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四月に当館へ赴任し そもそも なぜ 公文書館 なるものが 存在しているのかといった素朴な疑問が湧いてきました 調べた結果 表題の二つの法律にたどり着きました 今回は この二つの法律を簡単に紹介し これら法律に対する私の感想を添えて 巻頭の挨拶に代えたいと思います 一 公文書館法 まず 公文書館法は

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昭和七年八月 火災警防訓練に関する通達(当館蔵)

防火訓練の今昔

  当 館 蔵 の 戦 前 公 文 書 の 中 に 昭 和 七 年 (一九三二)九月一日実施の「火災警防訓 練」について県庁内各課に通知した文書が あります。   昭和五年 (一九三〇) 年三月六日午前十時 三十分、富山県庁本館二階から出火し、庁 舎の大部分が焼失しました。当時の山中知 事 は 庁 舎 再 建 に 乗 り 出 し、 同 年 九 月 十 四 日 に は 仮 庁 舎 が で き て 移 転 し ま す。 新 庁 舎( 現 在 の 県 庁 舎 ) が 完 成 す る 昭 和 十 年 (一九三五)八月以前の仮庁舎で過ごして いた時期に、火災の経験を踏まえて訓練が 計画されたことがわかります。計画書によ れ ば、 「 一、 物 品 搬 出 等 準 備 」 と し て、 消 火器による初期消火、書類等の物品搬出、 避難縄の準備が記され、続いて搬出、避難 行動の手順が記されています。それぞれの 行動開始の合図は、 「振鈴」 (しんれい)と あり、現代の一斉放送とは隔世の感があり ます。   この訓練は九月一日午後実施の通達が当 日付で出され、全庁職員、富山警察署員、 富山消防組、堀川消防組、山室消防組が参 加する大規模な訓練であることがわかりま す。 訓 練 に お け る 火 災 の 原 因 は、 「 敵 飛 行 機襲来し爆弾を投下したる為」とされてお り、昭和六年(一九三一)の満州事変勃発 以降、日本国内で徐々に軍事色が強まって いく時代を反映しています。

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  四月に当館へ赴任し、そもそも、 なぜ「公文書館」なるものが、存 在しているのかといった素朴な疑 問が湧いてきました。調べた結果、 表題の二つの法律にたどり着きま した。   今回は、この二つの法律を簡単 に紹介し、これら法律に対する私 の感想を添えて、巻頭の挨拶に代 えたいと思います。   「公文書館法」   ま ず、 公 文 書 館 法 は、 昭 和 六十二年十二月に成立しました。 当初は、政府案での成立を予定し ていましたが、政治家や官僚が消 極的だったため、所管行政機関が 決まりませんでした。そのため、 議員立法による法制化に切り替え、 総理府所管とし、野党の協力も得 て、ようやく成立したものです。 この法律は、歴史的に貴重な公文 書等の散逸を危惧し、その防止を 訴えるいくつかの団体からの要望 に応え、また、そうした趣旨に呼 応して全国で「公文書館」なるも のが設置されていく中で成立した もので、当館もこの法律制定の少 し前、昭和六十二年四月に設置さ れています。   「公文書管理法」   次に、公文書管理法。これは、 平成二十一年七月に成立した比較 的新しい法律です。情報公開制度 が進む中、 その情報の元となる (原 則として国の)公文書等の統一的 な保存・管理が重要視され、必要 に迫られて制定された法律といえ ると思います。   これら二つの法律は、ともに現 実が先行し、後を追う形で制定さ れたように思われます。そもそも、 こうした法律がこんなに新しい法 律だったことに驚きました。私は、 当館が設置されるずっと前に存在 し、その法律に基づいて当館が設 置されたものと思っていました。 色々調べてみると諸外国に比べ、 我が国の公文書等の保存・管理の 対応や法制化はかなり遅れている ようです。   では、なぜ遅れたのでしょう。 そ れ は、 公 文 書 が 誰 の も の か と いった認識の違いによるものだと 思います。我が国は明治以降官僚 主導の中央集権国家として進み、 役人にとって自ら作成した文書は 自分たちのものといった感覚が拭 えなかったのではないでしょうか。 情報公開制度が進んでも、公の情 報や公文書等は国民や住民のもの と い っ た 感 覚 を な か な か 持 て な かったのかもしれません。   今回、公文書等の保存・管理に 関する歴史や現状について調べて みましたが、色々課題があること も分かりました。こうした仕事に 携わる者の一員として、更なる課 題の研究やそうした課題解決に向 けて努力したいと考えています。   興味のある方は、ぜひ、この二 つの法律をひも解いていただき、 公文書等の保存・管理にご理解と ご協力をいただければ幸いです。 加えて、今後とも富山県公文書館 をよろしくお願いいたします。   公文書館だよりの二月一日号で 全国歴史資料保存利用機関連絡協 議会(以後全史料協)の全国大会 に つ い て 報 告 し ま し た が、 平 成 二 十 九 ・ 三 十 年 度 と 富 山 県 公 文 書 館が全史料協の広報・広聴委員会 の事務局を引き受けることとなり ました。 ここでは全史料協と広報 ・ 広聴委員会の紹介をします。   全史料協は、文書記録を中心と する記録史料を保存し、利用に供 している機関会員と、この会の目 的に賛同して入会した個人会員で 構成する全国団体です。   全史料協は会員相互の連絡と連 携をはかり、研究、協議を通じて 記録史料の保存利用活動の振興に 寄与することを目的としています。   機関会員には、 文書館、 公文書館、 図書館、歴史資料館、自治体史編 さん室、および大学資料室等が加 盟しています。個人会員は、史料 を保存し利用に供する仕事に携わ る方々です。   その中で広報・広聴委員会は全 史料協ホームページ管理と会報・ 会誌の発行を担当しています。   会 報 を 年 二 回、 会 誌 は 年 一 冊 発 行 し て い ま す。 今 年 度 は 会 報 一 〇 二 号 と 一 〇 三 号、 会 誌 は 第 二八号発行予定です。ホームペー ジでは、会員から投稿された最新 の情報のほか、これまで発行され た会報、会誌を読むことができま す。 ( ※ 著 者 か ら 許 諾 を 得 た も の のみ掲載しています)   ご 興 味 の あ る 方 は 一 度 ホ ー ム ページをご覧ください。 館 長 

田 

館 長長 館 長長

和和

館 長 

田 

全史料協HP

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去る五月十八日(木)午後一時 最初に会長である島田和夫当館 議事では、平成二十八年度の事 )、 平 成 二 十 九 年 度 事 業 計 画 案 また、平成三十年以降の第九期 ・ 三十年度) ・第十期 収支予算案では、三年後の視察 最後に、事務局より富山県公文 館 が、 平 成 二 十 九 ・ 三 十 年 度 の 関連絡協議会(全史料協)広報・ 広聴委員会事務局を担当すること を報告しました。   富史料協では、これまで行政資 料や歴史資料の保存・利用への認 識を高めることに努めてまいりま した。今日、公文書についての適 正な文書管理やその他の史資料の より効果的な保存・活用、地域史 資料の現地保存の重要性がますま す高まっています。   今後も時代の変化に対応しなが ら、研修などを通して、会員間の 情報交換を進め、相互の連携をよ り緊密にしていきたいと思います。

  総会の後、筑波大学図書館情報 メディア系知的コミュニティ基盤 センター教授の白井哲哉氏による 「災害と資料保存機関の対応のあ り方―古文書・行政文書・実物資 料について―」と題する講演が行 われました。   今日の私たちは『大地動乱の時 代 』( 石 橋 克 彦 著 ) に 述 べ ら れ て いるように、大災害と隣り合って 生きており、その際に資料保存機 関は、被災資料をどう救済するか を考えなければならないと指摘さ れました。   まず、東北地方太平洋沖地震被 災文化財等救援事業(文化財レス キュー事業)の際には、被災地が 四県と広域に及び、行政機関だけ では機能せず、各地の史料ネット 組織が実質的救済活動をしたとの ことでした。   茨 城 県 で も 東 日 本 大 震 災 時 に 「茨城文化財・歴史資料救済・保 全 ネ ッ ト ワ ー ク( 茨 城 史 料 ネ ッ ト )」 が結成され、この組織を中心とす る救済活動の事例を紹介されまし た。①茨城県鹿島市龍蔵院文書の 救済(古文書に対する災害対応) 、 ②茨城県筑西市「新治汲古館」の 資料救出(実物資料に対する災害 対 応 )、 ③ 茨 城 県 常 総 市 役 所 行 政 文書の被災とレスキュー活動(行 政文書に対する災害対応)の三つ の事例を、豊富でリアルな写真資 料とともに具体的に説明していた だきました。   最後に、文化財レスキュー活動 の課題について、文化財指定の有 無に関わらず地域の歴史文化を伝 える資料等の救済・保全の上では、 文 化 財 保 護 法 を も と に、 文 化 財 「等」のもつ意味が大きいと述べ られました。資料保存機関は、被 災時のシミュレーションをし、相 互協力のネットワークをつくって お く こ と も 重 要 で、 そ の 際 に 富 史料協のような組織が大きな役割 を果たすことができるとのご指摘 に聴講者の方々は熱心に聞き入り、 活発な質疑もなされました。 富史料協総会 白井哲哉氏

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  五月二十五日(木)の第一回歴 史講座は、開講式の後、金沢市立 玉川図書館近世史料館学芸員の宮 下 和 幸 氏 を お 招 き し、 「 加 賀 前 田 家と北越戦争 」 と題して講義をし ていただきました。   まず最初に、幕末期の藩研究史 の中では、従来は薩長中心史観に よる研究が中心であり加賀藩研究 は十分になされてこなかったこと、 加賀藩は「日和見」というレッテ ルを貼られてきたが、 それは「 (政 治的)無関心」というよりは、旧 幕府側にも薩長側にも 「(政治的) 中立」であらねばならなかった政 治的立場を解説されました。   次に、幕末期の加賀藩の軍政改 革の実態と北越戦争への動員過程 を、詳細な資料をもとに具体的に 紹介されました。   幕末期加賀藩の軍制改革は二期 あり、まず、嘉永~文久期の改革 は、藩主前田斉泰により文久の幕 政改革の影響を受け西洋兵器は導 入するが「夷狄観」により、西洋 軍制には移行しないという判断が なされたことを指摘されました。 その後、慶応期の改革においては、 藩主慶寧のもとで大砲隊の新規編 成や割場附き人数の増員、藩主直 属である旗本部隊の編制や軍制の 銃卒化にともなう足軽組織も改編 (西洋式銃隊編成)がなされたこ となどを説明されました。   元治元年から慶応期にかけて加 賀藩では「攘夷」から「内乱」と いう時代の変化に対応するため、 一層の軍事力の強化が求められた ことや、幕末期の軍制改革の問題 は学問的・軍事的見地にとどまら ず、政治的問題として捉えるべき であることが理解できました。   また、戊辰戦争の意義として、 加賀藩・富山藩の北越戦争への従 軍にみるように、明治新政府の意 向を拒否できない体制が構築され ていく中、新政府による近世的な 個別領主権への介入(藩体制の解 体)過程につながっていったこと を学びました。聴講者からの熱心 な質問もあり、充実した講義とな りました。   第 二 回 は、 六 月 一 日( 木 )、 氷 見市立博物館館長の大野究氏を講 師 に、 「 県 指 定 史 跡   阿 尾 城 の 戦 国史―城跡と城下町の発掘成果と ともに― 」 と題して講義をしてい ただきました。   まず、考古学上の調査に基づく 氷見の阿尾城と城下町の構造や、 能登の石動山に至る大窪道や荒山 道の重要性を指摘されました。   次に、中世、戦国期における阿 尾城主八代氏の興亡や菊池氏の台 頭と活躍を七尾城主の能登畠山氏 との関わりや上杉謙信、佐々成政、 前田利家との政治的・軍事的関係 性から史料に基づき、具体的に説 明されました。   最後に、越中国が前田家支配と なった後、前田家家臣となった菊 池氏の動向や中世の阿尾城下町が 近世阿尾村へと変貌した経緯を述 べられました。   戦国期の日本史の大きな流れの 中で、氷見の阿尾城が政治的、地 勢的に非常に重要な軍事的拠点で あったことを、写真、地図や地籍 図、史料など多様な史資料をもと に、とてもわかりやすく解説して いただきました。地域に根差した 歴史を学ぶ意義を再認識すること ができました。   この後、第三回の歴史講座は、 六 月 十 五 日( 木 ) に 富 山 県 [ 立 山 博 物 館 ] 学 芸 課 主 任( 学 芸 員 ) の 加藤基樹氏による「史料からみる 「布橋灌頂会」 」、第四回は、六月 二十二日(木)に高志の国文学館 主任(学芸員)の大川原竜一氏に よる 「 古代越中国の郡司と地方豪 族 」 、第五回は、 六月二十九日 (木) に富山大学人間発達科学部准教授 の髙橋満彦氏による 「 狩猟と鳥獣 保護を巡る近代史と法令 」 と題し て講義が行われます。 宮下和幸氏(第1回) 大野究氏(第2回)

  新 緑 の さ わ や か な 五 月 と な り 、 今 年 も 県 内 外 か ら 多 彩 な 講 師 陣 を お 招 き し て 、 富 山 の 歴 史 を 様 々 な テ ー マ か ら 学 ぶ 歴 史 講 座 が 始 ま り ま し た 。   今 回 は 、 前 半 の 第 一 回 と 第 二 回 の 歴 史 講 座 の 概 要 を ご 紹 介 し ま す 。 π૨୿᫾↏↷↹

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当館では今年秋に災害をテーマ この「御検使口書写」は砺波郡   その火事は天保六年 (一八三五) 二 月 二 十 一 日 の 夜 四 つ 時( 午 後 十一時頃)に出火し、弥八の祖母 かよ(五十才)と吉住村の清次郎 (五十一才)の二人が焼死体で発 見 さ れ ま し た。 こ の 時、 弥 八 は 十四才で祖母と二人暮らしでした。 吉住村の清次郎とは普段から親し く、市野瀬村へ木を買いに来た清 次郎が吉住村へ帰るには遅くなり 泊まることになったのです。それ で、 清次郎とかよはアマ (天井裏) の藁の中に、弥八は大居(居間) に 寝 て い た と こ ろ、 囲 炉 裏 灰 か ら 火 の 粉 が 立 ち バ ン ド リ に 燃 え 移 っ た の で す 。 梯 子 も 焼 け 落 ち 、 弥 八 は 下 か ら 祖 母 を 呼 ぶ も 一 面 火 と 煙 で 助 け ら れ な か っ た の で し た 。   こ の 時 の市 野 瀬 村 肝 煎 の 清 助 の 行 動 は 素 早 い も の で す 。 ま ず 火 事 と 分 か る と 村 人 と と も に 水 を か け て 消 火 に あ た っ て い ま す 。 鎮 火 し た も の の 焼 死 人 が 出 て 、 し か も 他 村 の 吉 住 村 の 者 で あ っ た の で 、吉 住 村 へ 知 らせ て 吉 住 村 の 村 肝 煎 ら と と も に 現 場 を 確 認 し 、 火 事 の 翌 二 十 二 日 に 郡 奉 行 へ 報 告 し て い ま す 。 そ し て 郡 奉 行 の 指 図 を 受 け て 詳 し い 現 場 検 証 を し 、 弥 八 や 弥 八 の 伯 父 一 家 、清 次 郎 の 倅 平 蔵 に も 家 内 不 和 は なか っ た かな ど と 事 情 聴 取 を し て い ま す 。 明 く る 二 十 三 日 に は 十 村 へ 報 告 し 、 こ の 後 に 遺 体 を 遺 族 に 引 き 渡 し て い ま す 。   当館で目録化に取り組んでいる、 砺波郡御扶持人十村を務めた菊池 家の文書にも火事に関する史料が みられます。天保十年 (一八三九) の十村や肝煎が消火に駆けつける 時の取決書「火事有之節取極」に よると、十村組ごとに決まってい る 色 の 木 綿 に 十 村 組 合 印 が 入 っ た 旗、 十 村 組 名 入 り の 提 灯、 村 名入りの旗と提灯を目印として持 ち、十村一人、手代二人、村役人 五人、人足五〇人が各々の装束を まとい駆けつけることになってい ます。この人足を集めるのも村肝 煎でした。   余談ですが、村肝煎自身の家が 火事になった記録もあります。弘 化二年(一八四五)に渋江村肝煎 与右衛門、同四年には田丸村肝煎 五右衛門の家が火事になっていま す (菊池文書 「旧記   文化 ・ 文政 ・ 弘化襍録」 )。この火事では村御印 と肝煎任命状が焼失してしまいま した。江戸時代の村にとって藩主 から戴いた村御印は非常に大事で、 紛失することは村肝煎の重大な過 失とされていました。この二人の 村肝煎はともに郡奉行所にて詮議 を受け処罰されています。その後、 二人は嘉永元年 (一八四八) と同二 年に改作奉行所へ村御印の再発行 を嘆願し許されています。   このように村で火事が起きた時、 村肝煎は人足を手配して自らも消 火にあたり、火事の後は迅速に現 場検証と事情聴取して十村や郡奉 行へ報告するという八面六臂の活 躍をしています。現代では消防士 や警察が担っている任務に精励し ている村肝煎の姿がみえます。

∼ 火 事 が 起 こ っ た 時 の    村 肝 煎 の 仕 事 ∼ ∼ 火 事 が 起 こ っ た 時 の    村 肝 煎 の 仕 事 ∼ 「御検使口書写」(小山家文書) 「火事有之節取極」 (菊池文書) 「火事有之節取極」 (菊池文書)

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  日本泳法 (古式泳法) について調べている。 富山藩における日本泳 法について教えて欲しい。   日本泳法は、古くか ら武芸の一つとして伝 え ら れ て き た 泳 法 で 〈古式泳法〉とも言います。水泳 のほか潜水や水馬術までも含みま す。武術としての泳法は、河川や 海が多い日本の戦場で当然要求さ れるものであり、その話題は、軍 記物語に多く登場します。しかし、 泳法が武芸の一つとして研究され、 水術という流派として確立される のは、江戸時代からです。   日本泳法の泳ぎ方は大別すると、 ①平体=水面に伏した姿勢あるい は背泳、②立体=立泳ぎ、③横体 =片方の肩を下向きにした横向き の姿勢の三種があり各派が技巧を こらしています。   現在、日本水泳連盟が主催する 日本泳法大会には十三の流派が参 加出場しています。   現存している流派はいずれも武 術として藩の庇護を受けていた流 派であり、その藩も大藩が多く、 国替えもなかった藩のようです。 国替えがなかったので水練場を維 持する事ができました。   富山藩における日本泳法につい ては、富山藩の文武諸芸全般につ いて天保年間に書かれた「諸芸雑 志   巻十三」 (富山県立図書館蔵) に「水練」 、「水馬」の記述があり ます。   時は、江戸時代の後期、美作国 津山藩士名村成敏という侍は、甲 冑を着ても素肌で泳ぐのと変わら ず「陸地を歩くよりも水中のほう が楽で、終日水中にあっても疲れ ることはない」と豪語するほどの 水練の達人で門弟も多くいました。 名村は自らの泳法を 「極泳流」 (か んえいりゅう)と名づけました。   江戸詰の富山藩士であった佐々 木 久 太 郎( 百 輔 ) 庸 長 は 前 述 の 名 村 に 師 事 し て お り、 寛 政 七 年 (一七九五)九月江戸表より富山 へ引越した後、現在の富山市有沢 の川原あたりに諸士を集めて水練 の稽古を始めました。その後、門 弟は二十一人を数え、その中には 林太仲の名も見られます。   当時の水練について「初心者は 水中に舟棹のようなものを立て、 これにつながって顔を水につけて 足を動かし、時には人の手を胸に 当て支えられて手足を動かし、時 折りその手をはずすなどの稽古を 繰り返すと、大体十日で浮くのよ うになる」とあります。記述の中 で佐々木は甲冑を着て神通川を渡 り「格別の疲れを感じなかったが これも練習の賜物」と語る場面も あ り ま す。 「 諸 芸 雑 志 」 の 水 練 の 最 後 に は「 ( 水 練 の 稽 古 が ) 自 然 と相止む、甚だ残念のことなり」 とあり稽古は自然とやらなくなっ た よ う で す。 し か し、 天 保 十 年 (一八三九)に徒組が水練の稽古 を行なうので幕と舟を貸してほし いと願い出た記録(前田文書「越 後出兵二付留」 富山県立図書館蔵) があるので実際はその後も稽古が 続いていたようです。   「富山藩士由緒書」 (富山県立図 書館蔵)によれば、この佐々木久 太郎庸長は「佐々木厺来彦誠之」 という人物のことだと思われます。 彼は天明六年(一七八六)に家督 相続し、天明八年に百石を受けて います。寛政七年(一七九五)に 江戸より富山へ引越し、文化四年 ( 一 八 〇 七 ) に 御 勘 定 奉 行・ 御 倹 約 奉 行 兼 役、 文 化 六 年 に 御 先 手組頭となり、その際、ロシアの 南下に対処して幕府が富山藩に蝦 夷地への出張を命じたためその準 備にあたったりしています。一度 役を免じられるものの、文化十年 には改作奉行・近習頭、文政五年 (一八二二)に若年寄、そして同 九年に隠居しています。つまり、 当時の藩の中枢にいた人物である ことが分かります。また、彼の一 族は馬術に優れていたために三代 富山藩主前田利興の時から召抱え られた一族で、先々代、先代は御 厩才許を務め、彼自身も寛政七年 に大坪流馬術免許を取得していま す(佐々木家文書) 。   以上から彼の本分は馬術にあっ たと思われ、水練は水馬との関係 から学んでいたのではないかと推 測されます。

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明治二十七年(一八九四)に起 明治二十七年七月二十五日豊島 七 連 隊 に 動 員 令 が 下 り、 八 月   私が公文書館・文書館という施 設があることを知ったのは学生時 代のことです。当初は古文書を保 存公開している施設という程度の 認識でしたが、その後、組織の記 録資料を保存するという重要な役 割があることを学びました。富山 県公文書館においては、富山県で 作成された公文書の内、歴史的に 重要なものを保存する役割を持っ ており、実際に明治期からの貴重 な公的記録が保存公開されていま す。現在の県庁舎は、空襲で罹災 しなかったとはいえ、それ以前に 大火での類焼や庁舎からの失火に より多くの文書を失っています。 こうした中で、記録資料が大切に 保存されていることは大変重要な ことです。   私はこうした貴重な公文書を、 平成十二年度と二十八年度、近代 の都市富山を紹介する展覧会で使 用 さ せ て い た だ き ま し た。 特 に 二十八年度の展覧会は、昭和の都 市計画を紹介するものであり、当 時の富山県の動きを知る上で公文 書に残された情報が必要であった ためです。展覧会では添付された 図を中心に写真展示させていただ いたのですが、富岩運河建設およ び神通川廃川埋立工事を写真で記 録したアルバムも、工事の様子を 視覚的に理解していただく上で大 きな効果があったと思います。こ のアルバムは、県庁舎に残されて いた戦前の記録資料であり、近年 公文書館に移管されたものとのこ とでした。公文書館がなければ、 県 民 が そ の 存 在 を 知 る こ と は な かったことでしょう。職員の方々 の日頃の努力が、県庁内での記録 資料の保存へとつながっているの です。 富山 市 郷 土 博 物 館 

線と南北幹線の交差点に位置する 要衝で清国軍はこれを奪還するた めに二ヶ月の間に四回に渡って猛 烈な攻撃をくり返し、第三師団は しばしば苦境に陥りましたが海城 を守り抜きました。翌年に入り攻 勢に転じ、牛荘城を攻撃して激し い市街戦のすえ、三月五日に入城 し、転じて、第一、第三、第五師 団が協力して牛荘城西方の要地、 田庄台を攻撃して三月九日占領し ました。この戦闘は日清戦争の陸 戦中、最も激しい戦闘でした。翌 月明治二十八年四月十七日に下関 条約が締結されて休戦となり、七 月九日から十四日にかけて金沢に 凱旋しました。   この戦役で召集された富山県人 は、陸軍が二三五五人、海軍二三 人、合計二三七八人に及びます。   そのうち戦病者は一六四人に及 びます。明治十年の西南戦争とは 比較にならない大規模なもので県 民の受けた衝撃は大きいものがあ りました。

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月 歴史講座 古文書教室 入門コース 企画展 講演会 古文書教室 初級コース 展 示 催事 講師/宮下 和幸 氏・大野  究 氏    加藤 基樹 氏・大川原竜一 氏    髙橋 満彦 氏

■公文書館催し物案内

7⁄31㈪∼8⁄4㈮ 8⁄31

9⁄7

9⁄14

9⁄21

6⁄1

6⁄15

6⁄22

6⁄29

(募集)

9⁄25 ㈪∼9⁄28 ㈭

10⁄5 ㈭

10:00∼

 11:30

10⁄12 ㈭

10⁄19 ㈭

10⁄25 ㈬

11⁄2 ㈭

(募集) 企画展……テーマ「災害にみる富山の歴史」 講 師/竹橋春江氏(富山地方気象台 防災管理官) テーマ/「伏木測候所の歴史∼地域と共に歩んだ115年∼」(仮題) ※企画展中は土・日・祝日も展示室を公開します。

5 / 25㈭

9⁄28 ㈪∼11⁄3㈮

  常設展……テーマ「富山県の誕生と県政の動き」   富山県公文書館では、古文書な どの歴史資料を保存し、県民の皆 様に利用していただけるよう整理 を行っています。古い資料の保管 や資料の内容についてのご相談な ど、お気軽に公文書館にお問い合 わせください。

企画展のお知らせ

  今 年 度 の 企 画 展 は、 「 災 害 」 がテーマです。近年、自然災害 が頻発しています。富山県は豊 かな自然に恵まれ、観光資源も 豊富ですが、その立地、地形、 気候などは時には災害の原因と もなっています。   先人たちは、こうした様々な 災害に直面しながらも過去の経 験を頼りに災害を乗り越えてき ました。企画展では、江戸時代 から現代までの災害の記録と復 旧・復興に尽力した人びとの努 力の跡をたどるとともに、次世 代に語り伝えることの大切さに ついて紹介します。   多くの方々のご来館をお待ち しています。 (開催期間     九 月 二 十 八 日 ~ 十 一 月 三 日 ) π૨୿᫾↏↷↹

参照

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