Abstract
Female artists in Disgraced and The Who & The What by Ayad Akhtar are caught between womenʼs issues regarding Muslim conventions and their personal and artistic pursuits. This paper examines how women in Islamic cultures face thorny issues and how their creative energies enable or inhibits them to deal with these problems.
In Disgraced, Emily is the white American wife of the MuslimAmerican protago- nist, Amir, but her presumed racial superiority as a Caucasian only enables her to avert questions about how to tackle with problems surrounding Muslim culture. She sepa- rates from her Muslim husband, but ironically, in doing so she also seems to lose the source of her artistic inspiration, which has been heavily derived from Muslim art.
In The Who & The What, the female protagonist, Zarina, has no choice but to con- front Muslim conventions. Such confrontations eventually become a source of energy for her artistic endeavors. Her novel about the Muslim Prophet, written in an ex- tremely unconventional way, ends up arousing anger among the local Muslim com- munity. However, at the same time, and perhaps more importantly, Zarina gains sup- port from many overseas Muslims.
This paper examines the ways in which the two women either fail or thrive in their
女性芸術家の葛藤とイスラームをめぐる諸問題
Inner Conflicts of Female Artists and Issues Surrounding Islam in Disgraced and The Who & The What
by Ayad Akhtar
有 馬 弥 子
Hiroko Arima
respective arts, and attempts to argue that social superiority does not necessarily en- sure artistic creativity, and vice versa.
Key words: Ayad Akhtar, Muslim American, South Asian American, Islam, gender キーワード:アヤド・アクタール、ムスリム・アメリカン、南アジア系アメ リカン、イスラーム、ジェンダー
1 .はじめに:イスラームとジェンダーと創作
パキスタン 系 アメリカンであるアヤド・アクタール₁(Ayad Akhtar)は 成 長時のある時点まで、イスラームの出自から意識的に遠ざかっていた時期も あったと認めている。その否定の時期と、創作への意欲を抱くようになった 時期とは重なっていた。しばらく執筆や演劇の出演などを続け、大学ではそ の方面で学位を取得するまでになった。ちょうどその頃、自身の民族的およ び宗教的原点を避けることがむしろ創作の才能の開花を妨げていることを認 識するようになったと言う(Lasky ₃ )。このような経緯を経て、イスラー ムのテーマとまっこうから向き合うようになってから、アクタールの創作の 才能は結実し始めた₂。ムスリム系アメリカン二世としてこのような葛藤の 多い生い立ちをたどってきたアクタールは、本稿で論じる二劇作Disgraced とThe Who & The What(以 下The Whoと 略 記)において、アメリカにおける イスラームやムスリム系の人々を取りまく諸問題と創作のテーマを密接に絡 めている。
両作品についての考察にあたり、まず著者によるそれぞれについての見解 を見てみる。アクタールは₂₀₁₄年 ₆ 月には、The Whoの著者前書きにおいて、
悲劇は引き算のストーリー、喜劇は足し算のプロセスを描くものであるとし て、Disgraced初演二年後のThe Whoを喜劇と位置付けている(xi)。一方、
Disgracedについては、諸レビューでも悲劇的であると評されてきた。アク タール自身もDisgraced巻末に収録されているユーニス(Younis)によるイン タビューで、上演後にスコットランド生まれのパキスタン系ムスリムの女性 の観客から送られたメールについて、「こんなふうに気が滅入ってしまった のは初めてで、いったいこれから希望があるのか」と言及している。アク タール自身も、観る人の気を完全に滅入らせる"downer"を書いてしまった
と 認 めている(Disgraced ₉₄)。そしてAmerican Theatreに 掲 載 されたユーニ スによるインタビュー中では、故意に観客をかき乱そうとした、“shattering the audience”₃と述べている。
このように、悲劇的であるか喜劇的であるかという点で二作品は異なって いる。Disgracedではムスリム系アメリカンの男性アミール(Amir)が、The Whoではムスリム系アメリカン二世の女性ザリーナ(Zarina)が主人公であ る。しかし、どちらにもイスラームと関わる女性のクリエイターが登場する ことでは共通している。イスラームやジェンダーの諸問題はこれら二人の人 物造形、行動、そして創作にどのように映し出されているのであろうか。
Disgracedではアミールはイスラームの出自を隠してまでアメリカ社会へ の同化に邁進してきたが、白人の美しい妻エミリー(Emily)は、画家でイ スラームの芸術に傾倒している。一方、The Whoの主人公ザリーナは、イス ラームの伝統に固執する父親との確執のさなかにある。ザリーナはこっそり と、イスラームの教祖を風刺する小説を書いている。父親と妹はそれを知ら ない。
これらの女性二人は人種も境遇も、また、芸術に対する向き合い方も異 なっている。そのことと、二人のアメリカ社会の中での境遇の違いとは無関 係ではない。本稿ではこれら二作を分析し、二人の女性とイスラームとの関 わり方の違いが、二人の芸術創作にそれぞれどのような相違となって現れて いるのかを検証し、二作においてイスラームをめぐる諸問題とジェンダーの 問題がどのように芸術創作と絡んでいるかを論じる。
2 .Disgracedにおける女性芸術家の喪失
( 1 )エミリーの芸術観とアミールとの結婚
Disgracedは、エミリーが、下 半 身 トランクスのみのアミールをモデルに スケッチをしている場面で始まる。二人は一見、罪のない、仲のよい夫婦、
しかも妻が画家というリベラルで文化的な生活を送っているカップルである かに見える。
Setting
A spacious apartment on New Yorkʼs Upper East Side. ( ₃ ) The stage left wall is covered with a large painting: A vibrant,
two-paneled image in luscious whites and blues, with patterns reminiscent of an Islamic garden. The effect is lustrous and magnetic. ( ₅ )
イスラームのタイルの文様を模したこの画はエミリーの自慢の作品である。
以下彼女と夫の関係、そして破綻とその原因、それらとエミリーの芸術観と の関係について見ていく。
エミリーの 芸 術 観 について、ビリントン(Billington)はエミリーのイス ラーム芸術に対する嗜好がナイーブであるとは言い切れないとし、必ずしも 批判的ではない。ビリントンは、ピカソによるアフリカのフォルムの使用や、
マティスがムガールの細密画を基に創作したことなどに言及し、芸術創作上 の越境に対し受容的である。また、本稿ではエミリーがイスラームの出自で あるアミールと結婚したことについても、単にイスラーム芸術に対する趣味 の域を出ない嗜好の延長で、イスラームの出自の夫のことを下に見ている結 果であると断定することはあえて避ける。
一方、竹島達也は論文「『恥辱』₄ ₉ ・₁₁後におけるイスラーム系アメリ カ人の苦難と苦悩」において第一場を分析し、エミリーと彼女の芸術観を鋭 く批判している。まず、エミリーの芸術上のイスラーム嗜好を表面的な異国 趣味の域を出ずオリエンタリズム的であるとする。さらに、そもそもエミ リーのアミールに対する目線は支配者の被支配者に対するそれであるとまで している。この分析の根拠は、エミリーが自作のアミールの肖像画をベラス ケスの「ファン・デ・パレーハ」になぞらえ、「ベラスケスのムーア 人 につ いての研究」と名付けていることにあると述べている。竹島は、ベラスケス と奴隷的な存在であったムーア人モデルの上下関係はそのまま、実は白人女 性エミリーとイスラーム出身のアミールとの間に存在している上下関係を暗 示しているとし、二人の上下関係をアメリカ社会における人種や民族による 階層の問題に直結させている(₂₄₅-₄₆、₂₄₉)。
ここで、「ファン・デ・パレーハ」についての第一場のアミールとエミリー の会話を詳細に分析してみる。“AMIR: You sure you donʼt want me to put pants on? EMILY: (Showing the Velazquez painting): I only need you from the waist up”
( ₆ ). この場面でアミールは、自分が半裸で、それが屈辱的であることを訴 え、自分の肖像画の元になっている画が奴隷を描いたものであることにしき りに抵抗を示す。しかしそれに対するエミリーの答えは、アミールの懸念を
受け止めてはいない。
AMIR: I think itʼs a little weird. That you want to paint me after seeing a painting of a slave.
EMILY: He was Velazquezʼs assistant, honey.
AMIR: His slave.
EMILY: Until Velazquez freed him. ( ₆ )
…
EMILY: . . . An assistant.
AMIR: A slave. ( ₇ )
エミリーはベラスケスのモデルが奴隷であったことについては、その事実を 認めることを避け、彼がベラスケスのアシスタントであったと繰り返し強調 し、さらにベラスケスが彼を奴隷の身分から解放したと付け加えることで、
彼が奴隷だったのではないかとのアミールの問いをはぐらかしているのであ る。
EMILY: Fine. A slave.
But whose portrait—it turns out—has more nuance and complexity than his renditions of kings and queens. ( ₇ )
エミリーは最終的には、アミールのこだわりに屈し、彼が奴隷であったこと を認める。だが同時に、その肖像画は結果としてはベラスケスの数限りない 王侯貴族の肖像画よりもはるかに、表現上のニュアンスや複雑さにおいて優 れているものになっていると強調する。つまりその絵の美術的価値が高いこ とが重要なのであり、モデルが元奴隷であることは問題ではない、というの がエミリーの芸術観なのである。
エミリーの芸術観は耽美主義的なものである。エミリーはこの肖像画の背 景である被征服側のムガール人の酷い歴史に思いを馳せることはない。あく までも、長方形の物体である一枚の肖像画の絵としての価値の高さのみに注 目し、夫のこだわりには取り合わない。
また、アミールはこの会話の中で、自分とエミリーがレストランに出かけ た際に有色人種である自分がウェイターから差別的な言葉を投げかけられた ことにも言及する。これに対してもエミリーは、ベラスケスのアシスタント が奴隷から昇格したように、アミールも優れた能力の高い者として、差別す る側のまなざしを超越していればよいと言って済ませている( ₇ )。そこに
は、竹島の述べるように、美しく、人種と階級においてアメリカ社会の支配 階層に属する白人女性であるエミリーの単純な思考(竹島 ₂₄₅)と、アミー ルの味方であることを示そうとする善意はあるものの、ナイーブであるため にその善意に限界があることとが既に露呈している。
実はこの会話の延長で、エミリーは自分の作品についても、即物的、耽美 的な見方しかしていないことがわかる。
EMILY: . . . [I]t didnʼt sell.
AMIR: Sellingʼs not everything.
. . .
EMILY: Sellingʼs not everything? You really believe that? ( ₈ ) 話題が作品の販売促進におよんだ時、エミリーは、売れなかった、とのみ言 う( ₈ )。アミールは慰めようとするが、エミリーは、売れなければ全く意 味がない、と考えている。この発言はエミリーの芸術についての価値観を端 的に表している。エミリーにとって芸術作品は、あくまでも売買の対象であ り、重要なのは美的物体として独立した存在である個々の作品の美術的価値 や商品価値にのみあり、仮に扱われている対照の社会背景が問題をはらんで いても認識さえしない。
このような芸術観を抱くエミリーは、女性である自分について、美しく白 人であるがゆえに商品価値があるとの慢心から、展示の機会を得るための取 り引きにおいて有名美術館長でユダヤ系のアイザック(Isaac)に身をまか せてしまったのであった。エミリーは即物的利害のために、自らの身体を美 的、性的物体として委ねる形で男性中心的価値観に屈したのである。アイ ザックとの関係について、アミールとの結婚が破綻した後、エミリーは最終 場面で次のように述べている。
EMILY: . . .
I was selfish.
My work . . .
It made me blind. (₈₆)
この会話は二人とも立ち退くことになり、ほぼ全てのものが片づけられた閑 散としたアパートでかわされるのであった。
利益とひきかえに、夫との関係は終焉をむかえる。エミリーはこの後、お そらくイスラームの芸術との向き合い方についても自己矛盾を解決すること
はできず、行き詰まるのではないかと思われる。エミリーの芸術観の利己的 で即物的な面が、ある意味ではそれまで純粋な面もあったとは言えなくもな かった、エミリーのイスラーム芸術に対する姿勢の限界を一挙に暴いてしま うのである。むろん、エミリー自身最終場面で認めている自身のナイーブな 芸術観(₈₆)を脱皮し、イスラームをめぐる社会問題を含め、その文化全体 に対しこれまでより認識を深める道もあり得ようが、エミリーの価値観、芸 術観がそれまでの位置にとどまる限り、それは期待できないと思われる。
( 2 )エミリーにとっての喪失の要因
次に、エミリーのアメリカ社会に生きるムスリム系の社会的状況について の理解の程度と、アメリカ社会におけるイスラモフォビアとの関係について 考察する。エミリーは、アミールの甥のエイブ(Abe)が弁護士であるアミー ルにテロ擁護の容疑で逮捕されたイマームの弁護を頼みにくると、アミール にその依頼を受けることを当然のようにすすめる。エミリーは、イスラーム の芸術、ムスリムの夫、夫の甥、甥の同胞イマームの状況、これらすべてを 理解したいと願っている。しかし竹島は、エミリーの芸術観だけではなく、
エミリーのこれらイスラーム的なすべてに対する嗜好は、表面的、突発的、
自己満足的なものに過ぎず、特に ₉ ・₁₁後にムスリムの人々が置かれた険し い社会的状況を理解していないと批判している(₂₄₇-₄₉)。第四場でエイブ は、スターバックスで友人とムスリムやアルカイダについてバリスタと軽く 話していると、バリスタが警察に通報し二人は逮捕され馬鹿げた取調べを受 けるはめになってしまったことを語るが、このようなイスラモフォビアの実 際の事例を身近で耳にしても、エミリーは一切関わろうとはせず席を立つの みである。
しかし、イマームの弁護を引き受けたことが、弁護士会社からのアミール の解雇につながってしまう直接の原因は、エミリーのすすめのみに帰すわけ ではない。問われるべきは、エミリー本人のみではなく、アメリカ社会のイ スラモフォビア₅にあると考えられるからである。本劇中アミールがムスリ ムの出自の名前を隠しインド系の名前を使い就職したことが問題視される が、ムスリム系の名前であると就職差別があるからであった。エミリーや周 囲の人物らはアミールのムスリムとしてのこのようなジレンマには理解が及 ばないのである。エミリーにはそれなりに善意もあり、純粋でもある。ただ、
社会的状況や社会問題についての認識が決定的に欠けていたことは否めな い。
アミールとエミリーの関係崩壊の直接的要因である、アイザックの突き刺 すようなアミールに対する差別的まなざしもまた、イスラモフォビアの視線 であると同時に人種差別的である。Disgracedのプロットは、アミールとエ ミリーのアパートにアイザック 夫 婦 が 招 かれたディナーパーティ中 にすす み、たまたまそれぞれの配偶者が退室した際に、アイザックはエミリーに再 び執拗にせまる。
その場面を目の当たりにし激昂したアミールはエミリーを殴ってしまう。
こうしてエミリーは、直接の原因は自分の行動にあるにしても、最終的にド メスティック・ヴァイオレンス(以下、DV)の犠牲者となってしまう。竹 島論はアメリカ社会における弱者としてのアミールの立場と、人種階級的に 支配層に属するエミリーを対比させることを論点の中心に据えているが、
ジェンダーの観点ではエミリーは犠牲者でもある。問題のアイザックとの関 係にしても、アイザックが立場を利用し、エミリーに関係を迫ったとも解釈 しうる。自ら招いた結果とはいえ、エミリーはアイザックとの関係において も、力関係による強要された性という暴力の犠牲者であるという可能性があ る。
また、アミールがエミリーを殴ってしまうことについて、竹島は「コーラ ンの教え通り」であったとし、「コーランの教えを実践することは」夫婦関 係の破綻につながったと述べる(₂₅₀-₅₁)。また平川は、アミールのイスラー ム性がDVという形で顕在化してしまったと述べる(₆₆、₇₀、₇₂)。
AMIR: . . .
So letʼs talk about something that is in the text.
Wife beating. (₅₇)
. . . AMIR: . . .
Men are in charge of women. . . EMILY: Amir?
AMIR: If they don’t obey. . . Talk to them.
If that doesn’t work. . .
Don’t sleep with them.
And if that doesn’t work. . . . . .
AMIR: Beat them. (₅₈ 下線現筆者)
この場面に至るまでの緊張感溢れる会話の中でアミールが言及するように、
クルアーン₆には確かに「妻が従わないときは殴るべし」という部分がある ので、たまたまの感情的破綻による暴力行為は、クルアーンに記されている 内容と合致してしまったと言える。しかし、アミールが文字通りこの文面に 従ったと見なすべきではないと考えられる。そもそも、従わない妻を殴るこ とがクルアーンの教えであると断言することはクルアーンの詳細についての 理解に基づくとは言えない₇。また、イスラーム性と暴力性を同一視するこ とはイスラームについての正確な理解とは言えず、誤ったステレオタイプで あり、イスラームに対する偏見につながりかねない。
問題は、現代において、全てのムスリムがクルアーンに書かれている内容 を一字一句実行しなければならないと原理主義的に考えているのかというこ とである。現代のイスラームの夫婦関係において、妻の何らかの言動に対す る夫の暴力行為が、全面的に正当化され実行されているとは限らない。
このDVの 後、エミリーはアミールのもとを 去っていく。エミリーはどこ まで、アミールの自分に対する暴力をイスラームの教えの結果と見なすの か。アミールに殴られてしまったこと、クルアーンに記されている内容、₁₃ 世紀以上前に記されたクルアーンの文面が現代社会においてイスラームの 人々に字義通り実行されているのかという疑問、これらの問題を、エミリー はどのように考えていくのであろうか。
エミリーは夫アミールの生活上の、また精神的な苦悩と対峙することがで きない。また、自分自身の中にある葛藤すら認めることができない。そのた め創作においても耽美主義、物質主義の域を出ることがない。その結果、配 偶者を失い芸術創作にも行き詰まっていくと思われる。そもそもエミリー は、アメリカ社会における人種的ヒエラルキーの中では優位に位置してい る。自己の内部と外界の間で闘いや込み入った交渉を強いられる生活上の必 要性にさらされた経験はない。しかし、芸術家としての探究心や成功の野心 はあったため、エキゾチックなイスラーム性に目をつけた。エミリーにはア ミールと出会う前に英語が話せないアフリカ系スペイン人男性と交際し、理
解しない父親を震撼させた過去があり( ₇-₈ )、男性との関係についてもエ スニック嗜好とでも言うべき傾向がある。芸術面においても男性との関係に おいても異国趣味があるのだが、あくまでも優位な立場を脱しようとせず、
歩み寄る姿勢を見せることがない。そのため、興味の対象である民族と切り 離せない問題に意識が向けられることがなく、それが顕在化してしまった時 には、もはや引き返す道が残されていない。
ナイーブな善意はあるものの、社会的認識の欠如のためにエミリーの芸術 観には限界がある。その上、女性としての自分に関しても、男性中心社会の 価値観に屈し安易な行動に走るなど、女性としての自立も損なうことにな る。その結果、さらに男性に横暴に支配され、DVの犠牲となる。DVを受け ることが分岐点となり、ナイーブな理想が終焉を迎え、芸術創作においても 行き詰まる点で、Disgracedはエミリーの悲劇でもある。
3 .The Who & The Whatにおける女性芸術家の葛藤
( 1 )イスラームにおけるジェンダーの諸問題
Disgracedについてジェンダーの観点を併せて考察したが、女性に対する DVのみならず、特にジェンダーの観点では教典や伝統的教えに基づく多く の前提が、現在イスラーム世界においてムスリム自身によって問われている と言える。このような問題提起がアメリカ生まれでアメリカ育ちのムスリム 女性によって果敢に実行される設定になっている興味深い作品が、アクター ルの二作目の劇作、The Who & The What(以下The Whoと略記)である。こ の作品についてはアクタール自身明確に、「喜劇的作品を書こうとした」と 述べ、その意図が成功した仕上りとなっている。また、著者前書きで述べら れているように、この作品はパキスタン系アメリカンにとってのジェンダー の問題を直接扱っており(xii)、この点でDisgracedにおけるジェンダーの問 題の描かれ方と併せて検証するに適している。
The Who中の二人の女性の登場人物は、アメリカ生まれでアメリカ育ちの ムスリムのパキスタン系アメリカンの姉妹である。二人は冒頭からイスラー ムにおける「ジェンダーの政治学」について語り合っている(₁₁)。姉ザリー ナがこの問題を扱った小説を書いているからである。劇中盤では妹のマウ イッシュ(Mahwish)が、姉の小説を全面的に拒否する父親アフザル(Afzal)
に、そのテーマはジェンダーの政治学であると説明しようとする(₇₄)。
幕開け時点でこの姉妹が直面しているジェンダーに関する障壁は、父親が 恋愛や結婚の自由を頑迷なはばんでいることである。父親アフザルは、一面 では大いにアメリカナイズされているものの、ことジェンダーの面において は因習的で、妻と娘二人に対してはイスラームの教えに従うことを原理主義 的なまでに要求する様はこっけいである。このため、姉妹とアフザルとの間 に確執が絶えない。妹のマウイッシュはそれでも自分の気持ちを偽って、表 面上は父親の望み通りイスラームの幼馴染みと婚約しており、ほどなく結婚 する。しかし実際には、婚約者以外の男性と親密な関係を持っており、この ことを姉ザリーナには気付かれている。一方ザリーナは、アイルランド系で カトリックの男性ライアン(Ryan)との関係を父親に反対され別れさせら れた痛手を負っている。劇が始まる時点でザリーナは既にイスラームの因習 的側面の犠牲者である。イスラームの教えに原理主義的に従うならば、婚姻 はイスラームの男女どうしでなければならないからである。アフザルは、パ キスタンから移住してきたムスリムだが、アメリカ南部、保守的な色彩の残 る町アトランタで事業に成功してきた点ではアメリカンドリーム的な成功者 である。しかし、娘二人が自分の想像を超えて、アメリカナイズされている ことは受け入れ難いのである。
長女ザリーナはその後、ある程度までは父親の要求に従う。しかし特に ジェンダー面においてイスラームの伝統に抵抗していく。その抵抗がザリー ナを精神的に生かすことになるのである。ザリーナは家族に隠れて小説を書 いている。ペンを手に取る、小説を書く、という行為自体が、因習的、前近 代 的 なジェンダー観 においては 女 性 のすべきことではないとされていた₈。 ザリーナは、ペンを手に取り執筆できるための時間と空間を要求する₉。し かもイスラームの教祖の理想像を冒瀆する内容の小説を書いているのであ る。ザリーナはハーバード出のインテリでもあるという設定となっている。
ザリーナはまた、妹のマウイッシュが別のアメリカ人男性と懇意でありな がら、表面上はイスラームの伝統に従っているかのように行動していること を批判し、面と向かって彼女の二重性を指摘する。彼女自身は恋人と別れさ せられた痛手から立ち直ろうとしており、抵抗的な小説を書くことで生きる 活力を得ているが、妹が伝統との確執を克服し切れずに偽善的な生活をして いることが気がかりである。
冒頭において二人はかなり露骨に、自分たちの性的行為に言及する。アク タールはアメリカ生まれでアメリカ育ちのムスリム姉妹のこのような「アメ リカ的」とも言える会話で観客の笑いを誘いつつ、イスラームの伝統から逸 脱したムスリム系アメリカンの女性二人の姿を提示しようとしたのであろ う。
( 2 )イスラームにおける女性問題についての議論
アフザルはザリーナをライアンと別れさせた後、齢三十過ぎのザリーナの 結婚相手を自ら真剣に探し始める。そしてイスラーム系のマッチングウェブ サイトで、白人で最近イスラームに改宗しイスラームの活動をしているイー ライ(Eli)という男性を見つける。しかしザリーナとイーライの二人は実 は以前に、ソマリア出身の女性によるイスラームとキリスト教についての講 演でたまたま隣席に座り出会っていたのであり、その時点で既に宗教上の模 索を共有していた。アフザルは二人を婚姻で結びつけようとするが、この過 程でも彼の言動は始終きわめてこっけいである。アフザルはザリーナの結婚 相手となるかもしれない男性、つまり自分の義理の息子となるかもしれない 男性のことは、ザリーナ自身に引き合わせる前にまず自分が会って話し、相 手を試す決意を固めている。実は同じことをこれまで七人に対して行ってき たという頑迷ぶりである。こんな父親のいるところに望んで入ってくる男性 がいるものなのか通常なら疑問である。だが、そこがThe Whoの喜劇たるゆ えんで、イーライはアフザルの頑固さに呆れつつも、やがて、ザリーナの生 活に入り込んできて、彼女と結婚する。この間のアフザルとザリーナ、また アフザルとイーライの応酬が笑いを誘うように描かれ、ザリーナとイーライ がイスラームの伝統に固執するアフザルとどのようにわたり合っていくのか が興味深いのである。
アメリカ社会における人種的ヒエラルキーの中では上位に立つ白人である が、Disgracedのエミリーはイスラームの芸術に、The Whoのイーライはイス ラームに宗教的に傾倒している。前者は女性であり後者は男性であるため に、それぞれのイスラームである男性配偶者、女性婚約者との関わり方や自 らの立ち位置は自ずと異なってくる。エミリーは芸術家であり、イーライの 婚約者となる女性は小説を書いているという設定である。エミリーは、最終 場面でナイーブであるということを自身も認め批評家からもそれについて批
判されているものの、ある程度イスラームを政治的にも擁護しようという姿 勢を見せる。しかし、最終的にはムスリムの夫のDVの被害者となる。イー ライは既にイスラームに改宗しモスクを運営するほどのムスリムぶりを見せ ているが、ジェンダーの観点では、つまり婚約者ザリーナとの関わりにおい ては、エミリーとはまた 違った、しかしやはり 複 雑 な 位 置 に 立っている。
イーライはザリーナが小説を書いていること、さらにその内容がイスラーム の伝統からは逸脱した内容であることに対し、当初は異議を唱えるが、ザ リーナとの対話を通じ次第に理解を示すようになっていく。イーライのこの ような変化は、自分が手配し選んだ相手なのだから間違いないと思い込んで いたアフザルの期待を見事に裏切ることになる。しかし、そもそもアフザル の介在以前に自分と接点があったザリーナとの結びつきは、彼女の創作行為 を理解しサポートすることにより、強まる。それが今や彼女にとって生きる ことの根幹となっているからである。このようにイーライにとっては、イス ラームの因習に反することが、婚約者、配偶者との結びつきを確かなものに 育てていくことになるという意味で、逆説的にイスラームの伝統に従うこと になるのである。
ザリーナは小説を通じ、イスラームの教典と社会において女性の置かれて いる抑圧的状況を批判しようとしている。しかしザリーナはあくまでもアー ティストとしてそうしようとしているのであって、単にイスラームの教祖の イスラーム的婚姻上の女性関係を暴露しているだけではない。ザリーナはこ の小説を通し何を表現しようとしたのか、イーライとの会話の中で語ってい く。まず教祖については、教祖の女性関係について偽ってまで教祖を盲目的 に神格化することに抵抗し、理想化され偶像化された教祖像をwhatと呼ぶ。
しかしザリーナによれば、教祖が生身の男性として性的欲望に翻弄される様 を包み隠さず描くのは、教祖を揶揄するためではない。教祖の人間としての ありのままの姿を、what に対してwhoと呼び、アーティストとして事実に忠 実に描こうとしたのだと言う(₃₉)。
ZARINA: I donʼt hate him.
I hate what the faith does to women. For every story about his generosity or his goodness, thereʼs another thatʼs used as an excuse to hide us. Erase us. (₅₀ 下線現筆者)
教祖を憎んでいるのではなく、原理主義的な、イスラームの女性に対する抑
圧的な扱いに憤りを覚えているのだと述べている。それは女性を抹殺するこ とだと。ザリーナはイーライとの会話の中で、自分自身がイスラームの女性 としてイスラームの風習の中でどのように感じてきたかを吐露し、それが自 分をこの小説の執筆に駆り立てたと語る。イスラームに改宗するほど傾倒 し、教祖を崇拝している白人のイーライは、ザリーナとこのように率直な議 論を交わすのである。その討論は非常にオープンなものとして描かれ、二人 は本音をぶつけ合う。イーライは、ザリーナのイスラームに対する懐疑的な まなざしを、あえてイスラームに改宗した白人の自分に対する非難であるよ うに感じ“Condescending”(₃₅)とザリーナに言い返す。イーライはさらに、
イスラームにおける人種や収入や言語等の違いを超えた平等の理想に言及す る。これに 対 しザリーナは 吐 き 捨 てるように 言 う。“Equality and all that bullshit. You didnʼt have to grow up as a woman inside it” (₃₅).
イーライはザリーナのイスラームや教祖の女性蔑視に対する批判と受け取 れる内容をはじめから理解したわけではなかった。しかし、ザリーナの小説 を時間をかけて何回か読み直すことによってその内容と向き合ってみたいと 思うようになり、また彼女の小説を読んだことにより、「改宗した当時には なかった葛藤が生じた」と言う。イーライは人の固定化した価値観に揺さぶ りをかけ内面の葛藤を引き出すのが芸術であり、ザリーナの本は自分にそう させたと考えている。“Canʼt you see Iʼm conflicted? I mean—Isnʼt that what good art is supposed to do?” (₅₀-₅₁)と。ここでザリーナは、イーライが 自 身 の 創 作の根源的な目的を理解してくれたと感じる。この議論の場面の最後に、二 人は精神的に結びつくという展開となっている。
( 3 )ザリーナの抵抗
これまで見てきたように、ザリーナはイスラームの因習に頑迷に従う父親 から受けた精神的痛手を創作行為により乗り越えようとしてきた。次に、執 筆中の小説で教祖の女性関係の真実を描き、またイスラームにおける女性の 抑圧に対する批判を率直に表明し、父親を納得させるまでには至らずとも、
イーライの一定の理解を得、抵抗の道を一歩進める。やがてイーライはアフ ザルの前でザリーナと彼女の小説を弁護するまでになり、ザリーナのそのよ うな勇気が特に気に入ったのだとさえ言う(₈₂)。ザリーナはまたイーライ との会話において、自分は小説を発表することにより、地元のムスリム・コ
ミュニティーから糾弾されもしたが、多くの海外のムスリムからは賛同の声 も寄せられたと話す。
ZARINA: Yes, Iʼve gotten so many letters. Emails.
AFZAL: From Christians.
ZARINA: No. From Mulims. Istanbul. Lahore. London. Omaha.
AFZAL: Saying what?
ZARINA: That it helped them. (₈₉)
これもまた、ザリーナの抵抗の前進である。
このようにして、イスラームの伝統を背負いつつも、その中で女性として 生きるための闘いを一歩一歩すすめていくザリーナと、その協力者となって いく婚約者、劇中盤以降は夫であるイーライは、最後に再び決定的なジェン ダー上の障害と向き合うことになる。ザリーナの小説をめぐってアフザルと 断絶してから二年後、ザリーナとイーライは最終場面で突然アフザルの前に 再び現れ、彼女がイーライの子供を妊娠していることをアフザルに告げる。
これを聞いて感きわまったアフザルは娘夫婦との争いを水に流すかのように 地にひれ伏し祈りアッラーに祈り始めるのだが、その祈りは男児の誕生を当 然のこととし願う内容である。“If you canʼt forgive [Zarina], just donʼt take it out on him. Inshallah, please let it be a boy” (₉₂-₉₃). 最 後、憮 然 としたザリーナ が、孕んでいる胎児は女児であることを告げる一行で幕が下りる。
ZARINA: (With sass, defiance): Dad.
Afzal turns to see her.
ZARINA (CONTʼD): Itʼs a girl.
Lights Out. (₉₃ 下線現筆者)
ここでもアフザルの因習的な考えが二人の前に立ちはだかるのであった。
この最終場面後、ザリーナはどのように歩んでいくのか、そして創作活動 は続けていくのか、観衆は気になるところであろう。ザリーナの芸術活動は 模索や闘いそのものでもあったので、今また障壁が立ちふさがっても、それ により芸術創作を阻止されることはないと思われる。むしろ、さらに闘いの 次の一歩を踏み出していくと思われる。
ザリーナは、そもそもムスリムという 属 性 から 逃 れることはできない。
₉ ・₁₁後のアメリカ社会において、そのことの意味は更に重くなっているの である。それに加え、女性としてイスラームの因習に抑圧され苦悶する経験
を経てきた。妹にも同じ姿を見る。三十になるまで、交渉や闘いを余儀なく されることもしばしばあった。ムスリムとして女性として二重に抑圧された 位置に置かれている。そのような状況下、新しい道を求め、父親を含めた外 界との交渉を粘り強く続けていかざるを得ないし、闘い続けるであろうと思 われる。協力者となっていく配偶者、国内外の賛同者も得てきた。今後も、
創作を続けるであろう。創作からエネルギーを得る必要があるからである。
平らかではないが創造的であるとも言える道である。ただイスラームの因習 に則っていても内面的充足に至ることはできないどころか破綻をきたしかね ない以上、新たな道を模索していくほかはないのである。
4 .結論:女性芸術家におけるインスピレーション
アクタールはThe Whoの前書きで喜劇を足し算と定義し、最後の子供の誕 生の予兆が足し算であるとしているが、ザリーナの模索や闘いとしての芸術 創作が続けられ、新たな作品が生み出されていくことを予想させる足し算で もあると 考 えられる。Disgracedのエミリーが 多 くを 失っていくのに 対 し、
The Whoのザリーナの歩みは芸術創作の観点でも、ジェンダー面での闘いの 観点でも、足し算であると解釈することができる。
エミリーが超えられない、超えようとしない限界、ザリーナが越えようと する、むしろ、越えていかざるを得ない壁、これらについて論じたが、劇結 末後に二人の女性の芸術家としての未来はそれぞれどのように展開していく と想像されるであろうか。各々の配偶者との関係、および配偶者らの妻たち との関わり方はどのようなものになっていくのであろうか。彼女らは、彼ら と、そして社会との関係において、自己をどう位置付けようと模索していく のであろうか。
Disgracedにおいてアミールは、エミリーの性愛上の裏切りに対してDVと いう形で応酬する。それを招いてしまった一因は、エミリーの側の、 ₉ ・₁₁ 後のムスリム・アメリカンが置かれている諸状況の理解の欠如である。エミ リーはアミールを一人の尊厳をもった個人としてというより、芸術に利用で きる存在としてしか見ていなかったと言える。このことは肖像画制作という 象徴的行為に現れた。しかし、アミールの側もエミリーを一人格として受け 止めていたかは疑問である。エミリーはアミールにとって、主体的個人とい
うより、白人で美しいという、カラードの夫にとっての利点₁₀を兼ね備えて いる人形₁₁のごとき存在だったのではないだろうか。そのため、夫として根 本的に裏切られた後にも、エミリーの白人性にしがみつく心的習慣を断ち切 れていないようにも読み取れる。平川は最終場面において彼が裏切られても なお白人である彼女からの評価を追い求めているとし、竹島もまた、エミ リーがアミールを振り回したこととアミールがそれを黙って受け入れざるを 得ない結末となっていることを指摘している(平川 ₇₀、₇₂、竹島 ₂₄₇)。ア ミールとエミリー双方がお互いを精神的に不可欠な存在としてより、利益を もたらしてくれる存在として利用してきた以上、利害が消滅した時、二人は 相手との関係を修復できる方向に向かうことはないのである。平川と竹島は さらに、アミールについては、エミリーと離婚した後、真にイスラーム性に 目覚め新しい道を進む可能性を読み取っており(平川 ₇₃、竹島 ₂₄₈、₂₀₁₆)、
その解釈には賛同できる。しかし、これらの論考ではエミリーについては、
アミールを陥れたアメリカ社会の象徴のように解釈されているにとどまり、
芸術家として、特にエミリーをめぐる女性問題については論じられていな い。本稿ではあえてエミリーについてのそれらの点に着目し、結末後のエミ リーには展望を予見することができないこと、およびその複数のねじれた要 因について論じ、The Whoのザリーナについて想像できる展望と対比させた。
一方、ザリーナとイーライは、宗教についての講演会で出会い内面的問題 を共有し、交際の初期段階から互いに生い立ちや思いをさらけ出し合い、イ スラームについての見解の相違をめぐって激しくぶつかり合いもする。しか しそれは、破綻に直結するかのように見えつつも、決裂を覚悟の上でのぶつ かり合いは、その激しさゆえに、やがて対話の様相を呈していく。結婚後も 二人の間のこのプロセスは繰り返される。イーライは、ザリーナを単なる異 国趣味の対象としては見ていないように見受けられる。そうでなければ、こ れほどまでにイスラームの因習上の女性像から逸脱した女性と歩んでいこう とはしないであろう。またザリーナも、イーライが白人であることから利益 を得ようとしているのではないと思われる。利得の観点ではザリーナの行動 は生活上のマイナスさえ招いている。二人がお互いを生活上の得や平穏の手 段として見るならば、あえて快適とはほど遠いぶつかり合いを繰り返すこと もないであろう。劇結末では、頑迷さが笑いを誘いアメリカンドリームの成 功をきわめたかに見える父アフザルさえも、金銭面での縮小を受け入れてで
も娘たちの偽らざる内面と向き合いつつある。ザリーナの小説がアトランタ のムスリムのコミュニティーから弾劾され、アフザルはタクシー会社を手離 さざるを得ない状況に追い込まれたのであった(₈₆,₈₈)。これらの点にも 見られるように、ザリーナの茨の道をいとわない行動と創造行為が、新しい ムスリムの在り方を切り開きつつあると予見できる。
二 劇 作 における 全 ての 登 場 人 物 はそれぞれにとってのThe WhoとThe What₁₂──社会に向けて外面上見せる姿と偽らざる自己の内面──の間で揺 れ続ける。エミリーは芸術性を追求しようとする過程において、白人であり 女性であり美しいという外面的な要素を自ら武器にし、夫も含め周囲や社会 もそれを利用しようする。それらを利用することにより得られる利益を享受 し受け身的に生きてきた結果、内なる自己がきわめたいと願い求めていた芸 術の道に行き詰まる。ザリーナは典型的なイスラームの女性像として求めら れる在り方に反発し、自己の内面を率直に表現し生きようとするが、周囲が それを受け入れるまでの道のりは平らかではない。しかしザリーナの模索が 周囲を刺激し、それがきっかけとなって妹、父親、婚約者もそれぞれの外面 上の在り方を超え、それぞれの精神的内面と向き合っていくようになり、や がてその連鎖は社会的意味をも獲得していくのである。
註
※ 本稿は₂₀₁₆-₂₀₁₈年度日本学術振興会科学研究費(挑戦的萌芽研究)「合衆国東海岸 都市部におけるイスラム系移民の文学・文化活動」(課題番号:₁₆K₁₃₂₀₆)および
₂₀₁₆年度恵泉女学園大学研究所研究費「ポストコロニアル文学研究(中東・ジェン ダー・多言語状況)」(課題番号:₀₀₁₆₂₁₉₈₇)による研究成果の一部であり、₂₀₁₅年
₁₁月₁₄日に開催された英米文化学会第₁₄₈回例会(於法政大学)での発表原稿に加 筆修正を施したものである。現地アラビア語風のカタカナ表記は「イスラーム」で あるが、日本では「イスラム」と表記されることが多く上記科学研究費申請時には 上記の表題で提出した。
₁ パキスタン系アメリカン二世の小説家、劇作家、映画の脚本家、俳優であるア ヤード・アクタールは、₁₉₇₀ 年、ニューヨーク、スタテンアイランドに 生 まれ、
その後、中西部ウィスコンシンで育った(Lasky ₃-₄ )。
₂ ただし、Current Biographyの中では、創作上の結実と出自の文化的背景を受け入
れたこと両側面の関係性については、「偶然そうなった」"coincieded"という表現 にとどめている ( ₃ )。
₃ このフレーズがそのままインタビューのタイトル"Shattering the Audience"とし て掲げられている。
₄ Disgracedは日本ではまだ翻訳は出版されていないが、竹島論文では原作からの引 用は竹島による日本語訳が使われており、題名についても『恥辱』という訳語を 使っている。₂₀₁₆年 ₉ 月から₁₀月の日本での公演では小田島恒志・小田島則子の 翻 訳 による 台 本 が 使 われ、タイトルについては『ディスグレイスト』または DISGRACEDと表記され、当公演プログラムでは小田島は『ディスグレイスト─
─恥辱』と表記している。
₅ 平川はイスラモフォビアについて「イスラム恐怖症」と記している。竹島はイス ラムフォービアと表記している。小田島は「イスラム恐怖症」と合わせて「イス ラム嫌い」という訳語も使っている。イスラモフォビアは竹島論にもあるように ムスリム系の人々を短絡的にテロリストと見なす偏見のことである(₂₄₉⊖₂₅₀、
₂₅₂)。空港で不必要に執拗に取り調べられるという事例についてはDisgracedでも 言及されている(₄₉⊖₅₀)。さらにテロリストと疑われ常時さまざまな手口で監視 される、根拠もなく突然逮捕され取調べを受ける、就職差別がある、アラブ系の 外見であるというだけで暴行される、最悪の場合は殺害される等々、被害やヘイ ト・クライムの実例は枚挙にいとまがない。イスラモフォビアの具体例があげら れている 文 献 は 多 数 あるが、バユミ(Bayoumi)、カーティス(Curtis)、ハサン
(Hasan)による著書をあげることができる。またこれらについて中村は、Council on American-Islamic Relations(CAIR)のホームページおよび報告書やバユミの発 言に言及している。
₆ イスラームの教典は現地音アラビア語風にカタカナ表記するならば「クルアー ン」である。「コーラン」は 欧 米 の 読 み 方 である。英 語 表 記 はQuranであり DisgracedでもThe WhoでもQuranと表記されている。しかし竹島は「コーラン」と いう表記を使っているので、竹島論からの引用については、こちらの表記を使っ た。
₇ ユースフ・アリ(Abdullah Yusuf Ali)の英語対訳付きクルアーンの、第四スーラ 該当部分の注₅₄₇を参照のこと。
₈ ブラッドストリート(Anne Bradstreet)は₁₆₅₀年に"Prologue"において、女性が 縫物のための針ではなくペンを執ることについて謳った。
₉ ウルフ(Virginia Woolf)が₁₉₂₈年の講演とそれに基づいた₁₉₂₉年の評論"A Room of Oneʼs Own"において女性にとっての執筆に集中できる自分の部屋や教育の必 要性を論じたことは、古典的な主張と位置付けられている。
₁₀ 平川はアミールにとっての弁護士としての「エリート職」と「白人の妻」を世界 貿易センターツインタワーになぞらえ、アミールがこの二つを失うことを自爆テ ロに喩えている(₆₆)。
₁₁ ₁₈₇₉年にイプセン(Henrik Ibsen)が女性のレジスタンスと自立をテーマにし発表 した戯曲『人形の家』は古典となっている。
₁₂ アクタールは、またThe Whoの出演者らは、各々が演じる登場人物、ザリーナ、
マウイッシュ、アフザル、イーライについて、登場人物らはそれぞれが自分たち のThe Whatを超えてThe Whoを追求しようとしていると、YouTubeに収録されてい る対話において述べている。
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ジウム:₂₁世紀からみるアメリカ演劇の₁₀₀年──エスニシティー・家族・社会 の変遷 ₂₀₁₆年度 ₆ 月例会 日本アメリカ文学会東京支部 ₂₀₁₆年 ₆ 月₂₅日 中村理香 「『政治言説』としての小説テクスト──ジョイ・コガワ,Obasanにおけ
るアクティヴィズム・文 学・国 家──」『アメリカ 研 究』 ₂₀₀₄ 巻₃₈ 号 ₂₀₀₄ pp. ₂₁₉⊖₂₃₆
平 川 和 「クローゼットの 中 のジハード 戦 士──『ディスグレイスド』に 見 る 九・
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