ジョン万次郎・平野廉蔵 と 小笠原諸島
―幕末維新期の洋式捕鯨をめぐる一考察
後 藤 乾 一
†John Manjirō, Hirano Renzō and the Ogasawara Islands:
A Study on Western-style Whaling in the Late Edo Period
Ken
ʼichi Goto
The Ogasawara or Bonin Islands and the internationally famous Japan Ground with its sperm whales were a major center for international whaling after the early 19th century. In particular, Chichi-ji- ma, where the first Westerners and the Kanaka ethnic group from Hawaii settled in 1830, took on im- portant functions as an essential watering and fueling post for Western whaling ships in the area north of Guam and Saipan.
During the long period of the closed country policy, Japan restricted foreign interactions, however after lifting the restrictions in 1860s, the Tokugawa Shogunate engaged in continual negotiations with both Britain and the United States over territorial rights to the islands. In addition, Japan started pursu- ing economic profit in this region, adapting modern whaling technology from other countries, and grad- ually considering the islands as a vital front line for coastal defense.
Based on this international environment and Japanese foreign policy, this article empirically exam- ines the following two issues. First, it explores the actual conditions of whaling in the late Edo period
(and the dawn of the Meiji period),with special attention to the role of John Manjirō, a castaway who advocated adapting modern whaling technology and was appointed as the government official for whal- ing, and Renzō Hirano, a wealthy shipping agent from Niigata prefecture. Second, the article examines the socio-economic meaning of whales and whaling for the Ogasawara islands, which Japan officially possessed from 1876.
はじめに
昨2016年10月から12月にかけ,外務省外交史料館において「特別展示 幕末へのいざない」が 開催された。その企画の中で,幕末期の外交文書集成として知られる膨大な『通信全覧』(計320冊),
『続通信全覧』(計1784冊)に収められている関係史料をもとに「小笠原島への巡検」と題した展示 も幕末外交の重要な一コマとして紹介された(1)。
明治政府が小笠原諸島の管治(領有)を各国駐日公使に通告するのは明治9(1876)年10月17日の ことであるが,幕末期においては同諸島の帰属をめぐって主に英米両国とのきびしい外交折衝が繰り 広げられた。後述するように幕府は文久元(1861)年末,外国奉行水野筑後守忠徳を長とする小笠原
† 早稲田大学名誉教授
諸島「回収」のための調査隊を派遣した。この「回収」という言葉が用いられたのは,本来日本の「固 有の領土」であるにもかかわらず,現実には他国が領有権を主張し,あるいは1830年以降,同島に 欧米系住民・カナカ系(太平洋諸島の諸民族の総称)住民を構成員とする小規模ながら定住者社会が 実在していることについての認識があったためである。幕府が「回収」を唱えたのは,同諸島への漂 流から自力帰還を遂げた紀州船一行の証言をもとに延宝3(1675)年長崎代官末次平蔵の船頭,堺出身 の島谷市左衛門らを現地巡検させ,そこに「此島大日本之内也」と記した標識を建てたことを根拠に
「無主地先占」の権利を主張したためだった。しかしながら,欧米諸国とりわけイギリスは,幕府が それ以降小笠原諸島を放置したままであり,何ら実効的な統治も開発も行っていないことを理由に日 本の領有権を否定しようと試みたのであった。水野一行総勢90余名を乗せた咸臨丸の派遣は,その ような国際環境下での「回収」事業の具体化であった。
この「回収」と同時に幕府は,領有権の裏付けとするべく「開拓」事業に向けての着手も視察団の 任務とした。そしてその「開拓」の重要な柱の一つとされたのが,同島周辺海域における捕鯨であっ た。捕鯨の必要性は,水野視察団に通訳(兼航海術専門家)として加わった元漂流民ジョン万次郎が かねがね幕府上層に建議していたことであった。しかも万次郎はその3年前,「鯨漁御用」としての 地位を幕府当局から与えられていた。本稿は,幕末期小笠原諸島をめぐる論議の中で重要な政策課題 となっていた捕鯨を,それに深く関わったジョン万次郎ならびに平野廉蔵という二人の人物の軌跡を 追う形で試論的に考察するものである。
ジョン万次郎こと中浜万次郎(1827‒1898)と平野廉蔵(1829‒1882),二人は今日その知名度にお いて天と地ほどの差があるものの,ともに江戸時代後期に生まれ,幕末維新期の激動をそれぞれの才 覚と努力によって生き抜き,近代日本の黎明期に異彩を放った人物である。万次郎は太平洋に面した 土佐西部の小さな漁村,中の浜(現高知県土佐清水市)の貧しい漁師の子として生まれた。14歳の 少年時代に漂流漁民として仲間とともに鳥島で米捕鯨船に救われた後,その船長に見込まれ10年に わたる稀有の異文化体験をもったことで知られる。この体験を通じ,数学や天文学を駆使した航海 術,造船技術,捕鯨技能を習得した万次郎は,帰還後は語学を武器に通訳として幕末外交の現場に立 つとともに鯨漁御用として日本における近代捕鯨の基盤づくりに貢献した。万次郎については,漂流 から帰還した当時を含め日米両国で汗牛充棟ともいえるほどの評伝,啓蒙書,研究書等が出版され,
その中で研究史的にも相当の蓄積が残され今日に至っている。
他方,万次郎と対照的に,日本海を前にした北越村松浜(現新潟県胎内市)の富裕な廻船業者の家 に生まれ,若くして長崎,江戸に遊学した地方知識人平野廉蔵は,江戸で江川坦庵(英龍,第36代 太郎左衛門)が開いた英学塾で万次郎から英語を学んだことを契機に,2歳年長の師と終生変わらぬ 信頼関係で結ばれる。この万次郎との関係を通じ平野は,新興アメリカの近代文明の諸成果を学び,
産業や技術の重要性に目を開かれた。ともに海と親しみながら育った二人にとって,おそらく捕鯨は 共通の関心事であったことと思われる。この邂逅を通じ両者は,日本における最初の洋式捕鯨の実践 に乗り出すことになる。その捕鯨活動の主舞台となったのが,小笠原諸島及びその周辺海域であっ た。いわば鯨を介して南国土佐人中浜万次郎と北国越後人平野廉蔵が,運命的な出会いを持つことに なった。ちなみに万次郎の郷里土佐では「鯨一頭で七里栄える」といわれるほど鯨は貴重な生物資源 であった。また平野の出身地越後には,鯨波,稲鯨といった鯨にまつわる地名も多く,鯨がかつて
人々の生活に密接に関わっていたことを物語っている(2)。
1. 洋式捕鯨の導入
18世紀後半以降,世界の捕鯨業の中心は,ヨーロッパ諸国から独立まもないアメリカに移ってい た。万次郎を救助したジョン・ホーランド号のW・ホイットフィールド船長の出身地マサチュー セッツ州フェアヘヴンも,ナンタケット島,ニューベッドフォード等とともに殷賑をきわめる捕鯨基 地として知られた。これらニューイングランド沿岸の捕鯨基地を出港した大型捕鯨船が太平洋に達 し,常陸,三陸沖を中心に日本近海にも姿を現すのは1820年代以降のことであった。その嚆矢は 1819年6月,ナンタケット籍のマロー号である。米捕鯨船は母港を出てから出漁を終え帰港するま でしばしば3, 4年を要したが,万次郎らを救ったホーランド号も,1839年10月にニューベッド フォードを出港し,2761バレルの抹香鯨油を収獲して帰港したのは3年半後の1843年5月のことで あった(3)。
当時欧米世界では鯨油は蠟燭の原料,灯油,機械油として,石油発見(1859年,ペンシルベニア州)
まで最も重要な燃料資源,生活物資であった。とりわけ良質の鯨油を産することで知られるマッコウ クジラ(抹香鯨)は欧米捕鯨船の最大ターゲットであった(4)。アメリカの捕鯨が全盛期にあった 19世紀中葉を背景とし自身も捕鯨船乗組員であった作家H・メルヴィルの『白鯨』は,巨大なマッ コウクジラとの壮絶な物理的かつ心理的な格闘を臨場感あふれる筆致で描いた名作である。それはま た日本の各地にみられる伝統的な捕鯨技術,さらには鯨と人との関係性についての文化とは大きく異 なる洋式捕鯨の本質を仔細に描き出している。ジョン万次郎は,そうした洋式捕鯨を身をもって体験 し,それがもたらす莫大な利益と高度の航海術の魅力にとりつかれた最初の日本人であった(5)。
太平洋における欧米諸国の捕鯨の最大の中継地は,捕鯨船に乗り込んだジョン万次郎もたびたび寄 港したハワイ諸島オアフ島のホノルルであった。そのハワイ諸島から操業海域を西方へと広げた欧米 捕鯨船にとって,小笠原諸島とりわけ父島二見港はグアム,サイパン以北の「最後の薪水補給港」と して1830年代以降重要な位置を占めた(6)。小笠原諸島が最終的に日本の主権下に組み込まれるのは 明治9(1876)年であるが,そこにはすでに1830年にハワイを出港した,欧米に出自を持つ5人の男 子,および彼らにリクルートされた20人(男7人,女13人)のカナカ人が,最初の居住者として 移り住んでいた。その後もこの海域での捕鯨業の隆盛につれ,小笠原諸島には「入植者・逃亡者・漂 流者・掠奪者」等多彩な背景をもった人々の出入りがあり,その一部は定住していった(7)。彼ら最初 期の定住者は,寄港する欧米諸国の捕鯨船を相手に食糧や生活必需品を提供するなどし,小規模なが ら自立的な経済生活を営んでいた。日本は領有権獲得に際し,彼ら先住者の経済的既得権を承認する ことを条件に欧米諸国を納得させたのであった。
距離的にみれば,この諸島に当時領土的関心を示したイギリスやアメリカ(ペリー艦隊)に比べ,
日本からの方がはるかに近いというものの(東京・父島間は約1000キロ),また幕府は帰還した難 破船の情報をもとに1675年巡検使を派遣し日本領として認識していたものの,それ以上の具体的な 進出を試みることはなかった。しかしながら,天保10(1840)年漂流先の小笠原諸島から帰還した陸 奥国小友浦(現岩手県陸前高田市)の船頭三之丞らから聴取した情報,訳出されたペリー日本訪問記,
さらには長崎のオランダ商館からもたらされる『オランダ風説書』の情報等から,同諸島には欧米系,
カナカ系を中心とする定住者が存在することを知るようになる。さらに1851年帰還し幕臣となって いた万次郎がもたらしたナマの情報も,幕府の憂慮と関心を一層深めたものと思われる(8)。万次郎自 身は後述するように米捕鯨船フランクリン号乗組員として弘化4(1847)年5月,父島に10日間ほど 滞在した経験をもっていた。この時の経験が,後年幕府の「鯨漁御用」に任じられ小笠原近海での捕 鯨に関与する伏線となった。
文久元(1861)年12月に至り,前述したように幕府は外国奉行(1858年海防掛から改称)水野筑後 守忠徳を団長とする視察団を小笠原諸島へ派遣し(「伊豆国付島御備向取調並ニ小笠原島御開拓御 用」),「回収」の第一歩を踏み出した。翌年4月に江戸に戻った水野はその復命書の中で,「回収」後 の「開拓」において捕鯨業が重要かつ有望であることを建議した。そうした進言にもとづき,同月幕 府は,全国に小笠原諸島近海での捕鯨を奨励する布告を出した(9)。水野視察団が乗った咸臨丸には中 浜万次郎が通訳として加わったが,彼の体験に裏打ちされた進言が水野に一定の影響を与え,それが 幕府の積極的な捕鯨振興政策につながったと考えられよう(10)。
2. 「鯨漁御用」としての幕臣中浜万次郎
ジョン万次郎の数奇な運命は開国直後の日本人に驚きの念で迎えられ,帰還直後の嘉永年間のみを みても『亜羅周遊奇談』『漂流万次郎帰朝談』『土佐漂流人口書』『万次郎物語』等数多くの関係読物 が出版された。当時の相対的に高い識字率を背景に,庶民レベルでも広く流布したこれらの読物は,
黒船来航以来とみに高まっていたアメリカはじめ異国への素朴な好奇心を刺激するものであった。
漂流少年漁師万次郎は,彼らを救助した捕鯨船長ホイットフィールド一家の庇護を受け,地元の小 学校を卒業後バートレットの専門学校に進学し測量術や航海術を学ぶ。そして「養父」の影響もあり,
早くから捕鯨を志すようになる。幸い太平洋捕鯨の全盛期であり,日本近海で操業予定のフランクリ ン号に乗船を許される。当初は事務員として雇われたが,やがて航海術,捕鯨技術さらには統率力が 評価され,また英語でのコミュニケーションにも何ら問題なく,銛手ついで一等航海士として活躍の 場を与えられるようになる。フランクリン号は鯨を追い求め世界の海を航海するが,1847年2月に はオランダ領ティモール島西部(現インドネシア。東部はポルトガル領,現東ティモール共和国)
クーパン港着,薪水や食糧補給のため約1ヵ月滞在する。おそらくティモール島に足跡を印した日本 人の最初の記録といえよう。地元諸民族の他にオランダ人,インド人,「支那人」などからなる多民 族社会を形成していることに興味を覚えるが,万次郎は「風俗は蘭領なれば自然オランダ化し居り
(11)」と観察している。
ティモール島を出港したフランクリン号は北上し同年3月グアム島を経て小笠原諸島の中心,父島 二見港(ロイド港)に投錨する。10余年後,「鯨漁御用」として再訪することになるその島の印象を,
万次郎は帰還後の証言の中でこう述べている。「此島近比迄無人島なりしが,今僅に裸島及ひ其他の 諸所より四,五十人許の人来り,之に居住し芋類の諸物を耕作すと云。渇留・十日にして水を取,こ れを出帆せり。此処にて四年前の事なりし,(欠字)日本の漂船あり。其船人等悉く死亡し,唯一名 余見しを「イシハニシ」舶に助命られ終に此に止りしが,其人共駆使れるの苦しさを厭とひ,独小船 を盗乗其終る所を知るものなしと聞けり(12)。」
万次郎はフランクリン号をおりた後,ゴールドラッシュにわくカリフォルニアに赴き数ヵ月間働い
て大金を手にする。そして1851年,望郷の念やみがたくハワイに渡り,その地に残っていたかつて の漂流仲間二人と上海行きのサラボイド号に乗り込む。同号が東シナ海に入り沖縄本島最南端の沖合 を通った時,万次郎らは船長の了解をとりつけ,小舟に乗り換え摩文仁の小渡浜(現糸満市大度)に 上陸する(13)。開国前夜のきびしい掟にしたがい「密出入国者」として拘束され,薩摩支配下にあっ た琉球王国(那覇),薩摩,長崎と連行,長期にわたる取調べを受けた後,24歳となっていた万次郎 は10年ぶりに生地中の浜に帰郷,母親ら家族,村人との再会を果たした。異国についての豊富な情 報,航海術,捕鯨についての専門知識,そして高度な語学能力等を認められた万次郎は,土佐藩に召 し抱えられ徒士格として末端ながら武士階級の一員に取り立てられ,藩の教授館に出仕した。万次郎 はそこで英語やアメリカ事情を講じるなど,これまでとは異次元の世界への第一歩を印すことになっ た。
10年間故郷と絶縁し,異郷の地で生きた万次郎であったが,学校生活を含めアメリカ大陸で暮ら したのは約3年のみで,その2倍の歳月を捕鯨船上で過ごしたことになる。この点を重視する歴史社 会学者石原俊は,「移動民」という概念を軸に小笠原諸島近代史を考察する中で万次郎の足跡に着目 しつつ,基本的に「小笠原諸島に集まってきた人びとと共通した経歴を持つ移動民(14)」として万次 郎を位置づけている。
本質的には主権国家の枠内に安住するよりも空間的にも精神的にも国家の束縛を好まない性格を有 する「移動民」性を内包しつつ,万次郎はその特異な体験と能力の故に幕府=「国家」が必要とする
「定住者」へと変身していく。中浜姓を許され土佐藩に仕えて約8ヵ月後,江戸の幕府中枢から万次 郎に召し抱えの通達がくる。その契機は,ペリー率いる米東印度艦隊が最初に来航した嘉永6(1853) 年に海防掛として幕政に参加することになった韮山代官第36代江川太郎左衛門(英龍,号坦庵)の 要望であった。江川は林大学守韑あきら(号復斎)ら幕閣に対し,万次郎登用の進言を行い,その結果,同 年6月22日付達書で老中阿部正弘は,江戸在住の土佐藩留守居役広瀬源之進を通じ万次郎の呼び出 しを命じた。その令書は,「外国の様子等相尋候儀も可有之候間」,万次郎を江戸へ出立させられたし との文面であった(15)。また開国派の儒者・砲術家大槻盤溪も,「土佐漂流人万次郎儀は頗る天才有之 者(16)」と林大学守を通じ幕府に推挙していた。
韮山を拠点に伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地を管轄下においた江川英龍は,海防 掛に任じられる14年前,天保10(1839)年,海防の急務を痛感する幕府の命を受け,目付鳥居耀蔵を 正任とする江戸湾沿岸測量調査の副任をつとめるなど,つとに海防に深い関心を有していた(17)。こ の調査の正任となった鳥居には「御上下御同勢35人」,副任の江川には「御上下拾人」が配され,さ らに測量方も加わるなど大がかりな調査隊が編成された。韮山代官という地方行政官であった江川が この役に任じられたのは,勘定所にあった開明派幕閣・川路三左衛門(聖謨)の推薦によるもので あった。川路は同年12月3日夜付けの江川宛書簡の中で,「近来右之場所え度々異船渡来いたし候ニ 付御備え様子御取調」を,と江川に打診している(18)。またそれに先立つ天保8年に江川は,「伊豆国 御備場之儀ニ付存付申上候書付」と題した長文の建議書を勘定所に提出している。その冒頭には伊豆 の置かれた地政学的位置に関連し,こう述べられている(19)。「伊豆之為州哉,南太平洋ニ張出,三面 海ヲ環シ,北方纔カ接相駿,西ハ対駿州,東北ハ房州ニ相望,南ハ極天無際之大海ニシテ,七島及小 笠原諸島ノ外,復一片之土壌無之,……誠ニ僻遠偏小之州」ではあるが,江戸防備の観点から海防上
きわめて重要な地位にあると強調する。さらに江川は捕鯨にも着目し,「大島沖には鯨多く御座候由,
右ハ御手獵ニ相成候ハバ宏大之御利益可相成,右鯨油之江戸廻リ之上,御払相成候ハバ,灯油の辨理 も宜可相成奉存候」と述べるのであった。
19世紀に入って活発化する欧米諸国の日本近海への接近を見やりつつ,海防と捕鯨を不可分なも のとみる認識方法は,ひとり江川のみのものではなかった。後に江川塾の学頭を務める仙台藩出身の 儒者大槻盤溪もその系譜に連なる知識人であった。そして,彼らの考え方に少なからぬ影響を与えた のが,『鯨史考』(全6巻,国立公文書館所蔵,1808年)の著者で盤溪の再従兄である大槻清準(仙 台藩学校養賢堂学頭)であったといわれる。『鯨史考』の成立過程については森・宮崎著『鯨取りの 社会史』で詳細に論じられているが,そこで引用された次の一節が,捕鯨と海防の関係を明快に示し ている(20)。「地勢ニヨリテ海防ノ備ニハ鯨組ヲ設クルニ如ハナシ,無事時ハ,鯨ヲ漁シ,万事ノ出来 ラン時ハ水戦ノ用ニ備ヘナハ,海防畢竟ノ武備ト言フベシ,凡船ノ堅固ナルコト鯨船ニ若クハナク,
漕行コトノ疾速ナルコトモ亦鯨船ニ如クハナシ,コレ軍用ニ備ル究竟ノ船ナリ,銛モ戈戟ノ用ヲナス モノナリ。」
また江川は,海防との関連で品川台場や韮山反射炉の築造,大砲鋳造,洋式艦船の建造など先進的 な大事業に取り組み,「日本の産業技術近代化の一源流(21)」となった技術テクノクラートでもあった。
そうした開明的技術官僚であり高島秋帆などから近代砲術を学んだ江川には,アメリカから帰還直後 の万次郎はきわめて魅力ある存在に映じたと思われる。そのため万次郎の江戸到着を待って江川は,
「(土佐山内侯の)小人中浜万次郎私方え借請之儀ニ奉願候」と要望したのだった(22)。
こうした江川の熱意がかない,万次郎は嘉永6年11月22日付で「御代官江川太郎左衛門手附」
として本所南割下水(現墨田区両国)江川家江戸屋敷に居を移すと共に,江川に同行し伊豆韮山とも 往来し,そこにも活動拠点をもつことになる。進歩派知識人として開国後の世界情勢とりわけアメリ カの動向に深い関心をもつ江川は,同年10月,万次郎からの聴取をもとに「松平土佐守小人中浜万 次郎北亜米利加在留中様子相尋候趣申上候書付」を作成している(23)。ここでは多方面にわたる質問 を万次郎に発し,万次郎も我が意を得たりとばかり明快な回答を返している。こうした接触を通じて 得た万次郎の学識と人間性への信頼感が,万次郎登用の決め手になったことは確かであろう。いわば 万次郎は,江川にとって「翻訳官兼外交顧問」というべき存在となった(24)。
江川が万次郎に発した質問はきわめて具体的で,まさに「米学事始」の感があるが,そのいくつか を以下に記しておきたい。「米国の位置及国状の概要」「米国独立共和政治」「米土人種」「米国政体州 政自治」「米国国書〔ペリーが提出した〕中にある大統領及使節のこと」「日本に親交を求むる所以」「通 商を請ふ趣意は知らず」「石炭のこと」「九州の一港借受け度きこと」「琉球受入の説なし」「造船術」「砲 術熟練」「港の防備」等々,軍事・政治・社会・経済等きわめて多岐にわたり万次郎の回答を求めて いる。ここでは捕鯨との関連で万次郎が述べた言葉を二点,原文のまま紹介しておきたい。
第一は在米中の捕鯨体験に関するもので,こう述べられた。「在留中彼国鯨漁船に乗組, 御国近海 大東洋は勿論南北太平洋,大西洋,大南海等度々通行いたし,天度の測量は勿論,帆遣い方等悉覚居 候間,大船さへ有之候へば,何れ之国へも航海相成候由」。
第二は英語に対する万次郎の自負である。「彼国在留或は鯨漁乗組漁事に出,都合拾一ヶ年の間彼 国人と相交り,且書籍文字をも学ひ候間,彼国の者に応接亦は通弁等之儀,如何様入組候事にさえ相
辨候由。」
これらの言葉の端々から26歳の元漂流漁師中浜万次郎の捕鯨,測量術,航海術,そして英語に対 する並々ならぬ自信と自負が汲み取れる。もちろん江川による一種の「面接試問」であり答える万次 郎に気負いがあったかとも考えられるが,それにしても10年間の体験にもとづく確固たる自信がな ければこうした言葉は口をついて出ないであろう。
逆にこうしたアメリカとの深いつながりが,強硬な姿勢で開国を迫るアメリカへの反感と相まっ て,幕府上層の一部に万次郎に対する警戒心を呼び起こしたことも事実であった。そのことは,とり わけペリー再訪に備えての通訳人事をめぐって露呈した。米艦隊進入の阻止交渉を受命した江川は,
当然のことながら万次郎を英語通訳(前年はオランダ語通詞による複線型折衝)として登用したいと 考えた。しかしながら,これには水戸の徳川斉昭ら保守派要人筋から強い異論が噴出し,結局ペリー との第2回目の折衝において,万次郎登用は見送られることになった。この間の経緯を概観すると,
ペリー来航中の安政元(1854)年正月23日,万次郎登用を進言した海防掛江川に対し,老中阿部正弘 は万次郎については江川が引き受けているので「反間」(スパイ)の心配はないものの,「異人」が船 中で彼を連れ去るかも知れず,また「水戸烈公や他の老中」の間にも起用反対の声が強いので通訳と して同行させるのは見合わせた方がよかろう,との書簡を届けている。これに対し複雑な胸中を抑え つつ,江川は「御書取の趣承知」した旨,阿部に返書をしたためたのであった(25)。開明派の江川に 対し高い評価をしていた阿部でさえ,根強い攘夷派勢力にはさまざまな面で譲歩せざるを得なかった 事実を象徴的に示した一件であった。
対米交渉における通訳との関連で付言するならば,それから6年を経た万延元(1860)年の軍艦奉 行木村摂津守を全権とする咸臨丸での訪米使節団においても,万次郎の登用については,彼の「アメ リカ教育」故に異論が出た。とくに前年,横浜碇泊中の外国船に招かれた科で軍艦所教授方を罷免さ れたことも,万次郎登用への反対論の一因だった。しかし「(万次郎は)英語通弁は勿論,兼ねて船 働きも仕り候者に付き」という木村の強い推挙で公式通訳としての登用が決定した。そして帰国後の 万次郎は,幕府から次のような感状を銀30枚と共に下賜されている(26)。「亜墨利加国え御軍艦被差 遣候儀は御用初以来初而之事ニ候処,数千里之航海無滞御用相勤格別骨折候ニ付別段為御褒美被下 之」。
その後万次郎は江川の手附として江川塾で英学を講じる一方,江川歿(1855年)後は川路聖謨ら 開明派の幕府要人に対し捕鯨の重要性を進言し続けた。捕鯨は経済的に国益に寄与するだけでなく,
航海術の進展,船員訓練に資するというのが万次郎の一貫した信念であった。そして安政4(1857) 年,川路の同意を得,箱館奉行の下で捕鯨法の伝習にあたることを命じられた。これは不首尾に終 わったものの,日本がアメリカ式捕鯨に着手した最初の事例であった。こうした経緯をふまえ安政 6年,万次郎は幕府の鯨漁御用に任じられた(27)。鯨漁御用万次郎が最初に乗り組んだのは,捕鯨装 備を整えた70トン弱の帆船であった。この船はロシアのスクーネル船をモデルにしたもので,建造 された西伊豆君沢郡(現静岡県沼津市戸田)の名をとり「君沢型壱番御船」と命名された(28)。同年 3月,壱番御船は品川から小笠原近海へ出漁するも,乗組員の技術未熟に加え暴風のため断念し下田 に帰着した。このことから万次郎は,本格的な捕鯨船の必要性を痛感することになる。そうした折に 平野廉蔵との協力が具体化することになる(29)。
江川塾で万次郎門下生となった青年には,大鳥圭介,細川潤次郎,箕作麟祥,伊澤修二ら維新後の 各界で指導的地位についた者も少なくなかった。幕臣でも士族でもなかったが,北越出身の平野廉蔵 もその一人であった。次章で述べるように平野と万次郎は近代捕鯨の導入を企画し,実践に移した先 駆であり,結果的には顕著な成果を収めたわけではなかったが,日本の捕鯨史の中で重要な位置を占 めることになる。この二人が幕府の支援をとりつけ積極的に捕鯨に乗り出すのは江川坦庵歿後のこと であったが,興味深いことに江川は,それより以前に捕鯨について幕府の諮問に答え私見を述べてい た。それは江川が江戸湾測量を命じられたのと同じ天保10(1839)年のことであった。同年5月に幕 府に上申した江川の「書付」には,「鯨多候由」といわれる「伊豆,相模,上総国」における捕鯨の 実態が報告されている。たとえば「関東之内,房州平群郡勝山,岩井袋両村而已ニ而先年より鯨漁仕 来,尤鯨之種類数品有之,右両村においては多くは追棒と唱候を漁し,小振には候得共,格別利益ニ 相成候由,年柄気候により多少有之拾ケ年平均壹ケ年ニ拾尾位宛漁シ得候趣ニ御座候……」と述べら れている。また大島の鯨漁については,「漁船壹艘ニ付,乗組七人より拾貳人迄,拾艘より貳拾艘迄 を壹組ニいたし,もり数本突込漁業仕候由」とその漁法が描かれている(30)。もちろん当時の捕鯨は 日本の各地特有の主に近海を漁場とする伝統的な方法であり,後年,日本が導入しようとした大型母 船に4艘のボートを積み,鯨を求めて3年余の航海に出る洋式捕鯨とは質量とも大きく異なるもので あった。
ところで同じ天保年間,平野廉蔵の郷土に近い新発田藩の「御触書」の第1項は「油の論」と題さ れ鯨油に言及している。そこでは害虫駆除のため水田に油を注ぎ入れる農法を伝えているが,その油 について以下のように鯨油の効能が特筆されている(31)。「鯨油を最上とし五島,平戸,熊野其外伊予 より出るもの正真なり。値段は四斗樽入銀百目前後,一升二文目五分位。雑魚油は鰯,鱶,鮪の油最 も多し。一反に鯨油五合入るべき処へハ一升余も入れざれば其功に対しかたし。但,雑魚油と見分る 事専要なり。雑魚油は濁りてくさし,鯨油は清くしてくさからず。」
稲の害虫駆除のための注油は,17世紀後半から九州北部でみられたが,広く各地に広がったのは 新発田藩「御触書」に先立つ文政9(1826)年,大蔵永常の『除蝗録』を契機にしてのことだといわれ る。『農家益』『広益国産考』等多くの著作を著し「放浪の農学者」と評された大蔵は,同書で「蝗ムシを 去に用ふべき油ハ鯨油を最上とす」と記し,以来「鯨油の除蝗薬としての利用の広がりは,西海地方 の捕鯨業の繁栄と重なって」いった(32)。
3. 文人起業家・平野廉蔵と捕鯨
平野廉蔵は北越の日本海沿岸に約16キロにわたって点在する五つの浜の一つ,村松浜に豪商の次 男として文政10(1827)年に生まれた。この地方は江戸時代の東廻回船,西廻回船を中心とする海上 交易の発達の中で蝦夷地(北海道)方面へ進出する廻船の基地として栄え,各浜に富豪が輩出した。
平野家もその一つで,当主は代々安之丞を名乗った。
廉蔵にとって祖父にあたる平野藹臣(5代安之丞,号鷗邊)は,漢詩に長じた文人気質の知識人と して名をはせ北越の名士としてこう紹介されている(33)。「豪邁敢為。夙に海外の事情に通じ肇めて洋 製に傚うて三桅檣船を造り北海に貿易す。……其の事跡,詳ならずと雖も勘察加〔カムチャツカ〕に 往来露人と貿易して巨利を博し,其家多く異宝を蔵せりといふ。」また藹臣には七言絶句五十首をお
さめた『鷗邊詩鈔』と題した漢詩集が遺されているが,そこに序を寄せているのが頼山陽の息子頼三 樹三郎である(34)。
平野家長子の家系は1897(明治30)年に絶えているが(廉蔵は生涯独身であったが,兄世寛の二男 為信を養子とした),かつて平野家があった海岸近く落ち着いたたたずまいの町の一角には,同家の 事蹟に触れた石碑が建っている。またその生家近くには金刀比羅神社が建立されており,それを取り 巻く堀の美しさでも知られる。毎年8月19, 20日には金刀比羅祭りが開かれ,集落の人たちの安寧 祈願の場となっている(村松浜の小林博実氏からの聞き取り,2017年4月5日。筆者も2017年8月 19日,同地を再訪した。)。この金刀比羅宮は,第4代安之丞が天明8(1788)年,海上安全の信仰対 象として四国本社(讃岐)から分霊し勧請したものであり,往時の平野家の栄華を物語る貴重な歴史 遺産となっている(35)。
平野家の素封家ぶりを示す史料として,幕府の海防強化策と関連した「越後国蒲原郡上金者名前書 上帳」と題した文書がある。ここには「異国船渡来ニ付御上金書上名前帳」として寄進者の氏名が記 されている。いわば「国防献金」の江戸時代版といえるが,廉蔵の父平野世秀(第6代安之丞)は市 嶋徳二郎と共に金千両という大金を寄進し,首位の座を占めている(36)。
廉蔵は32歳の若さで夭折した世秀(号橘堂)を6歳で継いだ7代目当主世寛の実弟であるが,幼 少時から脚疾のため歩行困難で,長じてその治療をかね兄世寛の勧めで長崎に遊学する。20歳代後 半のころと思われるが,長崎で頼った医師が後述のイギリス人医師で石油に関する知識も持ち合わせ ていたといわれるシングルトンであった。世寛は蝦夷地(北海道)でのロシア人との貿易で巨富を得
(37),当主として聡明な弟廉蔵に期待をかけたのであった。知的好奇心旺盛な廉蔵は,長崎で蘭学に 親しむ中で西欧近代文明の一端に触れて帰郷する。まもなく北越の地にもジョン万次郎の盛名が届く ようになると,廉蔵は新たに英学への関心を押さえがたく,安政4(1857)年頃従僕一人を伴い江戸に 出立し,江川塾の門を叩く。日々師ジョン万次郎と接する中,英語やアメリカ(欧米)世界への関心 をふくらませると同時に,万次郎が説く捕鯨の重要性にも急速に目を開かれるようになった。また越 後で人々の間で「燃え水」と呼ばれた水が石油という物質であることも万次郎から学び,後年探油に も事業の手を広げるようになる。
前述した壱番御船による小笠原諸島近海への航行が頓挫した直後,安政6(1859)年に書かれた万次 郎の肉筆日記が,7月から10月までであるが中浜家に残されている(38)。その万次郎日記には,英語 を学びに江川塾を訪ねる多くの知識人との往来に加え,平野との交遊や捕鯨準備に関しての記述もし ばしばみられ,貴重な史料となっている。そのいくつかを記しておきたい。7月28日「日記」には「廉 蔵之願書〔捕鯨〕を御代官里見源左衛門より御陣〈甚〉所へ御差出相成候由承之」とあり,平野が万 次郎を通じて(もしくは万次郎の意をうけ)鯨漁願いを幕府に提出したことがうかがわれる。ついで8 月13日には暴風雨も止み,夜「八つ時頃より晴天にして風和らき,夕方より平野廉蔵旅宿へ罷出候 事。」
8月14日 「……七つ時より川路左衛門尉〔聖謨〕御屋敷へ。夜入帰宅。山田熊蔵来り平野廉蔵 并小寺太純英学之ため罷出候事。」
8月15日 「……為舟遊為誘平野廉蔵宅へ罷出候事。」
8月16日 「晴天にして風和き。君沢形壱番御船へ罷越,右御船間敷を取操練所へ書出置候。」
9月2日 「昼後より細川潤次郎同道ニ而土州〔土佐藩〕上屋敷へ罷出,乍序時貳つ平野廉蔵へ 返済致候。」
9月3日 「平野廉蔵儀拾三両之時皆買得候事。」
10月3日 「英語稽古有之,根津金次郎,箕作貞次郎[麟祥],大鳥圭介入来之事。……平野廉蔵 宅へ罷越直帰宅。」
10月4日 「夜入平野廉蔵旅へ参り,其より大鳥圭介宅罷出候事。」
10月18日「平野廉蔵宅江参り候事。」
身分的には門下生である平野の逗留先をしばしば訪ね,捕鯨計画等につき親しく意見を交わしてい ただろうことがうかがわれる(その他,「日記」には前述した英語を学びに来た大鳥圭介,箕作麟祥 らの名が数多く登場するが,その中で圧倒的に多いのが土州御屋敷に住む同郷の細川潤次郎である)。
万次郎の強力な支援により捕鯨操業許可を求めた平野であったが,幕府から3年の試験操業の許可 がおりたのは文久元(1861)年に入ってからのことであった。それは最初の3年間は無税とし,4年目 から運上金支払いの義務を課すものであった。平野は兄世寛の資金協力を得6万8千両の巨費(39)を 投じてオランダ船を購入し捕鯨用に改造,これを壱番丸と名づけた。その際万次郎は前回の試験捕鯨 のとき新調させ海軍方に預けてあった手投銛,大切包丁,さらには前述した水野筑後守忠徳を団長と する視察団の一員として小笠原を訪ねたとき,欧米系住民から買い求めた捕鯨銃,炸裂銛5本も借り 出すなど準備に余念がなかった(40)。
水野調査団が乗り組んだのは,アメリカから帰国したばかりの咸臨丸であったが,現地での欧米系 住民との折衝のために万次郎も通訳として乗り組んだ。帰任後の意見書の中で水野は,領有確定後の 小笠原諸島開拓の一環として捕鯨の必要性を強調した。同行した本草学者小野苓庵も,団長水野と同 様「小笠原島近海鯨漁之儀ニ付申上候」として書付を提出した。その中で小野は「鯨漁ノ儀」こそ日 本の物産政策に資するものでありながら,同島海域においてはアメリカ捕鯨が活発であるのに対し,
日本は捕鯨器械をもたないため操業に着手できず「大利」をむざむざ外国人に与えているのは「遺憾 至極」であり,なんとかして日本の鯨漁を盛んにすべきと具申した。そしてそれには越後の平野廉蔵 のような「鯨漁稼方有志の者」を募り,アメリカ人からの技術移転をはかったらどうかと提言す る(41)。これには「鯨漁稼方有志ノ者募集」の「御触案」が添えられた。
捕鯨事業をめぐるこのような流れを背景に,幕府は平野兄弟の捕鯨企画をいわば政府プロジェクト の形で取り込んでいくことになった。それが,咸臨丸が小笠原諸島から江戸に帰った後に平野の出願 が承認された要因だと考えられる。ただ廉蔵の良き理解者であり,船購入に巨費を提供した支援者で もあった兄世寛は,壱番丸出航をみることなく文久2年6月病歿している(同年7月には万次郎も,
悪性はしかで妻てつを喪っている)。
ここで平野廉蔵と同じ村松浜出身の郷土史家渡辺孝行の発掘した地方文書に依り,前後の状況をみ ておきたい。それは西頸城郡能生町鬼舞で代々庄屋をつとめ,また数艘の所有廻船で関西から蝦夷地 まで広く交易を行っていた伊藤家の文書である。その史料の一つは文久2(1862)年1月付の「御用扣 庄屋惣右衛門」と題されたものであり,そこには「越後国蒲原郡村松浜の百姓安之丞〔世寛〕と弟廉 蔵」がオランダ商船を買請け文久元年北海路筋で試験的な捕鯨操業を行っていること,操業で獲物が あった場合は最寄りの湊,浦々へ入船し,その場で入札,販売すること,また海上の悪天候や鯨油の
売捌等については場合によっては江戸,大坂,長崎,箱館はじめ他の港にも入津するので私領,天領 とも管轄下の沿岸村落へこのことを申し渡す,との幕府からの示達が記されている(42)。ここからも 幕府が平野兄弟の起業に触発されるかのように捕鯨へ本格的な関心を向け始めたことが判明する。
さらに同年4月,幕府は全国に次のような触流を出している(43)。「越後国蒲原郡村松浜百姓廉蔵同 様,鯨漁稼方有志ノ者ハ可願出申旨御触流シ御座候ハ,身代相応ニテ大利ヲ射ル者共ハ競テ願出可申」。
積極的な捕鯨奨励策の下で,幕府は文久2年10月28日付の中浜万次郎の上申書を受理した。そ れをふまえ幕府は,平野家の持船を買い上げ万次郎を船長とする壱番丸の出漁を命じ,翌文久3年 1月の小笠原諸島に向けての出帆となったのである。
平野世寛の死後まもない文久2(1862)年12月26日,万次郎を船長とする平野廉蔵の持船壱番丸は 品川を出港,翌文久3年1月9日父島二見港に入港する。乗組員には平野と同郷の越後人で「海陸商 用其他取締方」本間卯之助,「伝習人,運用」平野五右衛門(親戚),同平野七五七(養子為信),「按 針」遠山定助,岩本要之助らが乗り組んだ。父島到着後,一行は積んできた木材で鯨漁用の短艇二艘 を建造,3月に竣工した。こうした準備を整え,壱番丸は小笠原諸島近海に出漁し,捕獲したマッコ ウクジラ2頭から鯨油96バーレルを得た。しかしながら薪水欠乏のため4月20日帰島,10日後の 5月1日浦賀へ向け出港した。なお壱番丸には,幕府派遣団員として在島中の幕吏松浪権之丞,林和 一郎の二人が「鯨漁の方法に帆船の操作の伝習を希望」し同乗していた(44)。
文久3年正月9日父島に入港した万次郎,平野らの様子は,幕府が送った小笠原派遣団で医師を務 め当時在島中だった本草学者阿部櫟斎の「豆嶼行記」にもしばしば登場する。阿部が乗船した朝陽丸 は文久2年6月18日に品川を出発し浦賀に向かうが,そこでの麻疹大流行のため1ヵ月ほど足止め をくらい,その後八丈島を経由8月26日ようやく父島に入港する。阿部日記をみると,最初に平野 の名が登場するのは浦賀滞在中の6月29日のことであり,「越後国平野廉蔵鯨猟船上乗ニテ」と一言 触れている(45)。そして翌文久3年1月,万次郎,平野が捕鯨のため壱番丸で父島に入港して以来,
阿部は彼らと親しく往来し,結局は同年5月,壱番丸に同乗し幕府の朝陽丸一行より一足早く帰還す る形となった。ここでは「豆嶼行記」にみられる阿部と万次郎,平野らとの往来の一端をみておきた い。まず新年1月9日の壱番丸(「豆嶼行記」には「平野船」と記)入港日の様子を紹介する(46)。
「晴,怒濤響強シ,暖 四ツ時ニ一点ノ白星ヲ見ル,追々望遠鏡ニテ日ノ丸ノ御旗ヲ見トメ,フラ フ〔旗〕ヲ建テ火ヲ焼キギツキ用意……同正午ニ大村ノ前ニ碇舶ス,平野船ノヨシニ見ヘ申候,海上 ヤゝ平安ナリ,ブルビーチヨリトック〔青ト ツ ク鷺〕二羽到来,中浜万次郎,卯之助外水夫一人上陸,平野 艦ヘ行夕刻ニカヘル,一羽平野,中浜ヘフリーセント」。浦賀以来の再会で話の通じる二人の来島で 阿部が喜んでいる様がうかがえる。
1月14日「海上平安音ナシ,午後ヒトヘ物着用,平野船ヨリ農具,食料,釜,鍋,小屋二軒等ヲ 陸ニ運送了」。壱番丸船主平野は,漁猟許可を幕府から得るに際し,先着の幕府派遣団に送り届ける 食料や生活必需品を無料で運搬することを条件としていたことを具体的に示している。
1月21日「平野船一同ニ風邪ノ手当,万次郎ニ投剤,家切組板,畳揚ル,蠵一ツ」。蠵(ウミガメ)
は住民とくに欧米系の人々にとって,動物性蛋白源として重宝されていた。阿部も塩煮した亀肉を買 い求め「本邦鯉魚羹と一様的ノ趣ナリ」と賞している。医師としての活動についてもしばしば言及が あるが,阿部には壱番丸が積んできた食料も大きな楽しみであったようで,「四ツ時ヨリ平野船ヘ行,
カローメル〔塩化水銀〕,金硫黄〔アンチモン〕,ヒヨス〔ロート根〕,オックス,ホウト〔?〕五品 ヲ請取来ル」(1月15日),「平野廉蔵上陸ス,鶏卵十一アリ,七ツヲ採ル」(1月22日),「平野船ヨ リ魚到来」(1月27日),「春分……浪音高ク平野廉造〔蔵〕今日ヨリ上陸,村中のさはぎや不時の祝 ひもち」(2月3日),「平野船ニテチエルリヲ飲了,桜実ヲ以テ醸製スルヨシ」(2月15日),「ウエ ルロウヒス黄金鯛,鯛等ヲ平野船ヨリ来ル,鯛ニ似テ黄色,眼ハヤゝ淡ナリ」(3月2日),等々医薬 品とならび味覚に関する記述が頻出する。
また「万二〔次〕郎同伴,洲先〔崎〕村ニテ造船ノ小屋ニ至リバッテイラノ製造式ヲ見ル,同晩バッ テイラニテ万次郎,同船ニテカヘル,蚊ノ多キニ苦シム。」(1月28日),「一同休日,平野〔船〕ヘ行,
砲術ヲ学ブ,夜雨」(2月28日)等からは,万次郎の師江川太郎左衛門ゆずりの造船,砲術等への関 心の深さがうかがえる。
文久3年3月になると「豆嶼行記」にも壱番丸の出漁関係の記述が登場する。3月13日「晴,朝 霧濛々,早天ヨリヒトヘ物,薬品ノ儀ニ付平野艦一行暑気払ヲ送リ,又曇ル又晴,衆人予ノ所ニ会シ テ酒食ス,別レヲ送ル也」,3月17日「平野船出帆四ツ半過ヨリ淡々日色ヲ見ル。双方祝砲ヲ発ス,
役々ト供ニ鯨漁船[壱番丸]ヘ行,夕刻カヘル」
4月20日,万次郎一行は1ヵ月余の操業を終え父島に戻る。同日の「豆嶼行記」の一節,「日中暖,
家ニアレバ涼,外ニ出レバ暑。芒種,平野丸夕刻入津,三発[豊漁の祝砲],鯨二本トリ」。また27 日「日記」は鯨漁について万次郎らの談をもとに「八丈沖十八里余,一本竹三十尋程ト鳥島ノ間ニテ 二本トリ申候ヨシ」と書かれている。
ジョン万次郎,平野廉蔵の宿願であった小笠原諸島近海での操業は大成果とはいえないまでもまず まずの成果をおさめ,4月20日に父島帰港,そして5月1日江戸に向け出港となる。この鯨漁の間,
壱番丸はかつて少年万次郎が漂着した鳥島に立ち寄り「大日本属島」の標識を建てている。他方,船 内では外交問題に絡むある事件が発生した。
その事件とは,出漁にあたり父島で傭い入れた在住外国人乗組員のうち,アメリカ人ウィリアム・
スミスとジョージ・ホートンを船内での窃盗等「姦悪彌紛も無」と断定し,扇浦の仮獄舎に拘留した ことに端を発する。船長万次郎らの判断で,父島離島に際し二人を横浜の米合衆国領事館に連行する ことになる。「実質的被害は皆無という誠に些細な事件」(47)であったが,その後外交レベルでの交渉 は紛糾し,最終的には翌元治元(1864)年12月,外国奉行竹本隼人正明らと米領事館当局との折衝で,
幕府は連行の非を詫びる形で1千ドルの「賠償金」を支払うことで結着がつけられた。日本側には,
この「些細な事件」で小笠原諸島の領有権問題が再燃することは国益を傷つけるとの判断もあったと 考えられる。「事件」の発端となったスミスは米領事フィッシャーによりアメリカへ強制送還される が,米側は80歳を越したホートンについては同情的で冤罪を主張し,帰島させるべしと要求した。
日本側の強硬な反対で父島帰島は許されなかったものの,ホートンは1千ドルの「賠償金」をもとに 米領事館の保護下に置かれ2年後に横浜で死去している。
このいわゆる外交問題としての「ホートン事件」については,外務省編『続通信全覧 類輯之部』
第27巻,第35巻に詳細が記されているほか,研究史的にも興味深い異なる解釈がなされている。た とえば田中弘之は,最終決着までの約1年の「米国側が行った証拠を無視した一方的判決,恣意的な 賠償金の請求,武力行使を示唆する圧迫等」を列挙し,事件の本質を「不平等条約下における不公正
な領事裁判をめぐる典型的な事例」として捉えている(48)。
他方,1千ドル支払いの決定を含む一連の事態の進捗の中で万次郎が果たした役割に着目する石原 俊は,幕吏(「主権のエージェントである自分」)としての万次郎が「まず意識していたのは……ホー トンを父島に送還することによって移住者たちの間に日本の法を失効させる力が増殖」することへの 強い懸念であったと指摘する。自ら「移動民の生」の体験者である万次郎は,「同じ移動民」ホート ンの言動から,彼の帰島が日本統治の下での秩序を脅かす危険性を感知していたであろうことを石原 は示唆するのであった(49)。
4. 維新前後期の両者の足跡 4.1 ジョン万次郎
嘉永7(1854)年のペリー再訪時,ジョン万次郎は英語通訳としては第一人者であったものの,前述 のとおり幕府中枢の一部の強い反対もあり,その任につくことがかなわなかった。しかしながらその 後は江川坦庵,川路聖謨ら彼を熱心に庇護した幕府高官の支援もあり,軍艦所教授あるいは鯨漁御用 としてその体験と学識とを活用する機会を与えられた。とはいうものの,幕臣としてはあくまでも傍 流に過ぎず,また幕閣内で開明派の影響力が減じる中,万次郎のその後の歩みはその能力に比し必ず しも栄光につつまれたものとはいえなかった。
時系列的に手短にその後の万次郎のキャリアをみておきたい(50)。小笠原諸島近海での捕鯨から 戻った翌年,元治元(1864)年,万次郎は薩摩藩に請われ軍艦運用や英語教授をつとめる。明治維新 直後の明治元年,万次郎は禄百石でふたたび高知藩に召され海軍の育成指導にあたる。ついで明治 2
(1869)年,新政府の徴士として開成学校二等教授を命じられるも健康上の理由ではやばやと辞任す ることになる。翌3年9月,大山巖,林有造らと独仏戦争の実情視察の命を受け渡欧するも病を得て ロンドンで静養,そして翌年アメリカ経由単身帰国する。その後万次郎はこれといった要職につくこ ともなかったが,中浜家所蔵の資料には,老境に達しつつあった万次郎が明治21(1888)年,最後の 小笠原諸島方面への航海を試みていることが記録されている(51)。船名,目的等は不詳だが,同年 6月17日朝7時,北緯29度52分,東経140度11分等と書かれており,天体観測をしながら英語 で記録を残していた。60歳を越えた時点でのこの航海で,万次郎は数奇な運命をたどった人生の原 点を確認しつつ,また相許した平野廉蔵に思いをはせながら,「終活」の準備をしていたのだろうか。
そして明治31(1898)年11月,万次郎は波乱に満ちた72歳の生涯を閉じたのだった(52)。
幕末の一時期,万次郎と強い絆で結ばれた平野廉蔵は,その16年前,明治15(1882)年,54歳で 師より早く生を終えていた。二人の関係を父から幼少時より聞かされて育った万次郎の長男中浜東一 郎は,学生時代の明治7年夏,父に伴われ三国峠越えで越後入りし,新潟市内にひっそりと暮らして いた廉蔵と初対面の挨拶を交わした。その後,平野歿までの7年間,東一郎は三度親しく廉蔵を訪ね ている。さらに半世紀余を経た昭和6(1931)年,老境に達していた東一郎は平野家ゆかりの地村松浜 を訪ねるも,すでに家屋はとり壊され,先代世寛(兄)の記念碑に平野家の栄光の跡をしのぶのみで あった。そして戊辰戦争で家財を失った上,明治になって着手したほとんどの事業に失敗し,数代に わたり築いた富を無にしたにもかかわらず,知的好奇心とあくなき事業家精神を持ち続けた平野廉蔵 が忘却の人になっているのは,「本邦文化史上遺憾の事といはざるべからず」と,東一郎は父の盟友
を悼むのであった(53)。 4.2 平野廉蔵
兄世寛歿(1862年)後,事実上平野家の最後の当主となった廉蔵であるが,今日幕末維新期の平 野家の実相を知り得る捕鯨関係,商品取引等の一次史料は地元村松浜にもほとんど残っていない。そ の最大の原因は,この地一帯が戊辰戦争(同地では北越戦争の名称)の苛烈な戦場と化し,平野家関 連の大量の地方文書も灰燼に帰したことにある。
明治維新直後,新政府による徳川政権最後の将軍徳川慶喜追討令が出された後,政府軍が最大の朝 敵とみなしたのは桑名藩と会津藩であった。この会津藩に対する政府軍のきびしい処遇に反発した東 北・北越地方の諸藩(仙台,会津,米沢,酒田,村上,村松,黒川,三根山など)は奥羽越列藩同盟 を結成,激しい抗戦を試みるも,明治元年9月に会津藩が降伏,奥羽列藩同盟も相次いで政府軍の軍 門に降る。村松浜をふくむ中条一帯(黒川藩)は激戦の地となり,『中条町史』を借りるなら「官軍・
同盟軍ともに町や村から多くの人馬を徴発し,荷役などにあたらせた。朝に東軍〔同盟軍〕の支配を うけ,夕に西軍〔政府軍〕に属し,夫役や食糧調達,そして献金などの負担に加えて戦災をうけた民 衆は悲惨な状況に置かれた」(54)。一般に北越戦争史では,その戦争の過程で中条地方の隣藩新発田藩 が列藩同盟から脱落し新政権に恭順の意を表明し政府軍の先導役をつとめたことが,列藩同盟の劣勢 を決定的なものにしたとされている(55)。
この戊辰北越戦争がもたらした影響を平野家の視点で知ることのできる貴重な証言が,『村松浜郷 土史』の中に収められている。それは17歳まで平野家で養育された小林リワ(1852年生まれ)とい う女性の談話記録である(56)。北越戦争最終段階当時の村松浜を振り返り,リワは新発田藩の「寝返 り」で会津軍(列藩同盟軍)が苦戦を強いられる中,平野家では「丹那様〔平野廉蔵〕が一同集め」
破滅に向かいつつある事態を詳細に伝えた後で,「平野家は,永年の恩顧に報いるため」最後まで会 津藩に協力すると決意を告げ,邸内16の蔵から千両箱,食糧を三日三晩かけて馬車で村上まで運び 出し,女子供も戦闘に備え,朝に晩に剣術稽古に励んだという。そして政府軍が村松浜に押し寄せる や,討伐隊は平野家のめぼしい家財財産を手当たり次第持ち去り,家屋敷に火を放って引き上げたと いう。「丹那様〔廉蔵〕は後難をさけ岩船から無事に逃げた」と語るリワは,前大戦末期の1944年6 月,93歳で死去するまで,断絶した平野本家への恩義と明治政府軍への許しがたい反感の念を保持 し,語り続けたのであった。
戦禍で主な家財を失った廉蔵は,それでも新潟市内に移り住み平野家再興を期して立ち上がる。平 野の才をもってすれば妥協して官途につく道もあったと思われるが,かつて受けた幕府からの恩義,
あるいは「官軍」への反発もあったのか,それは彼の選択肢にはなかった。こうして捕鯨に取り組ん だ起業家精神を保持しつつ廉蔵は,万次郎から吸収した西欧の産業技術にふたたび目を向ける。彼が 最初に着手したのが採油であった。鯨油時代に代わり19世紀後半の世界が急速に石油時代に入ろう としている中(57),廉蔵は明治初期,かつて長崎遊学中に知遇を得たイギリス人医師シングルトン
(Singleton)を伴い,生地に近い黒川村の油井調査と機械鑿井を試みるも成功しなかった(58)。北越一 帯では江戸時代中期から草ク ソ ウ ズ生水(臭水)の名で石油が話題となっていたが,石油ランプが輸入され,
灯台や家庭用灯火として普及するようになると,灯油への需要が急増した。石油時代の夜明けと共に 明治6(1873)年には「日本坑法」が制定され,採掘許可を受ければ日本人でありさえすれば誰でも石
油稼業が可能となった。こうして明治6, 7年になると石油坑出願が相次いだ(明治7年のみで44 人)。その出願は圧倒的に新潟県人が多く,しかもその多くは在地の中小地主であり,平野廉蔵もそ の一人であった。また県内の旧藩士族にも授産事業として石油開発に参画させたため,旧士族からの 出願もかなりの数に達した(59)。
成功には至らなかったものの,廉蔵が石油にかけた情熱は,断片的ながら今日いくつかの文献の中 で言及されている。たとえば『黒川村誌』には,明治6年,廉蔵の招きで前述したイギリス人医師シ ングルトンが館村に出向き地層の傾斜を観測した後,手掘り井戸による採油を指導したところ,それ が成功したため手掘り井戸による「石油ブーム」が一時塩谷地区を中心に捲き起こったと記されてい る(60)。また『長岡市史』には平野の名への直接的な言及はないものの,「明治四マ マ年村松〔浜〕の人(氏 名不詳)が宮路・成願寺附近で石油の露面を発見して手掘りを試みたが,出油はしなかった」と記さ れている(61)。前後の状況に鑑み,同人を平野廉蔵とみて過誤はないであろう。
このように新潟県下における石油発掘史が取り上げられる時,平野廉蔵の名(推定もふくめ)は忘 却されることはない。その意味でも,二つの石油に関する専門文献の中で平野の名が記録にとどめら れていることは注目に値しよう。
その一つは,平野歿から20年後に刊行された門馬豊次著『北越石油業発達史』という資料である(62)。 同書に序を寄せた鉱山局長田中隆三は,石油時代の到来を前に今後「斯業振興ノ必要ハ愈々切実ヲ加」
える中で本書の価値大なることを説く。著者門馬は長岡市に拠点をおく鉱報社主筆であるが,まず冒頭 の「帝国石油業年表」の中で「平野某」につき,最初期の採油事業家としてこう言及する。「嘉永以後 頸城刈羽地方に臭水採取行はる維新前後村松〔浜〕人平野某機械鑿井を企て未だ営業せずして失敗す。」
さらに本文中に「機械鑿の嚆矢」という一節を設け,平野の存在を高く評価している。門馬は日本にお ける「石油採掘用機械鑿井の創始」として石坂周造の名が良く知られているがと前置きしつつ,次のよ うな表現で平野を石油開拓のパイオニアの一人と位置づけている。「更に石坂氏より早きものあり即ち 旧村松藩〔浜〕の豪族平野安之丞なる人維新の当時既に自ら汽船を購ひ之れを日本海に泛べ又石油業に 志し米〔英〕国人シンクロートン〔シングルトン〕なるものを聘用し下越黒川地方の油田を探査せしめ 岸田吟香氏に謀り鑿井機械を米国より購入し之れを某所有汽船に乗せ横浜より回航する途上に難破せ し為め遂に失敗に終りしと云ふ此計画の失敗後両三年にして石坂周造氏の石油会社組織の挙あり。」
もう一点の文献も,平野について「わが国石油産業の先駆者の一人」と位置づけ「北蒲原郡中村松 浜の豪族平野安之丞」の名を記録にとどめている(63)。興味深いことに,ここでも平野廉蔵と,4歳 年下で後に「支那通兼精錡水〔目薬〕本舗,また東京日日新聞の元祖」(大隈重信評)として知られ る岸田吟香との石油を通じての接触に言及されている。
維新後の廉蔵は石油以外にも西欧の産業技術の応用へ関心を広げ,洋式水道の敷設や捕獲魚類の保 存に不可欠な製氷にも積極的に取り組んだ。その舞台となったのは,廻船業を通じ先々代の安之丞以 来平野家とゆかりの深かった函館であった。これらの事業の実態を知り得る一次史料は未見である が,製氷については『函館市史』に以下のような簡潔な記述がみられる。「慶応年間に居留英国人の ブラキストンや新潟出身の平野某らによって亀田川願乗寺川の川筋を利用して試みられたこともあっ たとされる(64)。」
しかしながら,手元に残った資産を投じながら試みた平野のいずれの事業も,採算がとれるまでに