Title
南洋群島引揚げ者の団体形成とその活動−日本の敗戦直
後を中心として−
Author(s)
今泉, 裕美子
Citation
史料編集室紀要(30): 1-44
Issue Date
2005-03-30
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7788
Rights
沖縄県教育委員会
史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005)
南洋群島引揚 げ者の団体形成 とその活動
-E
]本の敗戦直後 を中心
として-は じめに 1 第 第 第 章1 2 3 措 デ デ ー・V Jー ーーh- ・・-h-働 揚 協 働 、 ら る 前 後 か よ 戦 戦 島 に 敗 敗 群 府 本 本 洋 政 日 日 南 石 万 石 L・_Ir rHJ J・UJ 廿1-㌧ 今泉裕美子 第 2章 財団法人南洋群島共助義会か ら財団法人共助義会への改組 第 1節 改組時までの活動 第2節 改正 された 「寄付行為」 にみる活動の特徴 第 3節 財団法人南洋群島協会への改組 第3章 南洋群島帰還者会の結成 とその活動 第 1節 本土 における沖縄出身引揚げ者の組織的活動 第 2節 南洋群島帰還者会の結成 第 4章 財団法人共助義会機関紙にみる南洋群島引揚 げ者問題 第1節 1947年-引揚げ者の困窮 と孤立感 第2節 1948年- 「南洋人/群島人」への呼びかけ :更生 と平和国 日本の再建 第3節 1949年一引揚げ者の 「多様化」/南洋再進出への意欲 お わ りに は じめ に 本稿 は、 日本 の敗 戟 直後 に組織 され た 日本本 日 こお け る財 団法 人共助義 会 と沖縄 の南洋 群 島帰 還 者 会 の形成 過程 をみ る こ とで、南 洋群 島か らの民 間人引揚 げ者が 、引揚 げ直後 ど の よ うな問 題 を抱 え、 また 自 らを取 り巻 く状 況 やそ こでの立場性 を ど う認識 しなが ら、問 題 を解 決 しよ うと したのか、 を明 らか にす る。 南 洋群 島 とは第 1次 世界 大戦時 の海軍 に よる軍事 占領 を経 て 日本 の委任 統 治 下 におかれ た地域 で、 口本 の植 民 地 (ただ し委任 統 治領 は 日本 の領 土ではない とい う点 で は台湾 、朝 鮮 の よ うな植 民地 で は ない) の なかで は 日本 人人 口が最 も少 なか った。 しか し、製糖 業 を 中心 とす る熱 帯 産業へ の 日本 人移民 が、 と くに沖縄 県 か ら大量 に渡航 し、 また戦 時 には朝 鮮 半島か らの 「移民 」 を大量 に受 入れ (今泉,2004b)、1943年 には96,670人 (現 地住 民 人口52,197人) の 日本 人 川 本 国籍保 有 者 と して台湾 人、朝鮮 人 を含 むが 各統計 は不 明) が 在住 した。
南 洋群 島で は第2次 世界 大戦時 、サ イパ ン島、 テニ ア ン島の地上 戦 に象徴 さIMAIZUMIYumiko・Problemsamongthepost-Warrepatriatesfrom JapaneseMandateMicroncsla:their
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h る ような 日米 の職烈 な戦 闘の なかで多 くの民間人が命 を失 い、あ るいは生 き残 った。 こ の戦 闘が始 まる半年前 の1
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年1
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月 には、政府の命令 によって南洋群 島全域 か ら小売 の条 件 を満 たす民 間人の引揚 げが始 まった。 そ して、戦闘のなか を生 き残 り、米軍 占領下 に抑 留 され た民 間人 は、 日本敗戦後、米軍 に引揚 げ を命 じられ、1
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年前半 には引揚 げを終 え (】1 る。つ ま り南洋群 島か らの民 間人引揚 げ とは、戦時 中お よび戦後の両時期 に行 われた こと に特徴 が あ る。 戦時期 、引揚 げ者へ の引揚 げ直後 の生活援護や、本籍地お よび縁故 地へ の帰還 は、政府 の指示 に よって 「海外移住 組合連合会」 が担 当 し、 また政府 は新 た に 「財 団法 人南洋群 島 共助義 会」 を組 織 して これ を行 わせ た。)後者 は、 日本 の敗 戦 後 も南 洋 群 島引揚 げ者 の更 生 ・援 護 を掲 げた唯一の全 国組織 と して存続 し、1
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年4
月 には 「財 団法 人共助義会」 に 改組 、 さ らに1
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年7
月 には 「-財 団法 人南洋群 島協 会」 に再度改組 した。 同会は1
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年4
月 に財 団法 人 を返上 して 「南洋群 島協 会」 とな り、2
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年6
月1
日に開催 される第4
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回全 国南 洋 会サ イパ ン大会 を もって組織 的 な活動 を終了す る予定 である (表1参照)。つ ま り 南 洋群 島協 会 は、戦時期 の引揚 げ者援護組織 を母体 とす る ものであ り、厚 生省の引揚 げ者 団体 リス トの なかで も最 も古 い団体 である (厚生省,1
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頁)。 また、本論 でみ る よ うに、官民協 力 に よる組織 形態 は、戦後 日本 の主要 な引揚 げ者援 護 団体 の ひ とつ 「恩 賜財 団 同胞援護 会」の前 身 「財 団法 人戦時 国民協 助義 会」が組織 され る際 に、先例 と して 意識 され た。 一方、 日本統治下南洋群 島で在住 日本 人の 半数以上 を占め た沖縄 出身者 は、引揚 げに も 固有 の問題 を抱 えざるをえなかった。それ は、南洋群 島か ら戦時引揚 げが始 まる時期 、沖 縄 県 か らも県外疎 開が始 まった こ と、 さらに沖縄 は地上戦 に よる激 戦地 となった ことか ら 多 くの沖縄 出身者が本土 に長期滞在 、あるい は定住 を余儀 な くされ た こ とである (ただ し、 引揚 げ航路 が危険 とな り、台湾や フ ィリピン経 由で引揚 げ を試み た末 、 これ らの地 に上陸 を余 儀 な くされ て敗戦 を迎 えた引揚 げ者 は、沖縄 出身か否 か を問 わず存在 す る)。戦後 も 在本土沖縄 出身者 は容易 には沖縄 - の帰還がで きず 、 また帰還で きた と して も、沖縄戦で 荒廃 し、米軍 の直接 占領下 におかれた沖縄 では、生 活再建 は本 土よ りさ らに厳 しい条件 を 課 され た。 こ う した状況下、1
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年2
月、石川市で南洋群 島帰還者 会が結 成 され、
南
洋群 島へ の再 移民要請 を組織 的 に開始 す る。 同会 は硯在 、戦没者 お よび開拓殉 難者の慰霊供養、 親睦、 お よび ミクロネシア との交流 を前 面 に掲 げ、晦年活発 な活動 を続 けている。 以 上に概観 した ように、本稿 が対 象 とす る (財)共助義 会、南洋群 島帰 還者会 は、南洋 (1)厚生省などの公的な記録に残 された引揚げ者は、引揚げ手続きを取った者であ り、手続きを行 わなかった者は含まれていない。 _2_史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 群 島引揚 げ者団体 の なかで規模 ・活動 ともに最 も大 き く、かつ現存す る最 も古 い団体であ る とい え よう。 さて、民 間人の引揚 げ に関 しては、厚生省 や地方引接援護局 の史料 の復刻が進 んでい る が 、政策史、各外 地 か らの引揚 げお よび内地での受 け入れの実態、引揚 げ者のその後の く I)1 ら しについては、い まだ十分 な研 究 は行 われている とはい えない (阿部 ・加藤,2004)0 また史料紹介や研 究 は多 くが 中国大陸、朝鮮半 島、台湾 に関す る ものであ り、南洋群 島に ('n ついてはほ とん ど扱 われて こなか った。 日本 の南洋群 島統治研 究や南洋群 島移民研 究 にお い て も、引揚 げの実態 や引揚 げ後 の人 び との くら しを正面 か ら取 り上 げた もの はほ とん ど 、l ない。一方、植 民 地研 究 の立場 か らは、引揚 げ者 の 「植民地経験」、「戦争体験 」、 さらに 引揚 げ時の 「生存 にむけた苦 闘 とエ ネルギー」 と、彼 らの戦後 日本 における 「意識」、「く ら し」、「運動」 との関係性 -た とえば、戦後の補償 運動 の高揚 、高度経済成長- の参 入の 仕 方 、「萎縮 した帝 国意識 の沈殿
」
-を指摘 し、 日本 人の 「植民地経験 の歴史 的総括」 の 必 要性 が主張 され てい る (柳 沢,1999)。 また筆者 も、南 洋群 島移民研 究 につ いて、移民 を戦前 と戟後 との連続性 の なかで捉 えるべ きこと、 た とえば、南洋群 島で くら した人 び と が育 んだ技術、意識 、人 とのつ なが りが、引揚 げ後 どの ように維持 され、戦後 日本や地域 社 会 のあ りように どの よ うに関係 したのか、否 か を追 究す る必 要性 を指摘 した (今 泉, 2002a)。 同時 に筆者 は、南洋群 島へ の移民 は、第1次 世界大戦後 の植民地支 配体制 の再 編 の なかで 日本が この地域 を統治 してゆ くとい う国際 的 な条件 を踏 まえて追究すべ きこと を指摘 したが、引揚 げの実態や問題 も第2
次 世界大戦後の国際的 な条件の なかで追究すべ きであろ う。つ ま り、戦後 アジア ・太平洋 島峡地域 におけ る 日米協 力体制構築 の過程 で、 ミクロネシア と沖縄 が信託統 治制度 を前提 とした (沖縄 は制度実施 には至 らず)米軍 占領 下 におかれ、 日米 の安 全保障 に貢献 させ られてゆ くその プ ロセスの なかで、引 き揚 げ に関 わる政策、実態、人 び との くらしや意識 を捉 える必 要が ある と考 える。 以 上の ような引揚 げ研 究、植民地研究 、移民研 究 の現状 や問題提起 を踏 まえなが ら、本 論 は、南洋群 島引揚 げ者の現在 に至 る組織 的 な活動 において、敗戦直後の時期 を対象 に、 (2)日本人の引揚げを扱った先駆的なものとしては、若槻 (1995)があるが、引揚げ者の生活立て 直 しや、「祖国の社会」への 「適応」に関する分析には再考を要するであろうO (3)厚生省や地方引接援護局の刊行物に基づ き沖縄出身引揚げ者を概説 したなかで南洋群島に言及 した研究に安仁屋 (1996)がある。 また沼津収容所への沖縄出身引揚げ者を拓南訓練所との関 連で論 じた研究に一便 (2003b)、埼玉県小川町への沖縄出身者の引揚げ、定着や沖縄人連盟 と の関係を扱った研究に一便 (2003a)がある。 (4)沖縄県庁福祉保健部国保 ・援護課所蔵 「引揚者在外事実調査票」に基づ き、南洋群島沖縄出身 者の居住地城、就業、沖縄県への引揚げ世帯などについてデータ分析 した研究に宮内 (2004)が ある。史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2nO5) つ ぎの ような構成 で進 め る。第 1章 では、戦時、戦後の引揚 げ過程や引揚 げ後の実態 を明 らか に し、 これ を踏 まえて第2章では、南洋群 島引揚 げ援護団体 の ひ とつ (財)共助義会 の組織形成 を、同会の機 関紙 か ら跡づ ける0第
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章 では、沖縄 ,出身の南洋群 島引揚 げ者 に ついて、沖縄 で結 成 された南洋群 島帰還者会の設立 の経緯 や活動 を、関係 者 の所蔵史料や インタビュー に よ りなが らみてゆ きたい。その際、同会の組織化 を内地 における沖縄 出身 疎 開 ・引揚 げ者 問題 との関係性 にお い て捉 え るため、 「沖縄 人連 盟」 の機 関紙 『自由沖 縄』 の関連記事 を分析 す る。 そ して第4
章 では、南洋群 島引揚 げ者が直面 した問題 、 くら しや意識 の変化 と団体形成 との関係 を、 (財 )共助義 会の機 関紙 の記事 か ら裏づ けたい。第
1章
南 洋 群 島 か らの 引 揚 げ と援 護 組 織 第 1節 政 府 に よる「引揚 げ」の定義 そ もそ も日本政 府が定義す る 「引揚 げ」 とは、 日本敗戦後 における陸海軍人の復 員お よ ) び一般邦 人の内地 へ の帰還であった。 日本政府 は当初、外地の一般邦人 を、で きる限 り現 地 に定着 させ る方針 を と り、居留民 の生命、財 産の保護 には万全 の措置 を講ずる よう指示 をだ した。 しか し、引揚 げは以 下の ような現地 の状 況変化 か ら生 じた と している。つ ま り、 日本政府 の外交機 能が全面的 に停止 され、各地域 の連合軍、官憲 によって下 された 「強制 命令」、終 戦 時の現地 の混乱 か ら在住 日本人が生活手段 を失 い、残留が きわめて危 険、不 安 な状態 となったゆ えに、 とい うものである。 また、一般邦 人の引揚 げ を規定す る包括 的 命令 は、 ポ ツ ダム宣言 第8項 (「日本 国の主権 は、本州 、北海道 、九州及 び四国 な らびに 吾等 の決 定 す る諸 小 島 に極 限せ らるべ し」)
以外 には なか った とされ て い る (厚 生省, 1978,80-81頁)。 引揚 げの時期 や対 象者 に関す る上述 の ような捉 え方 ゆえに、政府 は、た とえば引揚 げ者 の生活援 護 を目的 に制定 された 「引揚 者給付 金等支給法」(1957年)で、 当初は戦 時期南 l・. 洋群 島な どか らの引揚 げ者 を除外 した。つ ま り同法 は、「日本 国の権 限の及 ばな くなった (5)政府は、戦後集団引揚げをつぎのように2期に区分する(厚生省,1978,86頁,103頁)。1945年 (昭和20)9月25日、中部太平洋メレヨン島か ら陸海軍将兵などを乗せた船が別府港に入港 した のを最初 とし、1950年 (昭和25)4月22日ソ連領ナホ トカの引揚げ者が舞鶴港に入港 した後、集 団による引揚げは一一時中断され、この間の引揚げを 「前期集団引揚げ」 とするoそ して、1953 年 (昭和28)か ら再開されたソ連、中国などからの集団引揚げを 「後期集団引揚げ」とするo (6)ただ し、付帯決議では 「終戦 日以前」の引揚げ者へ も 「適当な措置を講ずべ き」 とされた(
「参 議院社会労働委員会付帯決議」1957年5月16日)0 -PE史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) †T) 状態 において、裸 一貫で内地 に引 き揚 げて きた とい う特殊性」 を前提 に、1945年 8月15日 以降の引揚 げ者のみ を対象 として制定 されたのである。戦時期南洋群島か らの引揚 げ者 に ついては、国会での議論 で も、「強制 し得 る限度 において希望者か らどん どん乗せ て帰 し
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た」
「強制引 き揚 げ とい うよ りは、 む しろ要請引 き揚 げ とい った万がいいのではないかJ
とい った ものや、戟時期 の引揚 げ と敗戦 とい う特殊事情 における引揚 げでは国内情勢が異 ・l なる といった認識があった。同法 は1961年 に南洋群 島か らの戦時期引揚 げ者 に も適用 され る ようになるが、以上の経緯 にみ るように、政府 は戟時期引揚 げ者 についてはなお さら実 態把握が弱か った。政府のみな らず、戦後 日本では非引揚 げ者たちによる引揚 げ者への理 解不足 や、定着先地域社会での引揚 げ者 と地元民 との仕事 や居住場所 をめ ぐる競合関係 な どがあ り、「ヒキアゲシャ」とい う呼称 には偏見や差別が込め られた りもした。 こう した政 府、引揚 げ者、非引揚 げ者の認識 の隔た り、関係が、南洋群 島引揚 げ者の組織形成や主張 に も影響 を与 えてゆ くことになる。 沖縄 出身者の場合 にはさらに問題 は複雑 であった。 日本 の敗戦前 は、本土経 由で本籍地 に帰還 したが、沖縄戦 によって海路が絶 たれる と、内地で疎 開生活 を余儀 な くされ、 さら に沖縄戦 に続 く米軍 の占領 によって、その まま内地 に定着せ ざるをえな くなった者、戦後 に も帰還 まで に在留 を余儀 な くされた者が多かった。 と くに沖縄 とlJ,身者 には、内地 に縁故 者が無 い ものが多 く、予期せ ざる長期 の内地在留 に、着の身着の ままで疎 開、引揚 げて き た沖縄 出身者 をどう援護 し、帰還 させ るかが 「沖縄人連盟」 など戦後本土の沖縄 出身者団 体 の重要 な課題の ひ とつ となったのであ る。以 下本章では南洋群 島か らの引揚 げ者が なぜ、 どの ように組織 を形成 したのか をみ る うえで必要 な事項 に限定 し、 日本敗戦前 (戦時期)、 戦後の引揚 げのプロセスや実態 をみてみたい。 第2節 日本 敗戦前 の引揚 げ (1)引揚 げ援護機関の設立 1942年 (昭和17)、 F書本革 は ミッ ドウェー海戦で敗退、翌43年 にガダルカナル島か ら撤 退 し、中部太平洋方面で戦局が悪化す る と、同年9月には御 前会議で 「絶対 国防圃」が制 定 されたoそ こで政府 は12月に、南洋群 島在住民の うち年齢60歳以上14歳未満の稼働 能力 に欠 く老幼婦女子 (現地住民 は除 く) に 「疎 開引揚」 を命 じた (海外移住組合連合会,推 (7) 田達繁雄厚 生省 引揚援 護局長発 言 「第26回国会参議 院社会労働委員会会議 録」 第29号,1957年 5月8日. (8)前掲注(7). (9)「第38回国会衆議 院社会労働委員会議録」第10号,1961年3月2ll.史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 1り1 走 1944年度, 9頁)。す なわち、「南洋群 島周辺 ノ情勢 二鑑 ミ防備体勢 強化 ノー還 トシテ内 地 二於 ケル分散 疎 開二呼応 シ」、「一部在住 者 ノ疎 開 (内地引揚)」 をつ ぎの ように
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次 に tLH 分 けて実施す る ことが通知 さjtるo第1次 は 「病弱者及何等労務こ従事 セザ ル者又ハ島内 生 産 二比 較 的影 響 ナ キ所 謂消 費 階級 二属 ス ル者 及其 ノ家族 (農耕 従事 者 ノ家族等 ハ 除外 ス)
」、 第2次 は 「戦局 変化こ伴 ヒ群 島 ノ使 命達成上真 二必要 ナル者 (国防資源 開発 、食料 自給 自足 、運輸 通信 強化等 ノ従事 者)及 島 ノ防衛上真 二必 要 ナルモ ノ (在郷 軍人及訓練 ヲ I12) 受 ケ タル青年 団員等) ヲ除 ク一切 ノ者」 である。 また、引揚 げ該 当年齢以外 の者で も、付 き添 い と して必 要 な場 合 は婦女 に限 りこれ を許す と し、 さらに公用その他 の事情 で上記条 件 にあ ては まらな くとも許 された者 もいた。上記史料 には、労働力、防衛 力 とな り得 ない 民 間人 「消費 階級」 を引揚 げ させ たので あ り、民 間人保護が 目的ではなか った こ とは明 ら か で あ る。 この点 は、戦後 の国会で も、政府側 の見解 と して、南 洋群 島 か らの引揚 げの 「第一義 的 な問題」 は 「送還 とい うよ りは、基地 の増 強 と申 しますか、そ うい った国防力 の増 強 と、それ か ら食糧増産 にあ った」 と し、男性 は 「む しろそ こに抑留 された と同様 の 状態」 だ と述べ られ、戦前引揚 げの 目的 は現地での総 力戦体制構築 にあった ことが確認 さ ド れてい る。 1944年4月14日には 「南洋群 島戦時非常措置 要綱」が閣議決定 され、南洋群 島 住民 の総 力結集 に よる戦力化 と、 日本 人老幼婦 女子 の引揚 げが指示 されたが、実際 には上 述 の ように要綱 決定の半年前か らこれ ら 「非常措 置」 は実施 されてい た。 南 洋群 島にお ける引揚 げはつ ぎの ような手順 で行 うよう指示 され た。 まず 、帰還 申込み ・lい 書 、引揚 げ証 明書 は隣組長が取 りまとめ、区長 を通 じて警察 出張所 に申請 して交付 を受 け るこ と、そ して引揚 げ証 明書の携帯が義務づ け られたO また警察 出張所 には 「臨時帰還者 相談所」 が設 け られた。 また、携帯 し得 る荷物 は、引揚 げ後 に必要 な寝具 、衣類 、炊事 道 (I.I)) 具 な どと限定 され、容積 や個数 も決め られ、「当局」 が これ を検査す る と した。 (10)なお 「疎開」が行われる政策的な経緯や定義、内地におけるとくに学童疎開については、逸見 (1998)、に詳 しい。 (ll)北部テニアン出張所長よりチュ一口駐在巡査宛 「人口疎開二間スル件」 (昭和19年3月 1日) チュ一口巡査駐在所 『高等警察関係』昭和十七年度 (国立公文書館蔵). (12)北部支庁多田仁己からテニアン出張所長加藤勝吉宛 「北警高秘第1567号 老幼婦女子内地引揚 二関スル件」 (昭和18年12月 8日)チュ一口巡査駐在所 『高等警察関係』昭和十七年度 (国立公 文書館蔵). (13)前掲注 (7). (14)区長とは、南洋群島の地方制度の単位である 「部落」(
「南洋群島部落規程」1931年8月 1日, 南洋庁令第7号)の下に、1941年から設けられた 「区」について、部落の事務統括者および代表 である 「総代」の命を受けて、総代の区に関する事務 を補助する 「名誉職」であった(「南洋 群島部落規則」1941年12月19日,南洋庁令第72号)0 (15)北部支庁テニアン出張所長より在住民各位宛 「人口疎開ノ為引揚者荷物二間スル件」(昭和19 年3月19日)チュ一口巡査駐在所 『高等警察関係』昭利十七年度 (国立公文書館蔵),-6-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 内地到着 後の引揚 げ者の 「保護斡旋」 は、専 門に対応 す る2つの機 関が 中心 とな り、関 係官庁 や諸 団体 の援 助 を受 けて行 われた。す なわ ち、 南洋群 島か ら引揚 げが始 まる と、政 脚 ままず 「海外移住組 合連 合会」 にその接収業務 を委託 した。 同会 は「海外 移住組 合法」に 基づ いて1927年8月1日に作 られ、各府県 に移住組合 を組織 して政府の海外移住政策 を推 13q 進 、実施 して きた機 関であ る。南進政策 に関連 した活動 では、 日南 産莱 (秩)へ の投資 、政 府 に よる海南 島や三竃 島の 開拓移民 の委嘱が ある。政府 による援 護活動 の指示 を受 ける と、 海外 移住 組合連合会 は本部 に援護部 を置 き、理事 長 自 らが援護部長 に着任 、 また引揚 げ港 で ある横 浜、神戸 、 門司、鹿児 島に援護事務所 を置いて活動 を始 めた。海外移住組合連合 会の活動 は、疎 開者 の接収 か ら郷里 に帰還す る までの保護斡旋 の順序 お よび手段 方法 を講 じる こ とで あ った。 具体 的 に述べ れ ば、「疎 開者便乗 船 の入港通知 の接受連絡 、疎 開者の 接収 、船賃又 は船 中食費の 支払 、旅館 の割 当及宿泊手配、身上調査 、衣類 品其 の他 の物資 の支給 、衣料切符 の支給 、健康診 断、病 人の医療 手当、要救護者の保護、帰郷乗車券 の購 入交付 、帰 郷輸 送 の手 配、 団体輸 送 及之 が引率 、荷 物 の保 管 及発 送其 の他 諸般 の援 護事 務」 であ る (海外 移住組合連合会,推定1944年度, 1-5頁)。連合会の事務所 は芝公 園四 号地 の 日南産業 (秩 )の建物 に置かれ、同建物 が東京大空襲で消失 す る と、臨時立退 き先 と して後述 の (財 )南 洋群 島共助義 会事 務所 内 に移転 して陣営 を新発足 させ、その後、丸 ど ルの海外 興業 (秩)内 に落 ち着 いた (海外 移住組合連合 会,推定1944年度,189-194頁)O 南洋群 島か らの敗 戦前引揚 げは、1945年の本土空襲 の前 に終了 し 「空襲 の被 害全 くな く 何 れ も無事帰郷 した」 とされてい る (海外 移住組合連 合会,推定1944年度,195頁)。 しか し、南洋群 島引揚 げ者 の なか には、航 海途 中で台湾や フ ィリピンで下船 させ られた り、内 地上 陸後 も沖縄 諸島、奄美諸 島、硫黄 島、八丈 島の出身者 には 「内地残留」 を余儀 な くさ れた りす る者がい た。 また、帰還 で きて も内地で暮 ら していた家族 と折 合 いが悪 かった り、 生計 を立 て ることが で きなか った り、の理 由で引揚 げ者収容所 に再入所 す る者 もいた。 海外 移住組合連 合 会の南洋群 島引揚 げ者 に対 す る接収活動 は、1943年 (昭和18)12月か ら始 ま り、接収事 業 の終了 に よって1945年 (昭和20) 3月、特設 の援護都が廃止予定 とさ れ る までの1年4カ月 にわたった と推測 され る。 しか し実際 にいつ事業 を終 えたかについ て は、硯在 の ところ明 らか に しえない。海外 移住組合連合会の1944年度 の記録 では、その 活動 が 「其 の僅 共助 義 会 に引継 が」 れ、「所 謂発 展 的解消 を為す こ とを得 るは誠 に欣幸 と す る所 な り」 と記 され てい る (海外 移住 組合連合会,推'/%1944年度,192頁,194頁)。 ま (16)事業の目的は 「海外二適当ナル企業地ヲ求メ定住性ヲ有スル所謂自作農ノ進出ヲ図1)以テ国運 ノ進展ヲ企図」 し、政府による低利資金の融通、補助金の交付を受けながら「非営利的二経営
」
された。主にブラジルなどへの移民に携わった (海外移住組合連合会,1932,1934)0史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) た、敗戦後の南洋庁 の史料 には、海外移住組合連合 会 には南 洋庁が委嘱 した 「南洋群 島引 接民援護」 を、各府県 におかれた海外移住組合 にはつ ぎに述べ る (財)南 洋群島共助義会 (】7) が委 嘱す る事項 を継続 すべ き、 との指示が あったが、実現如何 は不 明であ る。 南 洋群 島引揚 げ者援護 に中心 的 な役割 を 果 したい まひ とつ の組織 、 (財 )南 洋群 島 共助義 会 は、引揚 げ開始 か ら約4カ月後の 1944年4月、大東 亜省 の肝 い りで設立 され た。 同会 は 日本 の敗 戦後、表1の ような改 組 、改称 を とげ るが、そ もそ もの設立 目的 は、 引揚 げ者 の 「生 活 の安 定 と児 童 の致 表1 名称および組織の変遷 育、其 の他諸活動 の援護 を図 り、以 て前線 に残 り敢 闘 しっ ゝある父兄 を して、後顧 の憂 な か ら しむる為」 であ った (海外 移住 組合連合会,推定1944年度 ,第 1章 第13節 「南洋群 島 共助義 会 との 関係」).設立 に際 して直接 には南洋庁 が企画 、発動 した とされ るが、前述 の 「南 洋群 島戦 時非常措 置 要綱」(1944年4月14日)が南洋群 島か らの引揚 げの急速実施 と内地での援 護 、就労強化、引揚 げ時の預貯金払 い戻 しや金融へ の特 別措 置 、な どを掲 げ てい るこ とか ら (中島,12頁 )、本 要綱 に関連 して組織 され たのでは ないか と推測 され る。 初代 会長 は松 江 春次 (南洋興発 (秩 )取締役 会長)、 2代 目会長 には高橋進 太郎 (元南洋庁 拓殖部長)が、役 員 に南洋群 島関係 官民有 力者が就任 し、本 部は東京都永 田町南洋庁東京 出張所 内 に置 かれ た。 ちなみ に南洋興発 (秩) とは 「北 の満鉄、南 の南興」 とうたわれ、 南洋群 島政財界 に最 も影響力 をもち、移民 に とっては最大 の雇用先 であった (今泉,1992, 1997b)o海外 移住組合連合会 に よれば 「南洋庁 と常 に表裏 一体 となって活動」 した 「官 民協力」 の組織 で あった。設立 は、恩賜金2万円 に加 えて50万 円の基金 を もって認可 され た とある。 この恩 賜金 を もとに設立 された経緯 に よ り、組織 の性格が 「い わば恩賜財 団法 人」 と強調 され る こ とになる
(
(財)
南 洋群 島協 会,1958年正 月号 (第4号 ))。設立 に際 し ては、南洋庁長官細萱成子郎 (当時)が奔走 した とされ、設 立資金 と活動 資金は、陸海軍 大 東亜省 か らそ れぞれ25万 円ずつ計75万 円、南洋群 島の民 間人関係 者 か ら180万 「Ⅰ上 総計 250万 円 を集め た。 また 「サ イパ ン失 陥」後 は、「遺家族援護 に意が注がれ」内努金10万円 が 下賜 された とあ る() 地方 での活動 は、政府の指示で、海外 移住組合連合会が各府県 に組織 した海外移住組合 を通 じて行 わせ た。す なわ ち、海外 移住組合連合会理事長 を現職 の まま (財 )南洋群 島共 (17)中村事務官起案 「関係官庁、会社、団体等二関スル方針」1945年8月15日起案-8-史 料 編 集 室 紀 要 第
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号(
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)
助義 会の理事 に着任 させ 、部 下職員 も同会の職員 を兼務 させ るな ど、両組織 を 「完全 に緊 密 化 し群 島疎 開者 の為 には此 の上 な き融合体」 と したのである。 また具体 的 な活動 は、生 活保護、救他 、慰籍 、授 産授 職、育英、 その他 身の上相談 な ど各種 の援護事業 であ った。 これ らの活動 に明 らか な ように、 (財 )南洋群 島共助義 会 は、す で に本格化 しつつ あ った 引揚 げ業務 について、新 たに発令 され た非常措置要綱 に対応す る機 関 として、南洋庁東京 事務所 と業務 を分担 すべ く設置 されたのではないか と思 われ る。 さらに、引揚 げ者 を上陸 港 で受 け入 れ、本籍 地 ・縁故地帰還 させ る こ とに重点 を置 いた海外 移住組合連 合 会の業務 に比べ 、 (財 )南洋群 島共助義 会 は南洋群 島の政財界 の有 力者 に よる政治 ・経済 的 なバ ック ア ップを前提 に、引揚 げ後の生活援護 に も対応 しようと した点 に特徴 が見 出せ るであ ろ う。1
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4
年、南 洋群 島 に米軍が上 陸す る と、引揚 げ業務 には被災者援護 とい う要素 も加 わっ た。 南洋庁 は戦災者 に対 して 「戦災法規」 に基づ く 「正規 の援護」 を開始 し、 さらに将来 の援 護 の ため に詳細 な身元調査 を行 った (海外 移住組 合連合 会,推定1
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年度,4
頁)。 また1
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年9
月 ごろ、南洋庁警部補であ った国場長 昌が沖縄県庁 内 に (財 )南 洋群 島共助 義 会 t'出張事務所 を開設 し、「南 洋群 島帰還 家族 の救護 に挺 身_3した との記録 はあ るが、具 体 的 な活動 や 、事 務 所 の消 長 につい て は不 明 で あ る ((財 )共助義 会 C,1
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年5
月1
0
日 (第31
号) 「東西南北」)。 南 洋群 島か らの引揚 げ者受 け入れは、急 ご しらえの態勢 で実施 されたが、戦後 日本 の引 揚 げ体制 を構 築す る にあた りその先例 になった と思 われ る。す なわ ち南洋庁 、海外 移住組 合連 合会、 (財 )南 洋 群 島共助 義会 な ど、南洋群 島や 南方 で活動 す る既存の官民 の組織 を 利用 しつつ協 力体制 を作 り、国内の各省庁、地方 自治体、上 陸港 の方細告組合、 さ らに運輸 会社 、旅行 会社 な どを動員 して、戦時 下の引揚 げ者援護 にか ろ う じて対応 したのであ った。 (2)本土へ の引揚 げ ここでは 日本 の敗 戦前 、本土 を経 由 しての沖縄諸 島、奄 美諸 島、朝鮮半 島- の引揚 げ を 含 め た本土- の引揚 げ について取 り上 げ る。 ただ し本稿 で は、 この時期 の引揚 げ に海外 移 住 組 合連合 会 「南洋 群 島在住 民疎 開接収事務報告書」 (推定1
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年度) に多 くを よらざる を得ず、本史料で はた とえば朝鮮人の引揚 げ については情報がほ とん どない。 したが って 戟 時期引揚 げの全体 像 は、今後史料の発掘 を進 め なが らさ らに明 らか に してゆ きたい。 戦時期 の「疎 開接 収」は船舶 に よる もので、1
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年1
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月21
日の第 1次 か ら1
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年1
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月1
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日 の第41
次 まで行 われ た。 また次外接収 は機 帆船 または飛行機 (日本航空会社 に よる もので 横 浜磯子飛行場、千 葉銚子飛行場 な どに着陸) に よる もので、22回あった (海外 移住組合 連合 会,推定1
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年 度, 9
頁)。引揚 げ港 は横浜 、神戸 、 門司、鹿 児 島、次外 船 は東京芝史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 浦、築地、 横 須 賀、三崎、勝浦 、 大阪、呉、長崎 な どであった 。1943 年12月から1945年 3月までの間に引 揚げた人びとにつ い て、連 合 会が接 収 した人数 は総 計 16,386人 (男 性 表 2 南洋 群島島唄別 引揚げ者数 (1 9 43 - 19 44) 引揚げ島名 大男 性
人
子 供 男性小計 大人女 性子 供 女性小計 総 数 パラオ 5761,208 1,784 1,8561,270 3,126 4,920 トラック 899 674 1,5731,002 671 1,673 3,246 サイパン 462 612 1,074 891 615 i,506 2,580 ボナペ 198 583 781 639 530 i,169 1,950 テニアン 175 474 649 562 447 1,009 1,658 ヤ ップ 97 241 338 261 221 482 82() ロ 夕 26 110 136 138 113 251 387 ヤルー ト 154 45 199 106 57 163 362 クサイ 39 78 117 74 67 141 258 グアム 6 66 72 69 48. 117 189 島不明 6 2 8 6 2 8 1Ll 出典 :海外移住組合連合会 「南洋群島在住民疎開接収事業報告書」推定 1944年度, 22-23頁. 6,730人 、女性9,646人)、大 人子供別 で は大 人男性 2,637人、大 人女性5,605人 、小 人男性 ・-.lL 4,093人、小 人女性4,041人であ った。 つ ぎに島幌 別の疎 開者数 をみ る と (表2)、敗戦前 にはパ ラオ諸 島が最 も多 く、ついで トラ ック諸 島、サ イパ ン島、 ボナペ 島 と続 く。 また引揚 げ者 の本籍別 人 口は (表3
)、沖 縄県が最 多 で疎 開者総数 の約4
割 を占め、続 いて東京、福 島 と続 き、 これ らの本籍別構成 は南洋群 島在住 者 の人 口構成 とほぼ重 なる ものであ った。 つ ぎに、内地- の到着状 況 は1944年3月か ら増加 し、 4月、 5月が最 も多 く、米軍がサ イパ ン島 に上陸 した6月以降は一挙 に減少す る。 なお、内地 までの航路 は、 日本 の戦艦 を 護衛 と した船団 を組 んだが、魚雷 や攻撃 を避 けての 「ジグザ グ」航路 で、 平時以上 に時間 がかか った。 また、航海 中の船が敵軍 に撃沈 されて命 を失 った者、あるい は沈没後 に救助 さカt南洋群 島やその他 の地域 に移送 された者、内地へ帰還 した者 もいた。攻撃 を避 けて台 湾 や フ ィリピンに上 表3 南洋群島引揚げ者出身府県別一覧表 (上位5県) 陸 し、その まま現 地 で 戦 争 に 巻 き込 ま れ、戦後帰 還 した者 もい た。 内地 で は引揚 げ船 の入港情 幸田ま極秘 で あ り、入港 の1日前 あるい は数 時間前 に 府県名 大人男 性l子 供 沖縄 東京 福島 静 岡 鹿児島 朝鮮 台湾 その他 大人 1子 供 6,136 983 974 664 569 777 2 10 16,386 1,654 2,585 1,940 1,611 3,551 203 391 377 215 592 280 392 327 255 582 180 259 249 156 405 170 244 190 lJTl 325 156 4542 196 1J 323 4,093 6,730 5,605 4,041 9,646 出典 :海外移住組合連合会 「南洋群島在住民疎開接収事業報告書」推定1944年度, 23-24頁. 荏 :朝鮮 、台湾 、その他 は上位5県の順位 とは別 に記 した。 (18)ただ しここでの総計、小計は原史料においても、表2、表3のそれらと一致 していない0 -10-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) な らない と判明せず 、受 け入れ側 はす ぐに対応 で きる よう常時準備態勢 を しかねばな らな か った (中村
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頁)。 引揚 げた人 び との様 子 は、「取 る物 も取 り合-ず疎 開 し」、「大 きな風 呂敷包 み には、鍋 釜洗面器 、果 てはバ ケツの類 まで見 え、飽 くまで も強 く生 きんが為 の頑張 りが現 れ、国策 の命ず る疎 開 に将来 の希望 を持 ち、何 れ も元気 に見 えたるは最 に頼母 しく、孤 影偶然 たる 姿 な きは、大 に意 を強 うす る所」 だ と描写 されてい る (海外移住 組合連合 会,推定1
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年 皮,3
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頁 )。 しか し実 際 には、多 くの家族が、つれあいや親 あるい は子 、親戚 知人 を南洋 群 島に残 し、戦局 や引揚 げ後 の生活 に見通 しがつか ない とい う不安 の なかでの帰還であっ た。 しか も、悪条件 での良い航海で体力 を消耗 させ 、傷病者 も少 な くなか った。 さらに上 陸後 は 「防諜 及不測 の事故又 は支障 を防止す る意味 に於 て、原則 と して、濫 りに外 出 を許 さず、外 部 との交渉 を成 るべ く少 な く」 す る よう命 じられ、情報 の授受 や人 との接触 も慣 らざる をえ なか った (海外 移住組 合連 合会,推 定1
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年度,4
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頁 )。つ ま り引揚 げ者 たち は、内地帰還 の安堵 感 とい うよ りも、新 たな不安 や緊張感 を暮 らせ なが ら、上 陸後 の生活 ・i.ド をス ター トさせ たのであ るO つ ぎに引揚 げ者の傷病 、死亡 につ いてみ る と、「乗船 中の不潔 が原 因で疫病 が葦延 、 こ れ に冒 され た子 女 に、医薬 もゆ き とどかぬ ま ま着 い た」 者 が い た (中村,1
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戻 )。連合 会 の記録 に も消化不 良、 胃腸 障害が最 も多 く、幼児 には栄養不 良、衰弱が多い こ と、 さ らに熱帯 か ら冬 の気候 に移 り、衣食住 が必ず しも充分 に配給 され ないため に感 冒、 気 管支炎、急性肺 炎患者が相 当い た、 とある。伝染病 では赤痢 が最 も多 く、横浜 、神戸 で 発 生 、鹿 児 島では子 供 に麻疹 が流行 して死亡者 を多 く出 した。 また 「稀 には精神病者」 も いた。鹿児 島では、沖縄 や奄美へ の帰還 を足 止め された長期滞在者 の なか に多数の病人が 発 生 し、上記子供 の麻疹 の流行 も加 わ って 「一時姻族 を極 め た」。 さらに船 中での打撲負 (19)連合会は引揚 げ者 に内地到着後の注意 と自覚 をつ ぎの ように呼 びかけた。「お知 らせ 一、旅館 に 入っ た ら方離京の方 に迷惑 をかけぬ様 に座敷 、布団、便所等 を汚 さぬ様 心掛 け ませ うO 二、旅館 に 入ってか らす ぐ帰 りたい と思って も係 よ り指示のあるまでは無断で帰 らない様 に して下 さい。三、 旅館 に入っ てか らは無 断で出歩かぬ様 に して下 さい。必ず班長 に連絡 して行 動 して下 さい。四、 貴方達 の本貨物 は組合の手で直接送 り先 に届 け ますか ら御安心 くだ さい。五 、旅館 に持込 んで運 べ ない ものは組合 の手で運 んで上 げ ます か らよ く旅館 の方へ御話下 さい。六 、鉄道で扱ふ手荷物 (チ ッキ) は八貫匁迄で一 人一個 です。列車内持 込み 手廻 り品は二個 迄です。七、貴方達の汽車 の切 符 (電車区間は 自分で買って貰 ひます)は組合で買って旅館へ 配って行 っ て上げ ます。ノ工 旅館 で病気 になっ た時は直 に旅館 の万- 話 し医者 を呼 んで貰っ て下 さい。費用 は組合で支払 い ま す。 九、衣料品の支給があ ります。後で各旅館 に南洋庁の係の人 と南洋群島商業組合連合会の人 が行 き御話 して下 さい ます。 十、県庁や、市役所 や、南洋庁の方達 が色 々の こ とについて御調べ に行 かれ ますか らよ く命令 に従 って下 さい。十一 、班長 さんは御苦労 で も組合 との連絡 が頻繁 に あ りますか ら何 時で も連絡 の とれる様 に して下 さい。
」 (海外移住組合連合会,推定1
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年度,6 頁)。史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 傷 、海没 で怪我 を負 った者 、孤児 となった者 な ど南洋庁職 員の記録 で は 「実 に惨惰 たる情 景」 で あ った とい う。移住組合の記録 に よる死亡者数 は、船 中死
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名、横 浜2
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名、神戸3
3
名、鹿児 島2
6
名 (未詳) とあるがその数 については さらに検討 を要す るで あろ う。一方、 船 中や上陸後 に出産 をす る妊婦 もいた。 これ ら傷病者、妊婦 には引揚 げ港地元の医師の回 診 や、必 要 に応 じて入院の措 置が とられ た (海外 移住組合連合会,推定1
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年度,9
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質)0 (3)沖縄 出身者 の引揚 げ 日本敗戦前 の沖縄 お よび奄美へ の引揚 げは、本 土経 由で行 われた。本土経 由 とは、南洋 群 島か ら他府県出身者 とともにい ったん本土 に上陸 し、鹿児 島、神戸以外 の港 に上陸 した 場合 は両港 に移動 して沖縄 や奄美行 きの便船 に乗 り換 え、沖縄 に帰還す る とい うものであ る。後述の ように南西諸 島か らの引揚 げ疎 開が命 じられ る と、1
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年夏 ごろか ら、政府 は 南洋群 島引揚 げ者 の うち沖縄 出身者 を台湾の高雄港 に下船 させ る ように した (海外移住組 合連 合 会,推定1
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年度,6
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頁 )。 なお、朝鮮人 も本土経 由で帰還 させ 、下 関か ら釜 山に 送 り出 した。 神戸港 に到着 した沖縄 出身者 は、連合 会が管理 す る 「元神戸移住 教養所」 に短 くとも1
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数 日、 長 くて1カ月余 りの滞在 を余儀 な くさjtた。教養所 に入れ ない場 合 は、神戸市 内の 方細別こ滞在 させ、教養所 が空 き次 第漸次 移動 させ た とい う.鹿児 島港 では、横浜港 や神戸 港 か ら移動 して きた沖縄 、奄美出身者 は、市内の旅館 に滞在 した。1
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4年 7
月、政府 は琉球列 島その他 の 南西諸 島居住者の うち老幼婦女子 の引揚 げ疎 開 を 命 じた。)この命令 に よって、南洋群 島か ら引揚 げた沖縄 お よび奄美 出身者 は帰還が不可能 となった (海外移住組合連合会,推定1
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年度,第1
章第9
節 「南西諸 島疎 開実施 に因る 帰還不 能者の援護措 置」)。連合会は、鹿児 島港 に寄港 中の照国丸 に沖縄行 きを停止 させ、 沖縄 出身の南洋群 島引揚 げ者 を神戸港 に引 き返 させ た。 また鹿児 島港 にあ る疎 開者の荷物 も沖縄 に発送す るの を停止 した。 さらに神戸 、横浜へ も、南酉諸 島に帰還 しようとす る引 揚 げ者 に対 して出航 中止 を通告 した。神戸 では帰還不能者 を集団 的 に長期援護す る授 産事 業 を企 画 し、 (財 )共助義 会 と兵庫 県当局 とともに対 策 を練 ったが 、実現 に至 らなか った とい う。 また、鹿 児 島 に移動 して きた沖縄 出身南洋群 島引揚 げ者 には、援 護物資 や滞在環 境 に比較的恵 まれた横 浜 に比べ 、鹿児 島ではそれ らに恵 まれず、 なおかつ予期せぬ 長期滞 在 を強 い られた こ とも重 なって、旅館側 と少 なか らず摩擦 を生 じさせ た、 との報告 もある。 照 国丸以後、沖縄- の帰還 は中止 され たため、連合会 は、政府 の方針 に則 って沖縄 出身 者 に対 応す る こととなった。す なわち、沖縄 出身引揚 げ者 の内地 にい る縁 故者に縁 故疎 開 _12-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) を行 わせ る とい うものである。 また政府 は縁故者 がい ない引揚 げ者の なかで、奄美 出身者 は鹿児 島県下 に、沖縄 出身者 は宮崎県 または熊本県 に疎 開 させ る方針 を とった。 よって連 合 会 も厚生省 や関係 各県当局 と折衝 し、奄美 Itil身は鹿児 島県 に、沖縄 出身者 は熊本県 に疎 開 させ た とい う。 この措置 に よ り、鹿児 島県 では宮之城 町 に神戸港 か ら移動 して きた32名、 鹿 児 島港 か ら27名 の計59名 、熊本県 で は川尻 町 に神戸港 か ら移動 して きた162名、鹿児 島 港 か ら57名の計219名が疎 開 した。 これ ら疎 開に際 して連合会は、生活必 要上 の炊事用具 、 食 器類 な どを支給 、持 参 させ た とい う。 第
3
節 日本 敗 戦 後 の 引揚 げ (1)本土- の引揚 げ 敗戦後 の 日本本土- の民 間人の集団引揚 げ者 は、1945年10月24日ヤ ップ島 を第 1便 と し、 1946年5月 7日のテこ ア ン島か らの引揚 げ を もって終了 した とされている (外 務省 アジア 局 第五課,27頁 .以下特 別 の こ とわ りが ない限 り同書 に よる)。 また 「朝鮮 人、台湾人、 中国人、沖縄 人」 は、後述の ように若干の例外 を除いて、おおむね直接本籍地 に送還 され た とされ てい る。 その総 数 は約60,000人 で あ り、 内地帰還 者 (沖縄 出身者 の内地帰 還希望 者 を含 む) は 20,041人 、 内地 以外 - の帰還者 は41,487人(
「朝鮮 人7,726人、台湾 人550人、 中華民 国人 (2()) 136人、沖縄 人33,075人」)であ った。 これ らの統計 か らみ る と、沖縄 への引揚 げ者 は、内 地引揚 げ を希望 す る沖縄 出身者 を含 む内地帰還者数 をはるか に上 回 っていた。つ ぎに本土 引揚 げ者 の うち、引揚 げて きた地区 を多い順 か らあげる と、 ボナペ地区 (7,029人)、パ ラ オ地区 (6,010人 )、サ イパ ン地 区 (2,253人)、 テニ ア ン地 区 (2,052人)、 ロ タ地 区 (987 人)、 トラ ック地 区 (709人)、 クサ イ地 区 (497人)、ヤ ップ地 区 (427人)、ヤ ルー ト地 区 (77人) とあ る (沖縄 に直接帰還 した人々の在住 島別人 口は不 明であ る)。 (2ll 引揚 げ に際 しては、各 島つ ぎの ような 日程 や順序 で始 まった。サ イパ ン島か らは、1946 年1
月9
日に第1
次 引揚 げ船が出航 し、以後、相次 いで内地、沖縄へ 引揚 げが行 われて3
月4
日に完 了 した。沖縄 出身者 は沖縄 に直航 させ たが、内地居住 を希望す る者や内地経 由 での沖縄 帰還 もあ ったO また、 (2)で詳述す る よ うに、沖縄 出身者 で南洋群 島へ の残留 を希望す る者若干 名 と、 カロ リン諸 島 に10年以上住 んでお り残留 を希望 した者 は、テニ ア (20)なお、引揚げが本格的にな りつつあった時期にあたる1946年1月現在の統計によると、一般邦 人11,810人、官庁職員395人の計12,205人であった (南洋庁 「外地概況調査」 (日付不明))0 (21)南洋庁経済部艮山野雄吉から管理局長宛「終戦前二於ケル南洋群島概況報告二間スル件」1946年 6月3日付 .史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) ン島 に一括居住 を許 された。 テこ ア ン島か らは、1946年1月6日に第1次 引揚 げが始 ま り、 沖縄 出身者 は残留 を希望す る者若干 名 を残 して沖縄へ 、 また朝鮮 人2,679人、 中華民 国人 4人 はそれ ぞれ本籍地 に帰還 させ た。ヤ ップ島か らほ、敗戦後第 1回 目の引揚 げ について 次 の順番 で帰 還 させ た。す なわち、① 陸海軍傷病兵、② 在留邦人 中幼老婦 女子、③ 在留邦 人 、④ 海軍設営 隊、⑤ 海軍警備 隊、⑥ 陸軍部 隊、であ る。 トラ ック諸 島か らは、1945年10 月初旬 に47名 を、翌46年1月初旬 、内地帰還 を希望す る 日本人 (沖縄 出身者以外 )300名、 沖縄 出身者10名 、朝鮮 人2名 を帰還 させ 、 まもな く朝鮮半 島帰還 を望 む朝鮮 人250名 を、 ま た2月 には沖縄 帰還 を望 む沖縄 出身者 をそれぞれ直行 で帰還地 に帰 した。 引揚 げ時 に際 しての指示 について、サ イパ ン島で引揚 げ事務 に関 わった元南洋庁役人の 記録 にはつ ぎの ように記 され てい る (倉沢 ,昭和21年度)。 まず米軍 は、引揚 げ事 務担 当 者 を若干 名指 名 し、最終便 で引揚 げる よう指示 した。 日本 人民 間人収容所 で は、「団体」 (22) (2`l) 単位 で団体長 が、沖縄 と本土 (さらに道府県別) の出身地別 に名 簿 を作成 した。携帯 品は、 衣糧 は引揚 げ先 の内地が冬 で あるため、 日本人民 間人収容所 内 に組織 され ていた 日本人小 売業組合 や役場 を通 じて、冬物 の衣類が大量 に配給 、販売 された と してい る。携帯荷物 の 重量 は六貫 (22.5kg)程度 とされたが、重量 については最後 まで検査 は行 われず、第2次 引揚 げ以後 は重量 制 限 も実質的 にはな くなった とい う。 しか し荷物 の内容 については収容 所 を出発 す る時点 で検査 が あ り、武器類 の他 は没収 され るこ とはなか った とされてい る。 引揚 げ業務担 当者 の記録 では、金銭 については、 まず収容所 内の通貨 ドル と円 との交換が 1_I・ 行 われ、1,000円 を越 す金額 は取 り上 げ られ保管証 が交付 された とあ る。 衣糧 な どの物資 は、 この他 に、引揚 げ船 の なかで米軍 か ら公 的 に、あるいは個人 的 に供与 された との話 も あ る。 引揚 げ に際 して は、便 ご とに引率者 を決 め、その下 に10名 につ き1名 の班長 を置 いて、 引揚 げ者 の保護 お よび事故防止 に対応 させ た。米軍政府側 も船 には医師、看 護婦 、産婆 を 乗船 させ た とい う。引揚 げ時 に入院加療 中の者 は、別途引揚 げ船 を仕立 て た。引揚 げ船 は、 米軍 の船 や、 日本船 が使用 された。 一方、 日本 の民 間人引揚 げ者 の受 入れ は、1945年10月18日、GHQが引揚 げ に関す る中央 (22)団体 とは、行政的には米軍指令下に設けられた日本人役場の下部組織であ り、また捕虜の集団 住宅の単位でもあって、団体単位で炊事や配給が行われた (今泉,2004a,6-7頁)0 (23)伊礼真栄 「ジーパ ンをかかえてサ イパ ンか らインヌミへ」(沖縄市企画部乎和文化据興課, 1995). (24)捕虜になってキャンプに入る際には、日本円とハワイ ドルの一斉交換があ り、日本円3円に対 して1ドルの交換 レー トであったo Lか し引揚げ時には、 3ドルが 1円であったため 「ものす ごく損 をした」 という証言がある (伊礼,同上証言)0 -1
4-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 責任官庁 を厚生省 に決定 し、健民局保護課が受け入れ援護 を、福利課が在 日外 国人の送還 (2.I)) を担 当 した。翌1946年 にはこれ ら機構が統合 され、厚生省の外局 として引接援護院が設立 され、1948年 には引揚 げ復 員 に関す る業務 を一元化 して引接援 護庁 となった。 その後、 1954年 に厚生省 内局 の引揚援護局 を経 て1961年 に援護局 となる。 引揚 げ業務 について厚生省 は、上陸指定港 に 「地方引接援護局」 を設置 して援護 を担当 させ た (厚生省,1978,19-20頁)。援護局 は最終的には、14局 (鹿児 島、佐世保、唐津、 博 多 、別府、下関、仙崎、大竹 、手 品、舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館)、援護局所在 地か ら離れて出張所 、援護所、連絡所 と呼 ばれた ものが計7カ所作 られた。引揚 げ援護の 業務 は、上陸港 における 「応急援護、検疫、復員業務 と走着後の援護の一部」 であ り、 こ れ ら業務 には 日本政府のほ とん どの官庁 と各都道府県市町村の民政関係 の部局が担当 した。 また、民 間組織 と しては、恩賜財 団戦災援護会 (後述の恩賜財団同胞援護会の前身)、各 種婦 人団体 、学生 同盟 ほか 「海外 における引揚 同胞 の援護 、救済のため に努 力 した諸団 体」 が あ り (引揚援護庁,1950,12-14頁)、 (財)南洋群 島共助義会 はこの最後の説明部 分の諸 団体 に該当 した もの と思 われるが、 この時期の活動 については不明である。 引揚 げ直後の引揚 げ者の動向については、手記や引揚 げ港 の記録、新 開 (浦賀地域文化 振興懇話会,2004)、筆者の聴 き取 りに よる と、敗戦前 の引揚 げ と同様 に、引揚 げ港 の施 設 にい ったん収容 されてか ら本籍地や縁故地 などに向かった ことが確認で きる。 もっ とも 辛か ったことは寒 さであった といい、た とえば、浦賀 に冬 に上陸 した引揚 げ者 によれば、 波止場 か ら収容所 までの移動 中の寒風が最初 に身に しみた とい う。 しか も、や っと落 ち着 ける と思 った収容所では、先 に引揚 げた人たちが暖 をとるために板壁や天井版 をはが して 燃 や して しまってお り、仕切 りもな く、す きま風 に凍 える部屋 に押 し込 まれ た。1946年2 月に浦賀の鴨居、久里浜 などの援護所 を視察 した昭和天皇 と引揚 げ者 との面談の記録 をみ る と、「来いでせ う」 (天皇)、「寒 いです」 (パ ラオ引揚 げ者 山本洋一12歳)、 「早 く馴 れた 方が いい よ」 (天皇) とい った よ うに、 いずれ も寒 さの辛 さが 一番 の話題 となってい た (浦賀引揚援護局,1946,31-39頁)。 さらに、助け合 って きたはずの引揚 げ者 の間に盗難 が横行 しは じめ、身の回 りの品 に始終気 を配 らねばな らな くなったことは、内地の寒 さを い っそ う応 え させ た とい う。
(
2
)
沖縄 出身者の引揚 げ 戦後沖縄 出身者の引揚 げは、 ほ とん どが沖縄 に直行で帰還 した。L
S
T(
揚 陸艦)や軍艦 に (25)1946年10月には、浦賀引揚援護局から旧南洋群島境地住民が24名送還 された (引楊援護庁, 1950,60頁)0史料 編 集室紀 要 第
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0
号(
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)
よる帰還 で、筆者の聴 き取 りによる と、早 い場合 は1日で着 いた との証 言 や、引揚 げ順序 は米軍 か ら要注意 人物 とみ な された者が優先 された とか、本土、朝鮮、沖縄 であ って沖縄 (1)(I) 出身者 は彼 の方であった とかの証言 もあるが、引揚 げ る島峡 によって若 干の違いがある よ うである。 サ イパ ン島 とテこ ア ン島では米軍政府 か ら沖縄 出身者の希望者 に残留 を許す との指示が あ った。 しか し、サ イパ ン島での残留希望者が激減 したためテニ ア ン島 に移動 させ て開拓 (27) させ る こ とに まで なったが、人数が激減 したため、残留 は事実上 な くなった とい う。 また、 この一件 につい て は、米軍 に よるテニ ア ン島 占領後 、米 国のC・
S
・
C
・
Cなる企業が仝労働 力 を沖縄 出身者 とす る 「大農 園計画」 をたて、 テニア ン島の沖縄 「県人指導者」 た ち と合意 に至 った。 しか し引揚 げが始 まる と、い ったん沖縄 で家族 の安否 を確認 してか ら再度渡航 す る、 と して残留 者が激減 し実現 に至 らなか った とい う。そ こで企業側 は、半年 か ら1年 以 内 にテニ ア ン島 に沖縄 出身者 を呼 び寄せ たい との意 向 を示 した とされ、 この件 は戦後、 南 洋群 島帰還者 会が南洋再移民 の実現 を主張す る際 にたびたび引 き合い に出 された。 ちな み に、テニ ア ン島で米企業 と交渉 にあたったのは、同島民 間人収容所 日本 人役場代表 の徳 栓 安 領 で あ り、彼 は南洋群 島帰 還者会 の主 要 メ ンバ ーの一 人 となってい る (琉 球新 報社 『琉球新報』
,
1
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年1
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月2
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日(朝刊)仲本興正 「南洋移民問題 の経緯」(
1
3)
)
0 一方 、敗戦前 に内地 に引揚 げ、残留 を余儀 な くされ た者 は、G
I
IQ
が沖縄 出身者 の沖縄 送 り出 し港 と して指定 した浦賀、名古屋、大竹、佐世保 、鹿児 島のいずれかの港か らの帰還 となった (安仁屋,1
9
9
6
)
。各地 の援護局 の なか には、帰還 までの 間、周辺地域 に入植 さ せ定着 を図 ったケース もあ った。 沖縄へ 直行 した引揚 げ船 で帰還 した引揚 げ者 は、 中城湾の久場崎 に上 陸 し、米軍 の検疫 を受 けた後、通称 「イ ンヌ ミヤ ー ドウイ」 (以下 、 イ ンヌ ミと略) に一時収容 され た。 イ ンヌ ミで は、南洋群 島以外 の地域 か らの引揚 げ者 も収容 さjlたC,インヌ ミでは収容所 と し て の態勢 が不 十分 な まま、1
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年1
0
月 には 「南 洋」 か らの引揚 げ者 を受 け入れ た とあ る (伊敷,1
9
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5)
。 イ ンヌ ミでの引揚 げ者 は沖縄 での出身地別 に収容 され、引揚 げて来 た島で作成 された名 簿 を もとに、帰還先市 町村 別 に新 たに名簿 を作成 した。そ して、収容所 長名で帰 還許可が (1)ボ) 出 され、引揚 げ者 は名簿 とともに送還 された とい う。 また、証言 による と、帰還先 の受 け 入れ態勢 がで きてい なか った り、その他 の事情 で出身地 に帰 れない引揚 げ者 は、 インヌ ミ(
2
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)
仲本興徳氏,仲本章氏から筆者聴き取 り(
1
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年8
月1
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E日.(
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7)南洋群島帰還者会理事森山和一氏より筆者聴 き取 り(
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年3
月1
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日)(
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)
伊礼,前掲証言.-1
6-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) で は な く米軍 の幕 舎 に収 容 され た。 た とえば、 コザ には帰 還先が定 まらない南 洋群 島引揚 げ者が多 く収 容 され た 「南洋 部 落」 が形 成 され、約 1年 ほ ど引揚 げ者が生 活 した とい う。, これ ら引揚 げ者 の収 容 施設 や物 資 は米 軍 か ら直接 与 え られ た。 この ように引揚 げ て きた人 び とが、 各出 身地 ・縁故 先 に定着 しての ち、初 めて 一同 に参 集 す るのが、1948年2月の 南洋 群 島帰 還 者 会の結 成 時で あ った。 第
2
章
財 団 法 人 南 洋 群 島 共 助 義 会 か ら財 団 法 人 共 助 義 会 へ の 改 組 第 1節 改 組 時 まで の 活 動 日本敗 戦 後 は、(
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の指 示 に よ り厚生 省 が 引揚 げ者受 入 jl業 務 を担 当 した こ とは既 に述 べ た. (財 )南 洋群 島共助義 会 と 「表裏 一体 とな って活 動」 して きた 南洋庁 も閉鎖 が決 ま り、南洋庁 管轄 の引揚 げ業務 は 「南 洋庁 残務整理事 務所」 の開設 に よって継続 され る。 し か し同事 務所 も1948年3
月で 閉鎖 とな り、業務 は外 務省 管理局へ と引 き継 が れ た。 南 洋群 島引揚 げ者 に専 門 に対 応 す る機 関が次 々 と廃 止 され るなか、戦前 か らの南洋群 島 に お け る機 構 、 人脈 、 情 幸田こよ りつ つ南 洋 群 島 か らの 引揚 げ者 に対 応 で きる機 関 は、 (財 ) 南洋群 島共助 義 会 のみ となった。 しか し政 府 は、引揚 げ関係 諸 団体 を 「財 団法 人 同 (i)i)) 胞 援 護 会」 に吸 収 合 併 させ る方 針 を もった とい い 、 (財 )南 洋群 島共助義 会 の存続 も危ぶ まれ る こ とに な った と推 測 され る。 こ う した引揚 げ者援 護 団体 の統廃 合 を背 景 に、 (財 ) 南 洋群 島共助 義 会 は、1947年9月、「財 団法 人共助義 会」 に改称 、 「寄付行 為」 を改 正 し、 事 業 の主眼 を引揚 げ 者 の援 護 、更生 と した。 (財 )南 洋群 島共 助義 会の (財 ) 共助 義 会- の改組 に至 る までの活動 、す なわ ち 日本 の 敗 戦前 後 の援 護活動 につ いて は明 らか で は ない。 しか し (財 )南 洋群 島共助義 会の もとに は、 各地 区 単位 の援 護 会が設 立 され活動 していた こ とが確認 で きる。具体 的 に述べ れ ば、 (29)恩賜財団同胞援護会は 「財団法人戦時国民協助義会」を前身とする 「恩賜財団故災援護会」 と 「恩賜財団軍人援護会」が合併 し、1946年3月13日に設立 された(桜井,1960, 2-10頁)0(
財)戦時国民協助義会は、194相三10月、小笠原諸島や南酉諸島か らの引揚げ民保護のため 「国 民の協力体」 として政府が設立 させ、厚生大臣会長のもと一般援護事業、共同宿泊所事業、指 導訓練事業、育英事業などを行った。(財)戦時国民協助義会の命名にあたっては、南洋群島の 行政、企業等の関係者を構成員として援護活動 をしていた(財)南洋群島共助義会に示唆を受け たとの説明がある (ただし、「南洋群島協助義会」 とあ り 「協」の字に誤 りがある(同上書, 2 頁))。なお(財)戦時国民協助義会は、空襲の戦災者が続出するに至 り、事業の重点を被災引揚 げ者援護へ と移 し、1945年4月28口に恩賜財団戦災援護会 として再発足 した0-万、恩賜財団 軍人援護会は1938年11月5日、天皇か ら軍人援護に関する勅語 と内符合を受け、(社)帝国軍人 後援会、(財)大日本軍人援護会、(財)振武育英会を傘下に入れて設立 された。史 料 編 集 室 紀 要 第
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5)
マ リアナ地区の 「南星会」(
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月設立)、パ ラオ地 区の 「共進会」、 トラ ック諸島の 「都南互助会」、ボナペ 島、 クサ イ島の 「新興倶 楽部」(
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年1
0
月1
2
日設 立)、ヤ)レー ト 方面の 「郁子津互助会」 である。 これ ら援護会は、親睦 、相互援護 を掲げ、 さらに後述の 各地 区商業組合 をもとに設立 された会社 や独 自の事業 も行 っていた ((財 )共助義会a
,1
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年9
月5
日(第 1号))0 また、1
9
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6
年4
月以後か ら (財)共助義会へ と改組 される までの活動 には、6
つの分野 -①援護物資 の交付、②援護対策 としての会社の設立、③ 就職の斡旋、④ 南洋群 島引揚げ 沖縄人援護協 会の設置、⑤育英事業、⑥保険金の処理 -があった とされる ((財)共助義会a
,同上書)。以 下、具体的な内容 を紹介する。 ①援護物資の交付 敗戦 に伴 う引揚 げ者 は6,
6
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世帯 でその約8
3%
にあたる5
,
5
6
3
世帯 に援護物資 を供給 した。1
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年1
0
月か ら引揚 げが始 まっているので、内地へ は半年で約7,
0
0
0
世帯 の引揚 げが あっ たことになる。昭和21
年度以後 は引揚 げ業務は厚生省の管轄 となったが、 と くに困窮状況 にある6
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世帯3
3
5
人 に対 しては、「本会存立の特殊性 に基」づいて衣類 日用 品等の援護物資 または金銭 を交付 し、職業斡旋 に重点 を置いた 「自力更生」の機会 を与えた。 (参援護対 策 と しての会社の設立 (財 )共助義 会 は 「其 の特殊事情 に依 り特性 あ る援護 の必 要 を認 め らる ゝ事情 にあっ た」 ことか ら、戦後、同会が他 団体 に解消 させ られる場合 を考慮 し、援護事業 を継続 させ るために2つの企業 を設立 した。 ひとつは、③ にあげる 「集団帰農地」の農業経営 に関わ る企業で、「共南有 限会社」 (資本金1
0
万円、1
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年2
月設立)である。い まひとつは、引 揚 げ商業者の事業再 開 をバ ックア ップす る目的で、共南有 限会社 の関係商社 として 「共南 商事有 限会社」(
1
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年4
月設立)である。同社 の営業種 目は、布 吊製品や食料 品雑貨の 卸 し、布 吊縫製加=業、洋裁店経営、 とあ り、(釘の授産所へ も布地や ミシ ンの卸 しや縫製 品の買い取 りを行 った。本会社 は 「南洋群島引揚商人全部の共同事業であ り、既存引揚民 各商社 の事実 上の中央指導機関た らん」企業 としてたちあげ られたのであった。社長 には パ ラオ引揚 げで南洋貿易 (秩)の支店長であった工藤利治、専務取締役 にはサ イパ ン引揚 げでサ イパ ン商業組合専務理事 であった斉藤頁三が就任 、他 にも南洋群 島各 島の 「精鋭 を す ぐって背水 の陣 を布」 いた とされている ((財 )共助義 会a,1
9
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年1
0月5
日(第2
号) 「共南商事有限会社生 まる ミシ ン五十台以上 を備 え布 畠製造 と授産へ」)
0 引揚 げが完 Tす る と、戦前期 南洋群島各地で組織 されていた商業組合 を単位 とす る商事 会社 の設立 の機 運が高 まった と し、 (財)共助義会 は これ ら事業へ も資金 を融資 した。 こ の時点で設立 され た商事 会社 は次 の5
社であ り、サ イパ ン、テこア ン、 ロタ各島の商業組-1
8-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 合 関係 者 を もとに 「南 星 商事 (秩 )
」
が、パ ラオ諸 島、 ヤ ップ島の同関係 者 を もとに 「共進 産 業 (秩)
」 が、 ト ラ ック諸 島の同関 係 者 を もとに 「都 南産 業 (秩)
」 が 、 ボナペ 島、 クサ イ 島の同関係者 を も と に 「新 興 産 業 (秩)
」 が 、 ヤルー ト島の同関係 者 を もとに 「郁子津 商 表4 全国各地の帰農地 帰 農 地 名 入植戸数 割 当 面 積 開 墾 面 積 北原尾 (宮城県遠刈田村) 32 開墾予定 130町 16町 松興 (福島県猪苗代町) け 20町 ※統計 な し 大桶山 (神奈川県葉山町) 7 ※統計 な し 3町5反 富勢村 (千葉県東葛飾郡) ※判読不明 ※判読不 明 5町 (借地)
農相 (熊本県豊福相) 12 6町7反6町7反
朝 日 (宮崎県加久藤村) 25 27町 5反
20町 西環野 (宮崎県小林町) 283
0
町8反 15町 瀬田尾 (宮臓県小林町) ※統計なし 8町8反 5町 南原尾 第-パラオ (鹿LEL]J島県中種子村) 25 40町 20町 南原尾 第二パラオ (麻LP.島県南種子村) 67 57町 6反1
9町
出典 :(財)共助義会 『共助義会々報』第1号,1947年9月5日
※は引用者注 辛 (秩 )」 が設立 され た。以上の会社 はその名称 に示 され る ように、既述 の各地 区単位 で組 織 された互助 団体 が起業 した ものであ った。従来 は 「会社懇談 会事務所」が これ ら商社 に 対応 してい た とされ るが詳細 は不 明であ り、同事 務所 は (財)共助義会 に統合 された。 ③ 就職 の斡旋 就職 の斡旋 と して は、授 産所や入植地 の設置、斡旋 が行 わjlた。 授 産所 の経営 には、 この時点で は計画 中 を含 むつ ぎの3
カ所 があったoO
海草麺 製造所 部 を借 家 し、「沖縄 人失業対策」 と して海草麺 を製造 させ た。 (財)共助義 会 は、製麺事 業の資 金 の -一部 を後述④ の 「沖縄 人援護協 会」 に出資 して、事業 を援 助 した とある。, ○ ミシン縫工所 「沖縄 人援 護協 会」 (東京都港 区浜松 町)の製パ ン工場 の一部 を借 家 し、引揚 げ婦 女 に縫 製技術 の習得 、生活 の安定 を図 るため に ミシ ンを購 入、1
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年5
月1
日か ら操業 を 開始 した とされ てい る。 当初は施設 の制約か ら独 身者 のみ を対 象 と し、出身地 を問わず 引揚 げ婦女子一般 に授 産 を行 った。7
月には恵比寿駅前 のマーケ ッ ト内 に洋 扱店 「白百 合」 を開業、 入所 希望 者 は各引揚 げ地 区 ご との援護 会 を通 じて 申 し込 み を受 け付 けた ((財 )共助義 会 a,1
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日 (第2
号)「授 産所事業拡 張 エ ビス駅前へ 店舗 進史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 出」),J また② でみた ように、 (財 )共助義 会が出資す る共南商事有 限会社が、 ミシンや 布 の卸 し、製品販売 を行 った。 ○洗濯工場 日 下準備 中である とされた。