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ュームの経験論的人間学の研究︵こ

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D

ュームの経験論的人間学の研究︵こ

       

ーヒュームのキリスト教神学批判上−

      ︵

古賀勝次郎

 千年以上にわたって中世ヨーロヅパを支配してきたキリスト教も︑十六世紀に入ると︑その内部あるいは外部から

様々な挑戦を受けるようになった︒一五一七年十月三十一日︑ルターはウィッテンベルグ城教会の扉に﹁九十五ヵ条

の論題﹂を貼り付け︑ローマ・カトリックの腐敗を弾劾し︑宗教改革︵菊⑦hO﹃日⇔一一〇口︶に乗り出した︒これはいわぽ

キリスト教内部からの挑戦であるが︑それと時を余り移すことなく︑今度は︑外部から挑戦を受けることになる︒そ

れは自然科学からのもので︑例えば︑コペルニクスが唱えた地動説は︑キリスト教の宇宙論と抵触した︒更に︑社会

構造の変化もキリスト教に対する新たな挑戦となった︒中世末期から見られるようになった科学・技術の発達や商

業・経済の発展は︑それまでの﹁閉じられた社会﹂︵6δωo畠ω09①q︶を﹁開かれた社会﹂︵O喝窪ωoo凶︒蔓︶に変えた︒

しかし︑もともと前者のような静態的社会を前提としたキリスト教の社会理論は︑後者の動態的社会に発生する様々

早稲田社会科学研究 第41号(H2.10)

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       ︵1︶な現象を説明することが出来なくなった︒

 このように中世を支配していたキリスト教︑正確にいえばその知的体系としてのキリスト教神学︑は内と外からの

挑戦に次第に後退を余儀なくされていった︒こうして︑キリスト教神学に代わる新しい知的体系が模索されるように

なる︒それは十七世紀に入ってその輪郭を徐々に鮮明にしていった︒それは︑キリスト教神学が﹁神﹂を中心にした

ものであったのに対し︑﹁人間﹂を中心に構成されていた︒ここに︑中世のキリスト教神学に代わる近代の知的体系︑

即ち﹁人間学﹂が形成されていったのである︒だが︑人間学には二つの系譜があって︑その中心に位置する人間につ

いての考えを根本的に異にするところがら二つの違った人間学が形成︑確立されることになった︒一つは︑人間を専

ら理性的存在として準え︑人間の﹁理性﹂の絶対性の上に組み立てられた人間学で︑R・デカルトに由来し︑T・ホ

ッブズ︑A・コント︑サンーシモン︑K・マルクス等によって形成︑発展せられていった︒いま一つは︑人間の理性

はこれを尊重しつつもその限界を明瞭に認め︑理性より﹁経験﹂に重点を置くもので︑J・ロック︑G・バークリ︑

B・マンドゥヴィル︑D・ヒューム︑A・ファーガソン︑A・スミス等によってその形成︑確立を見た︒そしてこれ

等二つの人間学は︑それぞれ大きな貢献をなしつつも︑互いに勢い対立しながら今日まできた︒ここでは︑前者の人

間学を合理論的人間学︑後者のそれを経験論的人間学と呼ぶ︒

 扱て︑合理論的人間学も経験論的人間学も︑純粋に自然科学の分野では︑それぞれの考えが微妙に異なるにも拘ら

ず︑互いに他を補強し合う形で︑大きな功績をもたらした︒しかし︑これ等二つの人間学は人聞の社会に対しては全

く違った影響をもたらした︒即ち︑前老は︑社会の現状を批判し︑変革するための思想的︑理論的指針を与えたとい

う点では非常に大きな力を発揮したが︑しかしそれが現実の社会において実験された時︑それは自由ではなく抑圧

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

を︑経済的豊かさではなく経済的貧困をもたらした︒これに対し︑経験論的人間学は︑個人の自由を保障する政治制

度を提供すると共に︑また︑経済的豊かさを実現することが出来た︒勿論︑比較としてはこれだけでは不十分だが︑

しかしこれからだけでも︑両者を比較した場合︑経験論的人間学の方が優れており︑また未来があると言うことが出

来ると思う︒言うまでもなく︑合理論的人間学の社会理論が社会主義であり︑経験論的人間学のそれが自由主義であ

る︒ このように︑経験論的人間学は合理論的人間学より︑特に社会理論において︑優れているといえるが︑しかしこの

ことは経験論的人間学に何も問題がないということでは無論ない︒現在︑先進自由主義諸国に見られる家庭の崩壊︑

犯罪の増加︑環境破壊︑エイズ︑議会政治の混迷隔グローバル化の中で混乱する各国の経済政策等は︑経験論的人間

学に問題があることを明らかに示している︒だが今日我々が直面している最大の問題は︑自然科学・技術が人間ある

いは価値といったものと関わりなく発達していることによって︑人間が不安に陥り︑人間の存在自体が脅かされてい

ることではないだろうか︒恐らくこの問題は︑近代の自然観や宗教観といったものと深く関わっていると思うのだ

が︑かかる問題に対し果たして経験論的人間学はどう答えるだろうか︒

 このように経験論的人間学も実に多くの問題を抱えており︑これ等の問題を一つ一つ解決していかない限り︑経験

論的人間学にも未来はないのである︒しかしそうしたことと並んで︑経験論的人間学の根本的再吟味も必要ではない

   ︵2︶だろうか︒何故なら︑右に挙げた問題の中には経験論的人間学では解けない問題も含まれているように思われるから

  ︵3︶である︒だが︑経験論的人間学を容認するにせよ︑批判するにせよ︑再吟味するにせよ︑その前に我々は経験論的人

間学について出来るだけ正確に理解しなければならない︒そうしなければどのような議論をしても︑議論が前に進ま

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ないからである︒私は昨年秋︑ ﹃東西思想の比較﹄︵成文堂︶という本を出したが︑それはこの表題で私が書こうとし

ている内容の前半分に当たる︒そしてこの本の後半で私は︑前半で扱った後の西洋および我が国の思想の展開を描

き︑そののち経験論的人間学の再吟味へと進んで行きたいと考えている︒従って本研究は︑ ﹃東西思想の比較﹄の後

半部に進む前にしておかねばならないいわば準備作業という性格を持っている︒勿論︑ ﹃東西思想の比較﹄でも経験

論的人間学については書いている︒だがそれは素描の域を出るものではなかった︒

 ところで︑経験論的人間学を正確に理解しようといってもそれはもとより容易ではない︒経験論的人間学の形成︑

確立︑発展には一上に挙げたように 多くの思想家が関わっているからである︒もしそれ等の思想家一人一人を

取り挙げ︑経験論的人間学の形成︑確立︑発展を記述しようとすればそれこそ臓大な時間を要するであろう︒それは

時間的にも不可能であるし︑また本研究の準備作業としての性格を超えるものと思われる︒そうした理由もあり︑本

研究ではD・ヒュームを取り挙げ彼の思想を論ずることによって経験論的人間学を理解したいと思う︒ヒュームこそ

経験論的人間学を体系的に確立した思想家であった︒

 経験論的人間学はロックに始まる︒ロックは経験論的人間学の最初の形成者であった︒しかしロックは敬震なキリ

スト者としてキリスト教の影響を強く受けており︑彼の経験論的人間学にはキリスト教神学の影が色濃く落ちてい

る︒ロヅクの経験主義の哲学を継承・発展させたのがバークリであるが︑彼の思想は︑経験論的人間学といわんよ

り︑経験論的形而上学︵些か形容矛盾の響きはするが︶と呼ぶべきものであった︒バークリには︑ロック以上にキリ

スト教神学の影響を認めることが出来る︒キリスト教神学の影響から脱け出す一方︑合理論的人間学を批判し︑ロヅ

ク︑バークリ︑マンドゥヴィル等の思想を発展させ体系的な経験論的人間学を確立したのがヒュームであった︒ヒュ

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

ームは︑困果論を中心に据え︑宗教論︑哲学︑道徳論︑法理論︑政治論︑経済学︑自然科学論等を展開した︒ス︑︑︑ス

は︑ヒュームの影響を受けつつも︑更に発展させ︑道徳論や経済学の領域では巨大な足跡を残した︒特にス︑︑︑スの経

済学は︑後世に与えた影響という点ではヒュームのそれを遥かに凌ぐが︑しかしそれでもヒュームの影響は非常に大

きかった︒また︑スミスと同時代に生きたファ!ガソンも経験論的人間学の発展に少なからぬ貢献をなした︒私がヒ

ュームを選んだのも︑以上から明らかなように︑ヒュームが経験論的人間学の発展史の中で枢要な地位を占めている

からである︒

 既に述べたように︑本研究の意図は︑ヒュームの思想を通して経験論的人間学を出来るだけ正確に理解しようとす

るところにある︒従ってそのためには︑ヒュームの思想がどのようにして形成されたか︑またどんな影響を後の思想

家に与えたかといったことも当然論ぜられねぽならないであろう︒私は前者については特にロヅクを︑後老について

はスミスをそれぞれ取り上げ︑ロックの思想からどのようにしてヒュームの思想が生まれたのか︑また︑彼の思想が

スミスによってどのように受け継がれていったのかも論じてみたいと思っている︒また私は︑本研究では︑ヒューム      ヘ   への思想体系を出来るだけ公平に述べるつもりであるが︑しかし現代の視点から多少ウェイトの置き方を異にして論ず

る場合もある︒特に︑宗教論や自然科学論の場合がそうである︒またここでも断っておかねばならないが︑本研究で

も﹃東西思想の比較﹄においてと同様︑思考様式の問題が中心の論点として議論されるということである︒それは︑

自然〜生成−作為といった三分法的思考様式を確立したことが経験論的人間学の最も大きな貢献であったからであ

る︒更に︑最後になるが︑本研究においても︑ ﹃東西思想の比較﹄のテーマであった東西思想の﹁融合の可能性を求

める﹂という問題意識が全篇に流れていることを予め告げておきたい︒

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︵1︶ 拙著﹃東西思想の比較﹄︵成文堂︑平成一年︶一四七1六〇頁参照︒

︵2︶ 拙稿﹁自由主義・社会主義・キリスト教﹂︵﹃世界経済﹄平成二年八月号︶参照︒

︵3︶ 私は拙著﹃東西思想の比較﹄のあとがきで次のように書いておいた︒﹁今日われわれが直面している最大の問題は︑科学.

  技術がますます発達している一方で︑われわれ人間が不安に陥り︑われわれの生き方を見失ってきているということではな

  いだろうか︒つまり︑科学・技術と人間の心の間にアンバランスが生じ︑それがますます拡大していっているということで

  ある︒この問題には︑近代の自然観とか宗教観といったものが関係していると思うのだが︑果たしてこうした問題に対し経

  験論的人間学はどう答えるだろうか︒恐らく︑近代初期に確立された経験論的人間学そのものの中に既に重大な問題を抱え

  ていたのであろう︒しかし問題が今日のように表出していなかったので︑経験論的人間学を確立した人々も︑この問題をそ

  れ程掘り下げず︑時代の流れ1中世から近代への一の中で︑自然や宗教の問題を考えたのであろう︒従ってこれらの問

  題は今日の問題なのであるが︑しかしこれを経験論的人間学の中で考えることによって経験論的人間学の発展もあるのでは

  ないかと思われるのである︒そしてそのような試みの中で︑東洋の自然観や宗教観がどのような貢献をなし得るか︑極めて

  興味深い問題である︒﹂︵二三ニー三頁︶

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第一章 ヒュームのキリスト教神学批判

はじめに

ヒュームはJ・ロックにはじまりG・バークリ︑B・マンドゥヴィルによって展開された経験論的人聞学を発展さ

せ体系化した思想家である︒経験論的人間学は︑ロックがその哲学主著﹃人間知性論﹄︵﹄浮野防亀8§ミミ轟ミミ§

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

      ︵1︶S§ミ§ミミ軸H①c︒り︶において︑一切の知識は﹁経験﹂︵①図b①﹁一Φ昌O①︶に由来すると宣言した時始まる︒それは経験

論的人間学の開始を告げる宣言であるが︑同時にデカルトに遡る人間の﹁理性﹂︵﹃$ωop︶ に一切の窮極を求める合

理論的人間学を批判する宣言でもあった︒このように経験論的人間学は合理論的人間学を批判しつつそれに代わる人

間学として成立を見たのであった︒それはヒュームにおいても継承され︑合理論的人間学批判は︑彼の経験論的人間

学確立への大きな契機をなしている︒

 しかし︑キリスト教神学に対してはロックとヒュームの間にはかなりの距りがあることを認めなければならない︒

ロックもヒュームも彼等が対象としたのは人間あるいは人間の世界であったが︑ロックがそれ等を人間の経験からだ

けでなく神の世界からも観察したのに対し︑ヒュームは人間の経験からのみ考察した︒それ故︑ロックの経験論的人

間学にはキリスト教神学の影響がまだ色濃く残っていたが︑ヒュームのそれには殆ど見出せないのである︒否︑それ

どころかヒュームはキリスト教神学を徹底して批判した︒この点でヒュームを継承し発展させたA・スミスとも異な

る︒バークリの経験主義の哲学は神学的色彩の濃いものだったし︑また︑スミスが啓示宗教への信仰を放棄したとい

う証拠もない︒ということは︑キリスト教神学批判を中心とするヒュームの宗教論は︑経験論的人間学の歴史の中で

特異な位置を占めているということであろうか︒これは本研究全体において答えられるべき問題だが︑しかし次の二

点はここで述べておこう︒一つは︑ヒュームの経験論的人間学の方がロックのそれより︑そのキリスト教神学批判に

も拘らず一正確に言えば︑キリスト教神学批判を行なったが故に一斉合的な体系を持ち得ているということ︑そ

していま一つは︑十九・二十世紀の経験論的人間学の発展一特にその中の社会理論における発展1は︑ロックの

それより寧ろヒュームのそれに沿ってなされたということである︒つまり︑ヒュームの宗教論は経験論的人間学の歴

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史の中で決して特異な位置を占めているのではないのである︒ロヅクによって始められた経験主義の哲学をつきつめ

ていった時︑それはヒュームの哲学に辿り着くのではないだろうか︒そうした意味で︑スミスの宗教論も︑アクトン       ︵2︶卿やW・レプケの宗教論も︑そしてまた現代の最も偉大な自由主義者であるF・A・ハイエクの宗教論も︑その徹底      ︵3︶さにおいてヒュームのそれに遠く及ばないといってよいのである︒F・ナイトの宗教論も︑ヒュームのそれに比べる

と鋭さに欠けている︒

 周知のように︑ヒュームの経験論的人間学は︑因果論︵8二ω四一一罪︶がその中心に据えられている︒ヒュームのキリ

スト教神学批判もその因果論に基づいてなされているので︑順序としては因果論から議論を始めその後キリスト教神

学批判に移る方がよいのかもしれない︒しかし本研究では彼のキリスト教神学批判から始めることにする︒これには

格別の理由がある訳ではない︒キリスト教神学への疑問がヒューム哲学の出発点であり︑それが彼にそれまでとは全

く違った新しい因果論を生み出す一つの一しかし極めて大きなi契機を作ったこと︑彼はキリスト教神学への関

心を生涯持ち続け︑死の直前まで手を加えていたのが︑彼の宗教的著作の中で最も重要な﹃自然宗教に関する対話﹄

︵§ミ轟ミ的8§ミミ轟≧織鴨ミミ沁ミ鷺︒斜Hミ㊤︶であったこと等を考えるとキリスト教神学批判を先にもってくる

こともそれなりの理由があるかと思う︒特に注目したいのは︑同著に新しい思考様式︑即ち︑自然−生成一作為とい

う三分法的なそれが︑明瞭に打ち出されている点である︒これは︑ヒュームが因果論を確立した時点ではまだ明示的

には打ち出されていなかったものである︒この意味で︑彼の宗教論から始めることは︑後に因果論に行った時︑その

因果論の議論がより深まったものになる期待を抱かせるのである︒

 ヒュームのキリスト教神学批判の中心をなしているのは︑神の存在証明︑中でも神の設計論的証明に対する批判で

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

ある︒従ってここでも彼の設計論的証明批判を主として取り挙げる︒しかしヒュームは何故キリスト教神学批判を行

なったのであろうか︑先ずその理由を述べる必要があろう︒ヒュームは真の宗教の存在を信じていたので︑信仰の体

系としてのキリスト教はこれを真正面から批判することはなかった︒彼のキリスト教典は︑﹁信仰主義﹂ ︵h乙①一ωヨ︶

の発展に重要な役割を果たし︑S・キェルケゴール等に大きな影響を与えたといわれている︒だがヒュームは︑キリ

スト教神学はこれを徹底的に批判した︒何故であろうか︒それは︑キリスト教の﹁不寛容性﹂がその知的体系として

のキリスト教神学からきていると考えたからであった︒

︵1︶ い︒︒犀ρ封ずP噛︸琶肉旨逗6§6ミミ轟ミミ§§織ミ象§ミ論㍗O×ho乙口乞<●勺器ωρ一〇胡輝噂﹂O藤.邦訳︑大槻春彦訳

  ﹃人間知性論﹄︵﹃世界の名著﹄27 中央公論社︶八一頁︒

︵2︶ 例えば︑ハイエクは次のように言っている︒ ﹁私個人に関する限り︑次のようにいえばよいかと思う︒所謂﹃神﹄の存在

  を主張したり否定したりする資格は私にはないと感じている︒何故なら︑この神という言葉が何を意味しているかまるで分

  らないことを︑私は認めなけれぽならないからである﹂︵鼠ρ曳︒〆周・﹀・.隷ミ執9§偽馬讐↓7①国賊霞ωohω09ゆ鼠ωβ因国担

  巳︒︒ooO.お㊤︶

︵3︶ 例えば拙著﹃ハイエクと新自由主義﹄︵行人社︑昭和五十七年︶二三七i九頁参照︒

︵4︶℃8三p図・国︵巴.︶\.ぎぎ9&8︑︑bミ£§8§馬ミ馬轟≧ミミミさ譜§噛国碧冨#皆げ密甑凝O§毒茸し︒︒︒︒︒噛

  O︒×く●

一 哲学とキリスト教神学

中世の西洋を支配していたのは︑神が中心に据えられたキリスト教神学であった︒従って︑哲学はこの神学に仕え

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る碑︵窪︒一一﹃9Φo一〇σq一器︶ の地位に甘んじていた︒近代は︑この両者の関係が逆転した時代である︒この意味で

は︑近代は古代ギリシア時代と似ている︒しかし古代ギリシアの哲学においては︑神︵あるいは﹁神々﹂︶は︑自ら

占める地位を確保していた︒だが近代においては︑神は自ら占める地位を確保しておらず︑この点で古代ギリシアと

大きく異なる︒近代の哲学は︑人間を中心に据えているということで人間学と呼ばれてしかるべきである︒しかし︑

近代の人間学には二つの系譜があって︑人間の根本的特徴をどこに求めるかによって分かれる︒一つは︑それを人間

の﹁理性﹂に求めるものであり︑いま一つは﹁経験﹂にそれを求めるもので︑ここでは前老を合理論的人間学︑後者

を経験論的人間学と呼ぶ︒ヒュームは経験論的人間学を確立した哲学者であった︒

 ヒュームは︑中世の神学と哲学の関係を逆転させ︑哲学の中心に人間を据えることによって人間学を確立した︒彼

はその主著﹃人性論﹄︵︾↓鳶ミ営ミ鴫ミミ§≧ミミ蚕一刈ωOムO︶の中で自分の目指すのは人間学︵ω︒一Φ旨︒Φo︷葺き︶

であるとし︑その中心に人間を置き︑すべてのものはこの﹁人間﹂に従属すると述べている︒自然宗教︵口登霞巴

器=σq凶︒コ︶もそれから免がれない︒自然宗教も︑数学や自然科学︑社会科学等と同様に︑ ﹁人間の管轄下にあって︑       ︵1︶人間の無能・機能によって真偽を判定される﹂のである︒しかし︑ヒュームの人間学は︑その真偽の基礎を経験に求

める点で︑それを人間の理性に求めた合理論的人間学と根本的に異なる︒だがヒュームは︑自然神学の真偽の判断を

人間の工費︑機能︑つまり人間の知性︵§鳥費ωδ巳冒oq︶に委ねる︒明らかにヒュームにおいては︑神学は哲学に従

属しているのである︒それはヒュームの思想が中世とは判然と区別されるべき近代の思想であることを示している︒

しかるに注意すべきことはヒュームが﹁信仰﹂︵げ①犀①h︶と﹁神学﹂︵島①oざαq嘱︶とを戴然と区別していることである︒

そしてヒュ⁝ムにおいては︑人間の知性は信仰には及ばなかったが︑神学には容赦なく切り込まれた︒ロックも信仰

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

と理性を区別したが︑彼の理性はキリスト教神学にはそれ程鋭くは切り込んでいない︒ロックの人間学にキリスト教

神学の枠組が残っているのはそのためである︒だが︑信仰と理性の区別︑信仰と神学の区別は︑近代の人間学におい

てはじめて可能なことであった︒

 ヒュームがキリスト教神学に関心を持ち始めたのは非常に早く︑十八歳の頃からである︒特に︑神の存在証明に関

心を抱き︑それが後に︑彼に全く新しい因果論を展開させる契機となったといわれる︒それまでのとは異なるこの新

しい因果論を提示し︑それを情念︵娼四のω匪Oづω︶や道徳︵80↓巴ω︶等の領域に適用したのが主著﹃人性論﹄であった︒

同室の序論には︑自然宗教も人間学の一つのしかし有力な分野になり得ると明言されていながら︑本論では殆ど論じ

られていない︒それは最初予定していた﹁奇蹟について﹂︵○︷二一鑓6一Φω︶を︑友人の忠告に従って同学に収めなかっ

たからである︵同論文は後に﹃人間知性論﹄に収められる︶︒同論文は﹃人性論﹄が確立された経験主義に基づく因

果論をキリスト教の一つの事象である奇蹟に適用したものである︒しかしそれでも︑同著に散見されるヒュームのキ

リスト教神学についての議論は極めて鋭い︒例えば︑デカルト学派における自然科学とキリスト教神学の関係を述べ

た箇処がそうである︒これに閑しては後に取り挙げるのでここには述べないが︑ただ次のことだけは指摘しておく︒

それは︑ヒュームのキリスト教神学批判は︑キリスト教の神学を批判するだけのものではなく︑同時にデカルト学派

の合理主義に対する批判にもなっているということである︒

 ﹃人性論﹄は︑キリスト教神学については︑殆ど扱っていない1少なくとも真正面からは取り挙げられていない

一にも拘らず︑その反響はかなりあったようである︒創造が刊行されて五年後︑エディンバラ大学の論理学の講座

が空席となったので︑ヒュームがそれに公募した時一挙に現われた︒即ち︑ ﹃人性論﹄を無神論者の著作であると︑

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ヒュームを弾劾する文章が出回った︒そのため一それだけであったかどうかはもとより分からぬがi︑結局︑ヒ

ュームはエディンバラ大学の教授になれなかった︒しかしそれが契機となってヒュームに興味ある文章を書かせるこ

とになった︒それが︑ ﹁一郷士よりエディンバラの一友人に宛てた一書簡﹂︵卜トミ妹ミ\きミ犠O馬ミ貯ミ§8霞詠

肉ミミミ肉ミ忌ミ茜斜一課目︶である︒ これは上の弾劾文に忠実に答えた文章だが︑そこには神の存在証明に対する

ヒュームの考えが簡単だが見えていて興味深い︒ヒュームが十八歳の頃神の存在証明について関心を持って以来︑ま

とまった形で議論した恐らく最初のものであった︒そこでの議論は︑三年後刊行された﹃人間知性研究﹄︵冨§肉ミミ鳶

O︒ミミミ薦ミミ§q菩§ミ§ミミ塾 H置︒︒︶に﹁奇蹟について﹂と一緒に収められた﹁特殊的摂理と未来︵来世︶の

状態について﹂ ︵Oh帥℃碧二〇三位℃﹁oく乙①昌︒Φ9︒巳oh鋤h葺霞Φω冨8︶という論文において︑より詳しくより厳密

に論じられた︒ヒュームは︑同論文の中で︑神の存在証明の一つである設計論的証明を議論の中心に据え︑それをは

じめて批判したのだった︒そしてこの議論を更に大胆に一層詳細に展開したのが﹃自然宗教に関する対話﹄であった︒

同寸は世間の非難を配慮してヒュームの死後出版された︒同日は一七四九年頃から書き始められ︑五一年頃には出来

上がっていたが︑ヒュームは死の直前まで推敲を重ね手を加えていたといわれる︒

 以上の他にヒュームは宗教関係の著書一冊と論文を三本程残している︒ 一七五五年に出た﹃宗教の自然史﹄ ︵円ミ

≧ミミミミの&送旦肉ミ鷺︒蕊︶は︑ ﹃自然宗教に関する対話﹄と並んでヒュームがものした宗教関係の二大著作の一

つである︒同書は︑ヒュームが﹃人性論﹄で確立した経験論的方法を宗教の歴史に適用したものであり︑また比較宗

教研究としても興味深い︒ヒュームは︑自然宗教に対し一定の理解を示してはいるが︑宗教の発生︑発展は不合理的

要素によってもたらされた︑と論じている︒論文﹁迷信と熱狂について﹂︵Ohω仁づ①δ葺δ口三口自国ロ一げ霧冨ωヨ︶は︑

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

﹃道徳・政治論集﹄︵穿⇔塁肋ミ冒ミ§織㌧o︑ミミ︑︶に収められ一七四一年に出た︒タイトルにある迷信とはカトリッ

ク教のことを︑また熱狂とはプβテスタンティズムの特質を︑それぞれ意味している︒同論文は︑ヒュームの宗教論

としては﹁奇蹟について﹂に次ぐもので比較的早い時期の作である︒ ﹁自殺について﹂ ︵Ohω三〇乙Φ︶と﹁魂の不死

性について﹂︵Oh魯Φ︻旨ヨ︒暮箋昌oh昏①ω︒三︶は共に一七五五年一七年の頃には既に完成されていたといわれる

が︑これ等も世間の非難を慎重に配慮して︑ヒュームの死後間もなくしてはじめて公表された︒

 以上︑ヒュームの宗教関連の著作︑論文を並べたてたが︑それは他でもない︑ ヒュームがその生涯を通じて︑宗

教︑キリスト教︑キリスト教神学に関心を持ち続けたかを示したいがためであった︒何よりもヒュームは︑人間学を

確立するために︑キリスト教における信仰と神学とを区別し︑後者のキリスト教神学︑特にその出発点であり終点で

もある神の存在証明︑を批判しておかねばならなかった︒そうでなけれぽ確立を目ざす人間学が斉合的な体系を成さ

ぬからである︒それは︑人間学の中に異質の体系が残るということである︒ロックが作り上げた人間学は実にそうし

たものであった︒ヒュームの人間学が丁合的な体系を成しているのは︑キリスト教神学の要であり枠組を作っている

神の存在証明を批判し克服したからである︒そしてこの課題は︑ ﹃自然宗教に関する対話﹄が一応でき上がる一七五

一年頃までには達成された︒

 しかしもう一つ問題がある︒いま私は︑人間学を確立するために︑ヒュームは︑キリスト教神学︑とり分け神の存

在証明を批判しておかねぽならなかった︑と言った︒だが︑そこにはその前にもう一つの問題が存在している︒即

ち︑何故ヒュームは人間学の確立を目指したのかという問題である︒勿論この答えは明らかである︒即ち︑キリスト

教神学によっては説明し得ない様々な問題が現実の世界に次々に現われ︑キリスト教神学がそれ等の問題に適切に対

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処できなくなったからである︒それ等の問題は先ず自然の領域に︑次いで社会の領域に現われた︒ガリレオ裁判は︑

キリスト教神学が自然の領域でいかに動揺したかを示す象徴的な事件であった︒社会の領域でも︑﹁閉じられた社会﹂

から﹁開かれた社会﹂へと大きく変化したことに伴い︑キリスト教神学の下にあったそれまでの法理論︑政治理論︑

経済理論等も大きな変更を余儀なくされた︒そしてこの領域で中心的テーマとなったのが︑個人の自由と社会の秩序

の問題であり︑両者の関係︑つまり個人の自由と社会の秩序はいかにして両立し得るかという問題であった︒

 ヒュームは以上のような問題に対応すべく認識論︵因果論︶から出発した︒そしてその契機を作ったのは神の存在

証明という問題であった︒この問題をヒュームが何よりも先に取り挙げたのは︑上にも述べたように︑神の存在証明

がキリスト教の骨格をなしている理論であり︑これを取り除かねば︑配合的な人間学を作り上げることは覚束かない

と考えたからに違いない︒しかしヒュームの場合︑このような純粋に学問的理由からのみで神の存在証明を取り挙げ

たのではなかった︒恐らくヒュームはキリスト教の﹁不寛容性﹂を早くから体験していた︒この点ではロックも同じ

であった︒だがヒュ:ムは︑キリスト教の不溶容気が︑キリスト教の﹁神学﹂からきていると考えた︒この点でヒュ

ームはロックと大いに異なった︒ロックは︑自由の問題を扱う時︑キリスト教に対し寛容を求めばしたが︑キリスト

教の神学を批判することはなかった︒だがヒュームは︑自由の問題を論ずる時︑キリスト教神学までを問題とした︒

そのため彼は︑世間から様々な誤解を受けることになった︒無神論者ヒュームという誤解がそれである︒

 ここでエピソードを一つ紹介しておこう︒ヒュームは一七七六年八月二十五日︑セント・ディヴィド通りにある自

宅で生涯を閉じたが︑その四日後に行われた葬儀の模様を彼の研究老にして伝記作者であるE・C・モスナーは次の

ように書いている︒ ﹁葬儀は八月二十九日木曜日︑雨の降り頻る中で行われた︒多くの群集がセント・ディヴィド通

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(一)

りに集まり︑棺が搬び出されるのを見送った︒その時︑群集の一人が︑﹃ああ︑ヒュームは無神論者であった﹄とい

・たのが立ち聞きされた︒・れに対し︑連れの者が・﹃いやいや・彼蚤慧人間だ・た﹄と言い返し鳩L

 キリスト教神学に関する議論をできるだけ避けた﹃人性論﹄でさえ無神論者という汚名を受けたのであるから︑

﹁奇蹟について﹂や﹁特殊的摂理と未来の状態について﹂がどんな厳しい非難をヒュームに浴びせることになったか

は容易に想像できる︒と・ろで︑後者の論文の最初のところでヒ・去は次のようなことを言ってい菊哲学は一切

の特権を超越した完全な自由を要求する︒哲学は自由と寛容の国︑時代に生まれ︑意見や議論の自由な対立によって

盛んになる︒いかなる法外な原理を提示しても︑どんな信条︑刑罰的法規によっても妨害されてこなかった︒二︑

三の例外はあるが︑概して古代ギリシア時代の方が︑今の時代よりも︑頑迷な信仰心による弊害はずっと少ない︑

と︒同じような考えは︑ ﹁自殺について﹂の冒頭のところにも見える︒窪く︑﹁哲学から生ずる一つの著しい利点は︑

哲学が迷信やにせ宗教に対して与える至高な対症薬であることに存している︒⁝⁝健全な哲学がひとたび心を占める      ︵4︶や︑迷信は端的に排除される︒⁝⁝﹂と︒明らかにヒュームは︑自由を前提とする哲学と︑迷信を培養する宗教とを

対比し︑時代は今︑前者の方をより望んでいるのだというのである︒

 しかしヒュームの宗教論は容易に世間に受け入れられなかった︒一七五一年末︑再び︑グラスゴー大学の論理学の

教授にならないかという話が持ち込まれた︒同講座はA・スミスが担当していたものだが︑スミスが道徳哲学の講座

を受け持つことになり空席となっていた︒しかしこの時もまた︑無神論者等といった非難を受け︑ヒ斗ームは大学教

授になることができなかった︒ヒュームは︑同じ宗教的理由から二度︑大学教授になる機会を失ったのである︒一七

五七年に出した﹃宗教の自然史﹄は︑ ﹁どちらかといえぽ人目にたたなかった﹂が︑﹁ハート博士が同著に反対して︑

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      ︵5︶例のウォーバートン派独自の偏狭な短気さ︑思いあがり︑下司根性で一冊子を著したしとヒューム自ら言っているよ

うに︑かなり厳しい非難を受けたらしい︒ ﹁自殺について﹂と﹁魂の不死性について﹂の二つの論文も﹃宗教の自然

史﹄と一緒に刊行する予定だったが︑ウォーバートン等による執拗な追及を恐れ公表を断念した︒両論文が世に出た

のは︑上にも述べたように︑ヒュームの死後であった︒

 ヒュームが生涯︑宗教に関心を持ち続けたのは︑純粋に学問的理由からだけでなく︑いま述べたように︑現実にお

いて彼自身︑既成の宗教からいわれなき迫害を受けたからである︒ヒュームの哲学の要請は︑純粋に学問的理由での

みなされたのではなく︑同時に︑宗教的不寛容さからの自由の要求でもあった︒しかし︑彼が生前発表した宗教に関

するいくつかの論稿は︑極く限られた人々の問で理解されるに止まった︒ヒュ⁝ムは︑ コ郷士よりエディンバラの       ︵6︶一友人に宛てた一書簡しの最後のところで次のように書いている︒もし︑自由の国に生き︑哲学の自由が高い評価を

      ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ受けているところに住んでおれぽ﹁世評︵隷ぎミ︶という利点﹂があるといっているが︑少なくともヒュームの宗教

についての論稿に関する限り︑それはなかったようだ︒しかしヒュームのキリスト教の不寛容性に対する批判が︑激

しい執拗な非難を受けたのも︑それがその神学と密接に結びついているとしてキリスト教神学を徹底的に批判したと

ころがらきていると思われる︒そして︑それによって︑ヒュームの人間学は︑二合的な体系をなし得たのである︒

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︵1︶ ロニヨ①噂U口︒<崔︾寄ミ駐偽ミミミ§き︑ミ魯O臥oa⇔即く曾勺お︒︒ω噛H㊤①9戸邑×.邦訳︑大槻春彦訳﹃人性論﹄︵岩 注

 波文庫︶二一頁︒

︵2︶呂︒︒︒ωロΦ♪国ρ↓ぎトさミbミ馬職穿ミ♪ω︒8民三三︒po×︷︒ad巳く●津①ωωし︒︒︒o・噂.①8・︵3︶国βヨρu毬傷ご三越ミ軌霧8§ミミ轟§穿ミ§S§ミ§§h§こ§§ミ轟§ミ§ミ塁ミミqミ3曾︷︒a

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 qロ一く●℃NOoooo︾一⑩①①・・一Q◎卜︒●

︵4︶誕§pu9≦住肉鈎亀・・ミ等鼻︑ミ琴ミ§職ミミ織§=σ①﹁q9器ω冨\︒募巴Φ島三会し㊤︒︒﹃も︒●㎝ミー︒.邦訳︑福

 鎌・斎藤訳﹃奇蹟論・迷信論・自殺論﹄︵法政大学出版局︶六八頁︒

︵5︶ きミご×図×乱劉前掲邦訳︑一四六頁︒

︵6︶ω仲︒冒げ︒茜国︵a︶.詮吋ミミミ9§ミミ鳶ミミ§§魯ミ§ミ鳶§戚毎トミミ︑︑§飛O§誉ミ§︑︒ミ⇔︑ミミ

 §肉ミ忌ミ窓讐出po閃︒#℃ロ三δ三昌oqOoヨOきざ日㊤○︒S℃・お心.前掲邦訳︑一二三頁︒

D・ヒュームの経験論的人聞学の研究(一)

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