• 検索結果がありません。

言語文化に親しむ授業についての考察 ― 俳句を解釈する授業を例に ―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "言語文化に親しむ授業についての考察 ― 俳句を解釈する授業を例に ―"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

᜘᝙୫ԇȾᜆȪɓૌഈȾȷȗȹɁᐎߔ

──俳句を解釈する授業を例に──

森 川 拓 也

On Getting Acquainted with Language and Culture in Class

—Examples of the Class Enjoying HAIKU—

Takuya M

ORIKAWA ᴮǽץᭉɁ੔٣  平成20年度版小学校学習指導要領において「伝統的な言語文化に関する事項」が新たに設 けられ、㧟・㧠学年で俳句と短歌が取り扱われるようになった。現行の小学校学習指導要領で も「我が国の言語文化に関する事項」として、同じく㧟・㧠学年で俳句と短歌が取り扱われて いる。  しかし学習指導要領の内容には変化が見られる。平成20年度版では「易しい文語調の短歌 や俳句について、情景を思い浮かべたり、リズムを感じ取りながら音読や暗唱をしたりするこ と[1]」とあるが、現行版では「易しい文語調の短歌や俳句を音読したり暗唱したりするなどして、 言葉の響きやリズムに親しむこと[2]」となり、「情景を思い浮かべる」という文言が削除された。 特に、平成20年度版で「歌や句に込められた思いなどを思い浮かべたり、(以下略)」とも記 された部分が、現行版では触れられていない。  さらに㧡・㧢学年の「伝統的な言語文化に関する事項」も見てみると、平成20年度版では「親 しみやすい古文、漢文、近代以降の文語調の文章について、大体の内容を知り、音読すること[3]」 と記されているが、現行学習指導要領では「親しみやすい古文、漢文、近代以降の文語調の文 章を音読するなどして、言葉の響きやリズムに親しむこと[4]」となり、やはり「親しむこと」 が重視され、その作品の内容についての鑑賞・解釈という点は求めてはいない。  この「伝統的な言語文化に関する事項」の改訂について西川(2020)は、平成27年度版の 記載「伝統的な言語文化に小学校の低学年から触れ、中学校においても引き続き古典に親しむ 態度の育成を重視している[5]」と現行版の記載「我が国の言語文化に触れ、親しんだり、楽し んだりするとともに、その豊かさに気付き、理解を深めることに重点を置いて内容を構成して いる[6]」を比較し、「これまでは伝統的な言語文化に小学校段階では『触れる』レベルであっ たものが、小学校の段階で『親しむ』『楽しむ』『理解する』レベルまで上がったということで ある[7]」と述べているが、果たしてそう言えるのだろうか。

(2)

 確かに短歌や俳句を身近に感じること、興味をもつことにはつながるかもしれない。しかし、 俳句本来の価値に触れることは難しいだろう。つまり文学作品としての短歌や俳句は、短く少 ない言葉に秘められた思い、奥深さ、言葉によるイメージの膨らみを得ることがその価値であ ると思う。その価値に触れてこそ、より親しみを感じるのではないのだろうか。確かに児童に 短歌や俳句の内容の解釈を求めることは難しいかもしれないし、学習指導要領でも解釈は求め ていない。しかし小学校の授業でも、やはり文学としての短歌や俳句の価値に迫り、読み味わ うことで「言語文化に親しむ」ことができるのではないだろうか。  一つの俳句を例に挙げ、その可能性を探ることが本研究の目的である。 ᴯǽଡ଼ᇼంȺɁηբˁᅽඟɁ੥ȗ  例えば光村図書の㧠学年の教科書㧠年上巻「かがやき」では、平成27年度版、令和㧞年度 版とも、短歌と俳句は㧝時間扱いの「声に出して楽しもう 短歌・俳句に親しもう(一)」と いう単元で、短歌㧟首と俳句㧟句が紹介されている。また教科書㧠年下巻「はばたき」では、 同じく「声に出して楽しもう 短歌・俳句に親しもう(二)」の単元で、短歌㧟首と俳句㧟句 が紹介されている。  学習指導書の指導目標を見てみると、平成27年度版では上巻、下巻とも「短歌や俳句を音 読して、情景を想像しながら、日本語独特のリズムを感じることができる[8]」、令和㧞年度版 では「易しい文語調の短歌や俳句を音読したり暗唱したりするなどして、言葉の響きやリズム に親しむことができる[9]」と、やはり「情景を想像すること」は省かれている。しかし授業展 開案のなかでは、令和㧞年度版でも「詠まれている風景や作者の心情について想像し、話し合 う」活動が取り入れられ、そのことで作品を身近に感じる指導が紹介されている。当然それ以 上の詳細な読みとりは求めていない。  また「親しむ」という目的では、「四季のことば」という中で、春夏秋冬に関する句が、そ れぞれの季節でいくつか紹介されたり、百人一首に親しもうという単元も設定されたりしてい る。実際の授業の多くはこれらの短歌や俳句を読み、リズムを楽しみ暗唱するような指導、あ るいは発展的に短歌・俳句の創作が中心に行われている。その傾向は、俳句を扱う最近のテレ ビ番組の影響もあるのか顕著である。  当然のごとく短歌や俳句は多様な解釈がされ、授業でも子どもがそれぞれの読み・イメージ をもてば良いとされる。だから詳細な解釈を求めることはせず、「楽しむ・親しむ」ことが中 心に学習が進められているとも言える。  このような学習の傾向が進むのは、かつては短歌や俳句は鑑賞の授業が中心であり、植阪・ 光嶋(2013)が言う「児童生徒にとっては『俳句の学習とは、なにか決まった解釈があり、そ れを分かるようになることだ』といった信念を持ってしまう可能性もある[10]」という危惧が 大きかったこともその背景にはあるだろう。  文学作品を含め、芸術作品の製作には動機がある。日常的なこと、当たり前のことでは作品

(3)

を生み出すエネルギーにはならない。強烈に心が動かされたことがあって、それが動機になり 作品が生み出される。その動機に触れようとすることが、文学作品に触れる意味であり、価値 である。決まった解釈を見つけることではないが、それを探ろうとする意識は、文学作品を目 にした時に必然的に生まれてくる。  現在の教科書における短歌・俳句の扱いは、文学の価値を抜きにした学習だと言っても過言 ではないだろう。 ᴰǽȈ᪻ɁފȰȦɁȤȰȦɁȤॅᮗȟᣮɞȉᴥߴ౑ˢᔪᴦɥ΍Ⱦ  光村図書教科書㧠年上に「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」という小林一茶の俳句があ る[11]。教科書には「雀の子よ、あぶないから、そこをどきなさい。お馬さんが通るよ[12]」と いう簡単な説明が記載されており、児童はそれを参考に風景や作者の心情を想像することにな る。平成27年度版の学習指導書の「教材研究」の項目に「学習材の分析」として「五音・八音・ 七音の破調の作りになっている。『俳句は五・七・五』と指を折って数えながら読んでいる児 童にとっては、初めはとまどいがあるかもしれないが、言葉は平易で意味も取りやすく、繰り 返し声に出して読むうちに自然となじむであろう[13]」と、読むことのみ記されており、内容 についての具体的な明記はない。  内容については、いくつかの俳句に関する書物を見れば、やはりこの句もいくつかの解釈や 解説がされている。  例えば、高浜虚子は次のような解説を残している[14]   「下におろ」とか「のいたのいた」とは人払いをして大名の馬が通る。それを見る度に一 茶の眼には憤慨の涙がにじみ出たものであろう。この句は雀の子が、まだ十分に羽づくろい 出来ずに道に下りておる。そこへ大名の行列が来た、「雀子よそこをのいたのいた、そうし ないと馬にふまれて死ぬるぞ」というのである。雀子に托して百姓などのみじめさを言った ものである。  山本健吉の解説は違う[15]   これは生きた馬が通るのではない。子供の玩具の馬で、「おんまが通る、先退け先退け、 ハイハイ……」などどかけ声をかけて、往来で遊んでいるのだ。当時は赤貝などの殻に紐を 通して、うつむけにして履いて歩き、パカパカと馬の足音がしたのを、赤貝の馬と言った。 あるいは竹馬とも。春駒と言って馬の形を竹先につけ、末端に車をつけたような玩具とも取 ることが出来る。要するに子供のかけ声で、巣立って間もない雀の子のような、弱い小動物 を持ってきたのが、一茶らしい。

(4)

 また大谷弘至は次のように解説する[16]   大名行列だろうか。あるいは伝令の馬か。呑気に道の真ん中で遊んでいる子雀に注意を促 しているところである。蹴飛ばされたり、踏まれたりしないように気遣っているのだ。   この馬が何の馬であるかということについては諸説ある。例えば、子どもが竹馬などに乗っ て遊んでいる様子とする説とか、駄馬が通りかかったとする説である。しかし、何と言って も一茶という人は反体制の人である。〈づ(ず)ぶ濡れの大名を見る巨燵かな〉と詠む人で ある。   権力を振りかざして威圧的にふるまう人間が、無垢な小雀を蹴散らして行こうとする様子 と緊迫感とあわれさこそが、一句の核心である、日頃から権力に対する反発心を持っていた 一茶の心の反映であり、一茶の意図はそこにあったはずである。そのほかの解釈では、そう いった意図がなくなり、一句がぼんやりしてしまう。やはり大名行列などの武士階級を乗せ た馬と読むべきであろう。(以下略)  このように解釈が分かれるものである。  小学生向けのいくつかの俳句に関する書籍にもこの句の訳や解説が掲載されている。例えば 以下のようなものである。   「小さな雀よ、向こうから馬が来るよ。はやくそこをどかないとあぶないぞ。巣立ったば かリの雀が、道の真ん中であそんでいます。そのようすはとてもいとおしいけれど、危な げに見えたのでしょう。親のいない雀の子に自分を重ねていた一茶が、あそんでいる雀の 子に自分の子どもを重ね合わせてよんだ句です[17]   「そこで遊んでいるすずめの子よ、向こうからお馬が来るよ。あぶないから、早くどいて、 道をあけてあげなさい[18]」   「すずめの子よ、そこをどいておくれ、お馬が通る。一茶には、小さい動物を詠んだ句が 多いのですが、この句も、小さいすずめが、荷物を運ぶ馬にふまれないように心配する気 持ちが表されています。『そこのけそこのけ』というのは大名などの行列の先頭に立つ武 士が、ちょっといばって言うような感じの言葉なのですが、それを、すずめを心配する言 葉として用いているのがおもしろいのです。一茶には、いつも強いものと弱いものを見比 べ、弱いものに味方する気持ちがあったのです。この馬が子どもの竹馬だとか、大名行列 だとかいう人もいます。竹馬だとすれば、子どもが『そこのけ』といっているのでしょう。 大名行列だとすれば、一茶が心配して言ってるのでしょう。一茶は、行列の先頭を行くい ばった武士に、雀を心配する心を持ってほしかったのかも知れません[19]  どれも、子ども向けで易しくほぼ同じ訳を紹介しているが、多様な解釈があることも示して いる。

(5)

ᴱǽޙ᏿ȻȪȹȈ৊ЅȬɞȉȻȗșȦȻ  子どもに前述のような解説を示したところで、それは解釈の押し付けであり、この句の学習 にはならないのは明白である。その意味では、教科書に紹介されている簡単な説明やいくつか の解説はむしろ学習の妨げになると言ってもよいのではないだろうか。  また、その句を味わうために、作者の生い立ちや思想、その時々の心情を加味させることが 必要だということがあるが、それは研究としては必要かもしれないが学習には妨げになる。前 述の山本の解説にもあるような「赤貝の馬」や大谷の解説にある「一茶は反体制の人」という 情報は、子どもは全く知らないことであり、それを知っていることが前提として必要ならば、 それでは学習は成立しない。やはり子どもにとって目にできる情報、つまり短歌なら五・七・ 五・七・七、俳句なら五・七・五に表されている言葉を読み、想像することが、学習としてま ず必要なのではないだろうか。つまり、子どもが学習の対象とするのは、その句に使われてい る言葉なのである。その言葉を手がかりにして思考した結果として何かしらの想像をもつこと が学習と言えるのである。  「想像する」ということについて大江(1988)は、「我が国の日常生活レヴェルで、想像・想 像するという言葉が使われることがあっても、想像力という言葉に出会うことはまれである。 想像・想像するという言葉が、空想・空想するという言葉と混用される例もしばしば気がつ く[20]」そして柳田国男の論を次のように紹介している[21]   具体的な根拠のない、あるいはあいまいなものにたって行う古層への心の動きを、空想・ 空想するとし、よりはっきりした根拠にたつ、しっかりとした心の動きを、想像・想像する として、柳田は使い分けているのである。  さらに大江(1988)は文学を書く書き手の立場から次のように述べる[22]。   文学表現の言葉の書き手は、言葉のレヴェルから、文章、ひとかたまりの文章というそれ ぞれのレヴェルで、つねに「異化」をはかっている。それは様ざまなレヴェルで、想像力が よく生きて働きうるための工夫を行うことだ。(中略)文学表現の書き手は、ただ言葉のみ を用いてその「異化」をめざし、想像力を喚起するしくみをつくる(1)  「具体的な根拠のない、あるいはあいまいなもの」とは、教材の言葉を丁寧に吟味すること なく、一読や見た印象と言って良いだろう。それから得られたものは「空想」であるとも言え るのだ。  書き手が「ただ言葉のみを用いて」工夫されたものをつかみとったものが「よりはっきりし た根拠」であり、学習の場合、それは学習の対象である教材の言葉そのものである。言葉から 導かれて得られたものこそが「想像」だと言える。そういう意味で、学習として子どもに、印

(6)

象から「空想すること」ではなく、「想像すること」を求めるのなら、やはり句に使われてい る言葉に着目し、言葉から考えることが大前提だと言える。そして大江の論から言えることは、 言葉に着目しなければ書き手の本当の意図や思いは想像できない、ということだ。言葉の少な い俳句などは、書き手の凄まじい言葉の厳選が行われているはずである。 ᴲǽᴱȷɁૌഈ΍Ȟɜ᛻ɞފȼɕɁᐎțɁщͶ  次からあげる㧠つの授業例は、どれも言葉から「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の内 容に迫ることの可能性を示唆するものである[23]  授業例㧝は、この句の音読やリズムを楽しんだ後、子どもの読みのイメージの違いから言葉 へ着目する様子がうかがえる場面である。 授業例㧝 (一部抜粋 京都府㧭小学校 㧠年 2019年㧡月) C1 (口々に俳句読む) T1 これ誰が書いてるの? C2 小林一茶 T2 小林一茶は、何が言いたくて、この句を書いているのかな。 C3 えっと、雀の子を馬が踏むから、「そこのけそこのけ」って言っている。 C4 あー! T3 じゃあ、「そのこけそこのけ」って言っているのは馬か。 C5 (口々に言う) T4 「そこのけそこのけ」って言っているのは、誰ですか。 C6 「馬」「一茶」「馬に乗っている人」…… T5 㧟つ出たよ。①「馬」②「馬に乗っている人」③「一茶」、自分の考えはどれ? C7 (挙手)①「馬」15人 ②「馬に乗っている人」㧣人 ③「一茶」㧝人        (中略) C8 小林一茶は何も見ずにこんな俳句を思いついたのだろうかと思うから、小林一茶は、 この現場にいたのではないか。 C9 俳句というのはその場にいて思ったと思うから、その現場にいた。 T6 一茶は登場人物。        (中略) C10 馬の上に一茶が乗っていると思いました。 C11 一茶は俳句の材料を探していて、偶然、雀の子と馬がいて、それを俳句にしようとした。 T7 こっちは、一茶が馬の上にいて、雀の子は、馬の進んでいる方向にいるというんやな。

(7)

それで、こっちは、馬の進んでいる方向に雀がいて、一茶は、それを横から見ている というんやな。では、一茶が馬に乗っていて、雀の子は、馬が進んでいく前にいると いうのが A、雀の子が馬のいく方向にいて、一茶は、違う場所からそれを見ていると いうのが B。どっちですか。  T2で教師は、作者の思いを想像させる発問をしている。さらに C3の発言をきっかけに T4 の発問が出される。このとき「そこのけ」と言っているのは「馬」「一茶」「馬に乗っている人」 と㧟つの考えが出されるが、この考えの違いが、子どもたちからさらに考えを引き出すことに なっている。  そして C10、C11のように、作者は「馬に乗っている」または「違う場所から見ている」と うイメージの違いが明確になり、子どもたちは自分のイメージを挙手で表明している(C12)。  さらに、子どもたちは言葉に引っ掛かり、C13から C18まで違和感や疑問を表出する。  これらは以下のように整理される。  ①「雀の子」という表現について「雀」だけで分かるのに、なぜわざわざ「雀の子」と書く のかという違和感・疑問。  ②「そこのけ」という表現について「のけて」とお願いするのではなく、「のけ」と命令口 調であることへの違和感・疑問。「そこ」とわざわざ場所を示すことの違和感・疑問。「そこの け」を㧞回繰り返すことへの違和感・疑問。  ③「御馬」という表現について、「馬」で分かるのに「御」をつけることへの違和感・疑問。  そして、子どもたちの中にある決定的なイメージの違いは作者の位置である。  ④作者は馬に乗っているのか、違う場所から見ているのかという疑問。  次から挙げる授業例でもこれらの違和感・疑問が授業展開の契機になっている。  授業例㧞は、「そのこけ」の違和感についての議論をしている。 授業例㧞 (一部抜粋 岡山市㧮小学校 㧠年生 2019年㧡月) T1 「どけ」とか「のけ」とか、意味はわかるよね。それ以外の言葉で、何かない? C1 「おどけよ おどけ」 C2 「ちょっと、そこどけて」 C3 「にげろ」 T2 ほー、これはちょっと違う感じが出てきたね。 C4 「そこにげろ」 C5 「じゃま」 C6 「行くな」 C7 「あぶないよ」 C8 「行ってよ。お願い」

(8)

T3 お願い系になってくるね。 C9 「飛んでいけ」 T4 今ね。違うこと言ったの分かった? C10 「飛んでいけ」 T5 そう。「のける」「どける」と「飛んでいけ」は、同じ? 違う? C11 (挙手) 同じ…㧠人   違う…多数 T6 何が違うの? C12 「よけ」とかは歩いてどけて、「飛んでいけ」はふつうにぴらぴらといく。 C13 遠くの方へいく。 C14 遠くへ行く。距離が出てきたね。 C15 「飛んでいけ」も同じ命令じゃん。 T7 そうだね。「のけ」ってどういうこと? C16 命令してる T8 どこまでいくん?「飛ぶ」っていったらどこまで行くん? C17 空まで飛んでいく C18 木とかよ。 T9 「よける」っていったらどこ? C19 端に寄る。 C20 一茶の近く。 T10 こういう感じね。 T11 じゃあ、今、雀ってピンチなんでしょ。このぐらいよけるのと、飛んでいけっていう のと、どちらが安全なん? C21 (挙手) 㧭ちょっとよける方が安全     㧮飛んでいくほうが安全(ほぼ同数) T12 「飛んでけ」って言ってもいいんだよね。なのに、なぜ一茶は「のけ」て言ったん? (以下略)  T1の教師の発問によって、子どもは「のけ」に変わる言葉として「逃げろ」「飛んでいけ」 を出す。教師は「飛んでいけ」を取り上げ、C21で「のけ」と「飛んでいけ」のイメージの違 いを出させ、T12であえて「のけ」の言葉を使ったのかを考えるように方向付ける場面である。  つまり、ここでは「逃げろ」「飛んでいけ」というような他の言葉でもいいのに、あえて「の ける(退ける)」という言葉を使った意図を考えようとしているのである。  次の授業例㧟では、「のけ」という命令に着目した話し合いが見られる。「雀は(他の鳥も同 様であるが)『そこのけ』って言わなくても、自分から飛んでいくはずなのに、なぜわざわざ と言ったのか」という課題を、子どもたちは共有している。

(9)

授業例㧟 (一部抜粋 岡山市㧯小学校 㧡年 2019年㧡月) 〈そこのけって言わなくても鳥は飛んでいくはずなのに、なぜわざわざと言ったのか〉 C1 鳥が気づいていなかったから。 T1 鳥が気づいてなかったからって思う人? 違うと思う人? C2 鳥がけがをして動けなかったから。 C3 おー。 C4 鳥がけがをして動けなかったから。 C5 鳥はえさとかそういうのに夢中になっていて、よけようとした。 C6 鳥がえさを食べていて気づかなかった。 T2 今、㧟つの考えが出たね。ちがうっていう人、いる? C7 子どもの鳥だから。 T3 どういうこと? C8 子どもの鳥だったから、まだ小さく飛んだりすることができなかった。 C9 雀の子だったから。 C10 子どもだから動けなかった。 C11 子どもだから飛べなかった。 C12 木から落ちてけがをしてたから。 C13 けがはしてない気がする。(以下略)  この授業では、普通なら「のけ」と言わなくてもいいのに、「のけ」と言わざるを得ない状 況であったのではないか、と考えている。  その状況の可能性として、C1、C5、C6の「気づいていない」、C10、C11の「雀が子どもだ から」C4、C4、C12、C13の「けがをしている」という考えが出されている。これは「のけ」 と言わざるを得ない雀の子側の状況を考えるものである。C10、C11の「雀の子どもだから」 というのは「雀の子」を考えるきっかけとなっている。  次の授業例㧠では、「そこのけ」と言わざる得ない作者側の状況を考える場面である。 授業例㧠 (一部抜粋 愛知県㧰小学校 㧠年) C1 なんで「のけ」っていうなら助ければいいのに。 C2 助けに行かなかったのか。 T1 助けに、どうして行かなかったの? C3 そばで見ているんだったら、助けに行くって。バーンて。 C4 でも馬に乗っているんだったら、助けには行けないもん。

(10)

C5 でも手綱を持ってる人だったら、馬をちゃんと止まらせるはずでしょ。 C6 止まらせばいいのだから、「そこのけ」とは言わないと思う。 T2 じゃ、そばにいても、馬に乗っていても「そこのけ」って言ってないで、助けられる んじゃないかってこと? C7 馬は何か偉い人の馬じゃないの? T3 そんな証拠あるの? C8 分かった。「御馬」だから「御」だから。   (中略) C9 殿様が道を通るなんてめったにない。だから後ろには何人もパレードみたいな。 C10 殿様の前に出たら、ぶれいものって助けに行かないんじゃなくて、行けない。 C11 殿様が乗っていたとしたら、前に出にくい。 C12 行きたいけど、行けない……。(以下略)  C1の発言は、「のけ」と言うぐらいだったら助けに行けばよいのになぜ行かないのか、とい う疑問を投げかける。これを機に行かなかった理由を考えるように進む。  この学級でも、授業例㧝と同様に、作者の位置のイメージに違いが出ており、子どもたちは、 作者の位置と関連付けてその理由を考えようとする。そこから「御馬」の「御」から殿様の馬 とイメージを広げ、作者に、助けに行きたくても行けない事情があるのではないか、というこ とに気づいていく。 ᴳǽૌഈȻȪȹɁᜓ᥺ɁժᑤॴȾȷȗȹɁᐎߔ  㧠つの授業例でみられた子どもの考え・発言の具体は、全て言葉への着目から生まれたもの である。これらをヒントにしながらこの句の解釈に迫ってみる。  【イメージの違い】  㧻大学の㧝年生141人に、この句のイメージを簡単な絵に描かせたところ、授業例㧝で見ら れたのと同様に、作者の位置について〈作者は違う場所から見ている〉〈作者は馬の上か馬の 傍から見ている〉の㧞通りに分かれた(2)。おそらく小学校のどの学級でも少なくとも㧞通りの イメージが出されるだろう。このことについて、植阪・光嶋(2013)は「俳句は文字が著しく 制限されているために省略や飛躍が多く、意味の隙間を読み手自身が埋めることとなるが、個 人の持つ知識や体験から必ずしも同じようなイメージが形成されないことが生じうる[24]」と 述べている。さらに「同じ文字から想起されるイメージ、すなわち状況モデルの違いを楽しむ 経験を持たせることができると考える[25]」と述べているが、イメージの違いは、ただ楽しむ だけでなく、学習を深める契機となるのではないか。つまりこの場合の㧞つのイメージの違い から「作者はどこから『そこのけ そこのけ』と言っているのか」という課題ができるのだ。

(11)

子ども間に違う考えやイメージが存在することは、何より重要な学習の動機であり、この句の 内容に迫るための必然である。  【そこのけ そこのけ】  そもそも「そこのけ そこのけ」と言うこと自体が不自然である。授業例の子どもの発言に もあったが、私たちも経験があるように、雀だけでなく、鳥というものは、人間や自動車など、 何かが近づくと危険を察知し勝手に飛び立つものである。当然馬が近づいてもそうであろう。 にも関わらずなぜ「そこのけ そこのけ」と言わなければならなかったのか。授業例㧞では「飛 んでけ」が出されたように、雀の子に対して、例えば「どこかに行っておくれ」「向こうへ飛 んでけ」などと表現してもよい。しかし「そこのけ」という命令を㧞回繰り返すのである。  「のけ」は「退け(退く)」であり、「身を動かしてそこを空ける[26]」「場所をあけてほかに うつる[27]」という意味である。大きく移動することではなく、少しでもその場を空けること を表す。作者は、とにかく「そこ」という場所からわずかでいいから離れてその場所を空けろ と言っているのある。そうしないと馬に踏まれるのである。逆に言えば少しだけ離れれば命が 助かるのである。㧞回叫ぶのも切迫感がある。  作者がそうせざるを得なかった状況があるはずだ。その状況とは何か。授業例で見られたよ うに、それは雀の状況と作者の状況の㧞側面から検討する必要がある。  【雀の子】  まず考えられるのは、雀が生まれたての雛で、飛ぶことはもちろん、少しの移動もできない ということだ。なぜ雛と言えるのか。それは「雀の子」と表現していることから分かる。一見 で「雀」ではなく「雀の子」と判断できるのは、明らかに成長した雀とは違う点があるからだ。 おそらく身体の大きさよりも、雛の特徴である身体の色や模様が、成長した雀とは明らかに違 うのである。つまり自分で身動きできない雀の雛が道の上にいる。この点は授業例㧟で、子ど もも気づいている。おそらく木の上の巣から落ちたのであろう。しばらくすればその場所を馬 が通ることになる。  こう考えると、作者のいる位置に関してある程度の見通しをもつことができる。  もし作者が馬に乗っている人、または馬を引いている人で、雀の子を気に掛けるぐらいなら 授業例㧠で子どもが発言したように「そこのけ そこのけ」とは言わず馬を止めればいいだけ のことである。しかし、そうはしない。作者はどうやら、馬上でも馬を引いているのでもない。 雀の子の近くの場所にいるはずである。それも一見で雀の雛を判断できるほどの近くである。  そこで、新たな疑問が生まれる。子どもの発言でもあったように「なぜ助けにいかないのか」 ということである。これが「そこのけ そこのけ」と言わざるを得ない作者の状況につながる。  【御馬が通る】  なぜ作者は「馬」ではなくて「御馬」と言ったのか。なぜ「通る」なのか。  「御」は「《体言について》尊敬・謙譲の意を表す[28]」、「名詞について尊敬の意を表す[29] 言葉である。「御馬」とは尊敬する馬、殿様などの身分の高い人が乗っている可能性が高い。 これも授業例㧠で子どもから出ていたが、身分の高い人が乗っている馬であるから、雀の子を

(12)

助けるために、その前に出て行くことが難しい状況だと考えられないだろうか。  「通る」というのは「その場所(箇所)を経て先に進む[30]」「ある場所を、一方から他方へ 移動する。通行する。通過する。[31]」である。「歩く」「走る」のようは動作ではなく、「通る」 という状況が起こっているのだ。さらにこの状況は瞬間的ではなく、時間の経過がある。まだ 御馬は離れたところにいて、これから徐々に雀の子がいる「そこ」に近づいてくる。  【イメージの再構築】  ここまできて、ようやくイメージがより具体的になる。  身分の高い人を乗せた馬が向こうからやってくる。作者はそれを道端で迎えている。ふとす ぐ目の前の路上に雀の雛がいることに気づく。木の上の巣から落ちたのであろうか、まだ生ま れたばかりの姿を見る。「このままではその馬に踏まれてしまうかもしれない」そう思う作者 は雀の子を助けたい。助けるためには今、路上に飛び出すしかない。しかし、今、身分の高い 人の前に出ることはできない。作者は心の中で「そこのけ」と叫ぶことしかできないのである。  自分が少し動けば助けられるはずなのに、それができずただ心の中で叫ぶことしかできない 自分自身の葛藤・苦しみが、この句のモチーフでないだろうか。  この句をのんびりした、おだやかな光景だと想像する人も多くいるが(3)、その真逆の光景が 展開されていると考えられる。 ᴴǽᝥᭉ  この解釈が、正しいか間違っているか、あるいはとんでもない勘違いなのかは分からない。 例えば「当時の子供が竹馬遊びをするときのかけ声『御馬が通る、先このけ先このけ』による か[32]」ということを知っていたなら、もしかしたら、違った解釈をするかもしれない。しかし、 子どもがこの句を読み深め解釈するのは、あくまでも句に表れている言葉を手がかりにするし かない。その言葉の意味、その言葉から導き出されるイメージを駆使して、この句の内容を考 えることを学習のねらいとするならば、授業例からも分かるように子どもは十分にこの五・ 七・五の裏に隠された内容に迫っていくことができ、言葉というはっきりした証拠をもって豊 かに想像を膨らませる。そして少ない言葉に秘められた作者の思いの深さ・感動に衝撃を受け、 俳句という、文化遺産のすばらしさに触れることができるだろう。  また言葉の意味や働きを詳しく考えることは、言葉による見方・考え方を働かせることに他 ならない。  このような解釈に至った後に、前に紹介したような当時の一茶の反体制的な思想をさらに知 らせると、雀の子を助けてやれない一茶の苦しみ・葛藤をより深めることができるだろう。  紹介した㧠つ授業例では、どの授業者も教材研究不足と授業展開の未熟さで句の内容に十分 に迫ることができなかったと反省を述べられていた。  どのような発問で子どもの考えを引き出し、子どもの考えを組織して授業を展開していけば

(13)

有効なのかを、今後、授業実践を積み上げる中で検証していく必要がある。  また「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」だけでなく、他の句の授業での可能性も探って いかなければならない。 า ⑴ 「異化」とはロシア・フォルマリストによる文学表現の手法のこと。日常的なありふれた言葉を、 読み手にその言葉にじっくりと立ち止まらせ明視させるための言葉に転換させる様々な言葉の 技法のことをいう。 ⑵ 学生141人のうち、「作者は近く、または離れたところから見ている」とイメージした者が82人、 「作者は馬に乗っている、または馬を連れている」とイメージした者が59人であった。 ⑶ 上記の学生にこの句の印象を尋ねたところ「のんびり、おだやか、おちつき」と回答したのは、 「作者は近く、または離れたところから見ている」とイメージした者の中で39人、「作者は馬 に乗っている、または馬を連れている」とイメージした者の中で25人いた。 Վᐎˁऀႊ୫စ [1] 文部科学省(2008)『小学校学習指導要領解説国語編 平成20年版』 [2] 文部科学省(2018)『小学校学習指導要領解説国語編 平成30年版』 [3] 前掲 [1] [4] 前掲 [2] [5] 前掲 [1] [6] 前掲 [2] [7] 西川学(2018)「小学校国語科における伝統的な言語文化教育の現状と課題─現行の小学校国 語科検定教科書の比較からわかること─」関西外国語大学 研究論集 第107号 pp. 105‒121 [8] 『平成27年度版 小学校国語 学習指導書 㧠上かがやき』光村図書 p. 122 [9] 『令和㧞年度版 小学校国語 学習指導書 㧠上かがやき』光村図書 p. 190 [10] 植阪友理 光嶋昭善(2013)「創作と鑑賞の一本化を取り入れた俳句指導─国語における新た な単元構想の提案─」教育心理学研究 2013. 61. pp. 398‒411 [11] 『平成27年度版 小学校国語 㧠上かがやき』光村図書 p. 53 [12] 前掲 [11] [13] 前掲 [8] p. 128 [14] 高浜虚子(2011)『俳句はかく解しかく味わう』角川ソフィア文庫 p. 130 [15] 山本健吉(2000)『俳句鑑賞歳時記』角川ソフィア文庫 pp. 59‒60 [16] 大谷弘至(2017)『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小林一茶』角川ソフィア文庫 pp. 39‒40 [17] 三省堂編修所(2018)『例解小学短歌・俳句辞典』三省堂 p. 161 [18] 藤井圀彦(2005)『小学生のまんが 俳句辞典』学研 p. 57 [19] 夏石番矢(2002)『ちびまる子ちゃんの俳句教室』集英社 pp. 44‒45 [20] 大江健三郎(1988)『新しい文学のために』岩波新書 p. 66 [21] 前掲 [20] p. 67 [22] 前掲 [20] p. 86 [23] 授業研究の会(2019)『京都合同研究集会 資料』授業研究の会

(14)

[24] 前掲 [10] [25] 前掲 [10] [26] 『岩波 国語辞典 第七版 新版』(2011)岩波書店 p. 1157 [27] 『新選 国語辞典 第九版』(2011)小学館 p. 1012 [28] 『明鏡国語辞典 第二版』(2010)大修館書店 p. 268 [29] 『三省堂 全訳読解古語辞典』(2013)三省堂 p. 257 [30] 『新明解国語辞典 第七版』(2012)三省堂 p. 1074 [31] 前掲 [27] p. 918 [32] 前掲 [29] p. 640 (受理日 2020年㧥月16日)

参照

関連したドキュメント

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

C :はい。榎本先生、てるちゃんって実践神学を教えていたんだけど、授

・分速 13km で飛ぶ飛行機について、飛んだ時間を x 分、飛んだ道のりを ykm として、道のりを求め

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

にちなんでいる。夢の中で考えたことが続いていて、眠気がいつまでも続く。早朝に出かけ

夜真っ暗な中、電気をつけて夜遅くまで かけて片付けた。その時思ったのが、全 体的にボランティアの数がこの震災の規

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

のニーズを伝え、そんなにたぶんこうしてほしいねんみたいな話しを具体的にしてるわけではない し、まぁそのあとは