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﹁一般的流通﹂としての世界市場について

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(1)

﹁一般的流通﹂としての世界市場について

都野尚典

は じ め に

世界市場を商品流通一般の論理次元で問題にしてみようというのが小論の目的である︒ということは世界市場を抽

象的一般的に論じようとすることであって︑そうした考え方にはかなりの問題があることは承知のうえである︒もと

より︑世界市場は歴史的具体的なものであってこの歴史具体性をはぎとったとき︑国家が抜き去られ︑その発展の内

的歴史的必然性つまり発展の動因が否定されてしまう︒にもかかわらず︑あえてこのようなかたちで問題にしようと

するには理由がある︒

l

もともと小論は︑﹁国民通貨と国際通貨﹂と題する小論の一節をなす﹁世界市場と世界貨幣﹂の部分で︑世界市場

の構造をあきらかにするということを目的にして︑まず︑世界市場を商品流通一般の論理次元で論じたうえで︑その

展開の歴史的必然性を資本制生産との関連で︑今度は歴史的具体的にあきらかにし︑もって世界市場の構造を資本制

生産の世界市場規模での動的過程につらぬく内的法則と︑その発現にあたっての矛盾の諸形態との関連で把えようと

して︑検討される際の前段をなすものであった︒それ故に︑これを切りはなして︑独立の一論文に据える価値はない

のだが︑後方への旅の指針を定めるもの︑という意味で一応のまとまりをつける意図のもとに︑このようなかたちの

ものとしたのである︒その意輝で小論は別橘なまってのみ独立の論文にりうるものともいいうる︒

(2)

経 営 と 経 済

二四四

しかしながら︑乙こで前提されている商品流通一般は︑決して歴史上あらゆる生産様式に随伴した商品交換

H

流通

を一般的に抽象したというようなものではないことは︑もちろんである︒そうではなくて︑商品流通が全面佑し一般

化する唯一の生産様式としての資本制生産様式の支配する段階のもとで抽象されたもの以外ではない︒そのような意

味では︑そこに示される所の諸契機は︑まさに資本制生産のもとで開花し具体化するものにほかならない︒そうであ

そのような商品流通はそのものとして︑資本制世界市場流通に論理必然的に展開するものであることもまた極

れ ば

めて当然なことであろう︒こうした論理的意味において︑ここでの一般的世界市場は論じられ︑そしてのちの展開に

必須の諸契機が探り出されるということになる︒これが小論の果そうとするところのものである︒

誤解のないように最初に次のこと︑筆者の基本的視角は︑商品

l

貨幣

l

資本の歴史的論理的展開のうえに世界市場

の内的論理が構成されるものであること︑および︑世界市場を︑国民経済をその構成単位とする複合構造として理解

しつつも︑そのことは資本制生産の動的過程とそのなかでの内的統一の論理の発現の諸相との関連でのみ意味をもっ

ものであること︑ という理解の上におかれている乙とをことわっておきたい︒そしてそのことが世界貨幣の運動に本

質的な︑かつ他面では︑具体的な諸規定を与えるものと考えるものである︒

ω

拙稿﹁国民通貨と国際通貨け﹂ ( 経 営 と 経 済 一 O 三号所収)

﹁経済学批判﹂第二章三節

C

﹁世界貨幣﹂の項の末尾で︑マルクスは次のようにのべている︒

コスモポリタン ﹁貨幣が世界貨幣に発展するように︑商品所有者は世界人に発展する︒人間同志のあいだの世界人的関連は︑本来

ただ商品所有者としての彼らの関係にほかならぬ︒商品は︑それ自体︑宗教的・政治的・国民的・言語的のあらゆる

(3)

障壁を超越している︒商品の一般的言語は価格であり︑その共通の本質は貨幣である︒しかし︑世界貨幣が国民的鋳

貨に対立して発展するにつれて︑実践理性の信仰としての商品所有者の世界主義が︑人類の質料変換をさまたげてい

る伝来の宗教的・国民的・およびその他のもろもろの僻見に対立して︑発展する︒アメリカのイ

l

グル貨幣︹十ドル

金貨︺の形態でイギリスに上陸した同じ金が︑そこではソヴリン金貨となり︑三日の後パリにおいてナポレオン金貨

として通用し︑数週の後ヴェニスにおいてデユカ

l

トに再転し︑しかもつねに同じ価値を保持しているように︑国民

性は﹁ギネア金貨の刻印にほかならない﹄乙とは︑商品所有者たちにとっては明白である︒商品所有者たちの頭にう

かぶ全世界の崇高な理念は︑ひとつの市場の・世界市場の・理念である

o

﹂(傍点は引用者)

みじかい文章ながら︑ここには︑世界市場の姿が生き生きと写し出されている︒と同時に︑このなかには︑極めて

一般的抽象的にではあるけれども︑世界市場の内的論理といったものが示されているように思われる︒それは︑内容

的にいえば︑次のように集約できるであろう︒

第一に︑商品は︑それ自体として本質的に︑国民的な壁その他人格︑宗教上などの制約を越え︑それらの拘束から

解き放たれた在在であること︒つまり︑商品のそれ自体としての世界性︒第二に︑いわば可能性としての商品および

商品所有者の世界主義が︑歴史的必然的に︑世界貨幣の発展とともに︑国民主義に対立し発展すること︒つまり︑商

品および商品所有者におけるところの世界主義の発展の歴史的必然性と現実性︒第三に︑結果として世界的質料変換

を実現しながら︑国民性等を内面的にほりくずし形骸佑しつつすすむ︑商品および商品所有者の実践規範としての単

一の世界市場の理念︒つまり︑商品および商品所有者の世界市場的運動法則の認識︑以上である︒かくて︑全体を総

括すれば︑そこにはまさに︑世界市場の論理︑歴史︑およびそれらの統一としてそこに貫ぬくその運動法則が︑一般

的抽象的に︑示唆されている︑ということができる︒

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

し て

の 世

界 市

場 に

つ い

二四五

(4)

経 営 と 経 済

二 四 六

なおここで注意しておかなければならないのは︑商品・資本制社会に特有なものとして︑物的関係の背後に人間の

社会的関係の存在を洞察するというマルクス経済学独自の認識方法がそこにつらぬいていることであって︑商品・貨

幣論の結論部分をなすこの文章では︑人間の世界的連関関係があきらかにされているわけだが︑その際︑文中にも示

されているととく︑単に﹁人間同志の﹂ではなく︑商品に媒介されての人間つまり商品所有者の関係の世界性︑その

歴史的発展およびその動的過程につらぬく法則性として︑それが問題にされている︑ということを確認しておかなけ

ればならない︒ところで以上を裏にかえせば︑ここで示されているところのものは商品の論理次元での世界市場規定

以外のなにものでもないということができるのであって︑かくてこ乙で最も重要な規定は︑第一の商品のそれ自体と

しての世界性︑であるといわねばならない︒その意味からいえば︑商品の世界主義の発展の歴史的必然性︑および商

品の現実流通のもとでの世界市場的運動法則についてはここではなお示唆されているというに止まっている︒なぜな

ら︑商品はそれ自体としては歴史上ゐらわれたいかなる佳産様式のもとでも発生しうるものであり︑商品の量的質的

拡汰と深佑︑つまりその運動の動因については︑歴史的諸契機を加えられてはじめて与えられるものであるからであ

ワ 臼

る ω ーそのことは︑﹁批判﹂のこの段階では︑﹁社会的生産﹂は前提されているにすぎない︑ともいいかえることがで

q d

 

きる︒以上のような限定を付したうえで︑いわれているところの世界市場概念はいかなるものか︑とあらためて問え

ば︑それは一般的抽象的な概念であるということができ︑しかも︑そうした概念が商品それ自体の論理展開において

すでに与えられる︑ということが重要である︒

﹁批判﹂に示されている世界市場は︑このように︑一般的抽象的なものといえるのだが︑ともかくもなんらかの動

因によって全面化する商品流通の展開の行きつくところの姿︑それがここでル世界市場の容姿にほかならない︒その

d

﹁一般的流通﹂としての世界市場︑と呼ぼう︒別のことばでは︑ ようなものとしての世界市場を︑ ﹁一般的市場﹂と

(5)

倍 加

しての世界市場ということもできる︒この場合︑それの展開する動因はなお与えられていない︒だからそれは抽象的

一般的な市場概念にすぎない︒商品・貨幣流通の歴史的展開という点からいえば︑資本関係の出現によって︑資本に

媒介されてはじめて︑その世界市場的展開は必然佑し︑現実佑するといわねばならぬ︒ともあれ︑さきに触れておい

ここではこの歴史的動因の分析は留保される︒そのうえでここでの世界市場はいかなる性質をもっている

た よ

う に

といえるであろうか︒

ご般的流通﹂としての世界市場︑すなわち一般的市場ル性質を規定するのは︑流通一

t 般の本質を規定するところの商品・貨幣の論理そのものである︒われわれはすでに別稿において︑商品・貨幣の論理

を追求することによって︑その前提をなす社会的再生産の総体との関連において︑国民的流通および国民的貨幣を措

定することができた︒だが商品のそれ自体としてもつ論理は︑国民的領域にそれが押し止められるべき論理的根拠を すでにあきらかなように︑

もたない︒それは当然にその論理的展開に従って国境を越え世界市場に至ら︑ざるをえないのである︒さしあたりなお

可能性としてにすぎないが︒その論理をいまここでくり返す必要はあるまい︒﹁商品の一般的言語は価格であり︑そ

の共通の本質は貨幣である︒﹂という先のマルクスよりの引用文のことばに︑それは端的に示されている︒一言つけ加

えるなら︑それは︑諸商品の対極に貨幣を生成展開せしめる論理であって︑商品それ自体についていえば︑流通を志

向する際のその本質的契機をなす交換価値の普遍性︑一般性にポイントをもっ︒しかも交換行為の広汎な体制として

︒ ︒

成立するかぎりで︑﹁世界商業においては︑諸商品は︑それらの価値を普遍的に開展すろのであって︑他方にかく

して充分な広がりにおいて諸商品の価値の自立伯姿態となる世界貨幣が対応することによって︑世界市場はまさに﹁

一般的流通﹂の本質的要件を備えたものとなる︒

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

し て

の 世

界 市

場 に

つ い

二四七

(6)

経 営 と 経 済

二四八

ところでこうした商品形態それ自体のもつ世界主義的普遍性によってその一般的抽象的規定を受けとるところの世

界市場の性質について︑リカアドウの﹁外国貿易論﹂の周知の次の命題を若干検討しておくことも無駄ではあるまい

9

す な

わ ち

﹁ある一国で諸商品の相対価値を規制する同一の規則が︑こないしより多くの国々の問で交換される諸

商品の相対価値を規制するものではない︒

完全な交易自由の制度のもとでは︑各国はその資本と労働とを自国にとって最も有利な用途に向けるのが自然であ

る︒こうした個別的利益の追求は全体の全般的利益に見事に結びつく:::︑労働はもっとも有効かつもっとも経済的

に配分され︑他万︑諸生産物の総量を増加する乙とによって︑一般的利益が普及せしめられ︑利害と交通のひとつの

共通の結帯によって︑文明世界を通じての諸国民の普遍的社会が結成される

o

乙の命題はふたつの内容からなっているといえる︒ひとつは︑資本と労働の国際的移動の自然的かつ社会的制限を

前提とするところの国民経済の相対的自律性と従って生ずる国際間における価値法則の修正の問題がのべられ︑いま

ひとつに︑にも拘わらず︑自由な商品交易を媒介に各国における資本と労働の有効かつ経済的配分をもってする国際

的分業体制の成立をみることによって︑利害を相共にする共通の普遍的社会が形成されることが説かれている︒いま

とこで価値法則の修正の問題を検討の外に置けば︑のこるところは国民経済の相対的な自律性と立地論的国際分業の

視角である︒問題はふたつである︒国民経済の相対的独立性ないし自律性をもたらす原因としての︑リカァドウによ

れば︑とくに︑習性上社会的︑法制的に安全性に対する不安からくる資本の国際的移動の困難なるものは︑乗り越え

られぬものなのかどうか︑あるいはまたもっと進んで他の理由とも合わせて国民経済の相対的独立性は必然的に与え

(7)

られるものなのかどうか︑それが第一︒第二にそうしたことをふまえたうえで結合される普遍的社会の性質について

の問題である︒第一の問題について︑われわれは︑すでに別稿で国民的流通の完結性というかたちで︑そのあり方に

ついては論じておいたが︑なおその必然的契械については︑残された問題となっている︒がしかしこの点については︑

乙こでの主要な契機とされている資本の問題とともに︑のちの問題として︑なお留保しておかねばならない︒そうし

ておいて︑第二の彼の普遍的社会論

H

国際分業論になお残る特質はなんであろうか︒自由な商品交易が前提され︑商

品流通にとって障壁がとり払われているかぎりでは︑ 乙の普遍的社会はまさにわれわれのいう﹁一般的流通﹂として

の世界市場以外のなにものでもない︒しかしながら︑仮りに先に排除した価値法則の修正の問題を再度もち込んだと

し で

も ︑

いささかも変わるところのないと思われるリカァアドウのいうところの﹁普遍的社会﹂の特質は︑ その使用

価値的視角という点にある︒リカァドウにあっては︑各国でそれぞれより有利に生産されうる使用価値の相違からす

るところの︑本質的にパ

l

i

すなわち

WlW

形式の国際交流において︑国際的普遍的社会の形成をみている︒たし

﹁有効かつ経済的に﹂といい︑国際間の価値法則の修正を問題にしているかぎりで︑彼は決して価値視点を無

視してはいない︒しかし︑それは所詮︑ブド

l

酒を造るのに必要とされる一二

O

人の労働をラシャの生産に移転せしむ

l p 乙 ︑

i i  

る乙とによって︑イギリスが︑そのラシャの輸出と引き換えに︑当初よりも多くの量のブド

l

酒をポルトガルから輸

i

入するととができ︑他方ポルトガルも逆の移転によって︑より多くのラシャを手に入れることができるといった︑相

共に質的量的に有利に使用価値を入手しうるという自由交易によるところの有無相通じあっての全体的普遍的利益を

明らかにし︑同時にその背後で国民的不等の労働量の交換の可能性と︑にも拘わらずその資本蓄積への無関係なるこ

とが示されているということ以外のなにものでもない︒ちなみに︑ リカァドウはその外国貿易論を﹁外国貿易の拡張

は︑商品の量を増加せしめ︑従って享楽の額を増加せしめるのに極めて強力に貢献するであろうとはいえ︑ 一国の価

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

し て

の 世

界 市

場 に

つ い

二 四 九

(8)

経 営 と 経 済

二 五

O

前川百

値額を︑直ちに︑増加せしめるものではない﹂という︑外国貿易における価値長不変の命題から説き起こしているの

である︒その上で彼は︑低廉な労働者用必需品の輸入によって生ずる賃金の低下 l 利潤率の上昇ひいては資本蓄積の

増大の可能性に言及しているのだが︑その視角は結局︑諸国の自然的社会的立地条件に従つての国際分業がもたらす︑

消費者及び時として資本の利益の確認という点におかれていて︑資本制生産にとって市場拡張のもつ本質的怠義は不

聞に附されてしまう︒もちろん外国貿易を介しての国際分業関係の展開とそこに示される諸商品の質量的発展が無視

されてよいわけではない︒だが問題はそれがいかなる形態で必然化するものであるか︑ということにある︒その動因

は資本であり︑その形態は商品である︒乙こにはじめて資本制生産および商品流通を担当する商業の文明化作用とい

う乙とも言いうるのであって︑乙こでの論理次元でいえば︑まさに外国貿易は商品の単に種類と量の拡大といういわ

ぱ商業の配給機構としての技術的行程とともに︑経済的にその価値の実現過程が他の側面として必然的にまといつい

ている点を見逃してはならない︑ということが重要である︒

ここではなお論理次元を異にするが︑世界市場において国際間の価値法則に生ずる﹁修正﹂の真の理由は︑生産の

諸条件ことに資本と労働の生産力の発展の不均等性ということにあるのであって︑まさにそれは資本蓄積の問題に直

接かかわっての問題なのである︒そしてそのことが他面で︑市場拡張の必然性ひいては世界市場的展開の必然性につ

ながって行くのであり︑そのような視角を欠く限りでリカァドウの世界市場論は︑静態的であり単に一定の瞬間のそ

の静的平面的構造の模写にとどまるものであったといわねばならない︒

このようにみてくるとき︑さきの﹁批判﹂からえたマルクスの世界市場の一般的抽象的規定の要めをなす︑商品の

論理が重大な意義をもってくるといわねばならない︒そこでは︑商品の本質的規定としての交換価値の側面から国境

がのり越えられ︑国民的なものが形骸化されることが示唆されている︒それは一見︑現実の国境と国民経済とを無視

(9)

一面化するかに見え︑あたかも観念の産物であるかにみえるであろう︒がしかし一歩つつ込んでみると︑むしろ

リカァドウの場合乙そ︑その特有の

WlW

形式での把握によって︑世界市場は各国民経済のいわば自然立地論的特化

H 分業構造としての単一構成体という静的かつ平面的構造でもって把握され︑かくして︑奇妙なことにマルクスの指

摘する﹁商品所有者たちの:::ひとつの市場の理念﹂に合致するものになっているととが︑注目さるべきである︒で

はマルクスの交換価値視角のリカァドウの使用価値視角に対比しての根本的差別はどこにあり︑それはまた世界市場

の構造を明らかにしようとする当面の問題にどのような意義を与えてくれるものであろうか︒乙の点を︑なお商品一

般の論理次元で検討してお乙う︒

乙こで問題とされている世界市場はすでに明らかなように交換価値の論理が全面的に支配する社会であるというこ

とができる︒その際まず確認されなければならないのは︑このようなものそれ自体は共同体社会のブルジョア社会へ

の移行に伴う﹁歴史的所産﹂にすぎないということである︒いまここでは︑その歴史的必然性つまり歴史的動因につ

いては留保しておかなければならないが︑その歴史的意義についていえば︑それは次の点にあった︒それは﹁人聞の

生産性がとく小範囲でだけ︑また孤立した地点でだけ発展するところの﹂人格的依存関係による社会から︑

在性のうえにきやすかれた人格的独立性﹂という形態での社会への変移を意味している︒その結果は︑

﹁ 物

的 依

コ 般 的 な 社 会

的物質代謝︑普遍的な対外諸関係︑全面的な欲望︑そして普遍的な力能といった体制﹂の形成となってあらわれる︒

つまり︑商品関係の全面化とは︑生産における︑従ってまた分配におけるいっさいの不動の人的かつ歴史的依存関係

の解消と︑それにかわって物的な力が︑孤立した個人の結合と依存関係を強制する︑ということを意味している︒そ

二 五

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

し て

の 世

界 市

場 に

つ い

(10)

経 営 と 経 済

二五二

してこのことはまさに世界市場における諸個人の世界人佑のための基礎をなしているということができる︒そこに成

へ!ゲルのいわゆる﹁欲望体系﹂のうえになりたつ世界市民的関係つまり世界的規模での﹁経済社会

﹂なるものである聞はもちろんこうした関係は一挙に全面化するというのではない︒それは一面では︑﹁伝来の:::も

ろもろの僻見に対立して︑発展﹂して行くものであるとともに︑他面では︑他の諸関係を自己の﹁一般的照明﹂のも

m u  

とに支配してゆくものでもあるここに︑現実にはもろもろの生産関係よりなる複合的経済構造を見いださねばなら 立 す る 関 係 は ︑

ず︑それは当然に世界市場の構造にも反映されるところでなくてはならない

D

しかしその点を一応措いて︑さきの商

品関係成立の歴史的意義にたらかえってみるならば︑この社会にとっての基本的特徴は商品関係特有の矛盾として一不

されるところのものであるといわねばならない︒それはどのようなものであろうか︒﹁要綱﹂の﹁貨幣に関する章﹂で

貴金属輸出入を伴う経済的混乱および恐慌を救うひとつの方法として提案されるプル

l

ドンらの時間紙幣

ωZ E8

目立己論を批判して︑それがもともと生産およびそれに規定されるその他の諸関係の固有の矛盾に発するものである

乙とを明らかにしつつ︑それを﹁サン

l

シモン主義者は︑彼らの銀行を生産の法王庁にしたてたのである﹂と皮肉っ

たマルクスは︑商品社会に特有な交換と分業の相互制約関係に触れて︑次のようにいっている︒

﹁交換と分業とはたがいに制約しあう︒:::交換価値と貨幣とによって媒介されるものとしての交換は︑もちろん

生産者の全面的な相互依存性を前提するが︑しかし同時に生産者の私的利益の完全な孤立佑と社会的分業とを前提す

る︒この私的利益の孤立化と社会的分業の統一と相互的な補完とは︑いわば自然的関係として個人の外部に︑彼らか

ち独立して存在する︒一般的な需要と供給の相互的圧力が︑相互に無関係な人々の関連を媒介するよ

一方で︑諸個人は相互に依存し合う分業関係︑すなわち社会的生産のもとにおかれていながら︑他方では︑諸個人

の生産は直接的には社会的ではなく︑互いに無関心で孤立し合っているという矛盾︑それは︑交換価値の形態日貨幣

(11)

によって︑ともかくも解決される︒しかし乙の解決のために必然化する交換価値の形態つまり貨幣は︑そうした物的

な形態で︑各個人に外部から﹁社会的な力﹂として︑いわば一つの宿命として︑働きかけるものとしてあらわれる︒

つまり交換価値の形態リ貨幣は︑かつての共同体社会における人格的結合の強制にかわって︑外的に物的な力をもっ

て︑各個人の社会的結合を強制する手段として︑ たちあらわれてくるのである︒

このようにみずからの相互孤立性と相互依存性の矛盾の展開を内容として成立している商品社会日世界は次のよう

な性質および諸形態をもってたちあらわれる︒

第一に︑すでに指摘した︑交換の必然性と物的媒介者としての交換価値目貨幣形態の必然性︒社会がみずからのた

めに生み出したこの物的な力によって支配されること︒第二に︑この力は互いに無関心な諸個人の衝突︑対立から生

みだされるものであること︒だから︑私的利益の追求が一般的全体的の利益に奉仕するという︑ブルジョア的ロマン

主義は︑哀をかえせば︑他人の利益に対する対抗と否認︑すべての人々にたいするすべての人々の戦い︑ つまり対立

と抗争の結果の別表現にすぎないこと︒第三に︑そこでの私的利益それ自体をとってみても︑ こうした外的な力の支

配のもとでは︑社会的に規定された利益以外ではなく︑ そのいみで社会的規制を受けた諸条件と諸手段によってのみ

段を生みだすものといわねばならない︒ 達成されうるものといえ︑そのかぎりで私的利益はふたたび社会的に規制された諸条件に転化され︑対立と抗争の手

(この点は資本制生産のもとで︑自己を制限する生産諸条件をたえずのりこ

える強力な力を資本が取得しつつも︑ そのことが同時に次の段階の自己制限的な社会的生産の諸条件の再生産に到ら

ぎるをえない︑というときに最も典型的にあらわれる︒)第四に︑かくて︑孤立と依存の相互矛盾は一方に︑対立の

なかに統一を︑そしてその諸形態と調整の社会的諸制度を呼びおこすが︑他面ではまたより拡大された対立と異質化

を増大させる乙とになる︒

﹁一般的流通﹂としての世界市場について

二 五

(12)

経 営 と 経 済

二 五 四

もっとも発展した商品世界としての世界市場は︑まさに︑以上の性質と諸形態を包括的自己構成要因として定在す

る︒読みに提示しておけば︑第一に世界貨幣︑第二に国際分業の名における支配と対立︑第三に生産力の不均等発展

と不均衝蓄積︑第四に国際的信用制度と諸取引市場の形成およびその内部での諸対立︑制度そのものの樫桔佑︑がそ

れ で

あ る

要は商品世界の内的矛盾の確認にある︒総需要と総供給の対立として示される諸個人の競争とその内的社会的強力

化とそして恐慌︑その具体かつ包括的態容がまさに世界市場を規定する諸契機の総体であるといえる︒

いま論点をあきらかにし︑行論をより説得的なものにするために︑具体的例称を物価表品目︒

M M g

ぽ ︒ ︒ ロ

ω

ロ 己

宮 古

るものにもとめてみよう︒

﹁ 物

価 表

l そこでは全ての価値が貨幣で測られるーでは物

ω S F g

(物価表に客観佑されたかたちで)示されている︒同様にまたそこでは︑乙の異質性という基礎に立つと乙ろの商業

活動が同時に示されている︒そしてこの異質性において︑全産業関係︑全交易関係(つまり社会的生産)が個人︑す

qMW 

べての個人に対立してあらわれるが︑それはふたたびこの異質性を個人の手にゆだねるためであるこ(文中の( の社会的性格の人聞からの独立性が︑ 同 時 に

J

は引用者の挿入)

物価表に示されている諸商品の価格は︑市場における総需要と総供給の対立と対応の結果を示すものにほかならな

い︒社会的なものは︑かくて客観的なものとして各個人に対立し︑各個人から独立した存在として各個人を支配する︒

だがしかし︑物価表は︑まさに︑同一の商品について社会から自立し独立し︑それ故に様々の個別的価値を生みだす

異質の関係︑さらに異種商品について異質の労働投下がおこなわれているという関係を基本的内容とする異質性に根

拠 を

お き

その故にこそ物価表はうまれて来た︑といえる︒つまり諸個人の分断性と対抗性が︑物価表として生産の

(13)

﹁社会的性格﹂を個人から独立のものとして個人を支配する力としてあらわれしめ︑ ふたたび個人をしてその知識を

もとにさらに次の異質の行動に立ちむかわせるところのもの︑と意義づけられる︒しかも注目すべきは︑物価表は︑

為替相場︑手紙や電信での商業情報などとともに︑疎外状況の発展に対応して︑この独自の地盤のうえで乙れを止揚

向い

しようとする詰み以外のなにものでもない︑といえる︒それは外的自立のうえにたっての内的結合の外面化︑つまり

対立と依存の矛盾の止揚への努力の外化したものなのである︒だがしかし︑物価表︑取引所︑銀行等々は果して矛盾

を止揚するものなのだろうか︒

同じ乙とが世界市場についてもいえる︒そこでは︑

もなう︑相互依存関係の増大︑内的統一の論理の貫徹を必然化せしめつつ︑他面その論理が外的強制として︑各個人

一 面

で ︑

そこに包括されている諸個人の︑貨幣関係の発展にと

の異質性︑無関心性をますますあばき出さずにはいないという過程の展開がおこなわれるのである︒

きて以上のことが︑社会的分業と私的所有

( I

交換)を条件とする商品関係の論理展開において与えられるところ

のものであることはあきらかであろう︒その論理展開線上に世界市場を位置づけるとき︑そこには﹁価値法則﹂とい

う世界市場の内的法則が貫徹せねばならぬこともまたあきらかである︒だが重要な

ζ

とは︑そうした法則はまさに内

的法別であって︑その貫徹過程は︑そのままのものとしてあらわれるのではなく︑諸々の対立的諸形態を介して発現

する︑ということである︒それらの諸形態は一面からいえば︑世界市場の法則性にとってのその貫徹にあたってのも

それはまた同時に︑新たな形での外的な力として対立と矛盾を生みだす出発

点を構成するものである︑という論理展開の理解が肝要である︒このような意味において︑本節の冒頭に引用した﹁

批判﹂の一節﹁商品所有者たちの頭にうかぷ全世界の崇高な理念﹂は︑まさに世界市場の動的歴史的過程に貫く内的

法則性として把握されねばならない︒ちなみに﹁抽象または理念は︑個人のうえに立つ主人であるところの︑かの物 ろもろの障害の止揚形態であるのだが︑

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

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界 市

場 に

つ い

二 五 五

(14)

経 営 と 経 済

二 五 六

哨川岬白

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的関係の理論的表現にほかならない﹂のである︒

端的にいえば︑単一世界市場の理念とは︑価値法別であり︑ その貫徹過程は世界市場競争であり︑ その止揚形態は

世界貨幣と国際的信用制度であり︑最後にその究極の発現形態は世界市場恐慌である︑といえよう︒

値に立脚したブルジョア社会の内部で︑

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の社会を爆破するためのそれだけの数の地雷を意味する交易関係ならびに

向MW

生産関係が生みだされる︒﹂のである︒ ﹁だが︑交換価

さて以上のような﹁一般的流通﹂としての世界市場の内的論理の展開において︑ ﹁国民的なもの﹂はいかに位置づ

けられるべ︑きであろうか︒マルクスはさしあたりそれを商品それ自体の論理において︑

﹁ 超

越 ﹂

さ れ

る も

の ︑

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た単なる﹁刻印﹂として形骸佑されるものと規定している︒しかしまた一方で︑世界貨幣は国民的鋳貨に﹁対立して

発展﹂し︑それにつれて︑商品所有者の世界主義が国民的なものに﹁対立して︑発展する﹂とも言っているのである︒

この点に理解の鍵を見出しうるものとするならば︑まずわれわれは﹁国民的な壁﹂を文字通り壁として︑歴史的道産

として超克されるべきものと考えねばならない︒だがしかし︑すでに行論の途次で︑簡単に触れておいたように︑

国の経済構造が支配的生産関係の他にいくつかの副次的生産関係を内包しているように︑世界の経済構造はより以上

に複合的であり︑従って過程は︑単調な過程ではなく︑もろもろの特殊具体的経済構造をもって形成されている諸国

家的障壁に︑﹁対立し﹂発展し進行しなければならない︒ここに︑世界市場の複合構造の第一の理由がある︒とはい

え︑それらは文字通り鋳つぶされ形骸化され︑空洞化され︑単一の世界市場の法則性のもとに包摂される宿命を担っ

A山V仇MW

ている︒その限りで︑その歴史を抽象し﹁一般的流通﹂としての世界市場を論理的に設定しえたのである︒

(15)

しかしながら﹁ギネア金貨の刻印﹂は鋳つぶされ︑等量の金として︑単一の同じ世界市場的価値を保持しえようと

も︑その背後にあって︑もろもろの異なる生産の諸条件に規定されて生ずる生産物の個別価値とその国民的総括とし

ての国民的価値の異質性を止揚しきれるものではない︒むしろ︑形態的︑外面的にこれを止揚した姿が︑世界貨幣金

にほかならないのである︒それは内的法則の外化として︑世界市場の暴力的法則として︑各国民経済に作用するであ

ろうが︑それは︑ふたたび︑各国民経済の異質佑の出発点を形成するのみであろう︒そこにはまさに世界市場の内的

統一性と外的分断性の矛盾の生みだす過程の進行をみとめなければならない︒だが︑すでに気ずかれたであろうが︑

ここには重大な論理的前提がなされている︒﹁国民的総括﹂がそれである︒そうではなくて︑なぜに︑個人目世界人

という論理であってはならないのか︒それはふたたび歴史の問題︑ しかし今度は︑資本制生産という新たな生産関係

の成立を起点とし︑内的動因とする歴史の必燃的展開に論証が求められなくてはならない︒だが︑ここで次のことだ

WIG‑w

GIW│G

への歴史論理的展開のなかで︑すでにのベて来た内的 けは確認しておかなければならぬ︒

強力的法則性と法則の貫徹過程および形態の区別︑具体的にいえば対立的諸過程と形態の相互作用のなかでの法則の

貫徹という論理が︑より具体化されてあらわれる︑というのがそれである︒それは法則それ自体が剰余価値取得の法

則に転化しつつ︑その国民的対立諸形態のなかでの貫徹という過程をたどるであろう︒マルクスの次のことばは︑そ

の具体的諸象を検出する際にかなりの示唆を与えてくれるように思われる︒

﹁分業が密集︑結合︑協力︑私的利害の対立︑階級利益︑競争︑資本の集積︑独占︑株式会社 l 対立そのものをよ

びおこす純粋に対立的な統一の諸形態ーを生みだすように︑私的交換は世界商業を︑私的独立性はいわゆる世界市場へ

の完全な依存性を︑そして︑分散した交換行為は銀行制度と信用制度を生みだす︒この銀行制度︑信用制度による簿

記は︑少くとも私的交換の調整を確認している︒為替相場

l

各国民の私的利害は︑国民が一人前の個人をもつのと同

﹁ 一

般 的

流 通

﹂ と

し て

の 世

界 市

場 に

つ い

二五七

(16)

経 営 と 経 済

二五八

じ数の多くの国民に国民を分ち︑そして同じ国民の輸出業者と輸入業者の利益がここで相対立するということがある

︑ ︑ 闘

に し

て も

l

において︑国民商業は実在しているとの仮象を受けとるよ

物的な関係︑交換の行為を通むての世界市場連関が︑ますます密接佑し︑私的独立性の止揚形態と制度を形成せし

めて行けばゆくほど︑ その背後にあっての内的過程は︑交換価値実現とさらに剰余価値の取得と実現をめぐっての対

立と抗争の激佑を内包し︑そこに生ずる支配と従属の関係が国家的形態をとってあらわれる乙とを︑否定する乙とは

困難であろう︒さらに云えばその際︑原蓄過程に示される国家権力の損梓的作用が対外関係における相対的独自の作

Am可向MW

用として再生産されうることも否定できない︑といわねばならぬ︒とはいえ︑これらの問題は抽象的一般的︑論理次

元では問題となしえず︑より具体的歴史的論理次元にその論述の場を求めねばならない︒

以 上 に よ っ て ︑ ﹁一般的流通﹂としての世界市場の態容と本質があきらかにされた︒それは文字通り︑商品それ自

体としての論理展開の線上に位置するものである︒がしかしそこであきらかにされた︑世界市場の体質は対立と斗争

の過程につらぬく︑内的統一ということであって︑その意味では︑ スミス│リカァドウ流の調和の世界観も︑むしろ

支配と強制のかくされた諸形態をもってあらわれるところの世界市場の理念以外のなにものでもないといわねばなる

ま い

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マルグス﹁経済学批判﹂青木文庫版︑ニ O ︒

二 ペ

ー ジ

︒ ( 2 )  

宇野弘蔵﹁価値論﹂昭和二十二年︑十九ページ参照︒なお一言注意しておけば︑このことは単に方法論上の問題として考え

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き に

与 え

ら れ

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故 に

そ う

な の

で あ

る ︒

( 3 )  

深町部弥﹁﹃経済学批判要綱﹄における貨幣論﹂村二四ページ(﹁経済学研究﹂三 O の一己︑および冨

2 u n

・ 同

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Eロ円四円目的問︒

(17)

門 戸

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邦訳高木幸二郎監訳﹁経済学批判要綱﹂ I ︑ 一 四 六 ベ

1

ジ 参

照 ︒

( 4 )  

﹁貨幣が鋳貨として通用する領域は︑ひとつの国家の境界によって囲まれた国内的商品流通として︑商品世界の一般的流通

とは区別される︒﹂(﹁批判﹂二ニ九

l

四 0 ページ︑傍点︑引用者)といわれる場合の﹁一般的流通﹂がこれに当る︒なお﹁

一般的流通﹂という言葉そのものは︑商業貨幣との関連でその流通部商としての生産者︑商人のあいだの﹁商業流通﹂に対

して︑より広汎な流通部面を示すもの

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自存己主芯ロ(関与=巳困

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O ) ︑および資本の循環流通と区別

しての一般的な商品流通﹀=想自巳

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などがあるが︑乙乙でのそれはもちろん

それらとは内容を異にしている︒

(5) 

深町︑前掲同論文(﹁経済学研究﹂一二十一の一)八てへ 1

ジ ︒ ( 6 )  

世界市場の本来的展開は︑資本制生産の成立によって与えられる︒なお乙の世界市場の歴史的必然性の問題と合わせて︑資

本運動の先駆形態としての商人資本が資本制生産に歴史的に先行してあらわれること︑それとの関連で成立する前資本主義

﹁ 批 判 ﹂ か ら の 引 用 文 に あ る ︑ 的歴史的世界市場の意義については︑別稿でのべる︒その際注目すべ誌ととのひとつに︑

世界貨幣が:::発展するにつれて﹂という場合の︑世界貨幣の位置づけの問題がある︒後論での問題点のひとつとして︑こ

こで特に指摘しておく@

,   ( 7 )  

拙稿﹁国民通貨と国際通貨付﹂本誌一 O

三 号

冨 ω 門 戸 同 名 = 巳

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邦 訳

﹁ 資 本 論

﹂ ( 青 木

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七 七 ペ ー ジ ︒

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﹁一般的流通﹂としての世界市場について

二 五

(18)

経 営 と 経 済

二 六

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(1

2 )   前 掲

︑ 拙 稿 ︒ ( 1 3 )  

吉村正晴氏は︑リカァドウが﹁資本および労働の移動の困難﹂といいながら︑もっぱら﹁資本﹂についてのみ論じ︑労働移

動の制限は︑事実上無視している︑ということについて︑それをむしろリカァドウの理論の長所で乙そあれ︑欠点でない︑

とされている︒同氏︑ ﹁世界市場における経済法則﹂ (﹁産業労働研究所報﹂第二一号︑一二ページ)

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金子武蔵﹁へ 1 グルの国家観﹂昭和一九年︑第五十五節﹁経済社会﹂参照︒

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吋 ・ 邦 訳 ︑ I ! 二 八 ペ ー ジ ︒

なおまた︑諸ウグラードを構成分子とする経済構造の意義について明快な分析を示されているものに︑茂木六郎﹁一国資本

( ﹁ 法 経 論 集 ﹂ 第 二 号 ) が あ る ︒ 主義分析の方法について﹂

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邦訳︑‑1七七ページ︒

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邦訳︑‑l七九ページ︒

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(22) 

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深町民は﹁要綱﹂(邦訳Il一一六

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七ページ)に︑流通の総体において﹁私的な関係が﹁個人を越えた自立した力﹄を生み

出し︑それが個人を規制するということが示唆されている点﹂に注目され︑資本規定を欠く﹁単純流通﹂の段階では﹁限ら

れた意味﹂においてにすぎぬとはいえ︑そこに﹁純粋なブルジョア国家の可能性としての予組がすでになされているという

(19)

ことができないであろうか﹂と問題をなげかけられ(深町︑前掲論文付三七

1

四ページ﹀︑さらにつづいて資本の運動

Glw 1G

を背後にもってはじめて完全な展開を示すにいたるところの商品流通

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の︑思惟における拍象の過程で︑社会

的空産過程から切りはなされた﹁単純流通﹂

WI G

w

に対応して︑あくまで形式的・抽象的にせよ︑国家の第一段階的規

定を措定しうるとされる︒ (前掲論文同八六ページ)

(25) 

ここで強調さるべきは︑その国家規定の形式性・抽象性であり︑その論理次元に止まるかぎり︑国民的鋳貨は︑世界市場

的展開においてたんなる刻印︑形骸と佑してしまわざるをえない︑ということであろう︒

︒ 円 ロ ロ 仏 門 戸 回 目 0

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訳 八 0

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ペ ー

ジ ︒

茂木氏は︑日本資本主義の発展途上における対外市場の問題に関説するなかで︑原蓄期における経済力としての国家権力以

外に︑一定の特殊具体的条件のもとで︑相対的に国家権力が経済力に転化しうる場合のあることを指摘されている︒

( 同

(26) 

﹁日本資本主義形成期における国外市場の問題﹂日本経済機構研究所編﹃日本資本主義論争前進のために﹄一九四八年所収 9

五 七

1

六 0 ペ ー ジ )

﹁一般的流通﹂としての世界市場について

一 一 六

参照

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