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駒澤短期大學佛教論集 5 009木村 誠司「svalaksanaとsamanyalaksanaについて(I)」

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(1)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

駒 澤短期大學 佛教論

5

 

1999

10

月 (

1

svalak

ana

とsamanyalak

ana

      (

1

1

 

仏 教 論 理 学派

 

な わ ちディ グナー ガ

Dignaga

480

540

)や ダル マ キー ル テ

Dharmakirti

600

660

なる

学 流

思想

論 ず

、 必

とい っ て よい ほ ど

登場

る一対の 語が あ る。 そ れ は、 svalak $apa とsamanyalak $apa で ある。 こ

の 一の術 語は、 その 重要 さ故、 これ まで様々 な研 究 者に よっ て取 り上 げ ら れ た。 それ らの研 究 者は、

くの 場 合、ダル マ キ ー ィの 学 説 を通 じて、デ ィグナ ー ガ の 意 図 を解 釈 す る傾 向 を見せ て い る。 で は 、こ の よ

な傾 向 を生んだ理 由は

だ ろ うか 。現

表 的研 究 者の 一人 戸崎 宏正 氏 の

に その理 由 を見る こ とが で き る。 戸

崎 氏

は、 次の よ

に 述べ て い る。  イン ドで は、 正 しい 知 識の 源泉は何種類か とい う問題が認識 論の 重要 なテ ー と し て論 じ ら れ る。 仏教認 識 論は、 上 述 し た ようにデ ィ グナーガ以 来 そ れ を二種 類に 限 定し よ うとする が、 そ れ は どの ような根 拠に よる の で あろ うか 。 ディ グナ ー 、 対 象

所 量 )が 二 種類、 すな わち個 物

自相

) (

svalaksana

と 一 概念 (共相 )

 

(……

91pguxgLlg1sgal

  

gk

) との 二 種 の み で ある か ら、 知 識 を もた ちす 認 識 も二 種 類の み 、 す なわ ち個 物 に対 して は 直接 的 な知 覚の み、 一 概念に対し て は間接的な推理の み  であ る とい 。 デ/ グナ ーガの こ の 主張 は、 他の 学 派が知 識の 源 泉 として、 知 覚 、 推理 の ほ か に聖 者の 言 葉による知 、 比喩に よ る知 な ど多くの 認識 手 段 を挙 げた り、 あるい は直 接 知覚の み しか 認 め ない の に対 し、 対 象の 数 を限 定 す るこ とに よっ て そ れ らの 認 識 手 段の を 限 定 した とい 、 ま た た とえば 正 理学派な ど が、 対象に  よっ て は 、 同一対象を そ れ ら認 識 手 段の い ずれ もが認識しえる とい うの に対 し、対  象 を二 種 に峻 別 するこ と に よっ て 、その ようなこ と が ありえ ない こ とを明らかに し  た こ とな ど、 そ れは そ れ で 味 を もっ て い る。 しか し、 こ の 「対 象二 種 類→ 知識の 源 泉二 種 類」 の 主張に は、 なぜ対象は二 種 の み なの か。 また な ぜ 個 物に対 して は知 一

320

(2)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

2

    

svalak $a胆 とsamanyalak §apa につ い て (

1

(木村

覚の み、 一般 概 念対 し 推 理 の み 定 ま る 、 な どの 問 題が 積 極 的に 証 さ れて お らず理 論上 の あい さ をし て  これに 対 して ダル マ ール ティ は 、デ ィ グ ナーガの 右 の 説 を踏襲 しなが ち も、 さ ら に かれ独 自の 新 しい 理 論 を展 開 して 、 上 述の あい まい さ を解消 して い る 1) 。 (下 線 部 筆者

戸 崎 氏の

、 デ ィ グナ ー は 、か に 、 さ を て い 見 られて も仕 方の ないがある。 彼は、 svalakSapa と samanyalak − $apa に つ い 々 の 満 足の い くよ

な詳 し説 明 を

い か らで

る。 彼 の

内容

が、

ま りに少な

ぎるこ とだ けは、 紛れ

ない

事実

である 2) 。 しか し、ディ グナー ガ

人は、 戸

氏の

指摘 す

るよ

味で、 厂 理

論上

のあい い さ を残して い る」とい

こ とを 自覚 してい たの だ ろ

か。 戸

氏が上で示 したデ ィ グ ナー ガの 認 識 論

は 、

や、

界の 通 説 と も言 え る もの である が 、同氏の 解

相 的に見れ ば 、 デ ィ グナー ガ は 、独創 的 な認 識論 を「理 論 上の あい まい さ を 残 して 」主張 し たこ とに な ろ

。 だ が 、 そ れ は、 デ ィグナ ー ガ に っ て 、 と んだ言

い が か りか

も し

れ ない 。 svalakSapa とsamanyalak §apa は、 デ ィ グ ナ

代、 仏

教 思

想 界特にア ビダル マ 哲

にお い て 、すでに、 完 全に

定着

し た

語だか ら である。 当時の 学 僧 達の間で、 ご く常 識 的に

使

用 さ れてい る術 語 を改め て、 詳し く 説明

る必

が あるだ ろ

か。 も し、 その術

新解

釈 を

え る場

で も、

明 だけで 、

は足 りる は

で ある。 デ ィ グナ ー を取 り巻 く思 想 的 環 境 、 それ を許 すほ ど成 熟 したもの だっ たの で は ない だ ろ

か 。 ま た 、ディグナーガ に は 、ア ビダル マ

を代 表 する文 献

AbhidharmaleoSa

倶舎論

』 に

対 す

る注釈が ある3)。 こ れ は、 彼が ア ビダル マ

哲学全般

に深 く

じてい た こ と を予 想させ る もの であろ

。 その 学 殖に基づ い て、 厂svalak $arpa とsamanyalakSaqa につ い て は、

単な説 明だけで十 分で あ り、 そこに理 論 上のあい まい さはない 」とい

判 断 を下 した とし て も、 何 ら不 思 議で は ない 。 お そ ら く、アビダル マ 哲 学の影 響 を重要 視 す るこ とに

して は、 戸

も異論

はない と思わ れ る。 同 氏は 、次の よ

に述べ てい るか らで ある。 量

知識の 源泉

を現量と比量との 二 種 に限定するこ と は、お そ らく 『論軌 』 にす で にな されて い たで あろ

。 陳 那 は さ らに、 その 限定の根拠と して、対

が 二種

自 相と共 相)である こ とを示 して い る。 自相と共 相に よっ てすべ ての 対 象 を包摂す る 仕方は、 す で に以 前に (た とえ ば 『大 毘 婆沙 論』 大正

27

217

以 下)あっ た が 、 そ れ 一

319

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(3)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

      

svalakSa ロa samanyalakSana つ い て (

1

)(木 村 )

    

3

 を 陳 那はか れの 認 識 論に採 用 した の で あろ う4) 。 この

は、

説 と は 一 見、 矛 盾 してい るよ うに 見 える。 しか し、 ダル マ キ ー ル テ ィ の

学 説

野に入 れて、 ディ グナー ガの 学 説 を考

察す

る時、

説が的確 な もの で ある こ とは 間違い ない の で あ り、 ディ グナー ガ の学 説だ け を論

場合

には 、後の こ の

見解

は きわ め て妥 当 な

の なの で

る。

々 は、 戸

氏の 二っ の文 章か ら、

考察対象

範 囲

を明

に 限

しな けれ ば な らない とい

方 法 論 的示

を 受 けたこ にな ろ

。 ダル マ キ ー ィ とい

う強

烈 な個

性 を持

思想家

れて 、ディ グナー ガ を評価 し、その上 で、ダル マ キール ティ の

説 を考

する こ と が、 お そ ら くは 、正 しい

方法

なの で あ ろ

。 しか し、 考 察の 範 囲 をデ ィ グナ ー 絞 っ た として

哲学

を明 らか に しな けれ ば、正 当 なデ ィ グナ ー あ りえな い こ と もま た

か で あ る。 筆

は、 「 ィ グ ナ ー ガ の 語 る ご

く短

svalak $arpa とsamanyalakSa ロa記述が、 は た し て 、真に 独

創 的

な もの であっ た の か 、 そ れ とも、 従 来の 説を、 単に 、 踏

し た もの に

ぎ ない の か、 あ るい は、 何 ちか の 改変 を加 えた もの であっ た の かこ の 点につ い て

結論

と思

の であ る が、 その 場 合、 彼以

の どの 哲 学 を取 り上 げ るべ きなの だ ろ

か。

の 主

量論

Prama

’ n. asamuccaya が イン ド哲学 全 般 を論 ずる もの であるこ とを

慮す

れ ば、 扱

べ き対

は 、限 りな く

い 。 とりあ えず、仏

に 限

定す

れ ば、 ど

であろ

か。 現 在、デ ィグナ ー 思 想

は、

瑜伽行

とす る の が通 説である。 となる と、そ れ らの 学派 の 文献にあ た るの が、 妥当 な

道筋

で あろ

う。 だ が、 ディ グナ ー ガの svalak §apa とsamanyalak §apa 論は、 それ だ けか ら生

まれた

の で は

に、

れた よ

に、 ア ビダル マ 哲 学が 、ディ グナ ー

大 な 影 響 を与 えて い の で ある。 実 際、 ア ビダル マ 哲 学は 、svalaksana と samanyalak §aaの 哲 学 とい っ て よい もの で ある。 例 え ば 、 その 大綱 要

大 毘

沙 論』

Abhidharmamaha

’ vibhasya で は、 次の よ

に述べ て い る。 諸 法の 自相 ・共 相 を分 別 す る は、 是 れ 阿毘 達磨な り。 (

1c

) 諸法の 自相 ・共相を分 別 し、無我の 像 を して分 明に顯 現せ しめ ん と して、 彼の 者 、 此の 論 を制造せ しな り。 (

2b

) 復次に 、諸智の 彼 岸に、 此に 依 っ て 能 く到 る が故に 發智と名 く 諸法の 自相 ・共 相 を開 發するこ と、能く此の 論の 如 くもの あるこ とな き が故な り。 (

4c

) この

な伝統 を踏 ま えて 、 デ ィ グナ ー 思 想形 成さ れ て っ た とすれ ば 、 ア ビダル マ 哲学 を取 り上 げ るこ とは、 的外 れで はない で あ ろ

稿では 、ア ビダ 一

318

(4)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

4

    

svalak §aOa とsamanyalak 爭apa につ い て

(1

木 村

ル マ

考 察

点 を

。 さて、

考 察

に 入 る

に、 デ ィ グ ナ ー ガ 自

svalak arpa ・samanyalak §aqa 論 を、 現

の 研 究

が、 どの よ

てい るの

か 、 確認 して お く必要がある。 現 学 界の 通 説は、

の 戸 崎 氏の 解 説か ら容易 に知 ら れ る。 そ れ を整理

れ ば、

1

.svalak §aロa 一知 覚 (

pratyakSa

)、

II

.samanyalak §aロa 一

理 (anumana )とい

二 つ の 認

識系列 を

グ ナ ーガ が、

い 描い てい た こ と

になろ

。 この 二 系 列は、 svalak $ana 一推理 、 samanyalak $aロa 一知 覚 とい

な入 換 えが不 可能 な、全 く異

な もの である。 その 点につ い て、ディグナ ー

一 人

者服部

正 明氏は、 こ

述べ てい る。

 

それ 〔独 自相 (svalaksana )〕が 一般相 (samanyalaksana )と根本 的に 区別される べ であるこ と、 この 区別に対応 し て直接知覚 と概 念 ・理 と が 区別さ れ の 知 識 根 拠 は無 い とい こ と、 更に一般 相 は ただ 主観 的に 構 想された もの に過 ぎぬ

 

とい うこ と は、正 し くディ グナ ーガ が創設 した見解であっ て、 ダ ル マ キ ー ィ は それを継 承 した の で あ る5} 。 (下 線 部 筆 者) これに、 「

とは 分

を除

し た もの である」

pratyak

$am  

kalpanaodham

とい

集量論

』 の

規定 を加 味す

れ ば6)、 知

無分

理 一

有分別

とい

性 格 も浮か び上が っ て く る。 この 知覚 と推理 の 明

別につ い て、 ア ビダル マ 哲 学 との 比 を伝 える研 究が ある。 梶山雄 一 は、 該 博な知 識に 基づ い て、次の よ

有部やニ ヤ ーヤ 学派の 体 系で は、 知覚 と思惟 (判 断お よび推理)との 間の 本質的な 区 別が無視さ れ や すい こ と に な る。 感 覚と思 惟 、 し た が っ て感覚の 内容 と観 念 と が 全 く異質的なもの であると して、 その 二つ の 載 然た る区別の 上に認 識 論 を展 開する の は経 量 部 、特 に デ グナ ー ガや ダル マ キー ル テ

li

の い わ ゆ る知 識 論の 系 統であるη 。 さ ら に 、 また 、服部 正明氏は 、知 覚の 無分 別 性

する デ ィ グナー ガの 経証に触 れ、

別知

分別

ち ど ち らを、 より明

瞭な知

るか とい

こ とを

じ てい こ こで も、 ディグナー ガ とア ビ ダル マ 哲 学が 比較 されてい る。 氏は、 以下 の ように述べ てい

 

『 倶舎論』 に よ れ ば 厂これ は青で あ る」 とい う認 識に伴わ れ ない 純 然た る青の 識 知 は、 意 識に 相 応 する計度 (abhinirapaqa )と随 念 (anusmarapa )とを離れ た 自性分 別 (svabhava ・

Vikalpa

)に 外 な らない こ の 自性 分 別は、 対 象 につ い て審慮 (upanid −

hana

し決度

sarptirpa )する

力 を もたず、た だ対

を観照 (

alocana

)するの

317

(5)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

svalak §apa とsamanyalak arpa に つ い て

1 ) (

木 村

5

 

みの 感性的直 観で あっ て、意識

用の 加わっ た計度 ・随 念分別に対比 して 無分別  と云 わ れ るの で ある。 然 し此の ア ビダル マ の 文 は、右の 様なア ビ ダル マ に於 け る無 分別 をあら わすた め に 引 用 されたの で はない 。 青 を ら しめ てい る法 を 表象する

 

とな しに、 青の 直 接 知 覚が あ るこ との経 証 と し て引用 さ れ た に過 ぎ な い の で ある。  ディ グナーガ に於 け る青の 識知 は 認 識の素 材として の 感性 的 直観で は な く、 却っ て  審慮 と決度 を もっ た分別の 知 一 概 念 よ りも一 層明晰 判 明 なもの なの で あ る8)

の 研 究 成 果 を総 合 する と、ディ グナー ガの svalak §aロa ・samanyalak §apa 論

は 、 次の

よ う

に な ろ

 

1

.svalak arpa 一知

一無分

知一明瞭

 

II

. saln5nyalak §apa 一推理 一

分 別 知一不明瞭

 

この

1

II

を現

の 通 説 とするこ とに異 論 は な か ろ

。 さ て、 上記の 諸研 究は、

ィグナー ガ の svalak §apa ・sam 巨nyalak §apa

がアビダル マ 哲 学そ れ と全

く異な っ た もの であ ることを もあ わせ て表明 してい る。 これ も、現

の通

であ ろ

。 しか し、 それ らの通 説は、

確定

的であ ろ うか。 筆 者は 、非常に疑 問に思っ て い 有 分 別 知 無分 別 知 を唆 別 す こ と」 「無 分

知一 明

知一

明 瞭」、この 二点

ディグナーガ が

認 してい

可能 性

るか

る。 ディグ ナーガ は、 この 二点に

して、 ア ビダル マ

学 的

釈に準 じて い た節が ある。 その こ と につ い て は 、

で に、 論 じた こ とが あるの で 、 詳 しい 説明 は

くが、肝心 な svalak $a ηa ・samanyalak 爭apa を扱

こ と はで きなか っ た。 は た して 、

筆 者

解が 、 荒 唐 無稽 な珍 説の 類で あるの か 、 ない の か

9)

。 そ れ を 明 ら か に

る た め に

も、 ア ビ ダル マ

の svalak §apa ・samanyalak §apa を考 察 しな けれ ば な らな

い 。

の ところ、 その よ

な 必

に せ ま ちれたこ とが 、本 稿 執

動機

なの であ る。 とこ ろで、筆

の知 る限 り、 これ までの 研

に お い て、 ア ビダル マ

哲学

svalak §apa ・samanyalak $arpa を網 羅

じ た

の は ない ア ビ ダル マ 文 献

を引用 し、 デ ィグナ

ガ と比

較 す

る とい

の研 究が 目立つ 。 これ まで辿 っ て

きた研 究状 況 を考 えれば、 こ れは か な り奇 妙 なこ とで ある。 そ れ は 、 ともか く、

者が被

で きた研 究に おい て、 アビダル マ

哲学

の svalak §apa とsamanyaIak apa

の よ

に論 じられ てい るか 、

。 少々 、 しつ こ い よ

で ある が 、

手 を抜 け ない

(6)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

6

) svalak §apa とsamfinyalakSaOa につ い て

1

) (木 村)

II

 始

め に、

戸崎

見解

指摘

された 『大 毘

沙 論』 の

トレー ス し よ

。 そ れ は 、次の 箇 所である。 問 、 何 等の 慧が 能 く、 諸 法の 自相 を分 別 し、 何 等の 慧が 能 く、 諸 法の共 相 を分 別 す

 

る や。 答、 一 物の 相 を分別 するもの は、 是 れ 自相 を分別 し、

物の 相 を分別 するも の は、 是れ共 相 を分別 する な り。 復次 に、 一 を分 、 是れ 自相  を分別 し、二 、 三蘊 等 を分別 する もの は、 是 れ共 相 を分別 する な り。 復次に、 聞 思 所成の く自相 を 修 所 成 共相を分別 す  六行相 に攝せ られ ざる慧は、 多 く自相 を分 別 し、 十六行 相 所 攝 の 慧 は、 唯、 共 相 を 分別す。復次に、 諦 を行 ずる時の 慧は、 多く自相 を分 別 し、 現 観 時の 慧は 、 唯 、 共 相 を分 別す。 復次 に、 諸諦 を別觀する慧は、 自相 を分別す と名け 、諸諦 を總 觀 す る 慧は、共 相 を分別 すと名 く。 問、此の 二 種の 慧は、 如 何に して知るべ きや。 答、 種 々  の 物が、帝青 寶に 近づけば、 自相現 ぜ ずし て 、 皆彼の 色に同ずる が如く、 共 相 を分 別 する慧 も知 るべ し亦 爾 。 種々 の 物が 、 帝青寶を遠ざか れ ば、 青 黄 等の色各別

 

に顯 現するが 如 く、 自相 を分別す る慧 も知 るべ し亦 爾る を。 復次に、 日出 時に光明 遍 照 して 、 衆 闇 頓遺す るが 如 く、 共 相 を分 別する慧 も知 るべ し亦 爾 る を。 日出で 巳  りて、 漸 く衆物を照 し、 牆壁 ・隙 ・ 、 皆 、 悉 く顯 現 す る が如 く、 自相 を分 別 す  る慧 も知るべ 亦 爾 。 復次に 、 人の燈 を持 して、 初め て闇室に 入 り、 頓に 諸 闇  を破 る が 如 く、共 相 を分 別 する慧 も知 るべ し亦爾るを。 燈入 り 巳 り て、 漸 く瓶 ・衣 ・ 器 ・篋の物 を照 すが如 く、 自相 を分 別 す る 慧 も知 るべ し亦 爾 復 次、 鏡の 遠 くを照せ ば、別 相、顯れ ざ るが如 く、 共相 を分 別 する慧 も知るべ し亦爾る を。 鏡 の 近 くを照 さ ば 、別相は 明 了 なる が如 く、 自相 を分別 する慧も知るべ し亦 爾るを。 復次に 、 人の 遠 くに山林

の 物を観 るが如 く、共相 を分別 する慧も知るべ 亦 爾る   を。 人の 近 くに、 山林 等の物 を觀 る が如 く、 自相 を分 別 す る慧 も知 るべ し亦 爾 る を。   (

217a

b

) 戸 崎 氏は、 こ こ に 「

自相

と共

によっ て

べ ての

対象 を抱摂す

仕方

」が示さ れ て い る、 と説い の で ある。 確か に、 そ

か も しれ ない 。 しか し、氏 が詳しい 説 明

を与

えて い い の で、

漠然

とその よ

な印

を受 け る だけで

る。 とはい

、 こ の

述 は、 svalak §aロa とsamanyalak §a ロa を

めて興 味 深 く

比 してい る。 こ こ で は、 svalak §apa − 一聞 思 所 成 行 相 不 所 攝行 諦 時別 観

諦、        −

315

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(7)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

      

svalak §aa とsamanyalakSarPa につ い て (

1

木村 )

    

7

samanyalak §arpa 一

多物

一一

修所成

一十六行 相 所

一現観

一総 観 諸 諦 とい

二 系

が 描 か れ て い る。 こ の よ

な 対 比 が 示 さ れ る 一

方 で、svalak §a ロa

samanyalak $aaは、 共に、 分 別の 対 象 と さ れて い るの である。 デ ィグナ ー 系列 とは、 明 らか に

なっ てい る。 両

の 比較検 討が欲 しい ところであるが 、貴重 な

資料 を得

た とい

こ とで、 とりあ

えず

、 次の 研

 

紹 隆氏 は 、次の

に、

めて 明快 な

解 を示 してい る。 奇 妙なこ と に、ディ グナーガ は、個別相 (svalaksana )と一般相 (s五manyalak a) に つ い て本格的な 説 明 を与えて い お そ ら く両 語 ア ビル マ 哲 学の と  して すで に よ く知 られて い た か で あろ e ア ビダル マ 哲学で は、 存在の 構 成要素 であるダル マ は、 個別相 と一般 相 と を保持 する と考えら れ て い る。 「要 素 」とい う  ダル マ を例に と れ ば 個別相は、その 本質 (svabhava )で あ る 「 硬 さ」 で あ り、一 般 相は、他の 多 くの ダル マ に 共通に見 出され る 「無常 性 」 など である.

  

しか し、 デ ィ グナーガ の理解す る個 別 相 と一般 相が 、アビ ダル マ の 解 と必 ず し  も一致 し ない こ と は注 意さ れ ね ば な ら ない 。ディ グナーガ は、 個別相 につ い て 、 「 そ

 

の と して認識され るべ あ り 、 言語 表現され えぬ もの 」 とのべ るにす ぎない。

 

た とえば、暗 闇で何か に触れ る とき、 その 瞬 間の 知 覚 内容 を構 成する、 概 念化 ・言 語 化 以前の 存 在が個 別 相 で ある。 他方 、 その 対象が 「 」 と同 定 さ れ 、言語表 現 さ れる とき、 こ の概 念知 の 内 容 を構 成 す る堅 さ や瓶 は、 知覚の 対 象であっ た特定  の 堅 さ、特 定の 瓶 で はな く、 多数の 事 物に 共通 して見 出さ れ る 堅 さ 一 ・ 瓶一般 す ぎない こ れが、一般 相 である。 した が っ て 、 ア ビダル マ の 個別相は、 そ れが、

 

さ」 等 と同定され る以上、 デ ィ グナ ーガ に とっ て 一 にほか な ら ない 。 デ  グナ ーガ の個別相は、 あ くまで 概念化 ・言 語 化 を拒 絶 する存 在で ある。

  

端的に 言っ て 、 個 別 相 と一般相 は、 わ れ わ れが 「個物

individual

と 「普 遍

 

(universal )とい う語 で理 解 す るもの に、そ れ ぞ れ ほ ぼ相 当しよう1°)線部筆 者 ) こ こ で、

氏が 用い た ア ビダル マ 文

は 『

1

と それに対 す るヤ シ ョ ー ミトラ

YaSomitra

の 注釈

2

であ り、 次の 二

箇所 を取

上 げ

てい る。

 

1

) 身と受 と心 と法 をsvalak $a ロa とsamanyalak §apa の 二 つ によっ て観察 する

 

そ れ らの svalak $aa と は、 自性 (svabhava , rang  

gi

 ngo  

bo

)の こ と で あ る。 samanyalak §aa とは、 有為 〔法〕の 無常 性 、 有 漏 〔法 〕の 苦 性 、

切 法 空 性

無 我 性の こ とで ある。

 

kaya

叩 svasamaiyalak §a 

bhyalp

 

parik

§ate  vedana citta

dharmaip

§ca

(8)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University

8

   

svalak §aqa とsamanyalakSaqa につ い て (

1

) (木村)

 

svabhava  evai

a

 svalakSarpam /s盃manyalak arpam  

tu

 anityata  samsk τ

tanarn

 

du

khata

 sasrava am §

Unyata

 natmate  sarvadharmaqam /11)

p

902

, 

ll

8

10

 

2

)「あ る 法相

」 とい う 〔法相 と は〕svalak §aロana と samanyalak §ana の こ

 

とで あ り、

界 は 堅 を相とする」 〔とい うの が svalak §aqa で あ り〕「〔地 界は〕無

 

常、苦で る」 〔とい うの がsamanyalaksaqa 〕とい うこ の よ うなもの で ある。

 

dharmalak

爭arpa 珥 veti /svasamanyalakSa am −

khakkhatalak

apab  

prthividha

 

tuh

, anityalp  

dubkham

 

ity

 evamadi11

p

12

, 

ll

29

30

つ ま り、 桂 氏は、 こ の 二 箇 所 を組み合わせ て、 ア ビ ダル マ

哲学

のsvalak $arpa ・

samanyalak $a ロa

表 させ たの で あ る。 しか し、 (

2

は (

1

の 対 応 注釈 箇

で はない 。

1

2

易に組み合 わせ るのは、 早 計では ない だ ろ

か。

1

2

に お い てsvalak arpa とsamanyalak §aロaが 同 じ意 味で使用 され てい ると

保 証 もない の で

る。 また、

桂 氏

は、 ディ グナー ガ

説 を描写す

、svalak §apa

→ samanyalak aロa とい

う時間的

序 を

示 すが 、

に戸

氏が 提示 した 『

論』 で はsamanyalakSapa → svalak $arpa と さ れ てい た。 こ の よ

な相違に も留 意

しなけ れ ば な らない は

である。 桂 氏の見

は、 通 説 を

際 よ く紹

した もの では ある。 しか し、 ア ビ ダル マ 文献の 一部 し 利 用 しな 、 限 界 を有 するの であ る。 さ て、 次の 研

 

野 武

彌子 ・瀧河郁久 ・坂井

一 の 諸 氏が 、 まず、取 り上 げ るの は 、 『倶 舎 論 』 の 次の

所で ある12)。 五識

は、

合 した もの

samasta )を対象 とするの だ か ら、 samanya 対 象す  るこ とに な り、svalaksana を対 象 と し ない の で は ない か ?  処の svalaksana につ

これ ら 〔五識身〕は svalak arpa を対象とする と 認 め ら れ るが 、 事の svalaks3na

 

につ い て 認 め られるの〕 では ない か ら、 過失は ない の で ある。

nanu  caivarp  samastalambanatvat  samanyavi §ayab  

pafica

 vijfianakayab  

pr

P

 

nuvanti , na  svalak $arpaviSayah

ayatanasvalak

aρam  

praty

 ete svalak apavi

 

aya  

i

§

yante

, na 

dravyasvalak

§apam  

ity

 ado §ah /

p

36

, 

L

 

10

p

37

1

2

 

これに

行 す るもの として 、 『大 毘

』 の 次 の 箇

をし め

13 )。 問 、 云 何が 身識 は 、 共相の 境 を縁ずるや 、五識 身は、 自相 を縁 ずるを以ての 故に。 答 、 自相 に 一種 有 り。 一 は事の 自相 な り。 二に は處の 自相 な り、 若 し事の 自相に 依 りて説か ば、 五 識身は亦共 相 を縁ずれ ど、 若 し處の 自相 に依 りて 説か ば、即 ち 五 識は、 唯 自相の み を縁ずる が故に、 相 違せ ざるな り。 (

65a

313

一 N工 工一Eleotronio  Library  

(9)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

      

svalak §apa とsamanyalak §aqa につ い て

1

木 村)

    

g

こ の 箇 所対 して、 諸 氏 は、 次の よ

な分

を下 す 14) 。

 

こ こ で論 じら れ てい るな、 事 と処 、 な らび に 相 と共相関係につ い て は次の  よ うに説明さ れ よう。 そ れは次の ような考え方で ある。 た とえば、 a、 

b

、 c …  と い う複数 事 )に よ り構成 さ れ た

A

い う対 象が ある場 合、 a、 

b

、 c …

 

(事 )の々 が識別さ れ て い 場 合に は

A

は共 相 である が 、a 、 

b

 c … 事 ) が個々 に 識別 さ れ ずに

A

処)が全体 と して認 識 されてい る場 合 、 その

A

処)は  自相 (処 の 自相 ) として 認 識 さ れて い る、 とい う考え方で ある。 くだ け た言い 方 を すれ ば、 対象が 多くの もの であっ て も認識 す る側がそ れ をひ とつ の もの と して認 識  してい れ ば、そ れ は 自相 とい うこ と に な る。 さ らに、 諸氏 は こ

う続

け る。  こ の ような考 え方の もと に は、 認識の 仕 方に よ り、 同 じ もの が 自相 とも共 相 と もな  り得 るとい う考がある と思われ る15) 。 こ の

見解

づ ける

の として 、 『

』 の 以 下の 箇所 を示

16)。 謂 く、 但 、 小 分 の 共 相の み を現 觀 す るな り。 然 も 自相 と共 相 との 差別は無邊な り。 且 ら く地 の種 をい 、 亦 自相 、 亦は共 相 と名 く。 自相 と名 く とは、三 の種 に對する もの に して、 共相 と名 くる は 一 切の 地 界は皆、 堅相な るが 故 な り。 大 種 と造 色 と合 し て色薀 を成 ずる を もて、 是 くの 如 く色 薀 を亦 、 自相 と も名け、 亦 、 共相 とも名 く。 自相 と名 くは 餘の 四 薀に 對 す るもの に して、 共 相 と名 くは、 諸の 色 に は皆、 變 礙 相

る が 故 な り。 即 ち五取薀 を合して苦 諦を成 ずるをもて、 是 の如 き 苦 諦 を亦 、 自相 とも名け 、 共相 とも名 く。 自相 と名 く る は餘の 三諦に 對するもの に  して、 共相 と名 く る は諸薀 に は皆、逼迫相有るが故 な り。 是 くの 如 く共 に逼 迫の相

 

なるこ と を思惟 し、 即 ち是 れ苦及び非常 ・空 ・非我の 相 なるこ とを思 惟するこ とを、 亦、 即 ち名けて 苦 諦 現 觀 と爲 す 、 是の 如 く現観 して若し諸薀に對 すれ ば 自相観 と名 け 、 若 し諸薀に對 す れ ば 共 相 觀 と名く。 (

405a

b

諸 氏は 、 この よ うに綿 密 な考 証 を行 ない 、 次の よ

に ア ビダルマ

哲学

を評 価 す る17)。

 

沙論』 と同様 『倶 舎 論』 で も認 識論の 中で 自相、 共相 を決 定 的に区

するよ

な基準は設け られ て い か っ た とい うこ とで ある。 … … 『沙 論 』 『倶 舎 論』 で は、

 

自相、 共 相 は 認 識 論の 用 語 と して確定して お らず 、 両 者 を区 別 す る確 固た る基準 も なか っ た。 その ため認 識 論の 中で 自相 、 共 相の 区別 をする場 合で も、 対 象を認識す  る側の 認 識の 仕 方の 違い に よっ て 区別 し ようと し てい る。 自相、 共相を含 む 認 識 論 一

312

(10)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

10

    

svalakSa ロa とsamanyalak $a4a につ い

1

) (

の 体系が未だ 十分整 っ て い な か っ たこ とを示 してい る と言え る であろ う。

方、諸 氏 は、ディ グナー ガに はsvalak $ana ・samanyalak §apa を区別 す る基準

が あ り、 その 認 識 論の 体 系 も整 っ た もの であるとして、 次の よ

に述べ る。 陳 那の 認識論で は、 認 識と対象と が、 そ れ ぞ れ二 種 (直接知覚 と推理 、 自相 と共 相

に峻 別 された 上で 、 直接 知覚 と自相、推理 と共相、 とい うよ うに 結び付け ら れ 、 二 つ の 異 な る認 識の 系 列が 立て られて い こ の 二 つ の 認識の 系 列は、 互い に交 換不 可能な 、 まっ た く異 なっ た 系列で あ り、 そ れぞ れの 系 列 を峻 別 する 基 準 と なるの は 分 別 の 有無で ある。 (直接知覚 一

知 一 自、 推 理 一 分 別一 共

は、 『

集量論

』 の 次の

箇所 を

示 して 、 ディ グナー ガが分

を基

と して い るこ と を 明 らか に

る19)。 そ れ 〔五 識身〕は、 多くの 物 (rdzas , 

dravya

)に よっ て 生 じて い るの で、 自 らの 処

に関して samanya を対 象とする と述べ れ るが 、 区別 あるもの (tha 

dad

 

pa

)を無

区別であ る と分別す るか らでは ない の で ある。

 

de

 rdzas  

du

 mas  

bskyed

 

par

 

bya

 

ba

 yin pa ’

i

 

phyir

 rang  

gi

 skye mched  

la

 spyi’

i

 

spyod  

yul

 can  zhes  

brjod

 

kyi

 

tha

 

dad

 

Ia

 

tha

 mi  

dad

 

par

 rtog 

pa

 

las

 ni ma  yin no 〃

 

p

179

11

29

31

) 20) さ らに、 また、 ス ティ ラマ

Sthiramati

480

540

)の 『倶舎論』 注 『実

疏』

Tattvartha

一を も丹 念に考 察 し、 次の よ

に言

21) 。 つ り、安 慧は陳 那 と同様、分 別の 結果であ るか 否か とい うこ とを基準として 自相

 

と 共相 を区 別 して い た の で あ る。 … … 『実 義 疏 』 は世 親の 考 える認識論 的構造の も

 

とで 『倶舎 論 』 を注 釈 した の では な く、 陳那の 考え方に非常に近 い 形の 認識 論 的構 造 を もっ て 『倶舎論』 を注釈 して い るの である。

氏は 『

』の 内

を詳 し く紹

す る。 その 中で も、 次の 一 、 デ ィ グナ ー ガ説 と見

符合 す

る もの である22) 。 その 合 、 眼根 の対 象だ けに おい 、 眼 識が 生 じるが、 他か らで はない の で、 これ

 

ら は、 処 を相 とす るもの に 依 存して、 svalak 爭a ロa を対象 とするが 、区別 あるもの を 無 区別である と分別 する か ら で は ない の であ る。

de

 

la

 mig  

gi

 

dbang

 

po

i

 

yul

 

kho

 na  

la

 mig  

gi

 rnam  

par

 shes  

pa

 skye ’

i

gzhan

 

las

 

ni ma  

yin

 

pas

di

 

dag

 ni skye  mched  

kyi

 mtshan  nyid  

la

 

brten

 nas rang  

gi

mtshan  nyid  

ky

 

i

 

yul

 can  

gyi /

tha 

dad

 

pa

 

dag

 

la

 

tha

 mi 

dad

 

par

 

brtags

 

pa

 

Ias

 ni ma  yin 

te

p .

48

 

ll

1

4

)23 )

311

(11)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University

       

svalak $aOa samanyalakSaqa につ い て

1

) (木 村)

    

11

こ の よ

に、

氏は

目覚

ま しい 成

果 を挙 げ

た。

さて、

氏の 研 究に関 連 し て 、

少 し、 考 察 を重 ねて み よ

。 確か に 、

倶 舎 論

で は、 svalak §aロa ・samanyalak §apa が 認識 論の 中で語 ら れて て は い ない 。 知 覚 や推理 が

議論

過 程

登場 す

る よ

な場合 で も、 そこ に svalakSarpa ・samanyalak − $apa が現 れるこ とは ない の で ある。 『倶 舎 論 』に おい て、 知 覚 と推理が 同

に現れ る

箇所

を、 次に

てみ よ

 

て、 こ れは虚 空 を語 るの で ある」 と経 量部の 者 達は言 う。実に、 こ れ ら 生等の 法は、 〔汝 等が〕分析 する よ うに、 物 (

dravya

)として 存在 しない 。 何故か ?

 

プ ラ マ ーナ (

pramapa

)が ない か らで ある。 つ ま り、 こ れ らが 物 と して 存 在 す るこ と に 関して 、 色 等の 法 〔が 物 と して 存 在 す るこ と に関してあ るよ うな 〕 知 覚 ・推理 ・信 頼 さ れ るべ き聖

典 (

aptagama

マ ー い の で あ る。

 tad 

etad

 akaSarp  pathyata  

iti

 sautrantikab

 

 

na

 

hy

 

ete

 

jatyadayo

 

dharma

 

dravyatah

 sarpvidyante  

yatha

 vibhajyante

kirp

 

karaqam

? 

pramapabhavat

/na

 

hy

  e

arp

 

dravyato

 ’stitve  

kihcid

  api 

pramapam

 asti−

pratyak

numanam

 

aptagamo

 va , 

yath

巨r  adina 甲

dharma

ロa卑

iti

p

257

11

1

4

 

「 こ の 我 とい う表 現 は 、 蘊の 相 続だ けに用 い ちれ るの であ り、他の 表 現対象に 〔用  い られ〕ない とい うこ とを、 どの ように 理解 するの だ ろ うか ?知 覚 と推理 が ない  こ とに 基づ い て 〔理解 するの である〕。 実に 、 法が 存在する時、 邪魔す る もの がな け れ ば、知 覚に よっ て 認 識されるの で あ る。 例 えば 、 六境や 意の ように。 あるい は、 推理 に よっ て 〔認 識 さ れる〕。 例 え ば 、 五 根 の よ うに。

 

katha

卑 

punar

 

ida

 manyate −skandhasantana  evedam  

atmabhidhana

 vartate

nanyasminn  abhidheye  

iti

pratyak

§

anumanabh

巨vat /

ye

 

hi

 

dharmah

 santi  

te

§aym

 

pratyak

$am  upalabdhir  

bhavaty

 asaty  antaraye /

tad

 

yatha

ap 口

tim

 vi §ayaOa

 

manasa §ca /anumanarp  ca 

tad

 

yatha

 

paficanam

 

indriyaparp

p .

1189

1

5

−p . 

1190

 

1

4

この 二 箇 所に おい て、 svalakSa ロa ・samanyalak §apa は登

しない し、知

理 の

対象

も区

さ れ てい い 、 両 者は共に、

あるい は

対象

としてい るの であ る。 こ れ を もっ て、 認識 論が未だ整

されて い ない と、 再

ることは で きるか

しれ ない 。 デ ィ グナ ーガ が その 整備 を行 なっ たの だ とす れば、 彼 はア ビダル マ 哲

学 を

一歩

前進

させ た とい るで

。 また、 svalakSarpa ・samanyalak §ana に

う矛 盾 をデ ィグナーガ が 認 識論 的に解

し たこ と も、

でに見た。 しか し、 筆

に 一

310

(12)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

12

    

svalakSarPa とsamanyalak §arPaにつ い

1

) (

木 村

は 、デ ィグナーガ的な 整備の

だけが 、ア ビダル マ

哲学

の 進むべ

あっ た とは

え ない の で

る。

大毘

』 には、

有為相

samskrtalak $apa

有為法 (

samskrtadharma

の svalak $apa なの か samanyalak §apa なの か 、 とい

長い 議 論がある。 そ こ での 、

解決 策

は デ ィグナ ー ガ と は全 く

な っ て い る。 それ は、 次の ような もの である。 問、 諸の

爲相は、 有 鳥法に於て 、 是れ 自相 な りと爲ん や。 共相 な りと爲ん や 。 設  し爾 ら ば何の 失 か あ り や とい は ば、 若 し是れ 自相 な ら ば が一 四相 有 りや 。 若し是れ共 相 な ちば 、云何 が 一 有爲 、 別四 相 有 りや 。 有

 

る が是の 説 を作 す此 は是 れ 自な り 若 しらば 云 何 相 有

 

りや。 答、 一 四相 あ る も亦 、 失 と無 き と、 色 法

 が如 し。 所 謂 、 病の 如 く、 癰の如 く、 箭の如 く乃 至 廣 く、 百 四 十 を説 く. 然か も此 の 相 は、 四 大 種 に おけ る堅 濕 煖 動の 相 の 如 くに は非 ら ず して、 但 一々 の 法 に、 各々 、別に生 住 異滅有るが に、 自相 と名く るの み。 復 次に、 自相 に 二種有 り、一 に は主 自相 、二 に は客 自相 な り。 此の爲 相 は、 有 爲 法 の 自相に して、 主 自相に 非 ざる が故に 、 一 相有 も亦 、 失有るこ と無し。 復次に 、 自相に 二 種有 り、 一 に は本性自相、 二 には他合 自相な り。 此の 有爲相は、 是れ有 爲法の他 合 自相に し て、 本 性 自相 に非 ざるが 故に、一法に四相有る も亦 、 失

るこ と無 し。有餘 師の 説  く 「れ は是 れ 共 相 な り 」 と。 問 、 若 し爾 ち ば、云何が、 一爲 法 別に、 四 相有 りや 。 答、 相似 を似て の故に名けて四 相 と爲す。 一 法上に、 生等の 四 有るが如 く、 餘法に も亦 然 り。 一衆 花 を貫 在 如 くなる が  る に は非ず。 復、 説者有り 「 自相 も非 ず 、 共相 に も非 ず。 諸の 有 爲法の 生 往 異滅の 名義、 同 じ きが故に、 體 、各別の 故に 、 然か も此の 生 等 は、 是れ法の 標 印に して 、 若 し此有ら ば、 是れ有爲 と知るべ きこ と、 大士 の 相の 如 し。 〔三 十 二 相は〕 彼の 大士に於て、 自相 と名けず、 亦、 共相に も非ず。 但 、 是れ標印に して、若し此 有らば、是れ 大士 と知 るが如 く、 生 等 も亦然 り」 と。 評して 曰 く、 是の 説 を作 すべ  し。 「 、 是 れ 共 相 な り。 然か も共 相 に 二種有 り、 一 、 自體 共 有 爲法の 自體に 、各、生等の 四

義有

る を謂い に は和合 共相に して 、一々 の 爲 法は、 各 、 生等の 四 相 と和 合 す るを謂 う。 此の 四は但 、 是 れ 和 合 共 相 なり」 と。

  (

200b

− c)

 

こ こで は、 svalak $apa とsamanyalak $aロa が、 それ ぞれ、 主

自相

客 自相

本 性

自相・

合 自相 、 自体 共 相 ・和 合 共 相 と

に分 類さ れて る 。 こ の よ うに分 一

309

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(13)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

      

svalak §a ロa samanyalak §apa つ い

1

) (木 村

    

13

) 類 とい

う手

っ て

を解決 す

もあるの で

る24)。 デ ィ グナ ー ガ の 選ん だ

解決策

が、 ア ビダル マ

哲学

に とっ て、 真に 、 適切 な もの で あっ た の か 、 とい う視 点

を持

つ べ

。 したが っ て、 ディグナ ー を評 価

合 もが ア ル マ 哲 学の 不 備 を解 消 した とす るよ

な一

面的

見方

か らの み なされ るべ ない 、ア ビル マ 哲 学の 全 貌が 明 らか に されて い ない

か なこ とは

もわ か らない の であ る。 ア ビダル マ 文 献の 網 羅 的 な研 究が是 非 と も必 要 で あ ろ

。 とはい の 種の 文 献は膨 大で ある。 と りあえず、本稿 で は 、 『 倶

論』 とその 注 釈 を調査 し、 考

とした い 。

III

 

以 下に示

調

査の

対象

る。

A

Vasubandhu

:、

4

δ痂

4

勉 γ魏 盈 o勍δ

1

囎 α ed . 

by

 

S

. 

D

. 

Sastri

Bauddha

 

Bhar

   

ati 

Series

5

6

7

9

1987

 

A

B

Ya

§omitra :

5

露虹 ”

ed . 

by

 

S

. 

D

 

Sastri

Bauddha

 

Bharati

 

Series

5

6

  

7

9

1987

Y

C

Sthiramati

7

濡’痂 ”

Peking

 ed . 

No

5875

.(

S

D

PUrdhavardhana

LahSarpa

−nusarini  

Peking

 ed . 

N

 o .

5594

.(

P

E

 

Dignfiga

Marmapradipa

 

Peking

 ed . 

N

 o .

5596

Di

F

Vinitabhadra

:働 万 肋 ろ

α 

Peking

 ed . 

No

5592

.(

v

G

. mChims :mChims  mdzod  

pub

. 

by

 

Library

 of 

Gaden

 

Shartse

 

Monastic

  

College

, 

Mungdod

1992

.(

c

H

玄 奘; 『阿毘 達

倶舎 論 大正大 蔵 経

No

1558

1

 

真 諦: 『阿 毘 達磨 倶舎釈 論』,大正大 蔵経 、

No

1559

真)

 

ここ で、 文

略 と

調

方法 を

示 しておこ

。 上

A

が基 本 となる。

B

C

D

、 

E

、 

F

A

対す

るイン ド

撰述

の 注 釈、 

G

A

す るチベ ッ ト撰 述の 注 釈、

H

1

A

訳であ る。 イン ド

述の

注釈

ち、 サ ン ス ク リッ ト文 とチベ ッ ト訳 が見られ るの は

B

だ けで あり、

はチベ ッ ト訳である。

C

D

は内容 的に 一

場合

E

、 

F

注釈

とい っ て も分

A

よりも少 なく、

A

の 要 約で ある。

稿で扱

う範 囲

に おい て、

E

、 

F

は独 自の 解 釈 を示 してい ない 25) 。 

G

ベ ッ トの 代表的注 釈 で あ る26}。次 に調査方 法 を述べ る。 まず、

A

で言及 され る svalak −

$ana とsamanyalak $ana を

べ て採

し、 

B

、 

C

、 

D

、 

E

、 

F

、 

G

に お け る対 応 注釈 一

308

(14)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University

14

   

svalak $arPa とsamanyalak §apa につ い て

1

木 村

箇 所 を調べ さ らに 、

H

1

応 箇

を確 認 す る。 なお、 今 回は、

中国

・日

の 注 釈は

照 で きなか っ た。 以 下で は、

め に 、表に よっ て調査

果 を整理 し、

明 を加 え る。 さ らに、

A

の サン ス ク リッ ト文、 チベ ッ ト訳、 日

語訳 、 

B

の サ ン ス ク リッ ト

、 日本 語 訳、

C

、 

D

、 

E

、 

F

の チ ベ ト訳 、 日

本語

訳、 

G

の チベ ッ ト文、 日 本 語 訳 を資料 として提 示 する。 その 際、上 記文 献の それ ぞ れの

末尾

した

A

等 を略 号 とする。

GO

S

)(

P

)  (

V

)(

C

) (

A

(真 )

1

○ ○ ○ ○

O

○ svalaksana    ・ . 自相      (

1b9

) 自体相  (

162a

9

2

○ ○ ○ X × svalaksana    . , saman   a

異霜 

(・… )

163b

・胱 ・)β

3

0

○ ○ × svalaksana    ■ 「 自相       (

3b1

) 自相 (

163c17

18

4X

× X ○ ○ × svalak apa 自相

     

6b18

) 性 類

   

166c13

5

00

× × Xsvalak $apa 自相   (

27a28

29

) 自相  (

185c5

6

6

○ × ○ × ○ ○ svalaksana    ■ 卩 本 相     (

30c8

) 自本相 (

188c13

70

○ ○ × ×    svalaksana唖      レ sa皿

an

 alaksana

霜 

40a7

9

197b1

14

)α

8

× × X × X × svalaksana    「 , 自相    (

41b21

)自相    (

198c18

9

○○ ○ X × × svalaksana    , 「 自相    (

68b26

) 別相

   

226b4

10

○ ○ ○ × X ○ svalaksana    . o saman  a

異耜

 

( ・・…

6

255b

・ 

28

) β

11

○○ ○

O

○ Xsvalaksana    ・ , saman  a

異耜

1

4

1

・一・

2

257b

・← ・

5

) β

12O

× X × XXsvalaksana           自相   (

115a16

) 自体 相 (

267b25

13O

○○

O0svalaksana

   sam n .  alaksana    鹽

異霜

118c18

19

271

  ・

α

14

0

○ ○ ○ ○ svalaksana   sam n ■ ■alaksana

異霜 

135

8

) 別相

   

286c23

α

15

×

0O

OXsvalaksana

    . 噛 自相    (

135c11

) 自相    (

286c28

16

0

○ × × svalaksana    噛 ■ 自相

   

136c5

別相     (

288a2

17

× ○ ○

○ ○ ○

svalaksana    , ■ 行相

   (

136c14

) 行相    (

288a10

) 一

307

一 N工 工一Eleotronio  Library  

参照

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