• 検索結果がありません。

新仏教徒能海寛と一統教 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新仏教徒能海寛と一統教 利用統計を見る"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

新仏教徒能海寛と一統教

著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

50

ページ

14-33

発行年

2016-02-29

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008032/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

(2)

  チベット旅立ちと『渡清日記』 明 治 二 六 年、 『 世 界 に 於 け る 佛 教 徒 』 ( 1 ) を 世 に 問 い、 誰 よ り も 先 駆 け て チ ベットに渡ろうとした能海寛(一八六八─一九〇一?)の前には思わぬ障 害が次々に現れた。漸く念願叶って神戸港から西京丸(二九一三トン)に 乗 船、 上 海 に 向 か っ て 旅 だ っ た の は、 明 治 三 一 年 一 一 月 一 二 日 の こ と で あ っ た。 上 海 か ら 船 を 乗 り 換 え、 長 江 を 遡 上 し、 中 国 奥 地 に 向 か う 旅 は、 正にそれ自体、想像も付かぬほど生死を分かつ危険な旅となった。    能海は、若いときより欠かさず日記を付けており、もちろん、この困難 な船旅の中でも毎日の記録は途絶えることがなかった。すでに、チベット 行こそ自分の宗教的実践の全てとし、進蔵行程を確定していた能海は、出 発前、明治三一年一〇月四日から、 『渡清日記』を記録し始める。それは、 長年待ちに待った本山からのチベット探検行が認められたと連絡を受けた ( 出 国 手 続 き の 為 上 京 せ よ と の 通 知 は 後 日 受 け と る ) か ら で あ る。 今 度 こ そ出発できると信じて、新婚間もない静子夫人、郷里の人々らに見送られ て、自坊を出発したときからである。しかしながら、すぐに故国を離れる ことは出来なかった。本山をめぐる人事や財政上の事情・中国清朝末期の 政治不穏などから、能海への渡航許可は中々決定せず、遂にはひとたび上 京して、恩師南条文雄先生や友人らと再度の送別会も開かれた。とんぼ返 りして京都で出発許可を聴き、法主へ拝謁、旅費・達頼喇嘛への親書を受 け取る。漸くチベット行は実現の一歩を踏み出した。 長江は巨大な河である。上海から漢口は、東洋汽船天竜川丸(四一〇ト ン)に乗る。上海出発に当たり、中国内地各処遊歴を許可する護照は、生 憎、上海に刷り置きがなく、漢口に送達するとされていたものを、無事漢 口で受け取り一安心する。漢口でまた船を乗り換え、招商局・固陵号(四 〇〇馬力三〇四トン)で宜昌まで往く。船中の能海は、異様な外国人と見 られ、警戒されるほかは特別な支障は無かった。ただ、ラサまでの護照が 出、 資 金 が 十 分 に あ り 得 る か、 本 山 か ら の 送 金 が 重 慶 で 無 事 手 に 入 る か、 それらが当面の大きな心配ごとであった。 しかし、宜昌で乗り換えた平底木帆船は、資金の心配どころではなかっ た。船主にだまされ、すでに四人の外国人が乗り込んでいて、まともな客

新仏教徒能海寛と一統教

   

  

  

  

(3)

新仏教徒能海寛と一統教 室もない船頭の部屋の隙間に、閉じ込められるように押し込められた。長 い船旅の中、背筋も伸ばされぬ窮屈さの中で、長江で最も危険な三峡を遡 る重慶までの旅であった。三峡を越えてもさらに、再三、生命を失うほど の 恐 怖 に さ ら さ れ 続 け、 果 た し て 旅 は こ こ ま で で 終 わ っ て し ま う の か と、 能海は身も心も逆巻く波に翻弄されていく。 しかし、一方では、そうした中でも、仏教徒としての勤行は一日も欠か さず、チベット帰還以後の自己の宗教的行動を如何に組み立てるか、必死 に考えをめぐらせていた。 本来は、 最初の一年間は北京において、 中国語 ・ チベット語の習得のため滞在し、その後、旅装をととのえ、ラサに向かう 予定であった。しかし、資金の調達のためにも願い出た、本山からの支援 と渡航許可が中々決定をみなかった。その上、 日清戦争 (一八九四~九五) が間に挟まった。漸く、本山が派遣する一四名の清朝派遣団に加えられた 時には、資金も時間もごく限られて、北京滞在など論外となり、長江を西 へ向かってひたすら遡ることとなったのである。そうした危機迫る、狭い 船の中でも、能海は必死に勉強を続け、明治三二年一月八日、船は漸く重 慶にたどり着くのである。 この『渡清日記』は、全訳が 「 能海寛研究会 」 員の手により機関誌『石 峰』誌上に発表されてい る (2 ) 。長じてより膨大な日記を書き続けてきた、能 海寛の日記を、能海寛研究会の地元のメンバーにより、一つ、一つ読みこ なし、誌上に発表されてきたその努力には、ひたすら頭の下がる思いであ る。 またこれより先、 拙著 『長江物語』 「第四章   長江三峡を旅した人たち」 の「能海寛─チベット求法僧の三峡上航日誌 」 ( 3 ) に宜昌出発から重慶到着ま でを現代表記で訳出してあるので、併せて参考とされたい。 なお本論における引用文等は常用漢字を原則とし、能海によるカタカナ 交じり文はひらがな混じりに改め、特別の場合原典に依ることとしたい。   新仏教徒を先導した能海寛 (1)明治中期の仏教界 江戸時代、日本仏教は、幕藩体制と結合し隆盛を究め、大教団化した反 面、一方に堕落した寺院・僧侶等を産み出し、幕末には、日本神道形成に 繋がる国学興隆の立場から、大乗仏教非仏説を説く富永仲基らの廃仏的思 想がおこってきた。一方、仏教者側からの反省的活動も起ってきた。固定 宗派間にのみ通ずる戒律に対し、自戒的な戒律復興の動きがあり、通仏教 の立場から、慈雲嵂師の「十善法語」など、民衆に対する教化思想が見直 され始めていた。しかし、明治維新に伴う新政府による、神仏判然令や寺 社領上知令などは、廃仏毀釈の民衆運動と共に、多くの既成仏教側に打撃 を あ た え る も と と な っ て い た。 た だ、 一 方 で は、 明 治 一 〇 年 代 後 半 以 降、 明治新政府の神仏統合化の動きから脱却した大教団が中心となり、教会形 成的活動による復興が始まっていった。これには、冒頭の幕末仏教者側の 自省的活動が基盤にあったが、各宗各派による機関誌を通じての啓蒙的活 動が復興への先駆けともなっていったのである。また、井上円了『仏教活 論 序 論 』( 一 八 八 七 年 ) な ど の 著 述 を 通 し て、 仏 教 復 興 の 運 動 は、 一 方 に 「 新 仏 教 」 運 動 と し て、 そ の ご く 初 期 を 担 う「 新 仏 教 徒 」 を 産 み 出 す こ と となり、キリスト教公認を始めとする信教の自由に対し、仏教界の混乱期 を救う役割を果たしていくこととなった。

(4)

新仏教徒能海寛と一統教 これらの動きはすでに、吉田久一の『近代仏教史研究 』 ( 4 ) や池田英俊『明 治の新仏教運動 』 ( 5 ) に詳しく、この中で、吉田久一は、明治維新以後の仏教 界の動きを、 その前期を明治元 (一八六八) 年から明治一八年 (一八八五) 年、 中期が同一九 (一八八六) 年から三二年 (一八九九) 、 後期が同三三 (一 九 〇 〇 ) 年 か ら 四 五( 一 九 一 二 ) 年 の 三 期 に 分 け て い る が、 そ の 中 期 は、 明治における初期「新仏教」が全面的に活動した時期であったと言えるの ではないか。 このような中に、明治一九年三月、普通教校に入学した島根県出身能海 寛がいた。浄土真宗大谷派浄蓮寺に生まれ、明治一二年一〇月得度した僧 侶でもある。明治一九(一八八六)年四月、西本願寺派普通教校学生有志 に よ り、 「 反 省 会 」 が 結 成 さ れ る と、 そ の 五 月、 能 海 も 会 員( 第 八 三 号 ) となった。 明 治 二 〇( 一 八 八 七 ) 年 八 月、 『 反 省 会 雑 誌 』 が 発 行( 明 治 二 五( 一 八 九八)年五月には『反省雑誌』と改められ)されると、能海は、この雑誌 の編集に積極的にかかわり、また、記事も多く書いているが、当時多くは 匿名であった。この雑誌は広く禁酒運動を進め、風俗矯正の性格を持つも のであったが、同時に時の宗教界の動きを伝えるとともに、明治二一年八 月発会した「海外宣教会」を通じて海外の宗教界・仏教界の動きが伝えら れた。特に海外の仏教関係のニュースを伝える神智学会系の論説も多く紹 介されていた。 (2)明治中期における「新仏教」と「新仏教徒」 冒頭紹介した『世界に於ける佛教徒』の「緒言」において能海はこうい う。 一   此書ノ題号ニツキ、新仏教徒論ト題セシカ(が)他人ノ勧ニヨリ 且ツ意義ニ於テ大差ナケレバ敢テ世界ニ於ケル仏教徒ト名ケタリ ここで、 明治中期の 「新仏教」 とはどの様な内容をもつ主張であるのか、 反省会員にも強い影響を与えたと思われる熊本出身・中西牛郎(一八五九 ─一九三〇)の『宗教改革論』第一二章を見てみよう。中西は言う(原文 はカタ仮名混じりであるが、便宜上、本稿では平仮名混じり常用漢字使用 とする) 第一九世紀の世界に於て嶄然として俄に頭角を顕し驚く可きの進歩を 以て各国に伝播し将さに耶蘇一神教を圧倒して将来宇内の一統宗たらん と す る も の は 新 仏 教 な り。 明 治 二 二 年 の 日 本 に 於 て 萎 靡 と し て 振 は ず、 外教の為めにその版図を削らる。日に月に衰退に陥り気息奄々として独 り其滅亡を俟つことを知るものは旧仏教なり。之を一言すれば旧仏教は 衰滅の線端に達して、將さに落ちんとするものなり。新仏教は新興の線 端を望んで、 將さに登らんとするものなり。 然り而して吾輩は驚き来る。 現時吾邦の仏教なるものは悉く此れ旧仏教にして新仏教にあらざる を (6 ) 。 中西は、旧仏教にあるあらゆる欠陥を洗い出し、其の対局の 線端に ある 旧 仏 教 の 悪 弊 を 乗 り 越 え よ う と す る 全 て の 運 動 が 新 仏 教 で あ る と い う。 今、誌面の都合で対局するという先端的項目のみ掲げてみよう。 旧仏教     保守的    貴族的    物質的    学問的    独固的    教理的  妄想的 新仏教     進歩的    平民的    精神的    信仰的    社会的    歴史的  道理的

(5)

新仏教徒能海寛と一統教 中 西 は「 衰 滅 の 線 端 に あ る 旧 仏 教 は、 頑 固、 偏 假、 肉 欲、 腐 敗、 虚 飾、 妄 信、 偽 善 」 で あ り、 「 新 興 の 線 端 に あ る 新 仏 教 は、 純 潔 な る 真 理、 道 徳 精神の発揮にある」という。また、世界の宗教発展の歴史は、原始の多神 教 か ら キ リ ス ト 教 に 見 る 一 神 教 へ と 進 み、 現 在 は 凡 神 論 の 世 に 発 展 し た。 凡神論とは仏教であり、従って仏教は宇内一統宗であり、明治二二年の日 本において独り其の滅亡を待つものは旧仏教である、という。 ただし、井上円了の著書に対し、中西は自著の「叙言」中において次の ようにいう。 特に近頃世に著名なる仏教活論は其卓見往々余をして感服せしむるに 足り、且つ談著者は予が畏敬する所なりと雖も、其仏教を論ずるに至り ては余が所見と或は吻合せず。 として、敢えてここでは何が吻合しないかを述べていないが、第一二章に おいて、新仏教は 旧仏教を一変して新仏教となすは学問的仏教を一変して信仰的の仏教 とすることにあらずして何ぞや と、学識(哲学的)に勝る信仰の重要性を強く主張している。それでは井 上は仏教上の信仰はどうしていたか。菅沼晃(東洋大学名誉教授)は、井 上円了 『活仏教』 附録 「第一編   信仰告白に関して来歴の一端を述ぶ」 (大 正元年)の中から次の様に円了のことばを引 く (7 ) 。 是に於て最初無意識に受けたりし得度は、自然に本山へ委托返上した る姿になり、身は全く俗物と化し去れり。然れども余の宗教的信仰は依 然として真宗を奉じ、終始一貫して替えることなし。如何に公平に諸宗 教諸宗派を審判して見ても、信仰の一段に至りては、真宗の外に未だ余 が意に適するものを発見せず すなわち、井上円了にとっては、最も哲理的真理に合致してこそ信仰は 当然とみなしていたと言えるであろう。 すでに記した様に、反省会員は単に禁酒運動に専心していただけではな い。 「 海 外 宣 教 会 」 の 一 員 で あ り、 欧 米 宗 教 界 の ニ ュ ー ス も 敏 感 に 受 取 っ ていた。また、新仏教を実現化する論説も着実に『反省会雑誌』において 主張した。こうした積極的な活動を展開した一人に能海寛がいた。 (3)反省会と “NEW BUDDHIST 能 海 が 中 西 の 仏 経 革 命 論 に 賛 同 し た こ と は、 『 世 界 に お け る 仏 教 徒 』 に 中西の著書からの引用がみられ、また 「 宇内一統宗 」 について言及する重 要 な 部 分 が あ る こ と か ら も 判 然 と し て い る。 し か し、 一 方 で は、 『 反 省 会 雑 誌 』 の 編 集、 「 海 外 宣 教 会 」 の 運 営、 後 の 経 緯 会 発 足 や 運 営 に つ い て も 実 は 彼 こ そ 中 心 人 物 で あ っ た こ と は、 こ れ ま で 殆 ど 注 目 さ れ て こ な か っ た。その原因の一つには、反省会員も、経緯会員もあたえられた番号(反 省会では八三号、経緯会二六号)で活躍しており、また、投稿した記事に ついても殆どが匿名であったから、多くの研究者に注目されなかったので あ る。 近 年、 膨 大 な『 能 海 寛 著 作 集 』 の 完 成 に 伴 い、 「 能 海 寛 研 究 会 」 の 活動や、能海自身が残した日記や書簡類から追跡できるのであ る (8 ) 。 普通教校生らによる 「反省会雑誌」 と並んで、 「 海外宣教会 」 が組織され、 松 山 松 太 郎 著 者 兼 発 行 人 に よ る 英 文 誌 “THE   BIJOU OF ASIA ”第 一 号 が明治二一(一八八八)年七月から発刊され、海外仏教徒の情報交換が為 され、明治二二(一八八九)年八月、第五 ・六合併号まで続い た (9 ) 。中西牛

(6)

新仏教徒能海寛と一統教 郎は上記 「 叙言 」 の末尾で次の様に言う。 而して欧米仏教の近況通信に至りては、本書は実に西京海外宣教会に 負う所あり と。 こ の 英 文 誌 と は 別 に 能 海 の 周 辺 に は、“ NEW BUDDHIST ”  が あ る。 能 海 研 究 会 で は す で に 岡 崎 秀 紀、 隅 田 正 三 の 先 駆 的 研 究 が あ り、 『 石 峰 』 第九号において其の概略が次の様に紹介されてい る )(1( 。 この “NEW BUDDHIST ”は、 能海寛が京都で立ち上げた英文会 「 E.C.S 」 という英語作文会のことである。明治二一年一〇月一四日に普通教校生 な ど 友 人 四 七 名 で 設 立 し た。 ( 能 海 は ) 明 治 二 二 年 一 月 か ら は 文 学 寮 本 科 二 年 甲 生 へ 編 入 と な り 同 年 一 二 月 に 文 学 寮 を 退 学 し て、 東 京 に 出 た。 京 都 で の E.C.S 活 動 は、 七 か 月 間 で あ っ た。 そ の 間 に 二 八 冊 の 機 関 誌 を 書き上げたのだから毎日曜日に一冊ずつ発行したと言うことである。表 紙は活版印刷で、中身はペン書きである。 こ の 英 語 “NEW   BUDDHIST ”は 訳 せ ば 「 新 仏 教 徒 」 で あ る。 こ の 言 葉は、 「 新仏教を信じる人 」 、若しくは 「 新仏教を奉じ活躍する人 」 を意味 するであろう。ただし、この頃 「 新仏教 」 はさかんに使われる様になって い た が、 「 新 仏 教 徒 」 を 使 う、 或 い は 称 す る 人 は 殆 ど 例 を 見 な い。 中 西 の 著書にしても、“ THE BIJOU OF   ASIA ”にしても、その中にも見出され な い。 『 反 省 会 雑 誌 』 に さ え、 明 治 二 三( 一 八 九 〇 ) 年 四 月 号 に い た っ て 初めて「社説   新仏教徒の本色」と言う記事が掲載され、次号第五年5号 雑報記事中に「新仏教徒現今の覚悟は如何」と出て来る程度であ る )((( 。それ で は 英 語 で あ る と は 言 え、 能 海 の “NEW BUDDHIST ”は ど の 様 な 意 味 合 いをもったものであったか。後の『世界における仏教徒』において能海は おおよそ次のように言う。 今や、欧米のキリスト教は荒廃し宗教革命の前夜にある。アジアに優れ た日本の仏教徒は、正しい仏典を得て、それを英語に訳し欧米に布教活動 を起こすべきであり、布教のため学校も興すべきである。その準備のため に 「 神 聖 な る 経 典 の 梵 本 」 を 探 り、 「 釈 尊 の 正 伝 」 に よ り、 世 界 一 統 の 新 宗教を求めチベットに行くべきである。チベットは古くからの仏教国であ るが、 列強の進出にあい、 探検は急を要する。 調査は仏教面のほか、 社会 ・ 国体・人情・その他など、多面的を要し、地理学上、人類学上有益である と )(1 ( 。 こ の 能 海 の 考 え は 普 通 教 校 に 学 ん だ 反 省 会 員 や E.C.S の 会 員 に 支 持 さ れた考え方でもあった。其れ許りでなく、革新的仏教結社とされた経緯会 の設立にも能海が早くから関わっていたことが資料的に明らかにされるの である。 (4)経緯会と能海寛 一般に経緯会は経緯翁「経緯会由來記」に基づき、西依金次郎、大久保 格、 古 河 勇 ら に よ り、 明 治 二 七 年 一 二 月 始 ま っ た と さ れ て い る )(1( 。 し か し、 能 海 の「 第 四 号 春 秋 の 日 記 」 明 治 二 三 年 二 月 一 四 日 に「  晩、 弓 削、 古 川 ( 河 ) 来 り、 「 経 緯 会 」 種 々 談 し、 ・・」 と あ り )(1( 、 ま た、 経 緯 会 発 足 後 も、 例えば明治三〇年の 「 使用日記 」 中には経緯会の記事一三日分がある。そ の 中 で も 八 月 四 日 は、 「 午 後、 白 蓬 社 ま で 経 緯( 能 海 は 文 中 緯 を 全 て 囲 と 書 く ) 会 大 い に 舍 是 に 付 き 議 論 す。 椀 退 会 申 し 出 ず 」 、 八 月 五 日「 経 緯 会 会 是 及 び 会 員 誓 約 書、 並 び に 其 説 明 書 を 作 る 」、 八 月 一 九 日「 午 前、 経 緯 会 会 是 委 員 会、 渡 辺、 西 依、 境 地( 野 )、 梅 田、 予 五 人。 午 後、 白 蓬 社 に

(7)

新仏教徒能海寛と一統教 て会議臨時会、 会者八人。 会員を定む。 大いに議論あり。 」、 八月三〇日 「高 嶋を訪い田中に訪い夫より西依へ行き、桜井、安藤、渡辺、桜田等会の退 会を本日処分を決議し、十時半帰宅する。 」、九月五日「経緯会者五名□□ 甚 だ 不 振。 」 な ど と あ る )(1( 。 能 海 は こ の 年 チ ベ ッ ト 行 き が 叶 う か ど う か、 本 山と厳しい交渉を続け、其の傍ら南条先生宅にて、梵語、蔵語、中国語の 学 習 に も 懸 命 な 時 で あ っ た。 お 互 い 自 由 討 究 を 旨 と す る 経 緯 会 員 で あ る が、運営については一言居士も存在していたであろうから、そうした中で も能海の学識・行動力が買われて、行司役を果たしていたのであろう。 能海は十代の終わりから、すでに新仏教徒としての使命を十分に背負い ながら、時代の波と自坊の締め付けに翻弄され、三十代はじめ、漸く其の 思いを遂げるときがやってきたのである。しかもこれからもさらに厳しい 試練の時が待ち構えていたのである。   日記に記された能海寛の言動 能海寛が、終生書き続けた日記は、人生の節目と共にそれぞれ標題が付 けられている。冒頭紹介した『世界における仏教徒』において、彼が主張 する新仏教徒としての立場をこれらの日記の中ではどのように表現してい た か。 ま ず、 チ ベ ッ ト 行 と 共 に 書 き 下 ろ さ れ た 日 記、 『 渡 清 日 記 』 か ら 関 連する表現をとって具体的に考えてみたい。このことは、隅田正一「能海 寛 の 深 層 心 理 を 探 る 」 に 続 く こ と に も な る が )(1( 、『 渡 清 日 記 』 に 書 き こ ま れ た、やむに已まれぬ感情のほとばしり、周囲の助言や非難、それに対する 自身の反発・反省などをも合わせ取りあげておきたい。とりあえずは日付 の 順 に 番 号 を 付 し、 旅 に あ る 能 海 を 追 っ て い く こ と と す る。 ( 日 記 本 文 は 年号明治を省略、年・月・日のみ記入) (本文中側線・ (   )は筆者) 1(三一年一〇月四日)この日、父に分かれを申す。父戒めて云う「 堪忍 大事なり 」と、この行中は別して片時忘るべからざる金言。我が性を見 ていさめられたる慈言なり。 2(三一年一〇月一二日)此夜、西蔵国探検に付、見込書を認め、凡そ四 枚かく。 3(三一年一〇月一三日)西蔵探検見込書   第一目的、第二通路   第三西 蔵   第四言語   第五年限   第六費目(及追加) 、履歴を編纂せり。 4(三一年一〇月一四日)見込諸(書)書き終り、本山事務所に行。大田 祐 慶 に 逢 い 見 せ 預 け 置 く。 ( 中 略 ) 夜、 松 見 得 聞 録 事 を 訪 問。 快 語 十 時 を過ぐ。 大いに本山政論をなす。本山の弱点を論破。 5(三一年一〇月一五日)毎日、毎日不平不満。鬱々として不快。見るも の聞くもの、思う事考える事、一として不愉快ならざるはなし。かなし きと、さびしきとじれったさと也。 6(三一年一〇月一六日)予が慕郷の情、切にして、又念仏の心生す。海 外布教の必要ここにあるものの如し。 7(三一年一〇月一七日)昨夜より本山寺務意見書はじむ。 8( 三 一 年 一 〇 月 一 八 日 )( 本 山 ) 意 見 書 稿 成 る。 五 ケ 条、 数 十 ケ 項 目、 八枚なり。 9(三一年一〇月二一日)夕方、 東寺へ参り、 灯明をあげ、 又石をさすり、 両足をなぜ、 『南無大師遍正金剛』を称へ、 「三誓偈」をつとめ、西蔵行

(8)

新仏教徒能海寛と一統教 の安全を祈る。 (略) 京都学生の根性、 本山役員の根性、 分解してみたし。 如何精神にておるやら、 予が心中に疑問生し、 解せられず。京都の旧地、 同窓等の心中窺ふことを得ず。京都学生間、朋友間の交際等は如何。気 風は如何。予には少しも解せられず。 10( 三 一 年 一 〇 月 二 三 日 ) 本 山 参。 石 川 を 訪 問。 『 世 界 に 於 け る 仏 教 徒 』 及 (十二枚半あり)寺務改正の為献白「議案」を渡す。 それより、入蔵 の難、至急取運びの事。旅券東上等の事を談話せり。 11(三一年一〇月二四日) 寺務所に行く。 (手続き書類控えあり、 その中に) 京都府知事あて旅券下渡願 (一通) に、 「真宗大谷派本願寺より布教 (教 用 ) の 為 」 と 渡 航 理 由 書( 一 通 ) に、 「 往 復 及 滞 在 の 費 用 は 総 て 右 本 願 寺 に て 負 檐 す 」 の 文 言 が 入 る。 ( 中 略 ) 又 伺 書 を 差 出 す。 ( 二 枚 )。 延 滞 困難、確答を申し込む。要領得ず。帰へる。 大に泣く。不平の念禁する 不能。 万感交来りて、 自殺の心まで生す。 午后、憂鬱を厭さえんか為に 郊外散歩。 12(三一年一〇月三〇日) 昨夢、 大汽船端より沈没し始め、 全く沈む。 予、 屋根の上にありて之を見る。 尓るに浪屋上に及び、 将におぼれんとして、 幸に危険の所に止りおると夢む。 13(三一年一一月一日)于時、予云く 「 今さら引上げて帰国する訳にも行 かず」云々。 実に肺肝より出づなみだ禁ずる不能。 大師堂側に泣を拭い て帰宅。 「 波佐教会案 」 、 「 東京仏教会堂案 」 を稿す。 14(三一年一一月六日)東行決し、東行旅費受取。 15( 三 一 年 一 一 月 八 日 ) 午 前、 外 務 省 出 頭。 ・・ 蔵 行 之 事 ・・ 特 別 保 護 の 話 をなす。 ・・ 帰途、 反省会、 日華学堂により ・・ 帰宅。 西蔵の経文を得る事。 信用を得る事。阿含経、露国二千万弗を払ふも、尚経を渡さずとそ。其 得がたき可知。チョーマー其内二部を厚意により得たり。而して、イン ド及英国の両亜細亜学会に寄付せり。 16( 三 一 年 一 一 月 一 一 日 ) 明 日 一 行 出 発 と 聞 く。 初 め て 聞 き ・・ 朝、 直 に 本山行。服を受取り又喇嘛への書を受く。夫より金を受け取る。東京往 復拾円七十八銭、並に西蔵探検費一千余円の内三分の一、三百七十円受 取 こ れ 重 慶 迄 の 旅 費 及 重 慶 五 ヶ 月 滞 在 費 並 に 北 京 路 費、 在 京 滞 在 費 也 . こ れ よ り 法 主 へ 拝 謁、 ・・ 一 同 帰 宅。 旅 券 受 取 る。 ・・ 汽 車 に て 八 時 発十時、神戸。 17( 三 一 年 一 一 月 一 二 日 ) 朝 ・・ 船 切 符 を 求 め 一 行 十 四 名 の 内 一 名 岩 崎 の こり十三名。十時半乗り、十一時出船。西京丸二九一三トン   門司・長 崎経由   一一月一五日までは海上(筆者注   この間船中にて得た清国情 勢、通貨レート、日本人の活動状況など詳細な記録あり。 ) 18(三一年一一月一六日) (明確に上海着の記録無し) (一一月一一日日付 の護照の内容を記し) ・・夜五時明朝八時着・・ 19(三一年一一月一七日)午前、領事館行 20(三一年一一月一八日)〇日本通貨 「 漢口」にて替へらるるや。〇何金 に奐ゆるを以て可なるや。〇両。元。弗、小銭の任用、貨幣の任用。〇 服 装 ( ママ 支 那 俗 服( 弁 髪 ) 支 那 僧 服   日 本 僧 服   〇 重 慶 へ の 為 替、 領 事 館送金手続。 ) 21(三一年一一月一九日) (気になる一行あり)午後五時、杭州行発。 ・・ 支那人打架了傷了 22(三一年一一月二〇日)船中支那人、日本人、雑居にして話又混同。洪

(9)

新仏教徒能海寛と一統教 山⑴長江の濁れる如く支那人のこころ濁れり。⑵支那茶如く二、三回の 後始めて濃くなり始めはでず。⑶日本人は日本茶の如く始めて濃く出て あとはなし。⑷日本人の心は日本料理の如く見かけ斗りにて実なし 23( 三 一 年 一 一 月 二 一 日 ) 八 時、 天 竜 川 丸 に 乗 船。 ・・ 南 京 行、 五 人 と 予 と也。この夜、廿一日午前二時半、出港。 24(三一年一一月二五日)午前二時、漢口着。 ・・ 八時上陸 25(三一年一一月二九日)反省会へ原稿六枚送る。 「 西蔵探検の方法 」 26( 三 一 年 一 一 月 三 〇 日 )( 漢 口 ) 午 後 五 時 半 発、 招 商 局 の 固 陵 号 に 乗 り 込む。楊用之を宜昌迄従へ往く。 27(三一年一二月一日)午前七時半起床。言語不通。或は予を広東人と云 う有り。洋人はフイヂー人とも云う。 28(三一年一二月二日)扨夕食後、散歩のとき 一人の宣教師と仏教は良い 悪い 。予は耶仏は兄弟なりとのアーノルドの言を以てし船星はたれが造 るかと云ひ、ゴッドのカーペンターを彼主張。予は改悔文及因果のこと を説き、マクスムーレル仏教は訳するに足らずとの言を云ひ。予はなん の 経 を よ み た る か を せ む れ と も 答 へ ず。 一 時 は 非 常 の こ と な り き。 ツ ルードクトリを説く。彼又中国僧吃煙等を云う。予云く、日本又如此多 し、これを悪しと云ひ、祈祷をなすことを説く。ついに彼云く、重慶に て英文の仏書を見せよと。予、 「 英文十二宗綱要 」 を見せるにて事了る。 予、 話 中 に 我 々 サ イ エ ン チ フ チ ツ の 教 書 宗 教 学 を 学 ぶ こ と を 述 べ た り。 彼仏をしると云て答へず。只彼れの熱心及穏譲に感ずるのみ。 29(三一年二月三日)本日大いに気咽を吐く。梵、漢、英、大経を読み聞 かせ、又字同音不同、俗服不一様見僧服一様見と云う。   市原より原田 へ送る 「 産語 」 てふ書を読む。実によ し )(1( 。吉田の愛書なり。麹町三番町 出 版 な り。 ( こ の 下 本 文 数 語 不 明 )・・ 「 予 が 遊 蔵 は 、 こ の 無 人 の 境 に 於 い て 大 に 天 地 の 如 き 究 め 新 仏 教 を 起 こ し 、 こ の 新 世 紀 を 救 わ ん が 為 な り。   晩食後、散歩中、 二人のいたづら子供十二、三才縄をもち、手すりに余  寄せんとす。之をとりて江にすつ。夫れより皆入りて一人も出です。 一 人来り何れに行くやと問う。重慶領事館に行と答ふ。 彼の話中、小心き をつけよの話あり。清人之か為いかるか。 昨夜は、英人と教理を争い全 にして 萬清人中、只一人の日本人の予 は清人を相手にす。小供と雖も其 父あらば如何か感ぜん   生命をかけてこの行有れども徒も犬死にするも 馬鹿らし。目的を達するまでは荷(?)せむか。日本人とて□(侮?あ など)らるべきにあらず。俗(僧?)をいやしむるものなるか。 宜昌着 後、不吉なり   は可(ばか?) つけこまれて入れず。又、やりすぎてい かず。 處世難なり。 予、 支那人に馴れたるはよし。 自病の短気、 かんしゃ くを起こしはせざるか、父の出立の時に誠言を忘れはせざるか。反省顧 慮注意せよ。 30( 三 一 年 一 二 月 四 日 ) 午 前 十 一 時、 無 事 宜 昌 着。 ・・ 重 慶 行 の 船 あ り と て四時近くに無事買物をととのえ、 乗り込む処、 四川の老大人一人あり。 外 人 嫌 う 辺 よ り、 こ の 船 重 慶 に 着 か ず と 偽 り、 我 々 を 元 の 宿 に か へ さ す。 ・・ 此 の 事 あ と に て 知 れ た り 予 は 支 那 人 を せ め 支 那 人 な き ず ら を お なす   先つ第一の失敗たり。 31(三一年一二月五日)漸く船を得て、午後五時乗込。大方番頭及楊見送 り来る。楊にいとまをやる。 外人の目をぬすむが如くにして船頭の部屋

(10)

新仏教徒能海寛と一統教 に 押 込 め 、 こ の 夜 僅 か に 天 を 拝 み 横 よ り は 星 を 見 ら れ、 板 の 間 に 寝 る。 旅途思いやらる。 32(三一年一二月六日) 今朝再び 「 産語 」 を読み始む。序文、跋文に照し て大に得る所あり。蔵行帰朝後の宗教上大に考う。 プタラの街に一古本 を得ダライラマに一の告を得 教界の大革新はかるべし。 船中つかれて熟 睡を得ず   前途教界の事を夢見るが多し。 〇通貨の一定   紙幣の発行   省立銀行 〇剪髪、禁帯足 〇国語の一定、小学設立。 33( 三 一 年 一 二 月 七 日 ) 十 時、 朝 飯。 洋 人 四 名 乗 船。 十 一 時 半 宜 昌 港 出 港・・・・英人はクックをつれぜいたく千番にしてゆく。 34( 三 一 年 一 二 月 七 日 ) 洋 人 に 去 見 せ ん と 云 え ど も 老 板 許 さ ず。 ( 三 峡 航 行中) 35( 三 一 年 一 二 月 七 日 ) 今 日 一 日 は ヤ ソ 坊 主 の 日 曜 だ な ど と ぬ か し、 馬 鹿・頑固の休日を固守し空しく この僻村せまき室内にあり。 36(三一年一二月一六日) 昨夜、観音の霊夢を蒙る。補陀落に入りて観音 の慈悲を得て之を布けよと。 第一篇地獄極楽誦持(?)論、小供の菓子 に於ける、婦人の美服に於ける、男子の富貴に於ける、学者の真理に於 け る、 文 人 の 玉 に 於 け る、 之 を 得 る に 道 あ り。 検 勤 の 二 是 な り。 仏 語、 諸悪莫作乃至仏教と人生、此欲望を得て人たり。之を得さしむる為に観 自在は救世の主たり。之を得さしむる為に千万の形を現して、或は美女 となり、或は美服・珍船、宝玉・宮殿と成る。汝、我が意向(?)を告 げ よ。 「 オ ン、 マ、 ニ、 パ ド メ ー、 フ ー ン 」 三 霊 地 に 至 れ よ。 人 生 に 於 いて現世利益を得よ。従て来世の此効果を望まん。尓る時我が本師□□ の 大   慈 悲 に 従 え と ね ん ご ろ に 告 げ 玉 へ り、 汝 の 厭 う も の 亦 従 い て 除 り。 ( 筆 者 注   こ の 日 前 後、 三 峡 か ら 重 慶 ま で の 遡 航 に は、 灘 所 と い わ れ る 急

(11)

新仏教徒能海寛と一統教 流に対し、人力でロープを以て船を引上げる。そのため、岸辺に多くの曳 夫が必要となり、能海の船にも時に百メートルほどの竹綱を、二〇人以上 もの曳夫が曳いたという。しかも、このロープは時々切れ、船が急流に流 され沈没する事があり、能海の恐怖は更に加わっていた。 ) 37(三一年一二月一七日) 昨夜入蔵難、負傷の不可止の夢を見る 。 本朝五 悪段訓読。五善会の必要を認む。帝都に於いて立教開宗すべし。 この経 文二切りの間を訓釈、之れを会員に分つべし。 実に立教根本経、宗教革 命 の 聖 典 な り。 今 ま で 気 づ か ざ る を 謝 す 。・・・ 右 記 し て 最 早 や 安 心 と 思 う 途 端、 又 又 曳 き つ な 切 れ 流 さ る ヽ こ と 十 数 丁、 ・・・ 十 数 里 を 流 さ るに至らんか渡世の難、予が前途将来、如此こと多からんか。 38(三一年一二月一九日) ・・午後四時、夔州に着す。 ・・・晩食進まず気 遣る所なくふとんをかむりてねる。其他書くに記されず。 想い出せば海 外に何の因果で来たるかと迄おもい 、護照はなく、訴うる所なく、くや しやくやし。 39(三一年一二月二十日) 昨夜怪夢に犯さる丶数十度 、 或は殺人の夢等 な り。今朝、還銭と云えどもかえさず(筆者注。十二月七日船頭に三元貸 したもの) 。夔州を指して巫山県という。 由て 老板をなぐること二、 三回 。 食を出さず。うそを云うこと限りなし。支那は日本軍を以て占領して圧 政 を 以 て 支 配 改 革 す る こ と 仕 方 な し。 ・・ 話 の 通 ぜ ず 為 に 大 閉 口。 ク ッ ク来たりて仲裁をなせり。東西(品物の事)を買えば必ず三分の一乃至 半分をぬすむ。はじを知らず。不浄をしらず。殆んど禽獣同然なり。 40( 三 一 年 一 二 月 廿 五 日 ) 例 に よ り 休 業 日 曜 な り。 又 耶 ク リ ス 蘇 マ ス の 日 な り。 予は誓う。国を救い世を助くるは中々の大事にして之に及ぼすには、 予 は先つ我一家の真・俗をととのえ、夫より我檀家及村内の真・俗をとと のえん。組織上の金を費す。 第一に     ㈠   法承を聞き御命日等法要参詣のこと。 真    ㈡   我国〳〵の間、法事等に必ず逢い法承を聞くこと。     ㈢   組々の宗講にて信心を正すこと。 第二に     ㈠  檀家中に烟を立る不能ものあれば、常に付て見舞、相談相手と なり、又金を与え一家の立る様に尽力して、国家の良民たらし むることをつとむ。 俗    ㈡又罪人・犯人のなき様、に常に巡回説諭すること。     ㈢  慈善、公共事業は浄蓮寺に於て追て之を定む。海外布教、村内 の貧民学校、罹災者へ施与、等に分つ。     ㈣  従来の檀徒は勿論、他宗他檀と云えども会員組織なれば入会す ることを得。 実際的真・俗二諦の実をあげることにつとむ。   (以下廿六日に続く) 〇門人一人に付一口五円以上の積金をなすこと 任用㈠遭難の用意   〇遺言により、遺族へ分与す。           〇利子は本山及師匠寺へご冥伽とす。           〇檀徒を離る丶時は本人の勝手とす。返斉す。           元より利子はつけず。

(12)

新仏教徒能海寛と一統教    ㈡没後、葬式別用意    ㈢慈善、公共事業に没後(以上不用の人は)寄付す。 〇戸主には家族、借財、地価、品行、交際等に付き懇篤に之を聞き、俗諦 の相談相手と成り、立派の日暮の出来る様尽力すること。 〇家族をあつめては戸主の意にそむかぬ様稼業勉励をすすめ、倹勤を教え ること。 〇戸主家族一同をあつめては真諦門の法義を聞かしむること。 〇毎年年中の法会の日取り及師檀の規約、檀徒の心得を記載せるものを門 人に配与す。 〇年中一回報告書を作り、即ち此毎年配与の分に合して報告す。 経緯会人名を写記し 、又檀家統計表を作る。 」  42( 三 一 年 一 二 月 二 十 六 日 )( 筆 者 注   右 記 の 我 が 家、 檀 家 の 真 俗 二 諦 の あり方については二五日及び二六日にかけて書かれたものとみえる。 )   東 南 に 向 て 進 む・・・ 又 西 南 行 す。 ・・ 此 辺 風 景 よ し。 毎 日 前 途 お も い やられる。 43(三一年一二月卅一日) ・・五時、鄷都県に着す。 ・・本日は、年末の事 なれば、 ・ ・ 荘厳をなして仏前に歳暮のお勤めをなし ・ ・ 夜は勘定をなし、 ろうそくをつけて、今七時四十分此記をなす。 昨年は南(条文雄)師の宅にあり。本年末は此鄷都県にあり。明年   は娑婆にありや。又何れに如何しておるや。前途を思えば闇黒なり。本 年の概要をば渡海日記末に記し置けり。なす事なき年なるも、又、平年 よりも特筆すべき事ある年なりし。明年は果して如何。暫く記して今年 を送り来年を迎へんとす。 明治三十二年「春秋日記」   在清国四川省 44(三二年一月一日)本年の前途如何。歳暮何処にある哉。 45(三二年一月八日) 「(重慶)朝九時上陸。 能海がチベット探検の正式許可を得て、神戸から出航するまでの長い待 機 期 間、 及 び、 長 江 遡 航 の 船 の 中 で 時 々 漏 ら す、 「 新 仏 教 を 起 こ す 」 と は どの様な内容を備えたものか、自著『世界に於ける仏教徒』と対比し、と りわけ狭い船室に押込められ、長期に生命の危険にさらされるという閉塞 状態から思わず発せられたものか、更に重慶以降の日記類、三次にわたる 探検中に書き記した書簡類を精査し、新仏教徒能海の真の姿を浮び上がら せたい。抜粋した日記の中から特に注目する記事を番号で列記しておきた い。 性格・心情 ( 短 気・ 諍 い・ 暴 力など) (不平・不満) 1( 戒 め )  5( 不 平・ 不 満 )  11大 い に 泣 く   13 なみだ 29( 子 供 の 徒 へ の 仕 返 し・ 自 病 の 短 気、 か ん し ゃ く へ の 戒 め )  30( 支 那 人 を せ め 支 那 人 な き ず ら を なす)   35(ヤソ坊主・・馬鹿・頑固) 33( 海 外 に 何 の 因 果 で 来 た る か と・・)   39( 老 板 を殴ること二 ・三回) 自殺を思う 11・ 39

(13)

新仏教徒能海寛と一統教 夢 12(大汽船端より沈没。 ) 32(前途教界の事夢見) 36( 観 音 の 霊 夢 を 蒙 る ) 37( 昨 夜 入 蔵 難、 負 傷 の 不可止の夢) 産語 19・ 22 立教 ・ 改宗 付( 宇 内 ) 一 統 教 宗旨 13( 波 佐 教 会 案 )  29( わ が 入 蔵 は・・ 新 仏 教 を 起 こし ・ ・ )  37( ・ ・ 帝都において立教開宗すべし。 ) 40(帰国後の我が家の檀家の整備詳細) ただし、この船中での日記の中からは能海の考える新たな宗教像は未だ 浮び上がってこなかった。寧ろ、若し、能海がチベット探検を終え、無事 帰国できたならば、必ず郷里の寺に戻るという檀家との約束を果たす、そ のための寺院経営を如何にすべきかと、考えはそこに中心が向けられてい た か に 見 え る。 そ れ で は 能 海 が『 世 界 に 於 け る 佛 教 徒 』 に お い て、 「 将 来 における宇内一統宗教は仏教たらざるべからざる気運に際しその一大準備 を 為 す べ き 時 代 」( 第 九 章 ) で あ る と 言 い、 そ の 「 仏 教 徒 全 体 の 中 心 と し て連合策の一としてまた将来仏徒の興学布教に於ける組織一致の運動を謀 ら ん が 為 め に 仏 教 徒 総 会 議 所 の 必 要 を 論 ぜ ん と 欲 す 」 ( 第 十 三 章 ) と 主 張 している。その主張をどの様に実現しようとしていたのか。実は重慶下船 後の陸地探検行の中で、能海が考えていた、壮大な宇内一統教を披露する のである。次節で明らかにしよう。   能海が提示する新仏教への決意 能海の本格的なチベットへの旅は、重慶で下船して以降、陸路を以て始 まるのであり、困難と絶望の淵にあえぐ内陸の旅にあってこそ、希望の星 を 仰 ぐ 如 く に、 能 海 の 新 宗 教 像 は 大 胆 に 披 露 さ れ る の で あ る。 そ れ は 理 塘・巴塘迄進み、金沙江を前にして、折角チベットへの入り口に到達しな が ら、 こ れ 以 降、 チ ベ ッ ト 領 内 の 危 険 を 重 く 見 た 地 元 官 憲 の 指 示 に よ り、 打箭炉(康定)まで戻り、今や第二次探検出発を模索していた最中のこと であった。 す で に 多 く の と こ ろ で 記 し て き た よ う に、 能 海 は 日 記 魔 と も 言 う べ き、 日常の記録を二重・三重に書き付けていたのであるが、なぜか打箭炉滞在 中の日記が見当たらない。重慶・巴塘往復の日記録は、後世、山岳日誌の 模 範 と も 称 さ れ る 見 事 な も の で あ り、 ま た、 日 本 の 多 く の 関 係 者 に 書 き 送った書簡類によりさらに詳しく、逆に打箭炉滞在中の暮らしぶりも垣間 見られるのである。ただ、明治三二年一〇月二二日(打箭炉帰着)から明 治三三年五月一七日 (第二次探検出発) までの間は、 日付は打ってあるが、 殆ど書き込みがなく、おそらくは別紙に書かれたものが未発見のままなの ではないかと思われる。なお、明治三二年一一月二日にはこれまで同行し た 寺 本 婉 雅 氏 が 能 海 と 別 れ 重 慶 に 到 着 し て い る。 能 海 は な お 現 地 に 止 ま り、第二次探検の準備と、チベット語経文の翻訳などを行ない、大きな業 績を残す。明治三三年三月二六日、 『般若心経西蔵文直訳』 (和 ・ 漢 ・ 英文) の完成、 『西蔵国仏像画集』 (明治三二年一一月~一二月中半まで・罫線付

(14)

新仏教徒能海寛と一統教 き ノ ー ト 丙 第 五 号 )、 『 金 剛 宝 石 鉱 山 開 崛 者( ダ イ ヤ モ ン ド の 大 福 長 者 )』 ( 翻 訳 )、 『 弥 勒 勝 願 経 』( 明 治 三 三 年 三 月 三 〇 日 漸 く 翻 訳 と あ る )( 以 上 何 れ も 罫 線 付 き ノ ー ト 丙 六 号 に 記 録 さ れ た も の で あ る ) )(1 ( 。 そ し て こ れ ら の 業 績に夾まれて、突然のように丙六号ノートに 「 一統教 」 と題する、能海独 特の新宗教、 (古聖以来の無比) 「 大新教 」 が披瀝されるのである。いつ書 かれたのか。 明治三二年一二月の内、 或いは年が明けた三三年一月早々か。 月日までは書き込んでいない。 全文を次に再録するが、一読して開教の趣旨、宣教の方法は至って簡明 である。われわれは、能海の『世界における仏教徒』を読み、中西牛郎の 『 宗 教 革 命 論 』 を 読 む 限 り に お い て、 一 九 世 紀、 一 神 教 に 行 き 詰 ま っ た キ リスト教を脱し、汎神教としての仏教が、世界一統の宗教であるためには 「 今 や、 ア ジ ア 五 億 の 仏 教 徒 が 一 致 団 結 し、 旧 仏 教 を 脱 し て 新 仏 教 に 革 新 する道を取ることこそ吃緊かつ究極の道である」との決意を能海によって 示されたものと見えるのである。

一統教

     (  雪 山 に 大 本 山 を 設 く   新 大 蔵 経 を 本 尊 と す   古 聖以来の無比大新教とす)     内 は 各 国 各 宗 派 の 仏 教 を 一 統 し   外 は 万 国 各 宗 教 を 一 統 し   以 て 億 兆 を し て 立 命 帰 信 せ し め 個 人 の 安 心 と 社 界( 会 ) の 平 和 を 謀る       方法   一、  各 国 各 語 の 原 書 及 翻 訳 一 切 経 論 を 結 集 し、 之 を 以 て 一 統 宗 の 所依本経とす   之を新大蔵経と称す     一、  新 大 蔵 経 を 講 述 し、 万 機 を 教 化 し、 従 来 の 各 国 の 各 仏 教 宗 派 は其支院となす   一、  宗 教 界 を 研 究 大 成 し、 「 万 国 宗 教 大 編 」 を 編 輯 し 之 を 一 統 宗 の 助依大編とす   一、  万 国 各 宗 教 宗 派 を 以 て 一 統 宗 に 入 る 楷 梯 入 門 と な し、 宗 教 学 の学判により各宗教の正道発達を謀る   一、  一 統 宗 内 容 に は 表 に 哲 学、 宗 教 学、 歴 史、 倫 理 を 講 じ、 裏 は 信心、戒律(新律) 、禅定、智慧を修む  以上     (筆者注   なお、この本文には以下の書き込みがある)

一切寺

  

上衆

 

擾多羅僧

伽(剃髪)寺

    

一切佛

    

一切菩薩

(15)

新仏教徒能海寛と一統教

    

一切経

    

一切衆生

    

一切国

    

 印

 

 

 

西

 



朝鮮

 

日本

    

一切宗

   

 大小乗

天和寺

  



  

  

 

炎厲不起

  

国豊長安

釈国安

 

 

 兵

  

  

 

(配?)譲

寶多山

 

天和寺

中乗

大乗而非大乗      大乗而小乗 小乗而非小乗      小乗而大乗 大小合為中乗      以実利為宗 不言十方法界      唯指五大州 不語未来空想      偏謀現世福 無志心帰命礼      三普陀観音菩薩 十方一切諸菩薩     三世一切諸世尊   一統教と中乗の教理 能海が、明治三二年および三三年から三四年一月までの一時期、重慶に 滞在し、次期の探検出発まで、中国本土各地の地理・地誌を研究、記録し た も の に『 在 渝 日 記 』( 著 作 集 第 四 巻 ) が 有 る。 渝 は 重 慶 の 雅 名 で あ る。 その中で、明治三三年一二月二二日の日付で、能海自身の半生を振り返る 「 思想の変遷 」 (学問に付きて)がある。彼の生涯から言えば奇しくも最終 的 に 自 己 の 過 去 を 振 り 返 る も の と な っ て い る の で、 こ こ に 再 録 し て み た い。 一、学問は何の為に学ぶべきもの欵    皆人の学ぶ故に己れ亦学ばざるべからずと考えし時代 二、普通学の必要    今や世間一般小中大の学をなす   我は仏教の布教に任あるも    の   普通学即小中大の学を学ばずは専門の仏学も応用する不    能べしと考へし時代 三、欧米布教策     今や欧米仏教を求めてやまず   之れには第一支那訳の経文を翻訳せず んあるべからずと考へし時代 四、英文研究時代     同志を集めて英作文会イングリシュコンポジショナルソサイチーを結 び 「 文 学 」 レ タ レ チ ュ ア ー と 称 す る 毎 週 英 作 文 集 雑 誌 を 校 内 発 行 し、 又朋友間手紙に英文を用い、尚東京に移りても 「 智恵と慈悲 」 と称す

(16)
(17)

新仏教徒能海寛と一統教 る英文集を毎月造りて英文に志し又少々経文を訳せるの時代 五、翻訳には梵学の必要を感じたること     少しにても英文に仏教経文を訳せんときは必ず梵音出て来り   梵語を 解せずは第一其綴すら困る是亦此学は少しく学ばずは目的達し難しと 考えし時代 六、梵文経典の不足を感ぜし時代     少しにても梵語を学び梵文経を見れば益々其の原文の多からんを望む  今傳ふる梵経僅か十部計りにすぎず   益々進んで求むる要す   特に三 事普陀観経なし是等の原本探るの要あり   然るに甚數甚少し   又欧米 梵学の大儒梵本を以て漢訳経を批評す   自ら進んで彼を圧倒するに非 ずんば   欧米に仏教の伝道困難なりと考へ、世に伝る原書はニポール より多く出て、印度には已に多く絶えたり   然らば西蔵に入らば古来 数千年来伝来せる梵本経なしとせず   宜しく行くて探さくすべしと」 七、自動的東洋学研究必要     西洋に東洋学ありて東洋人よりも却て精し   特に仏徒よりも欧米学者 梵学に熱心研究せり   自動的東洋学研究必要なり   特に仏徒には梵学 の自動的研究を要すー」 八、西蔵行の感念     東洋の秘密文庫、世間未知の図書館と望みを属せらるに西蔵国前后蔵 より釈迦の経蔵には我々の求めて止まざる   東洋学の古木(本?)な お秘蔵し居るやも不計、今迄は友人に西蔵行を望み居りしも今や東洋 問題特に中央亜細亜問題年々逼迫し来る我は不要多年単奇旅行せんと 自ら企てたるも屑々と延引せば却て外国の為に先をとられんと恐れた り 九、西蔵学の必要     西蔵漠(漢?)遊の途に上りて段々と土人等に庶られて暫時巴塘及打 箭炉に滞在少々西蔵経文を得て研究せし処、案外にも其の訳文の我々 平生望み居る梵語原文に近きより今は英文よりも梵学から却て西蔵文 研究愈々必要なるを感ずるに至れり 以上長くなった引用であるが、能海のチベット探検の方向性が最終第九 項で確定したが、ここでも新宗立教のことには触れていない。ただ、同じ く明治三四年一月二一日に書かれた五言詞に「我至興新教   名声超万邦   若有不信帰   誓不帰本土」とチベット到着の中で新教を建て活動を始める ことも決意の中に秘めていた。 それでは、能海が新教を説明した 「 中乗 」 の内容について、読み下しで 考えてみると次のようになる。 大乗にして大乗に非ず   大乗にして小乗   小乗にして小乗に非ず 小乗にして大乗なり   大小合して中乗と為(な)る   実利を以て 宗と為す   十方法界を言わず   唯、五大州を指す   未来空想を語 らず   偏(ひとえ)に現世の福を謀り   無志の心、帰命の礼   三 普陀観音菩薩   十方一切の諸菩薩   三世一切の諸世尊 この能海の 「 中乗 」 は、一見して、全ての建前を棄て、大乗と小乗が合 体することによって中乗となり、一統宗を興すべきであると説いていると 見える。能海がすでに『世界における仏教徒』の中で、繰り返し述べてき た如く、新仏教徒が目指すべき仏教界のあり方は、日本ばかりでの改革で なく、 アジア全体が一丸となって、 同時的に改革にたつべきで、 そこには、

(18)

新仏教徒能海寛と一統教 旧 来 の 大 乗 仏 教 も 小 乗 仏 教 も こ だ わ り な く、 両 者 の 立 場 を 乗 り 越 え て こ そ、改革の意義があると主張しているものであり、従って現存する全ての 仏教宗派を否定するではなく、寧ろ、既存の宗派がこぞって協力して、一 つの揺るぎない上部構造をたちあげるべきであり、それを一統教とも名付 けるのがよいと提案しているのである。能海が根拠とするひとつは、彼が 普通教校時代以来、神智学会のオルコットやダルマパー ラ )(1( 等と交流する中 で、仏教発生の印度で、釈尊の仏跡などが廃れていることはもちろん、セ イロン始め、東南アジアの上座部派・小乗仏教圏も、欧米諸国による進出 で勢力が衰えている中では、まず、アジアで確かな足場を固めること、そ の上で、これも能海のもとには届いているキリスト教の不振にあえぐ欧米 諸国に、一斉に仏教布教を図るべきとの想いも込め、そのためには、新宗 立教に立ちふさがる重要な争点さえも、予め、列挙することによって無用 な論争を避けよと主張している。 但し、アジアの仏教徒の多くは、中国もまた日本も長い歴史を持つ大乗 仏教徒の系譜が多い。紀元前後の印度において、主として印度南部からス リランカにかけて仏陀の定めた戒律遵守を主張する上座部、あるいは一切 有部派の南伝する流れがあった。一方、印度北部からいわゆるシルクロー ド 方 面 に か け て、 仏 陀 の 教 え に 沿 っ て 利 他 行 を 続 け、 衆 生 済 度 を 目 指 し、 自らも仏陀の教えに基づく涅槃を求め、正覚者(仏者)となることを目指 す集団の流れがあった。この北伝する仏教の集団は南伝する集団を小乗と 呼び、自らを大乗と呼び、有意性を誇ったが、多くの経典が作られ、様々 な宗派が生まれる中で、次第に仏陀の教えそのものの理解が多方面に流れ るなど、大乗仏教の存在を理論的に明確にする必要に迫られていた。 紀元一五〇年から二五〇年頃と言われる、 印度に龍樹 (ナーガルジュナ) が出て、中観派を興し、 『中論(根本中頌) 』を著して、当時の説一切有部 派らの主張を釈迦の説いた教えに外れたものとして徹底的に論駁し、一切 空即ち 「中道」 であることを証明し、 大乗仏教存立の立場を明らかにした。 実はこの龍樹の論証過程は大変難解であり、仏門に素人である筆者は、誌 面 の 都 合 も あ る 事 か ら、 中 村 元 著『 龍 樹 』( 講 談 社 学 術 文 庫 ) )11 ( に 頼 っ て、 僅かな知識ながらとりあえず、 理解の一端を記し、 次に進みたいと考える。 ( 龍 樹 は い う、 二 五 一 頁 )。 「 ど ん な 縁 起 で も、 そ れ を わ れ わ れ は 空 と 説 く。 そ れ は 仮 に 設 け ら れ た も の で あ っ て、 そ れ は す な は ち 中 道 で あ る( 「 中論 」 第一八注) 」( 「 中論 」 冒頭の立言・帰敬序、趣旨を翻訳、一六〇頁) 「(宇宙においては)何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうご う)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものも それ自身において分たれた別のものであることはなく、何ものも(われら に 向 か っ て ) 来 る こ と も な く、 ( わ れ ら か ら ) 去 る こ と も な い、 と い う め で た い 縁 起 の こ と わ り を 仏 は 説 き た も う た 」 「 す べ て の も の は 相 依 性( 相 互依存)によって成り立ちこれを(仏陀は)縁起という。 」 能海はこうした龍樹の壮大な理論付けによって北伝する大乗仏教が、や がてシルクロードから中国・朝鮮半島を綜て、日本に伝来され、江戸時代 においても、大規模教団が強固に保持してきた歴史的経過も十分認識して いたであろう。ただ、今は能海は日本を離れ、アジアの渦中に居る。それ こそ祈る様な気持ちで、日本の仏教界が、大同団結して、新宗立教に理解 を示すことを望んでいたのではないか。ただし、時は今から百年以前、長 い間の鎖国を脱して漸く世界の宗教情勢が日本に伝えられて間もなくの時

(19)

新仏教徒能海寛と一統教 であったことを考慮に加えるべきである。なぜかといえば、奇しくも能海 の チ ベ ッ ト 探 検 と 時 を 同 じ く し て、 日 本 の 仏 教 界 の あ り 方 を 鋭 く 指 摘 す る、仏教学者が現れていたのである。 日本仏教は、大和朝の時代より、主として中国大陸で育まれた大乗仏教 を受け入れ、アジアで最も進んだ仏教国となっていた。但し、幕末・維新 に及んで、新政府による神仏分離政策と共に、富永仲基らの説く大乗非仏 説についても、旧来の立場にたつ仏教者側からは、強固に否定する動きが 見られるばかりであった。しかし、その中から、日本における一〇を越え る旧仏教宗派を、仏教一貫論の立場から、大乗・小乗を問わず、各宗にあ る共通の統一的原理を合同し、もって釈尊の根本精神を探るべきことを提 案する、 浄土真宗大谷派出身、 仏教学者村上専精の大著『仏教統一論』 (第 一編大綱論・余論・第二編原理論・第三編仏陀論)が、明治三四  (一九〇 一)年五月から明治三七(一九〇四)年九月にかけて  (三編で千頁を越え る ) 刊 行 さ れ た 。 )1( ( 誌 面 の 都 合 で 内 容 の 詳 細 は 省 く が、 「 研 究 の 目 的 」 で 村 上は次の様に言う。 それ仏教理想は、分裂に分裂を重ねた結果、今としては支離滅裂せんと する状況なきにしもあらざれども、元来同一的性質のものたり、 (中略) 従来四分五裂の如く見えし、各種の仏教を統合して、ここに円満なる一 大仏教を組織するに至らん。ここに円満なる一大仏教を組織するに至れ ば、これと同時に吾人信念の衝突を避け、仏教界における信念を悉皆統 一するに至らん。 と言い、この研究は段階を追って、各宗派の大綱を把握し、次にあらゆる 各宗派漏らさず完全な体系化を図るべきで、その上にたって本来の教祖・ 仏陀の説く涅槃論を統一的に研究理解すべきであるとした。 ただし 「余論」 「第三章大乗仏説に関する卑見」において、 「斯くの如く重要なる大乗の経 論の来歴が、神話怪談を以て伝えらるるは何事か。かつそれ大乗部結集の 年事、および場処に就ては六説あるも、一として歴史的事実の参考となる べきものなきは実際釈迦の説教を記録せしものとなし難き証佐なりと言わ ざ る を 得 ず。 こ れ に よ り 余 は 大 乗 非 仏 説 な り と 断 定 す。 」 と、 村 上 は そ の 立場を明らかにし た。この村上の大乗仏教非仏説は、旧仏教界にとってま さに衝撃的であった。ただ、 村上は大乗的立場について、 同著の中で、 「故 に小乗を仮に原始的根本仏教とすれば、大乗は開発的仏教と言わざるを得 ず」と擁護的立場も示していたのであるが、村上の属する真宗大谷派本山 か ら の 指 弾 は 激 し く、 一 時 的 に せ よ 村 上 は 僧 籍 を 離 脱 せ ざ る を え な か っ た。その後の仏教界の動きはどうであったか、本論はそこに立ち入る余裕 をもたないが、ただ、能海にとっては大変な支援者が出現したことになっ たのではないか。ただし、能海はこのことを知らず、明治三三年五月一七 日、暫く住み続けた打箭炉(現四川省康定)を出発、第二次探検となる甘 粛、青海路を求め、成都・西安を目指して旅立っていったのである。 ( 1)   能 海 寛 著『 世 界 に お け る 仏 教 徒 』( 明 治 二 六 年 一 一 月 哲 学 書 院 刊、 平 成 一 四年五月能海研究会復刻版発刊   なお、 多くの能海寛自著作品 ・ 著書は、 『能 海 寛 著 作 集 』( 能 海 寛 研 究 会 編・ U S S 出 版 社 ) に 収 載 さ れ、 本 稿 で は 単 に 『著作集』とする) (2)   『石峰』第一七号(能海寛研究会   二〇一二年三月) (3)   大修館書店   (一九九九年六月刊・二三八─二五七頁) (4)   吉田久一(吉川弘文館   一九五九)

(20)

新仏教徒能海寛と一統教 (5)   池田英俊(吉川弘文館   一九七六) ( 6)   中 西 牛 郎『 宗 教 革 命 論・ 第 一 二 章   旧 仏 教 を 一 変 し て 新 仏 教 と 為 さ ざ る べからず』 (東京博文堂   明治二二年二月) ( 7)   菅 沼 晃「 慈 光 寺 の 円 了 か ら 世 界 の 井 上 円 了 へ 」( 東 洋 大 学 校 友 会 一 二 〇 周 年記念誌『東洋の軌跡』二〇一四年九月) ( 8)   こ れ ら の 能 海 研 究 の 成 果 は そ の 都 度、 研 究 会 機 関 誌『 石 峰 』 一 号( 一 九 九五年七月)~二〇号(二〇一五年三月)に発表されている。 (9)   能海寛研究会岡崎秀紀会長に資料提供頂いた。 ( 10)   隅 田 正 三・ 岡 崎 秀 紀『 石 峰 』 第 九 号( 能 海 寛 研 究 会   二 〇 〇 九 年 三 月 ) 四三頁 ( 11)   能 海 寛『 第 四 号   春 秋 の 日 記 』「 明 治 二 三 年 一 月 二 九 日 」( 『 石 峰 』 第 一 五 号 二 〇 一 〇 年 三 月 ) に 慶 應 義 塾 受 験 前 夜 に 普 通 教 校 以 降 今 日 ま で の 自 分 自 身 の 活 動 を 顧 み て、 最 近 の 一 つ に「 新 仏 教 徒 論 」 を 挙 げ て い る。 詳 細 の 記 述はない。 ( 12)   拙 稿「 求 法 と 開 教 の 間 」( 「 印 度 学 佛 教 学 研 究 」 第 四 九 巻 第 一 号 二 六 七 頁 下 一 ─ 九   平 成 一 二 年 二 月 ) 、 同「 能 海 寛   求 法 の 軌 跡   東 京 修 学 時 代 の 日記を中心に」 (石峰第一〇号二〇〇五年六月)など参照。 ( 13)   『仏教』第四巻第十一号(明治三六年一一月発行)    な お、 吉 永 進 一「 オ ル コ ッ ト 去 り し 後 ─ 世 紀 の 変 わ り 目 に お け る 神 智 学 と“ 新 仏 教 徒 ”( 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 国 際 研 究 集 会 報 告 書「 近 代 と 仏 教 」 二 〇 一 二 年 三 月 )、   菅 沼 晃「 変 革 期 の 仏 教 4   新 仏 教 の 騎 手 た ち ─ 境 野 黄 洋 と 高 島 米 峰 の 理 性 主 義・ 常 識 主 義 ─( 『 大 法 輪 』 平 成 一 四 年 一 月 号 ) など参照。 ( 14)   『石峰』一五号(二〇一〇年三月)四八頁 ( 15)   隅 田 正 三「 能 海 寛 の「 新 仏 教 徒 」 運 動 の 軌 跡 』( 「 石 峰 」 二 〇 号   能 海 寛 研 究 会 二 〇 一 五 年 三 月 ) 中 に は、 本 文 引 用 の ほ か、 し ば し ば 経 緯 会 と 文 通 や 会 合 出 席 の 記 事 が 次 の 月・ 日 に 記 録 さ れ て い る。 一 月 二 四 日・ 二 月 二 六 日・ 三 月 一 八 日・ 三 月 二 五 日・ 三 月 二 七 日・ 四 月 一 二 日・ 七 月 二 日・ 八 月 一 日・ 八 月 四 日・ 八 月 六 日・ 八 月 一 六 日・ 八 月 一 九 日・ 八 月 二 五 日・ 八 月 三〇日・九月五日 ( 16)   隅田正三 「能海寛の深層心理を探る」 (『石峰』 第一五  号二〇一〇  年三月) 二七─三六頁 ( 17)   江 戸 時 代 寛 延 二( 一 七 四 九 ) 年 板 行 さ れ た『 産 語・ 十 二 編 』 は 荻 生 徂 徠 門 下 の 太 宰 春 台 著 と さ れ て い る が、 春 台 自 身 は 巻 末「 産 語 跋 」 に お い て 古 都 奈 良 に お い て 入 手 し た 中 国 歴 代 芸 文・ 経 籍 志 に も 載 っ て い な い 書 中 か ら と っ た も の で あ る 」 と い い、 い わ ゆ る 偽 託 の 書 と す る が、 「 寛 延 二 年 己 巳 夏 四 月 郡 山 宮 田 明 謹 序 」 と し た「 産 語 序 」 に、 太 宰 春 台 著 と し て い る こ と と、 荻 生 徂 徠 が 同 門 の 子 弟 に「 春 台 の 著 作 で あ る 」 と し た こ と に よ り、 以 後 春 台 著 と さ れ る 様 に な っ た と 伝 え ら れ て い る。 こ れ に 対 し 長 年 研 究 を 続 け ら れ た 神 谷 正 男 氏 は、 各 処 に お い て 詳 細 な 研 究 成 果 を 公 表 し て き た が、 昭 和 四 六 年 一 月 明 徳 出 版 社 か ら『 産 語・ 人 間 の 生 き 方 』 を 刊 行、 春 台 が よ り ど こ ろ と し た 典 籍 は、 中 国 先 秦 時 代 の 農 家 の 佚 書 で あ り、 産 業 経 済 に 関 す る 殖 産・ 治 生( 生 業 を 治 め る ) の 書 の こ と で あ る、 と さ れ て い る。 能 海 は 序 文 か ら 注 目 し て い る が、 そ れ は 誰 の 序 文 か 不 明 で あ る が、 チ ベ ッ ト 探 検 後、 帰 国 し て 郷 里 に お け る 殖 産 興 業 を 考 え る 上 で の 参 考 と し て 大 い に 賛 同 し て いたのではないか。 ( 18)   『 能 海 寛 著 作 集 第 五 巻 中 国 巡 礼 探 検 記 録 Ⅱ 』( 丙 第 五 号・ 六 号。 明 治 三 二 年 一 一 月 ─ 同 三 三 年 所 収 )( 二 〇 〇 七 年 七 月 一 一 日   能 海 寛 研 究 会 編   う し お書店新社) ( 19)   岡 崎 秀 紀「 西 蔵 仏 教 求 法 僧 能 海 寛 と 仏 跡 復 興 運 動 の ス リ ラ ン カ 人 A・ ダ ルマパーラ」 ( 「 石峰 」 二〇号   能海寛研究会二〇一五年三月)  ( 20)   中村元『龍樹』 (講談社学術文庫二〇〇二年六月一〇日刊講談社) ( 21)   村上専精著 「 仏教統一論   第一編大綱論余論 」 (明治三六年五月金港堂) ・ 同 第 二 編 原 理 論( 明 治 三 七 年 三 月 金 港 堂 )・ 同 第 三 編 仏 陀 論( 明 治 三 八 年 一 月 金 港 堂 ) な お、 仏 教 統 一 論 第 四 篇、 同 五 篇 の 刊 行 が 予 告 さ れ て い た が、 第 四 篇 は 刊 行 さ れ ず、 第 五 篇 実 践 論 上。 下 が 一 九 二 七( 昭 和 二 ) 年 東 方 書 院 か ら 刊 行 さ れ、 下 巻 末 尾 に 自 伝 が 付 さ れ 僧 籍 返 上 の 経 緯 が 詳 述 さ れ て い る。 ま た、 二 〇 一 一 年 四 月 書 肆 心 水 か ら 「 仏 教 統 一 論 」 が 復 刻 刊 行 さ れ、 第 一 篇 大 綱 論 全 文、 第 二 篇 原 理 論 序 論、 第 三 篇 仏 陀 論 序 論 が 収 載 さ れ て い る。    な お、 本 稿 は 先 に「 石 峰 」 二 〇 号 に そ の 一 部 を 掲 載 し た が、 こ の 度 内 容 を大幅に改め改題して掲載するものであることをお断りしたい。  参考にした能海関係主要著書 ・ 論文一覧(本論引用以外)  能海寛著作集第一巻~第一五巻(USS出版平成一七年~平成二一年)

(21)

新仏教徒能海寛と一統教    同別巻(総合索引   平成二二年)  能 海 寛 追 憶 会『 能 海 寛 遺 稿 』( 大 正 六 年 四 月 ) 五 月 書 房 平 成 一 〇 年 二 月 復 刻 版)  村上護『西蔵求法伝風の馬』 (後世出版社平成元年四月)  隅田正三『チベット探検の先駆者能海寛』 (波佐文化協会平成二年一二月)  隅 田 正 三『 改 訂 版 チ ベ ッ ト 巡 礼 探 検 家「 求 道 の 師 能 海 寛 」』 ( U S S 出 版 平 成二二年)  池田英俊編『図説日本仏教の歴史   近代』 (佼成出版社平成八年)  東洋大学百年史   通史編一(東洋大学一九九三年九月)  二 葉 憲 香 監 修 編 集・ 赤 松 徹 真   福 嶋 寛 隆『 新 仏 教 論 説 集 』( 永 田 文 昌 堂   昭 和 五 三 年 三 月 )( 第 一 巻 第 一 号・ 「 我 徒 の 宣 言 」  第 三 巻 第 七 号「 自 由 討 究 主 義としての新仏教」境野黄洋   ほかの緒論考)  杉村廣太郎編『老川遺稿』 (仏教清徒同志会明治三四年一〇月)  江本嘉伸『西蔵漂泊』上 ・ 下(山と渓谷社平成五年 ・ 六年)  江本嘉伸『チベットに消えた旅人』 (求龍堂一九九九年四月)  中村保『深い侵食の国』 (山と渓谷社平成一二年)ほか  高 本 康 子『 「 近 代 」 日 本 に お け る チ ベ ッ ト 像 の 形 成 と 展 開 』( 扶 養 書 房 出 版 平成二二年)他の業績  河 口 慧 海『 チ ベ ッ ト 旅 行 記 』( 上。 下 )( 高 山 龍 三 校 訂 講 談 社 学 術 文 庫 二 〇 一五年一・二月刊)  奥山直司『評伝河口慧海』 (中央公論新社弐千参年八月刊)    なお、 個々の参考論文について、 能海寛研究会 『石峰』 (創刊号一九九五 ・ 七~第二〇号二〇一五 ・ 三)の各号に多数あり参照されたい。    本 論 作 成 に あ た り、 菅 沼 晃 東 洋 大 学 名 誉 教 授、 能 海 寛 研 究 会 会 長 岡 崎 秀 紀、 同 会 事 務 局 長 隅 田 正 三 各 氏 か ら ご 教 示 を え た。 記 し て 感 謝 に 代 え る も のである。  (客員研究員)

参照

関連したドキュメント

第2期および第3期の法規部時代lこ至って日米問の時間的・空間的な隔りIま

の急激な変化は,従来のような政府の規制から自由でなくなり,従来のレツ

歯國撫旧馬僑i蒻扉 アシスタント カウンセル ゼネラル。 アシスタント カウンセル ゼネラル。 アシスタント カウンセル ゼネラル. アシスタント カウンセル

(3)賃借物の一部についてだけ告知が有効と認められるときは,賃借人が賃貸

106-7頁;舟本信光「欠陥車事故訴訟の問題点」自動車事故民事責任の構造37-8

多くは現在においても否定的である。 ノミヅク・ロスと物理的 イギリスにあっては製品 また,生命自体・財産に しかし,

ずして保険契約を解約する権利を有する。 ただし,

2会社は, 条件を変更のうえ保険契約を締結したと染とめられる場合には,