氏 名 竹澤 稔裕 博士の専攻分野の名称 博 士 ( 医科学 ) 学 位 記 番 号 医工博甲 第 458 号 学 位 授 与 年 月 日 令和元年 6 月 12 日 学 位 授 与 の 要 件 学位規則第4条第1項該当 専 攻 名 人間環境医工学専攻 学 位 論 文 題 名 吸入気酸素分圧を同一にした低圧低酸素環境と常圧低酸素環境 における運動パフォーマンスの相違
(The effects of hypobaric hypoxia versus normobaric hypoxia on exercise performance) 論 文 審 査 委 員 委員長 教 授 松川 隆 委 員 准教授 横道 洋司 委 員 講 師 大森 真紀子
学位論文内容の要旨
【研究の目的】現在に至るまで,スポーツ界を中心に様々な分野で「高地トレーニング」と呼ば れる手法が盛んに導入され,低酸素環境において身体的な作業負荷をかけることで,呼吸循環器 系機能を向上させたり,骨格筋機能を増強させたりする試みが展開されている.近年,高地を模 して人工的に作り出した低酸素環境,常圧低酸素環境(NH)を利用して高地トレーニングを行う ケースが世界的に増加しており,理論的には吸入気酸素分圧(以下,PiO2)を高地と同一にするこ とは可能となる.しかし厳密には,実際の高地はNHに比べて気圧が低い「低圧低酸素環境」であ り,生体が受ける低酸素刺激は酸素濃度に依らず大気圧(酸素分圧)の減少によってもたらされ ており,その応答性はNHと異なる可能性がある.これまで高地とNHの比較を実施した先行研究が 数多く報告されているが,両環境条件において生体応答に関わる全ての修飾因子を厳格に統制し 比較した報告はない.また人工的環境制御室(チャンバー)を用いた先行研究は散見されるが, 呼気がチャンバー内に滞留することに伴う吸入気二酸化炭素分圧(PiCO2)の上昇が回避できてい ない.そこで本研究では,人工的な低圧チャンバーを用いた低圧低酸素環境(HH)を作成し,Pi O2を等しく保ちながら,PiCO2の持続的上昇を抑える環境条件の下で,温度,湿度,気流,さらに は景観に関しても同一に制御して運動時の生体応答やパフォーマンスの相違について検討するこ とを試みた. 【方法】被験者は運動部に所属している健康な男子大学生8名と,女子大学生2名の計10名とした. 測定環境はNHとHHに,常圧常酸素環境(NN)を加えた3条件とし,吸入気酸素濃度をNN条件とH H条件で20.9%,NH条件で13.5%に設定した.また,HHはNHとのPiO2レベルを合わせるため,気圧を504 mmHg(標高3,500 m相当)に制御した.運動負荷実験として低強度(50%HRR)と高強 度(70%HRR)の2種の最大下自転車ペダリング運動を,それぞれ20分間実施した.測定項目は, 呼気終末二酸化炭素分圧(PETCO2),動脈血酸素飽和度(SpO2),HR,血中乳酸濃度,ヘマトク リット値,運動パフォーマンスとした.データは平均と標準偏差で示し,二元配置分散分析と一元 配置分散分析を用いて解析し,必要に応じて多重比較を行った.いずれの解析も有意水準は5%未満 とした. 【結果】低強度,および高強度運動中の後半(10-20分)におけるSpO2の平均値について一元配置 分散分析と多重比較を行った結果,NN条件に比較して,NH条件,およびHH条件はそれぞれ有意 な低値を示した(全てP < 0.01).さらにNH条件に比較して,HH条件では有意な低値を示した(い ずれもP < 0.05).次に低強度,および高強度運動中のPETCO2の平均値について一元配置分散分析 と多重比較を行った結果,NH条件はNN条件,およびHH条件と比較してそれぞれ有意な低値を示 し(ともにP < 0.01),高強度運動ではNH条件に比較してHH条件で有意な高値となった.低強度, および高強度運動中の平均仕事率について一元配置分散分析と多重比較を行った結果,NH条件と HH条件はNN条件と比較してそれぞれ有意な低値を示し(ともにP < 0.01),さらに高強度運動中 の平均仕事率に関しては,NH条件がHH条件よりも有意に高い値を示した(P < 0.05). 【考察】HH条件における高強度運動中の平均仕事率が,NH条件に比較して有意に低値を示した原 因には,呼吸循環器系指標として測定したSpO2やPETCO2の応答の相違が関与している可能性が考 えられる.つまり運動中のSpO2の低下はNH条件と比べてHH条件で顕著となり,PETCO2はHH条件 と比べてNH条件で有意な低値を示した.NH条件におけるPETCO2の減少は,PiO2の減少に対する代 償機構が作動し,換気応答が亢進した結果を示すものと考えられる.一方で,HH条件におけるPE TCO2の減少抑制は,換気応答の亢進が何らかの理由によって抑制された結果と想定され,換気効 率の低下に伴うSpO2の低下が助長され,活動筋への酸素供給不足が仕事率の低下を招いたものと 考えられる.しかしながら何故このように,HH条件における呼吸循環器系の応答がNH条件と比較 して異なるものだったのかは依然として不明である.気圧低下は,呼吸頻度を高めて生理的死腔の 増大による換気効率の低下を介し,SpO2の顕著な減少とPETCO2の減少抑制を惹起しているという 仮説も含め,詳細な検討が必要である. 【結論】温度,湿度,気流,さらには景観に関して統制された低酸素環境で一過性運動を行った結 果,平地をシミュレートしたNN 条件に比較して,標高 3,500 m の高所の PiO2をシミュレートした NH 条件,HH 条件において,SpO2,PETCO2,運動パフォーマンスの低下と血中乳酸濃度の増大が 観察された.また,NN 条件と比較して NH 条件で認められた PETCO2の減少がHH 条件では減弱さ れ,換気応答の亢進が抑制された可能性があり,SpO2,および高強度運動時の仕事率のさらなる減 少が認められた.これらのことから,低酸素環境下の運動中の生体応答には,PiO2以外に,低酸素 環境の創生機序(酸素濃度の減少,あるいは気圧の低下)の相違が関与する可能性が示唆された.
論文審査結果の要旨
1. 学位論文研究テーマの学術的意義 近年,常圧低酸素環境(NH)と低圧低酸素環境(HH)おいて,同一の吸入気酸素分圧(PiO2)下 の運動時の生体応答は等しいという Bert(1878)の EAA 仮説に懐疑的な研究が散見され始めている. 本研究では,温度,湿度,気流,さらには景観に関しても同一に制御された環境,なおかつ PiO2を 等しく保ちながら,吸入気二酸化炭素分圧(PiCO2)の持続的上昇を防ぐことが可能な環境を創生し, NH と HH における運動パフォーマンスの相違と生理応答について検証することを目的とした. 結果,SpO2はPiO2の減少に伴い低下し,同一の酸素分圧であってもHH の方が低値を示した.呼 気終末二酸化炭素分圧(PETCO2)は,NH においてコントロール条件と比較して減少するものの,HH ではその応答が抑制された.運動パフォーマンス(仕事率)は,PiO2 の低下に伴って減少し,低強 度運動ではHH において NH よりも減少傾向を示し,高強度運動では有意な低値を示した.したがっ て本研究結果はEAA 仮説を支持せず,PiO2が同一であるNH と HH における運動時の生体応答は一 致しない可能性を示唆した.今後,これらの2 つの低酸素環境刺激に対する応答性の相違を視野に入 れた上で,長期的な運動トレーニング介入に対する適応応答の検討が進めば,効果的な運動トレーニ ング内容を提案する際に本研究成果は大変有意義である. 2. 学位論文および研究の争点、問題点、疑問点、新しい視点等 NH と HH での生体応答の相違について,これまでにもいくつかの研究報告がなされてきている. しかしながら本研究はPiO2を等しく保ち,PiCO2の持続的上昇を回避し,温度,湿度,気流,さら には景観に関しても同一に制御した環境条件を創生して,NH と HH における運動時の生体応答の 相違について同一被験者を対象にして検討することを試みた世界初の研究である.生体の低酸素応答 に影響を及ぼす可能性が想定される因子を極力統制した方法論は秀逸であり,本研究の独創性と結果 の制度の高さを保証するものになっている. 一方,本研究の一つの問題点として,呼吸循環器系指標の少なさが挙げられる.呼吸数と換気量の 測定がなされていれば,さらに考察が深められたと思われる点は大変悔やまれる.本研究成果から NH と HH における運動時の生理応答に相違があることは示されたので,今後はより詳細に呼吸循 環器系指標を測定し,応答の相違を生み出す機序の解明がなされることを期待する.また,統計学的 分析においては,一元配置分散分析を経ずに多重比較検定を適用する方法を推奨する. 本研究成果は,創生機序の異なる低酸素環境に対する生理応答に相違が認められる可能性を示した ことである.すでに世界的規模で実施されている,高所や人工的低酸素環境を用いた運動トレーニン グの在り方を再考する契機を与えた点で,極めて有益な知見であると評価できる. 3. 実験およびデータの信頼性 本研究において,実験のデザインや被験者選択,実験方法,介入方法,統計学的手法など明確に記 載されており,研究結果においても先行研究に沿ったデータが得られているため,実験の信頼性は十 分であると判断した.4. 学位論文の改善点等