︿研究へのいざない﹀
梶 川 信 行 鈴 木 雅 裕 教室 で 読 む 古事記神話 ︵ 七 ︶ ︱︱ 脱著身之物 から 滌御身 まで ︱︱
脱著身之物
是
ここを 以
もちて、 伊
い耶
ざ那
な伎
きの大
おほ神
かみの 詔
のりたまはく、 「 吾
あれは、いなしこめしこめき 〈 此
この九字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 穢
きたなき 国
くにに 到
いたりて 在
ありけり 〈 此
この二字 は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 故
かれ、 吾
あれは 御
み身
みの 禊
みそぎを 為
せむ」 とのりたまひて、 竺
つく紫
しの 日
ひ向
むかの 橘
たちばなの 小
を門
どの 阿
あはき波岐 〈 此
この三字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 原
はらに 到
いたり 坐
まし て、 禊
みそぎ祓
はらひしき。 故
かれ、 投
なげ 棄
すつる 御
み杖
つゑに 成
なれる 神
かみの 名
なは、 衝
つき立
たつ船
ふな戸
との神
かみ。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつ る 御
み帯
おびに 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 道
みち之
の長
なが乳
ち歯
はの神
かみ。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつ る 御
み嚢
ふくろに 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 時
とき量
はか師
しの神
かみ。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつる 御
み衣
けしに 成
なれる 神
かみの 名
なは、 和
わ豆
づ良
ら比
ひ能
の宇
う斯
し能
の神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつ る 御
み褌
はかまに 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 道
ち俣
またの神
かみ。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつ る 御
み冠
かがふりに 成
なれる 神
かみの 名
なは、 飽
あき咋
ぐひ之
の宇
う斯
し能
の神
かみ〈宇より 以
しも下 の三字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 次
つぎに 投
なげ 棄
すつる 左
ひだりの 御
み手
ての 手
た纒
まきに 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 奥
おき疎
ざかるの神
かみ〈 奧 を 訓
よみ て 淤
おき伎 と 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ。 疎 を 訓
よ︻本文︼是以伊耶那伎大神詔吾者到於伊那志許米上志許米岐此九字以音 穢国而在祁理此二字以音故吾者為御身之禊而到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而禊祓也故於投棄御杖所成神名衝立船戸神次於投棄御帯所成神名道之長乳歯神次於投棄御 ①嚢所成神名時量師神次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神此神名以音次於投棄御褌所成神名道俣神次於投棄御冠所成神名飽咋之宇斯能神自宇以下三字以音次於 ②投棄流左御手之手纒所成神名奥疎神訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此次奥津那芸佐毗古神自那以下五字以音下效此次奥津甲斐弁羅神自甲以下四字以音下效此 次於投棄右御手之手纒所成神名辺疎神次辺津那芸佐毗古神次辺津甲斐弁羅神右件自船戸神以下辺津甲斐弁羅神以前十二神者因脱著身之物所生神也
︻校異︼①﹁嚢﹂字について︑宣長は兼永本の﹁裳﹂字を採用した︒だ
が︑裳は一般的に女性が着用するもので︑イザナキが着用した
とするには問題があるとされる︒そのため︑真福寺本の﹁嚢﹂ 字を採るのが通説となっている︒﹃古事記﹄では︑﹁︵アメノウズ
メは︶裳の緒をほとに忍し垂れき﹂︵上巻︶︑﹁腰裳を服たる少女﹂
︵中巻・崇神︶︑﹁︵神功皇后は︶石を取りて御裳の腰に纏きて﹂︵中巻・仲哀︶などの用例がある︒②については︑﹁流﹂字が問題となる︒真福寺本は﹁投棄流﹂︑兼永本は﹁投流﹂とするが︑それは後世の訓読の折に付された活用語尾が本文に紛れたものとも言う︵西宮一民﹃古事記 修訂版﹄桜楓社・一九八六︶︒だが︑真福寺本・兼永本ともに﹁流﹂字のあ
ることから︑残す立場もある︵思想・記學︶︒他箇所では﹁投棄﹂で︑
ここのみ﹁投棄流﹂とあるのは不統一にも見えるが︑﹃古事記﹄内で︑﹁荒神﹂・﹁荒夫流神﹂︵中巻・景行︶のように︑活用語尾
を表記する例も確認できる︒その例に従って︑ここでは﹁流﹂字を残しておく︒
︻口訳︼
そこで︑伊耶那伎大神が仰ったのは︑﹁私は︑ひどく醜い汚
れた国にいたことであった︒そこで︑私は禊をしよう﹂と仰っ
み て 奢
ざかる加 留 と 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 次
つぎに、 奥
おき津
つ那
な芸
ぎ佐
さ毗
び古
この神
かみ〈 那 よ り 以
しも下 の 五 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 奥
おき津
つ甲
か斐
ひ弁
べ羅
らの神
かみ〈甲より 以
しも下 の四字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 投
なげ 棄
すつ る 右
みぎの 御
み手
ての 手
た纒
まきに 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 辺
へ疎
ざかるの神
かみ。 次
つぎに、 辺
へ津
つ那
な芸
ぎ佐
さ毗
び古
この神
かみ。 次
つぎに、 辺
へ津
つ甲
か斐
ひ弁
べ羅
らの神
かみ。 右
みぎの 件
くだりの、 船
ふな戸
との神
かみよ り 以
しも下 、 辺
へ津
つ甲
か斐
ひ弁
べ羅
らの神
かみよ り 以
さき前 、 十
とほあまり二
ふたはしらの神
かみは、 身
みに 著
つけたる 物
ものを 脱
ぬぎしに 因
よりて 生
うめる 神
かみぞ。
て︑筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到って︑禊・祓をした︒
そこで︑投げ捨てた杖に成った神の名は︑衝立船戸神︒次に︑投げ捨てた帯に成った神の名は︑道之長乳歯神︒次に︑投げ捨
てた嚢に成った神の名は︑時量師神︒次に︑投げ捨てた衣に成っ
た神の名は︑和豆良比能宇斯能神︒次に︑投げ捨てた褌に成っ
た神の名は︑道俣神︒次に︑投げ捨てた冠に成った神の名は︑飽咋之宇斯能神︒次に︑投げ捨てた左手の腕輪に成った神の名
は︑奥疎神︒次に︑奥津那芸佐毗古神︒次に︑奥津甲斐弁羅神︒次に︑投げ捨てた右手の腕輪に成れる神の名は︑辺疎神︒次に︑辺津那芸佐毗古神︒次に辺津甲斐弁羅神︒ 右の件の︑船戸神から辺津甲斐弁羅神までの十二柱の神
は︑身に着けた物を脱いだことで生まれた神である︒
︻語注︼
いなしこめしこめき穢き国に到りて在りけり ﹁穢き国﹂と
は黄泉国を指す︒イナは﹁悪み厭ふ御言﹂︵記伝︶︒シコメシコメ
キは︑﹁うとましく︑みにくい﹂意︵時代別︶のシコメシを重ねた語︒みにくいことを強調するが︑口誦の姿を思わせる語り口で
ある︒御身 自敬表現︒﹃万葉集﹄の雄略天皇御製︵巻一・一︶︑﹃続日本紀﹄の詔などにも自敬表現が見られる︒たとえば︑宣命第一詔︵文武天皇元年︿六九七﹀︶は︑﹁詔して曰はく﹂として天皇の意思
が伝えられるが︑﹁現御神と大八嶋国知らしめす天皇が大命ら
まと詔りたまふ大命を⁝﹂という形で︑自敬表現に満ち満ちて
いる︒ここにも先と同様に口誦らしさが窺える︒竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原 ﹁竺紫﹂は国生み段に見 える﹁筑紫島﹂︵九州︶だろうが︑そこでは︑筑紫国・豊国・肥国・熊襲国の四つの国名が挙げられる︒ここには日向国が含まれて
いない︒﹁竺紫の日向﹂とある以上︑筑紫島の中の日向とも読
み取れるが︑国名と解するには問題もある︒
この﹁日向﹂は土地誉めの詞章とする説がある︒﹁暗い闇の国
であるヨミの穢れをすすぐにふさわしい地を﹃日向﹄と称えた
ものである﹂︵注釈︶とする見方である︒また︑﹁日向という実際
の土地そのものが意味をもつのでなく︑要は禊の地に日に向う
ところというイメージを与えることにある﹂︵新編︶とする注も
ある︒ここでの﹁日向﹂は神話上の空間として選ばれたと考え
た方が良いだろう︒橘は︑地名とも考えられるが未詳︒植物としての橘は﹁常世国のときじくのかくの木の実﹂︵中巻・垂仁︶とも称されるが︑そ
の永遠性を名に負う場所ということか︒アハキも植物で︑青木・柏・萩などの説があるが︑不明︒比定地としては︑宮崎県宮崎市阿波岐原町に鎮座する江田神社の境内に隣接する﹁みそぎが池﹂︑福岡県糟屋郡立花山など
がある︒江田神社はフェニックス・シーガイア・リゾートのす
ぐ隣︒﹃延喜式﹄︵神祇・神名︶には﹁日向国四座﹂とあり︑その中
の﹁宮崎郡一座﹂に﹁江田神社﹂と見える︒禊祓 二字でミソギと訓む注が多いが、ミソギハラヘと訓む
注もある(全書・新校)。『古事記』では、「禊」「祓」どちらも単
独の例があり、この二字は区別されていたと考えられる。した
がって、ここではミソギハラヘと訓んでおく。
ミソギの語源について︑ミは身か水か︑ソギは﹁注く﹂︵水を
る。時量師神 嚢から成った神︒﹁解放し﹂の意︵全註釈︶︑﹁﹁はか
し﹂は投げ棄てる意の動詞﹁はかす﹂の名詞形︒禊祓のときに穢れをつけて物を捨てるのでいう﹂︵鑑賞︶とする説があるが︑上代文献にそのような意味のハカシの用例は見えない︒﹁表記
から時間に関する神とみられるが未詳﹂︵新編︶とする注のよう
に︑表記が実態を反映していると見て︑時間を司る神とは考え
られないか︒時間のない永遠に停止した世界である黄泉国︵﹁教室で読む古事記神話︵六︶︱︱追往黄泉国から見畏而逃還まで︱︱﹂﹃語文﹄一六六輯︶に対して︑時間の流れのある生の世界に戻る︑という
ことかも知れない︒和豆良比能宇斯能神 衣から成った神︒ウシとは主の意であ
り︑煩わしさの主という意味の神︵大系︶︒﹁ここは障碍の意で︑
サヘの神の一種と見てよかろう﹂︵注釈︶と見る説もある︑道俣神 褌から成った神︒道の分かれた所を掌る神だが︑道之長乳歯神が帯から連想されたように︑褌の形状から連想され た神か︒飽咋之宇斯能神 冠から成った神︒名義未詳ともされるが︑
﹁悪霊邪鬼の貪食から来た神名﹂︵全註釈︶とする注がある︒また︑
﹁飽食の大人の神︒道辻や川口に立つ人面を刻した手向の神︒食物などが手向に饗され︑散乱しているさまから生じた名﹂︵鑑賞︶とする説もある︒あるいは︑一杯になった煩わしさを食べ
てしまうということか︵全訳注︶︒奥疎神・辺疎神 この神から辺津甲斐弁羅神まで︑両手の腕輪に成った神︒いずれも海に関わる神である︒﹁河海に流し捨 振りかけるの意︶か﹁濯ぐ﹂︵水で汚れを落とす意︶かで説が分かれる︒
いずれにせよ︑水で身のケガレを清める行為である︒一方のハ
ラヘは﹁神に祈って︑災いや罪・けがれを除き清めること﹂︵時代別︶だが︑ミソギとの違いは︑主に罪に対して用いられたこ
とにある︵青木紀元﹃日本神話の基礎的研究﹄風間書房・一九七〇︶︒衝立船戸神 投げ捨てた杖に成った神︒この神から奥津甲斐弁羅神までは︑身に着けているものを脱ぐことで成った神であ
り︑厳密には禊で生まれた神とは言えない︒
ツキタツは︑杖を突き立てる意︒フナトは﹁道の四方に分か
れた所︒クナトとも﹂︵時代別︶︒﹃日本書紀﹄︵神代上・第五段・一書第九︶には︑﹁伊奘諾尊︑乃ち其の杖を投てて曰はく﹃此より以還︑雷敢へて来じ﹄とのたまふ︒是を岐神と謂す﹂と見える︒
したがって︑塞えの神である︒徳島県名西郡では﹁在所と呼ば
れる集落地︑ムラ組の中︑時には個人の屋敷内にオフナトさん
と呼ばれる民俗神が祀られて来た﹂が︑それは﹁板状の石で三方の壁面を構え︑屋根を伏せたもの︑一種の石祠﹂だと言う︒
そして︑﹁フナトとは踏勿処の意で︑来勿処と同義︑遮断を意味する︒悪しきものの侵入を防ぐ塞の神的な呼称である﹂︵野本寛一﹃地霊の復権 自然と結ぶ民俗をさぐる﹄岩波書店・二〇一一︶とさ れる︒道之長乳歯神 帯から成った神。チは道の意で、『万葉集』
にも「道の長道」(巻二十・四三四一)との表現が見える。ハについ
ては不明だが、神名としては「長道を掌る磐の神の意」(大系)で、
帯の長さからの連想とも言う。より具体的に、「物語としては
黄泉の国からの道中の長さをいったもの」(注釈)とする説もあ
毗古など︑語義的に矛盾する名や︑辺津那芸佐毗古のように︑重複表現と言うべき名も見える︒しかし︑﹁いなしこめしこめ
き﹂など︑このあたりには口誦の面影が窺える︒口誦の世界で
は︑﹁奥﹂と﹁辺﹂という対偶の形式で語ることの方が︑意味に優先したのではないかと思われる︒
︻余滴︼水と香 ﹃古事記﹄は︑黄泉国から帰還した伊耶那岐が︑筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原という﹁川の落ち口﹂︵注釈︶で︑
﹁禊祓﹂をしたと伝える︒それは﹁いなしこめきしこめき穢き国﹂
︵嫌悪感を催すほど穢れた国の意︶とされる黄泉国でケガレに触れた
からである︒死者をケガレとする文化は︑西日本のものであったと言われ
る︵赤坂憲雄﹃東西/南北考︱いくつもの日本へ︱﹄岩波書店・二〇〇〇︶︒
したがって︑日本の歴史の中で︑それが普遍性を持つ観念で
あったか否かは不明である︒
しかし︑注目すべきことは︑この﹁禊祓﹂に使用された水が︑単に死のケガレを取り除いただけではない︑という点である︒
その作用によって︑さまざまな神が生まれている︒天照大神も
そこで生まれたのだが︑それは生命を生み出す不可思議な力も持っていたことになろう︒伊勢神宮の内宮には︑参道の途中に五十鈴川に面した御手洗場がある︒かつてはその水で手を洗い︑口を漱いで︑身を清め
た上で︑ご神域に入って行ったのだと言う︒五十鈴川は﹁御裳濯川﹂とも呼ばれたが︑それは天照大神を伊勢に導いたとされ
る倭姫命が衣の裾の汚れをそこで濯いだとする伝承に因む︒ てられた疫病神︑河海に流れゆく祟り神の依り代の類をさす
か﹂︵鑑賞︶とも言う︒﹁奥﹂と﹁辺﹂という一対の形で︑三組の神が並ぶ︒
オキザカルは沖の方に離れて行くの意︵大系︶︑穢れが沖に遠
ざかる意︵全訳注︶︑﹁沖をさらに離れること﹂︵新編︶などとされ
る︒しかし︑一対の神であるヘザカルは︑辺の方に離れるとい
うことになってしまう︒それは語義としておかしい︒サカルは︑離れるという意ではないのではないか︒沖と辺にそれぞれいる
サカルの神ということだが︑時代別のサカルの項目は﹁盛﹂﹁疎﹂
﹁逆﹂で︑いずれも四段動詞︒﹁盛﹂ならば︑沖でも辺でもあり得るが︑文脈的に不自然︒奥津那芸佐毗古神・辺津那芸佐毗古神 ナギサは渚だが︑オ
キツナギサというのでは矛盾する︒未詳と言うしかない︒ヘツ
ナギサについても︑矛盾ではないものの︑ナギサは辺に決まっ
ているので︑重複表現とも言える不自然な神名である︒渚につ
いては﹁禊の呪儀を行なう場所﹂︵全訳注︶ともされる︒奥津甲斐弁羅神・辺津甲斐弁羅神 カヒを間とする説︵記伝︶
に従って︑カヒベラは﹁海と陸地との間の意﹂︵新編︶とする注
もある︒一方で︑貝とする説︵注釈︶もある︒ただし︑間・貝の
いずれにしても︑仮名遣いの上で問題のあることが指摘される
︵全註釈︶︒語義はよく分からないのが現状である︒衝立船戸神から辺津甲斐弁羅神までは︑着ているものを脱い
だ時に生まれた神︒宗像大社︵福岡県宗像市︶の沖津宮である沖
ノ島に上陸する際︑全裸になって禊をすると言うが︑イザナキ
も全裸になっているのであろう︒ここには辺疎神・奥津那芸佐
ことも︑神と仏の境界が緩やかだったことに基づくのであろ
う︒しかし︑世界遺産に登録された薬師寺︵奈良市西ノ京町︶の白鳳伽藍には手水舎がない︒興福寺・唐招提寺・新薬師寺・白毫寺・秋篠寺・飛鳥寺・橘寺など︑奈良にはそれのない古寺が多
い︒法隆寺には︑なぜか境内の池の傍に小さな手水舎があるが︑寛政三年︵一七九一︶刊の﹃大和名所図会﹄︵巻三︶には描かれてい
ない︒それは存外︑新しいものなのかも知れない︒個人的な経験でしかないが︑私は奈良の代表的な古寺で手水舎を見た記憶がほとんどない︒もちろん︑宗派による作法の違
いもあるのだろうが︑寺院ではやはり香を焚くものであって︑
もともと手水舎はなかったのではないかと思われる︒当麻曼荼羅で知られる当麻寺︵奈良県葛城市当麻︶は︑元来南向
きの伽藍配置であった︒七世紀の初頭︑推古天皇の時代に創建
されたと伝えられる古寺である︒境内に入ると︑北から講堂・金堂︵弥勒仏を本尊とする︶・東塔・西塔が並んでいる︒薬師寺と同じ形式の伽藍である︒そして︑薬師寺と同様︑手水舎はない︒
ところが︑現在は東向きの曼荼羅堂が本堂とも呼ばれてい
る︒平安時代の末に建立されたものだと言うが︑それによって参拝者の動線が九十度変わってしまった︒東大門︵仁王門︶から入山し︑講堂と金堂の間を抜けて︑その奥の曼荼羅堂で︑中将姫が蓮の糸で一夜にして編んだと伝えられる曼荼羅︵中央に阿弥陀仏︶に拝礼する︒それが︑現在も通常の参拝経路である︒奈良時代における鎮護国家の寺とは異なり︑平安時代に盛んに
なった浄土信仰に基づいている︒ 鎌倉時代の神道書﹃倭姫命世記﹄の記述である︒現在は︑御手洗場の手前に立派な手水舎がある︒しかし︑寛政九年︵一七九七︶刊の﹃伊勢参宮名所図会﹄︵五上︶にはそれがな
い︒﹁手水場﹂︵御手洗場︶で手水を使う人の姿が描かれている︒衛生上の理由もあろうが︑あくまでも代替手段として︑明治以後に設置されたものであって︑やはり川での禊こそが古式だっ
たと考えてよい︒一方︑仏教では本来︑香によって精神と肉体のケガレを除去
すると言われる︒本堂の前に大きな香炉が設置されている寺院
も多い︒その線香の煙を体に浴びるようにした経験を持つ人も多いのではないか︒病気が治るようにと︑痛い所に煙をこすり
つけるようにしている人の姿もよく見かける︒俗信であろう
が︑禊の水と同様︑香の煙も生命力を付与すると信じられてい
るのであろう︒
ところが︑寺院にも神社と同様︑手水舎︵お水屋︶を置くとこ
ろがある︒私の知る限りでは︑浅草寺・池上本門寺・高幡不動尊・川崎大師・成田山新勝寺など︑首都圏の有名寺院に見られ
る︒また西日本でも︑東大寺︵奈良市雑司町︶の大仏殿には手水舎があるが︑そもそも︑それは神道由来のもの︒また︑大仏殿
は何度も焼失して建て替えられているので︑手水舎は創建当時
からあったわけではあるまい︒日本人にとって︑神と仏は対立するものではなく︑季節の祭
りの神︑先祖崇拝の仏というように︑﹁相互補完的﹂な関係で生き続けて来た︵山折哲雄﹃神と仏 日本人の宗教観﹄講談社・一九八三︶︒神仏習合の時代も長かったが︑寺院に手水舎がある
その煙の向こうに広がっているのだ︒同じくケガレを除去するものだが︑水は死穢から遠ざける働
きを持ち︑香は極楽浄土へといざなう︒自然の水と人工的な香︒対照的な性格を持つが︑私たちはそれを矛盾とは感じずに寺社
に参拝している︒明治時代︑政治的な力で神仏は分離されたが︑人々の心の中では︑今も神と仏の境界は緩やかなのであろう︒ 浄土信仰では︑死後の世界は決して穢れに満ちた世界ではな
かった︒この世は汚れた穢土だが︑そこは﹁苦悩の全くない安楽な世界﹂︵岩本裕﹃日本佛教語辞典﹄平凡社・一九八八︶とされる極楽
である︒また︑その支配者は黄泉神ではなく︑阿弥陀仏である︒古来︑人々はそこに生まれ変わること︵往生︶を願って来たのだ
が︑今も︑その曼荼羅堂では線香の煙が絶えない︒死穢にまみ
れた﹃古事記﹄の黄泉国とは違って︑清らかな死後の世界が︑
滌御身
是
ここに、 詔
のりたまはく、 「 上
かみつ 瀬
せは 瀬
せ速
はやし。 下
しもつ 瀬
せは 瀬
せ弱
よわし」 と の り た ま ひ て、 初
はじめ て 中
なかつ 瀬
せに 堕
おち か づ き て 滌
すすぎ し 時
ときに、 成
なり 坐
ませ る 神
かみの 名
なは、 八
や十
そ禍
まが津
つ日
ひの神
かみ〈禍を 訓
よみて 摩
ま賀
がと 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 大
おほ禍
まが津
つ日
ひの神
かみ。 此
この 二
ふたはしらの神
かみは、 其
その 穢
けがれ 繁
しげき 国
くにに 到
いたれ る 時
ときに、 汚
けが垢 れ に 因
より て、 成
なれ る 神
かみぞ。 次
つぎに、 其
その 禍
まがを 直
なほさ む と 為
して 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 神
かむ直
なほ毗
びの神
かみ〈 毗 の 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 次
つぎに、 大
おほ直
なほ毗
びの神
かみ。 次
つぎに、 伊
い豆
づ能
の売
め〈 并
あはせ て 三
みはしらの神
かみな り。 伊 よ り 以
しも下 の 四 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 次
つぎに、 水
みな底
そこに 滌
すすぎ し 時
ときに、 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 底
そこ津
つ綿
わた津
つ見
みの神
かみ。 次
つぎに、 底
そこ箇
つつ之
の男
をの命
みこと。 中
なかに 滌
すすぎ し 時
ときに、 成
なれ る 神
かみの 名
なは、 中
なか津
つ綿
わた津
つ見
みの神
かみ。 次
つぎに、 中
なか箇
つつ之
の男
をの命
みこと。 水
みずの 上
うへに 滌
すすぎし 時
ときに、 成
なれる 神
かみの 名
なは、 上
うは津
つ綿
わた津
つ見
みの神
かみ〈 上 を 訓
よみ て 宇
う閇
へと 云
いふ 〉 。 次
つぎに、 上
うは箇
つつ之
の男
をの命
みこと。 此
この 三
み柱
はしらの 綿
わた津
つ見
みの神
かみは、 阿
あ曇
づみの連
むらじ等
らが 祖
おや神
がみと 以
もち い つ く 神
かみぞ 〈 伊 よ り 以
しも下 の 三 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 故
かれ、 阿
あ︻校異︼①﹁坐﹂は︑先の﹁投棄流﹂と同じく︑訓読の際の活用語尾が紛れたものともされる︒だが︑ここでは︑﹁成り坐せる﹂と訓み︑意味的に有意であると考えた方がよいだろう︵新編・新校︶︒②﹁十柱﹂について︑八十禍津日神から毗佐之男命までの総数が十四柱であることから︑本文を﹁十四柱﹂と改める立場も
あった︒江戸期の神道家である度会延佳︵一六一五〜一六九〇︶の説で︑宣長もそれに従っていた︒だが︑後に﹃玉勝間﹄で︑綿津見三神・箇之男三神をそれぞれ一柱として数える考えに訂正
した︵十一の巻﹁古事記伝の六の巻に入べき事﹂︶︒ここでの神々の数
え方はこれに従う︒
︻口訳︼
ここで︑︵伊耶那伎大神が︶仰ったのは︑﹁上の瀬の流れは速い︒ ︻本文︼於是詔之上瀬者瀬速下瀬者瀬弱而初於中瀬堕迦豆伎而滌時所成 ①坐神名八十禍津日神訓禍云摩賀下效此次大禍津日神此二神者所到其穢繁国之時因汚垢而所成神之者也次為直其禍而所成神名神直毗神 毗字以音下效此次大直毗神次伊豆能売并三神也伊以下四字以音次於水底滌時所成神名底津綿上津見神次底箇之男命於中滌時所成神名中津綿津見神次中箇之男命於水上滌時所成神名上津綿上津見神訓上云宇閇次上箇之男命此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也伊以三字以音下效此故阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也宇都志三字以音其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神也於是洗左御目時所成神名天照大御神次洗右御目時所成神名月読命次洗御鼻時所成神名建速湏佐之男命湏佐二字以音右件八十禍津日神以下速湏佐之男命以前十柱神者因滌御身所生者也
曇
づみの連
むらじ等
らは、 其
その 綿
わた津
つ見
みの神
かみの 子
こ、 宇
う都
つ志
し日
ひ金
かね析
さくの命
みことの 子
うみのこ孫 ぞ 〈 宇 都 志 の 三 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 其
その 底
そこ箇
つつ之
の男
をの命
みこと・ 中
なか箇
つつ之
の男
をの命
みこと・ 上
うは箇
つつ之
の男
をの命
みことの 三
みはしら柱 の 神
かみは、 墨
すみの江
えの 三
み前
まへの 大
おほ神
かみぞ。 是
ここに、 左
ひだりの 御
みめ目 を 洗
あらひし 時
ときに、 成
なれる 神
かみの 名
なは、 天
あま照
てらす大
おほ御
み神
かみ。 次
つぎに、 右
みぎの 御
みめ目 を 洗
あらひし 時
ときに、 成
なれる 神
かみの 名
なは、 月
つく読
よみの命
みこと。 次
つぎに、 御
み鼻
はなを 洗
あらひし 時
ときに、 成
なれる 神
かみの 名
なは、 建
たけ速
はや湏
す佐
さ之
の男
をの命
みこと〈湏佐の二字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 右
みぎの 件
くだりの、 八
や十
そ禍
まが津
つ日
ひの神
かみよ り 以
しも下 、 速
はや湏
す佐
さ之
の男
をの命
みことよ り 以
さき前 の 十
とを柱
はしらの 神
かみは、 御
み身
みを 滌
すすぎしに 因
よりて 生
うめるぞ。
べき場の真ん中で禊をしていることに意味があるのだろう︒す ぐ後の底・中・上は垂直方向である︒八十禍津日神・大禍津日神 マガは﹁まがっていること︒直
の対﹂︵時代別︶︒﹁凶・悪・曲・邪などを意味するよくないこと︒津は助詞︒人間生活を不幸にするよくないことを掌る神﹂︵大系︶︒﹁八十﹂は実数ではなく︑数が多いことを表す表現︒﹁大﹂
と対にすることで︑すべてのマガツヒであり︑特別に力のある
マガツヒである︑ということになる︒神直毗神・大直毗神 ナホビは﹁普通でないことを普通の状態へ︑悪いことを良い状態へ改めること﹂︵時代別︶︒﹁其の禍を直さむと為て﹂は﹁正・吉・善・福にすること︒つまりよくし ようとしての意﹂︵大系︶︒直前のマガツヒに対する神である︒穢繁国 黄泉国のこと︒﹁穢繁﹂は︑①ケガラハシキ︵大系・全訳注︶・②ケガレシゲキ︵全書ほか︶・③シケシキ︵注釈︶などと訓む説がある︒この内︑①・③は﹁繁﹂をシキと音仮名で訓むが︑訓字と見て穢れが多いの意と考えた方がよいだろう︒伊豆能売 ﹁厳の女﹂とする説がある︵記伝︶︒﹁イツは聖なる
こと︑したがってイツノメは聖なる巫女というほどの意﹂︵注釈︶
とされる︒﹁巫女的存在の神格化﹂︵新編︶︒春日大社︵奈良県奈良市春日野町︶の祭神として武甕槌命・経津主命・天児屋根命に加
えて比売神が祀られているのと同様︑ナオビの機能が十全に果
たせるように︑﹁厳の女﹂が加わっているのであり︑三神がセッ
トでマガツヒに対するのであろう︒さまざまな性格を持つ神が存在するからこそ︑ナオビが重視されるのだと考えられる︒底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神 上津綿津見神 下の瀬の流れは弱い﹂と仰って︑初めに中の瀬に潜り濯いだ時
に︑成った神の名は︑八十禍津日神︒次に︑大禍津日神︒この二柱の神は︑その穢れがひどい国に到った時に︑穢れたものに
よってなった神である︒次に︑その禍を直そうとして成った神
の名は︑神直毗神︒次に︑大直毗神︒次に︑伊豆能売︒次に︑水底で濯いだ時に成った神の名は︑底津綿津見神︒次に︑底箇之男命︒中で濯いだ時に︑成った神の名は︑中津綿津見神︒次
に中箇之男命︒水の上で濯いだ時に︑成った神の名は︑上津綿津見神︒次に上箇之男命︒この三柱の綿津見神は︑阿曇連の祖神として祀られる神である︒阿曇連は︑その綿津見神の子であ
る宇都志日金析命の子孫である︒その底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三柱の神は︑墨江之三前︵住吉大社の三座の︶大神で
ある︒ここで︑左の眼を洗った時に成った神の名は︑天照大御神︒次に︑右の眼を洗った時に成った神の名は︑月読命︒次に︑鼻を洗った時に︑成った神の名は︑建速湏佐之男命︒ 右の件の︑八十禍津日神より以下︑速湏佐之男命より前の十柱の神は︑身体を濯いだことによって生まれた神であ
る︒
︻語注︼上つ瀬は瀬速し︑下つ瀬は瀬弱し 上・中・下から︑﹁中つ瀬﹂ を選ぶが︑こうした﹁三分段型行法が本来は海人族のもの﹂︵松村武雄﹃日本神話の研究﹄風培館・一九五四︶とされる︒ただし︑﹁三分段型﹂と﹁水底に滌ぎ﹂﹁中に滌ぎ﹂﹁水の上に滌ぎ﹂とは︑一連の話として整合しない︒中つ瀬 ここでの上・中・下は水平方向︒すなわち︑禊をす
十九座﹂の﹁糟屋郡三座﹂の唯一の神社として﹁志賀海神社三座 並名神大﹂が見える︒当然︑神輿も三基ある︒志賀海神社の宮司は代々阿曇氏で︑平成二十一年十一月までは︑その当主の磯和氏 が務めていた︒底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命 ﹁墨江の三前の大神﹂︑
すなわち大阪市住吉区住吉に鎮座する住吉大社の祭神である︒
﹃延喜式﹄︵神祇・神名︶には﹁摂津国七十五座﹂とされ︑﹁住吉郡二十二座﹂の筆頭に﹁住吉坐神社四座 並名 神大/月次相嘗新嘗﹂と見える︒﹁港の神か﹂︵新編︶とされるが︑住吉大社は難波津を守護する神で︑航海守護の機能を担っていた︒津守氏が港の維持管理をしつつ︑その祭祀を司っていたのだ︒
ツツノヲに関しては︑﹁津︵港︶の男神﹂とする説︵山田孝雄﹁住吉大神の御名義について﹂﹃歴史公論﹄六巻五号・一九三七︶の他に︑ツ
ツ︵星︶の神とする説︵肥後和男﹁海神について﹂﹃神道史研究﹄五巻六号・一九五七︶︑船魂とする説︵集成︶︑﹁ツブ︵粒︶と同語で︑本来︑水
に出入りする時に吹く水泡をいったのではないか﹂とする説︵よ
む︶などがある︒原義は別として︑八世紀の王権の国際的玄関口に祀られた住吉神の機能としては︑港の神であったと考えて
よい︒その祖神は︑境内北側に鎮座する大海神社に祀られてい
る︒住吉の神は︑難波を起点として︑ 長門国一宮の住吉神社︵山口県下関市一の宮住吉︶ 筑前国一宮の住吉神社︵福岡県福岡市博多区住吉︶
壱岐国一宮の住吉神社︵長崎県壱岐市芦辺町住吉東触︶ 対馬国一宮の住吉神社︵長崎県対馬市美津島町鶏知︶ と後の上箇之男命の﹁上﹂について︑ウハツ・ウへツの二つの訓み方がある︒訓を示す注には﹁上を訓みて宇閇と云ふ﹂とあ
り︑﹁上﹂字はウヘと訓むことが求められる︒ここで問題とな
るのは︑この注では他のどの訓みを排除しているかということ
である︒後者の訓を採る新編では︑ウハツの訓みを排除するも
のとする︒一方︑前者の訓を支持する新校は︑この注が﹁上津綿津見神﹂のみに係るのではなく︑前の﹁水の上に滌ぎし時﹂
も含むとする︒﹁上つ瀬﹂のように上流を意味するカミではな
く︑水面の意であるウヘの語であることを指示すると考え︑こ
こではウハツと訓むことにした︒
ワタツミについては︑神生み段で大綿津見神が誕生している︵﹁教室で読む古事記神話︵四︶︱︱既生国竟更生神から遂神避坐也まで︱
︱﹂﹃語文﹄一六四輯︶︒﹁海の神︒ワタは海︑ミは神霊の意﹂︵時代別︶
とされる︒海の神だが︑それは単に自然物を表わすのではなく︑海の持つ機能を表わす名称と考えられる︒﹃万葉集﹄での﹁わた
つみ﹂は﹁珠﹂を持っているとされる︒その意味は不明だが︑珠の呪力に象徴される機能を持つ神であり︑潮位と潮流を司る
ことに基づく名だろう︒もちろん︑万葉歌の中には単に﹁海﹂
を意味する例もある︒しかし︑﹁万葉において﹃わたつみ﹄と
﹃海﹄﹃大海﹄﹃海原﹄等はまだかなりはっきりと使いわけられ︑
﹃大海﹄や﹃海原﹄が視覚的平面をさすにたいし︑﹃わたつみ﹄は
もっと霊的なものを起源とする語であった﹂︵西郷信綱﹁天智天皇﹂
﹃萬葉私記﹄未来社・一九七〇︶とされる︒
この三神は︑博多湾の入口︑福岡市東区志賀島に鎮座する志賀海神社の祭神である︒﹃延喜式﹄︵神祇・神名︶には︑﹁筑前国
曇連比羅夫命・信濃中将︵ものぐさ太郎のモデル︶を祭神とし︑御船祭りで知られている︒因みに︑対馬にも和多都美神社・和多都美御子神社がある︒
もちろん︑阿曇氏に関わる伝承を持ち︑和多都美神社には阿曇磯良︵阿曇氏の伝承上の人物︶が祀られ︑豊玉彦︵綿津見大神︶とその娘である豊玉姫の墓などがある︒天照大御神 アマ・テラ・スかアマ・テラスか︒﹁天にまし
まして照り給う神の意で日神﹂︵大系︶の意︒﹁原始的な太陽信仰
の神ではなく︑ヒルメよりも新しく政治性を帯びた存在である
とされる﹂︵注釈︶︒﹁天に照り輝きたまうような︑という称辞か
らなる︒﹃大御神﹄の﹃大御﹄も称辞だから︑この神はすべて称辞だけからなる︒太陽神という実質は名義の中には標示されて
いない︒むしろ︑実質を超越した︑至高性をもつ存在として示
されている﹂︵新編︶とする見方もある︒
さらに︑アマテラス・オホミカミという神名の中核はオホミ
カミにあり︑アマテラスではないとする説もある︒したがって︑略称を用いるとすれば︑オホミカミでなければならないと言う
︵三橋健﹃伊勢神宮 日本人は何を祈ってきたのか﹄朝日新聞出版・二〇一三︶︒確かに︑宗教法人としての伊勢神宮の立場はその通
りだろう︒しかし︑﹃古事記﹄というテキストの中で考える場合は︑天照という神の本質を見極める必要がある︒
﹁伊勢大神﹂﹁日神﹂などと記されて来たこの神に︑﹁天照大神﹂
という名を与えたのは天武天皇であり︑それは彼が感得した神
だとする説もある︵榎村寛之﹃斎宮︱︱伊勢斎王たちの生きた古代史﹄中央公論新社・二〇一七︶︒ と︑朝鮮半島への国際航路の要所に配置されている︒もちろん︑
いずれも式内社である︒また﹃住吉大社神代記﹄には︑さらに新羅・大唐にも鎮座していたとされている︒瀬戸内海の代表的な難所である明石海峡と関門海峡に近い播磨国と長門国には︑住吉大社の神領も置かれている︒その点も︑航海の神であることを窺わせる︒現在は︑外征の神の神功皇后
も祀られていて︑全部で四神である︒それが各地の住吉神社の社殿の基本的な形に反映している︒阿曇連等が祖神として以ちいつく神 古代の阿曇氏は海部を率いた中央の伴造氏族︒海部の貢納する海産物を中央で管掌す
る職務にあったとされる︒﹃日本書紀﹄︵応神天皇三年︶には︑阿曇連の祖大浜宿祢を﹁海人の宰﹂としたとする記事が見え
る︒推古朝以降は︑比羅夫・頬垂が対新羅関係で活躍している
が︑航海術に長けていることから︑有事の際は水軍に編成され
た︒天武十三年︵六八六︶には︑八色の姓制定に際して宿祢姓を賜った︒その発祥は︑筑前国糟屋郡︵福岡市の東に隣接︶と見られ
るが︑その後畿内のほか︑肥前・豊後・対馬・周防・播磨・隠岐・伯耆・阿波・淡路・近江・信濃などにも勢力を伸ばした︒
とりわけ摂津国西成郡安曇江一帯を拠点として︑﹁海人の宰﹂
として地位を得ていた︒海産物の貢納とともに︑水軍の長とし
ての役割を果たしていたものと考えられている︒
すでに述べたように︑志賀島に鎮座する志賀海神社の宮司は平成二十一年まで阿曇磯和氏が務めていた︒また︑長野県安曇野市穂高には穂高神社が鎮座するが︑これも阿曇氏の神であ
る︒現在は︑穂高見神・綿津見神・瓊瓊杵神・天照大御神・安
外宮からというのが古くからの習わしである︒外宮は雄略天皇二十二年に︑天照の神慮によって︑丹波国から現在の高倉山の麓の山田ケ原に鎮座したと言われる︒しかし︑﹃日本書紀﹄に
その記述はなく︑延暦二十三︵八〇四︶年に編纂された﹃止由気宮儀式帳﹄に見える︒もちろん︑歴史的事実とは考えられない︒
﹃万葉集﹄の大来皇女と大津皇子に関わる歌︵巻二・一〇五〜一〇六︑一六三〜一六六︶に︑﹁伊勢神宮﹂という記述が見える︒王権簒奪の企てと敗死という伝承を基にした歌群であろう︒月読命 天照が左目であるのに対して月読は右目だが︑律令的な価値観では︑天照の方が優位ということになる︒
ヨムは﹁数を数える︒月日を繰る﹂︵時代別︶意︒したがって︑
ヨミは数える意で︑月齢を数えることを意味する名であるとす
るのが通説である︒﹁日を数えるのがコヨミ︵カヨミの変化︶とい
うにたいし︑月を数えるのをツクヨミという︒︵中略︶月をヨム
とは︑たんに数えることではなく︑ウラナフというにほとんど近かったと思う︒︵中略︶天照大神が女性であるにたいし︑月読命は男性であった﹂︵注釈︶と見てよい︒天照が機能に関わる神名であるのと同様に︑月読も機能を示す名であろう︒
﹃日本書紀﹄の例だが︑﹁一書に伝えられた﹁月弓尊﹂は月の形状からの命名︑﹁月夜見尊﹂は︑夜︑天空に輝くという働き
から︑﹁月読尊﹂は月齢を読むということで暦の関係からの命名﹂︵菅野雅雄﹃現代語訳 日本書紀﹄新人物文庫・二〇一四︶とする説
もある︒したがって︑﹃古事記﹄の場合も月齢を数えることに基づく名称だと見てよい︒なお︑﹁月を読むことは航海の技術
であり︑元来は祭る者の職能神だという説が妥当か﹂と見る立 やがて皇祖神となって︑伊勢の﹁五十鈴の宮﹂︵天孫降臨段︶︑
すなわち皇大神宮に鎮座する︒﹃日本書紀﹄︵垂仁天皇二十五年三月︶
には︑倭姫命が鎮坐地を求め︑菟田の筱幡︑近江国︑東美濃︑
そして伊勢国へと遍歴する︒伊勢国に辿り着いた時︑天照は﹁是
の神風の伊勢国は︑則ち常世の浪の重浪帰する国なり︒傍国の可怜国なり︒是の国に居らむと欲ふ﹂と述べ︑﹁祠﹂を伊勢国に立てたという︒鎌倉時代に成立した﹃倭姫命世記﹄では︑伊勢
に到達するまでの経緯がより詳しく語られているが︑これが内宮である︒もともと神とは︑その土地と一体化したもので︑巨岩・巨木がその典型だが︑本来神社とは動かしにくいものであ
る︒しかし︑天照は伊勢に遷移した︒﹁動く神﹂であると言っ
てよい︒動かし難い大物主神や大和大国魂神などとは異なり︑天照は﹁自由な神であった︑その意味では︑鏡を神体として伊勢へ遷移できた神格は新しいステージの神格だということにな
る﹂︵榎村寛之﹃伊勢神宮と古代王権 神宮・斎宮・天皇がおりなした六百年﹄筑摩書房・二〇一二︶︒
なお︑南北朝時代の説話集﹃神道集﹄や﹃平家物語﹄の注釈﹃平家打聞﹄には︑日の神︵天照大神︶を男神とする記述もあり︑﹁男神説は女神説よりも古体を留める﹂︵三橋健﹃伊勢神宮 日本人は何
を祈ってきたのか﹄朝日新聞出版・二〇一三︶とする見方もある︒だが︑
﹃古事記﹄では︑湏佐之男が天照との関係を言う際に﹁ナガセ﹂
という異性を指す言葉が用いられる︒どちらかと言えば︑男神説は後世的であろう︒因みに︑伊勢神宮には皇大神宮と豊受大神宮︵伊勢市豊川町︶
があるが︑現在では必ず外宮が先に祭祀を行なう︒参拝の際も