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初期同志社大学神学部の韓国人留学生に関する研究 (1908‐1945年)

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(1)

著者 李 徳周

雑誌名 基督教研究

巻 73

号 2

ページ 1‑32

発行年 2011‑12‑05

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013151

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初期同志社大学神学部の韓国人留学生に 関する研究(1908-1945年)

A Study on the Early Korean Students

in the School of Theology Doshisha University (1908-1945)

李 徳周 Deok-Joo Rhie

キーワード

同志社大学神学部、組合教会、韓国留学生、韓国神学、民族運動

KEY WORDS

Theological Department of Doshisha University, Congregational Church in Japan, Korea mission, Korean students, Korean theology, Progressive theology, Korean nationalistic movement, Christian socialism

要旨

 同志社大学神学部と韓国教会との関係は、19世紀末に推進された日本組合教会の朝 鮮伝道、及びその結果として成立した京城学堂との関係のなかで開始された。特に京 城学堂の校長として日本組合教会の韓国宣教を指揮していた渡瀬常吉の指導と推薦を 受けた京城学堂の卒業生と組合教会の信徒たちが、1900-10年代に同志社の神学部に 留学した後、帰国して、組合教会の牧師として活動したからである。しかし三一独立 運動を契機に、韓国の教会と社会の組合教会に対する認識が否定的に変更されて以後 の1920年代以降には、組合教会(後に、会衆教会に改名)を背景にした留学生は減 り、代わりに様々な教派や教団の背景を持つ神学生や牧会者たちが同志社に留学し て、カール・バルトの新正統主義神学、脱西欧的日本神学、キリスト教社会主義な ど、進歩的神学を学び、帰国後、韓国神学界で前衛神学運動を展開した。韓国解放前 の1945年までの間に同志社大学神学部で学んだ50余の学生たちにとって、同志社大学 神学部は学問の自由と進歩主義神学思想と実践的神学運動を経験することができた

‘ 理想郷 ’ であった。

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SUMMARY

 In the late 1890s, the relationship between the Theological Department of Doshisha and the Korean protestant Church began with the pro-Japanese connection of the mission to Korea from the Congregational Church in Japan (CCJ) and the Keijo School in Seoul. Accordingly, almost all of the first Korean students at Doshisha were sponsored and recommended by the Rev. Watase Tsuneyoshi, the principal of the Keijo School and a pioneer missionary to Korea of the CCJ. Upon returning home, these students took up service in preaching and evangelism for the Congregational Church in Korea (CCK), from the turn of the century through the 1910s. However, the changing views of the Korean people and Christians on the CCJ and CCK, which grew negative after the March 1st Korean independence movement of 1919, led to a decrease in CCK students at Doshisha and an increase in those from the various other denominational churches in Korea. From the 1920s, fifty Korean students could learn various theological subjects at Doshisha, such as the neo-orthodox theology of K. Barth, non-western Japanese indigenous theology, and Christian socialism. In this way, Doshisha came to be regarded with ‘theological nostalgia’ by the Korean students, as a place where they could experience academic freedom and learn progressive theologies with social concern.

1.序言

 京都の同志社は神戸の関西学院、そして東京の青山学院と共に戦前の韓国人牧会者 や神学者たちが多く留学をした代表的な日本の神学校であった。戦前の韓国キリスト 教は、宣教師たちを多く派遣していたアメリカやイギリスを初めとする西欧キリスト 教の神学からも多く影響を受けたが、これら日本の神学校で留学を経験した牧会者や 神学者たちを通して、日本のキリスト教からも影響を受けた。日本の神学校留学生た ちは様々な形で、韓国教会や日本教会の間で架橋の役割となった。

 しかし、韓国と日本は過去の不幸な歴史とその記憶のため、宗教文化的交流が活発 ではなかったことも事実である。そのような背景で、未だ韓国教会史において日本の 神学校に留学をした韓国人の学生たちについての研究はいまだ進捗していない1。  この研究は、戦前の同志社で勉強した韓国人牧会者や神学者たちが、帰国後どのよ うな活動をし、その過程で同志社で学んだ神学と学問が韓国教会にどのような影響を 与えたかを探ることが目的である。今回の研究のために、まず必要なことは同志社で

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神学を学んだ韓国人留学生の名簿を整理することである。このため同志社大学神学部 の原誠教授の大学院硏究チームが、同志社大学で所蔵されている学生関連の資料を発 掘、整理した。この資料を中心に筆者は去る2010年3月12日に開催された第1次メソジ スト神学大学校・同志社大学校神学部の間に学術交流セミナーで「初期の日本同志社 大学出身の韓国人留学生に関する研究」という論文を発表した2。そしてそのセミ ナーに研究発表者として参加した同志社大学の宇治郷毅教授から、先生が個人的に調 査、整理した韓国人留学生の関連資料を入手した3。これによってその間に日本と韓 国で印刷された同志社の朝鮮留学生の関連資料と同志社の卒業生たちの回顧録、韓国 の同志社同窓会の会員名簿、韓国基督教人名資料等を総合して名簿を再整理し、彼ら の留学後の活動に対するより具体的な情報を得ることができた。

2.同志社と韓国人の留学生

1)京城学堂と組合教会

 今まで明かにされた資料によれば、同志社と韓国教会の最初の出会いは1896年4 月、同志社の卒業生、小島今朝次郎と神宮茂八が来韓してソウルに京城学堂を設立し て近代教育を始めたことされる4。京城学堂は1894年、日清戦争以後朝鮮半島を踏み 台としてアジア大陸で勢力を拡張しようとする日本の政治的目的を支援するために組 職された大日本海外教育会が主導して作った学校で、1895年、その会長であった東北 学院の押川方義院長が来韓し、駐韓日本公使井上馨に会い学校設立を論議した後、

1896年の上記の同志社の卒業生2名がソウルに到着して始めた学校である。このよう な背景で設立された京城学堂だったため日本式の近代教育と基督教の信仰教育を通し て、日韓両国間の友好的関係形成を標榜したが、その裏面には日本の朝鮮半島進出と 支配を支持、後援するという政治的な目的も内在していた。

 〈キリスト新聞〉の1898年1月13日に、同志社の創立者新島襄を紹介する長い文が 載せられた。それは、新島襄の生涯をたどり、アメリカで基督教を学んで大学を卒業 後、神学校で学んだ後、日本に宣教師として派遣され、宣教師として働きながら同志 社を創立し、生涯、これに献身的に関わった。勤勉で愛する心が多く、真実の仕事を した ” というものである5

 このように ‘ 肯定的な ’ 立場で新島襄の人生と信仰、基督教への回心、そして米国 留学と日本での伝道活動を紹介した後、同志社の設立過程も詳しく紹介した。多くの 誤解、批判を受けながら創立された同志社は、新島襄が日本に派遣される時に基督教 学校の設立が必要であることをアピールして、出席者から寄付金五千円を受け、当初 は学生の数が少なかったが、創立後14年目には900名近い学生が学ぶまでになった、

(5)

というものである6。この文章を書いた筆者は確認できないが、このような方法で同 志社は京城学堂を通して少しずつ韓国社会に知られ始めた。

 そして1899年、日本基督組合教会(以下、多くの場合、組合教会と表記する)の牧 師である渡瀬常吉が京城学堂の校長として赴任したことによって同志社と韓国教会の 間の関係はより緊密になった。渡瀬常吉は同志社出身ではなかったが、個人的に日本 の朝鮮半島進出政策を支持し、その脈絡で “ 日本基督教の積極的な朝鮮人伝道を通し て精神的な同化政策を推進する ” という内容の ‘ 朝鮮伝道論 ’ を広げた人物である。

彼は1899年から京城学堂の校長を勤め、1907年帰国して神戸教会で牧会する中、‘ 韓 日合併 ’ に合わせて1910年10月、組合教会が “ 朝鮮同胞の教化事業 ” を目的とする ‘ 朝 鮮伝道 ’ を本格的に推進することを決議し、渡瀬常吉を主任伝道者として任命し、

1911年6月、再び来韓した。この後、彼は組合教会と朝鮮総督府の積極的な支援を受 けて布教活動に臨み、7年目にソウルの漢陽教会と平壌の箕城教会を含めて全国に140 個の教会を設立し1万3千名の信徒を得た7

 このように渡瀬常吉が韓国で京城学堂の校長として8年、組合教会の伝道者として 14年間活躍したことによって得た弟子と信徒たちは多かったが、その中に組合教会の 伝道者で神学教育を受けるために同志社に留学した学生たちが出始めた。代表的な例 が同志社の ‘ 韓国人留学生1号 ’(1908年入学)で知られている洪秉璇である。彼は柳 一善と一緒に渡瀬常吉の京城学堂の弟子として組合教会の初期伝道活動に積極的な参 加した人物である。そして1912年入学した庾錫祐も京城学堂の出身であり、同年、同 志社に入学した鮮于筍は渡瀬常吉の平壌伝道活動に参加した組合教会の初期信徒であ る8。1910年代に同志社留学を終えて帰国し組合教会の牧会者として活動した呉相淳 も留学過程で渡瀬常吉の後援を受けたと推定される。このように韓国人の初期同志社 留学は京城学堂、そして組合教会と関連して成り立ったことが分かる。

2)近代化と民族啓蒙

 それでもすべての留学が京城学堂や組合教会と関連していたのではない。他の経路 を通じて同志社に対する情報を得て留学するケースもあった。1900年代に入るとすで に見た〈キリスト新聞〉のような基督教界の言論以外の一般的な言論にも同志社に関 する記事がたびたび掲載された。例えば1906年12月4日、〈皇城新聞〉に載せられた

“ 日本維新三十年史 ” という記事で、維新以後日本の宗教状況を紹介する中、同志社 の設立者新島襄の宗教活動を詳しく紹介し9、12月26日の新聞では維新以後日本教育 界を取り扱いながら同志社に対して紹介する中で “ 同志社会は耶蘇教主義と又当時に 外国語学が風靡天下する蓋時勢也 ”10として基督教の信仰と外国語の修業を同志社教 育の内容を紹介した。

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 前述の〈皇城新聞〉の記事が日本側資料を飜訳、紹介したものとするなら、1910年 4月、東京で発行された留学生の雑誌〈大韓興学報〉に掲載された “ 日本明治七年以 后教育界の新傾向 ” という記事は、韓国人留学生が調査し観察した結果を土台として 作成した文章という点で意味がある。‘ 海敖 ’ という筆名で文を書いた筆者は日本の 代表的な近代思想家である慶応大学の設立者、福沢諭吉と共に新島襄を “ 日本新教育 界の双親 ” と称しながら二人の間の差異に対して “ 福沢諭吉氏は物質的、智識的な泰 西の文明を輸入して新進青年を勧諭したが、新島襄は精神的、内面的な泰西の文明を 輸入して真摯恭虔する国民的な気質を養成する ” 事として説明した11。そして新島襄 の生涯と伝道活動、教育活動を詳しく紹介した後、新島襄が同志社を通じて追究する 教育目標を次のように紹介した。

 “ 新島襄が同志社に成功して漸次隆盛に至り此時は日本に欧米崇拝の気風が陶 然に一世を傾動する際である。於是いて基督教主義の学校が続々設立するに至っ た。新島襄の教育主義は宗教的な信仰に富み、高尚な品性がある文明的な紳士を 養成するに在った。12

 もっと言うならば筆者は韓国の基督教が1903-1907年初期の復興運動以後、教勢が 急増した状況を念頭に置いて同志社式の近代化方法論を紹介した。すなわち、宗教を 排除し近代化を追求する福沢より宗教(基督教)思想を土台とした近代化を追究した 新島襄式の近代化が韓国状況に適合するという結論を出した。

 “ 故に余は日本の新島襄が如き人物が幾百幾千、現出することが必要であると 思う。(中略)我帝国前途に在して欧洲の文化を輸入する者は、唯基督主義の教 育に在りて、自由の思想を煥発する者も此に在して四千年の間暗黒であった家庭 を改良する者も、此に在して福音を信頼して進歩心を喚起する者も、此に在って 同胞相愛して精神的な団結を作る者も、(後略)13

 このように韓末近代化を追究した韓国の知識人社会で新島襄と同志社は ‘ 基督教の 信仰と思想を土台にした文明近代化 ’ の望ましいモデルとみられた。このような韓末 民族主義言論に現われた同志社に対する肯定的な評価と記録は、新しく学問と思想を 習得するために日本留学を意図する青年学生たちにとって同志社入学へと向かわせる 要因の一つとして作用した。このような要因は前の京城学堂や組合教会を媒介にして 成り立った同志社の留学とは違う性格の事柄として、‘ 祖国の近代化 ’ を願う民族主 義的な性格に通じる面がある。

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3.同志社の韓国人留学生名簿の整理と分析

 戦前の同志社に留学した韓国人留学生の名簿を整理する作業は、次の四つの資料を 総合して成り立つ。すなわち、1)同志社大学神学部の原誠教授の研究チームが同志 社大の所蔵資料を検討して作成した韓国人卒業生の名簿(2010年2月15日現在)14、2)

1927年日本京都で発行された京都戦後留学生学友会の機関誌〈学潮〉に収録された当 時の同志社卒業生の名簿、3)1936年同志社大学創立50周年で同志社戦後留学生会で 発行した〈同志社朝鮮人留学生名簿〉、4)それ以外に韓国で発行された新聞と雑誌、

個人回顧録、戦後韓国で発行した〈韓国同志社同窓会会員名簿〉などである。

1)韓国人留学生の名簿(1945年以前)

名前 本籍 出生 性別 教派 出身学校 入学 中退 卒業 所属学校 洪秉璇 京城 1888 組合 京城学堂 1908 1911 同志社神学校 吳相淳 京城 1894 組合 儆信学校 1912 1917

同志社大 神学部 李昌成 京城 1887 長老 1912 1915

庾錫祐 京城 1887 組合 京城学堂 1912 1915

柳一重 1913

張執 京城 1888 1913

鮮于筍 平壤 1891 組合 1916 金英吉 平北 江界 1887 組合 1917 1918

李泰奎 平南 1896 1917

朴洛欽 平北 1897 1917

鄭芝溶 忠北 沃川 1903 天主 徽文高普 1923 1923

同志社 專門学校

神学部 朴濟煥 京城 1905 徽文高普 1923 1923

朴龍洙 平壤 1903 同志社中 1924 1924 趙龍基 慶北 英陽 1903 自治 1925 1928 朴俊泳 全南 1901 長老 湖南師範 1926 1930 禹敬學 平南 大同 1899 平壤高普 1927 1931 李在福 慶北 迎日 1906 長老 同志社中 1931 1942

李龍大 1931 1934

崔文植 慶北 大邱 1905 長老 崇實專門 1932 1933 金泰默 慶北 大邱 1908 長老 同志社豫 1933 1936

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李達實 慶北 大邱 長老 1933 1937

同志社大学 文学部神学科

尹德守 全南 高興 長老 1934 1935

全順得 慶北 大邱 1913 長老 同志社女專 1934 1937 金延鶴 咸南 文川 1911 長老 同志社豫 1935 1935 禹益鉉 慶北 慶山 1913 長老 同志社豫 1937 1940 朴商來 忠南 唐津 1908 監理 延禧專門 1937 1940 申日平 濟州 1906 立命館豫 1937 1940 權東哲 慶北 義城 1916 長老 同志社豫 1938 1941 方華日 平北 宣川 1917 長老 靑島商業 1938 1941 徐南同 全南 務安 1918 長老 新興学校 1938 1941 鄭大爲 咸南 元山 1918 長老 崇實中学 1938 1941 尹聖範 平北 雲山 1916 監理 光成高普 1939 1941 金德俊 咸北 會寧 1920 長老 鏡城高普 1940 1942 玉文錫 慶北 義城 1916 長老 立命館豫 1940 1942 尹敬道 慶北 安東 1916 長老 同志社豫 1941 1944 姜成甲 慶南 昌寧 1912 長老 延禧專門 1941 1943 梁原英信 全南 潭陽 1917 長老 普成專門 1941 1942 金川泰有 平北 義州 1916 監理 メソジスト神学 1941 1943 田村榮助 京城 1920 監理 メソジスト神学 1941 1942

安言約 慶北 金泉 1919 長老 同志社豫 1942 1944 吳銀洙 慶北 義城 1918 長老 同志社豫 1942 1944 金相道 慶南 昌原 1915 長老 中央神学 1942 1944 竹本寬治 京畿 龍仁 1905 長老 中央神学 1942 1944

卞文一 忠南 牙山 1922 橫濱專門 1942 1947 岩本光正 全北 沃溝 1921 橫濱專門 1942 1947

韓晳曦 濟州 1919 日基 同志社豫 1942 1946 小泉寬祐 咸北 淸津 1916 日本大学 1942 1944

康觀興 平南 平原 1912 吉林神学 1942 1945 金光鐵鉉 忠南 康津 1922 大阪外國 1943 1948 江陵亨撤 咸南 定平 1922 1943 1948

金元治 咸北 明川 1922 1944 1945 廣田勝男 京畿 1920 1944 1948

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方山俊弘 平北 1922 1944 1948 同志社大学 文学部神学科 道川鶴根 慶南 1923 1945 1948

 この資料から留学生54人の名簿が確認できる。この名簿は入学を中心に整理したこ とから中退者や卒業が不明な人々も含まれている。この名簿に含まれていない同志社 神学部(あるいは神学科)留学生たちもいると思われる15。そして正規学生ではない が短期の研究生、あるいは聴講生として同志社で学んだ場合もある。1936年に洪顯 卨16、1941年に李浩雲が17それぞれ1年間、聴講生として学んだことが代表的な例であ る。そして神学部や神学科出身ではないが同志社の他の学部と学科を卒業して帰国し て韓国基督教の機関や団体で宗教指導者として活動した場合も多かった18。神学部以 外の学科を卒業したキリスト者の留学生たちまで含めると、その数字はもっと増える だろう。しかしここでは同志社で ‘ 神学専攻 ’ として入学した留学生を中心に特徴的 な面を探ってみることにする。

2)入学年度別 分析

入学年度 名前

1908 洪秉璇

1912 吳相淳 李昌成 庾錫祐 1913 柳一重 張執

1916 鮮于筍

1917 金英吉 李泰奎 朴洛欽 1923 鄭芝溶 朴濟煥

1924 朴龍洙 1925 趙龍基 1926 朴俊泳 1927 禹敬學

1931 李在福 李龍大 1932 崔文植

1933 金泰默 李達實 1934 尹德守 全順得 1935 金延鶴

1937 禹益鉉 朴商來 申日平

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1938 權東哲 方華日 徐南同 鄭大爲 1939 尹聖範

1940 金德俊 玉文錫

1941 尹敬道 姜成甲 梁原英信 金川泰有 田村榮助

1942 安言約 吳銀洙 金相道 竹本寬治 卞文一 岩本光正 韓晳曦 小泉寬祐 康觀興

1943 金光鐵鉉 江陵亨撤

1944 金元治 廣田勝男 方山俊弘 1945 道川鶴根

 合併(1910年)以前の入学生では洪秉璇が唯一であり、合併以後3・1運動(1919 年)以前の1910年代の留学生は9人である。この初期同志社留学生たちは渡瀬常吉の 京城学堂と組合教会の出身者たちが主流をなしたことがわかる。しかし3・1運動を経 験した後、組合教会の正体を認識した韓国社会と教会は、教団名称を ‘ 会衆教会 ’ に 変えて持続的な伝道活動をしたが、組合教会からの韓国人信徒たちの離脱を阻むこと ができなかった。この背景によって1920年代の同志社留学生は6人に減ったが、これ らの人々も組合教会(会衆教会)の背景ではなかった。それでも1930年代に入って留 学生は毎年、増え、その傾向1940年代初盤まで続いた。このような神学部留学生の動 向は他の科を含む同志社全体留学生の動向と共通している19。同志社全体の留学生の 10%に少し及ばない神学部留学生の年度別入学の動向も一般学生の動向と同じことで 1930-40年代に急増した。韓国社会で抗日民族主義の意識が強く反影された1910-20年 代と違い1930-40年代には日本と日本留学に対してより開放的だった社会雰囲気が反 影された結果である。

3)入学年齡別分析

入学當時 年齡 名前

18歳 吳相淳 朴濟煥

20歳 洪秉璇 朴洛欽 鄭芝溶 徐南同 鄭大爲 金德俊 卞文一 21歳 李泰奎 朴龍洙 全順得 方華日 田村榮助 岩本光正 22歳 趙龍基 權東哲 金元治 方山俊弘 道川鶴根

23歳 尹聖範 安言約 韓晳曦 金光鐵鉉 江陵亨撤

24歳 金延鶴 禹益鉉 玉文錫 梁原英信 吳銀洙 廣田勝男

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25歳 李昌成 庾錫祐 張執 朴俊泳 李在福 金泰默 鮮于筍 尹敬道 金川泰有

26歳 小泉寬祐 27歳 崔文植 金相道 28歳 禹敬學

29歳 朴商來 姜成甲 30歳 金英吉 康觀興 31歳 申日平

37歳 竹本寬治

未詳 柳一重 李龍大 李達實 尹德守

 国内の高等普通学校、あるいは中学校卒業直後にあたる18-20歳が9人で、神学校や 専門学校の年令層である21-25歳が40人で一番多い。26才以上29歳以下は6人で30歳以 上も4人がいる。26才以上留学生の中には国内で神学校や専門学校を卒業した者や牧 会経験がある伝道師たちも含まれる。

4)出身地域別 分析

出身地 名前

京城 洪秉璇 吳相淳 李昌成 庾錫祐 張執 朴濟煥 田村榮助 京畿 竹本寬治 廣田勝男

忠北 鄭芝溶

忠南 朴商來 卞文一 金光鐵鉉

慶北 趙龍基 李在福 崔文植 金泰默 李達實 全順得 禹益鉉 權東哲 玉文錫 尹敬道 安言約 吳銀洙

慶南 姜成甲 金相道 道川鶴根

全北 岩本光正

全南 朴俊泳 尹德守 徐南同 梁原英信 濟州 申日平 韓晳曦

江原

平壤 鮮于筍 朴龍洙

平南 李泰奎 禹敬學 康觀興

平北 金英吉 朴洛欽 方華日 尹聖範 金川泰有 方山俊弘 黃海

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咸南 金延鶴 鄭大爲 江陵亨撤 咸北 金德俊 小泉寬祐 金元治 未詳 柳一重 李龍大

 江原道と黄海道を除いて全国くまなく同志社へ留学したことが分かる。その中でも 慶北出身が12人で一番多く、ここに慶南出身3人を合わせるといわゆる ‘ 嶺南 ’ 出身が 15人で全体留学生の28%を占めた。これは日本の関西地域と慶尚道地域が地理的に近 く1910年代以後慶尚道出身たちが関西地域に集中的で移住した事実と繋がり、先に留 学してきた先輩たちが同じ地域の後輩たちに、学校を積極的に紹介した結果であり相 対的に多くの慶北地域出身たちが同志社に留学したことが窺える。そしてソウル出身 が7人、平北出身が6人で全南と忠南、平南、咸南、咸北出身が各3~4人である。

 このような出身地域の背景はすなわち留学生たちの教派、及び教団の背景と繋が る。韓国では宣教初期から長老会とメソジストの6つの宣教部が地域分割協定を結ん で宣教部別で地域を分担して宣教を推進した。その結果、地域別で特定教派宣教部が 排他的に宣教活動を独占することで、地域によって教派の背景が決定される現状を生 んだ。米国北長老会と豪州長老会の宣教部が宣教を担当した慶尚道地域出身の同志社 留学生たちの教派背景が長老教だった理由がここにある。しかしメソジスト宣教部が 宣教を担当した江原道と黄海道、そして忠清道出身が少なかったことは、メソジスト 出身の同志社留学生が相対的に少なかった理由である。

5)出身教派別 分析

出身教派 名前

組合教会 洪秉璇 吳相淳 庾錫祐 鮮于筍 金英吉

長老教会

李昌成 朴俊泳 李在福 崔文植 金泰默 李達實 尹德守 全順得 金延鶴 禹益鉉 權東哲 方華日 徐南同 鄭大爲 金德俊 玉文錫 尹敬道 姜成甲 梁原英信 安言約 吳銀洙 金相道 竹本寬治 メソジスト教会 朴商來 尹聖範 金川泰有 田村榮助

自治教会 趙龍基 カトリック教会 鄭芝溶 日本基督教会 韓晳曦

未詳

柳一重 李泰奎 張執 朴洛欽 朴濟煥 朴龍洙 禹敬學 李龍大 申日平 卞文一 岩本光正 小泉寬祐 康觀興 金光鐵鉉 江陵亨撤 金元治 廣田勝男 方山俊弘 道川鶴根

 出身教派が確認された36人の中で長老教会が23人(68%)で目立って多い。これは

(13)

米国北長老会の宣教部が担当したソウルと慶北、平安道、平壌、忠北地域の出身、そ して米国南長老会の宣教部が担当した全羅道と済州道、豪州長老会の宣教部が担当し た慶南、カナダ長老会宣教部が担当した咸慶道出身者たちが自然に長老教の信仰を 持って同志社に留学した結果だと言える。そして同志社の神学的な土台がカルヴァン 主義の流れをくむ会衆主義(congregationalism)だったという点も、長老会出身者た ちが自然に同志社に留学できる背景があった。反面、メソジスト出身者は4人に過ぎ ないが全て米国北メソジスト(米メソジスト)宣教地域の出身という点が目立ってい る。京畿道と江原道で宣教した南メソジストの出身は一人もいないが南メソジストの 出身者たちは同じ南メソジスト宣教部が経営した関西学院を選んだ結果だと見られ る20

 長老会やメソジスト中心の宣教地域分割協定に関わらない小さな教会の出身者の同 志社留学生では、組合教会の所属が一番多い(5人)。これは前述で見たように同志社 が京城学堂と組合教会を通じて韓国社会と教会に知られた歴史的な背景と繋がる。し かし組合教会出身の同志社留学は1910年代初めに限定される。1920年代に入って会衆 教会に名前を変えた後にもこの教会出身として同志社に留学したケースを探すのは難 しい。反面、1920-30年代外国宣教部の人種差別的な干渉と指揮を批判、拒否して教 団(主に長老教団)から除名になった牧会者たちが組織した独立教団と関連を結んだ 同志社留学生たちが増えた。帰国後、大邱の自治教会牧師で活躍した趙竜基と馬山の キリスト教会出身として同志社に留学した姜成甲が代表的な人物である21。このよう な ‘ 反宣教師 ’ 傾向の独立教会(独立教団)は新島襄と同志社が追い求めた外国の宣 教部からの独立路線と相通ずることで、‘ 反西欧的 ’ 民族意識が強かった留学生たち に情緒的な一致感を感じられるのである。

 これ以外にカトリック教会出身の鄭芝溶と日本組合教会の伝統に属した教会で受洗 した韓皙曦なども留学生であるが、これは同志社が会衆主義を標榜しながらも教派主 義に縛られないエキュメニカル路線を追い求めた結果といえる。それは同志社神学部 が組合教会の神学機関として存在しながらも、教派を超越して多様な信仰背景の学生 たちを受け入れることができる自由主義があったからである。このように同志社は教 派に縛られない ‘ 開かれた神学空間として多様な背景の韓国人留学生たちを受け入れ た。

4.同志社留学生たちの働きと活動

 以下に同志社に留学した韓国人学生たちが同志社を卒業した後、そして帰国後、ど のような活動をしたのか見ることとする。全ての留学生たちに関する記録を探すこと

(14)

ができないため、韓国基督教歴史と資料でその名前が出る代表的な人物たちの留学以 後の活動状況を要約して、時代別に見ていく。

1)1908-1910年代の留学生

 ‘ 同志社の韓国人留学生の1號 ’ として知られる洪秉璇、以後1910年代の同志社神学 部に留学した人々である。

洪秉琁(1888-1967):ソウルの社稷洞で生まれ、幼くして漢学を修学して1905年 に京城学堂を卒業した。柳一善とともに渡瀬常吉が来韓して得た一番弟子の一人 である。1908年に同志社神学部に入学して1911年に卒業した。帰国後には組合教 会の伝道師として漢陽基督教会を担任して(1912

-

13年)普成専門学校の教授も 歴任した。1916年に組合教会を去って南メソジストに移籍し、1925年に南メソジ ストの年会で本処牧師として按手を受けた。メソジストに移籍した後1917年に皮 漁善(プィアソン)紀念聖書学院の教授、1919年に培花女学校の教師を歴任して 1920年に朝鮮中央

YMCA

の幹事となり、以後40年間

YMCA

運動に献身した。特 に1928年には金活蘭、申興雨等と一緒にデンマーク(丁抹)を訪問し、帰国後に は

YMCA

農村部の事業としてソウル近郊の新村に農民修養所を創設し、デン マーク式の農村運動を展開して1939年に

YMCA

学館の後身である英彰学校の校 長を歴任した。戦前後には社会事業団体の保隣会理事長、農林部の農林委員、国 民大学の講師、中央神学校の講師を歴任した。著書として《丁抹と丁抹農民》

(1929)外、農村運動と主日学校の関連著書多数を残した22

李昌成(1887

-?

):1912年、同志社大学神学部に入学して1915年に卒業したが、

同志社在学中 “ 財銭の善悪 ”(〈キリスト教会補〉1913.2.18-3.4)、“ 上主の歓迎 ”

(〈 キ リ ス ト 教 会 補 〉、1913.4.15)、“ 人 生 一 世 感 覚 ”(〈 キ リ ス ト 教 会 補 〉、

1913.6.17)、“ 愛主歌 ”(〈キリスト教会補〉1913.7.8)等を発表した23

呉相淳(1894-1963):ソウルで生まれて於義洞学校を卒業、1906年に長老会宣教 部が運営する儆信学校を卒業した。1912年同志社大学神学部に入学、1917年に卒 業した。帰国後、基督教会(組合教会と推定)の伝道師として活動したが “ 長髪 に聖書と哲学書をいつも抱えて通った ” と言う。1919年に三一運動の間に仏教に 改宗し、1921年に朝鮮中央仏教学校の教師、1923年に普成高等普通学校の教師を 歴任した。1920年に〈廃墟〉同人として文学活動を始めたが、全国の寺院を巡回 しながら参禅と創作活動を兼ねた。韓国の現代文学史の代表的な ‘ 奇人文人 ’ と

(15)

記録されている24

庾錫祐(1884

-?

):1906年にソウルの京城学堂を卒業した後、勧業模範所の木浦 出張所で勤務し渡瀬常吉の後援で1912年に同志社に入学した。その年12月17日

〈キリスト教会報〉に “ 生命の光 ” と言う論文を発表した。1915年に同志社を中 退して帰国後、組合教会の伝道師として黄州で働いた。1919年に三一運動の間に ソウル広南教会の伝道師として働いた。万歳運動が起きると彼は自分の教会の信 徒金世竜、朴老英などと一緒に独立運動のチラシ〈同胞よ、立ち上がりなさい

!〉

を製作、配布した嫌疑で(庾錫祐は漢陽教会の謄写機を貸与して印刷を助けた)

逮捕され裁判を受けた25

 この人たち以外に1910年代留学生の中で組合教会の関係者たちが多かった。その中 にも1916年に同志社に入学したと記録される鮮于筍は1911年以後、渡瀬常吉の平壌宣 教を積極的に後援しながら、平壌箕城教会を担任して平安南道知事の後援を受け、羅 一鳳と一緒に大東同志会を組職し平南一帯の基督教界の親日化作業を推進した。その 功労を認定され1921年に平南代表として中樞院参議員になった26。1917年に入学した 金英吉も組合教会の伝道師として1919年当時、開城教会を受け持った27。これ以外に も1910年代留学生たちの中で組合教会の関連者たちがもっといると推定される。

 このように洪秉璇の以後、1910年代同志社留学生たちは大部分京城学堂と組合教会 と関係をもっていたことが分かる。同志社がこの二つの機関と組織を通じて韓国社会 に知られたように、初期同志社の留学生たちは渡瀬常吉が指導した組合教会と ‘ 朝鮮 伝道 ’ の結実である。彼らの多くは同志社留学を終えて帰国して組合教会の伝道者と して活動した。しかし、注目することは初期同志社の出身たちが1910年代中盤以後、

多くの人たちが組合教会を離脱して他の教派教会に移ったことや(洪秉璇)、初めか ら他の教派に変わるケース(呉相淳)が生じたという点である。 庾錫祐のように現 職組合教会の牧会者の身分として1919年に三一万歳運動に参与した場合もあった。結 局これらは京城学堂と組合教会が追い求めた朝鮮伝道論の ‘ 隠された意図 ’ が分から なかったまま組合教会と同志社に入って行き、その正体を把握した後、離脱したと見 られる。結局1919年の三一運動以後の組合教会が急速に衰退したように組合教会と関 わりをもった同志社への留学も減った。

2)1920年代の留学生

 1910年代の同志社留学が組合教会と関連して成り立ったことに比べ、三一運動を経 て1920年代の同志社留学の性格と内容が変わったものの、その数は多くなかった。

(16)

1920年代の入学生は6人しかいなかった。その中にも神学部を完全に卒業した人は趙 竜基と朴俊泳、禹敬学などの3人である。鄭芝溶と朴済煥、朴竜洙は神学部に入学し てすぐに他の科に移籍したか、あるいは途中で学業をあきらめた28。これほど変動が ひどかった。

鄭芝溶(1903-1950?):忠北の沃川で生まれ、沃川公立普通学校を経て1923年ソ ウルの徽文高普を卒業した。その年の4月、同志社専門学校神学部に入学した が、‘ 家庭事情 ’ で20日目に予科に移り、1926年に卒業した後、英文科に入学し て1929年6月に卒業した。同志社留学中、京都で発行された留学生の雑誌〈学潮〉

に詩を発表することで文学活動を始めた。帰国後には徽文高等普通学校の英語教 師として勤めながら、〈詩文学〉と〈トルニック青年〉などに多く作品を発表し たが、民族主義の情緒と郷土性が濃い作品を書いた。篤実なカトリック信者で戦 後〈京郷新聞〉の編輯局長と梨花女子専門学校の教授を歴任し、左派系列の朝鮮 文学家同盟に参与し韓国戦争の中で行方不明となった29

趙竜基(1903-?):慶北の英陽で生まれ、1920年代初頭に日本に留学し初めには 東京で過ごしたが、1924年、〈東亜日報〉に “ 私たち文壇に対する不満 ” を発表

(1924.11.17)して文学的な関心を表した。1925年、同志社大学神学部に入学して 1928年卒業し、帰国後大邱で李万集牧師の自治教会所属の牧師として活動した。

1930年代、基督教界の代表的な進歩主義論客として〈基督申報〉などに多く論文 と評論を発表した30。1933年3月、‘ 大邱基督教赤色秘密結社事件 ’31で容疑者とさ れ、1934年には基督教社会主義路線の ‘ 副業組合の設立運動 ’ を展開した32。戦後 には教育界に身を捧げて慶州中高等学校の教師と校長を歴任した33

朴俊泳(1900-?):全南の木浦で生まれ、中国の湖南省第一師範学校を経て、

1926年に同志社大学神学部に入学、1930年に卒業した。以後、帰国して米国南メ ソジスト宣教部が運営する全州新興学校の教師として奉職し、戦後にはソウルの 漢城商業学校の教師に奉職しながら、左翼運動に参与し1950年に戦争期間に北に 渡ったと伝えられる34

 京城学堂や組合教会と関連が深かった1910年代の留学生と違い、1920年代の留学生 たちは信仰的にも思想的にも多様な背景と動機を持って同志社に入学したことが分か る。この人たちの帰国後の活動を見れば、牧会者より教育者として活動した場合が多 く、進歩的な思想を持った実践的な教育家として活動したことが分かる。特に趙竜基

(17)

の場合のように基督教社会主義路線を取りながら、‘ 副業運動 ’ のように積極的な現 実参与運動を展開した場合も見うけられる。鄭芝溶が戦争直後、左派文学運動に参与 したことや、全州新興学校の教師を勤めている途中戦争の時に北に渡った朴俊泳も同 じような脈絡である。このような左派的な(社会主義的)意識と活動は1920年代の同 志社を含めた日本の関西地域の大学と知識人社会の流行思潮として影響を受けた結果 としてみられる。

3)1930年代の留学生

 1930年代の同志社大学神学部の留学生たちの数は多くはなかったが、同志社出身の 牧会者と神学者たちの帰国後の活動は、その時期の他の同窓生らよりも多様であり、

韓国教会史や神学運動史で重要な位置を占める人物がたくさん出た。特に戦後の韓国 神学運動史で重要な位置を占めるようになる神学者たちが、この時期の同志社で学び ながら自己の神学思想の基礎を磨いたという点も重要である。

崔文植(1905

-

1950

?

):慶北の大邱で生まれ、米国の北長老会宣教部が運営する 大邱啓聖中学校と平壌崇実専門学校を卒業して、1932年、同志社大学神学部に入 学するが、1年目で中退(登録金未納)した。帰国して平壌長老会神学校に入り 1939年に卒業し、その年平壌老会で牧師按手を受けて平南の大同郡南兄弟山面内 里教会を担任した。この頃、平壌神学校の機関誌〈神学指南〉に基督教社会主義 性向の論文 “ 神の国思想に対する論考 ”(1939.5-9)と “ 新旧約に記録された神に 対する名前たち ”(1939.9-11)等を発表した。日帝末期、露骨に親日路線を取る 長老教団の指導部に失望して教会を辞任し、慶北の慶山で果樹園を経営していた が、戦後直後、大邱で李在福牧師と共に建国準備委員会を組職し南労党に加入し て本格的な左派政治運動に参与した。1946年、‘ 大邱10月人民抗争事件 ’ に深く 関与し、そのために逮捕され6ヶ月懲役刑の宣告を受けた。1950年に韓国戦争が 勃発、初期にソウルで基督教徒連盟委員長として共産軍支持活動を主導した35

李在福(1906-1949):慶北の迎日で生まれ、同志社中学校を経て1931年に同志社 大学神学部に入学したが、1年目に休学(学費未納)した。帰国して1937年に平 南の江西郡伊老里教会の伝道師として牧会を始め、1940年再び来日し同志社大学 神学部に再入学、1942年に卒業した。帰国後、大邱癩病院教会で牧会していた中 で解放を迎え、崔文植牧師と共に大邱に建国準備委員会を組織し朴憲永系列の南 労党に加入して本格的な左派政治運動に参加した。1946年、“ 大邱10月人民抗争 事件 ” に連座して崔文植牧師と共に逮捕され6ヶ月の懲役の宣告を受け、1948年

(18)

10月に、麗順叛乱事件が勃発すると叛乱軍に武器を提供するなど武装闘争に積極 的に参与し、1949年1月ソウルで逮捕され裁判の後、死刑となった36

金泰黙(1908-?):慶北の大邱に生まれた。子供の時、大邱の仏教寺院に住んで いたが、幼くして教会に行くようになり偶然に本で同志社と新島襄を知り日本留 学を決心した。1930年に同志社中学、1933年に同志社大学予科を経て、1936年に 同志社大学神学部を卒業した。同志社で9年間勉強した。夫人全順得も同志社女 子専門学校(英文科)を経て、1937年に同志社大学神学部(社会事業専攻)を卒 業したので同志社の夫婦同窓である。卒業後帰国して金泉

YMCA

の幹事、大邱

YMCA

の総務を歴任し、神社参拝強要を避けて1939年に米国に渡り、1941年に オベリン大学神学部、1942年マコ―ミック神学校を修了した後、米国の国務省と 国防省の顧問として活躍した。戦争直後、米軍政庁の顧問団一員として帰国し、

大邱で慶北道知事の秘書官として活躍し金奎植博士の立法政治活動を助けた。

1948年再び米国へ渡りワシントン韓人教会、オークランド韓人教会、ハワイ韓人 教会の牧師に奉職し、1954年に帰国してソウルの南大門教会の牧師、1956年に中 央神学校の校長、大韓

YMCA

連盟の会長を歴任し、1960年に米国のジョージワ シントン大学で宗教心理学を学び、帰国して1962年に大邱信明女高の校長を歴任 した。1978年の定年隠退後、米国サンフランシスコに居住した37

方華日(1923-1952):中国の山東宣教師方孝元牧師の次男として平北の宣川で生 まれた。中国の山東で成長し、青島商業学校を卒業して1938年に同志社大学神学 部に入学して1941年に卒業した。帰国して長老教の義山老会で牧師按手を受け、

平北の新義州第一教会と路下教会、中国の上海韓人教会を担任した。戦後、帰国 して韓国基督教連合会(NCCK)の幹事を歴任したが、韓国戦争の中で京畿道の 平沢で狼藉を働く米軍を咎めている途中、彼らが撃った銃弾にあたり殺され た38

徐南同(1918-1984):全南の務安で生まれた。米国の南長老会宣教部が経営する 木浦永興学校と全州新興学校を卒業して、1936年に日本に留学、1938年に同志社 大学神学部に入学して1941年に卒業した。帰国して平壌約翰学校の教師を経て 1943年から大邱第一教会、梵魚教会、東門教会で牧会した。1952年に韓国神学大 学の教授を経て、1961年に延世大学校神科大学の教授になったが ‘ 韓国神学のア ンテナ ’ という別名が付くほど西欧の尖端の神学を飜訳、紹介した。しかし1970 年代の民主化、人権運動の現場に参与しながら ‘ 民衆神学 ’ を提唱し、国内外に

(19)

紹介して反政府民主化闘争に積極的に参与したため、政権によって1972年に解職 され数回投獄された39

鄭大為(1917- ):長老教会の鄭載冕牧師の息子で咸南の元山に生まれた。幼くし て父親について北間島の竜井に移り明東学校で学んだ。平壌の崇実中学校と同志 社大学予科を経て、1938年に同志社大学文学部神学科に入学、1941年に卒業し た。帰国して慶北老会で牧師按手を受けて醴泉で牧会を始め、戦後ソウルの草洞 教会を受け持った。1947年にカナダトロント大学大学院を卒業し、1953年に韓国 ユネスコを創設、初代事務総長を歴任し1959年に米国エール大学校大学院で哲学 博士学位を受けた。戦争直後から朝鮮神学校(現韓神大学)で講義を始め、1949 年に韓国神学大学の教授、1959年に建国大学校文理大学の学長を経て1961年に建 国大学校の総長を歴任した。1968年にカナダトロント韓人連合教会の牧師とカー ルトン大学校の教授を歴任し、1983年、再び帰国して韓神大学の学長を歴任し、

1988年に定年隠退後カナダに居住した40

尹聖範(1916-1980):メソジストの尹兌鉉牧師の次男で江原道の蔚津に生まれ た。水原南陽公立普通学校を経て1938年に平壌光成中学校を卒業したが、卒業の 時、メソジスト神学校の鄭景玉教授の講演を聞いて牧会に進むことを決心し、

1939年に同志社大学神学科に入学し、1941年に卒業した。帰国後、江華興天教会 と京畿道伊川教会で牧会し、1945年に牧師按手を受けた。1946年にメソジスト神 学校の教授になり、亡くなるまで組織神学と宗教哲学を講義した。1954年にスイ ス・バーゼル大学で

Barth(K. Barth)の直接指導を受け神学博士学位を受け

た。1963年に〈思想界〉に “ 桓因桓雄桓倹はすなわち神様だ ” という論文を発 表、土着化神学論争を導いた。以後《基督教と韓国思想》(1964)、《韓国的神学

-誠の解釈学》(1972)、《孝-西洋倫理基督教倫理儒教倫理の比較研究》(1977)

等の著述を通じて土着化神学の理論を確立した。1970年に韓国宗教史学会の会 長、1977年にメソジスト神学大学の学長を歴任した41

 彼らの外に断片的だが同志社留学中、あるいは帰国後の活動が知られた人物たちも 多かった。1931年の入学生李竜大は在学中であった1933-35年に、〈基督申報〉に “ 聖 書にある人間存在と信仰の現実性 ”、“ 人間神化の危機 ” という長い論文を発表し42、 1935年に同志社大学朝鮮留学生学友会の会長を歴任した李逹実(1933年入学)は米国 ニューヨークの新歴史協会で “ 青年はどうすれば世界的宗教現実に貢献しうるか

?”

という主題として開催された ‘ 全亜細亜男女青年懸賞論文 ’ で3等賞を受けたことで

(20)

〈東亜日報〉に大きく報じられた43。そして1937年に入学し1940年に卒業した朴商来

(1908-1988)は、帰国後、母校の延世大学校の教授に奉職していた1955年に、弟子た ちを連れて統一教に移籍したことで基督教界と社会に大きな波紋を起こした44。朴商 来と同期同窓である禹益鉉は慶北老会で牧師按手を受けて戦後大邱東門教会、梁山中 央教会で牧会し、釜山嶺南神学校と釜山神学校の教授として活動した45。1938年に入 学して1941年に卒業した権東哲(1916-2006)は、戦後慶北逹城郡守、青松郡守を経 て、1954年に参議員に選出され、義城三聖中学校の校長と三聖学園の理事長を歴任し た46

 このように1930年代の同志社神学部の留学生たちは、帰国して戦争直後から本格的 な活動をしたが、二つの特徴的な流れを見ることができる。第一、崔文植と李在福の 場合のように基督教社会主義及び共産主義路線を取り、戦争直後に急進左派の政治運 動に積極的に参与した場合である。これは先に1920年代の留学生、趙竜基のような脈 絡で、特に崔文植と李在福は同志社と京都の留学時節に社会主義理論と運動を習得し た後、帰国して戦後の李承晩中心の右翼勢力が ‘ 親日派 ’ 勢力と連帯して政権を掌握 した政治の現実に対する抵抗運動を積極的に推進した。第二、金泰黙、禹益鉉、鄭大 為、徐南同、尹聖範など戦後韓国神学運動を主導した中心的な人物たちを多数輩出し た。彼らは戦後に各教派の神学校で教授として活動したが、その多くは進歩的な神学 路線を取った。その中でも徐南同の民衆神学と、尹聖範の土着化神学を注目する必要 がある。この二つはそれまでの西欧神学を飜訳、紹介する水準にとどまった韓国神学 界に韓民族の政治社会的な現実(民衆神学)と宗教文化的な伝統(土着化神学)を神 学素材とする ‘ 主体的 ’ 立場として神学を展開することで韓国教会の ‘ 土着神学 ’ を樹 立したという点で特別な意味がある。このような ‘ 脱西欧的 ’、‘ 脱植民主義的 ’ 神学 運動は設立初期から宣教師の影響力を排除して ‘ 東洋的な基督教 ’ 伝統の樹立を追い 求めた同志社の学風とも一脈、相通じるものであった47。このような形で同志社神学 は戦後韓国神学の樹立と展開に少なくない影響を与えた。

4)1940年代の留学生

 1940年代の同志社留学生は ‘ 志願兵 ’ と ‘ 学徒動員 ’ の危機状況の中で学んだ。神学 部学生ではなかったが、同志社大英文科の尹東柱と京都帝国大学の宋夢奎と同じ青年 詩人たちが民族運動の嫌疑で警察当局に逮捕され、1944年に獄中殉死した時期だっ た。同志社で勉強する韓国人学生たちは絶望感と危機感を感じるしかなかった。それ は神学部も同じだった。この時期、大部分の学生たちは創氏改名して日本式の名前を 書き、教育内容も日本神道と皇民化政策を宣伝する非基督教的なものが多かった48。 このような状況でも1940年代の同志社留学をした卒業生の中に戦後韓国基督教界で指

(21)

導者として活動した人物たちが出た。

金徳俊(1919

-

):咸北の鏡城で生まれ、1938年に鏡城公立高等普通学校を卒業し た後、日本に留学して1940年に同志社大学予科を修了し、同志社大学文学部神学 科(社会事業専攻)に入学、1942年に卒業した。帰国して鏡城公立中学校の教師 を歴任し、戦後韓国にもどり1946年に議政府農業学校の教師を経て1947年から中 央神学校(現、江南大学校の前身)社会事業学科の主任教授として奉職しなが ら、戦後社会福祉学の理論定立と教育及び実践に先駆的な役割を果たした。1957 年に韓国社会事業学会を創立し初代会長になり、多くの国際社会福祉学の集まり に韓国代表として参加した。以後、1964年に原州大学の教授、1969年に中央大学 校の教授を経て1978年に江南社会福祉学校(現、江南大学校)の学長を歴任し た49

玉文錫(1916-?):一名玉敬錫。慶北の義城に生まれた。日本に留学して立命館 大学予科を経て1940年に同志社大学神学科に入学、1942年に卒業した。同志社留 学中に1941年1月から同志社同窓生の康観興と一緒に京都韓人教会の臨時担任伝 道師を務めたが、1941年7月、同じ京都教会の千用甲執事と金礼錫執事、そして 京都南部教会の黄善伊牧師と金在述長老などと共に治安維持法違反嫌疑で逮捕さ れ、50日余りの拘留処分を受けた。帰国後、慶尚道地域で牧会をしていた途中、

1950年から1968年まで釜山

YMCA

の総務として勤めながら廃墟の釜山

YMCA

を 再建し、1968年から1975年まで東京の在日韓国

YMCA

の総務として勤めながら 停滞状態にあった諸事業を活性化させた。以後釜山に居住50

姜成甲(1912-1950):慶南の宜寧で生まれ、濠洲長老会宣教部が経営した馬山昌 信学校を経て1930年に馬山商業学校を卒業したが、この頃 ‘ 反宣教師 ’ 独立教会 である馬山キリスト教会に出席した。商業学校を卒業後しばらく金海長有金融組 合に勤務していたが、1937年にソウル延禧専門学校文科に入学して1941年に卒業 した。直ちに同志社大学神学科に入学して1943年に卒業した。帰国後慶南老会で 牧師按手を受けて釜山草梁教会の副牧師として牧会を始めた。戦後、釜山大学校 と教員養成所の教授としてしばらく勤めた後、慶南進永に移りデンマーク・グル ントヴィ式の農村運動を展開した。1948年にハンオル中学校を設立、基督教信仰 を土台にした農村指導者を養成した。戦後釜山と慶南地域の左派系列(主に協同 組合)の集まりによく参加し講演をしたため、反左派人士に追われて1950年8 月、韓国戦争中いわゆる ‘ 報道連盟事件 ’ で国軍に殺された51

(22)

韓皙曦(1919-1998):済州道で生まれた。幼くして父親について大阪に移住し、

1936年に明治高等小学校を卒業した。組合教会系の淀川善隣院に就職したが、基 督教信仰に接し、1937年に洗礼を受けた。1939年に同志社大学神学科に入学した が結核闘病と徴兵等で1946年に卒業した。以後神戸で製靴業と不動産賃貸業に従 事しながら、朝総連系朝鮮人商工人会の副会長を歴任しながら神戸

YMCA

の理 事、日本

YMCA

同盟の委員、日本基督教団の常議員などを歴任した。1960年代 に入って朝鮮民族運動史と在日朝鮮人歴史研究に関心を持って、資料を収集しは じめ青丘文庫を設立、‘ 朝鮮民族運動史研究会 ’ と ‘ 在日朝鮮人史研究会 ’ を育成 して〈朝鮮史叢〉と〈朝鮮民族運動史研究〉に発刊した。1988年に《日本の朝鮮 支配と宗教政策》(未来社)を出版した。このように事業家として活動しながら も歴史研究に集中し韓日歴史共同研究を通じる交流と和解を推進した。1997年に 同志社大学から《日本キリスト教の海外伝道史研究》という論文で博士学位を受 けた52

 彼ら以外に1940年代の留学生として戦後の業績が明らかな人物では、1942年の入学 生である呉銀洙(1918-1978)と安言約(1919-?)がいる。慶北の義城出身の呉銀洙は 1944年に ‘ 学費未納 ’ になって学校を中退した後、帰国し慶北老会で牧師按手を受け て戦後の大邱啓明大学とソウル崇田大学のチャプレンをした。1970年代に米国に移住 しアトランタの韓人連合教会を設立して移民牧会をした53。慶北の金泉出身である安 言約は1944年に同志社を仮卒業した後、帰国して慶安老会で牧師按手を受けて慶北地 域で牧会したが、1954年に長老教団の基督教長老会(韓国基督教長老会)とキリスト 教長老会(大韓イエス教長老会)が分裂した時、栄州中央教会の堂会長として活動し ながら、韓国基督教長老会(基長派)の立場に立ち、周辺の多数のイエス教長老会の 牧会者と信徒たちから集中的な攻撃を受けたりした。その後ソウル草洞教会でも牧会 した54

 彼ら1940年代の留学生たちは第2次世界大戦の戦時体制下で学んだため、安定的な 体系的な授業を受けることができなかった。戦争末期には正式の卒業式も難しかっ た。このように混乱と危機状況で学んだ1940年代の留学生らも戦後韓国教会と基督教 機関で指導者の役目を果たした。金徳俊は社会福祉学界で先駆者的な役割を果たし、

姜成甲は実践的な農村運動を展開して多く弟子を育てた。これらは基督教が社会の現 実に具体的に関わる活動を提示した。そして韓皙曦と玉文錫は

YMCA

運動に深く関 与し、恒久的にあるいはしばらく在日基督教団体(青丘文庫と在日韓国

YMCA)に

従事したという点を注目する必要がある。在日大韓基督教会の教会と機関、そして良

(23)

心的な日本人の学者と基督教徒たちの支援を受けながら成り立った人々の研究と交流 活動は、日帝時代を経ながら悪化した韓日両国の民族的な感情を克復と和解と協力へ 導き出すための民間次元の平和努力だったという点で重要な意味がある。

5.戦前の同志社留学の教会史的な意味

 今まで戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生たちの留学した後の働きと活動を 総合的に検討した結果、同志社と関連する韓国教会史の研究に注目するいくつかの特 徴的な面を指摘できる。

1)日本組合教会との関係

 すでに述べたように、朝鮮伝道論を提唱しこれを展開した組合教会の渡瀬常吉に よって、同志社と組合教会は韓国教会と社会に具体的に知られるようになった。特に

‘ 同志社の韓国人留学生1号 ’ で知られた洪秉璇、そして庾錫祐は渡瀬常吉に直接的な 教育を受けたのみならず、彼の推薦を受けて同志社に留学した。彼らは同志社留学を 終えて帰国した後も、相当な期間、渡瀬常吉を手伝い組合教会の牧会者として活躍し た ‘ 親日派 ’ であった。ところか興味深いことに、同志社に留学した留学生たちが帰 国した後、組合教会を脱退し民族主義活動、甚だしくは抗日独立運動に参与した場合 もあるという点である。代表的な例として庾錫祐を挙げることができる。彼は三一運 動の時に現職の組合教会の伝道師として活動しながら、独立万歳運動示威に参与して 獄苦を経験した。洪秉璇も1916年に組合教会を去り南メソジストに教籍を移した後、

南メソジストの牧師になって1920-30年代の基督教青年会(YMCA)を中心として民 族主義系列の農村運動を展開した。また留学直後には組合教会の伝道師として活動し たが、突然、仏教に改宗して ‘ 奇人文客 ’ といわれた呉相淳の業績も興味深い研究課 題である。

 このように1910年代後半に至って韓国の教会と社会に組合教会の実態が認識され、

さらに三一運動をへて以後、組合教会という名称で宣教活動を続けられなくなり、会 衆教会に名称を変えたものの、1910年代初頭の活気に満ちた活動と結果を期待するこ とはできなかった。結局この後、韓国基督教界に会衆教会は ‘ 日本人基督教の小教派 ’ の一つとして認識されることになった。それ以後のすなわち1920年代以後の同志社留 学の動機は、変化して行ったことを意味する。

2)進步主義神学の探究

 日帝時代の韓国基督教と神学界に同志社神学部は東京の青山学院神学部と共に代表

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的な進歩主義の神学校として認識された。そして根本主義に近い保守主義の神学を固 守した平壌神学校出身の長老教の牧会者たちは、同志社と青山学院の出身を警戒し危 険視した。それだけでなく超越的な啓示と恩寵さえ否認する ‘ 自由主義の神学 ’

(liberal theology)を教える神学校として誤解を受けたりした。このように同志社が

‘ 自由主義の神学校 ’ で誤解を受けるようになったことは、教授たちの講義内容より 教育方法論だった。同志社が追い求めた思想の自由と学問の自律性がそのような誤解 を起したという話である。この点は1930年代の留学生、尹聖範の回顧でも確認でき る。

 その当時を回顧して見る時、私が京都の同志社に来たことを神様に感謝した い。すなわち同志社はとても自由な神学的な雰囲気が形成されていたので、神学 思想のため制約を受ける事がなかった。どんな神学思想も同志社ではすべて勉強 でき討議でき、また批判できたのだ。そういう自由がなかったら私はその所を去 るしかなかったはずだ。55

 このように韓国人留学生たちは同志社で思想と学問の自由を感じた。国内で体験す ることができなかった ‘ 自由 ’ と ‘ 自律 ’ は新しく学問的な挑戦意識をひき起こした。

それは新しく進歩的な学問の受容と共に既存の保守主義神学と信仰に対する批判と挑 戦として現われた。その結果、同志社留学生たちは帰国後に進歩的な神学の立場とし て保守陣営を批判し始めた。その代表的な例が1928年に神学部卒業生の趙竜基であ る。彼は帰国直後から進歩的な教会新聞である〈基督申報〉を通じて進歩的な論文と 論説を連載した。彼は日帝時代の韓国教会の進歩

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保守間に神学の葛藤を見せた代 表的な事件である ‘ 金春培牧師の女権擁護筆禍事件 ’ と ‘ 金英珠牧師の創世記モーセ 著作否認筆禍事件 ’ が起き、保守陣営が多数派であった長老会総会の調査委員会で金 英柱、金春培牧師に ‘ 異端嫌疑 ’ を着せた時に、これを正面から批判する文を相次い で発表して56進歩的な神学の代弁人の役割をした。趙竜基牧師が1928年に同志社を卒 業して帰国した後、大邱地域で反宣教師、民族自治運動を標榜して李万集牧師が設立 した自治教会に属して活動した事も同志社の反宣教師的な雰囲気と無関係ではない。

 実際、1920-30年代の同志社の神学的風土は両極端の西欧根本主義神学と自由主義 神学の間で中道的なカルヴァン主義の神学、具体的にはバルトとティリッヒ、ニー バーに繋がる ‘ 新正統主義神学 ’ の路線を取ったとされる57。中道を標榜する新正統主 義神学だが、根本主義性向の保守的な立場として見ると同志社神学は ‘ 左傾神学 ’ あ るいは ‘ 自由主義神学 ’ として認識される可能性は十分である。この点は神戸の関西 学院神学部の科程を終えて同志社で1年間、聴講生として勉強した洪顯卨の回顧で確

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