清泉女子大学人文科学研究所紀要 第39号 2018年3月
宦官官職としての宋代御薬院
藤 本 猛
要旨 宋代の宦官官職であった勾当御薬院は︑その名称とは違い︑非常に幅広い職務を持つ官職であった︒その原因はおそらく君主の傍近くで奉仕することから︑次第に様々な職務をこなすようになったためだと考えら れる︒ これまでその職掌拡大の契機については不明とされてきたが︑考察の結果︑仁宗朝初期に行われていた劉太后による垂簾聴政の時期に設けられた上御薬と上御薬供奉という宦官官職が︑太后の傍で多岐にわたる職務を
務めており︑太后が亡くなると官職そのものが消滅するという︑非常に特殊な官職であることが判明した︒こ
のことから二つの官職は︑のちの勾当御薬院の先蹤ともいえるものであり︑御薬院の職務の拡大は︑この時期になされたものだと考えられる︒
つづいてその後の勾当御薬院が宦官の官僚システムの中でどのような立場にあったのかを調べると︑宦官の
中でもベテランで皇帝の信任篤い者が任用された枢要な差遣であった︒そのため権勢を誇る可能性があったことから︑当初は寄禄階が低く抑えられていた︒
しかし君主の意に叶う有能な宦官の場合︑長期間にわたって職務を務めることが多くなり︑そのために寄禄
階は据え置いたまま︑給与のみを優遇する寄資という制度が運用された︒これは武臣の寄禄階を名称として与えて︑その俸給のみを支給するものだった︒しかし勾当御薬院を辞したのちの人事に︑そのとき持っている寄
資が利用されるようになり︑次第に寄資が人事上の指標となり︑それが遙郡にまで至る者も出現した︒これは
暗転と呼ばれ︑多くの士大夫らから批判されたが︑いつしか定着していった︒
以上の考察から︑勾当御薬院という差遣は︑数ある宦官官職の中でも特に枢要なものであり︑特殊な運用方
法をされてまでも︑信任厚い宦官が任用されていたことが分かった︒それは︑内侍省のトップである都知・押
班とも違う︑君主との距離の近さをもった独特な官職であった︒
キーワード御薬院︑宦官︑寄資
はじめに
北宋中期の治平四年︵一〇六七︶八月︑司馬光は即位したばかりの若き皇帝・神宗に次のような上奏を行った︒
臣竊かに祖宗の意を惟うに︑御藥の一職を以て最も親密と爲す︒供奉官以上を過ぐれば︑輒ち罷去せしむる者
は︑迺ち以て微を防ぎ漸を杜ぎ︑謀を萬世に貽し︑憂深思遠︑誠に古よりの帝王の及ばざるところ︑子孫の宜
しく謹守して失墜すべからざるところのものなり︒︵司馬光﹃伝家集﹄巻三九﹁言王中正第二箚子﹂︶
ここでは︑皇帝側近の宦官たちの中で︑﹁御薬﹂の役職が最も皇帝の身近にあり︑その役職には供奉官以上の宦官
には就かせなかった︒それは彼らが権力の中枢にあって権勢を振るうことがないように︑という歴代皇帝の深謀遠
慮によるものなのだ︑と述べられている︒﹁御薬﹂というのは﹁御薬院﹂という官署の略称であり︑ここでは特に
そこを束ねる﹁勾当御薬院﹂という宦官官職のことを指している︒その官名のみを見ると︑一見皇帝の単なる医薬
担当官︑俗に言う侍医のような存在かとも見える︒君主の心身を支える存在であるため︑皇帝に最も近い︑と表現
宦官官職としての宋代御薬院
されることも宜なるものと考えられるが︑実際には彼らの活動は単に医薬関係のみに限定されたものではなく︑ま
さしく皇帝の側近として活動する存在であった︒
この御薬院に関しては︑程民生氏によって詳細な研究がなされているが︵
︑その主眼は主に﹁御薬院﹂という1︶
官署が持つ職掌の分析にあった︵
︒非常に精緻な分類・整理がなされており︑本稿においても大いに参照し︑ま2︶
たそれに値する成果である︒だが基本的には静態的な分析手法によってなされたものであるため︑勾当御薬院とい
う役職が宦官官職全体から見ればどのくらいの地位にあったのか︒どのくらいのキャリアを持つ宦官が就任し︑ど
ういう昇進ルートに位置したのか︑という官僚組織としての実像を把握するにはやや不十分な嫌いがあることは否
めない︒ そこで本稿では︑禁中内部において皇帝の傍近くにいることが許された勾当御薬院が︑いかなる歴史的経緯から
様々な活動に従事するようになったのか︒官僚組織としてみた場合︑それがどういう人事であり︑どういう制度的
変化があったのか︒より具体的な人事関係の史料を踏まえながら︑その実態について考察を行う︒
一︑御薬院の職掌
まず確認しておくことは︑勾当御薬院らは医薬官︑現代でいうところの技官ではないということである︒すなわ
ち医学的知識を持って︑皇帝の健康管理という実務に携わっていた医官は︑﹁翰林医学﹂などの肩書きを持って別
に存在し︵
︑投薬などについては薬童などがいた︒宦官が携わったのは︑その薬童らが所属した御薬院という組3︶
織の統轄業務であり︑責任者だった︒むろん長年医薬関係の職務に近しいところにいれば︑多少の医薬的知識は持っ
ていたと思われるが︑彼ら自身は医者でも薬剤師でもなく︑あくまでも医者らを束ねる行政官︑官僚であった︒英
宗が崩御したとき
︑幹当御薬院の蘇利渉が
︑担当医官らとともに処罰されることを願っているが
︵﹃宋史﹄巻
四六八・蘇利渉伝︶︑それは本来は両者の責任が別のものと見なされていた証拠である︒
御薬院は︑太宗の至道三年︵九九七︶にはじめて設置され︑場所は崇政殿の北側であった︒これは程氏も言うよ
うに︑同年三月︑太宗が崩御していることから︑その最期に際して治療の必要から設けられたものであったろう︒
当然ながら当初は純粋に皇帝の医療のために設けられた機関であった︒なぜことさらこのようなことを言うかとい
えば︑御薬院はその名称からイメージできる薬方関係の当初の職務から︑のち次第にその職掌が広がっていき︑さ
まざまな役割を御薬院が果たすことになるからである︒
その種々雑多な職掌について︑諸史料を博捜してまとめられたのが程氏の研究であり︑いま氏の成果に従うと︑
宋代の御薬院は以下のような多くの職掌を持っていた︒︵数字は引用者が便宜上加えたもの︒︶
①医薬関係の職掌
Ⅰ.製薬に関する知識の収集︑研究︑あるいは保存︒Ⅱ.薬剤の製作︒Ⅲ.薬材の収集︒Ⅳ.医療行為の組織
化︑治療計画の立案︑実施︒Ⅴ.製薬法の公開︑頒布︒
②宮廷での事務
Ⅰ.皇帝および宮廷での服飾の設計︑製作︑保管︒Ⅱ.皇帝への飲食の提供︵進膳︶︒Ⅲ.朝廷の建築物の設計︑
建設︒Ⅳ.重要な儀式の際の皇帝の近侍︒
③皇族の人生儀礼に関する業務
Ⅰ.皇帝の誕生日における賞賜︒Ⅱ.皇帝の婚姻︒Ⅲ.皇室の教育︒Ⅳ.皇帝一家の医療︑祈祷︒Ⅴ.皇帝一
家の葬儀︒Ⅵ.皇帝家の祖先祭祀︒Ⅶ.宮廷の財務管理︒
④朝廷の政務への間接的関与
Ⅰ.奏章の受け取り︑整理︑分析︒Ⅱ.皇帝の旨意の伝達︒Ⅲ.大臣の職務就任への督促︒Ⅳ.臣僚の謁見の
宦官官職としての宋代御薬院
手配︑準備︒Ⅴ.地方に出ての大臣慰問︒
⑤朝廷政務への直接的関与
Ⅰ.重要文書起草の監督︒Ⅱ.科挙の管理監督︒Ⅲ.国史編纂・楽器製造・暦法検詳・仏典翻訳への関与︒
⑥軍事活動への参与
Ⅰ.軍事行動への参与︑監軍︒Ⅱ.軍事官人事の監督︑軍隊・民兵の検閲︒Ⅲ.兵器の検査・修繕︑軍糧の購
入︒Ⅳ.辺境防備兵の慰問・表彰︒Ⅴ.辺境防備の情報収集と報告︒Ⅵ.叛乱軍の鎮圧︒
⑦外交活動への参与
Ⅰ.外交礼品の管理︒Ⅱ.皇帝と外交使節との謁見補助︒Ⅲ.外国人の接待︒Ⅳ.国境の画定︒
⑧司法活動への参与
Ⅰ.裁判の実施︒Ⅱ.裁判の監督︒
⑨防災・救援活動
Ⅰ.治水工事︒Ⅱ.被災救援活動︒
大きく九つの分野︑細かくは三十八に分類され︑それぞれに具体例が挙げられている︒
これらさまざまな職掌を持つにいたった背景には︑御薬院が君主に物理的に近い位置に存在していたことから︑
自ずと様々な﹁お声がけ﹂によって︑いろいろな職務をこなすようになり︑それが慣習化していくことによって︑
種々雑多な職掌を持つようになったことが考えられる︒
いつ頃からこのように多くの職掌を持つようになったのかは︑ほぼ同時代ともいえる南宋の程大昌にも分からな いといい︵
︑もとより禁中にある官署が果たした職掌の拡大は︑当時ですらはっきりしない︑いつの間にかなさ4︶
れたものとされてきた︒このことについては次章において検討を行う︒
程氏の研究は﹁御薬﹂が行った具体的な職務を帰納し︑整理したものだが︑これらの職掌が︑果たして御薬院と
いう官署そのものが担った機能であるのか︑それとも﹁御薬﹂と略称されることの多い﹁勾当御薬院﹂の任にある
宦官が︑あくまでも皇帝の親近として︑ほぼ個人的に果たした職務であったのか︑この区別がやや不分明である︒
上記の御薬院の職掌のうち︑両者を截然と分離することは難しいものもあるが︑大きく分けてみれば︑①〜②と③
の半ば︑⑤︱Ⅱ︑⑥︱Ⅰ・Ⅲは御薬院という官署全体がほぼ恒常的に果たした役割︑その他は勾当御薬院の肩書き
を持つ宦官が個人的に果たした役割︑ということになるだろう︒特に⑤︱Ⅲについては︑皇帝に近い宦官が︑いわ
ゆる﹁承受﹂として果たした役割であり︵
︑勾当御薬院が兼任しておこなった差遣であって︑御薬院という官署5︶
の職掌に数えるには問題があろう︒
そこで次章以下では︑あくまでも宦官官職としての﹁勾当御薬院﹂に焦点を絞って︑その実態をみていきたい︒
二︑勾当御薬院の職制と﹁上御薬﹂
まずは勾当御薬院の職掌が︑どの時点でかほど拡大していったのか︑という点である︵
6︒はじめて御薬院が設︶
置されたとき︑入内内侍省の宦官三人が御薬院を﹁勾当﹂したといい︑のちには宦官以外の士人も登用されたとい
うが︵
︑常設の官ではなかったともいい7︶︵
︑太宗の病が篤いという非常時に︑あくまでも臨時の官としておかれ8︶
た可能性が高い︒それが次代に必要性が認識されて︑常設の官となっていったことが推測される︒
真宗朝の大中祥符八年︵一〇一五︶には崇政殿門外の東華門南に移された御薬院が︑再び崇政殿の後殿東廡に戻っ たのは仁宗朝の宝元二年︵一〇三九︶だった︵
︒その間︑仁宗朝︵劉太后の垂簾聴政期9︶︵
10︶の天聖四年︵一〇二六︶︶
には︑﹁別に﹂上御薬供奉という官職が置かれ︑やはり製薬・調剤のことをつかさどり︑もっぱら宦官が任用され
たという︵
11︒程氏の研究では上御薬供奉の設置に軽く触れる程度で重視されておらず︑至道年間からこの天聖年︶
宦官官職としての宋代御薬院
間まで︑御薬院は一貫して医薬関係の職務のみを果たしており︑いまだ様々な職務を務めてはいないように認識さ
れている︒しかし本当にそうであろうか︒以下︑上御薬供奉という新官職について詳しく見てみよう︒
﹃長編﹄では天聖四年に﹁別に置く﹂という微妙な表現しかされていない上御薬供奉の官職には︑当時誰が任命
されたかなどは明記されていないが︑その人員が分かるのは︑二年後の天聖六年︵一〇二八︶︑上御薬供奉のうち
藍元用・張懐徳・羅崇勲の三名が上御薬という新官職に昇進した︵﹃長編﹄巻一〇六・天聖六年二月丁丑条︶とい
う史料によってである︒この上御薬に昇った三人のうち羅崇勲は︑乾興元年︵一〇二二︶と天聖二年︵一〇二四︶
の史料では︑入内内侍省における寄禄階は﹁入内供奉官﹂であった︵﹃長編﹄巻九八・乾興元年六月庚申条︑﹃宋会
要﹄礼二九︱三五・天聖二年二月十一日条︶︒のちに見るように勾当御薬院に就く宦官も︑その寄禄階は同じ入内
供奉官である︒また少しあとの明道元年︵一〇三二︶には︑上御薬は武階である大使臣の内殿承制に︑上御薬供奉
は内殿崇班に準えられることになっている︵﹃長編﹄巻一一一・明道元年十一月癸巳条︶︒うち上御薬が準えられた
内殿承制は︑諸司使副のすぐ下に位置する武階だが︑のちに見るように勾当御薬院を勤め上げた宦官も︑その職を
辞した後︑大使臣・諸司使副に昇るのが通例であったから︑この時点で上御薬と勾当御薬院はほぼ同格の官職︵差
遣︶だといえる︒
それどころか︑羅崇勲と同時に上御薬に昇進した張懐徳は︑天聖三年︵一〇二五︶に﹁入内供奉官︑勾當御藥院﹂
であった︵﹃長編﹄巻一〇三・天聖三年十月庚戌条︶︒つまり勾当御薬院だった者が︑翌年には上御薬供奉に︑次い
で上御薬になっている︑ということである︒同様の例は任守忠もそうで︑時期は明確ではないが︑かつて﹁御藥院
を領﹂していたが︑何かの失敗で免職となったのち︑﹁もとの官﹂に復帰し︑次いで上御薬供奉に遷ったという︵﹃宋
史﹄巻二二七・任守忠伝︶︒ここでいう﹁もとの官﹂は︑﹁御藥院を領﹂する官であり︑勾当御薬院だった可能性が
高い︒つまり彼も勾当御薬院から上御薬供奉に遷っているのである︒
そして管見の限り︑天聖年間において﹁勾当御薬院﹂と明記される就任者は︑先述した同三年の張懐徳一人しか
確認できない︒このことから考えられることは︑勾当御薬院が天聖四年に上御薬供奉と姿を変え︑同六年には上御
薬がその上に新設された︑という可能性である︒
そしてそれは単なる名称変更ではなかった︒
詔すらく﹁上御藥供奉藍元用等並びに特に敘赦封蔭を許す﹂と︒上御藥供奉は近くこの名を内出し︑其の資序
は内殿崇班に比う︑故に元用等その恩例を換えたり︒︵﹃宋会要﹄職官一九︱一三・天聖四年条︶︵
12︶
とあれば︑上御薬供奉は︑禁中より特別にその名称が出されてきたもので︑武階に準えることで︑従来宦官には許
されなかった恩典が与えられたのである︒
以上のことから考えれば︑上御薬供奉は従来の勾当御薬院の地位を引き上げて設置されたものであり︑それを内
外に示すための名称変更だった︒残存する史料に﹁別に置く﹂と単純に記されている以上に︑上御薬供奉の設置は︑
実は重要な出来事だったということになる︒
事実この時期︑上御薬供奉ないし上御薬は︑その肩書きをもって政治的な活動に従事していたことが︑それを非
難する史料によって判明する︒
︵孔︶道輔嘗て言えらく﹁︵曹︶利用及び上御藥の羅崇勳は威權を竊弄せば︑宜しく早に斥去し︑以て朝廷を清
うせられんことを﹂と︒︵﹃長編﹄巻一〇八・天聖七年十二月辛亥条︒︶︵
13︶
宦官官職としての宋代御薬院
劉太后の垂簾聴政期後半においては︑先帝真宗朝からの功臣である曹利用と︑上御薬の羅崇勲が政務に大きく関与
していたことが非難されているのである︵
14︒もともと劉太后の垂簾聴政は︑政事の大事は太后と仁宗が宰執を召︶
対して決裁し︑それ以外のことは宦官雷允恭を伝達役として文書で決裁することになっていた︵﹃長編﹄巻九八・
乾興元年二月庚申条︶︒この取り決めからわずか四ヶ月後に雷允恭は失脚するが︑意思決定方法自体は維持された
と考えられるから︑少なくとも宦官は文書伝達というかたちで︑通常の政務決定過程に関与していたのであろう︒
天聖年間の垂簾聴政期︑﹁初め太后の朝に臨むや︑威は天下を震わす︒中人と貴戚と稍や能く軒輊し禍福を爲す﹂
というように︵﹃長編﹄巻一〇七・天聖七年正月癸卯条︶︑宦官の活動を特に批判する言説は多く見られる︵
15︒具︶
体的な名前が挙がっているものとしては︑
︵太后︶晩く稍や外家に進み︑内官の羅崇勳︑江德明等に任せて外事を訪わしめ︑崇勳ら此れを以て勢い中外
を傾ける︒︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年五月癸酉条︶
とあり
︵
16︑羅崇勲とともに名指しされた江徳明は︶
︑当時入内内侍省の押班や副都知を務めていた
︵﹃長編﹄巻
一一一・明道元年九月庚午条︶︒上御薬の羅崇勲はそれと並称され︑かつ先に名が挙げられているのである︒
たしかに羅崇勲は太后の信頼篤い宦官であった︒それが特に表れていると思われるのは︑明道元年︵一〇三二︶
仁宗の実母李氏︵章懿皇后︶が亡くなった際︑宰相の呂夷簡がその葬送に際して︑皇帝実母に相応しい儀礼をすべ
きだとする意見を奉った︵
17︒これに対し︑仁宗に出生の真相を悟られまいとする太后が︑慌てて呂夷簡の真意を︶
確かめ︑方針を調整するために派遣したのが羅崇勲だった︵
18︒この問題は当時太后にとってかなりデリケートで︶
重要な問題であり︑そのとき派遣された羅崇勲は︑彼女に最も信頼されていた宦官だと思ってよいだろう︒
他にも羅崇勲は︑太后が資金を出した景徳寺の修復事業を取り仕切ったり︵
19︑逆に土地の奪取に失敗した報復︶
を果たすため︑陰謀によって太后の力を利用したり︵﹃長編﹄巻一一〇・天聖九年五月己巳条︶︑かなり太后と近い
距離にいたことが窺える︒いずれも天聖から明道初年の間の出来事で︑この間羅崇勲は上御薬であった︒
羅崇勲以外の上御薬・上御薬供奉らも︑様々な活動に従事している︒上御薬の張懐徳は︑中書門下に劉太后の恩
典関係の宣を伝える役割を果たすほか︵﹃長編﹄巻一一一・明道元年七月乙酉条︶︑太后の命を受けて地方の寺の修
復に従事し︑﹁詔命を挾んで﹂工事を督促している︵﹃長編﹄巻一一三・明道二年八月丙申条︶︒また地方の道観に
出かけた際に知り合った地方官を太后に推薦したりして
︑やはり太后との距離の近さが窺える
︵﹃
長編﹄巻
一〇八・天聖七年五月甲戌条︶︒明道二年︵一〇三三︶四川の飢饉に派遣された特使の中には上御薬の楊承徳がお
り︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年二月壬子条︶︑名前が似ていて兄弟の可能性もある楊懐徳も︑やはり上御薬として
地方に出て
﹁ 詔と称して﹂民間の田地を買い上げ
︑寺田にしていたことを後に追及されている
︵﹃長編﹄巻
一一三・明道二年八月庚子条︶︒いずれもこの時期︑多くの宦官が上御薬・上御薬供奉として様々な職務を果たし
ていた︒その何人かが﹁詔﹂を持ち出しているように︑彼らの活動の背後には︑劉太后の影がちらついている︒
のちに入内都知にまで昇る宦官任守忠は︑
稍して上御藥供奉に遷る︒初め︑章獻后聽政し︑守忠と都知江德明ら交通請謁し︑權寵過盛たり︒︵﹃宋史﹄巻
二二七・任守忠伝︶
と表現され︑上御薬供奉として劉太后の寵愛を受け︑その権勢はすさまじかったという︒
だがそんな彼らの権勢は︑明道二年三月に失われる︒劉太后が崩御したのである︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年
宦官官職としての宋代御薬院
三月甲午条︶︒そして翌月に仁宗の親政が始まると︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年四月丁酉条︶︑さらに翌月には上
御薬と上御薬供奉そのものが廃され︑その就任者らは諸司副使が与えられて︑御薬院には﹁故事の如く﹂勾当御薬
院がおかれて︑入内内侍省の供奉官四人が勤めることとなった︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年四月癸丑条︶︒
つづけてもと上御薬の羅崇勲・楊余懿・楊承徳・張懐信︑もと上御薬供奉の楊安節・武継隆・任守忠・蔡舜卿ら
は地方の都監に左遷され︑都・開封から出されることになった︵﹃長編﹄巻一一二・明道二年四月丙辰条︶︒言うま
でもなく太后の垂簾聴政体制に対する粛正である︒ただこの処分も︑あまりにその罪状を暴き立てれば︑反乱を起
こしかねないことを懸念したため︑穏便になされたものであるという︒
このように︑かつて御薬院に置かれた上御薬と上御薬供奉は︑その存在した期間が劉太后の垂簾聴政期間に完全
に含まれていた︒そして勾当御薬院と﹁別に﹂置かれたものではなく︑勾当御薬院そのものが姿を変えたもので︑
その地位が引き上げられたものであることが推測される︒なぜそんな制度改変が必要だったかといえば︑皇太后に
よる垂簾聴政体制に必要だったからとしか考えられず︑実際この時期の史料には︑さまざまな形で劉太后と結びつ
いた上御薬・上御薬供奉の活動が見え隠れしていた︒
ひるがえって御薬院という制度の問題に戻ると︑この劉太后の垂簾聴政期こそ︑御薬院が医薬以外の様々な役割
を果たすようになった時期ではないかと思われる︒ただそのことを御薬院という官署そのものの制度として捉えて
しまってよいだろうか︒むしろこれは︑一般の皇帝よりも活動が制限される皇太后が︑自らの手足として使役すべ
き宦官が必要になったとき︑身近な御薬院担当の宦官官職を利用したもの︑と考えることができ︑御薬院という官
署そのものを重要視した結果であるとは思えない︒しかしそのような宦官の姿は︑まさにのちの勾当御薬院が果た
す姿の先蹤ともいえる︒これまであまり注意が払われていなかったが︑御薬院ないしはそこに結びつけられた宦官
官職の活動について考えるとき︑おそらくはこの劉太后の垂簾聴政期が大きな画期であった︒
三︑宦官官職としての御薬院 それでは引き続いて︑仁宗親政以降の勾当御薬院について見てみよう︒すでに程氏の研究があるため︑全般的な
ことはそちらに委ね︑主に禁中における皇帝側近官としての勾当御薬院に注目する︒
その役割の中で最も重要な職務としては︑官僚たちに皇帝の御意を伝えるメッセンジャーとしての働きであった︒
仁宗・英宗朝の宰相韓琦の文集﹃安陽集﹄の巻三二〜三六に載る上表文には︑詔書などが多くの宦官によってもた
らされていることが分かるが︑その中で官職が判明する延べ十二名のうち︑勾当御薬院が六名︑勾当内東門司が五
名となっている︵
20︒司馬光の﹃伝家集﹄巻四三には︑熙寧三年︵一〇七〇︶枢密副使への就任を司馬光がひたす︶
ら辞退した際︑四人の勾当御薬院が全員彼のもとを訪れて︑就任を説得する聖旨を伝えている︵
21︒︶
だがもちろん︑このように御薬院の宦官によって皇帝の聖旨が伝達されることは特別なことであった︒
國朝の故事︑惟だ宰相にのみ︑或いはまま御藥院の近臣を遣わして旨を傳え︑都知は累朝未だ嘗て遣わさざる
なり︒︵龐元英﹃文昌雑録﹄巻六︶
と︑宰相に対して皇帝の聖旨を伝達するときに︑時おり勾当御薬院が派遣されるだけであったと述べる︵
22︒一方︑︶
宰相就任の際には勾当御薬院が派遣され︑詔を伝えて参内させるのが通例だったという︵蔡絛﹃鐵圍山叢談﹄巻二︶
まさに皇帝側近として︑﹁御言葉﹂を伝える役割であろう︒
では御薬院の宦官は︑宦官の昇進ルートとしてはどのくらいの地位にあるだろうか︒﹃神宗正史﹄職官志には
主要な宦官職任︵差遣︶の序列が記されており︑﹁彰善閣・延福宮↓後苑↓龍図・天章・宝文閣↓︵内︶東門司↓
宦官官職としての宋代御薬院
御薬院↓帯御器械あるいは押班﹂という︵
23︒これで見れば︑御薬院は入内内侍省に付属する機関としては最高位︶
にあり︑内東門司の次に昇るポストだということになる︒﹃宋史﹄にも﹁凡そ内侍︑内東門を領せば︑次いで勾當
御藥院に遷る﹂との記述があり︵巻四六七・張惟吉伝︶︑実例としては︑宋用臣が勾当内東門司から勾当御薬院に遷っ
たり︵﹃長編﹄巻三四一・元豊六年十一月乙卯条︶︑勾当御薬院の劉惟簡が一般武階に転出するのにともない︑勾当
内東門司の閻安がこれに代わったり︵﹃長編﹄巻三五四・元豊八年四月辛未︶︑数多くの実例が確認できる︵
24︒︶
そのように高位にある御薬院の差遣を勤めることのできる宦官は︑寄禄階もそれなりの者でなければならない︒
それが入内供奉官であった︒宦官が任ぜられる内侍省・入内内侍省の両省には︑都知・副都知・押班の順で両内侍
省の統括官が設けられ︑その下に内東頭供奉官・内西頭供奉官・内侍殿頭・内侍高品・内侍高班・内侍黄門などが
並び︑宦官の寄禄階を兼ねていた︵
25︒これまで出てきた﹁入内供奉官﹂とは︑このうち入内内侍省の内東西頭供︶
奉官を指している︒つまり宦官独自の寄禄階としては最上位ということになる︵都知らは実職をともなう差遣︶︒
﹃長編﹄には景祐二年︵一〇三五︶の規定として︑
詔すらく勾當御藥院は︑自今内臣の入仕三十年以上︑十年を經て遷らず而して累ねて勞有る者より選びて之と
爲し︑五年を候 まち一資を遷るを與 ゆるし︑仍お留めて院に在らしむ︒︵﹃長編﹄巻一一七・景祐二年九月壬寅条︶
とされ︑出仕してから三〇年以上の宦官が任ぜられた︒自然と寄禄階としては供奉官に至っている者が多かった︒
具体例を見てみよう︒比較的履歴が判明する宦官のそれを見てみると︑梁従政は嘉祐八年︵一〇六三︶三月には
すでに入内供奉官に昇っているが︵王珪﹃華陽集﹄巻五四﹁皇從兄宗望墓誌銘﹂︶︑熙寧八年︵一〇七五︶に勾当内
東門司︑ようやく元豊三年︵一〇八〇︶に勾当御薬院であることが確認できる︵﹃長編﹄巻三〇六・元豊三年七月
丙寅条︶︒ここから就任時期は不明だが︑寄禄階が入内供奉官のランクとなってから︑十五年ほどでようやく勾当
御薬院という差遣に就いているということがわかる︒しかも彼は﹁隨龍﹂すなわち皇帝の即位前から仕えた藩邸の
旧僚であって︑昇進には何かと有利な立場にあった宦官であってそうである︒
そして勾当御薬院に就任している間は︑基本的に寄禄階は供奉官のまま留め置かれたという︒﹃伝家集﹄に言う︒
臣伏して見るに祖宗以來︑内臣の謹信なる者を擇びて勾當御藥院とす︒其の職任最も親近と為せば︑恐るらく
は名位䑻 ようやく崇く︑歳月稍久しうせば︑則ち權勢太だ重く︑制御すべからざるを以て︑故に常に供奉官以下を
用いて之と為し︑轉じて内殿崇班に至れば︑則ち出して外官と為す︒此れ乃ち祖宗の深思遠慮︑微を防ぎ漸を
杜ぐこと︑高く前古より出で︑謀を萬世に詒す者なり︒︵﹃伝家集﹄巻二八﹁論御藥寄資劄子︵嘉祐八年五月
二十一日上︶﹂︶
御薬院の職務が君主に近く枢要なため︑権勢を握るようにならないよう︑あえて低い寄禄階のままにしておき︑寄
禄階が武階の内殿崇班以上になれば︑勾当御薬院を辞めさせることになっていた︒これは祖宗の深意であるという︒
具体的には︑閻士良が御薬院を罷免されたのちに内殿崇班となっており︵
26︑また現存する史料で寄禄階まで確︶
認できる勾当御薬院は︑いずれも入内供奉官であるため︑この決まりは長く遵守されていたと思われる︒
四︑勾当御薬院と寄資
勾当御薬院の任期はどのくらいであったかというと︑少なくとも五年であった︵﹃宋会要﹄職官一九︱一四
宗正史﹄職官志︶︒だが実際には先の史料にもあったように︑五年を超えて任用され︑十年ほどの長期間勾当御薬
宦官官職としての宋代御薬院
院を務める者が出てきた︒神宗朝でいえば劉有方・李舜挙・高居簡・梁従政・呉靖方らである︒
なぜこのように勾当御薬院を長期間務める事態が発生するかといえば︑これは君主側の事情もある︒李舜挙は勾 当御薬院からの辞任を願ったが︑神宗は﹁左右に服勤すること︑多く年所を歴 へ︑身を檢して奉上すること︑最も慤
謹たり︒﹂という理由で慰留している︵﹃宋会要﹄職官一九︱一四・熙寧八年八月三日条︶︒
そうして十年以上も勾当御薬院を務めるものが出てくると︑その間ずっと供奉官の寄禄階のままというであれば︵
27︑︶
彼らの働きに報いる手段を別に講じねばならなくなる︒そこで利用されたのが﹁寄資﹂である︒
近歳以來︑左右の臣既に權勢を戀い︑又た祿位を貪り︑遂に暗に資序を理 かぞえんことを求め︑豫じめ俸給を支す︑
名づけて﹁寄資﹂と曰う︒︵﹃伝家集﹄巻三九﹁言王中正箚子︵治平四年七月二十七日上︶﹂︶
正式な任命ではなく︑仮に諸司使副の武階を授ける処置がとられた︒この場合︑朝廷の儀式その他の待遇は供奉官
のままで︑ただ寄資した諸司使副の俸給が支払われる︑ということであろう︒いわば給与体系のみが諸司使副並み︑
というところであろうか︒
この寄資の実例としては早く至和元年︵一〇五四︶の劉保信に見えているが︵﹃長編﹄巻一七七・至和元年十一
月戊寅条︶︑その後数多く見られ︑かなり広範に行われた制度であった︒わかりやすい表記としては﹁入内東頭供
奉官︑勾當御藥院馮宗道見寄右騏驥使﹂︵﹃長編﹄巻三八五・元祐元年八月癸卯条︶や﹁入内内侍省内東頭供奉官︑
管當御藥院︑寄供備庫使陳衍﹂︵﹃長編﹄巻四五六・元祐六年三月癸酉条︶というもので︑前者の馮宗道でいえば︑
寄禄階は入内東頭供奉官で差遣は勾当御薬院︑そして現在は武階の右騏驥使に寄資している︑という意味︑後者の
陳衍は︑寄禄階は入内内侍省の内東頭供奉官︑差遣は管当御薬院︑寄資は武階の供備庫使︑ということになる︒こ
こまで正式に書いてあるものは少なく︑多くは﹁寄左藏庫副使︑勾當御藥院梁從政﹂︵﹃長編﹄巻三〇六・元豊三年
七月丙寅条︶や︑あるいは寄資であることを示す﹁寄﹂すら省いて書くことの方が多い︒勾当御薬院である以上︑
本来の宦官寄禄階が入内供奉官で︑諸司使副を帯びている場合︑それは寄資であることは言わずもがなだったので
省略されたのだろう︒
そして勾当御薬院の磨勘は︑主にその寄資武階の高下によってなされることとなった︒元豊年間に梁従政は磨勘
を受け︑隨龍ということもあって︑特別に左蔵庫副使から西京左蔵庫使に遷っている︵﹃長編﹄巻三〇六・元豊三
年七月丙寅条︶︒これは寄資が左蔵庫副使から西京左蔵庫使に上がり︑諸司副使︵俸銭二〇貫︶から諸司使︵俸銭
二五貫︶に昇ったことを示す︒
当初この制度は︑寄禄階が動かせない勾当御薬院に対して︑その評価手段として運用されたのだから︑就任期間
に特別給与を支給するのみで︑その後の人事評定には影響しないものとして存在したはずである︒しかし一度この
制度が運用され始めると︑人事評定の中で序列のように捉えられるようになるのは自然な流れであろう︒つまり先
に挙げた梁従政の場合︑あくまでも俸銭の増給のみの指標であったはずが︑従七品の諸司副使並みから正七品の諸
司使並みへの昇進であるかのように捉えられるようになった︑ということである︒
その結果寄資は︑勾当御薬院を辞したあとの任官にも影響を持つようになる︒本来であれば勾当御薬院の寄禄階
は供奉官なのだから︑勾当御薬院を辞した宦官は供奉官のすぐ上の武臣寄禄階である内殿崇班に遷るものが多いは
ずだが︑実際には諸司使副に昇るものが広範に登場するようになる︒寄資を基準に次への遷転がなされるようになっ
たのだ︒例えば︑熙寧十年︵一〇七七︶に勾当御薬院を辞した劉有方は︑帯御器械の差遣に遷ったのだが︑寄禄階
は入内東頭供奉官から東作坊使になっている︵﹃長編﹄巻二八六・熙寧十年十二月丁亥条︶︒これはカテゴリーとし
ては︑小使臣から大使臣・諸司副使を飛び越えて一気に諸司使に︑ランクとしては都合一六もの上昇である︵
宦官官職としての宋代御薬院 この寄資の遷転が重なりすぎると︑諸司使副のカテゴリーを越えてさらに遙郡にまで至ってしまう事態が生じ た︵ 29︒そしてその寄資がやがて宦官の正式な人事に影響を及ぼすというのであれば︑宦官の官位があまりにも高︶
くなりすぎかねない︒すでに仁宗朝においてその可能性をおそれたのが趙槩であり︑呂誨であった︵
30︒このとき︶
主に前者の提言を受けるかたちで詔が出され︑
詔すらく﹁勾當御藥院の内臣︑如し當に外に轉出すべくして而して特に留まる者は︑其の出ずるを俟ち︑留ま
る所の歳月を計えて之を優遷し︑更に寄せて遷す所の資序を累ぬるは許さず︒勾當御藥院に非ずして而して留
まる者は︑其の出ずるも更に推恩せず﹂と︒︵﹃長編﹄巻一九二・仁宗嘉祐五年十一月辛卯条︶
として︑あくまでも優遇するのは勤続年数に基づいたものであり︑寄資の武階ではないことが明言された︵
31︒治︶
平二年︵一〇六五︶にもこの詔を再確認した上で︑
自餘合に内殿崇班に轉ずべくして特旨もて留住せしむる者は︑如し年月理えて供備庫副使に至れば︑便ち轉出
せしむ︒︵﹃宋会要﹄職官三六︱一三・治平二年六月十五日条︶
とされ︑勤務日数が供備庫副使になるまでに達した者は︑御薬院を辞めなければならないとした︒さらに二年後に
神宗が即位すると︑同じ規定が再確認されている︵
32︒︶
しかし実際にはその後も寄資に基づいた人事が行われている︒特例だといいつつ︑勾当御薬院だった寄右騏驥使
の馮宗道と見寄文思副使の梁惟簡が﹁寄せたる正官﹂に改められ︵﹃宋会要﹄職官三六︱一八・元祐元年八月十八
日条︶︑さらには梁従政・呉靖方は﹁見 げんに寄せたる官の上︑一官を遷して轉出﹂することが認められている︵﹃長編﹄
巻三七一・元祐元年三月辛未条︶︒ほぼ寄資が宦官人事の基準の一つになっていることがわかる︒
なぜこのような非常な優遇がなされているのであろうか︒もちろん宦官の側から優遇を求めることもあったであ
ろうが︑先に見たように親信として活躍している宦官に対する君主側の意向も大きかったと思われる︒そういう意
味では勾当御薬院という差遣が持つ側近性が︑一般の宦官よりも大きく関係していた︒特にそれが顕著に見られる
のが︑新君主の即位時である︒例えば治平四年︵一〇六七︶神宗が即位した際︑寄資を持つ多くの宦官を辞めさせ
たことがあったが︑勾当御薬院の高居簡らは留め置かれた︒その理由は︑不安定だった神宗の即位に︑勾当御薬院
として英宗の傍にいた高居簡らが貢献した︑いわば定策の功があると神宗自身が感じていたからであった︵
33︒︶
このような枢要な立場にあることから︑勾当御薬院は士大夫らにとって警戒すべき宦官官職であり︑呂誨や司馬
光らは高居簡と寄資について執拗に諫言を繰り返したのであった︒彼らは寄資=闇転という制度自体が︑ただでさ
え枢要な職務を担う勾当御薬院について︑寄禄階を低く抑えることで︑その権勢を抑制しようとした祖宗の深謀遠
慮を無視したものだとして批判したのである︒しかしその効なく︑実態としては寄資制度が定着してしまっていた︒
おわりに
以上︑官署として御薬院を全般的に論じた程氏とは別の角度から︑宦官官職としての御薬院官職である勾当御薬
院について考察してきた︒皇帝の傍近くにいる宦官の官職として漠然と捉えられてきた勾当御薬院を︑宦官の官僚
体系の中に具体的な姿で捉えようとし︑出来るだけ具体的な人事関係の史料を挙げてきた︒
その結果︑もともと製薬などに限定されていた御薬院の職掌が拡大したのは︑真宗崩御後に行われた垂簾聴政に
おける政策決定が大きく関わっているのではないかということが分かり︑その期間のみに置かれていた上御薬・上
宦官官職としての宋代御薬院
御薬供奉が担っていた役割が︑その後の勾当御薬院の姿に大きな影響を与えている可能性を指摘した︒そしてその
後の勾当御薬院は宦官の中でもベテランで皇帝の信任篤い者が任用され︑皇帝の傍近くにいることからその職務は
多岐に渡り︑権勢を誇る可能性があったことから︑当初寄禄階では低く抑えられていた︒しかし寄資という特殊な
制度が運用されるようになり︑実質的には寄禄階の上でも地位が向上していたと考えられる︒こうして見てみれば︑
勾当御薬院というのが︑様々ある宦官官職の中でも一種独特なものであり︑内侍省のトップである都知・押班とも
違う︑君主との距離の近さをもった官職であったことがわかる︵
34︒︶
北宋後半になって再び垂簾聴政が実施される︒元祐時代︑宣仁高太后による垂簾聴政期である︒この時期︑やは りその手足となって活躍し︑禁中で権勢を握ったとされる陳衍・張士良は勾当御薬院の差遣を持っていた︵
35︒さ︶
らに本論でも述べたが︑呂誨が勾当御薬院の寄資・闇転などの制について批判をしたとき︑これらの制度の淵源は︑
劉太后の垂簾聴政時代にある可能性を指摘している︵
36︒ここからしても︑身近にいる宦官を政治的に利用しよう︶
とする君主の姿は︑母后による垂簾聴政の時期に︑よりはっきりと浮き彫りになるように感じられる︒勾当御薬院
という宦官官職は︑その徴表の一つであるといえよう︒
註︵
︵ 1︶程民生﹁宋代御薬院探秘﹂﹃文史哲﹄二〇一四年六期︒
2︶その他︑御薬院という官署のもつ職掌について研究したものに︑曹家斉﹁宋朝対外国使客的接待制度︱以﹃参天台五台山記﹄
為中心之考察﹂︵﹃中国史研究﹄二〇一一︱三︶︑﹁北宋熙寧内諸司及其行政秩序︱以参与接待成尋的御薬院和客省為中心之考察﹂︵﹃北京大学学報哲学社会科学版﹄二〇一一︱二︶がある︒︵
3︶翰林医学をはじめ︑宋代の伎術官については嶋田英誠﹁徽宗朝の画学について﹂︵﹃鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集﹄
吉川弘文館︑一九八一年︶参照︒
︵ 4︶程大昌﹃考古編﹄巻七﹁御藥院掌禮文﹂﹁御藥院︑本以按驗秘方︑合和御藥為職︒今兼受行典禮及貢舉事︑雖會要亦不言所自︒
︵
︵ 5︶藤本猛﹁直睿思殿と承受官︱北宋末の宦官官職﹂︵﹃東洋史研究﹄七四︱二︑二〇一五年︶参照︒
6︶勾当御薬院は史料により﹁幹當御藥院﹂や﹁管勾﹂﹁管當﹂﹁幹辦﹂と様々な表記で登場する︒うち﹁幹當﹂﹁幹辦﹂は
宋の高宗の避諱のための書き換えであろうが︑いずれも実態としては御薬院のトップを指していると考えられる︒本稿では
最も一般的だと考えられる﹁勾当御薬院﹂の表記を使用する︒︵
7︶徐松﹃宋会要輯稿﹄︵以下﹃宋会要﹄と略称︶職官一九︱一三︒
︵
8︶﹃宋会要﹄職官一九︱一三・﹃両朝国史﹄志︒
︵
︵ 9︶﹃宋会要﹄職官一九︱一三﹁御藥院﹂︒ 10︶北宋第四代の皇帝仁宗は一三歳で即位したため︑当初は三代目真宗の皇后劉氏が皇太后︵章献太后︶として垂簾聴政を行っ
た︒劉静貞﹁従皇后干政倒太后摂政︱北宋真仁之際女主権力試探﹂︵﹃国際宋史研討会論文集﹄︑一九八八年︶︑熊本崇﹁宋仁
宗立太子前後﹂︵﹃集刊東洋学﹄七九︑一九九八年︶参照︒︵
11︶李燾﹃続資治通鑑長編﹄︵以下﹃長編﹄と略称︶巻一〇四・天聖四年二月戊申条︑﹃宋会要﹄職官一九︱一三︒
︵
12︶同内容を示すのは﹃長編﹄巻一〇四・天聖四年三月辛巳条︒
︵
も曹利用と羅崇勲の二人を同時に非難した上奏ではなかったかもしれない︑と慎重な態度を示している︒ 13︶李燾はこの発言の時期について︑天聖元年ではなく同五年十二月の可能性が高いが︑それでも不自然な点があり︑そもそ
︵
14︶ ただしこの両者が
︑運命共同体として手を組んでいたわけではなく
︑むしろその仲は良くなかったらしい
︒﹃
長編﹄巻
一〇七・天聖七年正月癸卯条︑欧陽脩﹃歸田録﹄巻一︒︵
15︶趙汝愚﹃国朝名臣奏議﹄巻六一・呂誨﹁上仁宗乞罷内臣暗轉官例﹂︵嘉祐五年十一月上︶︒
︵
16︶ほかにもおよそ六〇年後の後世の言説として︑以下のものがある︒﹃宋史﹄巻三二一・豊稷伝﹁宮掖之臣︑有關預政事
天聖之羅崇勛︑江德明︑治平之任守忠者歟︒﹂︵
17︶劉太后は真宗との間に子がなく︑李宸妃が生んだ仁宗を早くから引き取って︑実子として育てた︒亡くなるまでこのこと
を仁宗には伝えず︑仁宗は劉太后が亡くなってから︑初めて自分がその実子ではないことを知ったという︒
︵
ある︒しかしこのとき羅崇勲はまだ入内内侍省都知になっていないため︑魏泰の記憶違いだと思われ︑李燾は﹃長編﹄では 18︶﹃長編﹄巻一一一・明道元年二月丁卯条︒同内容は魏泰﹃東軒筆録﹄巻四に基づくとが︑そちらでは﹁入内都知羅崇勳﹂と
宦官官職としての宋代御薬院
慎重に﹁内侍﹂と書き換えている︒
︵
崇勲が太后に讒言したことによって︑蔡斉は地方官に左遷されたという︵﹃長編﹄巻一〇六・天聖六年七月丙辰条︶︒ 19︶﹃長編﹄巻一〇五・天聖五年六月条︒この羅崇勲をよく思っていなかった蔡斉は︑なかなか寺記を書こうとせず︑怒った羅
︵
20︶例えば﹃安陽集﹄巻三六﹁北京辭免加節再任﹂には﹁入内内侍省内東頭供奉官︑勾當御藥院劉有方齎到告各一道﹂︑同巻﹁甲
寅秋乞致仕﹂第二﹁特差入内内侍省内東頭供奉官︑勾當内東門司劉惟簡齎賜詔書﹂などとある︒︵
21︶﹃伝家集﹄巻四三﹁辭樞密副使箚子﹂一〜六︵熙寧三年二月一二日〜二七日︶﹂には勾当御藥院の陳承礼・黎永徳・李舜挙・
劉有方が登場する︒
︵
︵ 22︶このときは入内都知が派遣されて︑前代未聞であるという︒
23︶﹃宋会要﹄職官三六︱一三・﹃神宗正史﹄職官志︒﹃伝家集﹄巻三二﹁言内侍差遣上殿箚子︵治平元年上︶﹂にも︑皇帝が自
ら任命すべき重要な宦官差遣として︑﹁勾當御藥院︑内東門︑龍圖・天章閣︑後苑︑化成殿︑延福宮等處﹂を挙げている︒
︵
︵ 24︶その他例えば﹃宋史﹄の宦者伝で確認できるものでも︑張茂則・李舜挙・高居簡などが該当する︒
25︶梅原郁﹃宋代官僚制度史研究﹄︵同朋舎︑一九八五年︶一六三〜一六四頁︑龔延明﹃宋代官制辞典﹄︵中華書局︑一九九七年︶
四六〜六四頁︒
︵
︵ 26︶﹃宋史﹄巻四六八・閻文応伝︒内殿崇班は︑かつて劉太后の垂簾聴政期に上御薬供奉が準えられた武階︒
27︶通常は供奉官は十年ごとに磨勘されたという︒﹃国朝名臣奏議﹄巻六一・呂誨﹁上仁宗乞罷内臣暗轉官例﹂︒
︵
28︶ちなみにこの劉有方は神宗朝で長年勾当御薬院を勤めた人物だが︑顧愷之﹁女史箴図﹂や張萱﹁虢國夫人遊春圖﹂など名
画を所有する文化人であった︒米芾﹃畫史﹄︑夢得﹃避暑録話﹄卷上︑李之儀﹃姑溪居士後集﹄巻三︑強至﹃祠部集﹄巻四﹁題劉有方御藥翠巖亭﹂など参照︒
︵
29︶例えば﹃宋会要﹄職官五七︱四一・熙寧六年十二月十二日条︒
︵
︵ 30︶﹃国朝名臣奏議﹄巻六一・呂誨﹁上仁宗乞罷内臣暗轉官例﹂︵嘉祐︵三︶五年十一月上︶︒ 31︶このとき﹁寄資﹂は﹁闇︵暗︶転﹂と呼ばれている︒趙概・呂誨の用法を見れば︑ともに寄資が遙郡に至ったものを﹁闇︵暗︶
転﹂と表記しているように思われる︒
︵
内勾當御藥院使臣如合轉大使臣出外特留者︑即直候出外日︑據留住歳月︑比類優與遷轉︒應今日已前已理資序者︑並依已得 32︶﹃宋会要﹄職官一九︱一四・治平四年七月十九日条﹁樞密院勘會嘉祐五年十一月已降指揮︑今後内臣更不許理大使臣資序︒
指揮︑仍今後更不再與遷理資序︒從之︒﹂
︵
熊本崇﹁宋神宗立太子前後︱哲宗定策問題序説﹂︵﹃集刊東洋学﹄一〇七︑二〇一二年︶参照︒ 33︶楊仲良﹃皇宋通鑑長編紀事本末﹄巻五八﹁司馬光彈劾﹂治平四年七月戊寅条︒なお神宗の皇位継承の不安定さについては︑
︵
34︶仁宗親政の初期に︑都知・押班の親戚が勾当御薬院になれないことになったのも︑両者が持つ権限が違っていたことを示
している︵﹃宋会要﹄職官三六︱八・景祐二年十二月三日条︶︒︵
35︶﹃長編﹄巻四九五・元符元年三月戊午条︑﹃宋会要﹄職官六七︱八・紹聖元年六月五日条︒当時は新法党による旧法党弾劾
が行われており︑いわゆる党争の渦中にあるため︑誣告も多く含まれているとは思うが︑勾当御薬院という宦官官職がどう
いう立場にあり︑どう見られていたかは分かるであろう︒︵
36︶﹃国朝名臣奏議﹄巻六一・呂誨﹁上仁宗乞罷内臣暗轉官例﹂︵嘉祐五年十一月上︶︶﹁當陛下即位之初︑太后臨朝︑命出帷幄︑
威福假於宦豎︑斜封墨敕︑授之匪人︑故外庭鮮得聞知︒疑闇轉之例︑自茲而始︒﹂
宦官官職としての宋代御薬院
Yuyaoyuan
御薬院as the Eunuch Post in the Song Dynasty
FUJIMOTO TakeshiAbstract Goudang-Yuyaoyuan勾 当 御 薬 院, the chief of Yuyaoyuan, was the eu- nuch’s government post in the Song Dynasty. Though its name itself was concerned with medicine for emperors, Yuyaoyuan had various jobs. Because the eunuches of Yuyaoyuan served the emperor in the court, the emperor frequently ordered them to do many jobs, and after that their duties became progressively more extensive.
While there is no research explaining when Yuyaoyuan got so many duties, accord- ing my examination, during the regency of Empress Dowager Liu劉 太 后, who was Zhenzong’s真宗widow, Yuyaoyuan created new eunuch posts called Shang-yuyao上御 薬and Shang-yuyao-gongfeng上御薬供奉, and the eunuches holding these posts acted busily following the orders of the Empress Dowager. But soon after her death, these posts were abolished. The work of Shang-yuyao and Shang-yuyao-gongfeng were done Goudang-Yuyaoyuan, so I think that Yuyaoyuan’s duties varied during this period.
Results of my examination about the Goudang-Yuyaoyuan’s rank in eunuch govern- ment posts shows that, it in fact held a high rank and had a deep trust with the em- peror, so it can be said that the Goudang-Yuyaoyuan had a very important positions in politics. That is why the real rank of the eunuch holding Goudang-Yuyaoyuan was not permitted to get promotion.
But if the emperor wanted to employ a eunuch who had a high ability, the eunuch had to work for a long time as the Goudang-Yuyaoyuan, staying at a lower rank. In or- der to solve this problem, a system which payed a bonus that was in addition to the usual payment was started. It was called jizi寄資. The Jizi system used the rank sys- tem of military officers in order only to pay a salary. However, this system gradually changed, such that after resigning from the Goudang-Yuyaoyuan, the eunuch got next his post and rank on the basis of the jizi, so the jizi became a government rank.
There were some eunuches who got Jizi of the Youqun遙郡rank, and this was called Anzhuang闇転. The jizi system was established despite criticism from Shitaifu士大 夫, the scholar-bureaucrats.
My research shows that the Goudang-Yuyaoyuan was an especially important eu- nuch post compared to others. The emperor instituted the eunuch whom he himself trusted into the Goudang-Yuyaoyuan, using the special Jizi system. The Goudang-
Yuyaoyuan was a characteristic eunuch post, different from other eunuch posts, such as Duzhi都知or Yaban押班, the director generals of Neishisheng内侍省.
Key words: Yuyaoyuan, Eunuch, Jizi system