Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
駒 澤短期大學 佛教論
集
第5
號1999
年10
月 (1
)svalak
$
ana
とsamanyalak
$
ana
に
つ
い
て
(
1
)
木
村
誠
司
1
仏 教 論 理 学派
す
な わ ちディ グナー ガDignaga
(480
−540
)や ダル マ キー ル ティDharmakirti
(
600
−660
)
に連
なる学 流
の思想
を論 ず
る時
、 必ず
とい っ て よい ほ ど登場
す
る一対の 術語が あ る。 そ れ は、 svalak $apa とsamanyalak $apa で ある。 この 一対の術 語は、 その 重要 さ故、 これ まで様々 な研 究 者に よっ て取 り上 げ ら れ た。 それ らの研 究 者は、
多
くの 場 合、ダル マ キ ー ル テ ィの 学 説 を通 じて、デ ィグナ ー ガ の 意 図 を解 釈 す る傾 向 を見せ て い る。 で は 、こ の よう
な傾 向 を生んだ理 由は何
だ ろ うか 。現代
の代
表 的研 究 者の 一人 戸崎 宏正 氏 の解
説に その理 由 を見る こ とが で き る。 戸崎 氏
は、 次の よう
に 述べ て い る。 イン ドで は、 正 しい 知 識の 源泉は何種類か とい う問題が認識 論の 重要 なテ ーマ と し て論 じ ら れ る。 仏教認 識 論は、 上 述 し た ようにデ ィ グナーガ以 来 そ れ を二種 類に 限 定し よ うとする が、 そ れ は どの ような根 拠に よる の で あろ うか 。 ディ グナ ー ガ は 、 対 象(
所 量 )が 二 種類、 すな わち個 物(
自相) (
svalaksana)
と 一般 概念 (共相 )(……
91pguxgLlg1sgal
!
gk
) との 二 種 の み で ある か ら、 知 識 を もた ちす 認 識 も二 種 類の み 、 す なわ ち個 物 に対 して は 直接 的 な知 覚の み、 一般 概念に対し て は間接的な推理の み であ る とい う 。 デ/ グナ ーガの こ の 主張 は、 他の 学 派が知 識の 源 泉 として、 知 覚 、 推理 の ほ か に聖 者の 言 葉による知 、 比喩に よ る知 な ど多くの 認識 手 段 を挙 げた り、 あるい は直 接 知覚の み しか 認 め ない の に対 し、 対 象の 数 を限 定 す るこ とに よっ て、 そ れ らの 認 識 手 段の 数を 限 定 した とい う点 、 ま た た とえば 正 理学派な ど が、 対象に よっ て は 、 同一対象を そ れ ら認 識 手 段の い ずれ もが認識しえる とい うの に対 し、対 象 を二 種 に峻 別 するこ と に よっ て 、その ようなこ と が ありえ ない こ とを明らかに し た こ とな ど、 そ れは そ れ で 意味 を もっ て い る。 しか し、 こ の 「対 象二 種 類→ 知識の 源 泉二 種 類」 の 主張に は、 なぜ対象は二 種 の み なの か。 また な ぜ 個 物に対 して は知 一320
一Komazawa University
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(
2
)svalak $a胆 とsamanyalak §apa につ い て (
1
)
(木村)
覚の み、 一般 概 念に対 して は推 理 の み とい うように定 ま るの か 、 な どの 問 題が 積 極 的に 論証 さ れて お らず理 論上 の あい まい さ を残 し て い る。 これに 対 して ダル マ キール ティ は 、デ ィ グ ナーガの 右 の 説 を踏襲 しなが ち も、 さ ら に かれ独 自の 新 しい 理 論 を展 開 して 、 上 述の あい まい さ を解消 して い る 1) 。 (下 線 部 筆者
)
戸 崎 氏の 述べ るよう
に 、 デ ィ グナ ー ガに は 、確か に 、「理論上 の あい まい さ を残 し て い る」 と見 られて も仕 方の ない面がある。 彼は、 svalakSapa と samanyalak − $apa に つ い て、 我々 の 満 足の い くよう
な詳 しい 説 明 を与
えてい ない か らであ
る。 彼 の語
る内容
が、あ
ま りに少なす
ぎるこ とだ けは、 紛れも
ない事実
である 2) 。 しか し、ディ グナー ガ本
人は、 戸崎
氏の指摘 す
るよう
な意
味で、 厂 理論上
のあい まい さ を残して い る」という
こ とを 自覚 してい たの だ ろう
か。 戸崎
氏が上で示 したデ ィ グ ナー ガの 認 識 論の 独創
性は 、今
や、学
界の 通 説 と も言 え る もの である が 、同氏の 解説
を皮
相 的に見れ ば 、 デ ィ グナー ガ は 、独創 的 な認 識論 を「理 論 上の あい まい さ を 残 して 」主張 し たこ とに な ろう
。 だ が 、 そ れ は、 デ ィグナ ー ガ に と っ て 、 と んだ言い が か りか
も し
れ ない 。 svalakSapa とsamanyalak §apa は、 デ ィ グ ナー ガの
時
代、 仏教 思
想 界特にア ビダル マ 哲学
にお い て 、すでに、 完 全に定着
し た術
語だか ら である。 当時の 学 僧 達の間で、 ご く常 識 的に使
用 さ れてい る術 語 を改め て、 詳し く 説明す
る必腰
が あるだ ろう
か。 も し、 その術語
に新解
釈 を加
え る場合
で も、簡
単
な説
明 だけで 、事
は足 りる はず
で ある。 デ ィ グナ ーガ を取 り巻 く思 想 的 環 境は 、 それ を許 すほ ど成 熟 したもの だっ たの で は ない だ ろう
か 。 ま た 、ディグナーガ に は 、ア ビダル マ 哲学
を代 表 する文 献AbhidharmaleoSa
『倶舎論
』 に対 す
る注釈が ある3)。 こ れ は、 彼が ア ビダル マ哲学全般
に深 く通
じてい た こ と を予 想させ る もの であろう
。 その 学 殖に基づ い て、 厂svalak $arpa とsamanyalakSaqa につ い て は、簡
単な説 明だけで十 分で あ り、 そこに理 論 上のあい まい さはない 」という
判 断 を下 した とし て も、 何 ら不 思 議で は ない 。 お そ ら く、アビダル マ 哲 学の影 響 を重要 視 す るこ とに関
して は、 戸崎
氏も異論
はない と思わ れ る。 同 氏は 、次の よう
に述べ てい るか らで ある。 量(
知識の 源泉)
を現量と比量との 二 種 に限定するこ と は、お そ らく 『論軌 』 にす で にな されて い たで あろう
。 陳 那 は さ らに、 その 限定の根拠と して、対象
が 二種(
自 相と共 相)である こ とを示 して い る。 自相と共 相に よっ てすべ ての 対 象 を包摂す る 仕方は、 す で に以 前に (た とえ ば 『大 毘 婆沙 論』 大正27
、217
以 下)あっ た が 、 そ れ 一319
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
svalakSa ロa とsamanyalakSana につ い て (
1
)(木 村 )(
3
)を 陳 那はか れの 認 識 論に採 用 した の で あろ う4) 。 この 見
解
は、先
の解
説 と は 一 見、 矛 盾 してい るよ うに 見 える。 しか し、 ダル マ キ ー ル テ ィ の学 説
を視
野に入 れて、 ディ グナー ガの 学 説 を考察す
る時、先
の解
説が的確 な もの で ある こ とは 間違い ない の で あ り、 ディ グナー ガ の学 説だ け を論ず
る場合
には 、後の こ の見解
は きわ め て妥 当 なも
の なの であ
る。我
々 は、 戸崎
氏の 二っ の文 章か ら、考察対象
の範 囲
を明確
に 限定
しな けれ ば な らない という
方 法 論 的示唆
を 受 けたこ とにな ろう
。 ダル マ キ ー ル テ ィ という強
烈 な個性 を持
つ思想家
の軛
を離
れて 、ディ グナー ガ を評価 し、その上 で、ダル マ キール ティ の学
説 を考察
する こ と が、 お そ ら くは 、正 しい方法
なの で あ ろう
。 しか し、 考 察の 範 囲 をデ ィ グナ ー ガに 絞 っ た としても
、彼
以前
の哲学
を明 らか に しな けれ ば、正 当 なデ ィ グナ ーガ評価が あ りえな い こ と もま た確
か で あ る。 筆者
は、 「デ ィ グ ナ ー ガ の 語 る ごく短
いsvalak $arpa とsamanyalakSa ロaの 記述が、 は た し て 、真に 独
創 的
な もの であっ た の か 、 そ れ とも、 従 来の 説を、 単に 、 踏襲
し た もの にす
ぎ ない の か、 あ るい は、 何 ちか の 改変 を加 えた もの であっ た の か」こ の 点につ い て、 明確
な結論
を得
よう
と思う
の であ る が、 その 場 合、 彼以前
の どの 哲 学 を取 り上 げ るべ きなの だ ろう
か。彼
の 主著
『集
量論 』Prama
’ n. asamuccaya が イン ド哲学 全 般 を論 ずる もの であるこ とを考
慮す
れ ば、 扱う
べ き対象
は 、限 りな く多
い 。 とりあ えず、仏教
に 限定す
れ ば、 どう
であろう
か。 現 在、デ ィグナ ー ガの 思 想的
立場
は、経
量部
・瑜伽行
派であ
るとす る の が通 説である。 となる と、そ れ らの 学派 の 文献にあ た るの が、 妥当 な道筋
で あろう。 だ が、 ディ グナ ー ガの svalak §apa とsamanyalak §apa 論は、 それ だ けか ら生
まれた
も
の で はな
い 。先
に、少
し触
れた よう
に、 ア ビダル マ 哲 学が 、ディ グナ ーガ に甚
大 な 影 響 を与 えて い るの で ある。 実 際、 ア ビダル マ 哲 学は 、svalaksana と samanyalak §aロaの 哲 学 とい っ て よい もの で ある。 例 え ば 、 その 大綱 要書
『大 毘婆
沙 論』Abhidharmamaha
’ vibhasya で は、 次の よう
に述べ て い る。 諸 法の 自相 ・共 相 を分 別 す る は、 是 れ 阿毘 達磨な り。 (1c
) 諸法の 自相 ・共相を分 別 し、無我の 像 を して分 明に顯 現せ しめ ん と して、 彼の 尊者 、 此の 論 を制造せ しな り。 (2b
) 復次に 、諸智の 彼 岸に、 此に 依 っ て 能 く到 る が故に 、 發智と名 く。 諸法の 自相 ・共 相 を開 發するこ と、能く此の 論の 如 くもの あるこ とな き が故な り。 (4c
) この よう
な伝統 を踏 ま えて 、 デ ィ グナ ー ガの 思 想が、形 成さ れ てい っ た とすれ ば 、 ア ビダル マ 哲学 を取 り上 げ るこ とは、 的外 れで はない で あ ろう
。本
稿では 、ア ビダ 一318
一Komazawa University
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(
4
)svalak §aOa とsamanyalak 爭apa につ い て
(1
)(
木 村)
ル マ 哲
学
に考 察
の焦
点 を絞
ろう
。 さて、考 察
に 入 る前
に、 デ ィ グ ナ ー ガ 自身
のsvalak $arpa ・samanyalak §aqa 論 を、 現
代
の 研 究者
が、 どの よう
に見
てい るのか 、 確認 して お く必要がある。 現 学 界の 通 説は、
先
の 戸 崎 氏の 解 説か ら容易 に知 ら れ る。 そ れ を整理す
れ ば、1
.svalak §aロa 一知 覚 (pratyakSa
)、II
.samanyalak §aロa 一推
理 (anumana )という
二 つ の 認識系列 を
ディ グ ナ ーガ が、思
い 描い てい た こ とになろ
う
。 この 二 系 列は、 svalak $ana 一推理 、 samanyalak $aロa 一知 覚 という
よう
な入 換 えが不 可能 な、全 く異質
な もの である。 その 点につ い て、ディグナ ー ガ研究
の第
一 人者服部
正 明氏は、 こう
述べ てい る。それ 〔独 自相 (svalaksana )〕が 一般相 (samanyalaksana )と根本 的に 区別される べ きであるこ と、 この 区別に対応 し て直接知覚 と概 念 ・推理 と が 区別さ れ、其の他 の 知 識 根 拠 は無 い とい うこ と、 更に一般 相 は ただ 主観 的に 構 想された もの に過 ぎぬ
とい うこ と は、正 し くディ グナ ーガ が創設 した見解であっ て、 ダ ル マ キ ール テ ィ は それを継 承 した の で あ る5} 。 (下 線 部 筆 者) これに、 「知
覚
とは 分別
を除外
し た もの である」(
pratyak
$amkalpanaodham
)
という
『集量論
』 の規定 を加 味す
れ ば6)、 知覚
一無分別
、推
理 一有分別
という
両者
の 性 格 も浮か び上が っ て く る。 この 知覚 と推理 の 明確
な区
別につ い て、 ア ビダル マ 哲 学 との 対比 を伝 える研 究が ある。 梶山雄 一 氏 は、 該 博な知 識に 基づ い て、次の よう
に述
べ て い る。 有部やニ ヤ ーヤ 学派の 体 系で は、 知覚 と思惟 (判 断お よび推理)との 間の 本質的な 区 別が無視さ れ や すい こ と に な る。 感 覚と思 惟 、 し た が っ て感覚の 内容 と観 念 と が 全 く異質的なもの であると して、 その 二つ の 載 然た る区別の 上に認 識 論 を展 開する の は経 量 部 、特 に デ ィ グナ ー ガや ダル マ キー ル テli
の い わ ゆ る仏教知 識 論学派の 系 統であるη 。 さ ら に 、 また 、服部 正明氏は 、知 覚の 無分 別 性に対
する デ ィ グナー ガの 経証に触 れ、有
分別知
と無
分別知
のう
ち ど ち らを、 より明瞭な知
とす
るか という
こ とを論
じ てい る。 こ こで も、 ディグナー ガ とア ビ ダル マ 哲 学が 比較 されてい る。 氏は、 以下 の ように述べ てい る。『 倶舎論』 に よ れ ば 厂これ は青で あ る」 とい う認 識に伴わ れ ない 純 然た る青の 識 知 は、 意 識に 相 応 する計度 (abhinirapaqa )と随 念 (anusmarapa )とを離れ た 自性分 別 (svabhava ・
Vikalpa
)に 外 な らない 。 こ の 自性 分 別は、 対 象 につ い て審慮 (upanid −hana
)
し決度(
sarptirpa )する能
力 を もたず、た だ対象
を観照 (alocana
)するの一
317
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
svalak §apa とsamanyalak $arpa に つ い て (
1 ) (
木 村)
(5
)みの 感性的直 観で あっ て、意識
作
用の 加わっ た計度 ・随 念分別に対比 して、 無分別 と云 わ れ るの で ある。 然 し此の ア ビダル マ の 文 は、右の 様なア ビ ダル マ に於 け る無 分別 をあら わすた め に 引 用 されたの で はない 。 青 を青た ら しめ てい る法 を 表象するこ とな しに、 青の 直 接 知 覚が あ るこ との経 証 と し て引用 さ れ た に過 ぎ な い の で ある。 ディ グナーガ に於 け る青の 識知 は 認 識の素 材として の 感性 的 直観で は な く、 却っ て 審慮 と決度 を もっ た分別の 知 一 概 念 よ りも一 層明晰 判 明 なもの なの で あ る8)。
以
上
の 研 究 成 果 を総 合 する と、ディ グナー ガの svalak §aロa ・samanyalak §apa 論は 、 次の
よ う
に な ろう
。1
.svalak $arpa 一知覚
一無分別
知一明瞭II
. saln5nyalak §apa 一推理 一有
分 別 知一不明瞭この
1
、II
を現代
の 通 説 とするこ とに異 論 は な か ろう
。 さ て、 上記の 諸研 究は、「デ
ィグナー ガ の svalak §apa ・sam 巨nyalak §apa
論
がアビダル マ 哲 学の そ れ と全く異な っ た もの であ ること」を もあ わせ て表明 してい る。 これ も、現
代
の通説
であ ろう
。 しか し、 それ らの通 説は、確定
的であ ろ うか。 筆 者は 、非常に疑 問に思っ て い る。 「有 分 別 知 と無分 別 知 を唆 別 する こ と」 「無 分別
知一 明瞭
、有
分別
知一不
明 瞭」、この 二点を
ディグナーガ が承
認 していな
い可能 性
があ
るから
であ
る。 ディグ ナーガ は、 この 二点に関
して、 ア ビダル マ哲
学 的解
釈に準 じて い た節が ある。 その こ と につ い て は 、す
で に、 論 じた こ とが あるの で 、 詳 しい 説明 は省
くが、肝心 な svalak $a ηa ・samanyalak 爭apa を扱う
こ と はで きなか っ た。 は た して 、筆 者
の見
解が 、 荒 唐 無稽 な珍 説の 類で あるの か 、 ない の か
9)
。 そ れ を 明 ら か に
す
る た め にも、 ア ビ ダル マ 哲
学
の svalak §apa ・samanyalak §apa を考 察 しな けれ ば な らない 。
実
の ところ、 その よう
な 必要
に せ ま ちれたこ とが 、本 稿 執筆
の動機
なの であ る。 とこ ろで、筆者
の知 る限 り、 これ までの 研究
に お い て、 ア ビダル マ哲学
のsvalak §apa ・samanyalak $arpa を網 羅
的
に論
じ たも
の は ない。 ア ビ ダル マ 文 献の一
部
を引用 し、 デ ィグナーガ と比
較 す
る という
形の研 究が 目立つ 。 これ まで辿 っ てきた研 究状 況 を考 えれば、 こ れは か な り奇 妙 なこ とで ある。 そ れ は 、 ともか く、
筆
者が被
見
で きた研 究に おい て、 アビダル マ哲学
の svalak §apa とsamanyaIak $apaが どの よ
う
に論 じられ てい るか 、次に見
てみ よう
。 少々 、 しつ こ い よ
う
で ある が 、手 を抜 け ない大
事
な作
業で ある。Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
6
) svalak §apa とsamfinyalakSaOa につ い て (1
) (木 村)II
始
め に、先
の戸崎
氏の見解
で指摘
された 『大 毘婆
沙 論』 の記
述を
トレー ス し よう
。 そ れ は 、次の 箇 所である。 問 、 何 等の 慧が 能 く、 諸 法の 自相 を分 別 し、 何 等の 慧が 能 く、 諸 法の共 相 を分 別 する や。 答、 一 物の 相 を分別 するもの は、 是 れ 自相 を分別 し、
多
物の 相 を分別 するも の は、 是れ共 相 を分別 する な り。 復次 に、 一々 の蘊等を分別す る もの は 、 是れ 自相 を分別 し、二 蘊、 三蘊 等 を分別 する もの は、 是 れ共 相 を分別 する な り。 復次に、 聞 思 所成の 慧は、 多く自相 を分別し、 修 所 成の 慧は、 多く共相を分別 す。 復次に、 十 六行相 に攝せ られ ざる慧は、 多 く自相 を分 別 し、 十六行 相 所 攝 の 慧 は、 唯、 共 相 を 分別す。復次に、 諦 を行 ずる時の 慧は、 多く自相 を分 別 し、 現 観 時の 慧は 、 唯 、 共 相 を分 別す。 復次 に、 諸諦 を別觀する慧は、 自相 を分別す と名け 、諸諦 を總 觀 す る 慧は、共 相 を分別 すと名 く。 問、此の 二 種の 慧は、 如 何に して知るべ きや。 答、 種 々 の 物が、帝青 寶に 近づけば、 自相現 ぜ ずし て 、 皆彼の 色に同ずる が如く、 共 相 を分 別 する慧 も知 るべ し亦 爾るを 。 種々 の 物が 、 帝青寶を遠ざか れ ば、 青 黄 等の色各別に顯 現するが 如 く、 自相 を分別す る慧 も知 るべ し亦 爾る を。 復次に、 日出 時に光明 遍 照 して 、 衆 闇 頓遺す るが 如 く、 共 相 を分 別する慧 も知 るべ し亦 爾 る を。 日出で 巳 りて、 漸 く衆物を照 し、 牆壁 ・隙 ・幽薮 、 皆 、 悉 く顯 現 す る が如 く、 自相 を分 別 す る慧 も知るべ し亦 爾るを 。 復次に 、 人の燈 を持 して、 初め て闇室に 入 り、 頓に 諸 闇 を破 る が 如 く、共 相 を分 別 する慧 も知 るべ し亦爾るを。 燈入 り 巳 り て、 漸 く瓶 ・衣 ・ 器 ・篋の諸物 を照 すが如 く、 自相 を分 別 す る 慧 も知 るべ し亦 爾 るを。 復 次に、 鏡の 遠 くを照せ ば、別 相、顯れ ざ るが如 く、 共相 を分 別 する慧 も知るべ し亦爾る を。 鏡 の 近 くを照 さ ば 、別相は 明 了 なる が如 く、 自相 を分別 する慧も知るべ し亦 爾るを。 復次に 、 人の 遠 くに山林
等
の 物を観 るが如 く、共相 を分別 する慧も知るべ し亦 爾る を。 人の 近 くに、 山林 等の物 を觀 る が如 く、 自相 を分 別 す る慧 も知 るべ し亦 爾 る を。 (217a
−b
) 戸 崎 氏は、 こ こ に 「自相
と共相
によっ てす
べ ての対象 を抱摂す
る仕方
」が示さ れ て い る、 と説い てい るの で ある。 確か に、 そう
か も しれ ない 。 しか し、氏 が詳しい 説 明を与
えて い ない の で、漠然
とその よう
な印象
を受 け る だけであ
る。 とはいえ
、 こ の記
述 は、 svalak §aロa とsamanyalak §a ロa を極
めて興 味 深 く対
比 してい る。 こ こ で は、 svalak §apa − 一物一 聞 思 所 成一 十六 行 相 不 所 攝一 行 諦 時一別 観諸
諦、 −315
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
svalak §aロa とsamanyalakSarPa につ い て (
1
)(
木村 )(
7
) samanyalak §arpa 一多物
一一修所成
一十六行 相 所攝
一現観時
一総 観 諸 諦 という
二 系列
が 描 か れ て い る。 こ の よう
な 対 比 が 示 さ れ る 一方 で、svalak §a ロa と
samanyalak $aロaは、 共に、 分 別の 対 象 と さ れて い るの である。 デ ィグナ ー ガの 二 系列 とは、 明 らか に
異
なっ てい る。 両者
の 比較検 討が欲 しい ところであるが 、貴重 な資料 を得
た という
こ とで、 とりあえず
、 次の 研究
に進
もう
。桂
紹 隆氏 は 、次の よう
に、極
めて 明快 な見
解 を示 してい る。 奇 妙なこ と に、ディ グナーガ は、個別相 (svalaksana )と一般相 (s五manyalak 韻ロa) に つ い て本格的な 説 明 を与えて い ない 。 お そ ら く両 語が、 ア ビダル マ 哲 学の 術語と して すで に よ く知 られて い た か らで あろ うe ア ビダル マ 哲学で は、 存在の 構 成要素 であるダル マ は、 個別相 と一般 相 と を保持 する と考えら れ て い る。 「地要 素 」とい う ダル マ を例に と れ ば、 個別相は、その 本質 (svabhava )で あ る 「 硬 さ」 で あ り、一 般 相は、他の 多 くの ダル マ に 共通に見 出され る 「無常 性 」 など である.しか し、 デ ィ グナーガ の理解す る個 別 相 と一般 相が 、アビ ダル マ の 見解 と必 ず し も一致 し ない こ と は注 意さ れ ね ば な ら ない 。ディ グナーガ は、 個別相 につ い て 、 「 そ
の もの と して認識され るべ きであ り 、 言語 表現され えぬ もの 」 とのべ るにす ぎない。
た とえば、暗 闇で何か に触れ る とき、 その 瞬 間の 知 覚 内容 を構 成する、 概 念化 ・言 語 化 以前の 存 在が個 別 相 で ある。 他方 、 その 対象が 「堅い 瓶 」 と同 定 さ れ 、言語表 現 さ れる とき、 こ の概 念知 の 内 容 を構 成 す る堅 さ や瓶 は、 知覚の 対 象であっ た特定 の 堅 さ、特 定の 瓶 で はな く、 多数の 事 物に 共通 して見 出さ れ る 堅 さ 一般 ・ 瓶一般に す ぎない 。 こ れが、一般 相 である。 した が っ て 、 ア ビダル マ の 個別相は、 そ れが、
「堅 さ」 等 と同定され る以上、 デ ィ グナ ーガ に とっ て 一般相 にほか な ら ない 。 ディ グナ ーガ の個別相は、 あ くまで 概念化 ・言 語 化 を拒 絶 する存 在で ある。
端的に 言っ て 、 個 別 相 と一般相 は、 わ れ わ れが 「個物」 (
individual
)
と 「普 遍」(universal )とい う語 で理 解 す るもの に、そ れ ぞ れ ほ ぼ相 当しよう1°)。(下線部筆 者 ) こ こ で、
桂
氏が 用い た ア ビダル マ 文献
は 『倶舎
論 』(
1
)
と それに対 す るヤ シ ョ ー ミトラYaSomitra
の 注釈(
2
)
であ り、 次の 二箇所 を取
り上 げ
てい る。(
1
) 身と受 と心 と法 をsvalak $a ロa とsamanyalak §apa の 二 つ によっ て観察 する。
そ れ らの svalak $aロa と は、 自性 (svabhava , rang
gi
ngobo
)の こ と で あ る。 samanyalak §aロa とは、 有為 〔法〕の 無常 性 、 有 漏 〔法 〕の 苦 性 、一切 法の 空 性
と
無 我 性の こ とで ある。
kaya
叩 svasamaiyalak §abhyalp
parik
§ate , vedana 叩 citta 叩dharmaip
§ca/
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
(
8
)svalak §aqa とsamanyalakSaqa につ い て (
1
) (木村)svabhava evai $
a
卑 svalakSarpam /s盃manyalak $arpamtu
anityata samsk τtanarn
,du
垣khata
sasrava ロam §Unyata
natmate sarvadharmaqam /11)(p
.902
,
ll
,8
−10
)
(
2
)「あ るい は法相に」 とい う 〔法相 と は〕svalak §aロana と samanyalak §ana の こ
とで あ り、
「地
界 は 堅 を相とする」 〔とい うの が svalak §aqa で あ り〕「〔地 界は〕無
常、苦で ある」 〔とい うの がsamanyalaksaqa 〕とい うこ の よ うなもの で ある。
dharmalak
爭arpa 珥 veti /svasamanyalakSa ロam −khakkhatalak
$apabprthividha
−tuh
, anityalpdubkham
ity
evamadi11)(
p
。12
,
ll
.29
−
30
)
つ ま り、 桂 氏は、 こ の 二 箇 所 を組み合わせ て、 ア ビ ダル マ
哲学
のsvalak $arpa ・samanyalak $a ロa を
代
表 させ たの で あ る。 しか し、 (2
)
は (1
)
の 対 応 注釈 箇所
で はない 。
(
1
)
と(
2
)
を安
易に組み合 わせ るのは、 早 計では ない だ ろう
か。(
1
)
と(
2
)
に お い てsvalak $arpa とsamanyalak §aロaが 同 じ意 味で使用 され てい るとい
う
保 証 もない の であ
る。 また、桂 氏
は、 ディ グナー ガ説 を描写す
る時
、svalak §apa→ samanyalak $aロa とい
う時間的
順序 を
示 すが 、先
に戸崎
氏が 提示 した 『大
毘婆
沙論』 で はsamanyalakSapa → svalak $arpa と さ れ てい た。 こ の よ
う
な相違に も留 意しなけ れ ば な らない は
ず
である。 桂 氏の見解
は、 通 説 を手
際 よ く紹介
した もの では ある。 しか し、 ア ビ ダル マ 文献の 一部 しか 利 用 しない ため 、 限 界 を有 するの であ る。 さ て、 次の 研究
に移
ろう
。野 武
美
彌子 ・瀧河郁久 ・坂井淳
一 の 諸 氏が 、 まず、取 り上 げ るの は 、 『倶 舎 論 』 の 次の箇
所で ある12)。 五識身
は、集
合 した もの(
samasta )を対象 とするの だ か ら、 samanya を対 象とす るこ とに な り、svalaksana を対 象 と し ない の で は ない か ? 処の svalaksana につい て、これ ら 〔五識身〕は svalak $arpa を対象とする と 認 め ら れ るが 、 事の svalaks3na
につ い て 〔認 め られるの〕 では ない か ら、 過失は ない の で ある。
nanu caivarp samastalambanatvat samanyavi §ayab
pafica
vijfianakayabpr
巨P
−nuvanti , na svalak $arpaviSayah ?
ayatanasvalak
$aρampraty
ete svalak $apavi $・aya
i
§yante
, na
dravyasvalak
§apamity
ado §ah /(
p
.36
,L
10
−p
.37
,1
.2
)
これに
先
行 す るもの として 、 『大 毘婆
沙論
』 の 次 の 箇所
をし めす
13 )。 問 、 云 何が 身識 は 、 共相の 境 を縁ずるや 、五識 身は、 自相 を縁 ずるを以ての 故に。 答 、 自相 に 一種 有 り。 一に は事の 自相 な り。 二に は處の 自相 な り、 若 し事の 自相に 依 りて説か ば、 五 識身は亦共 相 を縁ずれ ど、 若 し處の 自相 に依 りて 説か ば、即 ち 五 識は、 唯 自相の み を縁ずる が故に、 相 違せ ざるな り。 (65a
)313
一 N工 工一Eleotronio LibraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
svalak §apa とsamanyalak §aqa につ い て (
1
)(
木 村)(
g
) こ の 箇 所に対 して、 諸 氏 は、 次の よう
な分析
を下 す 14) 。こ こ で論 じら れ てい るような、 事 と処 、 な らび に 自相 と共相の 関係につ い て は次の よ うに説明さ れ よう。 そ れは次の ような考え方で ある。 た とえば、 a、
b
、 c … と い う複数の要素 (事 )に よ り構成 さ れ たA
(処)とい う対 象が ある場 合、 a、b
、 c …(事 )の各々 が識別さ れ て い る場 合に は
A
(
処)
は共 相 である が 、a 、b
、 c … (事 ) が個々 に 識別 さ れ ずにA
(処)が全体 と して認 識 されてい る場 合 、 そのA
(処)は 自相 (処 の 自相 ) として 認 識 さ れて い る、 とい う考え方で ある。 くだ け た言い 方 を すれ ば、 対象が 多くの もの であっ て も認識 す る側がそ れ をひ とつ の もの と して認 識 してい れ ば、そ れ は 自相 とい うこ と に な る。 さ らに、 諸氏 は こう続
け る。 こ の ような考 え方の もと に は、 認識の 仕 方に よ り、 同 じ もの が 自相 とも共 相 と もな り得 るとい う考え方がある と思われ る15) 。 こ の見解
を裏
づ けるも
の として 、 『大
毘婆
沙論
』 の 以 下の 箇所 を示す
16)。 謂 く、 但 、 小 分 の 共 相の み を現 觀 す るな り。 然 も 自相 と共 相 との 差別は無邊な り。 且 ら く地 の大種 をい えば、 亦は 自相 と名け 、 亦は共 相 と名 く。 自相 と名 く とは、三 の大種 に對する もの に して、 共相 と名 くる は 一 切の 地 界は皆、 堅相な るが 故 な り。 大 種 と造 色 と合 し て色薀 を成 ずる を もて、 是 くの 如 く色 薀 を亦 、 自相 と も名け、 亦 、 共相 とも名 く。 自相 と名 くは 餘の 四 薀に 對 す るもの に して、 共 相 と名 くは、 諸の 色 に は皆、 變 礙 相有
る が 故 な り。 即 ち五取薀 を合して苦 諦を成 ずるをもて、 是 の如 き 苦 諦 を亦 、 自相 とも名け 、 共相 とも名 く。 自相 と名 く る は餘の 三諦に 對するもの に して、 共相 と名 く る は諸薀 に は皆、逼迫相有るが故 な り。 是 くの 如 く共 に逼 迫の相なるこ と を思惟 し、 即 ち是 れ苦及び非常 ・空 ・非我の 相 なるこ とを思 惟するこ とを、 亦、 即 ち名けて 苦 諦 現 觀 と爲 す 、 是の 如 く現観 して若し諸薀に對 すれ ば 自相観 と名 け 、 若 し諸薀に對 す れ ば 共 相 觀 と名く。 (
405a
−b
) 諸 氏は 、 この よ うに綿 密 な考 証 を行 ない 、 次の よう
に ア ビダルマ哲学
を評 価 す る17)。『
婆
沙論』 と同様 『倶 舎 論』 で も認 識論の 中で 自相、 共相 を決 定 的に区別
するよう
な基準は設け られ て い なか っ た とい うこ とで ある。 … … 『婆沙 論 』 『倶 舎 論』 で は、自相、 共 相 は 認 識 論の 用 語 と して確定して お らず 、 両 者 を区 別 す る確 固た る基準 も なか っ た。 その ため認 識 論の 中で 自相 、 共 相の 区別 をする場 合で も、 対 象を認識す る側の 認 識の 仕 方の 違い に よっ て 区別 し ようと し てい る。 自相、 共相を含 む 認 識 論 一
312
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
10
)svalakSa ロa とsamanyalak $a4a につ い て (
1
) (
木村)
の 体系が未だ 十分整 っ て い な か っ たこ とを示 してい る と言え る であろ う。
一
方、諸 氏 は、ディ グナー ガに はsvalak $ana ・samanyalak §apa を区別 す る基準
が あ り、 その 認 識 論の 体 系 も整 っ た もの であるとして、 次の よ
う
に述べ る。 陳 那の 認識論で は、 認 識と対象と が、 そ れ ぞ れ二 種 (直接知覚 と推理 、 自相 と共 相)
に峻 別 された 上で 、 直接 知覚 と自相、推理 と共相、 とい うよ うに 結び付け ら れ 、 二 つ の 異 な る認 識の 系 列が 立て られて い る。 こ の 二 つ の 認識の 系 列は、 互い に交 換不 可能な 、 まっ た く異 なっ た 系列で あ り、 そ れぞ れの 系 列 を峻 別 する 基 準 と なるの は 分 別 の 有無で ある。 (直接知覚 一無
分別知 一 自相、 推 理 一 分 別知一 共相)
諸氏
は、 『集量論
』 の 次の箇所 を
示 して 、 ディ グナー ガが分別
を基準
と して い るこ と を 明 らか にす
る19)。 そ れ 〔五 識身〕は、 多くの 物 (rdzas ,dravya
)に よっ て 生 じて い るの で、 自 らの 処に関して samanya を対 象とする と述べ られ るが 、 区別 あるもの (tha
dad
pa
)を無区別であ る と分別す るか らでは ない の で ある。
de
rdzasdu
masbskyed
par
bya
ba
yin pa ’i
phyir
ranggi
skye mchedla
spyi’i
spyod
yul
can zhesbrjod
kyi
tha
dad
Ia
tha
midad
par
rtogpa
las
ni ma yin no 〃(
p
.179
,11
.29
−31
) 20) さ らに、 また、 ス ティ ラマ テ ィSthiramati
(
480
−540
)の 『倶舎論』 注 『実義
疏』Tattvartha
一を も丹 念に考 察 し、 次の よう
に言う
21) 。 つ まり、安 慧は陳 那 と同様、分 別の 結果であ るか 否か とい うこ とを基準として 自相と 共相 を区 別 して い た の で あ る。 … … 『実 義 疏 』 は世 親の 考 える認識論 的構造の も
とで 『倶舎 論 』 を注 釈 した の では な く、 陳那の 考え方に非常に近 い 形の 認識 論 的構 造 を もっ て 『倶舎論』 を注釈 して い るの である。
諸
氏は 『実
義
疏
』の 内容
を詳 し く紹介
す る。 その 中で も、 次の 一文は 、 デ ィ グナ ー ガ説 と見事
に符合 す
る もの である22) 。 その 場合 、 眼根 の対 象だ けに おい て、 眼 識が 生 じるが、 他か らで はない の で、 これら は、 処 を相 とす るもの に 依 存して、 svalak 爭a ロa を対象 とするが 、区別 あるもの を 無 区別である と分別 する か ら で は ない の であ る。
de
la
miggi
dbang
po
’i
yul
kho
nala
miggi
rnampar
shespa
skye ’i
/gzhan
las
ni ma
yin
pas
’di
dag
ni skye mchedkyi
mtshan nyidla
brten
nas /ranggi
mtshan nyid
ky
i
yul
cangyi /
thadad
pa
dag
la
tha
midad
par
brtags
pa
Ias
ni ma yin
te
/(p .48
,ll
.1
−4
)23 )一
311
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University
svalak $aOa とsamanyalakSaqa につ い て (
1
) (木 村)(
11
)こ の よ
う
に、諸
氏は目覚
ま しい 成果 を挙 げ
た。さて、
諸
氏の 研 究に関 連 し て 、今
少 し、 考 察 を重 ねて み よう
。 確か に 、『倶 舎 論
』
で は、 svalak §aロa ・samanyalak §apa が 認識 論の 中で語 ら れて て は い ない 。 知 覚 や推理 が
議論
の 過 程で登場 す
る よう
な場合 で も、 そこ に svalakSarpa ・samanyalak − $apa が現 れるこ とは ない の で ある。 『倶 舎 論 』に おい て、 知 覚 と推理が 同時
に現れ る箇所
を、 次に見
てみ よう
。「さ て、 こ れは虚 空 を語 るの で ある」 と経 量部の 者 達は言 う。実に、 こ れ ら 生等の 法は、 〔汝 等が〕分析 する よ うに、 物 (
dravya
)として 存在 しない 。 何故か ?プ ラ マ ーナ (
pramapa
)が ない か らで ある。 つ ま り、 こ れ らが 物 と して 存 在 す るこ と に 関して 、 色 等の 法 〔が 物 と して 存 在 す るこ と に関してあ るよ うな 〕 知 覚 ・推理 ・信 頼 さ れ るべ き聖典 (
aptagama
)
とい っ た如何な るプラマ ーナ もない の で あ る。tad
etadakaSarp pathyata
iti
sautrantikab/
na
hy
ete
jatyadayo
dharma
dravyatah
sarpvidyanteyatha
vibhajyante /kirp
karaqam
?pramapabhavat
/na
hy
e$arp
dravyato
’stitvekihcid
apipramapam
asti−pratyak
頭numanamaptagamo
va ,yath
巨r adina 甲dharma
ロa卑iti
/
(p
.257
,11
,1
−4
)「 こ の 我 とい う表 現 は 、 蘊の 相 続だ けに用 い ちれ るの であ り、他の 表 現対象に 〔用 い られ〕ない 」 とい うこ とを、 どの ように 理解 するの だ ろ うか ?知 覚 と推理 が ない こ とに 基づ い て 〔理解 するの である〕。 実に 、 法が 存在する時、 邪魔す る もの がな け れ ば、知 覚に よっ て 認 識されるの で あ る。 例 えば 、 六境や 意の ように。 あるい は、 推理 に よっ て 〔認 識 さ れる〕。 例 え ば 、 五 根 の よ うに。
katha
卑punar
ida
叩 manyate −skandhasantana evedamatmabhidhana
叩 vartate,
nanyasminn abhidheye
iti
?pratyak
§anumanabh
巨vat /ye
hi
dharmah
santite
§aympratyak
$am upalabdhirbhavaty
asaty antaraye /tad
yatha
一爭ap 口tim
vi §ayaOa 叩manasa §ca /anumanarp ca
tad
yatha
paficanam
indriyaparp
(p .1189
,1
.5
−p .1190
,
1
.4
)この 二 箇 所に おい て、 svalakSa ロa ・samanyalak §apa は登
場
しない し、知覚
と推
理 の対象
も区別
さ れ てい ない 、 両 者は共に、物
あるい は法
を対象
としてい るの であ る。 こ れ を もっ て、 認識 論が未だ整備
されて い ない と、 再確
認す
ることは で きるかも
しれ ない 。 デ ィ グナ ーガ が その 整備 を行 なっ たの だ とす れば、 彼 はア ビダル マ 哲学 を
一歩前進
させ た とい えるであ
ろう
。 また、 svalakSarpa ・samanyalak §ana に伴
う矛 盾 をデ ィグナーガ が 認 識論 的に解決
し たこ と も、す
でに見た。 しか し、 筆者
に 一310
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
12
)svalakSarPa とsamanyalak §arPaにつ い て
(
1
) (
木 村)
は 、デ ィグナーガ的な 整備の 仕
方
や解
決策
だけが 、ア ビダル マ哲学
の 進むべ き道であっ た とは
思
え ない の であ
る。『
大毘
婆
沙論
』 には、
有為相
(
samskrtalak $apa)
は有為法 (
samskrtadharma)
の svalak $apa なの か samanyalak §apa なの か 、 という
長い 議 論がある。 そ こ での 、解決 策
は デ ィグナ ー ガ と は全 く異
な っ て い る。 それ は、 次の ような もの である。 問、 諸の有
爲相は、 有 鳥法に於て 、 是れ 自相 な りと爲ん や。 共相 な りと爲ん や 。 設 し爾 ら ば何の 失 か あ り や とい は ば、 若 し是れ 自相 な ら ば 、 云何が一法に して、 四相 有 りや 。 若し是れ共 相 な ちば 、云何 が 一切の 有爲法に 、各々 、 別に四 相 有 りや 。 有る が是の 説 を作 す 「此 は是 れ 自相な り」 と。 問、 若 し爾らば 云 何が 、一法 に四相 有
りや。 答、 一法に 四相 あ る も亦 、 失有るこ と無 きこ と、一の 色 法に、
多
種の 相有る が如 し。 所 謂 、 病の 如 く、 癰の如 く、 箭の如 く乃 至 廣 く、 百 四 十 を説 く. 然か も此 の 自相 は、 四 大 種 に おけ る堅 濕 煖 動の 相 の 如 くに は非 ら ず して、 但 一々 の 法 に、 各々 、別に生 住 異滅有るが 故に、 自相 と名く るの み。 復 次に、 自相 に 二種有 り、一 に は主 自相 、二 に は客 自相 な り。 此の有爲 相 は、 有 爲 法 の客 自相に して、 主 自相に 非 ざる が故に 、 一法に 四相有 るも亦 、 失有るこ と無し。 復次に 、 自相に 二 種有 り、 一 に は本性自相、 二 には他合 自相な り。 此の 有爲相は、 是れ有 爲法の他 合 自相に し て、 本 性 自相 に非 ざるが 故に、一法に四相有る も亦 、 失有
るこ と無 し。有餘 師の 説 く 「此れ は是 れ 共 相 な り 」 と。 問 、 若 し爾 ち ば、云何が、 一切の有爲 法に、各々 、 別に、 四 相有 りや 。 答、 相似 を似て の故に名けて四 相 と爲す。 一 法上に、 生等の 四 有るが如 く、 餘法に も亦 然 り。 一縷の衆 花 を貫 在するが 如 くなる が故に共相と名 く る に は非ず。 復、 説者有り 「此は 自相に も非 ず。亦 、 共相 に も非 ず。 諸の 有 爲法の 生 往 異滅の 名義、 同 じ きが故に、 體 、各別の 故に 、 然か も此の 生 等 は、 是れ法の 標 印に して 、 若 し此有ら ば、 是れ有爲 と知るべ きこ と、 大士 の 相の 如 し。 〔三 十 二 相は〕 彼の 大士に於て、 自相 と名けず、 亦、 共相に も非ず。 但 、 是れ標印に して、若し此 有らば、是れ 大士 と知 るが如 く、 生 等 も亦然 り」 と。 評して 曰 く、 是の 説 を作 すべ し。 「此は 、 是 れ 共 相 な り。 然か も共 相 に 二種有 り、 一に は 、 自體 共相に して、一々 の 有 爲法の 自體に 、各、生等の 四義有
る を謂い 、二 に は和合 共相に して 、一々 の有 爲 法は、 各 、 生等の 四 相 と和 合 す るを謂 う。 此の 四は但 、 是 れ 和 合 共 相 なり」 と。(
200b
− c)こ こで は、 svalak $apa とsamanyalak $aロa が、 それ ぞれ、 主
自相
・
客 自相
・本 性
自相・他
合 自相 、 自体 共 相 ・和 合 共 相 という
よう
に分 類さ れて い る 。 こ の よ うに分 一309
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
svalak §a ロa とsamanyalak §apa につ い て (
1
) (木 村)(
13
) 類 という手
法に よっ て矛
盾を解決 す
る道
もあるの であ
る24)。 デ ィ グナ ー ガ の 選ん だ解決策
が、 ア ビダル マ哲学
に とっ て、 真に 、 適切 な もの で あっ た の か 、 とい う視 点を持
つ べ きであ
ろう
。 したが っ て、 ディグナ ー ガ を評 価す
る場
合 も、彼が ア ビダ ル マ 哲 学の 不 備 を解 消 した とす るよう
な一面的
な見方
か らの み なされ るべ きでは ない 。しか し、ア ビダル マ 哲 学の 全 貌が 明 らか に されて い ない今
、 確か なこ とは何
もわ か らない の であ る。 ア ビダル マ 文 献の 網 羅 的 な研 究が是 非 と も必 要 で あ ろう
。 とはい え、 その 種の 文 献は膨 大で ある。 と りあえず、本稿 で は 、 『 倶舎
論』 とその 注 釈 を調査 し、 考察
の対
象
とした い 。III
以 下に示
す
文献
が調
査の対象
であ
る。A
.Vasubandhu
:、4
δ痂4
勉 γ魏 盈 o勍δ1
囎 α, ed .by
S
.D
.Sastri
(Bauddha
Bhar
・ati
Series
,
5
,6
,7
,9
)
1987
。(
A
)B
.Ya
§omitra :5
助
露虹 ”拡
ed .by
S
.D
Sastri
(
Bauddha
Bharati
Series
,
5
,6
,7
,9
)
1987
.(
Y
)C
,Sthiramati
:7
濡’痂 ”拡
Peking
ed .No
.5875
.(S
)D
.PUrdhavardhana
;LahSarpa
−nusarini ,Peking
ed .N
o .5594
.(P
)E
Dignfiga
:Marmapradipa
,Peking
ed .N
o .5596
.(
Di
》F
.Vinitabhadra
:働 万 肋 ろ廟
α,Peking
ed .No
.5592
.(v
)G
. mChims :mChims mdzod ,pub
.by
Library
ofGaden
Shartse
Monastic
College
,Mungdod
,1992
.(c
)H
. 玄 奘; 『阿毘 達磨
倶舎 論』, 大正大 蔵 経、No
.1558
.(
玄)
1
.真 諦: 『阿 毘 達磨 倶舎釈 論』,大正大 蔵経 、
No
.1559
.(
真)
ここ で、 文
献
の概
略 と調
査方法 を
示 しておこう
。 上記
中A
が基 本 となる。B
、C
、D
、E
、F
はA
に対す
るイン ド撰述
の 注 釈、G
はA
に対
す るチベ ッ ト撰 述の 注 釈、H
、1
はA
の漢
訳であ る。 イン ド撰
述の注釈
のう
ち、 サ ン ス ク リッ ト文 とチベ ッ ト訳 が見られ るの はB
だ けで あり、他
はチベ ッ ト訳である。C
とD
は内容 的に 一致す
る場合
が多
い 。E
、F
は注釈
とい っ て も分量
はA
よりも少 なく、A
の 要 約で ある。本
稿で扱う範 囲
に おい て、E
、F
は独 自の 解 釈 を示 してい ない 25) 。G
はチ
ベ ッ トの 代表的注 釈 で あ る26}。次 に調査方 法 を述べ る。 まず、A
で言及 され る svalak −$ana とsamanyalak $ana を
す
べ て採集
し、B
、C
、D
、E
、F
、G
に お け る対 応 注釈 一308
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
(
14
)svalak $arPa とsamanyalak §apa につ い て
(
1
)(
木 村)
箇 所 を調べ 、 さ らに 、
H
、1
の対
応 箇所
を確 認 す る。 なお、 今 回は、中国
・日本
の 注 釈は参
照 で きなか っ た。 以 下で は、始
め に 、表に よっ て調査結
果 を整理 し、説
明 を加 え る。 さ らに、A
の サン ス ク リッ ト文、 チベ ッ ト訳、 日本
語訳 、B
の サ ン ス ク リッ ト文
、 日本 語 訳、C
、D
、E
、F
の チ ベ ッ ト訳 、 日本語
訳、G
の チベ ッ ト文、 日 本 語 訳 を資料 として提 示 する。 その 際、上 記文 献の それ ぞ れの末尾
に付
した(
A
)
等 を略 号 とする。GO
(S
)(P
) (V
)(C
) (A
)(
玄)
(真 )蠡
1
○ ○ ○ ○O
○ svalaksana ・ . 自相 (1b9
) 自体相 (162a
−9
)2
○ ○ ○ X × ○ svalaksana . , saman a異霜
(・… )顯
(163b
・胱 ・)β3
○0
○ ○ × ○ svalaksana ■ 「 自相 (3b1
) 自相 (163c17
−18
)4X
× X ○ ○ × svalak $apa 自相(
6b18
) 性 類(
166c13
)
5
○00
× × Xsvalak $apa 自相 (27a28
−29
) 自相 (185c5
−6
)6
○ × ○ × ○ ○ svalaksana ■ 卩 本 相 (30c8
) 自本相 (188c13
)
70
○ ○ × × ○ svalaksana唖 レ sa皿an
alaksana異
霜
(40a7
−9
)
嬲
(197b1
島14
)α8
× × X × X × svalaksana 「 , 自相 (41b21
)自相 (198c18
)9
○○ ○ X × × svalaksana , 「 自相 (68b26
) 別相(
226b4
)10
○ ○ ○ × X ○ svalaksana . o saman a異耜
( ・・…
6
)嬲
(255b
・28
) β11
○○ ○O
○ Xsvalaksana ・ , saman a異耜
(1
・4
・1
・一・2
)嬲
(257b
・← ・5
) β12O
× X × XXsvalaksana . , 自相 (115a16
) 自体 相 (267b25
)13O
○○○
O0svalaksana
sam 氤n . alaksana 鹽異霜
(118c18
−
19
)霊
耜
(271
・ ・)
α14
○0
○ ○ ○ ○ svalaksana sam 氤n ■ ■alaksana異霜
(
135
・