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諫早干拓地入植者の農業経営とその特色

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諫早干拓地入植者の農業経営とその特色

|共同経営を中心として|

清 文

1 ま え が き

 戦後,多くめ干拓地が建設されたが,九州とくに有明海沿岸には,佐賀県の有明干拓地

(1)をはじめ,三池干拓地,大和干拓地,そして諌早=F拓地が国営事業によって,相ついで 完成し,それぞれの環境に応じた入植計画がたてられ,すでに営農が行なわれている。こ のうち,諫早干拓地は,長崎県が立案して農林大臣の承認をえた計画に従って,水稲栽培 と酪農を組み合わせた完全協業経営を,46戸の入植者によって,昭和38年から営農が進め られたところである。本来,共同化または協業化とは個々の農業経営では不可能な経営上 の諸聞題をいくつかの農業経営が協力し合って,打解しようとする方策として生れたもの である。そして共同化の一つの側面として,個々の農家の直接的な利害・期待だけが反映 されているものではなく,常に共同体が存在する目的・意義に従って存続するように,ま た発展するように決定される意志があり,それを町尽に運営していこうという主体が存在 している(2)。本干拓地の入植の場合,西南暖地における水田酪農の一方式を確立し,長崎 大干拓(3)に資するという試行的意義をもっていたのである。したがって長崎県が指導的役 割を担っていたものであり,初期には全く入植者の意志の加わっていない共同体であった。

かかる行政機関が牽引する共同化の例は,今日では各地に見られるようになったが,昭和 38年ごろは極めて少ないものであった。筆者はこのような完全協業経営に興味を抱き,入 植時より観察をつづけてきたが,7年を経過した現在,その推移を報告するとと「もに,天 下り共同化の問題をさぐってみる必要があると考え,本論をまとめた次第である。

 諌早干拓地は昭和18年に計画されたが,大戦のため中止され,昭和22年農林省直轄の干 拓建設事業として着工し,昭和32年干陸した。その後,用排水工事などが行なわれ,昭和 37年には入植予定であったが,灌特用水源の深井戸(第1図)の揚水を試みたところ,背 後地の飲用地下水が枯れるという事態が発生したため,延期されて38年に入植した。造成

された耕地面積は280加で,入植者のために135勿,地元増反者のために145加がわりあて られ,入植者用は申央部(4)を,増反者用にはその東西両側を配当した。住宅は新干拓地内 では災害の不安があるとの入植者の希望から,既成干拓地内の道路ぞいに,ほぼ同じ規格

(5)のものを建設し,抽せんで割当を決定した。干拓地の耕地の条件(6)は,排水の三悪で決 まることが多く,一般に内陸側が生産力は高く,海岸部とくに排水樋門付近は悪い(7)。また 干陸6年後に入植しているし,灌概用水も枯れないので,土壌申に含まれるαの影響は ほとんどない。施肥量は窒素肥料を申心に少ない方がよいと耕作者達が口をそろえ℃言う

(8)ように,土壌は悪くないが,品種にかかわりなく,良質の米を産することは困難なよう である。

(2)

,零0 長崎大学教育学部社会科学論叢 第20号

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      第1図

(4ヵ所に分散している入植者の所有耕:地の位置を,各種記号で表示。

ただし西組合は2例,東組合は4例のみ。また・印は深井戸の位置)

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2 入植者の営農計画

 長崎県が計画した営農実施計画の概要を計画書(9)によって紹介する。経営組織は水稲作 を申心に,田畑輪換により土地生産性の維持につとめ,輪換畑および裏作には飼料作物を 栽培して,酪農と組み合わせ,生産手段としては大型トラクターを導入し,用排水系統と 土地配分ならびに輪作の面より24戸(721切,22戸(66加)の2つのグループの協業経営 を実施する,いわば水田酪農協業経営をもくろんだものである。

 入植初期は農用施設・整地などの諸工事があるので,水稲を中心に麦類を合わせた経営 を行なうが,4年目以降は乳牛導入を前提とした田畑輪換の作付体系に移行する。安定年 次における予想では,1戸当りに換算して,3勿の経営規模から耕種の粗収入が82万円,

畜産のそれが75万円,計157万円をあげることができ,農業経営費を差引いた農業所得は 102万円と計画されていた。

3 入植の経過

 昭和36年9月,県は入植46戸,増反202戸の土地配分計画に基いて,希望者を募集した ところ,入植92戸,増反646戸の応募;があった。そして37年3月,開拓審議会の答申にも

・とづき入植者46戸を決定した。増反者は計画より21戸多い223戸を38年3月に決定した。

 入植者に対する土地配分は,各戸3勿で,位置は土地条件の差をなくすため内陸側から A・B・C・Dの4列に分けて,0.75加ずつ抽選により決定した。増反者は70α〜2加の 所有農家からえらばれているので,これらが2加まで引上げることを基準として配分され

た(10)。

(3)

諌早干拓地入植者の農業経営とその特色(竹内) 21

 入植の条件としては,①夫婦単位で,従事稼働力が1.8人以上であること,②自己負担 金51万円以上と入植後の必要経費を調達可能であること,③経営形態として,水田酪農共 同経営方式に従うことが要求されていた。

 上記の条件にかなった46戸の世帯主の年令別構成は21才から54才までで巾が広く,41才 以上が16戸もあり,平均年令は38こ口,年令が高すぎたきらいが認められる。入植前の経 営規模は別表の如くで,0.5〜1.5加に集申している。出身地別にみると,島原市・吾妻町 各9,森山村5(11),大村市3などで対馬・壱岐を除き,ほぼ全県下から集まっている。

4 経 営 組 織

 ③ 初年度 選考された46戸の入植者のうち40戸(6戸不参加)は,38年1月入植を完 了し,既定の県の方針と指導にもとづき,全員で同年4月「諫早共栄干拓農協」を設立し た。内部機構は総務部(組合資産・生産物等の管理と会計を扱い,狭義の干拓農協ともい

える)と生産部(生産共同体としての営農計画・作業計画とその実施,労務管理を扱い,

いわば生産協同組合)の2部からなる。

 総務部においては,入植者からの出資金(12)によって,農業機械(トラクター4台等)を 購入し,倉庫など農用施設を建設(13)するとともに,生産部に利用事業として貸付ける。生 産部においては,入植者に配分された土地(各戸3加)を借り受ける(14)とともに,総務部 から施設・機械を賃借して,入植者の共同作業によって生産し,これによってもたらされ

る所得を,出資者であり,地主であり,そして労働者である入植者に分配する。義務就労 者は全組合員の世帯の夫妻で,1日の就労時間は原則として8時間,賃金は1日男500円,

女400円である。所得の分配方法は,差引可処分所得を,はじめに賃金(基本賃金から算出)

支払いにあて,残りを農地の賃貸料として配分した。しかし,この方法では,極端な場合 1日も作業に出なくても,資本提供に対する見返りを平等にうけることができた。

 ⑮ 第2年目 昭和39年1月,全員協議会において,当初の県の計画に従って,東生産 組合(22戸)と西生産組合(24戸)に分離することを決定した。そして千拓農協と生産組 合とを分離し,干拓農協は総務部のみとなった。東生産組合は干拓地東半部(661切を耕 作する組合で,組合員数21戸(入植不適格1名あり)の完全協業経営である。組織は組合 長をおかず,2人の作業部長の合議制で運営する。西生産組合は西半島(72勿)を耕作す る組合で,23戸(1名不適格のため)の完全協業経営である。組織は組合長を頭に,庶務 係・会計係・監事・作業部長(下は7つの班に分かれている)と,系統的に組織化されて いる。両組合とも,前年度に発覚した組合長の不正事件の教訓から,責任を分担するよう に配慮された。

 運営は初年度とほぼ同じ共同経営方式であるが,作業および所得の分配方式に一部改善 がみられた。すなわち,①農繁期の意途的な欠勤を防止するため,この期間の就労時間を 3割増とした。②基準賃金を1日男600円,女480円とした,③所得の分配は,初年度の苦 い経験から組合員の生産意欲を高めるため,30%を農地の賃貸料として均等配分し,残り 70%を就労時間数に応じて分配した。従って基準賃金は1時間当り75円(男)であるが,

実際には151円となった。なお作業規約は東西両組合共通である。

 ◎ 第3年目以降 前年度末の昭和40年1月に,完全協業経営の組織は解体して新しい 3つのタイプが生まれた。すなわち12戸からなる唯一つの「完全協業経営体」と,12戸の

(4)

22 長崎大学教育学部社会科学論叢 第20号

完全な「個人経営」と,そして個人経営を基幹とするが,大型機械等の利用に関しては数 戸が共同で行なう,いわば「共同利用方式(6グループ)」である(15)。この結果;干拓農 協の業務は干拓事業に関する国および県への行政的事務処理,肥料・農薬の販売,土地改 良財産の管理に縮少した。完全協業経営の12戸からなる経営体は,東組合に属した人達で,

人問的なつながりもあったが,第2図(○印)でわかるように耕地条件のよくないものが       集まったともいえる。その組織は組       増長を中心に,全員協議会で方針を       決定していった。経営方式は前年の        ものとほとんど変わりないが,ただ       賃金配分を男700円(1日8時間),

      女560円の固定額を,出面に応じて       配分し,残りを資本提供に対する報       酬分として,各戸に均等配分するこ       とによって,組合員間の所得格差を       縮少させようとしたものである。こ       の配分方式が,消滅する7年目まで       採用された。ということはこれがも

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      しかるに第4年目には,

12戸のグルーフ。は,半分が脱落して6戸のグルーフQとなり,分離した6戸は2つの共同利 用方式のグループへ移行した(16)。その後も個人経営へ移行する傾向はつづき,6戸から なっていた完全協業経営体は,昭和42年には1戸脱落し,昭和43年にはさらに1戸脱落し て4戸からなる小規模な集団となった。その運営は6戸時代と大差ないが,さらに少数と なったため,家族的雰囲気の申に,相互扶助の考え方が強く,作業内容もその場め話し合 いで決定された。また就労時間は1日8時間であるが,婦人は食事の準備のため朝夕30分 ずつ余裕が与えられている。賃金は1時間当り男130円,女100円とした。

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      第2図

(○印は昭和40年度完全協業経営体メン・ミーの所有水田)

の見込みありとの目算の上での決定であろう。

つとも無難な方式であったといえる のだろう。しかし,この前提には,

組合員相互の理解と信頼がなければ ならない。構成員も半減したのでそ          完全協業経営の

5 経 営 実 績

 完全協業経営,共同利用方式,そして個人経営の3つのタイプに関して,各営農状況を 県農地開拓課の資料によって比較検討してみた。

 ① 作 付 初年度は単一の完全 協業経営体として営農が行なわれた。水稲作付面積は,

作付前の整地作業の期間が短かったためと,海寄りのC・D圃場が地盤軟弱で,大型機械 の運行が困難であったため,配当された全耕地の約半分の731顔ことどまった。(第2図)

直播をした面積が案外に少なかったのは整地が不充分であったためである。またヘリコプ ター試験田は長崎県総合農林センターが,整地から収穫までの作業一切を行ない,生産物 は全部組合が受け取った。2年目は基盤整備も進捗し,ヘリコプター直播12加を含めて 122加の水稲作付を行なった。しかし第3図でもわかるように,排水樋門近くの農地が作

(5)

諌早干拓地入植者の農業経営とその特色(竹内) 23

付不能となっている。なおヘリコプター試験田の生産費は組合が負担した。

 東生産組合の作付率は87%(571初で,93%は直播法(品種は85%がホウヨク)によっ       た。西生産組合の作付率は89%(64       加)で,95%は直播法(70%がホウ       ヨク)によった。移植水田は排水あ       るいは整地不良のところで,東西両       組合の差はないといってよい。

       3年目に,12戸にまとまった完全       協業経営体(全耕地36加)の作付率       は89%;(品種はホウヨク)であった。

      これは潮二二に近い水田(0.75加)

      の水位が高く作付不能であったこと       と,各圃場の端々が完全に整備され       ていないことなどによるものである。

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第3図

栽培法はトラクターによる乾田直播 によったが,樋門故障による潮害と 長雨による冠水により,あらためて 移植を行なったので,直播の割合は 71%と低下した。

 一方,共同利用方式の6グループは平均89%の作付率であった。さらに個別経営の農家 の平均は88%の作付率で3つのタイプにはほとんど差はない。

 4年目には,さらに縮少した完全協業経営体の作付率が94%に上昇し,共同利用のグル ープは89%と前年と変らず,個別経営の平均は94%である。直播の割合は,完全協業が93

%,共同利用が平均84%,個別経営の平均77%と漸減する。なお品種は相変らずホウヨク が主体で,一部シラヌイが用いられた。

 5年目以降は,さらに基盤整備が進み,割当耕地3肋のほとんど全部に作付が行なわれ たが,多量の降雨や招二丁樋門(自然排水)の機能不全によって,低位置の水田はしばし ば湛水し,ために植え替えを行なわなければならぬという事態が発生した(17)。  .  8年目の昭和45年には,政府の減反政策に伴ない,大部分の農家が海岸よりの低反収の

水田(0.75勿)を減反し,なかには3加全部を減反した農家が2戸あらわれた。かかる情 勢下で,直播栽培が減少し,機械移植の他に,労働集約的な慣行移槙が増大してきた。直 播が移植と対等の反収をあげうる状態にまで進展したにも拘らず,逆行する形が生じてき た事は残念なことである。これには当地方の田植え労賃が1日1,500円と,比較的低廉で あることが一因であることは見逃せない事実である。また品種は米価の等級価格差増大の 傾向から,多収穫であるがまずいとの定評のあるホウヨクに代って,レイホウが主体とな

った事は新らしい姿である。

 裏作に関しては,入植年から土地条件の良い田で小麦・ビール麦・なたね等の栽培が行 なわれてきたが,表作への集中と,春の悪天候による収穫の不安定,そして均平作業等の 耕地整備に多くの時間を費やしたこと等により,本格的な裏作は行なわれなかったといっ ても過言ではない。もちろん各農家とも,裏作あるいは副業に関しての思考は続けられ,

(6)

24 長崎大学教育学部社会科学論叢 第20号

とくに減反した1970年はプリンスメロン,結球白菜の栽培を実施する農家も増加したが,

未だ暗中模索の域をでない。

 ② 労働と労働時間・初年度の完全協業経営体の就労者は,各組合員世帯の主人と妻を 義務就労者とし,組合に登録し,作業係の就業割当に対して義務的に就労しなければなら ない。毎月1日と15日を休日とし,年間1人当り20日間の休暇をとってよい。それ以上の 欠勤には出不足料として男300円,女240円を納めなければならない。初年度の総労働時間 は97733.5時間で,このうち69%は水稲作に,8%は基盤整備に,10%は農舎等の建設工 事に費やされている。そして水稲作労働時間のうち,移植栽培と直播栽培を比較すると,

前者では1陽当り人力1173時間,機械力19時間を要し,後者では前者の約半分の労働時間 となっている。直播の場合,播種前の耕起均平作業に多くの時間を要している反面,播種 作業は苗代・田植作業に比しわずか11%の時間で終っている。一方除草作業では,後者は 前者の2倍の時間を費し,さらに背後地の農家に比べると実に4倍以上の労力をかけてい

る。これは栽培方法の差の他に,ヨシ・アシの茂っていた荒地を開墾したばかりであると いう土地条件を考慮に入れなければならない。

 収穫作業は,ほとんどコンバイン(18)で行なったので,わずか38時問を要したにすぎない 東西両生産組合に分離した2年目は,東組合が1加当り999.9時間,西組合は1016.9時間 を要し,初年度の1338.8時間に比し,大巾に減少している。これは施設建設の仕事の減少 とそして大型機械などの諸機械・諸施設・新午拓地に対する慣れによるものである。

 2年間の協業経営体を苦悩せしめた最大の因子は,協業に対する不満分子の動きであっ た。ある時には共同作業を全くボイコットするという事態さえ生じた。

 完全協業経営の夢が破れた3年目には,唯一の協業経営体の就労時間は,1加当り607 時間である。そして作業対象別に分けると,水稲作業が59%,共通作業30%,麦その他の 作業11%となっていて,共通作業の割合が多い。このことは,未だ基盤の整備が不充分で,

それに要する仕事量が多いことによる。また水稲作業に要した時間は58.7時間/10αで,

背後地のそれが100時間であるのに比して,省力化は著しい。しかしコンバインの利用(19)

が不充分で,稲刈の作業に20%も費やしたことは,後年コンバインの導入の誘因となった。

また,共同利用方式の6グルーフ。の労働発問の平均は781時間/加,個人経営のそれは1022 時間/加で,完全協業経営に比し,いずれも多くの時間を要している。

 4年目には,6戸のグルーフ。に縮少した完全協業経営体の労働時間が,502時間/加と前 年よりさらに合理化され,共同利用方式の8グループは最大860〜最小723時間/加と進歩 はみられず,個人経営は申型トラクターの導入に伴ない871時間/加とかなり短縮された。

この年度から協業経営体の6戸を申心に9戸が共同購入した大型コンバインの威力が,協 業経営体の労働時間に顕著にあらわれている。

 5年目以降の詳細な資料を得ることができなかったが,過去数年間の耕作による雑草の 減少,また除草剤の使用によって,除草に要する時間および雇用労働力は大幅に軽減され た。一方個別経営農家にも,すべて中型トラクターが導入された。その他乾燥機械・小型

コンバイン・バインダー・田植機など,全一く機械力に依存する営農が展開されている。

 ③ 経営費と農業所得 初年度の10α当り水稲の収量は406晦,その結果,農業粗収入 は1戸当りに換算して62.5万円,農業経営費は11万円(うち減価償却費3.6万円を含む)

で,農業所得は51.5万円であった。同年の背後地森山村のそれ(62.9万円)に比して少な

(7)

諫早干拓地入植者の農業経営とそめ特色(竹内) 25

いが,一応満足すべき結果をえたと考えられる。

 ご年目は,天候不良とともに,協業経営に対する不満から生ずる勤労意欲の減退もあっ て,収量は悪く(20),東生産組合の平均が326Kg/10α,西組合が307Kg/100で,前年度の 80%以下であった。従って農業所得は,東組合が66,9万円/戸,西組合が64.5万円/戸で,

前年に比し作付面積の増大にも拘らず,進展はみられなかった。

 三年目の収量は,協業経営(12戸)が431K2/10α,共同利用(6グループ)の平均が46 4Kg/10加,個人経営(12戸)の平均が458K多/10α,で,協業経営体は6〜7%劣っている。

さらに品質を加味した10α当粗生産額では,完全協業が4.5万円/10αに対し,共同利用・

個人とも平均4.9万円/10αで,約8%劣り,土地生産性からみて,明らかに完全協業経営 体は低位にあるといわざるをえない。

 しかるに農業所得においては,完全一協業が99.4万円/戸,共同利用が平均101.2万円/戸,

個人経営は80.0万円/戸で,完全協業はかなり優位にある。とくに10α当り所得では完全 協業が3.7万円で,これより高い農家は3戸(21)にすぎない。このことは,完全協業経営が

その経営を合理化し,経営費(22)を縮少させた結果に他ならない。そして経営費の内容を みると雇用労賃の点で4〜10倍,減価償却の点で4〜6倍の差がある。一方,共同利用グ ループは思い切って大型機械を導入したため,減価償却の点で個別経営より高くなってい ることは,3〜5戸の共同利用では過剰投資となることを示したものであろう。要するに,

完全 協業経営体は労働生産性の上で優位にあるといってよい。

 4年目の収量は,完全協業(6戸)が441Kg/10α,共同利用方式の各グループの平均が 485晦/10α,個別経営の平均が465Kg/10αで,本年も完全協業が最低であった。低反収,

ひいては1戸当粗収益が低いことは,稲作農家の関心が未だここにおかれている限り,協 業経営内部に不満の種子とならぎるをえないだろう。しかしながら,低反収をもって直ち

に完全協業は落第だと結論づけることは,後述の少ない経営費の点と次に述べることから 速断にすぎよう。すなわら完全協業の農家の水田は,前述した如く土地条件が良くない所 が多いのである。従って完全協業の農家と共同利用および個別経営の農家の反収の差は,

技術の差よりも土地条件の差によるところが大きいのである。

 一方,農業経営費は年々増加しているが,完全協業が1.6万円/10σ,共同利用方式の平 均が2.2万円/10α,個別経営の平均が2.1万円/10αで,前者と後2者の差は前年までに比 べ縮まっている。これは構成員の半減と,大型コンバイン導入に伴う負担によるものであ

る。

 かくて完全協業経営の1戸当農業所得と10α当農i業所得は,それぞれ98万円と3.5万円 で,当午拓地入植者の申では上位にある。さらに固定資産投資額に対する所得の割合は39

%で2位にあり,10α当労働時間は50時間と:最低を示す。従って労働時間1時間当りの所 得は752円(23)で最高である。かくて完全協業経営体は土地生産性においては若干劣るが,

労働生産性では優れた成果をあげている。

6 完全協業経営の解体とその原因

 長崎県が指導した完全協業経営方式は入植後2年で行きづまり,県の説得も空しく,昭 和40年1月,干拓農協の全員協議会において,解散が決議された。以後は辛うじて,東生 産組合の有志が完全−協業の継続に努力を傾注したが,ついに昭和45年夏作からは全く消滅

(8)

26 長崎大学教育学部社会学科論叢 第20号

した。完全協業経営の育成は極めて困難なものであろうが,かくも短期間のうちに,入植 者全員の参加した完全協業経営体が解体した原因を次に追求してみたい。

 @ 入植条件 10α当り5.5万円の売渡し価格の農地を3加ずつ割り当てられ,電撃排 水条件もかなり整備され,大型農業機械も準備されているという恵まれた状態で40戸余が 入植したのである。もちろん今日の新設干拓地への入植は,さらに恵まれた条件下で行な われ,本干拓地のみを云々することはできない。しかし周縁の既成農家に比べるとき,入 植者として選ばれたことは,それまでの実績のしからしめるところとはいえ,やはり好運 といわざるをえない。本事業が多額の国費・県費を投じて完成したものであり,日本農業 の将来を思考するパイオニアとしての役割をになったものであることを考えるとき,入植 者にもその自覚の上にたって欲しいと思うが,入植すれば,私利私欲が先に立つのも,ま たやむをえないことかもしれない。ともかくも彼等は恵まれた,かつ苦しみを味わうこと の少ない農家の集団であった。一方,県は彼等に対して,その基本方針である完全協業経 営に関する指導を,事前に実施しなかった。従って協業経営の必要性を,内からも外から

も感じていない入植者達は,入植後当面した最初の不満が,初めての経験である共同作業 に向けられたのも無理ないことではなかったろうか。初年度の7月に調査した折,ある入 植者は「共同作業はきゅうくつで,かなわぬ」・「入植の条件だから仕方がないが」とも

らしていた。完全協業経営が農民の間から盛り上ってできたものではなく,上からの, 県 の指導によったものだけに,当初から多くの困難性を包含していた。従って,それなりに,

県の指導が万全であることが必要であったと思われるのだが。

 また3勿の農地は,無理をすれば個別経営の成立しうる規模であったことは,安易に個 別経営へ走らせてしまったともいえよう。4年目に導入予定であった酪農を早めるべきで あったとも考えられるが,むしろ個別経営ではできえない大規模な農地を割当てた方が,

よかったのではないかとの反省ももたれる。そして土地の登記の関係と,協業が崩配した ときのことをおそれて,3加の配分を前述のように個人に割り当てたことによって,土地 の私有意識が強くなってしまった。

 ⑤ 組 織共同体の組織を破壊する要因として,「人の和が悪い」という点を第1に 指摘しているとの結果(24)があるが,本協業経営体においても,同様のことが指摘できる。

すなわち,筆者が昭和留年夏に実施した聴き取り調査によると,解消の原因を「人間関係 すなわち個人感情のもつれ」という点で一致した見方をとっていた。これは全員参加の協 業に始まり,4人の協業に小規模化した経営からえた総観的な意見であるが,人の和は極

めて重要な一因であるといえる。このことは,県が行なったアンケート調査(25)において も示されている。

 かかる人の和を乱す具体例はいくつかあげることができる。例えば,初期に共同作業で 実施していた収穫のとき,自分名儀の田からの収穫量が多いことがわかった場合,私欲が 頭をもたげて,協業に強い不満をもつようになり,団結にひびが入り,仕事にも不熱心に なった。そして昭和40年当時の12人の完全協業経営体において,各自所有名儀の田は土地 条件の悪いC1〜C4とD1〜D4の28区画中24区画に集申しており,一方土地条件の悪 い水田を幸いにも引き当てなかった入植者は,完全協業の分裂した3年目から,直ちに個 人経営に移行している。一見同じようにみえる130勿余の水田にも10α当り3俵から9俵

くらいまでの生産力の差があり,この格差を少なくするために,4ヵ所に分散して割当て

(9)

諌早午拓:地入植者の農業経営とその特色(竹内) 27

るという方法を,県は採用したのである。しかしながら,協業経営を進めるためには,各 個人所有名儀に割り当てたことが,協業の命取りになってしまった。

 さらに,入植者選考の第1次の審査が,当時在住した市町村において実施されたが,そ の審査内容が,市町村によってかなり差があったように思われ,そのために,実際に入植

して営農する意志のない農家を選んでしまった(26)。また個人経営を:最初から営んでいて,

協業経営体を崩そうとしていたが,或いは崩壊することを期待していた何人かの入植者を 選考してしまった。そして選考された46戸のうち,初年度には40戸が入植したのみで,不 参加の6戸はある地域の出身者で占められていた。かくて,これらの人々が結託していた

との風評も流れ,県当局に対し,また入植者相互にも不信感を抱かしめるようになった。

従って,入植希望者達が完全協業経営に対して如何なる希望と意見をもっているか,それ をどの程度問いただしたのか,疑問に思われる。要するに,県の組織形成の姿勢が問題で

ある。

 その他,2年目の東西両生産者組合の場合でも,22〜24戸(県の当初からの計画)の構 成で,1共同体の規模が大きすぎたといえるのではないか。県があくまでも完全協業を推 進して行く意向があったのなら,グルーフ.編成に融通性をもたせるとともに,入植者の意 志をくみとる姿勢が欲しかったと思われる。なおまた,前記したように入植者の年令が,

高すぎた嫌いがあったということも選考上の失敗であろう。

 ◎ 運 営 初年度の組合役員の選出を,長崎県が行なったことにも問題があったが,

それ以上に,初年度の終り頃,組合長の経理上の不正事件がおこったことは,組合の団結 と運営の点で,大きなしこりとなったことは否定できない。一方県のアンケートで,「幹 部が威張りすぎた」。「自分にやらせてくれたら,もっとうまくやれた」という選択肢に 対して賛意を示した入植者はいなかったことでもわかるように,リーダーとして自信のあ

る人がいなかったともいえる。

 所得の配分方法にも問題があった。極端な場合,1日も労務に出ず,出不足料を払って も,かなりの資本配分としての所得配分をうけることができた。このことも勤労意欲をそ こなう一因となった。事実,協業に不満をもつ入植者のなかで故意に作業に出ない人もあ り,団結を欠いた。これは県の選考態度に関連したことであるが。,

 前章で報告したように,農家が設備投資の減価償却などを考慮せずに,能率がよい,見 場がよいというだけで大型機械を購入したり,反収や粗収益をあまりに営農の尺度にしす

ぎていることは,協業経営意識を育成する上にマイナスとなっている。

 また大型機械のオペレーターの傷害に対する保険が考えられていなかったため,けがの 多い機械班の人達から協業に背を向けばじめたことも考えなければならない。

 ⑥ 成 績 水稲作の技術に自信をもっていた人達は,早くから自己の腕をふるいたい と考えていたし,そうでない人達でも,入植者たちの2年目の反収が,隣接の増反者のそ れより低かった(27)ことを身近に知り,不満をつのらせた。しかし低反収の原因は,除草 を十分行ないえなかったこと等,入植者の努力の不足にも求められることで,むしろ協業 経営に対する意欲のないことに問題があった。そして前述の各自の所有名儀の田の良し悪

しが拍車をかけている。

 要するに,完全協業経営を実行する際の県のあまさと,その指導力の欠如が解体の第1 の要因であり,県の責任が追求されてしかるべきである。そして入植者の完全協業経営に

(10)

28 長崎大学教育学部社会科学論叢 第20号

対する意欲が,二部を除きまことに貧弱であったことが第2の要因で,このことは選考し た役所の責任でもあるが,ともかくも選ばれた入植者も反省しなければならぬことであう た。こうして天下り的協業経営の弱点を見事に暴露してしまったといえる。そして最後ま セ完全協業経営を実施してきた4人の農家も,8年目には県から借用していた大型の乾燥 機械が使用不能になったことを契機として解散してしまった。少数集団の彼等にとって」

46戸からなる農村の地域社会の中で,その大勢に抗することは,かなりの精神的圧迫とな っていたと思われる。と同時に彼等を支援できなかった県当局の不甲斐なさを嘆く反面,

彼等の7年間の協業に対する意欲を称賛したい。

 かくて全員参加の完全協業を前提として計画された本干拓地の機構は,協業解体の結果,

各種の不合理な事態が生じた。すなわち,①各入植者の耕地は3勿を4分割しているため,

管理に時間の無駄が多くなる。したがって各農家では通作のための車が新たに購入された

(28)。②入植の際,農機具を売り払って来た関係上,個別経営に切り変わったとき,(農機 具の再購入が行なわれた。③砂越用水の面において,海岸よりの水田では湛水しては困る ので,早く水を落そうとする一方,内陸側では水を下の方にとられるため3多量に導水し ようとする。従って用水が多量に使用されるようになった。また水路を勝手に変更する者

もあらわれた。④住宅は完全協業の場合,居住空間のみでよかったが,個別経営になると,

作業・収納空間が必要となり,宅地の拡大のための土地の購入と増築が行なわれた。

7 む す び

 昭和38年を初年度とする諌早干拓地の入植者たちの農業経営の経緯を,協業経営を申心 として述べてきたが,その特色を要約すれば次の通りである。

 ① 長崎県は県下各地から46戸の入植者を選定し,各戸に3加の農地を配分した。その すべてを組合が賃貸借して,完全協業経営による水稲作を行なう「諌早共栄干拓農協」を 昭和38年に設立した。、

 ② 本農協は初年度不参加者があり,40戸1グールプでズタートし,大型トラクターを 駆使して乾田直播を主体とする水稲作を行なった。収穫作業は長崎県が購入した大型コン バインの貸与により実施した。農業所得は平均しで,51.5万円/戸となり,順調なすべり 出しをみせた。

 ③ ・2年目は当初の計画通り,東西両生産組合に2溢して営農が進められたが,天候不 順などにより,反収は前年を下廻った。しかし基盤整備の進捗に伴う作付面積の増加によ

り,所得は65万円/戸前後であった。

 ④ 2年目の終りの40年1月に,東西両組合は完全な個別経営農家と,個別経営を主体 として大型機械を共同利用する形のグループと,唯一の完全協業経営体の3つのタイフ。に 解体した。

 ⑤完全協業経営体は12戸の構成から,4 年目には6戸に,そして6年目には4戸に減 少し,8年目には解消した。初めの12戸は悪い土地条件の農地を配分された人達が結集し たといえる。彼等は4年目には崩壊寸前の状態になったが,大型コンバイン導入が問題と なり,6戸がふみとどまった。粗収益は3タイプ申最低であるが,友面経営費も最低なの で,所得水準は高い。   7      i  ⑥^個別経営を主体としながら,トラクターなどを共同利用するグループは,6つから

(11)

諌早干拓地入植者の農業経営とその特色(竹内) 29

8つへと変遷する。しかし3〜5戸のグループ編成のため,大型機械導入に伴う負債と,

減価償却費の増大により,農業所得は平均すると完全協業に劣る。しかしグループ間の格 差が大きく,最高の所得をあげるのもこのタィフ。のグループである。本干拓地において,

もっとも普遍的な営農方式となっている。

 ⑦ 実露な個別経営農家は,申型トラクターを申心に営農が行なわれ,雇傭労働力の増 大と購入した各種大型農業機械の負債等により,所得は平均すると最低位にある。

 ⑧ かくて完全協業は所得配分方式をはじめ,試行錯誤を繰り返しながら,労働生産性 の高いもっとも合理的な営農が行なわれてぎた。しかるに,かくも早く解体してしまった 原因を考えると,多くの要因があ・げられるが,重要なことは,第1に県の指導力の欠如,

第2に入植者の完全協業経営に対する意欲の貧弱さにつきると思う。また前提とした完全 協業が解体し・た結果,入植者にとっても,県民・国民にとっても,多額の浪費が行なわれ たことは銘記しなければならない。

 ⑨ 筆者は日本の農業が,将来完全協業経営に進むべきである,と断定するだけの十分 な資料もなく,その勇気もないが,新設の干拓地における農業経営は,上述の如く経営の 合理性と農業所得の高水準から,完全協業が一つの望ましい姿であると忠う。しかしなが らその運営に関しては,極めて困難な面を内蔵している。とくに行政機関が計画指導した 場合には,綿密な計画のもとに,入植者全員を基本方針にそってそれを十分に納得させて 営農を推進していかなければならぬことはもちろんであるが,細部に関しては農民に主体 性を与えた運営を行なわしめることが肝要である。そして基本方針に合意したi数世帯の農 民からなる共同体が,その目的とする方向に協力して意義ある事業を推進すべきである。

 本稿は昭和43年度科学研究費総合研究「地域構造と地域計画」の一部をなしたものであることを記す とともに,代表者の東北大学能登志雄教授に深甚の謝意を表します。なお資料蒐集にあたって,協力を 惜しまなかった溝内寿子氏に御礼申し上げる。

  〔註〕

D 千手正美:有明海の干拓   日:本地誌ゼミナール「九州地方」  大明堂 1961   竹内清文:有明海の干拓   「環境の科学としての地理学」  大明堂 1966

2)大内・金沢・福武:日本の農業   東大出版会  ppig8〜199

3)諌早湾を複式堤防で締切って,6000加余の干拓地を造成しようという事業計画である。ここに   おいては当初水田酪農の完全協業経営を目論んでいたが,今日の農政下ではその転換を余儀な   くされている。とともに海苔養殖漁民の反対にもあって,実施が困難視されている。

4) 圃場の1区画は0.75如

5)12坪の木造あるいはブηック造りの住宅で,宅地面積は各戸115.5㎡

6)竹内清文:干拓地における農業経営の特質一諌早千拓地の例一「開発に関する地理学的諸問題   」1959

7)昭和43年の実績では,内陸側の水田の最高は9俵/10α,海岸側の最低は2〜3俵/10σ 8)増反農家の話では,既成の古い干拓地は燐酸加里を中心に配合肥料を10α当り3俵半位施すが,

  新しい干拓地では硫安を2俵(県農林センターでは1〜1.5俵でよいという)位でよいという。

9)長崎県:諌早干拓営農実施計画書 昭和38・2・10 10)全増反農家の平均は0.65如/戸

11):不適格者が含まれていたため,その補充が行なわれ,結局島原市7,吾妻町10,森山村6とな

(12)

30 長崎大学教育学部社会科学論叢 第20号

   つた。

12) 開拓者資金による借入金177.8千円/戸

13) カントリ・一エレベ門ター・ライスセンターの施設はない。

14)土地改良財産(国有)の農地は,土地改良法94条により,各入植者に配分通知書が交付され,

  売渡しが確定している。従って農地はまだ土地改良法に基づく一時使用期間であるが,実質的   には入植者の所有地とみなしうるので,組合員は生産組合に対して,農:地を賃貸し,全面的に   組合の農業経営のための使用収益権を認めている。つまり組合は組合員との間に農地の賃貸借   契約を結び,使用収益権を設定している。

15)共同利用方式の各グノし一プの構成には,年令階層別や出身地別の系統性はみられない。2年間   の全員による完全協業経営を通じて,気の合った者同志がグノし一プを編成した。かかる状態は   秋田県八郎潟干拓地においても同様である。(八郎潟新農村建設事業団の調査)

16)脱落者のうち,1戸は個人経営に転換したが,個人経営だった1戸が共同利用方式に加わった。

  その後の脱落者も共同利用方式のグノレープの一員となった。

17)恒久化したため,昭和45年秋には強制排水施設が完備する予定

18)長崎県が当干拓地のために購入したもので,機種は・ミンフォード・クレーソンM80,クPラー型 19)県所有で,協業が分解したため,当千拓地での専用が困難となった。

20) 昭和39年度の長崎県の反収は333々g/10α 2D すべて共同利用方式の農家

22)経営費は完全協業が20.7万円/戸,共同利用が52.4万円/戸,個人経営が46.5万円/戸 23)共同利用方式のグノL一プの最高が520円,個人経営の平均が416円。

24) 既出(2)P.207

25)昭和41年2月に県開拓課が実施した入植者対象のアンケートによると,主な解散理由として,

  ①みんなの気持がしっくりしていなかった,②共同体の組織や運営がまずかった,③役所の指   導がたりなかった(選択肢の解答数の多い順)などをあげていて,①の具体的理由として,文   句や不平をいう者が多かった・新しい寄合世帯で未だ信頼感がうすかった等をあげている。

26)後日判明して,2名がその資格を取り消された。

27)10α当り2俵くらいの差

28)協業時代には,作業員をトラック等で,作業する耕地へまとめて送迎できた。

参照

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