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いわゆる「大陸制度」<Continental System>の歴史 的意義(3)

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(1)

いわゆる「大陸制度」<Continental System>の歴史 的意義(3)

その他のタイトル The Historical Significance of the Continental System (3)

著者 吉田 静一

雑誌名 關西大學經済論集

巻 11

号 1

ページ 27‑51

発行年 1961‑04‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15526

(2)

27 

︹ 四 ︺

︹一︺問題視角

︹二︺﹁大陸制度﹂成立の歴史的前提

I

︺フランス革命における保護制度の形成

' ︹

︹IlI ︺﹁大陸制度﹂への展望︹以上第十巻第五号︺

I I

︺保護制度と﹁産業の自由﹂

︹三︺﹁大陸制度﹂の形成と展開

I

︺ィギリス・フランスの産業・市場競争

I I

︺関税制度の再編と推移 ︹IlI ︺ベルリンおよび︑ミラノ勅令

﹁大陸制度﹂

む す び

I l

Sy st em

> 

二 七

ーー﹁大陸封鎖﹂の完成

1

I V

︺﹁大陸封鎖﹂の自壊︹以上第十巻第六号︺

︹四︺﹁大陸制度﹂の歴史的意義

I

︺﹁帝国の大陸植民地﹂

ー﹁大陸制度﹂の﹁フランス的視角﹂ー

﹁ 工 業 生 産 の 温 室 的 育 成 ﹂

の 歴 史 的 意 義

さ て

︑ 以 上 に そ の 航 跡 を た ど っ た

﹁ 大 陸 制 度

﹂ は

︑ い か な る 歴 史 的 意 義 を に な う も の で あ っ た か

いわゆる﹁大陸制度﹂^

C on t i n! , n ta l

 System

の 歴 史 的 意 義 ︵ 吉 田 ︶

の 歴 史 的

いわゆる﹁大陸制度﹂^

C o n t i n e n t a l  

吉 意

田 義

( 三 )

(3)

くはずである︒ の連関を明らかにしていくこととしたい︒ ところで他方︑ うして後者は︑いする大陸市場の閉鎖を目的としたヨーロッ︒ハ大陸の制握におもむかせたのである︒﹁大陸制度﹂が︑もっぱらイギリスを対象とし︑ず第一に確認しておかなければならない︒

この﹁大陸制度﹂が︑

度﹂の内部にふみいり︑ その経済的自壊を意図としてもつものであったことは︑

イギリスにたいする大陸諸国の生産力的ないし制度的段階の遅れのもと

で︑イギリス商品の大陸への流入を阻もうとしたかぎり︑大陸諸国の産業にたいし保護的役割を演じたであらうこ

( 1 )

︑︑︑︑︑︑︑︑とは︑推察するのに困難なことではない︒しかし︑ナポレオンの視野にあったものは︑もっぱらフランスの産業の

みであり︑そのため彼は︑却つて他の大陸諸国の産業を敵視し︑その発展を抑止しようとさえした︒したがつて︑

﹁大陸制度﹂が保設主義としての機能をもつともよく演ずることができたのは︑フランスの産業にたいしてのみで

( 2 )  

あったといつてよいのである︒しかし︑それはいかなる謡味においてであったか°│ー'以下︑われわれは︑﹁大陸制

それがヨーロッパ大陸内部で演ずることとなった機能︑ とそれにともなう通商封鎖は︑

﹁大陸制度﹂の歴史的意義は︑ ナポレオンをして︑

IJ

I 

いわゆる﹁大陸制度﹂^

Co nt in en ta l 

System~

の歴史的意義︵吉田︶

﹁大陸制度﹂の展開は︑

によるョーロッ︒ハ大陸の制握と並行した︒もとより︑ すでにのべたところから知れるように︑フランスの海外植民地の喪失およびナポレオン

このうち前者は︑

イギリスの海上制圧によるものであり︑そ

いわばそれへの対応としての地位をしめるものであった︒すなわち︑イギリスによる制海権の掌握

﹁過剰によるイギリス征服﹂を計画せしめ︑イギリス商品にた

ナポレオンの

そうしてまたそのフランス産業と

その過程でおのずから明らかになってい

ニ 八

ここでま

(4)

29 

それが高い生産力にささえられたイギリス商品の競争を大陸か

( 1 )  

ら閉め出したかぎり︑大陸諸国の産業家たちから迎えられることができ︑彼らの協力を得ることができた︒そうし

いわゆる﹁大陸制度﹂^

Co nt in en ta

l Systemの歴史的意義︵吉田︶ まえに指摘しておいたように︑ I

(1 )

do me st ic pr od uc ti on

を剌戟した︒﹂

E li

F

  He ck sc he r, h  T e  C on ti ne nt al  Sys te m,   pp .  25 7

8 .

•(2)さしあたつてHeckscher,

0 p・ c i t. ,  p . 2 59 ,  T ar le ,  o p.   c i t . ,   pp .2 40

5 ,  Vi en ne t,   p .   c i t . ,   p .4 0

A .

,  

 

C

ha be rt ,  Es sa i sur e s   l   mo uv em en ts   de s  r ev en us t  e  d e  l ' ac t i vi t e  e co no mi qu e  e n  F ra nc e  d e  1 79 8 

1 82 0 ,   1 94 9 ,  p ・ 3 02 1 ( <

1 4参 昭咄

このように︑﹁大陸制度﹂を巨大な規模の保護制度としてみるばあい︑それは︑通常︑つぎのような特異性をもつものとさ れ︑そうしてその特異性は﹁大陸制度﹂の矛盾として指摘されるのがつねである︒すなわち︑常時の保護制度のもとでは︑輸 入にたいする障害は︑普通︑工業生産物あるいは農業生産物におよぷにすぎず︑工業の原料にたいしては悴害はもうけられな い︒ところがこれに反し︑全般的自己封鎮

a

ge ne ra l  s el f' bl oc ka de としての﹁大陸制度﹂は︑海上をへて輸入されるあらゆ る種類の物品にたいする無差別のきびしい拿捕にはしらざるをえなかった︑ということがそれである︒

( c f . ,

He ck sc he r,   op .  c i t .

`  

p. 25 8)

﹁大陸封鎖﹂に関するかぎり︑この指摘を否むことはできない︒しかし︑それを過大視して︑﹁全般的封鎖の結 果としての原料不足により︑世界の工場としてのイギリスの地位を破砕すぺき産業の発展を犠牲にするか︑それとも海上の支 配者の協力をえて原料を受け入れ︑それによってイギリスの制海権および通商力の破壊という目的︑したがつて﹁過剰による イギリス征服﹂という目的を捨て去るか﹂

(H ec ks ch er , o p.   c i t . ,   p .   25 8)

ない︒以上の困難な事態が︑その解決のためにナポレオンをして︑﹁大陸植民地﹂制におもむかせたことは︑のちにみるとお

りである︒

﹁帝国ーの大陸植民地﹂

̲

(5)

30

ここにしめしたザクセンの例は︑ ンにおける︑ミュール機紡錘数は︑

A

こ ︑

tし力i きないけれども︑しかしその最大の原因が︑ いわゆる﹁大陸制度﹂

A

C o n t i n e n t a l  

System~

の歴史的意義︵吉田︶

て実際に︑ザクセンがその例のひとつを提供しているように︑

ザクセンは︑繊維工業と製鉄業に関するかぎり︑当時すでに高い発展度をもつ工業国であった︒とくに綿工業は

長い歴史をもち︑薄手の製品︵綿モスリン︶については︑

抗することができた︒しかし︑

にイギリスと同質の製品をつくることを不可能にし︑

争の前に圧倒されることとなった︒同じ運命は︑ザクセン綿工業のもうひとつの主要部門であったプリント用キャ

ラコにもおよび︑

その部門もまた一九世紀初めには︑

イギリス綿工業の展開とその製品の大陸市楊への進出は︑ザクセンの綿工業に︑

たどらせたのであったが︑しかし︑それは﹁大陸制度﹂の実施とともに再び活況をとりもどすこととなった︒もと

その前後の時期にみられたイギリスにおける機械紡紹の展開は︑ザクセンの綿工業

その長い歴史に培われた地盤とすでに達成されていた技術水準とを抜きにして考えることはで

障壁にあったことは︑疑いのないところである︒この﹁大陸制面︷﹂の間︑一八〇六年から一三年にかけて︑ザクセ

( 2 )  

00

から二五五︑九

00

に達したといわれる︒

た例としてふさわしいものである︒だがしかし︑

オンの直接支配にはいることがなかったこと︑ た例を見出すことも困難ではない︒ この﹁大陸制度﹂のもとで産業の復活と発展とをみ

その世紀の末には︑綿モスリンでさえ︑イギリス製品との競

イギリスとの競争のため著しく衰退することとなった︒この

﹁大陸制度﹂によって設けられた︑イギリス綿製品の流入にたいする

﹁大陸制度﹂がフランス以外の産業にたいしても保設的役割を演じ

それは︑ザクセンがフランスから離れること遠く︑しかもナボレ

そうしてまたフランスの輸出にとつてきわめて重要であったライプ 一八世紀末に衰退の途を 一八世紀の七

0

年代にいたるまで︑イギリスの競争に拮

(6)

31 

チヒ大市をもっていたことなどにもとづく特殊な例であったとしなければならない︒

ば︑ナポレオンには︑フランス以外の産業を保誰育成する意図や︑

( 3 )  

体﹂に編成したり︑その内部に

る︒したがつて︑イギリスの競争を閉め出すということのゆえにフランスに追従した国も︑やがて︑ナポレオンが

イギリス製商品を閉め出したのは︑やや比喩的にいえば︑

た︒こうしたナポレオンの︑同盟国・従属国にたいする一般原則は︑イタリア副王ユジェーヌ・ド・ボーアルネに

あてたつぎの書簡にもつともよくしめされているということができよう︒﹁わたくしの基本原則は︑フランス第一

la

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  ava

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  to

ut

ということである︒貴方は︑もしイギリスの商業が海上で制覇しているのであれば︑

はそこでは彼らが最強者だからであることを︑決して忘れてはならない︒とすれば︑陸上ではフランスが最強者なの

れゆえ︑貴方もまた︑

︸ セダン︑リヨンをもつてするためであったことに気づかなければならなかつ

フランスの商業もまた制覇するのが当然である︒でなければ︑すべてが失われる︒⁝⁝そ

( 4 )  

フランス第一を座右の銘とされんことを︒﹂

この﹁フランス第一﹂政策は︑いかなるかたちであらわれたか︒そうして︑

味でフランス産業に利するものであったか︒もとより︑大陸諸国にたいするナポレオンの政策は︑

政治的︑地理的条件によって︑同じ影密をあたえるものではなかった︒しかしそのなかで︑

ティクな政策がもっともあらわにしめされたのは︑イタリアにおいてであったといつてよい︒彼は︑イタリアを︑

完全にフランスの経済的従属のもとにおこうとしたのである︒

C o n t

i n e n

t a l   System

の歴史的意義︵吉田︶

i i i  

マンチェスター︑ ﹁自由な市場﹂を形成したりする意図は︑

こうした特殊な条件を除け

それはいかなる意

それぞれの国の

ナポレオンのエゴイス

少しもなかったといつてよいからであ ヨーロッパ大陸をひとつの自由な﹁経済的統

(7)

に︑大陸的規模で展開されたかぎり︑

帝国の大陸植民地﹂制に編成しよう

C o n t

i n e n

t a l  

System~

イタリアはすでに一八〇六年四月フランスの帝国関税法制定とともに︑

商品にたいして大陸市場を閉すナボレオンの政策の一翼をになわされた︒しかし︑

イギリス商品にたいしてばかりではなく︑

かんにかかわりなく︑すべてイギリス製とみなした︑同じ年六月一

0

日の王令がしめしているように︑

品を除くすべての商品にたいしてであった︒こうしてそのとき以降︑イタリアのフランスにたいする経済的従属が

0月一六日の布告によって完結せしめられた︒とくにこの後者は︑

の三重の規制よりなるものであったが︑

イタリア商品にたいして閉されたままであった︒したがつて︑

らびに原料市場として︑

のなかに編成する意図は︑ 製品から羊毛製品への拡大︑ はじまったのであったが︑

それと同じ体制に組み込まれ︑

フランス製のものを除く工業製品︵とくに綿製品︶を︑

イギリス

イタリア市場が閉されたのは︑

その原産地のい

フランス商

0

0

八年六月二

0

日の﹁通商条約﹂によってさらに強化され︑

( i

)

フランス以外の国からの輸入禁止の︑綿 (~11)輸入禁止の、運輸禁止による補足、C111)リヨン向けを除くイタリア産生糸の輸出

これらの規定はまったく一方的であって︑片方のフランス市場は︑

イタリアは︑フランス商品の販売な

( 5 )  

いわばフランスの植民地に擬せられることになったのである︒

( 6 )  

イタリアをフランス帝国のいわば﹁大陸植民地﹂制

l e s

c o l o

n i e s

  c

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n e

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a l

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  de

  !'Empire 

ただイタリア一国のみに限られたのではない︒

﹁大陸制度﹂が︑その呼称のしめすよう

﹁大陸制度﹂をそのまま﹁︹フランス︺

とする意図もまた︑最初から大陸的規模において組み立てられていたとみなければならないであろうし︑

はこれによってはじめてその充分の意義をかちとることができたであろう︒事実︑

ていどの差こそあれ︑ その意図

イタリア

にその典型を見出すことのできた︑大陸諸国の﹁大陸植民地﹂制への編成は︑意識的にナポレオンによって推進さ

(8)

33 

れていったのである︒たとえば︑ナボリ王国は︑最初はフランス商品にたいする特恵関税を︑

外の外国商品にたいする輸入禁止を強制され︑それによって︑

その貿易構造を︑古来の海上によるイギリス貿易か

( 7 )  

ら未知の陸上による一方的なフランス貿易へと転換せしめられた︒

関税制度﹂の設定を規定したが︑しかしそれも一八︱

0

禁止条項が廃止され︑閾税率も︑

﹁大陸制度﹂のもとにおけるフランスと他の大陸諸国との関係は︑

貿

そのときまでフランス製品に加えられていた輸入

( 8 )  

フランス商品に有利に改定されるにおよんで︑崩されることとなった

9

大陸市場におけるフランスの支配権の獲得と確保とへの努力によっておおわれていたといえる︒

ここで﹁フランス﹂といわれているのは︑ナボレオンによって併合された地域をふくまない︑﹁旧フランス﹂

l ' a n

c i e n

n e  

France

のことにほかならない︒ビエモンテ︑パルマ︑ジェノア︑トスカナ︑

ランダなどの︑ナボレオンによって併合された地域は︑すでにみたその経過から充分にうかがえるように︑イギリ ス商品を閉め出すという﹁大陸制度﹂本来の目的を完全に充すために併合されたのであったが︑しかし︑これらの 地域は︑それによってフランスと同等の地位をあたえられたのではなかった︒フランスの商品は︑

域には自由に流入しえたのに反し︑これらの地域の商品は︑

けたのである︒もつとも︑オランダについては︑

フランス市場において外国商品としての取り扱いをう

その併合令のなかで︑

に解消されることが規定されていた︒しかしこの規定と住民の請願とにもかかわらず︑

C o n t

i n e n

t a l  

System

圧したのちのバイヨンヌ条約は︑

0

八年七月五日︑ のちにはフランス以

スペイン国民の蜂起を鎮

﹁緩やかな定率

ここにしめされた二︑三の例が明らかにして

これらの併合地

フランスとの関税国境は一八︱一年の初め

それはくり返し延期され︑ そうしてのちにはオ ︵とはいえ︑とくにフランスのそれ︶に有利な︑ 同じことは︑

スペインにおいてもみることができた︒すなわち︑

(9)

といわれる︒

C o n t i n e n t a l  

System

の歴史的意義︵吉田︶

るとき併合地域の利益は︑ とで意図した﹁経済的覇権﹂

su

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ie

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on

om

iq

ue

( 9 )  

つねに犠牲にされたのである°

﹁大陸制度﹂のもとにおける︑

握にたいする努力と並行した︒

スイスの綿工業にたいしてプラスにのみ作用し

0

年代には︑紡績および織布の両部門にわたつて︑

ヨーロッパ綿工業における先進国であった

﹁大陸制度﹂におけるフランスのエゴイスムは︑大陸

ハンザ諸都市についても同じであった︒ナボレオンが﹁大陸制度﹂のも

イギリス商品の大陸市場からの追放は︑

この意味で﹁大陸制度﹂は︑

たといえる︒したがつてそれだけに︑ フランスの︑大陸市場の制

フランスのエゴイスムのもとで︑その形成と展開をみ

この﹁大陸制度﹂が他の大陸諸国におよぽした影響は︑大きかったといわな ければならない︒そうしてそれについてはまず第一に︑大陸市場をフランス商品に一方的に開放し︑他方フランス 以外の商品にたいしてはそれを閉すことによって︑大陸の市場構造に衝動をあたえ︑混乱を生ぜしめたことを︑あ

げることができるであろう︒しかし︑そればかりではない︒

におけるフランス以外の工業諸国から︑海外市場はもとより大陸市場そのものをも奪うことによって︑その工業生 産に衝撃をあたえたのである︒そうしてそのもつとも著しかったのが︑

スイスに機械紡績が導入されたのはこの地盤にもとづいてであり︑

社会的混乱を生み出しはしたけれども︑しかしともあれ︑

の発展をみることができた︒ただし︑

輸入を困難にするとともに︑すでに知った︑

スイスとベルク公国とであった︒

それは少からぬ

イギリスの競争を閉め出した﹁大陸制度﹂のもとで︑

このように﹁大陸制度﹂は︑

たのではない︒それは︑他方ではスイスのあらゆる繊維産業にとつての原料︑すなわち原棉︑亜麻︑大麻︑生糸の

そのもとでのイタリア市場の閉鎖によって︑ドイツ市場への転換を余 ついに実現することがなかった︒事情は︑

﹁旧フランス﹂のそれのことであり︑それと衝突す

一 四

(10)

35 

業の中心としてドルトムント︑ 圧力が加えられることとなった︒ 儀なくされたのである5しかしそれも最初のうちは︑原料については︑当時まだ開かれていたトリエステを通じて

原棉の供給をうけることができ︑市場については︑

.ができたため︑著しくマイナスの影密をうけることがなかった︒

一 五

﹁トリアノン閲税表﹂と﹁フォン フランクフルトおよびライプチヒを通じて北部に進出すること

この﹁大陸制度﹂のもとにおけるスイス綿工業の著しい発展は︑やがてナポレオンの眼のつくところとな

スイスのなかにフランス産業の競争者を認めたのである︒そうしてそれ以後︑

0

九年︑海外市場への通路をなしていたトリエステはフランスに併合され︑

0ー一︱年には︑南ヨーロッ︒ハ市場が完全に閉された︒と同時に同じ頃︑

テンプロー勅令﹂の発令にともなつて︑植民地物産︵原棉︶の流入にたいする圧迫が強まり︑そうしてこれと並行

したフランクフルトおよびライプチヒ大市の衰退は︑北部ヨーロッパヘの販路をスイスから奪うこととなった︒こ

うしてスイスの︑綿工業をはじめとする産業は︑この﹁大陸制度﹂のもとで地辻りに直面しなければならなくなっ

(10) 

ベルク公国もまた︑﹁大陸制度﹂のもとでその命連をスイスとともにした国のひとつであった孟ノイン右岸に位置

したベルク公国は︑繊維工業の中心としてエルバーフェルト︑

ゾーリンゲンなどをもつ︑

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England~

とよばれていたといわれる︒しかしそれだけに︑

もつとも恐れるところとなった︒そうしてその恐れは︑

にたいする政治的支配を強めることによって︑ スイス産業にたいする

バルメン︑ミュールハイムを︑鉱山業および金屈工

大陸でもっとも進んだ工業国のひとつであ

その工業力は︑

ベルクの製品にたいしてフランス市場を閉し︑ フランスの

ベルク公国

それをやわらげることがはかられたのである︒このフランス市場か

いわゆる﹁大陸制度﹂^

C o n t i n e n t a l  

System

の歴史的意義︵吉田︶

(11)

36 

frarn;aisいかなる歴 われる︒これは︑ といわ

﹁大陸制度﹂におけるフランスの その困難は︑とくに﹁トリアノン関税﹂後︑ しかしそれだけではない︒

いわゆる﹁大陸制度﹂^

C o n t

i n e n

t a l  

System

の歴史的意義︵吉田︶

著し このライン右岸地方が革命前からフランスとの通商関係︵金属製品︑織物︑リボンの輸出︑葡萄酒︑

油︑植民地物産の輸入︶を緊密にたもつていただけに︑その影響するところ大きかったといわなければならない︒

0九年︑オランダ封鎖のための関税哨兵線︑ついで翌一九一0年のオランダ併合は︑

北海︑バルチック海を経由する植民地物産の供給を困難にし︑

( 1 1 )  

いものとなった︒こうして︑フランス︑イタリア︑北ドイツ市場から切り離されたベルクは︑ついにフランス帝国へ

( 1 2 )  

の併合をもとめるにいたったが︑しかしそれは︑ライン左岸のルール県の激しい反対をこうむり︑

降︑失業と熟練労働者の逃亡との増大をみることとなった︒ベルク公国もまた︑

エゴイスムによって︑そのもとでは︑みずからの産業の発展をではなく︑

(13) たのである︒そうしてスイスの例とともにここで知られるように︑

おける﹁商業的覇権﹂ばかりでなく︑

﹁大陸制度﹂のもとにおけるョーロッ︒ハ大陸は︑

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として︑イギリスに対抗する諸国家︑

れ︑また﹁イギリス人が﹃大陸﹂について語るさい︑彼らには︑

0年以

その抑止をこうむらなければならなかつ

フランスにたいして︑大陸に

それにともなつて﹁産業的優越﹂をもあたえるものであったのである︒

この時代のイギリス人の目には︑﹁単一の経済単位

un

e

諸民族の緊密な一ブロックとして映じていた﹂

( 1 4 )  

その構成部分を区別せずに語る習慣があった﹂とい

﹁大陸制度﹂の一側面を語るものであろう︒だが︑その﹁大陸制度﹂が︑他面では︑イギリスに

かわってフランスの大陸市場支配と大陸における﹁産業的優越﹂とをめざす︑いわば﹁フランス的視角﹂

A l ̀ a n g l e  

のもとで推進されたことは︑すでにわれわれの知ったところである︒しかし︑それでは︑

フランスをこの大陸市場支配︑あるいは﹁帝国の大陸植民地﹂制におもむかせたのか︒そうしてそれ

一 六

(12)

37 

( 1 )  

植民地﹂制をもとめなければならなかったであろう︒ 外植民地喪失と並行したことに注意しておきたい︒われわれにはすでに知られているように︑業資本にとつて︑植民制度は︑保設制度とともに︑本源的蓄積の主要契機をなすものであった︒

( 1 5 )  

クチャーにたいし植民地は︑販売市場と︑市場独占によって強化された裕積とを保証した﹂のである︒史上しばし

ば︑重商主義の旧植民地体制

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とよばれるものがこれであるが︑

を主体的に推進してみずからの保護育成をはかる国家を実現した初期産業資本は︑しかし︑

拡充をみるどころか︑イギリスの制海権に阻まれて︑植民地貿易の減退と︑のちには植民地の喪失とをこうむらな

ければならなかった︒フランス産業の育成とその覇権の確保とをみずからの使命として自覚していたナポレオン

が︑海外植民地にかわるべきものとしてたえず大陸市場の制握をこころざし︑のちにはその﹁大陸植民地﹂制への編

成をはかったのは︑フランス初期産業資本がその成長にあたつてこうむらなければならなかった︑以上のような事

情にもとづくものといえよう︒しかも︑同じく本源的蓄祓の主要な契機をなす保股制度は︑植民地体制と有機的関

( 1 6 )  

連をもち︑前者は後者の設定によってその目的を完全に達成することができたのであったから︑ナポレオンの﹁大

陸制度﹂が︑さきの歴史的条件のもとで保設制度としての充分の意義をかちとるためには︑ぜひとも﹁帝国の大陸

オンをして大陸市場の制握におもむかせる必然性をふくんでいたのである︒

貿

C o n t

i n e n

t a l  

S y s t

e m ; ;

, ,  

ここでわれわれはふたたび︑﹁大陸制度﹂の進展が︑ は︑いかなる経済史的制約をこうむるものであったか︒

﹁大陸制度﹂は︑その形成の動機そのもののうちに︑ナボレ いまだ未熟な初期産

﹁新興マニュファ

フランスのばあい︑市民革命

この過程で植民制度の

イギリスの海上制圧およびそれにともなうフランスの海

(13)

フランスの対イタリア貿易額

(フラン)

I 入 翰

1802  400,684  697,751  1803  5,644,920  8,971,505  1804  5,325,579  12,894,302  1805  6,381,941  18,032,358  1806  21,029,345  40,059,277  1807  15,537,807  40,607,655  1808  27,096,315  44,310,509  1809  41,731,400  43,840,300  1810  42,807,500  51,646,700  1811  43,625,300  52,563,700  1812  60,191,000  56,906,300  1813  49,377,600  47,944,000 

1814  13,844,200  30,622,900 

1815  9,114,400  20,427,800 

Co nt in ental System

の歴史的意義︵吉田︶

Chabert, op.  cit.,  pp.  3245. 

がつて︑﹁大陸制度﹂のもとで産業家と商人︑そうしてさらには工業国と商業国の利害は対立したが︑この対立は︑

度﹂の自己矛盾を形成するものであった︒

c f . ,

T ar l e ,  o p.   c i t . ,   pp .  24 6

8 .

( 2

)  

c f . ,   H ec ks ch er ,  o p .  c i t . ,   p p 3 .   02

6 .

S ee ,  o p c i .   t . ,   p .8 5 .  

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

(

3 )

Ta rl e, o p.   c i t . ,   p p. 25 1

2

( 4

)  

Co rr es po nd an ce d  e  Napoleon, 

2160•

He ck sc he r,   o p c i t .   . ,   p .   2 97 ,   Kn ow le s,   op .  c i t . ,   p .1 2 3 . 

( 5 )

﹁大陸制度﹂のもとでのイタリアについては︑Tarle,

Le   Bl oc us  c on tinental 

e t  l e   Ro ya um e  d 'I t a li e .  L a  s i tu a t io n   ec on om iq ue   de l '   I t a l i e   so us N  ap ol eo n  r•r

d' ap re s  de s  d oc um en ts  i n e di t s ,  P ar i s ,  19 28

3

He ck sc he r,   op .  c i t . ,   p p.   29 7

8 ,

Kn ow le s,  o p c i t .   . ,   p .2 4 2 ,  Vi en ne t,  o p c i t .   . ,   p .4 1

を今変昭吋

この結果︑フランスの対イタリア貿易額は︑つぎの表にみられるように︑輪出入ともに激増した︒

一 八

﹁大陸制

参照

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