はじめに
絵本・マンガ・CMなどの媒体において︑人間のようにふる
まう動物が登場する事例は枚挙のいとまがない︒矢野智司﹃動物絵本をめぐる冒険 動物︱人間学のレッスン
本︵動物の登場する絵本︶における動物を﹁人間にとって自分 ﹄では︑動物絵 1
の経験のうちに理解可能なものとして回収することのできない
﹁他者﹂の表れ﹂であるとし︑そこで用いられる擬人法を﹁他者
としての動物をデフォルメして人間化する生の技法﹂であると
する︒そして具体的な技法として︑①頭部を拡大すること②表情を表現すること③直立歩行すること④言葉を話し服を着るこ
と⑤名前をもつこと︑の五つを挙げている︒
このような技法による動物の擬人化は︑絵本以外の媒体にお
いても見いだせるものである︒例えば多様な動物たちの学園生活を描くマンガ﹃
BEAST AR S
身体を持ちながら豊かな表情を見せ︑直立歩行し︑言葉を話し︑ ﹄では︑動物たちは動物としての 2 衣服を着用し︑それぞれに固有の名前を持っている︒なお︑こ
のマンガでは動物たちが異種間の分断をどう乗り越えるかが
テーマの一つとなっているが︑これは現実の人間社会における分断や差別の問題をほうふつとさせる︒
また︑情報・通信事業会社ソフトバンクのCMに登場する犬
は︑直立歩行はせず︑衣服も着用していないが︑言葉を話し︑呼び名を持っている︒このCMでは︑何の変哲もないように見
える犬が言葉を話すのみならず︑人間たちで構成される一家の
なかで父親の立場から発言するという意外性が軽妙な面白さを生みだしている︒
ところで︑絵本・マンガ・CMにおける動物の擬人化は︑い
ずれも絵や映像による表現を伴っている︒では︑主にことばと所作を表現手段とする話芸の領域では︑人間のようにふるまう動物はどのように表現されるのだろうか︒作中で動物が言葉を話す行為はどのような意味を持ち︑動物と人間はどのような関係にあるものとして描出されるのだろうか︒ ︿研究へのいざない﹀
佐 藤 至 子 落語 における ︿ 言葉 を 話 す 動物 ﹀ の 表象
﹁なんだ︑はっきりしねえ野郎が来やがったなァ︑おい︒
なんだか狸がもそもそ言ってるようでわからねえじゃねえ
か﹂﹁その狸です﹂狸は言葉を話しているが︑発音が不明瞭である
︒狸は家の外 5
にいるので︑男は来訪者が狸であることに気づいていない︒そ
こで﹁狸がもそもそ言ってるようで﹂と指摘するのだが︑狸が
﹁その狸です﹂と答えるところが可笑しい︒ここでは︑不明瞭
な発音は︿狸らしさ﹀の表れとして描かれている︒
この後︑男は戸を開け︑狸は狸の姿のまま家に入る︒狸は男
のおかげで命拾いをしたと礼を言い︑恩返しをしたいと申し出
る︒博奕好きの男は︑狸に賽子に化けてくれるよう頼む︒狸は賽子に化け︑男はそれを持って賭場に行き︑博奕仲間の男に差
し出す︒仲間の男はそれを不審そうに見る︒
﹁なん︑なん︑変な手つきしてんなよ︒すッと出せよ︑こっ
ちへ︵右手を差し出し︑上手横を振り返り︶ええ? いや︑
こいつのを使わしてくれッてんだよ︑これ︵右の掌をあわ
てて見て︶なん︑なんだか今むずむずッとしたぞ﹂
﹁そんなことァねえやな︒気のせえだろう︑それァ﹂
﹁なんだか生暖けえじゃねえか﹂
﹁懐ィ突っ込んでるから暖まってるんだよ﹂
﹁⁝⁝そうか?︵賽を床に転がして置く︶いや︑それァねェ︑
おめえのことだからね︑安心はしてるけどもねェ︒でも︑疑ぐるわけじゃァねえけどもよゥ︑一応はこれで⁝⁝︵右手の親指と人差指でつまんで力を入れて廻すこと二度︶﹂ 本稿ではこのような問題意識から︑言葉を話す動物が登場す
る古典落語を取り上げて考察する︒
﹃狸賽﹄の狸
言葉を話す動物が登場する古典落語としては︑﹃狸賽﹄﹃安兵衛狐﹄﹃元犬﹄﹃大どこの犬﹄などが挙げられる
︒まず︑現在で 3
も比較的演じられる機会の多い﹃狸賽﹄を五代目柳家小さんの口演速記に拠って見てみよう
︒この噺は︑子供にいじめられて 4
いた狸を男が助け︑それに恩を感じた狸が男に恩返しをしよう
とする筋立てである︒狸が恩返しのために男の家を訪れる場面は︑次のように演じ
られている︒﹁︵うつむいて︑扇子の要で床をトントンと叩きながら高
い声で︶こんばんわッ︵叩く︶こんばんわッ︵また叩く︶
ちょっとあけてくださいまし﹂﹁︵前かがみになって寝ている心で下手遠くへ︶おォゥ︑だ
れだい? 寝ちゃったんだ︑もう︒明日にしねえかい︑だ
れだよゥ⁝⁝﹂﹁︵はっきりしない口調で︶たぬゥ⁝すゥ﹂
﹁ええ? だれェ?﹂﹁︵同じく︶たぬゥがすがなァ﹂
﹁民公かァ?﹂
﹁たぬゥ⁝すゥ﹂
﹁竹かァ﹂
﹁いえェ︑た ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ぬゥはァすふァ⁝⁝﹂
体は狐︶が安兵衛の前に現れ︑女房にしてくれと言う︒二人は夫婦になるが︑長屋の者たちは女が狐ではないかと疑う︒女が逃げた後︑長屋の者たちは安兵衛も狐ではないかと疑い︑安兵衛の伯父を訪ねて真偽を問う︒
﹃狸賽﹄では︑狸は不明瞭な発音をするものとして描かれて
いた︒狐の場合はどうか︒女に変身した狐が安兵衛の家を訪れ
る場面は︑次のように演じられている︒狐﹁あの︑もし︑あのォ︑そこにおいでになるおかた
⁝⁝﹂安﹁えッ
安﹁お里?あッ︑お里さんとはよほど前に⁝⁝︒ 狐﹁あたくしは︑あの︑お里の娘でございます⁝⁝﹂ 安﹁えー︑あっしは安兵衛ですが⁝⁝︒おまえさん︑だれ?﹂ 狐﹁あの︑あなたは︑安兵衛さんじゃ︑ございませんか﹂
⁉
﹂ほォう︑おまえさん︑お里さんの娘さんで?﹂狐﹁はい︑母があなたに︑いろいろお世話になったと申し
ておりまして⁝⁝﹂狐の言葉には安兵衛が不審に思うような不明瞭な部分はな
い︒ゆえに安兵衛は︑お里の娘と名のる狐の嘘を信じてしまう︒
だが︑長屋の人々は安兵衛の女房になった女の様子がおかしい
と言い始める︒丙﹁目がキョトンとしてやがってよ︑え︑耳がこのピョン
と立ってるようで︑こう︑口が少ォし︑トンガラがって
いるようでね︑変だよ︑アレ⁝⁝﹂甲﹁そうか⁝⁝﹂ ﹁よせよゥ︑おい︑目が廻っちゃうぜ︑おい﹂
﹁賽ころが目が廻るわけァねえじゃねえか︒てやんでえ︑
いいか︑こういうものはねェ︑ちょいと目の変わりを見る
んだ︵賽をもてあそび︶どう変わるかよゥ︒︵振り︶おめえ
のことだから⁝⁝︵もう一度振り︑じっと賽を見つめ︶変
だなァこの賽ころは︒転がらねえで︑ずってくじゃねえか︑
おい﹂狸の化けた賽子は生暖かく︑転がらない︒ここでも狸として
の身体性︑︿狸らしさ﹀が表現されていると言える︒この後︑狸は男の指示を誤解し︑壺皿のなかで賽子ではないものに化け
てしまう︒
この噺では︑狸の行動は常に何かしらの︿狸らしさ﹀を伴っ
ている︒賽子に化けたものの︿狸らしさ﹀を隠し切れないとい
う点でこの噺は狸の失敗譚なのだが︑その︿狸らしさ﹀の表出
こそが︑噺を聴く者の笑いを誘うのである︒
﹃安兵衛狐﹄の狐
次に︑人間に変身した狐が登場する﹃安兵衛狐﹄を五代目古今亭志ん生の口演速
記に拠って見ていく︒あらすじは次のよう 6
なものである︒六軒からなる長屋があり︑隣り合う二軒に安兵衛と源兵衛が住んでいる︒源兵衛は墓地で骨を供養し︑幽霊を女房にする︒安兵衛はそれをうらやましく思い︑真似をしようと墓地へ行
く︒だが適当な墓が見つからず︑たまたま出会った猟師から狐
を買い取って逃がしてやる︒ほどなく﹁おコン﹂と名乗る女︵正
しまったと解釈できる︒動物による恩返しが失敗に終わる点で︑﹃安兵衛狐﹄は﹃狸賽﹄
に似ている︒だが﹃狸賽﹄の狸が︿言葉を話す動物﹀として男の
もとにやって来たのに対し︑﹃安兵衛狐﹄の狐は人間として安兵衛のもとを訪れ︑そのまま共に暮らしている︒ゆえに正体を見破られそうになった時︑狐は人間として生きることを捨てて出ていかざるを得なくなった︒この噺は︑動物が人間として人間の世界に入ろうとしたが︑結局は人間になりきれずに退場す
る噺であると言えるだろう︒
﹃元犬﹄の犬
﹃元犬﹄は︑犬が人間に変身する噺である︒これも五代目古今亭志ん生の口演速
記を参照しよう︒あらすじは次のとおりで 7
ある︒八幡宮の境内にまぎれ込んできた白犬が︑人間に﹁白犬は人間に近いってえからナ︑今におめえは︑人間に生まれるぞ﹂と言われ︑そのつもりになって八幡様に願をかける︒満願の日︑白犬は男に変身し︑たまたま通りかかった上総屋の旦那に奉公先の世話を頼む︒上総屋は男を自宅に伴い︑衣服を着せてから奉公先へ連れて行くが︑男は雑巾をすすいだ水を飲む︑履くべ
き下駄をくわえる︑歩きながら片足をあげて小便をするなど︑何かにつけて犬を思わせる行動をとるので︑上総屋はそれらを
いちいちたしなめる︒奉公先は変わり者を好む隠居の家で︑男
が﹁掃溜ン中で生まれたんです﹂と言うと︑隠居は﹁掃溜のよう
なところで生まれた﹂という意味だと解釈する︒隠居が﹁茶で 丙﹁そうだよ︑それでなんかのなんでありますって言う︒
しまいに︑〝コン〟ってやがる︒こないだも朝ね︑井戸端で会ったから︑〝おはよう〟ったらね︑〝おはようござ
います︑コーン〟ってやがらァ﹂甲﹁ふふーン⁝⁝﹂丙﹁だから︑ありゃァね︑ことによると︑キツネ⁝⁝キツ
ネじゃねえかなァ﹂人々は︑女の外見︵目つき︑耳・口の形︶と発話︵﹁コーン﹂
と言う︶に︿狐らしさ﹀を見いだしている︒そして︑そのこと
を女に直接言いに行く︒甲﹁えー︑ところでですね︑ちょいと伺いたいんですがね︑
ね︑これはみんなが言うんですよ⁝⁝︒
あなたはいい女ですよ︑いい女だけれども︑目がキョ
トーンとしていて︑口がピョイととんがらかっててね︑え︑
ことによったら︑あなたは魔性のもんじゃない? ことに よったら︑あなたは何かの化身じゃないか? 化けている
んじゃないか︑なんて言ってましたよ⁝⁝﹂狐﹁︵驚きあわてて︶あ︑そおッ⁝⁝さようでございますか︒
アッハッハ⁝⁝﹂ ってえと︑家ン中ァグルグルッとまわるってえと︑
ターッと飛び上がって︑引き窓からどっか飛んでっちゃっ
た︒家の中をぐるぐる回る︑飛び上がるといった行動は︿狐らし
さ﹀の表れと見なしうる︒人間に変身した狐は︿狐らしさ﹀を人々に指摘された結果︑動揺してさらに︿狐らしさ﹀を見せて
乾物屋の軒先に捨てられていた三匹の子犬の兄弟︵クロ・ブ
チ・シロ︶は︑小僧に拾われ︑乾物屋の飼い犬となる︒そのうち︑
クロだけが大阪の鴻池にもらわれていく︒クロは鴻池の家で大
きく成長する︒そこに弟のシロがやって来て︑クロと再会する︒
クロとシロが再会する場面は︑次のように演じられている︒
﹁おやおやおやッ︑向こうから見慣れねえ犬が来やがった
なァ︒この近所の犬じゃァねえぞ︒どこの犬だろうなァ
⁝⁝はァ︑流離の犬だなァ︒おそろしいきたなくなってや
ンじゃねえかねェ︒どうだい︑鼠色の犬がきやがった︒︵低
い声で︶ウ⁝わゥ︑ウ⁝わん﹂﹁︵かん高く︶わんわんわんわんわんわん⁝⁝わウッ⁝⁝﹂﹁︵低く︶ウ⁝わウ﹂﹁︵かん高く︶わんわんわんわん﹂﹁︵低く︶ウ⁝わウ﹂﹁︵かん高く︶ウ⁝わんわんわんわん﹂ ッて︑これァ犬語でございます︒何時間やってたってお判りにならないんでございますが︑これァ翻訳をいたしま
すと︑﹁見慣れねえな︑てめえ︒どこの犬だ﹂
﹁へえ︒ェェちょいとうかがいますが︑この大阪の鴻池と
いうお宅がございますか﹂
﹁鴻池はおれンとこだよゥ﹂
﹁へへえ︑お宅さまが鴻池⁝⁝そうですか︑へェえ︑そりゃ
よかったなァ⁝⁝こちらにクロという犬がおいでになりま
しょう?﹂ も煎じて入れるから︑焙炉取ンな︒そこのほ ﹅﹅﹅いろ︑ほ ﹅﹅﹅いろ
⁝⁝﹂と言うと︑男は﹁吠えろ﹂と言われていると思い﹁ウー︑
ワン!﹂と吠える︒隠居が﹁お元や︑お元ォ︑もとは居ぬか?﹂
と女中のお元を呼ぶと︑男は﹁今朝ほど人間になりました﹂と答える︒
この噺も﹃安兵衛狐﹄と同様に︑人間に変身した動物が人間
たちの前に現れる噺である︒しかし白犬は自ら祈願して人間の身体を得たものの︑人間らしいふるまい方は身につけていな
い︒そのため︑その行動にはほぼ常に︿犬らしさ﹀がにじみ出
てしまう︒人間に変身した動物が見せる︿動物らしさ﹀に人間たちが違和感を覚える展開は︑﹃元犬﹄と﹃安兵衛狐﹄に共通している︒
ただし︑動物に対する人間たちの行動には違いがある︒﹃安兵衛狐﹄では︑人間たちは女︵狐︶の発話や外見の奇妙さに気づき︑女︵狐︶に﹁あなたは何かの化身じゃないか?﹂と指摘し︑女
︵狐︶は人間の世界から退場せざるを得なくなる︒一方︑﹃元犬﹄
では︑人間たちは男︵白犬︶の挙動の奇妙さに気づきながらも︑衣服や奉公先など︑人間として生きていくために必要なものを男︵白犬︶に与えていく︒﹃元犬﹄は︑動物が奇妙な人間として人間たちに受け入れられていく噺であると言える︒
﹃大どこの犬﹄の犬
﹃大どこの犬﹄は︑人間と動物の会話ではなく︑動物どうし
の会話を描いた噺である︒ここでは八代目林家正蔵の口演速
記 8
を参照する︒あらすじは次のとおりである︒
は見えてこない犬の世界が﹁翻訳﹂によって可視化される点︑
かつ︑その世界が人間の世界に擬されている点にこの噺の面白
さがある︒
おわりに
言葉を話す動物が登場する古典落語として︑﹃狸賽﹄﹃安兵衛狐﹄﹃元犬﹄﹃大どこの犬﹄を取り上げて考察した︒動物と人間
の関係に着目すれば︑これらの噺は︑動物が人間たちの世界に入っていく噺と︑動物の世界を人間の世界になぞらえて描く噺
の二つに分けられる︒矢野智司﹃動物絵本をめぐる冒険 動物︱人間学のレッスン
﹄ 9
では︑動物絵本を①動物だけが登場する絵本②動物の世界に人間が入っていく絵本③人間の世界に動物が入ってくる絵本④一人の人間と一匹の動物とが出会う絵本⑤人間が動物に変わる絵本・動物が人間に変わる絵本︑の五つに分類している︒﹃狸賽﹄
﹃安兵衛狐﹄﹃元犬﹄は︑動物が単独で人間の世界に入っていく噺であり︑矢野の分類の③にあてはまる︒﹃安兵衛狐﹄と﹃元犬﹄
は動物が人間に変身する噺でもあり︑⑤にもあてはまる︒これ
らの噺に共通するのは︑動物が言葉を使って人間と意思を通じ合わせる点︑および︑動物が人間に接近しながらも本来の︿動物らしさ﹀を見せてしまう点である︒
﹃大どこの犬﹄では︑言葉を介した動物と人間の交流は描か
れず︑人間の世界と動物の世界は明確に分けられている︒この噺では動物たちの会話が人間の言葉に﹁翻訳﹂されることで︑ ﹁クロはおれだァな﹂﹁あゝ︑あなたがクロですか︒お兄さん︒おなつかしゅう
ございます﹂
﹁よせやい︒てめえのようなきたねえ灰色の犬に︑おめえ︑
お兄さんなんて言われるおぼえはねえぞ﹂
﹁お見忘れでございますか︒石町︵本石町︶の乾物屋の表ェ捨てられました三匹の犬のうちの︑あたくしはシロでござ
います﹂二匹の犬の再会は︑はじめは犬どうしが﹁わんわん﹂と吠え合うかたちで演じられる︒これは人間から見た犬たちの様子を描写したものである︒次に︑犬の声を人間の言葉に﹁翻訳﹂し
たものが演じられる︒それが﹁見慣れねえな﹂以下の会話であ
る︒犬たちの会話からわかるのは︑クロに対してシロが敬語を使っていること︑クロの言葉がいわゆるべらんめえ調であるこ
とである︒クロとシロの上下関係と︑クロが親分肌の犬である
ことが伝わってくる︒
この後︑シロは﹁こういうことを申しあげますのも涙の種で︑
へえ︒まァひととおり︑お聞きなすっておくんなさいまし﹂と︑
やや芝居がかった口調になり︑クロがもらわれていった後に自分とブチが捨てられ︑ブチが事故死したことを語る︒
﹁翻訳﹂された犬たちの会話によって︑作中の犬たちが人間
のような上下関係を持ち︑人間のように身の上ばなしを語って
いることが明らかになる︒犬たちは人間と同じような感性や関係性をもった存在として立ち現れてくる︒吠え声を聞くだけで
︵ 庫︑筑摩書房︑一九九〇年︒ 4︶柳家小さん著・飯島友治編﹃古典落語小さん集﹄ちくま文
︵
明瞭なものとして演じている︒﹃志ん生滑稽噺志ん生の噺 5︶五代目古今亭志ん生も﹃狸賽﹄のこの場面では狸の発音を不 1﹄︵ちくま文庫︑筑摩書房︑二〇〇五年︶参照︒
︵
6︶古今亭志ん生﹃志ん生滑稽噺志ん生の噺
1﹄注 5前掲書︒
︵
7︶古今亭志ん生﹃志ん生滑稽噺志ん生の噺
1﹄注 5前掲書︒
︵
房︑一九七四年︒ 8︶八代目林家正蔵演・東大落語会編﹃林家正蔵集下巻﹄青蛙
︵
9︶矢野智司﹃動物絵本をめぐる冒険動物︱人間学のレッス
ン﹄注
1前掲書︒
︵
10 ︶柳家喬太郎﹃喬太郎落語秘宝館
3﹄︵CD︶アモンエンター
プライズ︑二〇〇六年︒﹃バイオレンスチワワ﹄は二〇〇六年一月二十五日の口演︒
︵
11 ︶三遊亭円丈﹃三遊亭円丈落語コレクション7
th.﹄︵CD︶ア
モンエンタープライズ︑二〇〇八年︒﹃新ぐつぐつ﹄は二〇〇八年三月二十七日の口演︒
︵さとう ゆきこ︑本学教授︶ 動物の世界と人間の世界との重ね合わせ︵なぞらえ︶がおこな
われる︒これは矢野が示した動物絵本の分類のいずれにもあて
はまらない︒
ちなみに︑新作落語﹃バイオレンスチワワ
﹄と﹃新ぐつぐつ 10
﹄ 11
にも︑﹃大どこの犬﹄と同様の表現構造︱︱人間の世界と動物
︵非・人間︶の世界が平行して描写され︑動物︵非・人間︶の世界が人間の世界に擬せられる構造︱︱が見られる︒﹃バイオレ
ンスチワワ﹄では︑チワワの飼い主と知人たちが会話する様子
と二匹のチワワの吠え合う様子が演じられた後に︑そのチワワ
の声を人間の言葉に﹁通訳﹂したもの︵二匹のチワワの会話︶が演じられる︵こうした展開にも﹃大どこの犬﹄との類似が見い
だせる︶︒また︑﹃新ぐつぐつ﹄では︑おでん屋の主人と客の会話と︑おでんのタネたちの会話が交互に演じられる︒﹃大どこ
の犬﹄の表現構造は︑動物以外の非・人間の世界の描出にも有効であることがわかる︒
注︵
1︶矢野智司﹃動物絵本をめぐる冒険動物︲人間学のレッス
ン﹄勁草書房︑二〇〇二年︒
︵
BEASTARS2︶板垣巴留﹃﹄一〜六巻︑少年チャンピオンコミッ
クス︑秋田書店︑二〇一七年︒
︵
3︶古典落語には動物の登場する噺が複数あるが︑それらすべ
てに言葉を話す動物が登場するわけではない︒例えば博奕打
ちが猫を飼う﹃猫定﹄や︑茶店の猫を道具屋が買い取ろうとす
る﹃猫の皿﹄は︑猫が重要な役割を果たす噺だが︑猫が人間の言葉を話す場面はない︒