さ ま よ う 銅 像
│
│ 四 天王 寺 に 設置 さ れ た二 銅 像 につ い て の事 例 研 究│
│
森 山 貴 之
は じ め に 銅像
は︑ 偉人 の面 影を 偲び その 人格 を直 接感 得す るた めに 制作 され た︑ 肖像 形式 の記 念碑 であ る︒ それ は文 字に よ る 記憶 の標 柱で あっ たそ れま での
﹁碑
﹂と は性 格を 異に する もの とし て︑ 明治 期に 彫塑 なら びに 鋳造 技術 と共 にも た ら され た!
︒ 銅像 が終 戦ま での 間に 全部 で何 体制 作さ れた かに つい ては 明ら か で は ない
︒唯 一 の 資料 で あ る二 六 新 報 社 編﹃ 偉人 の俤
﹄︵ 昭 和四 年︶ に掲 載さ れた 明治 以降 昭和 三 年 まで の 銅 像五 七 二 体 を概 観 す ると
︑明 治 三 十年 代 よ り 徐 々に 設置 件数 が増 加し 始め
︑昭 和初 期に ピー クを 迎え る︒ とこ ろで 十九 世紀 のパ リや ベル リン
︑ロ ンド ンな どの 都市 で見 られ た銅 像は
︑都 市景 観の 歴史 的重 層性 を想 起さ せ る ため の一 種の トリ ガー
︵引 き金
︶の 役割 をも って いた
︒国 家的 祭典 が催 され るよ うな 都市 の大 通り や広 場に 建て ら れ る巨 大な 銅像 を頂 点に
︑﹁ 国 家﹂ を都 市に 表出 さ せ るス ペ ク タク ル の ツ ール と し て︑ 交差 点 や 小広 場
︑公 園
︑建 物 前 に無 数の 銅像 群が 建て られ た︒ さら に言 えば
︑国 家事 業と して 建設 され たも のか ら個 々の 集団 の私 的追 慕に よっ て
― 221 ―
作 られ たも のま で︑ 様々 な顕 彰が 秩序 づけ られ
︑そ のヒ エラ ルキ ーが 都市 景観 に投 影さ れて いた ので ある
!
︒ では こう した 機能 を担 う銅 像は 近代 日本 にお いて どの よう に受 容さ れ︑ 都市 文化 とし てど のよ うな 光景 を現 出さ せ て いた のだ ろう か︒ 本稿 はそ の事 例研 究と して
︑大 阪四 天王 寺に 建設 され た 二 体 の銅 像 に つい て 考 察す る"
︒い う ま で もな く寺 院は 近代 以前 の日 本に おけ る都 市文 化の 主 要な 舞 台 であ っ た︒ と りわ け 四 天 王寺 が 存 在す る 上 町 台地 は
︑ 様 々な 宗派 の寺 院が 集ま って 固有 の文 化圏 を形 成し てい た地 域と いっ てよ い︒ 同時 にこ うし た場 所は
︑名 所図 会に 見 る よう に︑ 史蹟 や事 績の 標柱
︑歌 碑や 句碑 など 多様 な碑 が建 つ場 所で も あ っ た#
︒ しか し
︑明 治 に入 り 銅 像が 普 及 す る につ れ︑ 寺院 境内 もそ の設 置場 所と して 検討 され るよ うに なる
︒先 の﹃ 偉人 の俤
﹄に よれ ば︑ 寺院 境内 に設 置さ れ た もの は五 七二 体中 四〇 体で ある
︒こ れは 公共 施設
︑公 園に 次ぐ 設置 件数 であ る︒ つま り銅 像の 建設 場所 とし て一 般 的 に認 知さ れて いた 場所 の一 つで あっ たこ とが わか る︒ ここ で︑ 前近 代か らの 建碑 の場 とし ての 継承 があ るの か︑ そ れ とも 全く 別の 論理 が働 いて いた のか とい う問 題が 浮上 する
︒そ れは すな わち
︑近 代化 と前 近代 の継 承の 両面 を併 せ 持 つ都 市が
︑銅 像と いう 近代 の新 たな 視覚 的顕 彰形 式を どの よう に取 り入 れて ゆく のか
︑そ の実 像を 知る こと に他 な ら ない
︒ 本考 察で はこ の問 題を 考え る一 つの 視点 とし て︑ 明治 初期 に実 施さ れた 一連 の社 寺境 内地 処分 と建 碑規 制措 置に 注 目 し︑ それ ぞれ の銅 像の 建設 場所 決定 の経 緯を 追う
︒ まず 第一 章に て明 治初 期の 上知 令よ り開 始さ れる 社寺 境内 地の 土地 処分 なら びに 公園 化の 経過 につ いて
︑次 いで 銅 像 の建 設に 関わ る一 連の 建碑 規制 につ いて 概観 する
︒そ して 第二 章で は︑ この 概観 をも とに
︑二 体の 銅像
︑す なわ ち 本 木昌 造像 およ び竹 本摂 津大 掾二 見金 助像 の建 設経 緯に つい て検 証す る︒
さまよう銅像 ― 222 ―
第一 章
:
予備 考 察 1:維 新後 にお ける 境内 地処 分と 公園 化 寺院 所有 地は 明治 の初 め︑ 近代 土地 区分 制度 に従 って
︑現 境内
︑境 外地
︑墓 地な どに 分け られ
︑官 有地
︑民 有地 に 大 別さ れる
︒ま た都 市部 の大 規模 な社 寺境 内は
﹁公 園﹂ とし て管 理下 に置 かれ る︒ 大 政奉 還 後︑ 幕 府所 有 地 は明 治 政 府 の所 管 と なり
︑さ ら に 版 籍奉 還 に よっ て 旧 領主 の 所 有 地も 政 府 の 所 有 と な っ た
︒社 寺領 は︑ 明治 四年 の社 寺領 上知 令に よっ て政 府に 帰属 する
︒し かし
︑こ の上 知令 の対 象と なっ たの は﹁ 現在 ノ 境 内ヲ 除ク 外﹂
︑ つま り具 体的 には 朱印 地︑ 除地 とい っ た 社寺 領 で あっ た
︒さ ら に 同年
︑墓 所 を 除く 全 て の社 寺 領 が 上 知︵ 上地
︶対 象と なる が︑ それ でも 祭典 法要 を行 うた めに 必要 な場 所︑ つま り社 殿︑ 堂宇 や広 場な どの 敷地 は対 象 外 とな り︑ 引き 続き 社寺 の所 有地 とな っ た︒ 明治 六 年 三月 二 十 五日 太 政 官 布告 第 114号
﹁地 所 名称 区 別﹂
︑ 明治 七 年 十 一 月 七 日太 政 官 布告 第 120号
﹁改 正 地 所名 称 区 別﹂
︑明 治 八 年﹁ 社寺 境 内 外 区 画 取 調 規 則﹂ は︑ 全 国 の 土 地 を 皇 宮 地
︑ 神 地︑ 官庁 地︑ 官用 地︑ 官有 地︑ 公有 地︑ 私有 地︑ 除租 地に 分類 する もの であ る︒ ここ で全 ての 土地 を官 有地
︑民 有 地 に大 別し
︑土 地の 目的 別に 地券 を発 行し
︑地 租の 賦課 を決 めた 上で 種別 が行 われ る︒ この 一連 の土 地区 分制 度に よ っ て
︑全 て の境 内 地 は 官 有 地 第 一 種︵ 神 社 境 内 地 の う ち 官 有 の 土 地
︶︑ 官 有 地 第 四 種
︵寺 院 境 内 地 の う ち 官 有 の 土 地
︶︑ 民 有地 第一 種︵ 神社 境内 地の うち 民有 の土 地︶
︑民 有地 第三 種︵ 寺院 境内 地の うち 寺院 所有 地︶ のい ずれ かに 収 ま るこ とと なる
!
︒ こう した 社寺 境内 地に おけ る官 有地 の管 理に つい ては
︑明 治二 十三 年十 一月 二十 五日 勅令 275第 号の 官有 財産 管理 規
― 223 ― さまよう銅像
則 なら びに 勅令 135第 号官 有地 特別 処分 規則
︑同 年勅 令第 276号 官有 地取 扱規 則な どが ある が︑ 例え ば土 地の 無償 貸付 な ど の管 理処 分に つい ては 何等 規定 が設 けら れて はい なか った
!
︒初 めて 明文 化 さ れ たも の は︑ 大 正十 年 の 国有 財 産 法 で ある
︒そ こで は官 有の 神社 境内 地は 国の 事業 など の用 に供 する もの と同 列に 公用 財産 とす るが
︑官 有の 寺院 や仏 堂 の 境内 は普 通財 産と 取り 扱わ れ︑ その 用途 に供 す間 は永 久に 無償 貸付 した もの とみ なさ れた
︒ 次に
︑社 寺境 内地 の土 地処 分に 加え
︑機 能的 に境 内地 を整 備す るも のと して
︑寺 社境 内の 公園 化が 挙げ られ る︒ 公 園 は︑ 上知 令施 行の 二年 後で ある 明治 六年 一月 十五 日太 政官 布告 16第 号に よっ て誕 生し た︒ これ は江 戸期 から の遊 覧 所 を制 度上
﹁公 園﹂ とし て位 置づ け︑ 官有 公園 とす るも ので ある
︒し たが って 事実 上の 遊覧 所と して も機 能し てい た 社 寺境 内地 もそ の主 要な 対象 とな った こと は言 うま でも ない
︒だ が当 然祭 典法 要を 行う 宗教 施設 はそ のま ま存 在し た た め︑ 官有 の公 園内 に寺 院所 有の 境内 地が 散在 する とい う状 況が 出来 てし まう
︒ とこ ろで 公園 史家 の田 中正 大は
︑こ の太 政官 布告 にお ける 目 的 を 三つ 指 摘 する
"
︒1.
欧 風 都 市の 建 設 2. 遊 覧 所 の安 堵 3. 封建 時代 の跡 地処 理で ある
︒し かし
︑こ の目 的は
︑新 たな 問題 を生 むこ とと なっ た︒ 例え ばこ の太 政 官 布 告 によ っ て 公園 化 し た 住吉 大 社 の場 合 を 見て み る と︑ 境 内が 欧 風 に改 変 さ れる こ と を 恐れ た 神 社側 の 抵 抗 に よ り
︑神 社と 公園 を分 離し たと いう 経緯 があ る#
︒ 四天 王寺 もこ の太 政官 布告 にお いて 官営 公園 とさ れた 寺院 の一 つで ある
︒同 寺の 場合
︑明 治二 十二 年の 段階 で︑ 園 内 に寺 院所 有境 内地 が三
︑九
〇〇 坪存 在し てい た︒ し かし 住 吉 公園 の よ うに 境 内 と 公園 の 分 離が 進 捗 せ ず︑
﹁境 内 に 伽 藍が 散在 して い る た め境 内 と 公園 の 区 分が 明 確 に なら ず
﹂$
︑ 明 治三 十 四 年に 府 議 会 は天 王 寺 公園 の 廃 止を 決 定 す る
︒四 天王 寺の 場合
︑明 治十 六年 には 公園 地樹 木栽 培費 とし て府 庁よ り五
〇円 が下 附さ れ︑ さら に明 治十 六年 には 敬 田 院保 護の 目的 で 内 務 省か ら 三
〇〇 円 が 古社 寺 保 存 費の 中 よ り下 賜 さ れて お り
︑あ る 程度 の 保 護を 受 け て はい た%
︒
さまよう銅像 ― 224 ―
し か し 明治 中 期 まで
﹁廃 仏 毀 釈の 余 弊 を 受け て
︑寺 運 衰退 の 極 に達 し
﹂! て い た 中 で︑ 公園 地 全 体の 管 理 に影 響 が 及 ん でき たこ とが 推察 され るの であ る︒ この よう な問 題を はら んで いた 社寺 境内 の公 園化 につ いて
︑公 園史 家の 小野 良平 は以 下の よう に述 べる
︒ 物 的空 間と して は以 前と 変わ らぬ 社寺 境内 が継 承さ れた にし ても
︑そ こを 官│ 民の 所有 の区 別に とも なっ て官 有 の
﹃公
﹄と いう 空間 とし て公 園を 創設 した こと は︑ 都市 空間 全体 とし ては 江戸 期に 比べ て劇 的な 組替 え︑ 編成 が な され たと いえ る︒ 身分 制度 によ って 空間 的に も分 節さ れて いた 都市 空間 は︑ その 解体 とと もに 一元 的に 管理 さ れ るよ うに なり
︑そ の一 施設 とし て公 園は 官︵ 行政
︶に よっ て創 設︑ 管理 され るこ とと なっ た︒ そし てこ の性 格 は 現在 に至 るま でほ とん ど不 変の もの であ る︒ こう した まさ に制 度︑ シス テム とし ての 公園 が始 まっ たの が明 治 六 年の 太政 官布 告で あっ た︒"
小野 の理 解か らす れば
︑土 地区 分制 度や 公園 行政 は︑ たし かに 社寺 境内 とい う旧 来の 空間 を近 代と いう 枠組 みに お い て再 編し てゆ くも ので あっ たと いえ よう
︒と はい えそ の後 の公 園行 政が
︑そ の目 的の もと に社 寺空 間を 一元 的に 管 理 しえ てい たと は言 えな いだ ろう
︒住 吉大 社や 四天 王寺 のよ うに
︑半 ば物 理的 に分 離し てし まう か︑ 最終 的に 公園 化 を あき らめ ざる を得 ない 状況 にな って いた ケー スも 存在 した ので ある
︒少 なく とも 日比 谷公 園を 嚆矢 とす る近 代都 市 公 園と は異 なる 事情 をも つ社 寺境 内は
︑む しろ 近代 初期 の都 市計 画行 政の 齟齬 を浮 き彫 りに する 場所 とし て存 在し て い たと いえ るの であ る︒ 2:
建 碑規 制の 展開 と銅 像規 制に つい て 記念 碑建 設に 関す る規 制の 変遷 につ いて は︑ 国立 公文 書館 に保 管さ れて いる 内務 省関 係文 書な どで 確認 でき る︒ 他
― 225 ― さまよう銅像
に も民 間に よっ て出 版さ れた もの では
︑建 碑を 計画 して いる 者の ため のマ ニュ アル とし て建 碑規 制を 解説 した
﹃日 露 戦 役忠 死者 建碑 並招 魂社 合祀 手続
﹄︵ 明 治三 十九
︶が あ る︒ こ れら を 参 考に
︑記 念 碑 規 制の 変 遷 にお い て 銅像 が ど の よ うに 位置 する かを 見て みた い︒ 記念 碑類 の建 碑規 制は
︑戦 役を 契機 とし た建 碑増 加と 同調 して いる
︒明 治十 二年 に滋 賀県 三井 寺に 建碑 され た西 南 戦 役第 九連 隊戦 死者 記念 碑を 契機 とし て国 内で 建碑 が流 行す る︒ 以降 様々 な石 碑が 各地 に建 設さ れ︑ 建碑 が大 衆化 し て ゆく ので ある
︒明 治十 六年 太政 官布 達第 25号
﹁墓 地及 埋葬 取締 規則
﹂は
︑こ うし た建 碑の 流行 を規 制す る最 初期 の も のと して 理解 でき る︒ この 第七 条で は︑ 碑表 を建 設す る際 には 所轄 警察 署の 許可 を受 けな けれ ばな らな い旨 が書 か れ てい る︒ 凡 ソ碑 表ヲ 建設 セン ト欲 スル 者ハ
︑所 轄警 察署 ノ許 可ヲ 受ク ベシ
︒其 許可 ヲ得 ズシ テ建 設シ タル モノ ハ之 ヲ取 除 ケ シム ベシ
︒但 墓地 外ニ 建設 スル モノ
︑亦 之ニ 準ズ
︒ 次に 確認 でき る明 治十 九年 内務 省訓 令第 397号
﹁官 有地 紀念 碑建 設ノ 件﹂ では
︑実 質的 に社 寺境 内地 への 建碑 を規 制 す る明 記が ある もの とし て注 目で きる
︒ 社 寺境 内紀 念碑 建設 ノ件 社 寺仏 堂ノ 創立 タル 旧幕 政ノ 際ハ 勿論 維新 後ニ アリ テモ 軽シ ク認 可ヲ 与ヘ サリ シニ 近年 ニ至 リ著 シク 其数 ヲ増 加 セ リ且 社格 ヲ請 フモ ノ亦 比々 トシ テ絶 ヘス 依テ 左ノ 箇条 ヲ標 準ト シ一 條二 條五 條ノ 但書 ニ該 ルモ ノノ 外ハ 自今 経 伺 ヲ要 セス 処分 スヘ シ 一 乃至 四号 ハ之 ヲ略 ス 五
︑官 有 地 ニ紀 念 碑 ヲ建 設 セ サ ル事
︵二 十 九 年十 二 月 内務 省 訓 令 第八 六 七 号ヲ 以 テ 官有 地 ヲ 官 有 社 寺 境 内 ト 改
さまよう銅像 ― 226 ―
ム
︶ 但 国家 ニ功 労ア ルモ ノ及 頌揚 アル モノ ハ事 由ヲ 具シ 伺出 ツ可 シ 紀 念碑 ハ其 人在 世ノ 功蹟 ヲ頌 揚シ 公衆 ノ感 格ヲ 生セ シメ 行為 ヲ励 マス ヲ要 トス ルモ ノナ ルニ 建碑 出願 ノモ ノ詩 歌 或 ハ尋 常ノ 履歴 ヲ刻 シ一 家ノ 追慕 ニ止 リ一 般公 衆ニ 影響 セサ ルモ ノ多 シ依 テ本 條ノ 如シ さら にこ の訓 令に おい ては
︑明 治二 十八 年内 務省 訓令 240第 号を もっ て民 有社 寺境 内も 官有 社寺 境内 に準 ずる こと と な った
︒明 治二 十九 年の 改訂 は︑ 官有 地と いう 広い 区分 を社 寺に 限定 し︑ 所管 部署 の区 分を 明確 化し たも のと 思わ れ る
︒と にか く︑ この 条文 をも って 実質 的に 官民 関わ らず 社寺 にお いて は建 碑を 規制 する 方針 がこ こで 確立 され たの で あ る︒ また
﹁元 来永 遠ヲ 期ス ルモ ノニ 付建 碑ノ 為官 有地 ヲ貸 付ス ルト キハ 後日 該地 ノ処 分上 ニ差 支ヲ 来ス ヲ以 テ碑 表ヲ 建 設 ス ル カ為 メ ニ 普通 官 有 地 ヲ貸 付 ス ル事 ハ 自 今一 切 不 相 成儀 ト 御 心 得 有 之 依 命 此 段 及 通 牒 候 也﹂! と も あ る よ う に
︑ 社 寺が 自ら の裁 量で 官有 地を 貸付 する こと が問 題視 され てい たこ とも わか る︒ 当時 の社 寺境 内に おけ る建 碑を めぐ っ て は︑ 特に 官有 地に おい て土 地の 名義 上の 所有 者と して の国 と︑ 事実 上の 所有 者と して の寺 社と の間 の意 識の 違い が 問 題を 生ん でい たと 推察 され る︒ この 一連 の改 定は 明治 二十 八︑ 二十 九年 にな され てい るこ とか ら︑ 日清 戦争 での 戦没 者慰 霊碑 およ び忠 魂碑 の増 加 へ の対 策で あっ たと 考え てよ いだ ろう
︒明 治三 十七 年の 日露 戦争 時に も﹁ 其功 績ヲ 表彰 シ忠 魂ヲ 追悼 セン トス ル如 キ ハ 固ヨ リ民 心ノ 至情 ニ出 ツル モノ ニシ テ敢 テ 咎ム ヘ キ 義ニ ハ 無・
・・
︵ 中略
︶然 ル ニ 一 戦死 者 ア ル毎 ニ 個 々其 情 ニ 任 セ 建設 セシ ム ル ニ於 テ ハ 自然 互 ニ 其建 設 ヲ 競 ヒ遂 ニ 一 種ノ 弊 害 ヲ醸 生 ス ル ニ至 ル
﹂"
た め
︑改 め て申 請 に 軽々 し く 許 可 を与 えな いよ うと の通 牒が 出さ れて いる
︒
― 227 ― さまよう銅像
一方 銅像 につ いて であ るが
︑明 治三 十年 代ま で独 自の 規制 措置 は存 在し てい ない
︒実 際銅 像そ のも のが まだ 少な か っ たか らで あろ う︒ だが
︑徐 々に その 建設 計画 が増 加す るに つれ
︑規 制の 必要 性が 生じ る︒ 明治 三十 三年 五月 十九 日 の 内務 省警 保局 通牒 では
︑銅 像な どの 肖像 彫 刻 の類 に 関 して は 特 段 の規 制 措 置が な か った た め
︑﹁
・・
・然 ル ニ︑ 右 等 形像
︵鋳 造︑ 塑造
︑刻 像等
︶ハ 交通
︑風 致︑ 風俗 ノ取 締上
︑其 ノ建 設 ヲ 許 否ス ル ノ 必要 有 之︒
﹂! と︑ 規 制の 必 要 性 が 強 調 され る
︒同 日 発令 さ れ た 内務 省 令 18第 号﹁ 形像 取 締 規則
﹂で は
︑銅 像 以 外に も 石 像 や 木 像 な ど を 含 め て﹁ 形 像
﹂全 般へ の規 制を 明文 化し てい る︒ 第 一条
官 有地 及公 衆ノ 往来 出入 スル 地ニ 於テ 永久 保存 ノ目 的ヲ 以テ 人物 其他 ノ形 像ヲ 建設 移転 改造 又ハ 除却 セ ン トス ルモ ノハ 東京 市︑ 京都 市︑ 大阪 市ニ 在テ ハ内 務大 臣其 他ノ 地方 ニ在 テハ 地方 長官 ノ許 可ヲ 受ク ヘシ
但 墓 地 境内 ニ於 テハ 慣例 ニ依 リ礼 拝ノ 用ニ 供ス ルモ ノハ 此限 ニア ラス 第
二条
形 像ノ 建設
︑移 転︑ 改造 ノ許 可申 請書 ニハ
︑左 ノ事 項ヲ 具シ タル 書面 ヲ添 付ス ヘシ
︵省 略︶ 六 歴史 上顕 著ナ ラザ ル人 物ノ 形像 ニ係 ルト キハ
︑其 ノ人 ノ事 蹟又 寓意 アル トキ ハ其 ノ寓 意 さら に︑ 銅像 規制 にお いて どの よう な場 所が 想定 され てい たの かが わか るも のと して
︑明 治三 十三 年七 月十 日の 内 務 省警 保局 通牒 を参 照し よう
︒ 形 像取 締ニ 関シ 行政 執行 法適 用ノ 件 本 年内 務省 令第 十八 号︑ 形像 取締 規則 ハ紀 念ノ 為メ ニ公 園等 ニ建 設ス ル銅 像︑ 其ノ 他ニ 対ス ル取 締ヲ 主ト シテ 設 定 セラ レタ ルモ ノニ 有之
︒︵ 以 下略
︶
さまよう銅像 ― 228 ―
すな わち これ をも って
︑制 度上 公共 的な 場所 にお ける 銅像 設置 が︑ 従来 の記 念碑 同様 許可 制と なっ たの であ る︒ こ こ で特 筆で きる のは
︑銅 像の 場合 にお いて はそ の規 制 の適 用 が 社寺 境 内 に限 定 さ れ ず︑
﹁官 有 地 及ヒ 公 衆 ノ往 来 出 入 ス ル地
﹂あ るい は﹁ 公園
﹂︑ す なわ ちパ ブリ ック
・ス ペ ー ス全 般 に 適用 さ れ て いる こ と であ る
︒ひ る がえ れ ば
︑先 の 建 碑規 制に おい て主 な対 象と なっ てい たの は︑ 戦没 者の 慰霊 碑や 忠魂 碑︑ ある いは 戦役 その もの の記 念な ど︑ 故人 や 事 績に 対す る慰 霊と 顕彰 の記 念碑 であ った
︒ゆ えに
︑建 碑が 社寺 境内 に集 中す るこ とが 予測 され るが ゆえ の建 碑規 制 と いう 理解 が成 り立 つ︒ しか し銅 像は
︑碑 とは 異な り︑ 偉人 の容 貌を 通じ 人々 にそ の人 格を 感得 せし める こと を目 的 と する 新し い記 念碑 であ った
︒つ まり 寺社 空間 だけ でな く︑ より 衆目 を集 める 近代 的な 場所
・・
・例 えば 公園 や欧 風 化 する 公共 施設
︑街 路に 展開 して ゆく こと が 想像 で き る︒ した が っ て︑
﹁官 有 地 及 ヒ公 衆 ノ 往来 出 入 スル 地
﹂と い っ た 拡大 解釈 可能 な文 言で 補完 しな けれ ばな らな かっ たこ とが 読み 取れ るの であ る︒ 初期 の記 念碑 規制 の変 遷で は︑ 慰霊 と祭 礼の 空間 とい う特 殊性 を帯 びつ つも
︑公 園と いう 近代 的機 能を 担わ され る こ とと なっ た社 寺境 内に おい て︑ 顕彰 をコ ント ロー ルし よう とす る意 図が 見て 取れ る︒ それ は社 寺境 内と いう 前近 代 的 な オ ープ ン ス ペー ス が 近 代化 す る にあ た っ て︑ その
﹁近 代
﹂の 中 に 秩序 づ け られ る こ とを 望 む
﹁民 心 ノ 至 情﹂! が 空 間を 無秩 序化 して ゆく こと への 危惧 から 来て いる よう に思 われ る︒ では
︑よ り近 代的 かつ パブ リッ クな 場を 志向 す る 銅像 が︑ 寺院 空間 に建 設さ れる 時︑ 一体 どの よう な場 との 関係 性を 生じ るの だろ うか
︒
― 229 ― さまよう銅像
第二 章
:
事例 考 察 3:本 木昌 造像
︵明 治三 十三 年建 設︶ の場 合 本 木昌 造と は誰 か 文政 七年
︵一 八二 四︶ 長崎 に生 まれ
︑オ ラン ダ通 詞本 木久 美の 養子 とな り︑ 世襲 のオ ラン ダ通 詞と なる
︒ま た造 船
・ 航海 術な どに 多く の業 績を 残し
︑明 治元 年長 崎飽 浦製 鉄所 にお いて 御用 掛を 命ぜ られ る︒ 大阪 で最 初の 鉄橋 であ る 高 麗橋 の架 設に 従事
︒通 詞と して 活躍 中︑ 洋式 活版 技術 に触 れ︑ 明治 二年 長崎 に開 設し た私 塾の 維持 運営 のた め︑ 洋 式 活版 の企 業化 を試 み︑ 和文 活字 の鋳 造を 行う
︒こ れ が日 本 に おけ る 金 属活 字 の 鋳 造の 最 初 とさ れ る︒ 翌 明 治三 年
︑ 五 代友 厚の 要請 によ り︑ 大阪 活版 所を 開設 する
︒さ らに 翌明 治四 年に は東 京に も活 版印 刷所 を開 設し た︒ 明治 八年 病 没
︒明 治四 十五 年に 従五 位を 贈ら れる
!
︒ 銅
像な らび にそ の設 置場 所に つい て 銅像 建設 委員 会で ある 本木 会"
が 発足 した 明治 二十 六年 は︑ 西洋 彫塑 によ って 制 作 さ れた 最 初 の銅 像 で ある 大 村 益 次 郎像 が東 京の 靖国 神社 に完 成し
︑東 京の 新名 所と なっ た年 であ る︒ まだ 銅像 その もの がほ とん どな い時 代に 建設 さ れ た銅 像で あっ た︒ した がっ て本 木像 の計 画は
︑銅 像と いう 形式 によ って 記念 碑を 制作 する
︑非 常に 斬新 な事 業と し て 認識 され てい たと 思わ れる
︒ま た︑ 本木 像は 寺院 境内 にお ける 銅像 設置 とし ても 全国 でも 最初 期の もの であ る︒ は じ めて 寺院 境内 に建 設さ れた もの とし ては
︑明 治十 八年 に東 京長 命寺 に建 てら れた 成島 柳木 のレ リー フ像 が存 在し た
さまよう銅像 ― 230 ―
も のの
︑肖 像彫 刻の 銅像 とし ては 実質 的に 先例 を見 ない も の であ った
︒ 建設 計画 は明 治二 十六 年︑ 本木 の門 下生 を含 む大 阪活 版 印 刷業 者に よっ て発 意さ れ︑ 途中
︑明 治二 十七 年の 日清 戦 争 に よ る 中 断 を 経 て︑ 明 治 三 十 三 年 十 月 一 日 に 完 成 し た
︵図 1︶
︒碑 文な らび にそ れを 記載 した と思 われ る﹃ 偉人 の 俤
﹄記 載の 日付 は明 治三 十年 とあ るが
︑お そら く当 初の 設 置 予 定 期 日 に 従 っ て 台 座 が 制 作 さ れ て い た も の と 思 わ れ る
︒銅 像 は 昭 和 十 八 年 の 金 属 供 出 令 に と も な い 撤 去 さ れ た
︒現 在の もの は昭 和六 十年 に再 建さ れた もの であ る︵ 図 2
︶︒ 原型 制作 者な らび に鋳 造者 は︑ 銘板 には 記載 され てい な い が
︑﹃ 偉 人の 俤
﹄に は 今村 久 兵 衛 と 記 載 さ れ て い る︒ 今 村 久兵 衛は 大阪 高津 に鋳 造所 を営 んで おり
︑大 阪城 天守 閣 復 興時 に鋳 造し た鯱 が有 名で ある が︑ 他に も大 阪で 多く の 銅 像制 作を 行っ てい た︒ 本木 昌造 は明 治八 年に 没し てい るの で︑ 銅像 は残 され た 写 真資 料︑ 口伝 によ って 制作 され たと 思わ れる
︒銅 像の 装
図1 明治三十三年建設当時の銅像(『本 木昌造先生銅像復元誌』より)
図2 昭 和 六 十 年 に 再 建 さ れ た 銅 像
(筆者撮影)
― 231 ― さまよう銅像
束 は
︑﹁ 陣 笠を 被 ひ︑ 筒 袖着 物 に 筒 袖 陣 羽 織 を 着 し︑ 筒 袴 を 穿 ち︑ 腰 に は 例 の 大 小 を 佩 ん で 右 手 に 杖 を 衝 い た 立 ち 姿
﹂! であ った
︒こ れ は 幕府 の 御 用船 の 船 長と し て 航 海に 従 事 して い た 壮年 期 の 姿 であ る と いう が
︑写 真 資料 が 不 鮮 明 なた め︑ その 容貌 につ いて 詳細 に分 析す るこ とは でき ない
︒ 次に 銅像 の建 設場 所に つい てみ てみ たい
︒銅 像は
︑四 天王 寺の 東光 院西
︑北 墓地 への 入り 口付 近に 位置 する
︒本 木 昌 造先 生銅 像復 元委 員会 編﹃ 本木 昌造 先生 銅 像復 元 誌﹄
︵ 昭和 六 十 年︶ に掲 載 さ れ てい る 写 真を み る と︑ 設置 当 初 は 周 囲に 墓は なく
︑背 後に は植 栽が ある
︒島 屋 精一 の 昭 和二 十 四 年の 草 稿 に よる
﹃本 木 昌 造伝
﹄に よ れ ば︑
﹁当 初 は 天 王 寺 の 樹幹 に か こま れ た 参 道に あ っ たが 墓 域 が次 第 に 拡 張さ れ る に お よ び 墓 地 の な か に た つ よ う に な っ た︒
﹂"
と あ る
︒さ らに
︑﹃ 本 木昌 造先 生銅 像復 元誌
﹄に おけ る一 九八 五 年 の座 談 会 では
︑昭 和 二 十 七年 の レ リー フ に よる 記 念 碑 復 元以 降︑ 周囲 に墓 が立 つよ うに なっ たこ とが 述べ られ てい る#
︒ 本
木像 の建 設経 緯に つい て 現段 階で 参照 でき る建 設経 緯の ほと んど が︑ 昭和 九年 に津 田伊 三郎 が著 した
﹃本 邦活 版開 拓者 の苦 心﹄ を参 照し た も ので ある
︒た だこ れも わず かな 紙面 が割 かれ てい るに すぎ ず︑ その 詳細 な経 緯は 不明 であ る︒ そこ で関 連資 料か ら 補 足し つつ その 経緯 を読 み解 いて ゆき たい
︒ 本 木昌 造先 生の 記念 碑建 設の 議 は︑ 明治 二 十 六年 大 阪 に於 い て 三 有社
︵正 永
︶大 阪 活版 製 造 所︵ 谷 口︶
︑周 拡 社
︵戸 塚︶
︑今 井弥 兵衛 の四 氏が 発起 人と なり
︑本 木会 なる もの を組 織し て︑ 営業 及び 工員 の各 醵出 金に 拠っ て銅 像 を 建設 する こと にな った ので ある
︒さ て︑ 建設 場所 は公 園と 云う こと に定 めた のだ が︑ 当時 本木 先生 には 位階 が 無 かっ た為 に公 園の 借用 が不 可能 とな った
︒従 って 中之 島公 園も 天王 寺公 園も 駄目 にな り︑ 結局 天王 寺境 内と 云
さまよう銅像 ― 232 ―
う こと にな った がそ れと ても 位階 がな かっ たか ら地 面を 買っ て呉 れと 云う こと で︑ 現在 の墓 場の 地面 を千 五百 円 で 買受 けた ので ある
︒ 然る に茲 に又 一つ の蹉 跌が 起っ た︒ それ は恰 かも 明治 二十 七︑ 八年 の日 清戦 役が 開始 され たの で︑ いや でも 応 で も中 止を よぎ なく され た︒ 結局 記念 碑は 明治 三十 三年 十月 一日 に建 設さ れた ので ある
!
四天 王寺 境内 は︑ 明治 六年 の太 政官 布告 によ って 官営
︵府 営︶ の公 園と なる が明 治三 十四 年に 廃止 され たこ とは 既 に 述べ た︒ つま り建 設年 月か ら考 えて
︑こ こに 述べ られ てい る天 王寺 公園 とは
︑内 国博 覧会 跡地 に明 治四 十二 年開 園 し た天 王寺 公園 では なく
︑太 政官 布告 によ って 制定 され た 官営 公 園 とし て の 四天 王 寺 境 内を 指 し てい た こ と にな る
︒ し たが って
︑明 治二 十六 年の 段階 で考 える と︑ 実質 的に 同じ 四天 王寺 の中 で公 園地 から 寺院 境内 へと 設置 場所 が変 更 さ れた こと にな る︒ 同 じく 候 補 地と な っ てい た 中 之 島公 園 は 明治 二 十 四 年に 仮 公 園と し て 誕生 し た︒ 大 阪 市制 が 明 治二 十 二 年 に 発 足 し
︑そ の都 市整 備事 業の 嚆矢 とし て計 画さ れた 近代 的都 市公 園で ある
︒ま だ明 治二 十年 代に 公会 堂や 図書 館は 開設 さ れ て い な い
︒当 時 の 図 面 を 見 る 限 り で は 西 洋 式 の 庭 園 だ が
︑植 樹 や 築 山 の 様 子 か ら
︑実 際 に は﹁ 和 洋 折 衷 の 逍 遥 園
﹂"
とい った 趣 で あっ た と いう
︒だ が 中 之島 公 園 を めぐ っ て は︑ 当初 か ら 財政 難 の 大 阪市 に あ って 公 園 整備 事 業 費 の 捻出 の問 題を めぐ って 議会 が紛 糾し
︑ま た民 家の 移転 交渉 が停 滞す るな どの 問題 を抱 えて いた
︒ こう した 経緯 から あら ため て本 木像 の設 置却 下の 背景 を考 えて みた い︒ まず 本木 像に おい て場 所の 選定 がい つ行 わ れ てい たの かが 問わ れる
︒﹃ 本 邦活 版開 拓者 の苦 心﹄ の記 述 で は︑ 設置 場 所 が決 定 し た 後に 日 清 戦争 が 始 まり 事 業 が 中 断し てい る︒ ここ から
︑設 置場 所の 選定 なら びに 申請 が少 なく とも 明治 二十 六年 には 行わ れて いた もの と理 解で き る
︒一 方こ の時 期に はま だ銅 像に つい ての 規制 措置 が 明文 化 さ れて お ら ず︑ 記念 碑 一 般 につ い て の規 制 措 置 とし て
︑
― 233 ― さまよう銅像
明 治十 六年 太政 官布 達第 25号
﹁墓 地及 埋葬 取締 規則
﹂と
︑明 治十 九年 内務 省訓 令第 397号
﹁官 有地 記念 碑建 設ノ 件﹂ が 存 在し た限 りで ある
︒仮 に銅 像建 設が 記念 碑一 般に 準じ て許 諾さ れて いた とす れば
︑本 木像 に大 きく 関係 する のは 後 者 の条 件︑ すな わち 官有 地へ の記 念碑 設置 につ いて は︑ 国家 的顕 彰に 値す る功 績と して 国家 に認 めら れな けれ ばな ら な い︑ とい う条 件で ある
︒﹁ 位 階が ない ため に︑ 公園 へ の 設置 が 不 可能 と な っ た﹂ とい う 記 述は
︑恐 ら く 位階 の 授 与 が
︑国 家的 顕彰 にお ける 判断 基準 の一 つに なっ てお り︑ これ が上 述の 規制 措置 に抵 触し たた めに 却下 され たも のと 解 釈 でき る︒ 一方
︑中 之島 公園 は市 営公 園で あり
︑こ うし た規 制措 置が 適用 され る官 有の 公園 では ない
︒よ って 本木 像の 建設 が 却 下さ れた 理由 とし ては
︑別 の理 由が 考え られ る︒ 先に 述べ たよ うに
︑明 治二 十六 年時 点で は中 之島 公園 はま だ建 設 途 中で あり
︑運 営や 土地 収用 の問 題を 抱え てい た時 期に あた る︒ した がっ て公 園の 仕様 がま だ確 立し てい ない 段階 で 銅 像建 設を 許可 する こと は常 識的 にみ て考 えに くい
︒ 以上 の検 討か ら︑
﹃ 本邦 活版 開拓 者の 苦心
﹄に ある 銅像 建 設 経緯 は 次 のよ う に 修 正で き る︒ ま ず建 設 者 は公 園 へ の 設 置を 画策 し︑ 府内 の官 営・ 市営 公園 に申 請を 提出 し てい た
︒こ こ では 専 用 の規 制 措 置 が存 在 し てい な か っ たた め
︑ 記 念碑 一般 の規 制措 置に よっ て判 断さ れる こと にな った
︒と ころ が︑ 国家 的功 労者 であ るこ とを 保証 する 位階 を持 た な いた めに
︑ま ず官 有地 なら びに 官営 公園 への 設置 が却 下さ れた
︒次 に市 営公 園は むし ろ将 来の 公園 整備 上の 不安 か ら 却下 され た︒ した がっ て︑ 本木 像の 建設 が可 能と なる のは
︑衆 目を 集め る場 所で あり かつ 位階 がな くて も建 設で き る 場所 に絞 り込 まれ る︒ そこ で最 終的 に︑ 天王 寺公 園の 民有 地部 分に あた る四 天王 寺境 内が 候補 に挙 がっ たも のと 見 ら れる
︒す でに 境内 にお ける 建碑 は明 治十 九年 に規 制さ れて いる もの の︑ 境内 民有 地に 建碑 規制 が適 用さ れる のは 日 清 戦争 によ る建 碑増 加を 懸念 した 訓令 改訂 後の 明治 二十 八年 以降 であ るか ら︑ 本木 像が それ 以前 に交 渉を 行っ てい た
さまよう銅像 ― 234 ―
と すれ ば建 設は 可能 であ る︒ した がっ て具 体的 な場 所の 選 定に お い て官 有 地 同様 位 階 の 有無 が 問 われ て い る もの の
︑ 最 終的 には 寺院 所有 地を 購入 する こと で永 代借 地権 を得 たも のと 推察 でき る!
︒ 本
木像 にみ る顕 彰の 近代 性と 場 本木 像が 計画 され た明 治二 十年 代は
︑銅 像自 体が 数少 なく
︑珍 しい 時代 であ った
︒こ れを 踏ま えて 銅像 を建 てる こ と の意 味︑ そし て価 値を 考え ると
︑そ こに は単 なる 地方 功労 者の 顕彰 を超 える もの を思 わざ るを えな い︒ 本 木昌 造 は﹁ 功 成っ た 晩 年の 先 生 で はな く
︑鬱 勃 と時 代 と と もに 歩 む﹂"
姿 で 樹木 に 囲 まれ た 中 に 立っ て い る︒ 先 に も 述 べた よ う に︑ 本木 は 大 阪 にお け る 活版 印 刷 の恩 人 と し てで は な く︑ 旧幕 政 下 にお い て 近 代を 見 据 え て い た 人 物
︑つ まり 日本 の近 代化 の恩 人と して 表現 され てい た︒ ここ には 本木 を﹁ 近代 日本
﹂の 恩人 とし て顕 彰し
︑ま たそ れ に よっ て自 らを もそ の後 継者 とし て自 負す る建 設者 たち の意 図を 見て 取る こと がで きよ う︒ よっ て︑ 本木 昌造 の近 代 的 顕彰 性な らび に西 洋由 来の 新し い記 念碑 とい う銅 像の 近代 性を 鑑み れば
︑建 設者 たち が求 めた 場所 の価 値は
︑本 木 を 顕彰 する にふ さわ しい 公共 性に あっ たの では ない か︑ 言い 換え れば
︑制 度的 に近 代を 保証 され た場 に銅 像を 設置 す る こと が︑ 建設 者達 にと って 理想 的姿 であ った ので はな いか と推 察さ れる ので ある
︒ しか し実 際に は国 家的 功労 者と は認 めら れず
︑公 園か ら墓 地に 隣接 する 境内 地に 建設 せざ るを 得な かっ たこ とに よ っ て︑ 建設 者た ちが 求め たよ うな 近代 的顕 彰の 空間 を獲 得す る事 は出 来な かっ たと 見て よい だろ う︒ むし ろ今 日私 た ち が本 木像 を見 て想 起す るよ うに
︑地 域産 業勃 興の 恩人 とし て個 別偏 在的 な顕 彰空 間に とど まっ てい るの であ る︒
― 235 ― さまよう銅像
4: 竹 本攝 津大 掾︵ 二代 目越 路太 夫︶ 二見 金助 像︵ 大正 八年 建設
︶の 場合 竹 本攝 津大 掾と はだ れか 竹本 攝津 大掾
︵二 代目
竹 本越 路太 夫︶ 本名
二 見金 助︒ 天保 七年 大阪 順慶 町三 丁目 の塗 り物 問屋 に生 まれ る︒ 三 代 目野 澤吉 兵衛
︑五 代目 竹本 春太 夫の 門下
︒明 治全 般に わた る義 太夫 界の 不世 出の 名人 と伝 えら れる
︒明 治十 六年 に 開 業し た御 霊神 社内 の文 楽座 に て︑ 五代 目 豊 沢広 助
︵三 味 線︶
︑初 代 吉 田 玉造
︵人 形
︶と 共 に櫓 下 に 座る
︒明 治 十 八 年 に神 道黒 住派 に入 り少 教正 の職 に補 せら れ︑ のち 大講 義︒ 明治 三十 五年 その 芸の 栄誉 を称 えら れ︑ 小松 宮彰 仁親 王 よ り摂 津大 掾た るべ き令 旨と 烏帽 子︑ 素袍 を拝 領す る︒ 大正 六年 死去
︒八 十一 歳︒ 銅
像な らび に設 置場 所に つい て 銅像 原型 制作 者は
︑弟 朝倉 文夫 と共 に数 多く の銅 像 を 制作 した 渡辺 長男
︑鋳 造は その 義兄 であ る岡 崎雪 声 で あっ た︒ この 銅像 の建 設過 程を 記録 した
﹃竹 本攝 津 大 掾銅 像建 設報 告書
﹄に よれ ば︑ 銅像 の仕 様は
﹁銅 像 の 銅台 座は
︑高 さ八 寸五 分に して
︑銅 像は 高さ 八尺 な り
︒通 計八 尺八 寸五 分な るを 以て
︑総 体の 高さ は︑ 十 九 尺 五 寸 三 分 な り と す
︒﹂! と あ る
︒台 座 の 高 さ は
︑
﹁十 一尺 五寸 三分
﹂︑ すな わち 約三 メー トル 五〇 セン チ で あり
︑あ わせ て全 長約 五メ ート ル九
〇セ ンチ の規 模
図3 『竹本攝津大掾銅像建設報告書』所 収の銅像
さまよう銅像 ― 236 ―
で あっ た︵ 図3
︶︒ 碑 文は ない が︑
﹁摂 津大 掾 二見 金助 翁 之像
中 橋徳 五郎 書﹂ 裏面
﹁大 正八 年五 月友 人胥 謀建 之
﹂の 銘板 が嵌 入さ れて いる
︒ 次に 写真 で判 明で きる 銅像 の表 現を 見る
︒こ こで 竹本 が 身に つけ てい る衣 装は
︑明 治三 十五 年に 竹本 が小 松宮 か ら攝 津大 掾た るべ き令 旨を 受領 した 際に 拝領 した 烏帽
す お う
子 と素 袍で ある
︵図 4︶
︒﹁ 其 原型 は渡 辺長 男氏 が翁 の生 前 に於 て︑ 親し く翁 をモ デル とし
︑大 正二 年引 退当 時の 面 影を 為す を主 眼と して 調製 せる 小原 型に 基き
︑心 血を 注 ぎ調 製せ るも の﹂! と ある
︒容 貌は
︑摂 津大 掾が 存命 中に 肖像 とし て製 作さ れた もの であ った
︒ 設
置場 所の 特定 現在
︑四 天王 寺境 内に 竹本 像の 手が かり を知 る痕 跡は 発見 でき ない
︒し かし
︑唯 一四 天王 寺伽 藍の 修復 事業 を記 念 し て 編 纂さ れ た﹃ 四 天王 寺 図 録 伽 藍編
﹄中 の 昭 和十 一 年 当時 の 境 内 図に そ の 銅像 の 位 置 が 記 さ れ て い る︵ 図5
︶︒ 同 図に よれ ば銅 像の 設置 場所 は︑ 現在 の大 黒堂 の左 手︑ 地蔵 堂の 向か い側 の辺 りで ある
︒こ のあ たり には 石碑 が数 多 く 存在 する
︒銅 像を 撮影 した 写真 で確 認す ると
︑樹 木を 背景 に立 てら れて いる のが 判る もの の︑ 墓地 側を 向い てい る の か︑ 沿道 側を 向い てい るの かま では 判明 しな い︒
図4 『此君帖』(大正十二)所収の大掾
― 237 ― さまよう銅像
建 設者 につ いて
﹃ 竹本 攝 津 大掾 銅 像 建設 報 告 書﹄ に は︑ その 建 設 経過 に つ い て 詳 細に 記述 され てい るほ か︑ 建設 に関 わっ た関 係者 につ いて も詳 細 に 記 され て お り︑ その 顕 彰 規 模の 大 き さを 知 る こと が で き る︒ こ の事 例で は︑ この 点に 注目 し︑ どの よう な人 脈に よっ て銅 像建 設 が行 われ たか につ いて まず 検証 して みた い︒ 竹本 と懇 意で あっ た土 居通 夫︵ 五代 友厚 に次 ぐ大 阪商 業会 議所 会 頭︶ の発 意に より
︑有 志数 名と 建設 委員 会が 発足 する
︒ 土 居通 夫氏 在世 の頃
︑二 見金 助翁 と親 交浅 から ず︑ 一代 の鉅 匠 をし て長 へに 世に 伝へ ん為 め︑ 之が 寿像 を製 作し
︑衆 目環 睹 の 地 に建 設 せ んこ と を 発 企さ ら れ︑ 大 正六 年 六 月十 四 日︑ 左 の諸 氏︵ 後 述︶ を北 浜灘 萬楼 に招 きて
︑協 議せ られ たり
︒! 土
居と 竹 本 攝津 大 掾 の関 係 は
︑﹁ 明 治三 年 大 阪府 少 丞 とし て 阪 神 鉄道 の敷 設に 奔走 した る時
︑そ の師 春太 夫の 許に おい て︑ 相会 し たる を初 見と し︑ 最も 古く
︑最 も親 しく
︑最 も意 義あ る交 友と な れり
︒﹂"
と ある よう に︑ 義 太 夫に お い て竹 本 と 師弟 関 係 に あっ た とい うの が︑ そも そも の銅 像建 設発 意の 経緯 であ る︒ 他︑ 有志
図3 四天王寺現境内実測図 天沼俊一編『四天王寺図録 伽藍編』昭和十一 さまよう銅像 ― 238 ―
は 楠本 とく
︑田 中太 七郎
︑岡 田茂 馬︑ 江崎 政忠
︑高 田常 二郎
︵三 代目 越路 太夫
︶︒ し かし
︑土 居は 病気 によ り急 逝し
︑ 遺 志を 受け 継い だ中 橋徳 五郎 が委 員長 とな って 建設 を進 める
︒以 下︑ 委員 会主 要メ ンバ ーの 出自 につ いて まと める
︒
・ 土井 通夫:
司 法官
︑実 業家
︑大 阪商 業会 議所 会頭
︒﹃ 土 居通 夫君 伝﹄ に掲 載の 日誌 には
︑﹁ 斯る 大患 に罹 りつ つ︑ 尚 君︵ 土 居︶ は摂 津 大 掾が 銅 像 の事 に 思 ひ を費 や し︑ 病 中筆 を 走 ら して 消 息 を通 じ た るな り
﹂! と
︑死 の 直 前 ま で に わた る攝 津大 掾と の親 交︑ 銅像 計画 の折 衝が 記載 され てい る︒
・ 中橋 徳五 郎: 大阪 商船 社長
︵M 31〜 T3
︶な ど︑ 実業 家︑ のち 政治 家︒ 明治 四十 五年 より 衆議 院議 員︑ 大正 七年 よ り文 部大 臣︑ 政友 会所 属︑ のち 商工 大臣
︑内 務大 臣を 歴任
︒ 然 るに 同翁
︵土 居︶ は︑ 其物 故せ らる るに 先立 ち︑ 此の 銅像 建設 の一 切を 挙げ て私 に委 託せ られ たい と云 ふこ と を
︑灘 萬の 女将 の楠 本ふ く子 に遺 言せ られ た と云 ふ こ とで あ り ます
︒︵ 中 略
︶私 は 浄瑠 璃 に は深 い 趣 味を 持 っ て 居 る訳 では あり ませ んが
︑二 見翁 夫妻 は永 年の 知人 でも あり
・・
・"
・ 田中 太七 郎: 神戸 の実 業家
︒大 阪倶 楽部 創立 者︒ 大阪 商船 副社 長︑ 大阪 株式 取引 所理 事︒
・ 岡田 茂馬:
﹃此 君帖
﹄に 序文 を書 いて いる が︑ 不明
︒最 初に 土居 が銅 像計 画を 相談 した 相手 であ った
#
︒
・ 柿崎 欽吾:
明 治二 十一 年大 阪始 審裁 判所 判事 補︒ 明治 二十 二年 より 関西 法律 学校
︵現 関西 大学
︶講 師︑ 明治 二十 四 年退 官︑ 弁護 士と なり
︑大 阪商 船の 会社 顧問 とな る︒ のち 大阪 府会 議員
︑市 会議 員︑ 大阪 商業 会議 所特 別議 員︒ 明 治三 十三 年か らは 関西 法律 学校 専務 理事
︒
・ 江崎 政忠:
大 阪ロ ータ リー クラ ブ創 立メ ンバ ー︒ 鴻池 銀行
︵委 員会 の会 計事 務局
︶監 事︒ 特に それ まで 土居 とは 懇 意に して いた わけ では ない が︑ 以前 に井 上毅 公爵 像建 設の 経験 があ った こと によ り︑ 土居 から 建設 計画 への 参加 を
― 239 ― さまよう銅像
依頼 され た︒ 実質 的に この 銅像 建設 の実 務担 当者
︒ 翁
︵土 居︶ は其 重態 であ り乍 ら︑ 有馬 に在 って も尚 ほ大 掾の 銅像 の事 に付 て心 配し
︑何 彼と 奔走 して 居ら れる の で
︑私
︵江 崎︶ は此 銅像 の件 に付 ては 深い 関係 もな く︑ 又趣 味も 此方 面と は異 ふの であ るが
︑此 状態 を見 て見 る に 見兼 て︑ 盡力 する こと にな り︑ 其趣 意書 につ いて も︵ 以下 略︶"
・ 楠本 とく:
料 亭﹁ 灘萬
﹂の 女将
︒詳 細は 不明
︒ 次
に他 の委 員に つい て︑ 大正 八年 の﹃ 日本 紳士 録﹄ に記 載さ れて いる 情報 を付 して おく
︒
・ 磯野 良吉:
大 阪窒 業!
︑日 本舎 蜜製 造! 社長 ほか
・ 井上 周: 東洋 製紙 社長
阪 神電 気鉄 道・ 東洋 加工 紙 取締 役
・ 緒方 正清:
緒 方婦 人科 病院 院主
・ 濱崎 健吉:
京 阪電 気鉄 道︑ 伊勢 電気 鉄道
取 締役
︑豊 国火 災 監査
他
・ 松本 松蔵:
酒 類商
・ 樋口 三郎 兵衛:
不 明
・ 桐原 捨三:
大 阪毎 日新 聞社
相 談役
・ 島徳 蔵: 日露 漁業
!社 長︑ 株式 取引 所理 事長
︑阪 神電 気鉄 道取 締役
︑豊 国火 災取 締役
・ 志方 勢七:
攝 津製 油! 社長
︑豊 国火 災取 締役
︑
・ 平瀬 三七 雄: 東洋 加工 紙︑ 東洋 製紙
監 査
さまよう銅像 ― 240 ―
・ 中嶋 清重:
︵東 京︶
・ 土居 剛吉 郎: 土居 通夫
嫡 子
・ 斉藤 幾太:
不 明
・ 角田 真平:
不 明︵ 東京
︶ 銅像
建設 にお ける 賛同 者 には
︑杉 山 茂 丸︑ 九鬼 隆 一︑ 大 久保 利 武
︑加 藤 正義
︑大 倉 喜 八郎
︑池 上 四 郎︑ 永 田仁 助
︑ 小 林一 三︑ 宮崎 敬介
︑今 西林 三郎
︑な どの 名前 も見 られ る︒ 経歴
・肩 書に 明ら かな よう に︑ 一芸 能人 の銅 像建 設と し て は異 例な ほど
︑東 西政 財界 の人 脈を 見る こと がで きる
︒基 金の 大き さか ら考 えて
︑こ の銅 像建 設の 規模 は︑ 東京 に お ける 政治 家・ 軍人 など の立 像と 同規 模の 銅像 計画 に匹 敵す る!
︒ 竹本 とい うよ り も 土 居の 影 響 力の 行 使 が大 き く 関 係 して いる こと は明 らか であ る︒ これ ら人 物に はい くつ かの コネ クシ ョン が見 て取 れる
︒ま ず︑ 土居
︑田 中︑ 中橋 が大 正元
︵一 九一 二︶ 年設 立さ れ た
︑関 西財 界の 社交 場で ある
﹁大 阪倶 楽 部﹂
︵現
・社 団 法 人大 阪 倶 楽部
︶の 設 立 メ ンバ ー で ある
︒法 曹 関 係の コ ネ ク シ ョン
︵土 居・ 柿崎
︶︑ 大 阪商 船会 社︵ 中橋
︑田 中︑ 柿崎
︶︑ 鴻池 関係
︵土 居︑ 江崎
︶も 挙げ られ る︒ ただ し実 際に こ の コネ クシ ョン にお いて なん らか の活 動を 行っ た記 録は 残さ れて おら ず︑ 詳細 は不 明で ある が銅 像建 設の ため の基 金 拠 出の 人脈 とし て用 いら れた 可能 性は 十分 にあ る︒ 建
設の 経緯 具体 的な 計画 の推 進と して
︑大 正六 年に
︑中 橋徳 五郎 より 形像 建設 許可 願が 内務 大臣 に提 出さ れて いる
︒こ の段 階
― 241 ― さまよう銅像
で は建 設場 所は 未定 であ り︑ 竹本 の私 邸が 建設 場所 とし て登 録さ れて いる
︒委 員会 によ る最 初の 候補 地は 明治 初期 に 浄 瑠璃 七功 神が 祭ら れて いる 生国 魂神 社︑ 御霊 文楽 座が あっ た御 霊神 社な どで あっ たが
︑い ずれ も絶 対に 許可 を得 る 見 込み がな く認 可さ れな かっ たと いう
︒例 えば 靖国 神社 の大 村益 次郎 像︵ 明治 二十 六年 建設
︶の よう に︑ 神社 境内 へ の 銅像 設置 の先 例が ない わけ では ない が︑ 内務 省記 録を 見る と︑ 神社 の建 碑申 請に つい ては 特に 厳し く規 制さ れて い る 様子 がみ てと れる
︒規 制措 置と の関 係で は︑ 大正 二年 の内 務省 令第 六号
﹁祭 神︑ 神社 名︑ 社格
︑明 細帳
︑境 内︑ 創 立
︑移 転︑ 廃合
︑参 拝︑ 拝観
︑寄 附金
︑講 社︑ 神礼 ニ関 スル 件﹂ 中︑ 第二 十六 号が 挙げ られ る︒ 第 二十 六条
境 内地 ニハ 国家 ニ功 労ア ルモ ノ︑ 又ハ 頌揚 スベ キ事 績ア ルモ ノニ 非ザ レバ
︑其 ノ碑 表又 ハ形 像ヲ 建 設 スル コト ヲ得 ズ 次に 候補 地と して あが った のは 大阪 市営 の中 之島 公園
︑天 王寺 公園 であ った
︒こ こで の天 王寺 公園 は︑ 明治 四十 二 年 に内 国博 覧会 跡地 に新 設の 市営 都市 公園 とし て開 設さ れた 現天 王寺 公園 であ る︒ 公園 は当 時銅 像の 建設 場所 とし て 非 常に 好ま れて いた が︑
﹁ 是又 絶対 に許 可を 得る の見 込み なく
﹂! と 断念 して い る
︒こ こ で公 園 な らび に 公 園行 政 に 関 連 する 動き を概 観す ると
︑大 正八 年に 都市 計画 法が 公布 され
︑大 正十 三年 に大 阪市 公園 課が 発足 して いる
︒当 時の 公 園 は︑ 江戸 期の オー プン スペ ース の保 護か ら運 動場 やア ミュ ーズ メン ト施 設を 加え た機 能的 公園 への 移行 が進 んで い た 時期 であ り︑ こう した 都市 公園 整備 の本 格化 を迎 える にあ たっ て︑ その 障害 とな りか ねな い銅 像建 設を 許可 しな い 方 針が 市当 局内 部で 生じ てい たと いう 可能 性は 充分 に考 えら れる
︒ この 紆余 曲折 によ って
︑四 天王 寺と いう 候補 があ がる
︒ 種 々調 査の 結果
︑四 天王 寺境 内は
︑芸 祖竹 本義 太夫 以来
︑浄 瑠璃 界に は非 常の 縁故 もあ り︑ 翁並 に翁 に眷 顧を 垂 れ 給ひ し小 松宮 殿下 にも ゆか りあ るを 以て
︑最 適当 の好 地と 認め
︵以 下略
︶"
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同地 は明 治二 十九 年に 四天 王寺 総裁 とな った 小松 宮彰 仁親 王と の関 係や
︑義 太夫 関係 者の 碑が ある など
︑大 掾と 少 な から ぬ縁 故が ある とい う理 由で 候補 に挙 がっ た場 所で ある
︒大 正七 年当 地へ の建 設承 認願 を四 天王 寺吉 田源 応住 職 あ てに 提出 して いる
︒し かし 四天 王寺 にお いて も﹁ 同寺 に於 いて は夫 々内 規の ある あり て︑ 境域 内に は一 切銅 像の 建 設 を許 さざ る こ と なり 居 れ るを 以 て﹂!
︑ 当初 の 候 補 地は 寺 院 側よ り 拒 絶さ れ て い る︒ した が っ て最 終 設 置場 所 へ 変 更 した 願書 を再 度提 出し てい る︒ この 内規 およ び当 初の 設置 場所 につ いて は戦 災に つき 記録 資料 が現 存し ない ため に 判 明し ない
︒ 最終 的に 許可 され た設 置場 所は
︑境 内外 地の 官有 地第 四種 にあ たる ため
︑改 めて 竹本 攝津 大掾 の性 行に つい ての 調 書 を提 出し
︑審 査の 上よ うや く許 可が 下り てい る︒ この 経過 は形 像取 締令
"
に従 っ て 建 設許 可 を 内務 省 に 提出 し て い た もの と考 えら れる
︒ し かし 一 方 でこ の 土 地は
︑銅 像 の 設 置場 所 と して は 適 切 では な い﹁ 一 種不 潔 な る溜 池
﹂# で あ り︑ 埋 め 立て 造 成 を 行 い整 備す る必 要が あっ た︒ さら に四 天王 寺に 対 して は
︑﹁ 祠 堂金 と し て金 一 千 七 百二 十 八 円を 本 会 より
︑又 維 持 金 と し て 金一 千 百 五十 二 円 を︑ 二見 文 次 郎︑ 同 栄三 郎
︑竹 本 越路 太 夫 三氏 の 名 義 をも っ て 同時 に 寄 贈﹂$ す るこ と に よ っ て︑ 土地 の永 久使 用権 が与 えら れて いる
︒つ まり 天王 寺公 園廃 止後 の官 有地 を整 備し
︑同 時に 寺院 に事 実上 の維 持 管 理費 を支 払う こと によ って
︑実 質永 代借 地権 を得 たと 理解 でき る︒ 竹
本像 にみ る顕 彰と 場 銅像 除幕 式に おい て︑ 祝辞 を述 べた 四天 王寺 住職
︑吉 田源 応は
︑次 のよ うに 摂津 大掾 を語 る︒ 況 んや 翁の 如き 達人 の忠 孝義 烈の 事蹟 を談 ずる に至 ては 世の 風教 に資 益す るこ と量 り知 るべ から ざる に於 てお や
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・・
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近代 の銅 像に おい ては 必ず
︑国 家的 な意 味の 下に 人物 を意 味づ けよ うと する この よう な言 及が なさ れる
︒そ の意 図 は
︑竹 本像 が小 松宮 より 攝津 大掾 たる 令旨 を受 領し た際 に拝 領し た烏 帽子 と素 袍を まと った 姿で 表現 され てい るこ と か らも 容易 に想 起で きよ う︒ 日本 の銅 像は 装束 にお いて 位階 勲を 表現 した もの が多 いが
︑一 つに は顕 彰の 公的 性格 を 表 現す るた めの 方法 と考 えら れる
︒つ まり 人物 の功 労を 越え て︑ 世の 風致 に資 益し 国家 的に 顕彰 する に値 する 人物 と し ての 意味 を強 調す るこ とに よっ て︑ その 存在 価値 をお おや けに 高め るこ とに 他な らな い︒ 今ま での 経過 を見 てき たよ うに
︑そ もそ もこ の銅 像 の建 設 目 的は
︑肩 書 き を越 え た 所 で結 ば れ てい た 知 己 によ る
︑ 明 治義 太夫 の立 役者 の顕 彰で あっ た︒ だが
︑そ の規 模な らび に発 意者 であ り銅 像の 完成 を見 ずに 逝去 した 土居 通夫 の 影 響力
︑さ らに は中 橋た ち建 設委 員た ちが その 醵金 にあ たっ て動 員さ れた 人脈 など を勘 案す ると
︑単 純に 土居 の遺 志 の みが 銅像 建設 を突 き動 かし てい た動 機で ある とは いえ まい
︒む しろ 銅像 建設 に透 けて 見え る関 係者 たち の多 様な 思 惑 が︑ それ に見 合う だけ の近 代の 偉人 とし て銅 像を 建設 させ てい ると いう 印象 が浮 かび 上が る︒ しか し一 方で
︑寺 の内 規の 存在
︑そ して 官有 地で あっ たと はい え実 際に はた め池 とい うお よそ 銅像 建設 には 不適 切 な 場所 が与 えら れた こと を考 える と︑ 銅像 は︑ 四天 王寺 側に とっ てむ しろ 受け 入れ 難い 存在 だっ たの では ない かと い う 推測 も成 り立 つの であ る︒ 四天 王寺 とは 直接 関係 のな い芸 能人 の巨 大な 銅像 を境 内に 建設 する 経緯 には
︑す でに 特 殊 な事 情を 臭わ せる もの があ るが
︑そ れを 差し 引い ても
︑本 木像 より もよ り大 きな 顕彰 規模 とな った 竹本 像が 寺院 境 内 に及 ぼす 影響 は︑ 充分 に寺 院側 の不 安材 料と なろ う︒ 竹本 像の 建設 場所 決定 に伴 う困 難に は︑ いわ ば関 係者 の思 惑 を 含ん で膨 張し た銅 像の 顕彰 規模 を抑 制し たい とい う寺 院側 の意 図を 垣間 みる こと がで きる ので ある
︒
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まと め
:
四天 王 寺 にみ る 銅 像と 都 市 の近 代 本稿では
︑二 体の 銅像 の考 察を 通じ て︑
﹁ 近代
﹂を 体現 す る 諸制 度 が 錯綜 す る 寺 院空 間
︑あ る いは 近 代 都市 へ の 機 能 的進 化に 飲み 込ま れつ つも 前近 代と の繋 がり を保 ちえ た寺 院空 間の 中へ
︑近 代の 顕彰 のか たち がど のよ うに 入り 込 ん でゆ くの か︑ その 経緯 を明 らか にし た︒ 銅像 とは
︑﹁ 人 物の 功績 を記 念し
︑肖 像彫 刻に して
︑碑 文の 読め ない 人 々 にも そ の 功徳
︑人 格 を 感懐 せ し め る﹂! も の
︑す なわ ち肖 像彫 刻で ある と同 時に
︑都 市空 間に おい て一 個人 を超 えた
﹁偉 人﹂ の表 現を 伝達 する 媒体 であ る︒ そ し てそ の建 設は 私的 追慕 を公 的顕 彰へ と持 ち上 げよ うと する
﹁民 心の 至情
﹂に 支え られ てい る︒ それ は単 に建 設者 た ち が共 有す る人 物の 記憶
︑感 謝の 念だ けで はな く︑ 建設 者自 身の 思惑 の具 現で あり
︑自 分た ちの アイ デン ティ ティ を 確 認す る場 所の 希求 でも ある
︒こ うし た背 景に 裏付 けら れる がゆ えに
︑銅 像の 顕彰 性は より 強力 な場 の公 共性 によ っ て 担 保 され ね ば なら な い の であ る
︒銅 像 は強 い 表 象性 を も つ 顕彰 媒 体 では あ る が︑ その 効 力 を 発揮 で き る か ど う か は
︑場 所に かか って いる
︒ しか し二 銅像 にお ける 建設 場所 選定 経緯 をた どる と︑ そこ には 近代 化を 遂げ る都 市と 銅像 との 軋轢 を読 み取 るこ と が でき よう
︒例 えば いず れの 銅像 計画 にお いて も志 望さ れて いた 公園 は︑ 江戸 期の オー プン スペ ース の制 度的 読み 替 え から
︑防 災機 能や レク リエ ーシ ョン
︑動 物園 など のア ミュ ーズ メン トな ど都 市化 に適 応し た機 能的 公園 へと 変化 し て ゆく
︒こ の推 移に おい て︑ 恒久 的に 存在 しつ づけ ると いう 銅像 の記 念碑 とし ての 属性 は︑ 公園 に求 めら れる 機能 的 近 代化 とは 相容 れな いも のと 考え るこ とが でき る"
︒ これ に対 して
︑寺 院境 内は 制 度 的 には 近 代 的枠 組 み に整 理 さ れ
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