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『宗教研究』189号(40巻21輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

宗教研究の立場と宗教的実存の問題点, 石津照璽, Inquiry about the Method of Phenomenology of

Religion and Ontological Basis of Religious Existence, Teruji ISHIZU, pp.1-23.

2,

「楽園説話」の神学的構造, 民秋重太郎, Die Grundgedanken der Paradiesgeschichte bei, Jūtarō

TAMIAKI, pp.25-42.

3,

入楞伽経における自内聖智の意義, 菅沼晃, The Pratyātmāryajñāna in the Laṅkāvatārasūtra, Akira

SUGANUMA, pp.43-66.

4,

わが国儀礼文化の一面:儀礼構造論への試み, 倉林正次, A Study on Japanes Ceremonial Culture: An

Essay on Ceremony Structure, Masatsugu KURAHAYASHI, pp.67-87.

5,

親鸞における救済の極限概念, 石田充之, The Fundamental Idea of Salvation accorbing to Shinran,

Mitsuyuki ISHIDA, pp.89-107.

6,

ヴァッハ宗教学の構造分析, 和井田学, Structural Analysis of Wach’s Studies on Religion, Manabu

WAIDA, pp.109-131.

(2)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点 源 歴 な 省 る て る

な 意味において、主体が如何に存在して た 、根源的な意味において、何にもとづ であるか、ということが、宗教研究上の ぅ 研究のためには、さしあたり二つの 仕 の 一つは或る特定の宗教の経験について に 従って解体してゆくことである。 な、 或いは民族的な宗教でも、それぞれ 社会的その他の諸要素ないし諸要件に ょ 即ち人間存在の基礎的な在り方へむけて

方であり様相であ 在り方や様相におい 究極的な問題性である。 着するように思われ 素を 11現象学的反

ぃ はいわかる未開 の 考え方や行 い 方は ﹂れるの諸要素を根 たる所以の根 抵が顕

存の問題点

石津

( Ⅰ 17)

(3)

行 なわれる。 抽

頂点とし、 PT 、

等は特定の宗教 経

あられす。

C 、 T 等を頂点

的な、共通的な要 素や要件であろう。

りに、たとえば

すると J を頂点と

る 三角形と M を 頂

定の宗教経験であ

ク なるものを 体 用

ろうが、ここに 三

おいても同様であ

形 ZPE は諸類型 の類型ということになる。

あって一律にい

のように考えておく。

綜ムロ してまとめ

広 し、その根底に

の 底辺 PE の E は 特 定 小数 の 経 験、 す な ち 浄 土 教 の Ⅰ二 口 仰 J と か 信 仰 イ " -" 一 口 一 仰 天 理 教 の 信仰 ( /7%)

るホ 。

(4)

いは

処置なさは、実は本

あらわれではないかと

問題にし、且つ宗教的

(119) と 宗教的実 、個体における特殊 対する適応の問題を 存 の問題点、

さ る 性 り 生 ら 機 を だ 態 に

能 こ さ 学

かろわ

物 ッ辺 。 E, 的 商 い 、 一 な に る 生 っ 場 い こ 宮 仕 が て ら み 方

以立現

6 字 ゲ ベ ふ 求 の の と

丁場美一則

ル き さ め 「 全 い の 」の 連 ちや も わ る 宗 体 ぅ よが

場の人史

の ラー 、 面 考間 的 を そ 現 と の 右 れ 在 ぃ 場 の ほ の う 面 よ た と、

そて晩

、 いい、

の来年戒

頂 と う、 基 るのは 点 者 の 、 礎 こフ デ J 、 る

とに

社会 研究 経 」 即ち 構 の 験 合 お

在はやの

か げり こ 最よ ち

た方こ 近う 垂

よにでのに

う 照 " ギ 社 線を な ら 宗り 会 お 間 し

教シに

ろ 題合 な ヤと し を ま め

0 字 或 に で

扱と経、

うな

方は フ 辺を も 尊 い お は あ に は い な

(5)

い 。 ま ︵Ⅰ 上 ︶

と 連鎖し

的な意味

験が、

意味や理

クス・ シ

にはある

究 対象と

なりたつ

なこと

いかとい ずはそのと 交会すべぎ や 構造、機 ただに経験 由 が問題 領 エラーは コ 。いずれも するのであ であろう。 は宗教学や うことであ

活の特殊な部面に

や機制及び意味や根の 拠 であった。

、ここでは標題のことを問題にしてみる。 一

(6)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点

﹂として提唱した。

からだといわれる

0 社会科学の分野や えても用例からいっ

いる。 占 示教史学の結

る ︵ジャン・ダニ ェ

、 来る学問のように

いっていたように、

はない。

最もまとさって い

、かつ了解心理学の

示すものをどうして (121) なかにあるいろいろは問題点である。 織的 研究にはわた 宗教現象学の著作 や 現象学にあるといっ ば 会議の代表的立場 る 。

このことについては既にふれたこともあるが、︵

2 ︶

ここでは別な点からふれてみよう。 それは い わゆる宗教現象学の

(7)

げる意味連関の基

はこの点の追究も充

で ・

たらい約れ

つれ。

いこ

が ﹁類型﹂である。

止や形相的還元

ものからはな

がある。現象学

形相にあたらな

のようにしてえ

得、事記がなり という。

を 綴りあわせるとこ ﹁再構成﹂されたも

底図 を書ぎこむこと

主観が対象にかかわ 6

続きを要する。了解の

い う のである。 げた

(8)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点

4

分 でない。

た 。しかし、そこに

るというのが今日の

解釈学の問題場面である。

さらに特殊な要件

地盤にもこの特異性

れるかどうか。宗教

態ではないかと考え

られる。

な 仕置をもって

テソ

において

原 歴史

末の歴史性︵各自の

としてもつという課題となっている。

ような宗教的実存

﹂は今日のような、

はないかという問い

(123)

(9)

ろしてからみらる べ くのであるが、了解

現象学的方法にふ

開を示していない

|デや とくに ワッ

出来なかった。

せられ、したがっ

。けだし端的に方法

続きとしてのみなら

鋭くいったように、 ︵ 二リ ︶

に 外かならない。

るし、宗教現象と

ぅ ことであるが、 つ

かるという問題とし

現実的にもつことで

事であろう。しかし

しては特定の前了解 (124)

(10)

って宗教現象学 立

れる。なお﹁宗教 究

ものを中心にふれⅨ 研 教 た 古本

P づ口・ いい ︶ 曲 :

う ち、第一、第二論文参照。 ︵ 2 ︶同上

Ⅱコ口 用臣ゴ Ⅱ亡臣㏄ ぃ 口ロ げ

ト由 :の 曲 題 問

ぬが、宗教哲学

対象を分類し、 そ 存 実

それは宗教的行為 的

かしいうところの 教 古本

て 来ているのは前者である。 と

では決定的であり、

の 領域にもって来る

っ 信仰とまでいわれ

て 処理してよいと 考 えられる。

な事例として吟味 してみよう。

(11)

るからである。

実存のことを問題に

はさしあたり、

現象学的に求めら

意味の連関の全体

。ディルタイにお

拠 によって了解の 可能が支えられる。

一山八二︵昭和一一五︶ 、 参照。

プ チオ ソと 実存

工ハ ︵昭和三三︶ 、

どが問題の所在 を 示して参考になる。 ︵ 6 ︶ 前註 ︵ 4 ︶ 参頑 。 四

如何はやはり実存

ト ののの,づ口・のの 由

るという現象学的 還 1

のであるが、レウ 禰

(12)

宗教研究の立場と 宗 雛 内実存の問題点

存することである

伝達﹂ということを 、とくに神とわか 実存とは 之 山斗 抜セ oH Ⅰ 目目毛 相ガ 眩ダ 乞田 臼打 せ 0 ︵ 音ョの 。まであ

の 理念と異なる。 彼 る 外はないが、実存

と 無限との﹁綜合﹂ 性 をもっが、それは自己が課したのではなく、 第三者即ち神が課し 十八 - Ⅰ。 属することでほ な

課題に対する人間 存 在の逆説がある。 題 の 要 処は如何に

た 後年の論争や彼自

存の心理学的実験力

| ルマン及び レ ヴィ 分を切り捨てなけれ Ⅰ 1 (127)

(13)

もたぬといったハイ

右の問題と連関し

範囲で論じている。

エ ル

ゴールを神学

ぅ としても、却って

も 、当時彼はやはり

て未

だ伝統の座に入

その側において論ず

ぎであるというのである。

、リンドストレ

かけて

趨 帰するもの

ものに依存している

初めにおいて遠慮

味なものとした。

、彼と軌を一にする

のは

トウルナイゼンである。

(128) 12

(14)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点

ルテンやことに ブ

日の神学的解釈の主

救いの成否の最後 法

くに イェスのあの 出

方 にみる。このこと

ぅ 。ゴーガルテ ソ の

た ブルトマ ソ は 、史

に 聖書解釈について 解釈学的主張を展開している。

一般に英米等でい

ぞれの連関に立っ |

ティッ シ 仔分けて、

ルンドの人々のよう

のも多い

は 撞着するし、その やはりポジテ ィ

ハイデッガーとの 関

問題が残っている。 Ⅰ 3 (129)

(15)

ェ も あ た と 験 要 の を ル キ こ ろ だ の の 素 問 苦 ま

に 実存すること

ことは宗教哲学

成立的既成的な

、そこに宗教 経

定の宗教的対象

と 解釈される。

なわれるべきで

要請である。

はなく、あたか てちょうど、 キ る 。︵Ⅰ︶

ものを切りすてるこ

てはキェルケゴール

0% 近代福音神学史 L 第五でも 叙 べている はこのような断層 4 問題にする場合、 わ ︶ ものを切りすてると㏄

(16)

宗教研究の

なものは現実的なもり

の 断絶を彼はロパ ル

るものに求めた。 実 1 と 実存するとは、可能的な

彼はアリストテレスの

の た か 相 も 実 ら 以 の の 存 キ 王 も と す ェ の

とこ

現前とに ると ルケ

青北一七

お の い ゴ ろ 年

大一の

い 白 う @ に て 己 こ ル 実 時

代文

単月

Ⅰ よ う

と 究 ル方

生に彼の念

え 現 0 年 ケ に 成 関 に 内 に と 心 お 客 っ

相報ゴつ

l い ほ 白 い に い

七六

か て 可 巨 て つ て

五の稿

と に / の

Ⅰ関一宗

」 -

す二教

あ し 前 て っ と る( 論

つ研暗

に 、 究

相関

する

等の 」同 三

O

が一

「 学 そ の か る が

甚 「 ゴ八 ヤ Ⅰ し ま や ) でキ あ ヱル l 0 "

かケ にお ノノ づ け - l 6 ( ふノ

ル生

昭 な

思惟

体相

一 観

,点

Ⅰ玉

想の

の問

(17)

。この現前の今に 、

をもっが確立

る 0 各自の現前の今 の い う ﹁瞬間﹂である。

ことであるが、﹂ 実存において有限的

、とくにそれらの綜合である。この綜合は第三 者 とくに神が課した。

の 永遠なるものは 可 その綜合は﹁瞬間﹂

味 で交錯して 叙 べら れている。

が 、実存の範 時で

のへと、この可能性

おいては必然的では

かる無において在る ことである。

のを無を透しても

る 。従って、先取さ (132) 16

(18)

として存在したということはどういうことか。 それは実存の在り方を人の

った 。 罪 とは永遠なるも 士小

るために、神は特有 1

らない。その決行が

﹂のことも、神の前

存 ということであっ 明らかになる。

ることはキリスト

ス 卜者になるかということが終生の問題であっ た 。﹁それは、あの 世

。永遠なるものが 時

、出来事そのものが

﹁史実﹂ 隼 りの ヱげ ︵ 0 |

を 得るか。

したこのことは、悟性的

る 概念である。現実的と

的 可能的なものを過去的

もつということである。 井 @

﹂における一致である。

(19)

Ⅰ 、

をそ キェルケゴールの実存解釈のうちで﹁負い目﹂ や

或る リスト教の実存 解 の とおりに 舞う処 ということである。 活を貫いている

気分であるが、 もあろう。そこに 自 こうして遂に死に至る病を病む限界において、 ﹁ 時 充つるに及ぶ﹂ ぅ ることは、只管な る 努力と、悩みと罪の自覚である。 りかえす よう にし ていない。 ソ クラテ 合 、それは神でなければならない。何故なら、 こ う い う 柏手に永遠

た 。それは神の愛の 与えた。しかし、 永

を目 あてとして課題 、 即ち同時性において、得ればよい。 (134)

き 、憤り、これを 無 8

(20)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点

ぃ 目や罪の機制もや

とすると、その途端

過去に去ってしまって未済の様態におかれる。 ところが或ることが

将来に転じて、将来

すべ き ものは永遠な

決済を迫る。これが

来る箇所は何時でも実存の現前の場面である。 そこは可能性におい

済を迫る。罪の間頭

の 欠如の様相をいわ

ヴ なるものが過去に

からの決済の要求 と

功級に描いた。

在り方においてあ

意識に居ることであ

絶望やデモニッシな

内面化しっ づ げな げ

身 する作業である |

子なる イヱス はあの Ⅰ 9 (135)

(21)

々においてもなし

存の理念が完遂され (136) 20 七 が ; に よ l ト 。 凶 ,

な が こ そ さ 源 を ぅ

。 散 点 彼 の げ こ 面 て そ ろ は と れ

ろ 存 根 求 に 存 あ 無 は キ 化 が の ら

か と 向 と 入 方 の て の 教 に 主 を ぅ ろ は に に 間 に 所 通 関 で 、 体 読 め も の 突

おなを

いる描いはれは

っ論ら係い彼佳

のの。

くで

が存て

宗のおい、

きて

実て主

存い

体い

救い真そる

理の。

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てい出ったた

しい。 。

る ま し

う 以 、 ジ る 方 か れ

「こ上

そとの

れ は と か 出 こ

9 % て も 人 は ら 構 に 学 る の 間 も い 造

みにで

的のをを

そ描

てばの

え 止 す 考 は の く い 、 機

明ら

へま「 真 で 摯 か る え な ま の た 無 制 し 」 な

(22)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点 21 ( Ⅰ 37)

のことにふれることはない。

ことか。さしあた

能 のごときが問題 肛 ︵Ⅰ ュ ︶

がある。マクス・ シ

的にいって無理な 逸

場面につけてみたこ

それはともかく、 そ

え方の軌道にあるとみることも出来よう。

なければならな

的な場面からはなれ

想 として、或いは ハ

ぱ 、それらも超えて

析 法体 法 、 析 生体 空

には不可得 空 とか、

質 存在論はその上に

におち づ くのではな ︵ り乙 ︶ かろうか。

手を此方にとって

(23)

味 ﹂︵宗教哲学の問題と方向所収︶参照。

を 論じるものとして

しない︵ 上註 、 四 ノ ︵ 1 ︶参照︶。

二六の 一 、昭和三

二八、等の参照をいただきたい。

ればなるまい。 ︵ 90 ︶

ろ う 。しかし、これ という。

した

殊な

において支配され 域を超えた領域で のと同じ関係のもち方になる。

けれどもそこに

神の愛の所作と

に 宗教的解釈学の

て|

それが在って 2

手 どったりするので

止 めよ う に 体法 の 空 ㏄

(24)

宗教研究の立場と 宗教的実存の 問題点

切りにおくれ

させていただくものである。

23 ( Ⅰ・ 39)

(25)

「楽園説話」の 神学的構造

的来勢

媒の

」 分 家 か と 散 ら し 史 少

派 しで バ の も ル 方 脱 ト 渋 皮 自 読 し 身 を た は 完 い 新 金 と し に い い 否 ぅ 建 定 悲 設 し 願 を て だ 試 は け み

たる

か は

も も 諒

べ は で

で、

れ 言 の

兜 苔 成 定 旧 25 (141)

国 旧約手 の ﹁明治体

原文自体に沈潜して 序 その研究態度として如何 あ

完全に依存して、相変らずの って、素手で、テキストそのも ぅか 。 あえて、旧約十最も難解と るべきであろうか。旧約神学の ﹁翻訳状態﹂を続けるべきか。 のに当り、テキストそれ自体か いわれる創世記の﹁楽園説話し テ法論 それと - ら、 何 と取組

﹁楽園調声の神学

構造

良は

(26)

(142) 26

凡ての学者がこれを主張する。その文学的 表 現 はもとより、 擬

理 観念の低劣︵割花葦竹以下、お 章 、 笘章等 ︶ などからみて、決し

適当でないかと考えている。 園 説話は稚拙なお 伽 の 祭司資料︵ P ︶に のようである。 かを語り、また 訴 いは口伝であり伝説 り 、﹁真実﹂である。歴史的真実性を欠くが、 思想的真実性をもっ ろ う 。 説話﹂の思想的 真 る 。 ぎではなかろうか。 一、ヤ

ハウイスト資料の性格

(27)

「楽園説話」の 神学的構造

楽園説話﹂となっ

を 説話として修しため かを、 先づ 問わねばならない。

何らかの意味をも ニ

、体系的神学構造

史話﹂の語を適当

もつもの、多分に説

のを指す。

を 欠くが、何かを

様であって、ともに

らず、 サ ハウイスト

ねばならない。

J ︶の﹁粗筆、 禾

疎を意味しないこと

って豊かな内容を盛

内容の深さがあり、

述 であることに驚かざるをえないのである。

(28)

は 未

ネ甲 序 ( ( 的 上草 恩 l 章 2 ) ) 恵 14 8 章 2 9 ) 王 上手工 - 18 2" む 発 の ま 速 す づ の き 楽 殿 も 国 隣 な 説 に く 話 は 構 全 あ 成 体 っ さ

を 思 ぢ

し あ 無 て る ・ 駄 み い も ょ は な

的 ど に 休 は 糸 的 煮 に 外 祖 に 織 整 化 黙 さ た れ る て 秩 い 序 る を も 文 つ 学

て的

る 倫 こ 理

、とに

的 と ヌⅠ ま が た つ 宗

的 ヤブ し

よ 尤し 、。

驚く。むしろ寸分 (144)

互に無関係の㌧ qQ ヤ 8

(29)

「楽園説話」の 神学的構造 ス っ , 杏 、 ま ト て 息 こ

づ 神 極 へ の 神 学 め の 表 神 神 神 の の て 背 に 楽 の 背 の の 周 密 度 息 女 ヵ

よっ

カリ 体系 巧妙 反 」 追 刊 と 恵 の り 放 と し へ 恩 ス ス て

的にをて

論説

記理

の し て の 恵 マ 刑 て の 背 ( 的

罰 の 人 文 3 周、 恵 あ 体 そ れ ( 別 間 章 恵 な る を れ る 3 罰 の 20 考

こ 構 の よ 立 耳 栄 え 造 結 う 23 イ七 2 Ⅰ

てに

み " づ

げと

果に

" 24 ) 3 よ 持 て し こ 土 耳 う に い て の 22 。 注 る の 説

た で の 体 ぃ あ 審 の の る 制 縛 で 。 と 造 あ 要 し が ミ

理 罰 路 」 カ 整 な り 然 述 マ た べ ス る て 的 構 い 思 造 る 恵 の 。 」 下 、 あ た に 童 ま か 点 こ も が ; と 7 % ぽ か か

た り 次 ヤ ズ @, こ

イ 乗 の 背反としての誘惑︵ 3 章 Ⅰ ・ m ︶ 三 、神の審判としての刑罰 a 蛇への刑罰︵ 3 章 M 1時︶ b 女への刑罰︵ 3 章 蝸 ︶ c 男への刑罰︵ 3 章 Wl ㎎︶ ﹁ 後捷扁 ﹂ 29 (145)

(30)

a

水の恩恵

たしかに稚拙な文学表現ではあるが、 P 同様、 序文に原始混沌の

上に雨を降らせなか

たいする関心の深さ

ない。

ていた い 0 ある ぃ

﹁ 水 ﹂に関係をもっ

ことを示している。

があり、﹁ 水 ﹂ 甘ギ に、 水の存在が前提されているのである。

。それは﹁ 水 ﹂ の はあるまいか。

書 における水への

異常な関心が寄せら

えられ 宙お章援 、

出 Ⅱ 章 6 、 民 ⑳ 章 ( Ⅰ 46) 三

、神のカリスマ的恩恵

(31)

「楽園説話」の 神学的構造 存 の て 研 て と 在 る も 究 ぃ す も っ 同 で た れ 会 た 様 は ら ば く ョ で 禾 ど 擬 か あ 解 ぅ

ら 地 河 、 あ ろ

ヤろ

のは

な列

コに

あったことは疑いえない。イスラエルにおい 乾草 れ1 ︶ や 、スリア王 ナ アマンの治癒に 効 ち 、これら 四 河川の歴史地理的考証は今日の

いようである。

創 M 章 7 ︶、貞操を試さんとして

一 ミズム的なアニマの存在が看取さ

ょび 堅果︵ 井 ︶の観念、またそれ のであった。 大な恩恵である。この民間信仰を 展 させようと試みたのではあるまい らしめよ うと 企図したのではなかろ 解させるためには、この﹁ 水 ﹂に 託 かつ効果的であったのではあるまいか。 ンの 園から流出する 四 河川の記録 遇 を受けてきた。その理由は、かか のためであった。しかしこの﹁ 註 ﹂ ﹁苦い水﹂による 穏溺 ︵ 民 5 章Ⅱ れる。古代セム民族においては、 に 宿る聖霊への崇拝も一般的なも ヤ ハウイストは必ずしも排棄 せ か 。アニミズムながら、 霊 ゆたか ぅか 。水は恩恵である。それは神 して語ることが最も妥当であり、 である。 ェヮ ルト以来、この資料 る 地理的記述が説話自体に無関係 が、 若し 2 章 6 の直後に挿入され

(32)

とする ヤ ハウイスト の 企画だとも解することができょ ぅ 。

な 註であって 、必 説話全体の著述態度

料 であったのかも 知 聖水の﹁恩恵性﹂ か 団 内田︵ぎを導 き 出そうとするのである。 b アダム創造の恩恵 間 における肉体と

えようとしているこ

であると述べている サ ハウイストの人間 を 何に求むべ きか 。

の Ⅱ日のの。し ま を 指すのたろ うか 。 っても、これが 直 般 に目 ョお 0 し 臼は、創世記Ⅰ 章為 1 % ︵ P ︶ と 、この 2 章 7 ︵ J ︶ が 、イレネ ウス に 始 CU ㎎ ) 32

(33)

に 、非常な不自然さを感じる ていて、ここに 二 資料の綜合 縦 周知のように、 賠ョ囲 ︵ 判 農民哲学を語源的に説明しょ 中 ネ 0 所に限らず、広く旧約聖書 全 ﹂ 臨 ﹁ちりから﹂とすれば足りる 難 てどこにあるであろうか。 ど r 私はこの﹁ 土 ﹂︵ よ 刮ヨ 8 頓 された普遍的真理や超時間 上の処理﹂が、この神学者の テキストに帰ろ う 。 2 章 7 神の恩恵に応える へ ブライ的な﹁思惟 以 との同義の二話が用いられていること 面目だったのである。

文は明かにコ土方ちちり

らこ、

、、,、 ヵ となっ

複 をあえてせ れば ならなかったか。

﹁人は土から生れた﹂という素朴な ぅ としたものである。この ょう な語呂合せは、 ︵言語学的根拠は乏しいにせよ︶この 個 の 知的趣味のようにも思われるが、単に に 挿入せねばならなかった理由が 、 果し 思われない。 が、 単なる普通の土ではなかったよ う に思 う 。 すでに述べた よう に、 2 章 6 の﹁ 土 ﹂は 33 (149)

人間のせの ra コ ︵ 毛 。 7

い 。ギリシア的に整

に 表現するまでに

般 ︶に関する限り、

よって貫かれている

し 、同時に人間の側

ぅ とするのである。

(34)

訳 ︶ところの﹁湿土﹂ ﹂を含む土

この た 。韓土ならぬ湿土 ﹁ 土 ﹂ ぜ 凶日 曲 と﹁ ち えられていないよう る 。とにかく、重複 雲上﹂を高調せんが った 。︵ P 説話では と 記している。︶ この場合の﹁ ち

者の思想的立場は成

霊水によって豊かに の 画いた人間像であ れ おののき つ うこれ ざ ゴ % 往 ︵を示すⅡ ョ一 笘的 0 し囲 だったので士のる。 目汁 口宙 0 といい、 ま が 実体概念として 捉 (150) 34

(35)

「楽園説話」の 神学的構造 。即ち、固定的な人 間 本質を客舌口的に描くのでなしに、﹁神語り、 的 恩恵と、それに 対 る 。 c 楽園設定の恩恵 ここに間 ぅ 必要は

、 恐らく地味やせ 、 るものとみるべきで

傭えられている。

てこれを自己の信

は 、あるいは人間の の神秘性︵ 3 章 1 1︶ て 基本的な思想底流 の 信仰に徹した サ ハ ある。

の 附与﹂であり、 ある。言わば、一方 調 とし、実在他者の ㍉のの曲 o n Ⅹ 目ぃゴ申 0 の 35 (151)

(36)

単なる神話に下らせ 出があり、また根源 思うに、﹁世界﹂ 観 的態度をとらなか 関係を主張する旧約 の 三毛 oqn ︶ ドコカ の ざ が 、 文学的にみれば、 ず 、﹁神の意志 へ 的 思惟をなし ぅ る の意味を、また 正 った。人間的主体 的思惟からは、 こ かくて第二段の 人間性の機微を 、 の 背反﹂をその中に高調しよう 神学者としての面目が表われて しい人間像を把握した サ ハウイ 性にたいして、一応は否定的態 のカリスマ的恩恵にたいして 何 ﹁誘惑説話﹂となるのである。 極めて興味ふかく まごこ旺お す とするところ いるわけであ ストは、この 度をとったが かの応答を示 に解明を試み ているが、今けこれに触れること る 。 ﹁カリスマ的恩恵﹂にたいして 傍 、しかし神と人間との間の人格的 さずにはいなかった。このせの 7 に 、この作者の思想家としての 傑 点 ︶をお き 、これに全力を傾 四 、神 さて以上のごときカリスマ 神の﹁創造﹂ではなく、むし リラ るのは、これに対応する 倒する。しかしり

の恩恵への背反

的恩恵が、ただ上 ろ 自然の﹁生成﹂ ﹁人間の誠実﹂が し 「 一 て 生 方

あ に か ズ

サま ら な 附 で く 与 -

第一 あ な た 拍 る る け ヤァ "- 。 で、 に 移 禾 あ て る 開 ろ る 幼 う な

らば

稚な そ

に は 為 であって、かくては でなくて﹁創造﹂であ るが、﹁蛇の誘惑﹂を 学者だったのである。

三拍子の第一拍たる﹁神のカリスマ的恩恵﹂

強 ﹂︵最高の重 思想家であると断じて 差 理 ﹂の代表者が サ ハウ ィ の人間に徹し、ひたすら 支 ないであろう。 ストであり、した 創造者を導 き 入れ 創造は合意で がって自己の ることによっ も 契約で 中に根 抵 て、 真の もない。 をもたず 人間像を

創造者の指示に完全服従する﹁

- 、自己の主体性を喪失し、

。二

%

描写しようとしたのである。

ヤハ

ウ の ダ イ と ヤ ス し 的 ト て 背 (152) 36

(37)

「楽園説話」の 神学的構造 し 間 典 罪 神 の

人の原敬

ァブ

ので

あ の

よし

( 3 速 る 誘 童 帝 ぅ がも い 12 責 と 申 そ 栗 原 に え す た

克ニ「

我る

をに

ヒ す 煮 方 シ 返 と 関 な ヱ 義 法 ァ さ な ら い

ヤ は に こ ス イ 「 来 課 37 (153) ころみる 0 先づ Ⅲ 蛇 現出せしめて、恐怖と 、 ㈲最後に、責任 国 学的手法の巧みさ、まことに驚くの他はない。 性に 臣一一口 反 し、﹁ 補 へ ﹂にも 杓 わらず、﹁自我の登位﹂をこころみ、 人間の主体性を確立

(38)

共同を排して、 自

可 敵性をもたない。

れるのが、この﹁ 背

旧約は、かかる人間

家ヤハウイストは 、

盾を痛感する。かく

実生活の不調和と 労

史 後期においての

1%としていたこと

景 として、人聞 苦 、

ハウイストの根本意 図 なのであった。

0 宿命に打ちひし o Ⅰ ウ

イス

億年。

円 いの 円目円 ) 田

荒径

て 関 の , 亡 、 刑 乏 イヰ 仁一 Ⅱ し く、 ひ ナ - Ⅰ す ら、 神 の カ ス マ 的 , 志 、 恵 ヤブ し 対 応 す る 人 間 の せ の Ⅰ が 圧毛| (1 駅 ) 38

(39)

「楽園説話」の 神学的構造

る 調子は、一種の素

単純な人生観は 、パ

して、一応理解でき

大と、女性の苦悩の ないことを示しているからである。

て、 明かに農地の

していることを記し

︵ 托章 8 ︶では、 明

かにこの 3 章 ma は 、

ってみるとき、この

ストが抱いていた 切

ぅ としたものと考え

かめ 生活苦と、繁茂

るのである。けだし

らである。

のであったかは、

始 混沌において﹁ 土

ダムを置き、﹁ ェデソ 39 ( Ⅰ 55)

(40)

しかしゃ り、自己様 難 ﹂以上に て 、 来るべ ウイストの

の た 竺 ヱ

%

弓 偉 き 出 牲 ハ 大 子 る こ ウ さ 言 こ そ イ を 者 と 神 ス ム か ま が へ ト し た で の は 保

ろョぎ真

賞 ブ

なのこ 、

讃 評 か

ケ ア ヒ 苦 ル に た

をてかヤ

はっの

こにな

決すに

の 了 わ 苦 薙

が神の意

ち ﹁刑罰とし っているの 時期に提起し 志 であ ての苦 であっ たサ ハ

の 最大の苦悩︵ 妊 に 努力を傾げるのである。 巧 ︶ 、 明かにテーマ 解

ないか、理解できな 恩恵をも確保してい

作 ﹂も、耕作の必要

したのではあるまい

ら 追われたアダムを叙述するのに、﹁追放﹂の み記せば足りる所を 、

はないように思う。 文学構造的に分離さ

あった。 (156) 40

(41)

「楽園説話」の 神学的構造

したわげである。 偶

造史 が神に由ると同の

である。

の 絶対性に近づこ るために、

れは、内容的

篇の説話プ ロ

らである。 後篇において ﹂︵ 3 玉 目十飢 1ロ︶ 化﹂︵ 3 章 盤 ︶ 追放﹂︵ 3 章 為 1Z ︶ のそれと全く符節を合する。 ている事で

持し、統御し

保存 史 しが、 先立って ヤ む 、 あ パ に 補 ウ @ は 足 イ

と 何 を

(42)

能 性と神的可能性と

、やがて楽園からの

ある。

一ア 神話に負うとこ

代 においてこのよ う

ことに驚嘆に値すると言わねばならない。

れた堂々たる神学

る 。︵ め万 ︶

(43)

八機棚経における 自由里 智

ト 訳について見ても、

からず存するし、 さ

である。しかし、 す

て 残されている二つの

、 右にあげた よう に

あるが、それらの 緒 4

もの、といわれるの

といわれ、大乗

意義

(44)

﹂のかたその目的とし

日 l 笘年ア俺 ㏄ ヨの ︶が 、

文 解読に際して参考 ︵ ニリ ︶

較 対照によってある

ただ 無 方針に羅列

う に思われる。この

智の世界︵ づ Ⅱ 曲田せ囲 ︵ l

片目が︵の 0 1 の 0 Ⅰのロ内︶

︶ 0 ナ モロ自証 拠 ・ 自

n セの ︶

ののⅠの・

コドコ l@ の的の 円, ト帆 0

Ⅱ ヒ笘 ︶目が ・・ | 由 ㏄ 沖 0 ののⅡがの ︵ 0 一

ているものであり、 ︵ⅠⅩ︶

出版された。これは

明らかにしてこの 経 4

資料とされる。なぜ

者 まで伝承されて 来 u ︵ 公 Ⅰ︶

をもっとされるから

(45)

とは 入梼伽経 のみの

教説 であっても、 仏

しかし、この経典

のい たるところで 強 ョ囲 Ⅱリトリ 古卸ハ Ⅰ 燵 ︶である

味 されているのであ 欠くといわれるこの

史上の意義は 、 主と

ぞれの学説の発達の

な 立場からこの経典 の教 説を考察したいと思 う 。 義

強調であるということを

安を指し示す指にすぎた

に 拠る本文解読は発表す

本と荒木とに拠り、必要

ふれることにする︶。︵ 7 ︶ 故我 如是 説 。 云何縁 自得 入

。 謂舌 先聖道 如金 45 (161)

(46)

性 ︵ 隼 すの﹁ ヨ 曲目 モ 曲ヨ ゅ ︵ a, それ故にマハーマティ よ が日、 ゑ 1% 笘仔ガせ an ︶ 右の経文のうち、 宋訳 の あって、 魏訳 ・ 唐訳 ではそ そのことが、ここに示され

ることなく︶存するのてある。 Ⅴ︵ 変 の間、如来は一字をも︵のガロ ヨ串キリガゅ p7 ︵ 柁 ︶ のである。 ヨが年 プリⅡ ヨがヰ卸 ・の 0l の 0 Ⅰが臣の ノ の ゴ 0 の l 曲︶ 隼 ︶で 問題にしょうとしている 自 内証ということ たものといわれ、文字を離れた白内証の境 ︵ⅡⅡ︶

帯 @ コ ミ︶・法の決定

廣 ︶である。諸の如来が出世しても、 あるいは出世しないとして ︵㎜︶

界は常住なるもの

の 0 Ⅱの コ帳 ︶のす 0 の 一 マティ よ 、この 二

どういうことか。

く 、言葉の妄分別

のセ が つ Ⅱの こ せ 囲ヰヨい のがこ 一 すな ね ち、マハー 世 故 再 説 は 一 一 甘 口

ム つ 我 た 従 。 某 マ 夜 ハ 得 l 景 マ 正

テ覚

よ 及 、 至 私 某 は 夜 二 人 つ 般 の 浬 浅 葉 ( 於

を密

意 し て ㏄ 笘 ヨ Ⅰ す セの, 年 mo コの ) (162) 住 。本復如是。 是 6

(47)

大概棚経に

の る 可

でこ

あ と (

仁王,

なら 文字 ヴ

で、

ののあ

でがる

あ あ か

マノ

それ は出 故 ま l は か て マ せ テ / ヘ v ア し イ @ 一 ヱ ; よ マ つ " テ て そ ィ い う よ る で 、 ( は

まなくて、この理由

寸づ曲 でⅠの に , 若 47 ( Ⅰ 63)

かない。諸の文字に よ る お

小俵文字。

善男子善女

大佐文字者、自壊第一義、

不能覚他。

故人意、菩薩摩 珂 義

説 諸法令 離 心意意識 故 。 ているに れ 以外の このょ 大意。 字故 。

あって 、そ のである。 ね 、たとえば、

説 。 法 雑交

若衆生妄想

られることは、諸姉

ゆめ 意味が見られる

よい Ⅰ︶とは、如来の

は 同じものを表現し ︵㎎︶ 目おコ のの︶ 工 法とし

(48)

指先のみを見て月を ︵ 為 ︶

所説は、 入 楊柳籠 め

縁覚も声聞も菩薩

のか。それ故に て

乞お

団 ︶に執着

したものではない

解 をもつている 衆

倒 ︵︵百曲Ⅱ セが ︶山村二 % 隼ゴ|

どす注 。幅 1 で い ︶から

せ いヨ が 1 % ロ ・Ⅰの コ の 且 ︵ 鈍 ︶

ょ 、菩薩摩 詞薩は

ってはならない。

、また他のものに 第一義を覚知させることはないであろう。元︶︵ 勿 ︶ ︵ W Ⅱ︶

し 一切法について

は文字を離れたも

益 ︵代目 u, 年 0 しにかかわることをも説かない というのではなく、 ひ

(49)

携 棚経における 自由 聖 智の意義

曲 Ⅰ 目 @ コ頓

五五頁 イ ︵ 3 ︶山口益博士、前掲、一二二頁。 165) 註 ︵ 1 ︶山口益博士同人 携伽経 L 再刊 序 参照。

一リ コオ曲 せの円のⅡが口内 ヨ|

は 山口益博上

0 人 伏 棚経 註

を 指し示す指にすぎ

﹁一切の五 % 茜の論義

二 ・口語道断の行の境 ︵ 笘 ︶

度 は人 梼伽 経に限ら

﹁ 仏 四十九年一字 経に代表されると云って よ いであろう。︵ 2 5 ︶

とされ、その指示

の種々の 教 謝を つ ら

説 のうちのいくつ

という 教 説を取り上 げて、もう一度検討してみたいと思 う 。

(50)

第五巻第二号、とくに三三二頁︶参照。

っても諸本対照を

千巻本に拠ら

ぎない。以下

文の理解に一 歩 近づくことができると思 う からである。 ︵ 8 ︶大正一六・四九八・ 下| 四九九・ 七 。

ット 訳は卜 @ の

おられる。 い

意味するのか明らかではな

の さ目 0 の・ 弼 Ⅰ 田ヨ廿 臼田および 宋訳 ﹁ 舌 先聖道﹂、 ぬ訳 ﹁大行路﹂に

読んでおられ

しているが妥当ではない。

ゆ コ % ヨを 欠いている。

目 Ⅰ 卜 @ ・の | ㏄

︵ M ︶大正一六・五 0 六 ・ 下 。

と 訳し、唐沢 も同

の 如来は文字

文字に堕し

者 にすべ き

で⑥

あろう。

侍 ⅡⅡ コ円 ㍉。 隼岸 @ 50

(51)

大胡 竹口経にお

25 24

四面

義 義

雅雄

博博

十 - 士 「 「 妻 ' " 三三 - 一 一 " 摩 諦 の 説 爪草 と ] 韓

吐胆

肪伽 」

経宍

の ィム 関 数

の根

係 」

宮本

フ 吉 ソく イ 理 口 口 @ ソ -- フ /L ィ /L

」 汚只 ア 第 参

頁 参 照 。 ける田内壁智の 意義

0

( 2 30 ( 乙 2 (ー 2 0 乙

19 Ⅰ

G

人 00 ( ⅠⅠ り l Ⅰ 上 リ

を 端 丁 と 解 ワ 干

てい旧

り 51 (167)

(52)

︵ 6 ︶ である。真実︵︵ pHd せめ 、 監 1

。 占 リー 日 e 、 実在︵ すプ ロ︵ u 、 ︵

子欠

︶ 、

ぅ 得られないもの

ことなく虚妄に 分 ︵ 4 ︶ との相を明らかにして、︵これは︶心であり、

分別である。㈹ 智

の ・ ぬ のの︶であり、漢訳

︵ⅠⅠ︶

いて経典は次のように説いている。

。㈲施設衆客顕示

定格 如如 。真実 決

施入正覚不断下帯

明確な特徴︵ 乱か T

ぎ ︶が見られるこ ︵ 9 Ⅰ︶

はないとするこ

は ︵そうではない︶ 五 法 で笘 色 l ア 曲 Ⅰ - 目り曲 のす。 トか と は 相 目 ) む目) , 圧 ㏄ 目コ のゴ コ| 九二口 ) 名 ョダ 口口 臣 ) 安分 刀 U づト 吋 )ロ口 の (168)

52

(53)

如 ︵︵の︵ 牙 udW ︶の 二法 5 、 胡地経におけ

にし

」、 とⅠ

(169) る 自由里智の意義

と づれば つ ぎのようになるであろう。 とは云えたいが、 右 り 、同様にして 耳 ・ されたのであった

瓶などの想をおこす

流動させ、さらに 種

の 安分別によって 慧 主張・声聞・ ㏄ 日ゼ曲幅 ︶ ・ コドコ ll p, ︵ 00 ︶ 甲 守 り審

宮下

1 か 9 ︶である。 縁覚 せの| 決定︵ 田か ca ヒ u, ヒのご ag-pa ︵ ミ厨壷 , no 占宇ヨ e 、不可得 曲 甲田 & ︶であり、私と他の諸 れを証して断でもなく常でも ︵で qD アサ エ, ﹁ ゅ臣 ・ ヴのゴぃコ ︶、自体︵の づ甲 田 ㏄ こゴ囲 ︶ 曲ガぬ が心曲,年の |すいゴぃ 目的 ゼぃ目 ︶圧の ゴ| 公開し、広く示したのである。㈲ そ ︵ 7 ︶ 証 の 聖 智 に 適合し︵ bqp 田 ︶ 囲 ︵ 日甲 目下

(54)

巴の領域である法案

0 1 ヴのゴヨ @% 亦の帥の l% ひゴト

夫の妄分別の世界か

の 三性説との連関が

考えられる。

も 右の五 法 と連関

岸 ㏄ 老曲ヴゴ 叫く 曲,ガ亡コ|

・ 円 成の目性︵ロ口︵ T

性 ・ 成 自性︵ 宋訳 ︶ 、

︵ 唐訳 ︶としている。

次のように云 う 。

生心心法。 名 供侍

大意、正智 如 加音不可壊敗 名成 自性 ︵ 臼 4 ︶

分別の自性︵ 屈 7 ︵ け Ⅱ︶ ︵おり︶

る 。このようにして

目寸的 コロの。 づ曲 ︶生口一陣

ることによって歓喜 を 得る。かれは歓喜 (170) 54

(55)

﹂のことについて学ぶ 5 拐加 経における宮内壁智の 意義

に マハーマティ よ、

ているよ う に 、妄

リコ沖さⅠびが 臣 ︶ の

︵ ち笘 ユ目 田蝸づ笘 二コ p 。

て相 ・名が、 依 他の目性にたいして 妄 分別が 、 円 成の自性にたいし

しょうとするょり

そうとしたものにす

三 存するが、その ぃ

と 、まず安分別、依

とづくものの特質 た

Ⅱ ヲヰ の す リコー 由 ︶ⅠⅠ 目 リヨ l

コ ㏄ 帆 ㏄ まぬ ㏄ヨロ コダゴ も 一

qD. ゴづア の幅の l づりの 0 |

㎎ 斡ヰ ㏄ むい Ⅱ ヴゴ リ ブハ 隼がぜ p 、 ︵Ⅱ︶

別は ︵前の︶一一つのり ︵ 仰り ︶

﹂れが正法 と ︵三︶ 自

(56)

経て 、 の 0 1 の 0 目ト ロの ア

ゴづゴ の的の 1 つ曲

0 の ガセ ︶のガロ 厨 ︵ 花 ︶

る 二無我につ

で ㏄︶ ︵ 勿 ︶

は 菩薩の諸地を

であるが、とくに

説くところによれ

く ㏄の ざヰ の 隼ヤ かせ 曲,ヴ年 ㏄ 幅

の曲 づオ の ゼ曲づ 囲のの コ囲 , 円プ|

々の形態を保って い

, 幅曲サ @Nu ゆロ のヴ口 り幅

寸ヴⅠが 的 Ⅱ︶の年1㌧㏄ ゴ田

す曲 づ曲、ガ 口目 |ヴ Ⅱ片口 幅の|

ね ち、 緬 ・ 処 ・界は

あり、﹁菩薩・ 摩詞 ︵ 却 ︶

の ︵ 年 ゴリⅡ 日 リコ 日 ﹁ 囲 ︵ l り 性 べ 入 目 き れ 体 で ら の あ

智 て ノ の い 」

て な い る 三 - る 聖 Ⅱ 生 と 智 は 考 へ 他 え の の ら 方 い れ 向 わ る を ゆ の 明 る て 、 示 @

。 充 書 法 に と お い け ぅ る 教 よ 説 ぅ v ァ し ケア 目 収 二 (172) 56

(57)

拐 入 ︵ 5 ︶ ロいつ 本には︵ 笘ぎ 繍の前に織がある。

智慧が 滅 無してい 伽 経における自由 聖 智の意義

ることなく 法 無我と

である。 註

として、 一栢 、

と 一致する。 ︵ 2 ︶大正一六・五一一・ 中 。

分別し︶と訳して

此 れは 足 れ

附加されている。

彼の柏を示現す。

では﹁それに

を語ること、

法 なりと 呼

ココ の 日 のののⅡ 0

㏄ 住あ 0 二八ヰ︵弓の l

8F ︵ ワおべ ︶という読み方に従った。

示されていることが

は 二無我として表現

我を知ることは、 一

る 。 入梼 棚経の所説

(58)

ハド 由 キ トガ ∼のの 巴|

方 に従った。

年曲 か幅 曲曲 。すの年 l で の

博士 訳 , n ︵ ゴの

丼 ︵ 寺ぺの ・:︵ つ ・い の ㏄︶。 ︵ 8 ︶Ⅰが 臣 F. ロ ・めのの・︶・ , ・ ロ ・ いい の・︶・ ト ︵ 9 ︶Ⅰの かオ ・ づ ・めの 白 ・ 二ト ㏄ | Ⅰ・は団の・ @ ト ︵㏄︶Ⅰの中 ガ ・ ロ ・ No の・ コ ︶Ⅰー︶㏄ ︵Ⅱ︶Ⅰ 曲かガ ・ づ ・めのの・∼・の

︵㎎︶﹁ 曲オ F. ロ ・ NN の・︶・︶ 0, ︶ の ︵Ⅱ︶大正一六・五一一・ 中 。 ︵ 騰 ︶﹁がか F. つ ・ ooq. ︶・ Po 占 q ︵㎎︶ チ ペット 調 ﹁ 栢と 名と事物の妄分別﹂。 ︵ U ︶﹁ upF. つ ・の べ ・ @ ︶の 10. のめ・ コ H

。﹂︵ 四 O 百 C とす るが妥当しない。 ︵円︶﹁がか ガ ・ ロ ・のの・︶・の・∼

ヨ ー づ笘 ︵ 1% の 1 つの 曲曲か

唐訳 ともに 梵

百 じとする。 勾

0%0 コ ︶ので岸ヰ

曲ヨのヨヨざ村| ︶ 0 ﹁付与 p コ ︵目口口 笘団サヰ 十目曲目にだけかけて 却 休している。

。哀訴 は ﹁ か

(59)

入 ・ 傍伽 経における田内 聖 智の が 阿頼耶識とは無関係に説か れる場合の多いことは明らか 本 で示せば第六章刹那 品 にお るのを知ることができる。 以 る 。 伎児 変現 諸趣離 我我 所 。 不 覚 だ 下 い で れ 彼 故、

分 れ そ も 方

こ が 便 と そ の 、 而 次 の よ こ 生 の 如 ぅ の 不

覚 で 耶 っ 文 計 あ 調 い 全 (175) 八 % 棚経は法相教学においてほ所依の六経 十

︵Ⅰ l ︶

天棚 伽 経における八識 説 について考察する 場 義

一 論などといわれ 史上の位置につい て考察することは こではその問題に うな意味をもって - 合 、まず注意すべ このことはこの 経 ろう ちの一つにあげられているように、古来、 唯識

ょ、 九カ

でに

て見 いるかを考えてみたいと思 う 。

同一

の誰 一 一 丈 に口 阿じ 。 ︵ 何れ ︶ い 曲か F. っ ・のの・Ⅰ︶︶ 1 ︶の ︵四︶﹁のか r. ロ ・∼ 0.@ ト ーの

(60)

於我 論、自性無垢 畢 0 纏 貧生生 賈 。若田者 解脱 想 。不離小額㎝ 白兵 相 授受生絵 界 得 十三昧道門 楽

適所修行道。 得十 因 となるもの くるものであって

ないで、籠作の 因 された

ーラヤ 識

口目

| ぬの

Ⅰ 目

1ロロ中

l

ぬ のの

l

つ ㏄の

プ ㏄の

の的Ⅱ

笘幅の1つ曲

︶であり、無明任地

に、

つねに︵その︶ し 、自性として 畢 ての他の意・意識を 因 として生じ、 形

﹂ともなく、

6

︶・

楽 苦

(61)

大概 伽 経における宮内 聖 智の意義

︵寸口㏄ガリ 叶 ㏄宙良すの田口,

︵口ロ 目 ここ 曲 ・ ふ臣 ・ づ曲 ︶

して 楽 ・苦を知る

も p ︶に入り、四禅

審旺匡

0 ︶が生ず

︵ プ曲 ㎎㏄ こ ㏄的がⅡ ヴプ リの㏄ |

銭,か g も u ︶が 転捨

。それはどうして

口か 隼 ㏄ 団 Ⅰ ヨ何 Y

はならないもので

︵ 相 ︶・ 共相 を取

て止 滅する。︵ こ ︵ 7 ︶

l サ ゴ 由 Ⅱ 由、 ㏄㏄∼︶ ユ|

コ幅番い ㏄か い| Ⅰ 幅ぜ ㏄の︶

村ゴセ の す @ つい ︶と自己

観察することにより三昧の楽の辺際を離れて、 田内証の聖 皆 によ

キ 占 ふ 1 審︶ とい

㏄㏄・ アでプ笛 ㏄㏄1 % 坤宮 61 (177)

(62)

ちに、 の Ⅱかの 臣ゆ Ⅱこ す曲コ ︶ , ︵ ハ Ⅰ︶

けられた如来蔵は七

い るが、 宋訳

﹁アーラヤ

のとして示さ

が 、全体とし

出されない。

ものであるが

このように 合 、前七 識は 王法のうちの前の三つと相応し 、

えるのである

云い、王法・ | マティ よ、こ

l つ 0 ガ仁申 l 的の目 田

あるが、一切

の ・ 審 ︶に染め を 参照 識 と名 れてい てはい 経典の 、第七 見た場 が、 経 三性・ の如来 Ⅱ 由 ㏄ ヨ| の声聞 られる

かせ日オ ち 日色 を

れる如来蔵を清浄 ︵ 8 ︶

ヴせひ臣|ヴ曲 Ⅱー ヴヒ曲 ︶ 0 (178) 62

(63)

八 % 棚経に ", し 、 一 一 一 目 "- あノ と 葉 こ の に の み と 自 が ら 内 、 わ 聖 こ れ 智 こ た を で も 指 裏

求の示

のし

さ 境 そ れ 界 ぅ て で と か は す る あ る の り た で 縛 め あ な に る い ほ と の か 者 で な え あ ら

5

れ、

9 な い る こ と の の い て よ う あ ぅ こ

来 理

解 阿 れ 頼 る 耶 の 誠 で と あ

教 そ 説 れ の 故 意

@ を そ 自 れ 内 は 証 経 す 典 る の 63 ( Ⅰ 79)

が 説かれるのもひっきょ ではない﹂というのは、 このようにして口内に

に ﹁如来蔵・アーラヤ 識

口薬に執着する声聞等

ならないものであ

したがって、それ ︵ 皿

い 。﹂しこ説か 石ル二 りこ せの ・ 年 01 ヴのゴぎ 1 的か 0 的の 1 者の境界ではない。マハーマティ よ 、如来 蔵 ・アーラヤ識の境界 9. も が田 セ 三︶はただ に 従 う

もの︵

リ 二千 口 0 い ㏄ 母 ゆづ 卸吉ゴ曲ヴゴぃ目い つ い| 也ヰ p. す い こ リコ l づ の すコ 0 年 l つが 団の㏄Ⅱが 甘 @ すいゴぎ ・ 年屈

たちの︵境界︶では

如来蔵・阿頼耶識を

(64)

第二部第一章、とくに第五節参照。

た 、小川弘 貫氏は

切的形態を

ものという三つの場合に分けて整理され ォ 、いる。 ︵ 3 ︶大正一六・五一 0 . 中 。

のく 笘ヴ 0 ロ ブゆ ︵::: と

申の| Ⅰの コノ の曲Ⅰ |

じ 構文に訳しているので、いまはこれに従 う 。

の1 つ 笘巨 Ⅱ マせ 0 目ガ ピづ

有して生ず︶とする。

自 心所 現 ﹂にした がってが コ のセロ ヴ 0 卸プがガロ として読む。

のし方に従った。 ︵ 8 ︶ ト の中 F. つ ・のの 0. プ 0 1 つ ・めの N. 目の

しろこの両者を区別

、ここに説かれる如は

るのである。さきに

のは私の真実を知ら

して偶然ではないで あろう。

のように見た限り

(65)

大男 加 経に おける 自内聖 智の意義

が 整っていないと 見 6

仏法もまったく同じ

内聖 智へのすじ み

ちり

Ⅰ利一︶ J>0 ︵ 2 ︶

大乗︵の 法 ︶ ︵ 9 リ ︶ のゴ の コ 目の ヨ のん 曲 Ⅰ甘口口の。で り ︶である。

は 、安分別から

ぞれが正法にお

、 右の偶 支 は 五

三性・八識・ 二 ができるのである

れよ う 。すなわち

0% |

れて

い う

大乗

教法

切の

の中 ︵ 十 Ⅱ︶

まれるしと云われ、

いて見たのである Ⅰ u ハ Ⅰ ノ Ⅰ曲中 F. つ ・はは N. ︶・ ト 年1ト の ︵㏄︶いが 臣 F. つ ・ 00 の ニ ・ 01 ︶の 四

(66)

ら れてぃ 註 ︵ 1 ︶ ︵ 2 ︶ ︵ 3 し る

ぅ経

o@@

典 の (182) 66

(67)

Ⅰ祭りの構造

共通する一定の方

げる法則性、ある のではないかと考え

と念ずるものである。 ある。祭典という語は

祭りには、神祭り

倉林正次

わが国儀礼文化の

一面

儀礼構造論への試み

参照

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