化 から論じている。トマスにおいて情念の固有な特質は身体的な変化の側 ではなく欲求的な変化の側に考えられるものであるから、欲求的な変化が 個々の情念の形相的な規定としてまず先に論じられると言うのである。そ して、こうした情念を扱う上での手続きは、この第28問題においても同様 であり、その考察は愛によって愛する者の内に生じた欲求的な変化(第1-4 項)を経た上で身体的な変化(第5項)へと及ぶとされるのである30。こ    

30 Ramírez, p.124: Manifestum est enim quod effectus amoris prius sentiri debent in ipso appetitu quam in organo eius, quia passio formaliter dicit elementum psychicum potius quam organicum vel physiologicum. 欲求に 起こる変化が身体的な変化に先立って論じられることは『神学大全』における情 念論の議論の特徴であり、こうした第28問題の議論の進行に関する Ramírez の 理解は Miner, pp.132-133や Kwasniewski, 2002, p.129, pp.205-210によっても共 有される。

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うしたトマスの情念理解の特徴から第28問題における議論の進行を読み解 こうとする Ramírez の試みが一定の説得力を持ったものであることは、ト マス自身のテキストからも確認することが可能である。実際、トマスは「愛 は愛を持つ者を傷つける情念であるか」を問う第5項の中で、同問題にお いて初めて身体的な変化について言及し、「さて、以上に述べてきたことは 愛における形相的なもの、つまり欲求的な側面から生じたものについてで あるが、愛という情念における質料的なもの、つまり身体の何らかの変化 については次のように言うことができる(…)」と述べているのである31  もっとも、こうした説明は第1-5項を欲求的な変化に関する記述と身体 的な変化に関する記述に大別したに過ぎず、それら個々の項が具体的に どのような意図のもとで進んでいるのかを述べたものではない。そこで、 (2)Ramírez は愛する者の内に根付き、次第に強力なものへと転じていく 「愛の激しさの段階(gradus intensitatis amoris)」という視点をもとに、

一続きの場面展開の中で第1-5項を読み解こうとする。すなわち、愛とい う情念は、愛する者の内に根付き次第にその強さを増すことで、それに応 じた結果を愛する者の内に段階的に作り出す。そして、第28問題ではそう した愛の進度に合わせて愛する者の内に生じた結果が各項の進行と共に語 られていくと言うのである32。そして、こうした説明に関しても、それが    

31 ただし、ここでの「愛について以上に述べてきたこと(hoc quidem dictum sit de amore)」というときに主に念頭にあるのは、第5項の主文でのことであ ろう。S.T.1-2, q.28, a.5, c.: Et hoc quidem dictum sit de amore, quantum ad id quod est formale in ipso, quod est scilicet ex parte appetitus. Quantum vero ad id quod est materiale in passione amoris, quod est immutatio aliqua corporalis, accidit quod amor sit laesivus propter excessum immutationis.

32 Ramírez, p.123: Circa effectus immediatos videtur procedere S. Thomas gradatim, a minori et remissiori ad maius et intensius et fortius, nam simplex unio quid minus dicit quam mutua inhaesio, quae ad eam naturaliter sequitur; quae quidem, quando augetur, in extasim prorrumpit et zelum accendit, ac deinque in sua magna intensitate laedit seu vulnerat amantem. Isti ergo effectus videntur indicare quasi gradus intensitatis amoris ab initio usque ad summum. 愛を持つ者の行う働きは、愛を第一原因 としつつも、他の情念がその近接因となることで、愛によって生じていると言え

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トマス自身のテキストから、やや明瞭さを欠くにせよ、一応のこと裏付け られるものであることは確かである。実際、トマスは第4項の主題であ る「張り合い(zelus)」―それは自身と愛の対象の親密な関係を妨げるも のを排斥しようとする働きである―を問うに当たって、それが愛の激しさ (intensio amoris)によって起こるものとするが33、身体的な器官の変化 の超出(excessus)によって愛する者が何らかの損傷を受けるという第 5項が提示する事態は、そこでの愛が前項で述べられているものよりも激 しい段階にあるものであることを窺わせる34  このように、第28問題の議論の進行に関する Ramírez の二つの読み筋 をその大枠として認めることは差し支えないであろう。とはいえ、この第 28問題は Ramírez の言うような「愛の激しさの段階」という視点だけを 頼りに各項を切り分けるような仕方で読み進んでいくことはできない。む しろ、そこで個々の項はそれらによって表される場面を巡って重なり合う 部分を持ち、複雑に絡み合いながら進行していると言える。そこで、第28 問題を読み解く上での二つの注意点を以上の Ramírez の説明に加え、そ の議論の進行を明らかにすることで、トマスが愛を語る上で果たす脱我の 役割を浮かび上がらせてみたい。 5.合一、そして、相互内在と脱我:愛の対象から「もう一人の自分」へ (1) 愛の諸結果の相違:愛の諸結果の土台としての「感情的な合一」  そこで、第28問題における議論の進行を考える上で注意すべきことの1 点目は、「合一(unio)」を主題とする第1項が愛する者と愛の対象の間    

33 S.T.1-2, q.28, a.4, c.: zelus, quocumque modo sumatur, ex intensione amoris provenit.

34 S.T.1-2, q.28, a.5, c.: Quantum vero ad id quod est materiale in passione amoris, quod est immutatio aliqua corporalis, accidit quod amor sit laesivus propter excessum immutationis, sicut accidit in sensu, et in omni actu virtutis animae qui exercetur per aliquam immutationem organi corporalis.

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に成立した愛の進展の度合いを測る見取り図を提供し、後続の各項で挙げ られる諸結果が生じる土台となっていることである。この点を確認する上 で、トマスはこの第1項において合一について次のように述べている。 《引用5》愛する者が愛の対象と果たす合一(unio)には二通りの ものがある。一つは実在に基づく仕方(secundum rem)であっ て、それは愛の対象が愛する者に現存するような仕方で現れる場合 である。いま一つは情感に基づく仕方(secundum affectum)で あるが、この合一はそれに先立つ把捉ということから考察しなけれ ばならないのであって、その理由は欲求的な運動が把捉に付随して 起こるからである。(…)それゆえ、愛は第一の合一を作動的な仕方 で(effective)作り出す。なぜなら、愛は愛の対象が自らに適合し、 自らに属するものとして、それが現前することを欲し、かつ求める ように動かすからである。他方、愛は第二の合一を形相的な仕方で (formaliter)作り出す。実際、愛それ自体がこのような合一あるい は絆だからである35  トマスが上記のテキストにおいて述べる情感的な合一と実在的な合一と いう二つの合一の在り方は、愛する者に生じた愛の運動の始点と終極にそ れぞれ対応する36。ここで、情感的な合一が愛の辿るプロセスの始点とし    

35 S.T.1-2, q.28, a.1, c.: duplex est unio amantis ad amatum. Una quidem secundum rem, puta cum amatum praesentialiter adest amanti. Alia vero secundum affectum. Quae quidem unio consideranda est ex apprehensione praecedente, nam motus appetitivus sequitur apprehensionem.(…) Primam ergo unionem amor facit effective, quia movet ad desiderandum et quaerendum praesentiam amati, quasi sibi convenientis et ad se pertinentis. Secundam autem unionem facit formaliter, quia ipse amor est talis unio vel nexus.

36 Miner, p.133.トマスは「愛・欲望・喜び」という情念の系列を説明するに当たっ て「始点・運動・終極」という自然学的な運動のモデルを採用していた。その際、 この情感的な合一はその運動の始点に置かれ、対象との実在的な合一によって喜

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て愛それ自体を表すとされることは、それが「愛の結果」に数え入れ られることと矛盾しない。実際、愛する者と愛の対象の間に生じる情 感的合一は、その対象に対する愛が生まれるのと不可分の関係にあり、 そこで対象との結び付きは、愛という情念の本質をたしかに映し出し ていると言える。とはいえ、こうした愛と合一の関係により注目する のであれば、愛する者と愛の対象の結び付きは、愛する者の内に生じ た愛をもとに成立しているのであって、それらは明確な先後関係の内 に位置付けられるからである。  ところで、ここで情感的な合一という在り方に注目してみたとき、 トマスがこの愛それ自体の持つ状態を「愛の諸結果(de effectibus amoris)」 を 問 う 第28問 題 の 冒 頭 に 置 い て い る こ と は 興 味 深 い。 実 際、 こ の 情 感 的 な 合 一 と い う 事 態 が 自 身 の 本 質 と し て 愛 が 形 相 的 な 仕 方 で 作 り 出 し た 結 果 で あ る の に 対 し、 第 2 項 以 降 に 見 ら れ る の は、 愛 す る 者 が 自 己 の 外 に 出 て 行 く こ と( 脱 我 ) や、 愛 す る 者 が 愛 の 対 象 と の 関 係 を 妨 げ る も の を 排 斥 す る こ と( 張 り 合 い ) と い っ た 愛がそれを持つ者を作動的な仕方で動かすことで生じた結果である (Ioannes a Sancto Thoma ら古典的なトミストらの注解もこの点を 証言する)37。その意味で、この第1項とそれに続く後続の諸項は共に「愛

の結果4 4」として語られつつも、その意味を巡っては大きなズレがあり、 そこでトマスはこの情感的な合一という事態を土台とした上で、愛に よって作動的な仕方で作り出される諸結果をその上に積み重ねるよう

   

37 例えば Ioannes a Sancto Thoma, Cursus Theologicus, pp.67-68 は、愛が諸 結果に対して果たす原因性の相違をもとに第28問題の各項の進行を読み解いてい る。すなわち、合一を主題とした第1項が、愛が自己自身の本質として形相的な 仕方で作り出した結果であるのに対し、後続の第2-5項は愛が作動的な仕方で愛 する者の内に作り出した結果であると言うこうした愛が原因として果たす役割を もとに第28問題の議論の進行を読み解こうとする理解は、先の Ramírez の『注 解』においても一部確認される。Ramírez, p.127: unio affectiva est effectus formalis primarius amoris, et propterea est essentialiter ipse amor; quia ipse amor est talis unio vel nexus.

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な仕方で描き出そうとするわけである。 (2) 相互内在と脱我:重なり合う愛の諸結果  そして、この第28問題における議論の進行を読み解く上で注意すべ きことの2点目は、第2項の「相互内在(mutua inhaesio)」と第3 項の「脱我(extasis)」がそれらの表す場面を巡って相互に重なり合 う部分を持ち、相互内在という事態が生じる背後に脱我という事態が 置かれていることである。相互内在とは、認識と欲求の両面にわたっ て、愛の対象が愛する者の内に存在するのみならず、愛する者が愛の 対象の内に存在することであるが、その際、愛する者の認識と欲求は 自分という境界を越えて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、「もう一人の自分」として捉えられた愛の対 象、つまりは他者へと運ばれていると言える。こうした相互内在と脱 我が重なり合う場面を持つことは、「愛する者が愛の対象の内に存在す る」という場面において特に明瞭である38。すなわち、トマスはこの 場面を巡って愛する者の認識が愛の対象の内奥へと入り込み、欲求を 重ねることで、愛の対象の感じていることを自分のことのように感じ ると言う。しかし、その感情を感じている当の主体は愛の対象であり、 本来その感情は愛する者とは関わりのないものである。そこで、愛す る者が愛の対象の感じていることを自分のことのように感じるために は、自分が自分としてある状態を離れ、自身を愛の対象に寄り添わせ ることが必要となってくる。言い換えれば、愛する者が愛の対象を「も う一人の自分」として捉え、そこへと欲求を向けるというとき、自己 が自己自身へと欲求を向けている生来的な状態を離れ、それを愛の対 象へと向け直す、つまりは「脱我する」ということが必要不可欠な要     38 S.T.1-2, q.28, a.2, c.こうした脱我と相互内在の間に重なり合う場面を見取るこ とは、Kwasniewski, 2002, pp.207-209, 220-221、Miner, pp.132-133に学ぶべき 点が多かった。

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素として存在しているのである39。実際、我々が先に見たように、こう した認識や欲求を含めた自己の全体が自己を越えて愛の対象へと出て 行くということがまさに脱我という事態の意味するところであった(第 3節末尾を参照)。  そして、このようにして見るのであれば、相互内在と脱我は、そこ で表されている事態を巡って互いに切り分けられる無関係なものであ ると言うことはできない。むしろ、相互内在と脱我が共に表すのは、 愛する者が自己と愛の対象とを隔てる境界を越えて混じり合う親和的 な場面であり、それを扱う上での観点が両者において異なっているの である。つまり、相互内在が愛の対象との関係に焦点を置き、愛する 者の認識と欲求が愛の対象の内深くに入り込んだ場面を表すのに対し、 脱我はそうした場面を自己との関わりにおいて捉えようとする。すな わち、脱我はそれを、「愛する者の認識と欲求が自己を越えて自己の外 へ出て行く」という仕方で捉えるのであって、脱我は相互内在という 事態が成立する、言わばその背後に置かれているわけである40  さて、このように、第28問題の前半部分は、情感的な合一という愛 そのものの持つ状態を出発点とした上で、愛する者の内に生じた愛が 深まることで芽生えた愛の対象との親密な関係が相互内在と脱我とい うそれぞれに異なる視点から描き出される。そこで、脱我が焦点を当 てているのは、愛する者が愛の対象と結び付くに当たって自己から出 て行くその在り方についてなのである。それでは、こうした脱我とい う事態は、トマスが愛を語る上でどのような役割を持つものであるの     39 このことは「愛する者の欲求の内に愛の対象が存在する」という場合において も同様である。つまり、愛する者の欲求の内に愛の対象が存在するという場合、 本来、自己の欲求の内に存在するのは自己の欲求のみであり、そこに自己と異な る他者、つまり愛の対象が存在す余地はない。そこで、愛の対象が「もう一人の 自分」として認識されることで、愛の対象は愛する者の欲求の内に存在するよう になり、愛する者の欲求は、それが愛の対象が自分自身に対して持つ欲求である かのように、自己を越えて愛の対象へと善を望むようになるわけである。

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    40 こうした合一から相互内在、脱我へと至る第28問題の前半部分の各項の関係を 見るに当たっては、『命題集注解』の次の一節が以上に述べたことを明確にする かもしれない。下記のテキストは、愛を「分割的な力」であると捉え、それを鋭 さ(acutus)、燃焼(fervidum)、溶解(liquefactio)、脱我(extasis)との関 わりの中で説明する異論に対するトマスの異論解答である。そこでトマスは愛す る者が愛の対象と合一を果たすというとき、愛する者や愛の対象の内に上記三 つの分割が起こることを認めている。下記に引用したのは、その内の鋭さや燃 焼、脱我の分割との関わりについてトマスが述べた箇所であるが、愛の働きに 即してそれら分割を説明しようとするトマスの説明は、合一から相互内在、脱 我へと至る第28問題における冒頭の三項の関係を読み解く手掛かりとなる。In 3 Sent., d.27, q.1, a.1, ad 4: in amore est unio amantis ad amatum, sed est ibi triplex divisio. Ex hoc enim quod amor transformat amantem in amatum, facit amantem intrare ad interiora amati, et e contra; ut nihil amati amanti remaneat non unitum; sicut forma pervenit ad intima formati, et e converso; et ideo amans quodammodo penetrat in amatum, et secundum hoc amor dicitur acutus: acuti enim est dividendo ad intima rei devenire (…)Sed quia nihil potest in alterum transformari nisi secundum quod

a sua forma quodammodo recedit, quia unius una est forma, ideo hanc divisionem penetrationis praecedit alia divisio, qua amans a seipso separatur in amatum tendens; et secundum hoc dicitur amor extasim facere, et fervere. Cf. S.C.G. 1, c.91, n.6; S.T.1-2, q.28, a.2, arg.2. 合一、相互 内在、脱我の関係について述べたこのテキストは、Kwasniewski, 2002, pp.207 -209, 220-221に示唆を受けた。   上記のテキストは、異論解答特有の文脈に置かれ、また、そこでの用語法も『神 学大全』のものとは若干異なっている。しかし、上記で語られている内容から、 第28問題の冒頭における三項との繋がりは明らかであろう。すなわち、自身の内 に生じた愛という情念は愛の対象との合一という事態を出発点とした上で、愛す る者を愛の対象へと向けて動かし、その内奥へと到達させようとする。その際、 こうした愛の対象の内に浸透することは、愛の対象をその内奥に向けて切り分け 進んでいくことであるから、そこに愛の対象における分割が存在する。しかし、 個々のものは自身に見合った形相を持っているわけであるから、或るものの内に 別の形相を持った他のものが入り込み、そこに存在することは通常起こり得ない。 むしろ、そのものの内に入り込むというためには、その入り込むものが自身の形 相から切り離されることをまず必要とする。それゆえ、愛する者が愛の対象の内 に浸透するということのためには、愛する者がまず自分の形相から切り離され脱 我すること、つまり自己自身からの分割が必要になるというのである。 だろうか。本稿の考察を締め括るに当たって、引き続き第28問題の議 論の進行のもとに最後にこの点を考えてみることにしよう。

参照

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