著者 植村 正治
雑誌名 社会科学
巻 50
号 2
ページ 149‑186
発行年 2020‑08‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/00027794
《研究ノート》
1880 年代東京大学理学部における機械工学教育
植 村 正 治
本稿を含む一連の研究ノートでは綿糸紡績業を具体事例として取り上げ,技術者 という人間類型の内面に焦点をあて技術移転の成功要因を探ろうとした。彼らの脳 裏と身体に刻まれた機械工学に関する専門知識や技能の内容,それらの教育過程に ついて検証した。後発国が工業化を達成するためには,先発国から高度の技術を体 化した機械を輸入するだけでなく,技術者や技能工を雇用しなければならない。そ の典型例が綿糸紡績業であった。複雑なメカニズムを持つ多数の作業機を経て綿糸 が完成する。作業機に関する知識は勿論のこと,シャフト,ベルト,プーリ,歯車 などの動力伝達装置や,当時の動力源である蒸気機関に関する知識や技能も必要と される。ヨーロッパにおける後発国では,イギリスから人・機械・文献などの各種 技術移転手段をパッケージにして技術移転することにより工業化が進行した。とく に技術移転の万能手段である技術者・技能工の移動は後発国工業化に重要であった。
しかしイギリスから遙か遠くに位置する日本では彼らの持続的雇用には多額の費用 がかかり,早期に日本人技術者が外国人技術者に取って代わらなければならなかっ た。日本の綿糸紡績業においては
1890
年代にこれが達成されたと判断した。これを 可能にした技術内容と教育過程を,東京大学理学部の機械工学科を対象として検討 した。1877年度から1880
年度までを取り上げた前稿に引き続き,本稿では1880
年 度以降について検討した。は じ め に
前稿では1),1890年代の綿糸紡績業において一定の技術移転に貢献した工学士技術者 の事例を取り上げ,彼らが技術移転の初期段階である一括技術移転時代から人的資源代 替時代(技術者・技能工の現地人化)への転換に貢献したことを検証した。一括技術移 転時代というのは,19世紀後半におけるイギリスからノルウェー紡織会社への技術移 転を考察した
K・ブルランドが,その特徴を「all-inclusive technological packages
2)」と 表現したことに拠った。人・機械・文献などの各種技術移転手段をパッケージにして技 術移転が行われることを意味する。また人的資源代替時代は,機械本体や部品などにつ いては,海外依存が続くが,時代経過に伴ってお雇い技術者・技能工に日本人が取って代わる時代という意味を持たせた。
帝国大学工科大学機械工学科
1889
年(明治22)卒業の高辻奈良造は,1888
年に設立 された大阪金巾製織会社(紡織兼業)へのプラット社製リング機・織機の導入に貢献し た。菊池恭三(工部大学校機械工学科1885
年卒業)は,1887年から平野紡績会社に勤 務して外国人技術者依存からの脱却に成功し,後に尼崎紡績や摂津紡績をも成功に導い た。東京開成学校在籍時の1876
年にグラスゴー大学に留学して優秀な成績で卒業し,ロンドンやベルギーにおいて各種の実地経験を積み,帰国後,農商務省三等技師と帝国 大学工科大学機械工学科教授を兼任した谷口直貞は,1889年に操業を開始した鐘淵紡 績会社の技術的立ち上げに貢献した。彼の跡を受け継いだ吉田朋吉(東京大学理学部工 学科(機械工学専攻)1881年卒業)は,同社における人的資源代替を成功に導いた。
近代綿糸紡績業における生産工程は高度に細分化されている3)。精紡糸が完成するま でには体系的に配置された生産工程を経なければならない。個々の工程に設置された各 種作業機は一体となって稼働する。綿花産地で梱包されて輸送されてくる繰綿は①開俵 機によって梱包を解かれて,②混綿機で各種原料綿花を混合しながら綿塊が解舒され る。③開綿機でも一層の解舒が進むとともに綿花に含まれる塵埃が除去される。さらに
④もう
1
種類の開綿機に送られラップと称される一定幅の平たい筵綿にしてロール状に 形成される。ラップは厚さが均一でないので,4個のロール状ラップを巻き戻しなが ら,4層に平たく重ね合わせて均一なラップにするためと,さらなる除塵を行うために⑤打綿機に送られる。⑥梳綿機では,ラップ内に残る微細な塵埃を除去し,綿花繊維を 梳いて平行にしたのち,スライバーと称されるロープを形成し,次の⑦練篠機におい て,6本のスライバーを
1
本の練篠スライバーにまとめて引き延ばす牽伸作業が通常3
回繰り返される。繊維を平行にするとともに,糸の太さを均一にするためである。50 番手までの綿糸の場合,3種類の粗紡機(始紡機,間紡機,練紡機)にかけられる。⑧ 始紡機では1
本の練篠スライバーを引き延ばしながら撚が加えられて1
本の粗糸とな る。⑨間紡機,⑩練紡機でも同様の作業が繰り返されるが,2本の粗糸を1
本に結合し て牽伸と加撚が行われる。⑪精紡機(リング紡績機やミュール紡績機)においても一層 の牽伸と加撚が進み綿糸が完成する。このような生産工程で使用された①から⑪までの 諸機械は,いずれも複雑なメカニズムを持ち,蒸気機関を動力として稼働する精巧な金 属製作業構造物であった。技術者はこのような生産工程を体系的に把握していなければならないし,それぞれに おける機械の細部にわたるメカニズム,メカニズムを構成する各種部品,それらが破損
した際の交換方法を熟知していなければならない。さらに稼働時における各種機械部品 に加わる荷重,回転軸にかかるトルク,荷重やトルクに耐えうる金属素材などに関し て,また動力源の蒸気機関の構造,蒸気の性質や熱に関する専門知識も習得していなけ ればならなかった。
本稿を含む一連の研究ノートにおいては4),上記の綿糸紡績業を具体的事例として取 り上げ,技術者という人間類型の内面に立ち入り技術移転の成功要因を探ろうとした。
すなわち彼らの脳裏と身体に焼き付けられた機械工学に関する専門知識や技能の内容,
およびそれらの教育過程について検証してきた。前稿では,1877年から
1880
年までの 授業科目やその内容の変化について検討したが,本稿では引き続き,同じ視点から,お よび以前から持ち続けている鉱物資源利用による経済発展への工学技術の貢献という視 点から,1880年以降,東京大学理学部から工芸学部が分離される以前までの授業科目 の変化や授業内容について検討した。1
授業科目の変遷表
1
は1880
年度〜1884年度における東京大学理学部学生数を学科別・学年別に掲げ たものである。1877年度,1878年度,1879年度それぞれの合計人数が102
人,108 人,118人であったのが5),1880年度には116
人となり,以降,1883年度の例外的急減 を別としても理学部の教育活動は低迷していたといえよう。一方,表2
は,1878〜1885 年6)における,(1)東京大学全体で雇用された外国人教員合計数,(2)理学部外国人教 授数,(3)理学部日本人授業担当教員数,(4)理学部日本人教員数,(5)理学部教授 数,さらに3
つの理学部日本人教員比率(表2
のうち(a),(b),(c)欄),の推移を示 したものである。理学部では他学部に比して外国人教授数が急減する一方で,日本人教 員数・教授数の増加が顕著であったので,日本人教員比率・日本人教授比率は急速に上 昇した。理学部における学生数の減少と日本人教員の増加は,この時期の理学部は将来 を見越しての教員養成的役割も担っていたことを示唆している。1874
年9
月,スミス(Robert Smith)が東京大学の前身校である東京開成学校の機械 工学教授に着任し,1878年7
月,東京大学への改組の1
年後に退職した。彼の後任は 同じエジンバラ大学出身のユーイング(James A. Ewing)で,1878年9
月に着任した。1883
年6
月に退職するまで,彼は東京大学理学部工学科における機械工学教育の中心 的人物であった。表3
は1880
年度〜1883年度における理学部工学科のコース別・学年別授業科目の変化を見たものである。1年生授業科目は理学部共通科目であるので省略 した。また表
4
は1881〜1883
年度の2, 3
年生用授業科目について,学期別週授業時 間,および年間総授業時間を見たものである。後者は,表5
のように各学期についてそ れぞれの授業日数から休日数を差し引き,これを7
で除した授業週回数を,表4
の授業 科目別週時間に乗じることによって得られる。たとえば1881
年度の数学の場合,14.43×5+11.43×5+10.14×5=180.0となる。1880年度については7),1881年度と同一であ った。
表1 1880年度〜1884年度における東京大学理学部学科別・学年別学生数
年度 学年 化学科 工学科 地質 学科
採鉱冶 金学科
生物 学科
物理
学科 数学科 星学科 造船
学科 諸学科 合計
1880年度
(1881年8月)
4年生 5
6 6
2 8 4 7
1 5 2
3 5 3
3 1 1
4 6
44 20 25 25 44 2 3年生
2年生 1年生 研究科
合計 19 19 8 11 5 10 44 116
1881年度
(1882年8月)
4年生 4
8 8
1 4 6 1
1 4 3 2
7 3 2
1
2 3 3 1
1 1
41 24 24 16 41 2 3年生
2年生 1年生 研究科
合計 21 12 9 12 3 7 1 1 41 107
1882年度
(1883年7月)
4年生 8
6 5
1 7 1 7
1 2 2 1
4 2 2
1 3
2 2 3
1 2
1
17 24 15 24 17 2 3年生
2年生 1年生 研究科
合計 20 16 5 8 4 7 3 1 17 81
1883年度
(1883年12月)
4年生 5
2 2
1 2 1 1
1 2 2
1 4
1 1 2
3 9 8 9 3 2 3年生
2年生 1年生 研究科
合計 7 3 4 5 6 3 3 31
1884年度
(1885年7月)
4年生 4
3 2
1 1 6 4
1 2
3 2 1 1
2 4 1
2 2 1
2
2 2
1 21
15 18 13 21 4 3年生
2年生 1年生 研究科
合計 10 12 5 4 7 7 2 3 21 71
出所:東京大学編(1881)「東京大学第一年報 起明治十三年九月止同十四年十二月」(東京大学史史料研究会編
(1993)『東京大学年報』第2巻,東京大学出版会,35頁)。東京大学編(1882)「東京大学第二年報」(同上 書,141頁)。東京大学編(1883)「東京大学第三年報」(同上書,238〜239頁)。東京大学編(1885)「東京 大学第五年報」(同上書,459頁)。
注:年度欄の年月は調査年月。1882年度工学科2年生人数は,「東京大学第三年報」には8人とあったが,退学者 数,卒業者数,入学者数を差し引きした年度末在籍者数(表1では割愛)に合致させるためには,教員たちが 示した7人でなければならない(本文参照)。
1.1 1880
年度〜1882年度表
3
によると,1880年度,1881年度,1882年度については大きな変化は見られな い。1880年度以前の2, 3
年生の語学はフランス語・ドイツ語の選択制であったが,「方 今文学理学ノ最旺盛ナルハ独逸国ニ若クモノ無之候間」,すなわち,文学部・理学部の 学生が専門の研究を深めようとするならば,必ずドイツ語書籍を渉猟しなければならな いので,「今若シ独法両語ノ中一語ヲ専修セシメント欲スレハ,独語ヲ学ハシムルヲ以 テ尤利益アルモノト存候8)」(原文は連続する文章であるが,適宜「,」を挿入した。以 下同じ)という法理文学部総理加藤弘之の文部卿宛て伺書に呼応して,文部省は1881
年度からドイツ語専修を決定した。また同年より「卒業論文ノ下ニ「邦文漢文若英文」ノ七字ヲ加フ9)」こととなった。「東京大学学術機関リポジトリ」の「旧制工学部」に 収録された卒業論文のほとんどは10),1881年度以降も英文で作成されていたが,邦文 や漢文でも許されるようになったのであろう。
1881
年(明治14)12
月に「工学第二年ニ冶金学ヲ増加シ土木工学第四年ノ応用地質学ヲ廃除11)」することになったが,表
3
には冶金学が記載されておらず,実際の変更は1882
年度からであった。冶金学教授であった岩佐巌12)の申報によると13),同年度に冶 金学が工学科学生に開講されたのは,1882年8
月に土木工学教授に着任したワッデル表2 外国人教授数,日本人教員・教授数,各種比率
年代 (1)全外国人 教員
理学部 (a)日本人
授業教員 比率
(b)日本人 教員比率
(c)日本人
(2)外国人 教授比率 教授
(3)日本人 授業教員
(4)日本人 教員
(5)日本人 教授 1878
1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885
27 26 20 17 16 12 12 10
13 11 9 8 7 6 3 3
4 4 5 8 16 15 21 27
8
19 27 28 35
4
5 8 8 12 17
23.5 26.7 35.7 50.0 69.6 71.4 87.5 90.0
38.1
70.4 79.4 82.4 92.1
23.5
38.5 53.3 57.1 80.0 85.0 出所:(1)欄は井上久雄(1969)『近代日本教育法の成立』風間書房,769頁(原典は東京帝国大学編(1932)『東
京帝国大学五十年史』上册(中外印刷株式会社))による。法学部,理学部,文学部,予備門の合計人数。
(2)と(3)は,東京大学史史料研究会編(1993)『東京大学年報』(第1巻,第2巻,東京大学出版会)に 掲載の「東京大学法理文学部教授(教員)受持学科表」うち理学部に関する表に依拠した。ただし語学や倫 理学などの科目を担当する教員は除く。1884年の表が見いだせなかったので,同上書第2巻所収「東京大学 第四年報」に掲載された理学部教員申報(353〜371頁)からカウントした。(4)と(5)は東京大学法理文 三学部編(1878)『東京大学法理文三学部一覧略』,東京大学法理文三学部編(1881),(1882),(1883),
(1884)『東京大学法理文三学部一覧』による。1885年の理学部教授数は上記『東京大学年報』第2巻に所収 の「東京大学職員表」に依拠した。
注:(3)欄は授業を担当した教員数で,(4)欄は上記『東京大学法理文三学部一覧』の職員録に掲載された教員数 である。後者の1881年の場合,ポストごとに教員氏名が掲げられていた。教授4人,員外教授1人,助教1 人,准助教6人,講師2人,准講師3人,観測台観測方2人という内訳で,合計19人となる。(a)欄は,(3)
÷((2)+(3)),(b)欄は(4)÷((2)+(4)),(c)欄は(5)÷((2)+(5))をそれぞれ計算した。
(John A. Waddle)の尽力によるところが大きい。「右工学第二年生ハ其数七人ニシテ,
之ニ冶鉄学ヲ授ケントスルノ案ハ工学教師ワッデル氏ノ創意ニ係レリ」としている。ち なみに岩佐は「冶鉄学」を工学科
2
年生7
人に教えた。表1
の人数に一致する。岩佐 は,7人の学生らは「冶鉄学ヲ理解スルノ困難ナル状ヲ見ス,実ニ賞賛スルニ堪ヘタ表3 1880年度〜1883年度東京大学理学部工学科におけるコース別・学年別授業科目の変化
学年 1880年度 1881年度 1882年度 1883年度
2年生 数学 重学 物質強弱論 陸地測量 物理学 機械図
仏蘭西語或独乙語 英吉利語
数学 重学 物質強弱論 陸地測量 物理学 機械図 独乙語 英吉利語
数学 重学 物質強弱論 陸地測量 物理学 機械図 独乙語 英吉利語 冶金学
数学 重学 物質論
陸地測量及地誌図 物理学
機械図 独乙語 英吉利語* 鉄鉱冶金法 衛生工学 運動学及機工論
3年生
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学
法蘭西語或独乙語
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学 独乙語
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学 独乙語
物質抗力論 熱動学及力源機 機械図及機械計画△
橋梁及屋背構造論 物理学
機械学及工場諸工具△
独乙語 機械図○
道路及鉄道構造法○
4年生 機械 工学
機械計画製図実験 材料試験 機械所実験 卒業論文
機械計画製図実験 材料試験 機械所実験
卒業論文(邦文漢文若英文
機械計画製図実験 材料試験 機械所実験
卒業論文(邦文漢文若英文
機械所実験
卒業論文(邦文漢文若英文
4年生 土木 工学
橋梁構造 測地術 海上測量 治水工学 造営学 応用地質学
卒業論文
橋梁構造 測地術 海上測量 治水工学 造営学 応用地質学
卒業論文(邦文漢文若英文 橋梁構造 測地術 海上測量 治水工学 造営学
卒業論文(邦文漢文若英文
拱及擁壁構造法等 測地術
治水工学 造営学**
隧道構造論 基礎構造論
卒業論文(邦文漢文若英文 出所:1880年度は,東京大学法理文学部編(1881)『東京大学法理文学部一覧 明治十三年,十四年』(丸家善七)
とUniversity of Tokio(ed.)(1881)『The Calendar of the Departments of Law, Science, and Literature』との合 冊版(国立国会図書館デジタルコレクション)による。1881年度〜1883年度は,東京大学法理文三学部編
(1882),(1883),(1884)『東京大学法理文三学部一覧 従明治十四年至十五年,従明治十五年至十六年,従 明治十六年至十七年』丸家善七(同デジタルコレクション)による。
注:植村正治(2020)「明治前期東京大学理学部における機械工学教育−1877年度〜1880年度」(『社会科学』第50 巻1号)の表4から1880年度以降の授業科目について転載した。1883年度3年生授業科目のうち,末尾に△
を付したものは機械工学コース専修科目,○は土木工学のそれ。これら以外の科目は両コース共通の科目。同 年度2年生の「*」を付した英吉利語は1883年10月12日に授業科目から削除された(東京大学編(1883)
「東京大学第三年報 起明治十五年九月止同十六年十二月」(東京大学史史料研究会編(1993)『東京大学年報』
第2巻,東京大学出版会,217頁)。同年度土木工学コースの4年生の「**」を付した造営学は1884年1月 31日に授業科目に加えられた(東京大学編(1884)「東京大学第四年報 起明治十六年九月止同十七年十二月」
(同上書,364頁))。
リ」とするばかりでなく,彼が実地研修のために学生たちを埼玉県川口町の鋳鉄場に引 率した際も「欧式鋳造法ヲ会得スルノミナラス,又本邦因襲ノ鋳造法ヲモ照考スルノ便 ヲ得タリ」とし,学生たちに高い評価を与えた。
ワッデルはカナダ出身で,レンセラー工科大学を卒業した後,鉄道会社や石炭鉱山会 社などの技師を経て
1878
年に同校助教授に就任し,1881年には民間橋梁会社の技師長 も兼任した。翌年8
月に東京大学理学部土木工学教授として着任する14)。理学部工学科 のカリキュラム編成に影響力を持った人物だと推測した。機械工学担当のユーイング は,1881年度まで,重学,物質強弱論,結構強弱論,熱動学及蒸気機関学,機械学の,機械工学コースの中で中心的授業科目にあたる
5
科目を教えていたが,ユーイングは1882
年度からワッデルが物質強弱論と結構強弱論の授業補助を行ったとした。ユーイ ングの1882
年度申報には「余ノ本学中講授セル諸課目ハワッデル氏ノ余カ補助トシテ 第二年級ノ為ニ材料強弱論,第三年級ノ為ニ結構強弱論ヲ講義セシ外,前年度ニ比シテ 更ニ異同アルナシ15)」とある。しかし1882
年度土木工学コースシラバス(当該コース の履修にあたって重要な複数の授業科目を学年別に配列し,後掲の表10・11
のように,学年別に個々の授業シラバス(現代と同じ意味)を掲載したもの16))には両科目に相当 する授業シラバスが掲げられていたのに対して,機械工学コースシラバスには掲げられ ていなかったことから,実際にはワッデルがこの
2
つの授業を担当したと考えられる。さらに同じ土木工学コースシラバスに,陸地測量に関して「各分科即チ用鎖測量・指 方儀測量・測量器械ノ調整(中略)等ヲ学修セシメ,毎週一日午前八時ヨリ午後六時マ テ終日野業ニ従事セシム」(原文に読点が付せられていた場合,「・」に変換した)と記 されていた。表
4
によると,1881年度の陸地測量の授業時間は毎学期4
時間であった のが,1882年度には2
倍の8
時間となっている。年間総授業時間も144
時間から288
時間に倍増し,全科目に占める比率も15.5% から 26.0% に増加した。このような科目
の授業時間の増加は機械工学を修得しようとする学生にとって不利だったが,土木工学 に対するニーズが高かったその当時としてはやむを得なかったのであろう。表6
は帝国 大学が成立する前までの東京大学理学部工学科と工部大学校における両学科別卒業生数 の推移を見たものである。前者の工学科卒業生数のうち機械工学科(厳密には工学科機 械工学コース)を卒業した学生数は7
人にすぎない。このようなことも背景にあって,ワッデルは土木工学関連の授業拡充を精力的に推し進めることができたのであろう。
また,1881年
7
月に帰国して東京職工学校教諭に就任していた,前述の谷口直貞17)は
1882
年2
月に理学部講師を兼任し,「ユーイングノ負担セシ一課目即チ工学三年生ノ表4 1881〜1883年度における2, 3年生授業科目の学期別週授業時間,年間総授業時間,比率
1881年度
学年 授業科目 授業期間 1学期 2学期 3学期 年間総時間 比率
2年生 数学 重学 物質強弱論
陸地測量(講義 野外及館内実験 物理学
機械図 英吉利語 独乙語
1年間 1年間 1学期 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
5 4 2 44 4 2 2
5 4 44 4 2 2
5 4 44 4 2 2
180.0 144.0 28.9 144.0 144.0 144.0 72.0 72.0
19.4 15.5 3.1 15.515.5 15.5 7.8 7.8
合計 27 25 25 928.9 100.0
3年生
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学 独乙語
1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
2 2 4 6 3 2 2
2 2 4 6 3 2 2
2 2 4 6 3 2 2
72.0 72.0 144.0 216.0 108.0 72.0 72.0
9.5 9.5 19.0 28.6 14.3 9.5 9.5
合計 21 21 21 756.0 100.0
1882年度
学年 授業科目 授業期間 1学期 2学期 3学期 年間総時間 比率
2年生 数学 重学 物質強弱論
陸地測量(講義 野外及館内実験 物理学
冶金学 機械図 英吉利語 独乙語
1年間 1年間 1学期 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
5 4 2 8 4 1 4 2 2
5 4 8 4 1 4 2 2
5 4 8 4 1 4 2 2
180.0 144.0 28.9 288.0 144.0 36.0 144.0 72.0 72.0
16.2 13.0 2.6 26.0 13.0 3.2 13.0 6.5 6.5
合計 32 30 30 1108.9 100.0
3年生
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学 独乙語
1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
2 2 4 6 3 2 2
2 2 4 6 3 2 2
2 2 4 6 3 2 2
72.0 72.0 144.0 216.0 108.0 72.0 72.0
9.5 9.5 19.0 28.6 14.3 9.5 9.5
合計 21 21 21 756.0 100.0
1883年度
学年 授業科目 授業期間 1学期 2学期 3学期 年間総時間 比率
2年生 数学 重学 物質論
陸地測量及地誌図 物理学
鉄鉱冶金法 機械図 英吉利語 独乙語 衛生工学 運動学及機工論
1年間 1年間 1学期 1年間 1年間 1年間 1年間
(1年間)
1年間 1学期 1年間
5 4 3 8 4 1 2 3 3 2
5 4 8 4 1 2 3 2
5 4 8 4 1 2 3 2
180.0 144.0 43.3 288.0 144.0 36.0 72.0 108.0 43.3 72.0
15.9 12.7 3.8 25.5 12.7 3.2 6.4 9.6 3.8 6.4
合計 35 29 29 1130.6 100.0
3年生
物質抗力論 熱動学及力源機 機械図及機械計画 橋梁及屋背構造論 物理学
機械学及工場諸工具 独乙語
1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
2 2 4 2 3 2 2
2 2 4 2 3 2 2
2 2 4 2 3 2 2
72.0 72.0 144.0 72.0 108.0 72.0 72.0
11.8 11.8 23.5 11.8 17.6 11.8 11.8
合計 17 17 17 612.0 100.0
出所:東京大学法理文三学部編(1882),(1883),(1884)『東京大学法理文三学部一覧従明治十四年至十五年,従 明治十五年至十六年,従明治十六年至十七年』丸家善七,25-27頁,27-29頁,31-34頁(表3脚注参照)。
機械学授業ヲ分掌シ,同十六年七月マテ機械計画ヲ専務トシテ毎週二回之ヲ講授」(谷 口申報18))することになった。分掌とあるので,ユーイングが担当した機械学の中には 機械計画の授業が含まれ,この授業を
1883
年7
月まで専務したのである。machine de-sign
の当時の訳語が機械計画であった。現代訳語は機械設計である。1.2 1883
年度以降の変化1883
年度開講予定の授業科目は,同年度授業が始まる9
月11
日のわずか3
週間前 の,8月20
日に大きく変化した19)。同年6
月にユーイングが退職し,工学科を束ねる 外国人教員がワッデル1
人になったことが大きい。2年生では,物質強弱論が物質論と いう科目名に変更されたが,1882年度および1883
年度の土木工学コースシラバスとも に同じ文章であったことから(後掲表10
参照),同一内容の授業だと判断される。ただ「強弱」という語が削除されていることから,機械・建築物材料の強弱理論よりも材料 そのもの特性の解明に重点が置かれたものとみられる。
陸地測量が陸地測量及地誌図,冶金学が鉄鉱冶金法に変更され,新たに衛生工学と運 動学及機工論が加わった。ワッデルが作成したと考えられる上記の
1882
年度土木工学 コースシラバスには「衛生工学ノ大意ヲ講シ,以テ此重要ナル学術ノ現時本邦諸都市ニ 於テ大ニ欠ク所アル由縁ヲ説明ス20)」とあり,1882年度3
年生向けに衛生工学(Sani-tary Engineering
21))を開講する予定だったが,実際には1883
年度2
年生向けに開講さ表5 各学期の授業日数と授業週回数
学期 学期期間 学期日数 神嘗祭などの休日数 授業日数 授業週回数 1学期
2学期 3学期
9月11日〜12月24日 1月8日 〜3月31日 4月8日 〜6月17日
105 83 71
4 3
101 80 71
14.43 11.43 10.14 出所:表3と同じ。
注:冬期休業(12月25日〜1月7日),春 期 休 業(4月1日〜4月7日),夏 期 休 業(7月11日〜9月10 日),試業期間(6月21日より)を除く。授業週回数は授業日数を7で除した値。
表6 帝国大学成立までの東京大学理学部工学科と工部大学校における学科別卒業生人数の推移
学校 学科 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 合計 東京大学工学科 機械工学
土木工学 3 5 1 6
2
6 4
3 4
1
1 1
7 30 工部大学校 機械工学科
土木工学科
5 3
11 8
9 7
6 7
5
11 4
3 5
39 45
合計 3 13 26 24 17 23 6 9 121
出所:帝国大学編(1896)『帝国大学一覧従明治二十八年至明治二十九年』丸善株式会社書籍店,431〜
490頁。大蔵省篇(1889)『工部省沿革報告』,405〜408頁。
れた。ワッデルが担当したのであろう。
運動学及機工論は関谷清景が担当した。関谷の申報ではその授業名は「機工学」とあ り,「機工学ノ主眼ハ機械ニ用フル各種ノ運動ヲ生スル装置ヲ研究スル者22)」としてい る。ユーイングや谷口が担当した
3
年生用授業の機械学(表3)と同じ意味で,現代で
は機構学と呼ばれている分野である。1883年度には2
年生用授業科目にもなった。関 谷は東京開成学校工学科中級(2年生)在籍時の1876
年6
月,同学科の谷口や増田礼 作,化学科などの7
人とともに5
年間にわたる海外留学を命ぜられた。ロンドン大学に 留学することになったが23),留学の成果をあげることができずに,1877年の春頃に肺 患を発症して同年10
月に帰国した。しばらく療養したあと,神戸師範学校に就職して 物理・化学などを教え,1880年4
月に東京大学理学部工学科に着任した24)。1880年度 の『東京大学法理文三学部一覧』には機械工学准教授として関谷の名前が掲げられてい る25)。この年度には授業を持たなかったようであるが,1880年度ユーイング申報に関 谷はユーイングの地震学の研究も「補助」し,「実験室試験ノ際ニ尽力セラレシハ予ノ 深ク喜フ所ナリ26)」とある。表
3
は工学科学生向けの授業科目表なので,この表には掲載されていないが,1881 年度と1882
年度には採鉱冶金学科学生を対象に重学の授業を行っている。実際の授業 内容は,物質強弱論,結構強弱論,図画推算術,機械学,図画作成,「蒸気機関水車風 車等ノ構造」,「更ニ各種喞筒及其他一般用水器械」などの授業を行うばかりか,「本学 部内ニ備フル機械及ヒ府下ノ工場ニ就テ其講授シタル諸機械并ニ動源機ノ用法27)」の授 業も行った。機械工学科の授業をほとんどカバーしている。「終始講学ト実物ト相比較 研究スルヲ目的28)」ともしているが,全体に理論よりも実地を重視した授業であり,高 度の専門知識がなくても行える授業であったであろう。ちなみに関谷は帝国大学発足時 に理科大学の地震学教授に就任した。工学科向け重学の担当教員の変更があった。ユーイングが
1883
年6
月に退職するに ともない,ノット(Cargill G. Knott)が担当することになった。彼は,ユーイングより1
歳年下の1856
年生まれで,彼と同じエジンバラ大学に1872
年に入学してP・テイト
のもとで物理学や電磁気学を学んだ29)。1879年にテイトの助手となったが,1883年9
月に東京大学理学部の物理学教員として着任し,ユーイングの授業を引き継ぐことにな った。スミスもエジンバラ大学で工学教育を受けているので,エジンバラ大学人脈が続 いている。しかしノットは物理学科(1881年に数学物理学及星学科がそれぞれ3
学科 に分離)教授であったため,重学のシラバスは機械工学コースシラバスから外されるとともに,工学科ばかりでなく物理学科学生も教えることになった。「物理学教師ノット 申報30)」には「該学年ノ初メニ当リ夥多ノ学生一時ニ退学ヲ命セラレシヲ以テ各級授業 ニ著ル(シ脱カ)ク不満足ノ状況ヲ呈セリ,然レトモ在学々生ノ学業進歩ハ一般ニ賞誉 スヘク」とある。ノットは,1883年
10
月に発生した「明治十六年事件31)」により多く の学生が退学を命ぜられたことに不満を述べているが,学生たちの学業進歩を称賛して いる。前掲表1
から,2年生が工学科に2
人,物理学科に4
人在籍していたことが確認 できる。彼らのうち「殊ニ二三ノ輩ハ卓越ナリキ」とする。3
年生用授業科目は大きく変化している。1882年度までは4
年生において機械工学か 土木工学かを撰択することになっていたが,1883年度には3
年生からコースを撰択す ることになった。表3
のように,機械図及機械計画と機械学及工場諸工具は機械工学 コース学生に,機械図と道路及鉄道構造法は土木工学コース学生に履修が義務づけら れ,他の科目は共通科目であった。このような改革を断行したのはワッデルではなかっ たろうか。前述のようにワッデルは冶金学,衛生工学の開講を実現したばかりでなく,陸地測量 授業の時間拡大やユーイングの授業の肩代わりを行い,学部内で影響力を強めていたは ずである。彼は
1882
年度申報で授業時間が足りないことを何度も歎いている。申報の 最初から「本学年中余ノ担任セル高等土木工学ノ教導ニ関シテハ,時間不足ノ故ヲ以テ 予期セシ如ク充分ニ之ヲ講明スルヲ得ス32)」としている。さらに,工学科の教育内容を 充実させるためには1
年生から測量材料論などの授業を始めなければならないが,「若 シ不都合ナリトセハ宜シク学生ヲシテ予メ第一年ノ初期ニ在リテ各自ニ其専門ヲ撰ハシ ムルカ,或ハ土木及ヒ機械工学科ノ為メ殊ニ一年ノ課目ヲ増加スヘキナリ」としてい る。1883年度の1
年生用理学部共通科目には変化がなかったので,後者案は理学部全 体では受け入れられなかったが,前者案が,1883年度工学科3
年生におけるコース選 択制につながったと考えられる。1883
年度の機械工学の授業科目を見ていこう。表3
では3
年生用授業科目について1882
年度と1883
年度とを対応させている。これらのうち熱動学及力源機,機械図及機 械計画,機械学及工場諸工具を担当したのが,谷口であった。ユーイングが退職した1883
年度には機械工学コースでは中心的役割を果たしていたであろう。しかし,谷口 の申報によると,「第一学期中両工学生都テ七名故アリテ退学ヲ命セラレタルヲ以テ,止ムコトヲ得ス暫ク授業ヲ中止スルニ至33)」った。上述の事件のため前年度に比し在籍 者数が激減している(表
1)。2
学期から1
人34)が再入学を許され授業を開始したが,「予期ノ如ク充分ニ其課程ヲ全ウスルコト」はできなかった。このためか,谷口の申報 では
3
科目の具体的内容について全く触れられていない。熱動学及力源機は,ユーイングの熱動学及蒸気機関学とほぼ同じであったと考えられ るが,力源機の中には蒸気機関以外の原動機も含まれていたのであろう。機械図及機械 計画に関して,前述のように,谷口が
1882
年7
月まで機械学授業の中に含まれていた 機械計画を,機械図と合わせて1883
年度の授業としたものであった。1882年度の機械 図担当教員は小島慶之であった。彼は大学南校出身者で,建築学を学ぶためにコーネル 大学に私費留学した経験を持ち,1881年の帰国と同時に機械図と造営学を担当し た35)。谷口は小島とは別の機械図を機械計画とともに1
つの授業として開講した。機械 学及工場諸工具は,関谷が行った2
年生用運動学及機工論と同じ内容の授業だとみられ るが,担当教員が谷口で3
年生用授業でもあることから上級者用授業であったろう。1883
年度3
年生の科目別授業時間(表4)を見ると,機械図及機械計画の総授業時間
は全体の
23.5% を占めているが,他の 2
科目は半分の11.8% しか占めていない。授業
科目を講義科目と実習科目に分けると,前者科目は実習科目にあたり,相対的に多くの 時間を費やすことになったのであろうが,機械学及工場諸工具も実習科目に相当してい よう。1883年度機械工学コースシラバスには「此ノ科ヲ履修スルノ間ハ学生ニ常ニ工 学職場ニ備フル工具及ヒ機械ヲ示スヲ要ス36)」とあることから,この授業には多くの時 間を要したと考えられるが,表
4
のように,週2
時間,総授業時間72
時間,全体の11.8% であった。また 2
年生の週授業時間合計が29〜35
時間であったのに対して,3年生のそれは
17
時間にすぎなかった。また工部大学校や帝国大学工科大学と比較して も37),1883年度の工学科機械工学コース3
年生の週17
時間という授業時間は少なすぎ る。実習などを含む実際の授業時間を2
年生と同じだとすると,授業時間の半分近くは 実験や実習もしくは実地研修(学校内外)に充当されていたのではなかろうか。道路及鉄道測量及構造は
1878
年度からワッデルの前任者チャップリン(Winfield S.Chaplin)が担当していたが,1882
年度にワッデルがこの授業を受け継いだ。1881年度までの土木工学コースシラバスには,この授業科目に対応する授業内容が記されてい た38)。ワッデルの
1882
年度シラバスの記述は異なる文章であったが,道路と鉄道に関 する授業内容が掲載されていた39)。ところが1883
年度にはこの授業は道路及鉄道構造法(表
3)と名称変更されて土木工学コース 3
年生専修科目となり,その代わりとして両コース共通の橋梁及屋背構造論が加えられた。橋梁構造は元々チャップリンが土木工 学コース
4
年生の授業として担当し,1882年度からワッデルの担当となった授業である。1882年度の科目名は橋梁構造のままだったが,同年度の日本語シラバスには「第 四年ノ課程ハ橋梁学・屋頂学・治水学・拱学・擁壁及ヒ水車構造法等ナリ40)」とあり,
英語シラバスには「The fourth year courses consist of Bridges and Roofs, Hydraulics,
Arches, Retaining Walls, etc., and Hydraulic Motors.
41)」とあることから,実際には橋梁学 および屋頂学(Bridges and Roofs)もしくは屋背構造論42)が同時に教えられたものとみ られる。1883年度のシラバスも1882
年度とほぼ同じ文章であったが,3年生用授業と なった。橋梁及屋背構造論は土木工学コース学生だけでなく機械工学の学生にとっても重要な 授業であったので,少し言及しておきたい。1883年度日本語シラバス43)(かっこ内の 記述は
1882
年度英語シラバス44))には「橋梁学及ヒ屋頂学ハ特別ニ注意シテ授業スル 者ニシテ,該学生ハ凡テ二三ノ大道鉄橋二三ノ大道(highway)合材橋(combinationbridge)・一 二 ノ 鉄 道 鉄 橋・仝 合 材 橋・仝 木 材 橋 ノ 応 逼 力 表(complete diagrams of stresses and sections),用材表及予算表(bills of material and estimates of cost)ヲ作ルヲ
要ス」とある。幹線道路や鉄道に架かる鉄橋,木材橋,もしくは鉄と材木からなる合材 橋に関して,橋梁の断面図を描き,その断面図上に,橋梁の各種材料部品や接合部に発 生する応力を記載した図面を作成することを要請したと理解する。「応逼力」は現在で は応力のことで,1882年度日本語シラバスでは「応力」という訳語が使用されていた。後述の物質強弱論や結構強弱論と同系統の授業内容であった。技術的問題だけでなく,
これらの橋脚に関する「用材表及予算表」を作成しなければならない。また別の箇所で は「最モ廉ナル橋梁ヲ計画シ仕様書ヲ作ルヲ要ス」としている。
ただ表
4
のように,機械工学コース3
年生にとって,この授業時間は年間を通して週2
時間,総授業時間は72
時間で全体の11.8% を占めるにすぎなかった。これに対して
土木工学コース専修となった上記の道路及鉄道構造法は,表7
のように,週8
時間,総 授業時間は288
時間で,土木工学コース3
年生総授業時間の34.8% を占めた。機械工
学コース3
年生にとって大きな負担が回避された分,前述のように授業時間が減少し残 りの時間を実習などに回すことができたと推測する。機械工学コース
4
年生に関して,表3
のように,1882年度まで卒業論文とともに機 械計画製図実験(Machine Design with Practice in making Working Drawings)(かっこ内 は1882
年度英語シラバス45)),材料試験(Experimental Work),機械所実験(WorkshopPractice)の 4
科目が掲げられているが,実際には明確な授業として実施された形跡が見られない。4年生用の機械工学コースシラバス(表
11
最下欄参照)に「機械工学生ハ第三年ノ終ニ於テ直ニ横須賀造船所ニ遣ハシ(will be sent immediately to the work-
shops of the Naval Dockyard at Yokosuka),凡ソ九カ月間該諸工場(the various depart- ments)ヲ経履シ親ク其各業ヲ執リ以テ機械工具ノ使用ヲ実験セシメ(gaining practical experience of the work done in each by actually taking part in it),既ニシテ校ニ帰ルノ後此
残余ノ第四年中専ラ機器ヲ計画シ及ヒ卒業論文ヲ作ルニ従事セシム(spend the remain-der of the Fourth Year in designing machines, and in the preparation of the Graduating the- sis)」とある。機械所(Workshop)は横須賀造船所を指し,機械所実験は横須賀造船所
での実地研修を意味していよう。研修後の数か月間は機械計画を行うとともに卒業論文 の作成に従事するということであるが,「機器ヲ計画」(designing machines)する作業が 機械計画製図実験に相当したのであろう。材料試験については不明だが,ユーイングが その前任者のスミスの物質強弱論における材料試験に批判的で,4年生に回すことにな り46),よく吟味されないまま授業科目として掲げられたのではなかろうか。実際に4
年 生がこの授業を受けたのではなかったろう。このような曖昧な授業科目のうち横須賀造 船所における機械所実験だけが,1883年度4
年生用授業科目として残り,材料試験は 削除され,機械計画製図実験は機械図及機械計画として3
年生用科目となった。表1
や 表6
のように,1882年度4
年生は7
人在籍していたが,このうち比較的多くの3
人が 機械工学コースを選択したことを契機に,当時の機械工学コース授業の実情に合わせよ うとして1883
年度の4
年生用授業が整理されたのであろう。1884
年度以降については資料的制約のために,詳細な変化についてたどることがで きないが,1884年9
月〜1885年7
月に関する「教員受持学科表47)」(以下,受持科目表 とする)が見いだせた。表3
などに掲げた授業科目は原則として9
月から始まる授業に 先だって決められたものであるが,受持科目表は授業開始後になされた授業科目の修正 や担当者の変更・追加などを反映したものであろう。表8
は1882
年度授業科目表と同表7 1883年度土木工学コース3年生用授業科目の学期別週授業時間,年間総授業時間,比率
授業科目 授業期間 1学期 2学期 3学期 年間総授業時間 比率 熱動学及力源機
物質抗力論 橋梁及屋背構造論 道路及鉄道構造法 物理学
機械図 独乙語
1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間 1年間
2 2 2 8 3 4 2
2 2 2 8 3 4 2
2 2 2 8 3 4 2
72.0 72.0 72.0 288.0 108.0 144.0 72.0
8.7 8.7 8.7 34.8 13.0 17.4 8.7
合計 23 23 23 828.0 100.0
出所:表3と同じ。
年度の受持科目表48)の対応関係を見たものである。2年生ではほぼ対応しているが,多 くの授業科目において科目名が一致しない。物質強弱論が物質抗力論となっているが,
物質論の誤りではなかろうか。3年生科目については対応しない科目もいくつか見受け られる。結構強弱論が物質抗力論に代わり,2年生と同じ授業が
3
年生向けにも行われ たことになる。ボールが授業を担当した,統計処理法の一種の最小自乗法は非公式の授 業ではなかったろうか。ユーイングが担当したはずの機械学については受持科目表には 現れていない。受持科目表の調査が1882
年度遅くに行われ,すでに機械学の授業が終 了していた可能性もある。このように資料として収載基準の異なる受持科目表と授業科目表とを一律に比較する ことには問題が残るが,1883年度授業科目表と
1884
年度受持科目表を対応させた表9
から次のことが指摘できよう。それまでの受持科目表には工学科の括りで記載されてい表8 1882年度工学科授業科目と同年度学科別受持科目・担当教員
学年 授業科目 工学科
受持科目 担当教員
2年生 数学 重学 物質強弱論 陸地測量 物理学 機械図 独乙語 英吉利語 冶金学
数学 重学
物質抗力論(物質論)
陸地及鉄道測量法 物理学
機械図 独乙語 英文学 鉄鉱冶金術
三輪桓一郎 ユーイング ワッデル ワッデル 山川健次郎 小島憲之
レーマン/オットセン 外山正一
岩佐巌
3年生
結構強弱論 熱動学及蒸気機関学 機械図
道路及鉄道測量及構造 物理学
機械学 独乙語
物質抗力論 熱動学 機械図
橋梁道路鉄道構造法 物理学
機械計画 独乙語 測地術 最少自乗数
ワッデル ユーイング 小島憲之 ワッデル 山川健次郎 谷口直貞
レーマン/オットセン 二見鏡三郎
ボール 4年生
機械工学
機械計画製図実験 材料試験 機械所実験
機械工学 ユーイング
4年生 土木工学
橋梁構造 測地術 海上測量 治水工学 造営学
拱基礎橋梁構造論 測地術
治水工学 建築学 最少自乗法
ワッデル 二見鏡三郎 ワッデル 小島憲之 ボール 出所:東京大学編(1883)「東京大学第三年報」,225頁。表1脚注参照。
たのが,1884年度では機械工学科,土木工学科と別々の学科として掲載されていた。
これに応じて専門課程が始まる
2
年生の科目も両学科では異なっている。1883年度の 陸地測量及地誌図は1884
年度では陸地及鉄道測量術と改称されて土木工学科専修とな り,2年生で新たに加わった測地術も土木工学科専修となった。一方,関谷が担当する 蒸気機関学は機械工学科の専修となっている。1883年度において専修制が3
年生から 開始されたが,1884年度では2
年生から導入されている。実質的に1884
年度に2
学科 が成立していたといえよう。3年生についても熱動学,機械計画は機械工学科専修で,ワッデルの担当する橋梁隧道構造論については,隧道を除く橋梁構造論のみが機械工学 科専修であった。土木工学科に関して,機械工学科
2
年生が学んだ蒸気機関学を3
年生 で履修し,機械図と測地術が専修となっている。機械工学科4
年生については特定の授 業科目が定められていなかったため,授業科目と担当教員名の記載はなかった。表9 1883年度工学科授業科目と1884年度学科別受持科目・担当教員
学年 1883年度授業科目 機械工学科(1884年度) 土木工学科(1884年度)
受持科目 担当教員 受持科目 担当教員
2年生 数学 重学 物質論 陸地測量及地誌図 物理学 機械図 独乙語 英吉利語* 鉄鉱冶金法 衛生工学 運動学及機工論
数学 力学 物質強弱論
物理学/物理学実験 機械図
独乙語
蒸気機関学 キネマチックス,メカニズム
三輪桓一郎 ノット ワッデル
山川健次郎/田中館愛橘 小島憲之
岩佐立太郎
関谷清景 関谷清景
数学 力学 物質強弱論 陸地及鉄道測量術 測地術
物理学/物理学実験 機械図
独乙語
キネマチックス,メカニズム
三輪桓一郎 ノット ワッデル ワッデル 二見鏡三郎 山川健次郎/田中館愛橘 小島憲之
岩佐立太郎
関谷清景
3年生
物質抗力論 熱動学及力源機 機械図及機械計画△
橋梁及屋背構造論 物理学
機械学及工場諸工具△
独乙語 機械図○
道路及鉄道構造法○
物質抗力論 熱動学 機械計画 橋梁構造論 物理学/物理学実験 独乙語
治水工学
ワッデル 谷口直貞 谷口直貞 ワッデル
山川健次郎/田中館愛橘 岩佐立太郎
ワッデル
物質抗力論 蒸気機関学 橋梁隧道構造論 物理学/物理学実験 独乙語
機械図 測地術 治水工学
ワッデル 関谷清景 ワッデル
山川健次郎/田中館愛橘 岩佐立太郎 小島憲之 二見鏡三郎 ワッデル 4年生
機械 工学
機械所実験
4年生 土木 工学
拱及擁壁構造法等 測地術 治水工学 造営学**
隧道構造論 基礎構造論
拱基礎構造法 測地術 治水工学 建築学 応用地質学 最少自乗法及星学実験
ワッデル 二見鏡三郎 ワッデル 小島憲之 巨智部忠承 寺尾寿
出所:東京大学編(1885)「東京大学第五年報」,461頁。表1脚注参照。
1885
年12
月15
日,「理学部学科中機械工学・土木工学・採鉱冶金学・応用化学等ノ 諸学科ヲ分割シテ更ニ工芸学部ヲ置キ,(中略)但理学部付属造船学科ハ自今工芸学部 ノ付属トナス49)」こととなった。1885年7
月段階で理学部には9
学科が存在していた が(表1
参照),このうち5
学科が新たに設立された工芸学部に配置された。化学科か ら分離された応用化学科,工学科が二分割されて成立した機械工学科と土木工学科が,他の
2
学科とともに工芸学部に属した。公式上は工芸学部の設立時の1885
年末に土木 工学科と機械工学科が成立したが,実質的には1884
年度に分割されていたといえよう。2
機械工学コース授業内容の変化前 稿 で は50),機 械 工 学 コ ー ス 授 業 科 目 の う ち,重 学(Mechanics),物 質 強 弱 論
(Strength of Materials),結構強弱論(Theory of Structures),熱動学及蒸気機関学(Ther-
modynamics and the Steam Engine),機械学(Mechanism)について,ユーイングの前任
者のスミスのシラバスと比較しながら同一点や相違点を検討した。機械工学コースシラ表10 各年度の機械工学・土木工学コースシラバスに掲載された,2年生用授業内容(かっこ内は表12〜表14に 示した教科書・参考書番号)
1881年度 1882年度 1883年度
重学:ユーイング(表12-2) 重学:ユーイング(表13-4) 重学:ノット(表14-1)
本原単位及ヒ因生単位○単位ノ保存方○測 度方○実質・速度・加速度等ノ説○ベクト ル(ベクトルハ方位及ヒ長サヲ示ス線)ヲ 以テ表示スル方○ホドグラフ(ホドグラフ トハ点ヨリ発スル速力ノ大サト方位ヲ示ス 線ノ一端ヲ接続スル弧線ナリ)牛薰氏ノ運 動律○応逼力○運動理論・動勢学及ヒ静勢 学区別
静勢学(力ノ組成及分素○力率○双力○散 布力○重心○等布力及等変力○平面ノ惰力 率○液気両体ノ抑圧○水圧機等○浮体ノ平 均○摩擦○摩擦定固○帯類ノ摩擦 動[静]!勢}学(力ノ完全測度○勢力及 ヒ動作○勢力ノ保存○動力率○衝突○分子 ノ回転○円錐形的擺振○単純循軌道○単純 擺子○固体ノ回転○受圧心ノ性質○集成擺 子○実質ノ[運]!通}道○ダランベル氏 ノ律○抵抗力及ヒ惰力ヲ導点ニ移動スルコ ト
運動理論(運動理論中ノ雑律○瞬時軸○回 転及直線動ノ組成○瞬時軸画線○自由運動 及緊縛ノ度○連鎖機ニ依ル直線動 以上渾テ工学科!採鉱学}物理学科数学科 及星学科ノ諸学生ニ履修セシメ,且ツ之ニ 重学ノ理ヲ工学上ニ応用スルコトヲ塾習セ シメンカ為メ時々其適実ノ問題ヲ授ケ,教 室或ハ私室ニ於テ之ヲ解明セシム(後ノ諸 科モ亦然リ
本原単位及ヒ因生単位○単位ノ保存方○測 度方○実質・速度・加速度等ノ説○ベクト ル(ベクトルハ方位及ヒ長サヲ示ス線)ヲ 以テ表示スル方○ホドグラフ(ホドグラフ トハ点ヨリ発スル速力ノ大サト方位ヲ示ス 線ノ一端ヲ接続スル弧線ナリ)牛薰氏ノ運 動律○応逼力○運動理論・動勢学及ヒ静勢 学区別
静勢学(力ノ組成及分素○力率○双力○散 布力○重心○等布力及等変力○平面ノ惰力 率○液気両体ノ抑圧○水圧機等○浮体ノ平 均○摩擦○摩擦定固○帯類ノ摩擦 動静学(力ノ完全測度○勢力及ヒ動作○勢 力ノ保存○動力率○衝突○分子ノ回転○円 錐形的擺振○単純循軌道○単純擺子○固体 ノ回転○受圧心ノ性質○集成擺子○実質ノ 運道○ダランベル氏ノ律○抵抗力及ヒ惰力 ヲ導点ニ移動スルコト
運動理論(運動理論中ノ雑律○瞬時軸○回 転及直線動ノ組成○瞬時軸画線○自由運動 及緊縛ノ度○連鎖機ニ依ル直線動 以上渾テ工学科・物理学科・数学科・及星 学科ノ諸学生ニ履修セシメ,且ツ之ニ重学 ノ理ヲ工学上ニ応用スルコトヲ塾習セシメ ンカ為メ時々其適実ノ問題ヲ授ケ,教室或 ハ舎室ニ於テ之ヲ解明セシム(後ノ諸科モ 亦然リ
工学物理学第二年学生ニ授クル講義ノ目即 チ左ノ如シ
運動学ノ初歩○スペース及ヒ時○位置○位 置ノ変移○位置変移ノ割○速度・スビード 速度ノ変更○加速度○力学○質量即チ第三 本原単位ノ論○動力学及静力学ノ区別○質 点力学○運動量・力・運動勢・位置勢○牛 董氏ノ運律○二質点運動ノ場合○ストレス
○衝突力○球体ノ衝突○堅体力学○中心及 質量中心ノ緒論○能率○進行及回転○平面 運動学○平等(一定点ヲ有スル場合)○並 行力ノ合力○遇力○三行○衆力ヲ単力及遇 力ニ約スルコト○中軸○平等○摩擦ノ効果
○安定・不安定・及随処平等○運動堅体ノ 運動勢○慣性率○運動学上一般ノ変位及回 転 ヲ 論 ス○角 動 力○衝 突 心○振 子(単・
合・複)○不堅体力学○ストレス及歪○弾 性○流体力学○衆体ノ運動ニ関スル力学上 普通ノ方程式