• 検索結果がありません。

ケアの場に求められる宗教性とは何か?

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ケアの場に求められる宗教性とは何か?"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ケアの場に求められる宗教性とは何か?

高 橋   原

はじめに

今日、宗教者が「心のケア」の役割を担うという考え方は、さほどの違和 感なく受け入れられていると思われ、メディアなどでも「宗教者による心の ケア」といった表現がごく当たり前に使われているように見受けられる1) 医療や福祉の現場、あるいは被災地などで、多くの宗教者が「傾聴」などの 実践活動に関っていることはよく知られており、そのような実践者である

「臨床宗教師」の養成も 2012 年以来、各地で始まっている2)。しかし実際の ところ、彼らが提供している「ケア」とは具体的にどのようなものであり、

それはどのようなニーズに応えるものなのかというと、それは必ずしも自明 ではない。以下では、臨床宗教師と呼ばれる人々による実践を念頭に、ケア の現場で求められている宗教性とは何なのかを考えたい。

1.「心のケア」の概念と宗教者の役割

東日本大震災の被災地をまわる傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」を運 営してきた宮城県栗原市の曹洞宗通大寺住職・金田諦応は、東北大学実践宗 教学寄附講座主催の臨床宗教師研修の指導者でもあり、また自ら臨床宗教師 を名乗ってもいる。金田はインタビュー記事の中で、「臨床宗教師とはどん な人なのか」という問いに次のように答えている。

「災害の避難所や病院、福祉施設などの公共空間で、人々の苦悩や悲嘆 に向き合い、可能な限り宗教的ケアを施す宗教者です。宗教的ケアの定 義は難しいですが、宗教者としての体験、祈りや儀式を通して心のケア をするということです。最も大切なのが『傾聴』です。3)

(2)

これは新聞記者がまとめた言葉であろうが、含蓄に富んでいる。しばしば 誤解されるのであるが、臨床宗教師の役割とは臨床宗心理学を学んで心理カ ウンセリングの真似事をするということではないという趣旨の理解が重要で ある。「宗教的ケア」、すなわち、あくまで宗教者として振る舞うことで「心 のケア」をするのだという指摘である。この意を汲んでもう少し踏み込むな らば、宗教者として振る舞うこと、さらには、宗教者として存在することそ れ自体が心のケアに「なる」と表現してもよいだろう。

そもそも「心のケア」とは何か。精神科医の中井久夫は、これは 1995 年 の阪神・淡路大震災がもたらした新しい概念であると論じている。実際に は、新聞記事データベースを検索するとこの言葉は 1985 年頃から用いられ ていることがわかるが、中井にしたがえば、「心のケア」とは、震災に関連 して生じた「心的外傷に対するケア」を言うときに、現状維持や向上を意味 する「精神保健」あるいは「メンタル・ヘルス」という概念ではぴったり該 当しない、その空白を補うために出てきたものである(中井は「こころ」と 平仮名で表記するが本稿では「心」に統一する)4)。阪神・淡路大震災は全 国にテレビ中継され、日本人のあいだに共同体感情を覚醒させ、1995 年は

「ボランティア元年」となった。その結果、「心のケア」のあり方はその重要 な担い手であるボランティアの性質を多分に受け継ぐものとなった。中井の 指摘をいくつか拾い上げると、個々のボランティアの自発的行動に公的支援 が与えられるという形、フットワークの軽さ、医師や精神保健専門家の持つ 専門性だけではできないこと、多職種からなる混合集団によること、男性と 女性の協同作業であること、などがその特徴としてあげられる5)

このようなものとしての「心のケア」が、2011 年の東日本大震災の被災 地支援においても受け継がれたことは指摘するまでもないだろう。そして、

宗教者や宗教団体がいわば素性を隠してひっそりと支援活動を行なった前の 大震災の時とは異なり、このたびは、宗教者が堂々と連携し、長期にわたっ て被災者に寄り添い、心のケアに寄与しようという意志を内外に示すように なり、これが人々の現代宗教に対する視線をポジティヴなものに変化させた と言われる(三木英『宗教と震災―阪神・淡路、東日本のそれから』森話 社、25-54 頁)。

試みに新聞記事のデータベースを「宗教」「心のケア」という二つの語句

(3)

で検索してみると、東日本大震災以後にヒット数が顕著に増加することがわ かるが、二つの震災を経た今日、「宗教者が心のケアを行なう」という表現 はさほどの違和感なく受け入れられるようになったと言ってよいだろう。す なわち、宗教者も心のケアの担い手となり得るというコンセンサスが育って きたということであり、また逆に、宗教者も担い得るものとして、心のケア 概念自体も狭い専門領域から解放され、変容してきたと言えるのではないだ ろうか。

東日本大震災語に兵庫県こころのケアセンターが翻訳して公開した『サイ コロジカル・ファーストエイド 実施の手引き』6)には、「悲嘆と信仰の問題」

という項目が設けられている。そこには、「遺族の宗教的ニーズに対応する ために、現場の災害対応チームに参加している宗教者の活動や、被災者を紹 介できる地域の宗教団体への連絡方法を把握しておいてください。多くの人 は、宗教的な観念や儀式に助けられて、大切な人の死を乗り越えていきま す。」と明記されている(20 頁)。この手引きは、アメリカ国立 PTSD セン ターとアメリカ国立子どもトラウマティックストレス・ネットワークが開発 したものであり、宗教団体によるボランティア活動や災害時の支援者として のチャプレンの存在がよく知られているアメリカ社会の状況を念頭に置いた ものであると考えられるが、今後、日本でも同様の認識が広がっていく可能 性が考えられる。

一方、日本の医療の領域にも宗教者が現場に必要であると主張した人物の 一人に、岡部健がいる。岡部は、自宅での看取りを支える在宅緩和ケアを定 着させた医師の一人であるが、自らも癌を患う中で、宗教や死生観について 語り、暗闇に降りていく道しるべを示すことのできる専門家、すなわち人が 死に向かい合う現場に医療者とチームを組んで入ることができる、日本人の 宗教性にふさわしい日本型チャプレンのような宗教者が必要だということを 持論としていた。岡部は、被災地支援の現場で感じたこととして、次のよう に述べている。

「被災地に行きますと、被災した人たちは医者である私なんかより、一 緒にいる若い頭を丸めたお坊さんの方に行っちゃいますからね。何より も横で一緒に話を聞いておりますと、医療職やなんかに話す内容とぜん ぜん違うんですよ。……おそらくもっと奥深いところの訴えを宗教者の

(4)

方に投げかけているんだなと、実感させていただきました。」(『看取り 先生の遺言』文藝春秋、2013 年、203 頁以下)

すなわち、苦しみを抱えた人々が「もっと奥深いところの訴え」を投げ掛け る相手として、宗教者の存在が必要なのだということである。がん哲学外来 を提唱している医師の樋野興夫が述べている次のような言葉も想起される。

「人は、尊厳に触れる深い場所まで潜ってそれを汲みあげないと、心が落ち 着かないようになっている。これが、私なりの対話を続けてきたうえでの実 感です。傾聴だけではすき間は埋まりません。」(樋野興夫『がん哲学外来へ ようこそ』新潮新書、2016 年、44-45 頁)

樋野の言う「尊厳に触れる深い場所」に触れることができるのが、宗教者 というものなのではないか、というのが岡部の提言であると考えられる。な お、ここでの「傾聴」という言葉は、上述の金田諦応よりも、限定的なもの として用いられており、「単なる傾聴」とでも言い換えておくのが適切であ ると考えられる。

次に示す図1は、さまざまなケア従事者が死に直面する人にどのように向 き合っているのかを示すイラストである7)。ケアの現場における宗教者の役 割を考える際に有意義なので紹介する。左上の医師は、白衣を身につけ、医 療器具を揃え、看護師を従えて患者に向かい合っている。すなわち、患者 は、現代の医学の水準、医療制度といったものを信頼して治療を受けている のである。右上の牧師は聖職者の服装を身につけ、教会や聖書の権威を背景 に、患者の話を聴くとともに、教えを説き、儀式を施すことができる。左下 の図は、治療や宗教的儀式の手立てを持たない心理カウンセラーの立場を示 している。この場合にできることは、ただ経験を頼りに話を聴き、助言する のに適切な言葉を探すことだけである。ただ実際には、臨床心理士などの職 種を想定するならば、患者はその資格や臨床心理学の有効性を信頼している と考えられ、カウンセラー側も、自らの身につけてきた心理学的知識を動員 して適切な助言を行なおうとする。右下の図は、利用することのできるあら ゆる資源がない状況でケア提供者と対象者が向き合うという場面である。こ こでは、お互いになんの権威も介さず、生身と生身、魂と魂で触れ合うこと しかできない。これがホスピスにおけるケアの場で生じていることであると いうのが、著者の言わんとすることであろう。

(5)

さて、宗教者あるいは臨床宗教師が行なうケアというのは、右上、右下の 図で現わされるような関係の中で生じるものである。右下の図が示すのは、

ひたすら相手に真摯に寄り添う態度であり、そこで行われるのはスピリチュ アルケアであると言ってよい。スピリチュアルケアとは、宗教者の側の価値 観や信仰に基づいて行なうものではなく、対象者の持つそれらをともに支え るアプローチであると定義しておくが、したがってそれは宗教者の専売特許 ではなく、看護師等、他の専門職や、家族、友人が寄り添うことももちろん スピリチュアルケアとなり得る。しかし、宗教者がこれを行う場合には、相 手の苦しみから逃げることなく向き合うことを可能たらしめる、宗教ならで はの意識、あるいは信仰がその背後に働いているのではないだろうか。

たとえば、ケアの現場に関わるある天理教信者の女性は次のように語って いる。

「祈る事と言葉こそ、宗教家の財産であるということは、わかっていま すが、もう1つ、現場で新しい感覚に襲われました。この身体は、神の 身体の一部を貸して頂いている、借りていると教えられます。であるな らば、神様の身体の一部を借りたこの身体を、何かに、誰かに投じると いうのは、これは、本質のところで神の人類に対する思い、祈りであ

図1

(6)

る、この身体には、神の人類に対する祈りが刻印されているんだ、陽気 暮らしという祈り、人間はたすけあいをするように作ったのだという祈 りが刻印された体を、たすけあいの活動に投じることは、言葉以上の祈 りなのかとも思いました。」(私家文集より)

他にも、ケアに関わる宗教者の言葉として、「(たとえ言葉に出さずとも)

あなたは神様に愛されていますよ、という視点で相手に接しています。」と いうプロテスタントの牧師の言葉や、「相手の中に仏性を見て、それを拝ま せていただく」という仏教僧侶の言葉も聞いたことがある。すなわち、宗教 者であるということは、たとえ組織の権威に頼らず、教えを説くことなしに 裸と裸で相手に向きあうときであっても、その姿勢を信仰が支えているとい うことが言える。

また逆に、宗教的コスチュームを身につけて儀礼を執行したとしても、そ れだけで宗教性を発揮したと錯覚してもらっては困るという批判もある。曹 洞宗僧侶の太田宏人は、医療者や介護職の求めに応じて、必然性を欠いたま ま宗教行為を営んでも、それは「もはやケアでもなんでもなく、単なるパ フォーマンス、コスプレである」と断ずる。ケアをする者から滲み出る「な にか」があり、現場に出る宗教者(臨床宗教師)が磨くべきものはその「な にか」(「宗教性」「宗教者としての心構え」)であろうと問いかけている8)

ところで、上のイラストにはもうひとつ味わい深いところがある、原著で の言及がないことから、あるいは意図されていないのかも知れないが、右上 の図では、患者の女性が上半身だけ裸で描かれている。これは、人は宗教者 の前では一枚上衣を脱ぐということ、すなわち、宗教者に対しては建前を捨 てて、本音を話すことができるという関係性を象徴していると考えられない だろうか。実は、日本の刑法では、医師や弁護士などとともに、「宗教、祈 祷若しくは祭祀の職にある者、又はこれらの職にあった者」に対しても守秘 義務が課せられており、「その業務上取り扱ったことについて知り得た人の 秘密を漏らしたときは、6 月以下の懲役又は 10 万円以下の罰金に処する。」

と規定されている(刑法 134 条第 2 項)。法律上の規定は必ずしも一般に知 られていないであろうが、宗教者というのは、どんな秘密を話してもそれを 胸にとどめて聴いてくれる相手であるべきであるという共通認識の存在が示 唆されているのである。

(7)

2. 医療現場の宗教者たち

東北大学実践宗教学寄附講座主催による臨床宗教師研修が開始されたのが 2012 年秋であったが、これ以降、新聞雑誌の他に、いくつかのテレビ番組 で医療現場における臨床宗教師の実践が紹介されてきた。テレビ映像は、活 字では表現されてこなかった宗教者と対象者の関係を端的に映し出すもので あるが、以下では、次に掲げる四つの番組を素材に、医療現場で求められる 宗教者によるケアとは何か、そしてそれがどのように伝えられてきたのか、

考察を試みたい。なお、登場するそれぞれの宗教者と筆者とは臨床宗教師研 修等を通じて面識があるので、放送では触れられていなかった情報も踏まえ て記述している。

⑴ テレ朝チャンネル2 ニュースの深層「僧侶が取り組む終末医療」

(2013 年 5 月 2 日)

⑵ NHK ETV特集「臨床宗教師~限られた命とともに」(2014 年 11 月 29 日)

⑶ TV東京 News アンサー「僧侶が走る!新たな医療」(2015 年 12 月 24 日)

⑷ NHK クローズアップ現代「“ 穏やかな死 ” を迎えたい~医療と宗 教 新たな試み~」(2016 年 8 月 25 日)

⑴ ニュースの深層「僧侶が取り組む終末医療」(2013 年 5 月 2 日)

この番組で取り上げられているのは、ビハーラ僧として病院に雇用されて いる森田敬史である。森田は東北大学の臨床宗教師研修のスーパーバイザー も務めている。番組では、キリスト教国ですでに定着しているホスピスと同 様の、看取りの施設という機能を、仏教国である日本にどのように根付かせ るのかという切り口から、1992 年から始まった新潟県の長岡西病院ビハー ラ病棟の試みが紹介された。

この病棟には仏堂が置かれ、朝夕に勤行と法話も行われ、各病室のモニ ターでそれを視聴することもできるようになっている。ワイシャツネクタイ の上に作務衣風の上着というのがビハーラ僧の制服である。要するに、明確

(8)

に仏教色を出した施設において、宗教者としての立場を明示して活動するの がビハーラ僧である。

とはいえ、森田は融通念仏宗の僧侶ではあるが、スピリチュアルケアの訓 練を受けており、患者と接する際には仏教僧侶としてではなく、むしろ、他 の専門職の業務の隙間に入り、時には配膳の手伝いもする病院スタッフの一 人として振る舞っていることが強調される。森田がモットーとするのは田宮 仁の説く「仏教者屑篭論」である。屑篭とはもやもやとした心のゴミを捨て る場所であり、常に部屋の片隅に置かれている存在である。しかし、時に屑 篭の方から近づいていくことがあると森田は語る。その居室訪問のタイミン グを見極めるためにも、日頃から患者との関係性を築いていくことが重要だ とする。しかしそれは仏教者としてではなく、一個人として向かい合ってい くというスピリチュアルケアの姿勢であることが確認される。そして、主体 はあくまで患者、家族であり、問題を整理するのがビハーラ僧の役割であ る。映像に映し出されるのは、病室のベッドに座る患者に向かい合い、元気 だった頃の思い出談義に相槌を打つ森田の姿である。森田は言う。「最後の 時間をご自身で決めていこうとされるような向きに変わって行く、それを尊 重したい。」

番組の末尾で、キャスターの高橋美佐子(『週刊朝日』副編集長)は、ビ ハーラ僧の役割を、生から死へと続く直線の案内人であると特徴づけ、それ が、形骸化した葬式仏教が批判される一方で、日本人が伝統的に支えてきた 不可欠な役割なのではないかと締めくくった。

⑵ ETV特集「臨床宗教師~限られた命とともに」(2014 年 11 月 29 日)

在宅緩和ケアを提供する爽秋会岡部医院で臨床宗教師として働く曹洞宗僧 侶高橋悦堂の活動を記録したこの番組は、「臨床宗教師」が世の注目を集め はじめるようになった 2013 年春から一年半あまりの時間をかけて制作され たものである。

高橋は岡部健医師の看取りに関わって以来、交通費等の経費以外は支給さ れないボランティアとして岡部医院に関わっており、臨床宗教師と話してみ たいという患者のニーズを把握した医療スタッフからの依頼を受けて、患者 の自宅を訪問する。剃髪はしているものの、袈裟、作務衣等、宗教者である ことを示す服装は身につけず、どこにでもいる 30 代の青年として、地元の

(9)

言葉で患者と対話する姿が映し出されている。

高橋は宗教者として相手に救いをもたらすメッセージを語るのではなく、

ただ、患者が生涯の出来事を振り返り、言葉にする作業の相手をつとめてい る。なんらかの解答を指し示すのではなく、ともに考える姿勢が強調されて いる。たとえば、ある末期がんの男性患者との対話において、生まれ変わり が話題になっても、仏教的な輪廻や縁起について語ることはしない。ひたす ら相手の思いを受け止める役割に徹しているように見える。神経性難病のた めに全身不随の生活を続けている 40 代の男性患者に対して、「自分のいの ちって誰のものなのか」という問いを自分から発するシーンもあるが、そこ でも「不思議なことに世の中には自分以上に自分のことを考えていてくれる 人がいたりするんですよね」という感慨が述べられはするが、宗教的観念と 結びつけられることはない。高橋はこのような対話の中で湧き上がってくる 感情を言葉にすることができないもどかしさを語っているが、その患者自身 のものでもあるもどかしさを共有するのが臨床宗教師の役割であるというこ とがうかがわれる。

一方で、仏教僧侶としての知識が活用されている場面もある。70 代の末 期がん患者の男性から、授かった生前戒名の中にある「勝」の字の解釈につ いて質問された時には、それは「勝ち負け」ではなく、「勝れている」とい う意味と考えるべきではないかと答えている。これは菩提寺の住職に代わ り、一定の宗教的権威をもって患者の疑問を解消したエピソードとなってい る。また、亡くなった後の枕経を生きているうちに体験してみたいという同 じ患者からの要望に応じて、ベッドサイドで修証義を唱え、「(死ぬのが)楽 しみですよ」という言葉を引き出している。もっとも、だからこの患者は死 を従容として受け入れるようになったという単純なことではない。患者の心 は死の受容と拒否の間を揺れており、それに付きあえるから宗教者が必要な のだという担当医師のコメントが添えられている。

このドキュメンタリーでは、在宅という場で、医療スタッフとは別のとこ ろで、患者の気の済むまで(ただし相手を疲れさせない程度に)時間をかけ て向き合うことができるのが宗教者であるということが印象づけられる。

⑶ TV東京 News アンサー「僧侶が走る!新たな医療」(2015 年 12 月 24 日)

この番組は、臨床宗教師育成が開始されてから三年が経過した時点の放送

(10)

である。東北大学に続き、龍谷大学実践真宗学研究科も 2014 年に臨床宗教 師研修を開始し「臨床宗教師」という名称の認知が徐々に高まっていった 時期である。九州、大阪などで臨床宗教師による傾聴カフェ(カフェ・デ・

モンク)が開催され、2015 年には新聞等のメディアで臨床宗教師について 100 回以上の報道があった。

舞台となっているのは、岐阜県大垣市の沼口医院で働く田中至道(浄土真 宗本願寺派僧侶)である。田中は 20 代と若いが、臨床宗教師という肩書き で医療機関に雇用されたもっとも早いケースの一つとなっている。沼口医院 では、2015 年 11 月に臨床宗教師が常駐するメディカルシェアハウスアミ ターバを開設した9)

田中はスーツにワイシャツ姿で在宅患者の自宅を訪問する。「終末期の患 者や、病気で家族を失った人などの心のケア」が田中の仕事であると紹介さ れる。番組の中で特に印象に残るシーンが、田中が 80 代の女性患者ととも に、すでに亡くなっている彼女の夫と息子のために仏壇に向かい南無阿弥陀 仏を称える姿である。患者と相対して「傾聴」を行なうというのが臨床宗教 師のひとつのイメージであるが、ここでは二人が向かいあうのではなく同じ 方向(仏壇)を向いている。女性は、「お参りした後はもう何も思うことな し。仏と一緒にこうやってつながれておれば何とかなるだろう」と安堵の言 葉を漏らす。

僧服こそ身に着けていないが、これは真宗僧侶が同じ宗派の信仰を持つ対 象者に対して、宗教者として振る舞い、それがケアになっているという「宗 教的ケア」のあり方を典型 的に示している。キリスト 教の病院チャプレンが患者 とともに祈る姿と相通ずる ものであるが、お互いの持 つ宗教的背景という資源を 活用することができるとい うことが宗教者の持つアド バンテージである。なお、

田中は半年以上この患者の 自宅を訪問し、傾聴を重ね

(写真提供:沼口医院)

(11)

ており、患者が故人に対して抱いている思いをよく理解し、その中で築かれ てきた関係性の中で、仏壇へのお参りが行われている。

⑷ NHK クローズアップ現代「穏やかな死を迎えたい

—医療と宗教 新たな試み—」(2016 年 8 月 25 日)

この番組では、タイトルにあるように、多死社会においていかに人々を

「穏やかな死」に導くのかということがテーマとされている。沼口医院を舞 台に、やはり臨床宗教師である野々目月泉(真宗大谷派)が、死の不安を抱 える末期がんの 60 代女性をケアする様子が取り上げられた。二人が同年代 の女性同士ということが、関係のあり方に独特の趣を添えている。野々目 は、特別に信仰を持っているわけではないという患者の手を握り、抱きし め、彼女のために書いてきた手紙を読み聞かせる。光に包まれての旅立ちを 応援するそのメッセージは、患者自身が夢に見た、光と阿弥陀仏のイメージ に重ね合わされたものである。患者は繰り返し感謝の言葉を述べ、遺族によ れば「本当に眠るようにすーっと、潮が砂浜に吸い込まれるように」亡く なった。

野々目が読み聞かせた手紙のイメージは浄土信仰をうかがわせる仏教的な ものではあるが、特定の教えに基づいたものではない。タレントの壇蜜が

「少女たちが2人で思い出を分け合ってるように感じる」と評したようにス キンシップを絶やさずに語り合う姿勢も合わせて、やはり、死を前にした患 者に対して、医療スタッフではあり得ない役割を臨床宗教師が果たしている ことがよくわかる。

この番組の中で臨床宗教師の役割を説明する役割を担ったのが、医師であ り、真言宗僧侶でもある田中雅博である。田中は 2016 年 2 月に発足した日 本臨床宗教師会の顧問でもある。田中は語る。

「自分の人生において何が価値があるものなのか、気づかないで持って いる場合もあるし、それを気づいてもらう手助けをする。自分のいのち を超えた価値。そういうものがあったら、それがその人の宗教。……本 人が自分の話をしているうちに、自分の本質がわかってくる。そのため にそれを促すように傾聴する。そして、そこに本人が自分の人生に価値 を見いだす。ですから、医療現場に臨床宗教師がほしい。」

(12)

「その人の宗教」「自分の本質」という言葉は、日本人の信仰のあり方を意 識したスピリチュアルケアの理念を表現したものと言えるが、田中の言葉 は、それを見いだすための伴走者の役割を果たすには医療者では足りず、宗 教者こそが適任であるということを強調するのが特徴的である。

以上、四つのテレビ番組を素材に、医療現場における宗教者の役割を概観 した。第一に気付かされることは、医療行為を通して患者と関わる医師、看 護師などとは異なる立場からの「傾聴」の役割が宗教者に求められていると いうことである。傾聴は医療者や、その他の専門職にも担うことができる が、宗教者による傾聴の場合には、自ずと話題が人生や死の意味といったも のへと向かっていく。そして、それは単に相手に合わせて患者がその話題を 選んだということではなく、死を間近にした人間が切実な思いで向かってい かざるを得ない、樋野の言う「尊厳に触れる深い場所」に接するテーマであ る。宗教者がこのような傾聴に適しているというのは、知識としての宗教的 素養があるからではなく、神仏等への信仰を基礎とした宗教者としての心構 えが存在することが重要であろう。すなわち、それがスピリチュアルケアと 呼ばれる(特定宗教と結びつかない)接し方であるとしても、宗教者は信仰 や使命感に支えられることによって、相手から逃げずに向き合うことが可能 となっている。

第二に、儀礼的要素へのニーズも確かに存在しているということが指摘で きる。ビハーラ病棟での朝夕の勤行や法話も入院患者の心の平安に貢献して いるが、一対一での関わりの中では、まさに自分のためにそれが行われてい るという感覚が重要であると思われる。自分と亡くなった親族のために仏壇 に向かう宗教者の姿、今回は取り上げられなかったが、病床の患者のために ともに神に祈るキリスト教の病院チャプレンの姿などは、不安な心にとって 大きな力を与えるものであろう。言葉をかわすことは時にストレスにもなる が、宗教者として寄り添うときには、必ずしも言葉は要らない。

第三に、患者の側に必ずしもかたい信仰がないとしても、やはり宗教者の 帯びているある種の権威への信頼というものがあり、それを適切に利用でき るところに、宗教者によるケアのアドバンテージがある。上掲イラストの右 上の図に示されるように、宗教者に対しては上衣を脱いで、本音を委ねても

(13)

大丈夫だという信頼感が関係の底にある。そして、戒名の意味付けや、光に 包まれての旅立ちというメッセージなど、宗教者の口から発せられた言葉で あるからこそ、それを信頼に足るものとして受け入れることができるのであ る。

3. 地域からのまなざし

さて、以上のような宗教者の役割は今後、医療・福祉等のケアの現場に浸 透していくのだろうか。筆者は 2016 年に、大阪市にある、ともに仏教僧侶 が福祉の現場でケアに関わっている二つの施設を訪れた。一つは、宗教法人 西栄寺が運営する訪問介護サービス「お寺の介護はいにこぽん」、もう一つ は、NPO法人ビハーラ21が経営するグループホームである。

西栄寺は浄土真宗系の単立寺院であるが、社会福祉法人を立てるのではな く宗教法人として福祉事業に乗り出し、訪問介護事業に続いて、2016 年 12 月からはサービス付き高齢者向け住宅(いわゆるサ高住)「はいにこぽんの いえ」を開所した。住職自らヘルパー資格を取得するなど、僧侶みずから介 護の現場に出るという試みを続けている10)

筆者はポロシャツのユニホーム姿の「お坊さんヘルパー」吉田敬一に同行 して、訪問介護の様子を見学する機会を得た。吉田は東北大学での臨床宗教 師研修の第一期生でもあるが、これは「傾聴」のための訪問ではなく、ヘル パーとしての業務であるので、利用者宅では検温、血圧測定、おむつの交 換、着替え、歯磨きといったことが若い介護職員とともに次々と手際よく行 われていた。しかし、すぐにわかったのだが、業務の中で重要な一部を占め ていたのは、寝たきりで会話もままならないこの日の利用者を日頃介護して いる高齢の両親との会話であった。利用者の身の回りの世話の間中、そして それが一段落してから、日頃の苦労や思い出話などがひとしきり続き、ヘル パーたちはそれに耳を傾ける。この日の話題は、相手が宗教者であることと は必ずしも関係がないものであったが、やはり「傾聴」ということの軽くな い意味について考えさせられた。

ビハーラ21は 2004 年に超宗派の僧侶らによって立ち上げられた団体 で、現在は真宗大谷派僧侶である三浦紀夫がビハーラ僧として中心を担い、

「医療・介護・仏教のコラボ」というスローガンの下、グループホーム、訪

(14)

問介護等にさまざまな事業展開を見せている。筆者が見学したグループホー ムは、一階にホールと食堂と仏間があり、二階から上の居住空間は病院の個 室フロアまたは学生寮のようなたたずまいとなっている。三浦は入居者の生 活の様々な局面で世話を焼き、相談相手となっているが、入居者が逝去する ときには、看取りから葬儀の段取り、さらには遺骨の行き先にまでにまで目 を配っている。三浦によればこうした営みは「仏教を機軸としたスピリチュ アルケア」ということになる。

吉田と三浦への聴き取りの中で気付かされた共通点がある。それは、「ケ アマネさんの紹介で」利用者がやって来るということである。すなわち、利 用者は事業者が仏教系であることを好んで自ら選択してやって来るという ケースよりも、むしろ、地域のケアマネージャーに紹介されて来ることが多 いということである。もちろん、ケアマネージャーによる選定は自宅からの 距離や利用料などの条件に制約されるに違いないが、中には、「あそこはお 寺がやっているから断らずに引き受けてくれるだろう」と、厄介なケースが 回されてくる場合があるという。この断片的証言をもとに、これらの仏教系 施設が地域のいわばセーフティ・ネットになっていると評価するのは言いす ぎであるに違いないが、前項に書いたようなケアの現場における宗教者の役 割についてケアマネージャーのような人々がどのような認識を持っているの かが、こうした宗教系の施設やサービスのあり方に影響を与えるということ は言えるだろう。

もう一つ、お坊さんヘルパーやビハーラ僧が活躍しているとはいえ、現場 を支えているのは一般の介護職員である。彼らを雇用して、赤字を出さずに 事業を継続していけるのは、介護保険からの介護報酬があるからである。こ れらが宗教団体による慈善事業として成り立っているわけではないことを確 認しておく。しかし、西栄寺が決して高い収益が見込めるわけではない介護 事業にあえて参入していることや、スピリチュアルケアやグリーフケアの実 習生を積極的に受け入れているビハーラ21の活動などを考えると、宗教者 の側の公益性への意識を抜きにしてはこうした活動は語れない。ビハーラ2 1の介護事業所「あかんのん」のウェブサイトには次のように記されてい る。「あかんのんとは誰にでも分け隔てなく慈悲深い観音様のように現在未 来に渡りかかわりを持つことへの決意の表れであり訪問介護事業者としての 心構えとわたしたちは考えております」。このように、宗教という社会の一

(15)

セクションが「地域包括ケア」の網の目に加わることは、誰もがケアの受け 手であり、また同時に提供者もあるような新しい「ケアの文化」とでも言う べきものを育てていくことに貢献するのではないだろうか。

おわりに

ケアの現場における宗教者(臨床宗教師)の活動について、いくつかの例 を概観してきたが、今後このような役割は医療、福祉等の現場に定着してい くのだろうか。超高齢多死時代へと向かい、三人に一人が癌で(したがって ゆっくりと)死ぬと言われている日本社会において、病院で、在宅で、福祉 施設で、死を意識しながら最後の時を過ごす人々をどのように看取るかが大 きな課題となっていることは事実である。孤独を抱え、死の不安に直面する 人々に、「傾聴」による心のケアのニーズがあるということにはほぼ異論が ないであろう。たとえ配偶者や家族が身近にいたとしても、人生や死の意味 について語り合う相手としてふさわしいとは限らず、また、相手に負担をか けまいという思いから、些細なことであってもかえって本音で話すことがで きないということがある。話を聴くことが専門の誰かがいてくれるに越した ことはない。

だが、そのような心のケアを行なうのが宗教者である必要はあるのだろう か。看護師やヘルパー、または宗教者ではないグリーフケアやスピリチュア ルケアの専門家ではいけないのだろうか。真摯に耳を傾けてくれる人であれ ば、宗教者でなくとも傾聴の役目を果たすことはできるのではないだろう か。誰でもできるが、「宗教者でもできる(でなくてもできる)」役割である という一面は確かにある。

しかし、すでに亡くなった人がもう苦しんでおらず安らかにしているとい うメッセージや、生と死の意味について説得力をもって語ることは、まさに そのような知を蓄積してきた伝統の権威を代表している宗教者が得意とする 領域であることも確かである。また、言葉によらず、儀礼的な関わりによっ て心のケアを行なうことは宗教者の特権であろう。これらは、「宗教者だか らできる(宗教者にしかできない)」ことと言ってよい。言うまでもなく、

これが効果を発揮するかどうかは、宗教者に内在する資質であるというより は、ケア対象者が、宗教的世界観にどの程度コミットしているか、その権威

(16)

をどの程度信頼しているのかに大きく左右される。端的に言えば、それはケ ア対象者が宗教を信じているか、宗教者というものに敬意を抱いているかど うかにかかっている。したがって、多くの「無宗教」の人々にとって、心の ケアの担い手が宗教者であることに必然性はない。ただし、「無宗教」の内 実はさまざまで、漠然と神仏を大切にしているか、神社仏閣に親しみを持っ ているか、そういった感情をまったく持たないかによって差が出てくるだろ う。

個人としての宗教者が必ずしも心のケアに向いていないとしても、なお、

宗教者をケアの現場に駆り立てる力が存在する。それは、我々が東日本大震 災の被災者支援の現場において目の当たりにしてきたものである。全国各地 の宗教者たちが、ただ苦しみを抱える人々に寄り添いたい、困っている人が いたら支えたいという一心で、被災地に駆けつけ、現在でも粘り強く支援を 続けている。そこに見られる気概は、「共同体感情の覚醒」という言葉だけ では尽くせない。大震災は「宗教者の本能」に火をつけ、宗教者たちに自ら のアイデンティティや宗教の持ち得る公共性の問い直しを迫るものとなっ た。心のケアに取り組む宗教者には、「宗教者だからやる」という、このよ うなある種の使命感によって動かされている面がある。それがかえってあだ となってありがた迷惑をもたらすこともあり、ゆえに臨床宗教師の育成では 倫理面の教育が重視されるのだが、このような熱い思いを持っている宗教者 という資源がまだまだ有効活用されずに全国各地に眠っている。宗教者の側 の資質向上に関する課題はまだ山積していると思われるが、超高齢多死と言 われるこれからの時代を生きるためにケアという思想を中心に文化を築いて いくとするならば、その中で宗教者が担い得る役割は決して小さくない。

(17)

1) 谷山洋三『医療者と宗教者のためのスピリチュアルケア』中外医学社、2016 年。

2) 高橋原「宗教者による心のケアの課題と可能性―臨床宗教師養成の試み―」『宗務 時報』117、文化庁、2014 年、27-44 頁。

3) 「臨床宗教師という仕事 僧侶・臨床宗教師、金田諦應さん」朝日新聞、2015 年 4 月 22 日。

4) たとえば「心のケアとは、危機的出来事などに遭遇したために発生する心身の健康 に関する多様な問題を予防すること、あるいはその回復を援助する活動である。」

『震災後における子どものこころのケアのために』宮城県教育委員会、2013 年 2 月、

1 頁。

5) 中井久夫「「こころのケア」とは何か」『「伝える」ことと「伝わる」こと』(ちくま 学芸文庫)、2012 年、280-300 頁。

6) 兵庫県こころのケアセンター http://www.j-hits.org/psychological/index.html 7) Sheila Cassidy, Sharing the Darkness: The Spirituality of Caring, 1992, pp.

68-70.

8) 太田宏人「「臨床宗教師」の専門性とは何か」『仏教タイムス』2015 年 10 月 29 日。

9) 沼口諭『メディカルシェアハウスアミターバ開設への軌跡』医療法人徳養会、

2016 年。

10) 「はいにこぽんのいえ 臨床宗教師が駐在するサ高住が大阪に完成」『仏教タイムス』

2017 年 2 月 2 日。

(18)

What Kind of Religiosity is Necessary in Care Settings?

by Hara TAKAHASHI

In this article, I reviewed the expected role of religious professionals in care settings. Since the two disasters, the Great Hanshin Awaji Earthquake in 1995 and the Great East Japan Earthquake in 2011, more and more religious professionals (i.e. Buddhist monks, Christian pastors, etc.) have entered into clinical fields as care providers. This is partly because they were made aware of their calling to help the weak, and suffering people from these disasters.

The idea of religious professionals taking part in the field of kokoro no kea, or mental or spiritual care now seems to have become widely accepted in Japan. This trend is also conspicuous in the context of the rapidly increasing aging population in Japan where people have to face the problem of death and aging.

I examined four documentary TV programs featuring religious profes- sionals, most of whom are called rinsho-shukyoshi or interfaith chaplains, to see how they are carrying out their work in clinical settings. The first thing that is expected of them is keicho or active listening, a role that can be filled by another professional, such as nurse or counselor. However, in these cases religious professionals provide this, driven and supported by faith. They also have the advantage of being able to perform religious rituals and pray with some religious authority, which is their unique approach to offering spiritual care. Although Japanese people are often characterized as nonreligious, many of them have not lost their respect for religious traditions, which enables religious professionals to enter clinical fields such as that of a spiritual care provider. Thus, religion as a social institution and religious professionals as potential spiritual care providers, remain rich resources when cultivating a culture of care.

(Assoc. professor, The Department of Practical Religious Studies, Tohoku University)

参照

関連したドキュメント

[Mag3] , Painlev´ e-type differential equations for the recurrence coefficients of semi- classical orthogonal polynomials, J. Zaslavsky , Asymptotic expansions of ratios of

Taking as the connected component of the subgraph in the Baby Monster graph induced on the set of vertices fixed by an element of order 3 and in view of (1.5)(iv) one gets the

Kawabe (2008):SOURCE MODELING AND STRONG GROUND MOTION SIMULATION OF THE 2007 NIIGATAKEN CHUETSU-OKI EARTHQUAKE (Mj=6.8) IN JAPAN, The 14th World Conference on Earthquake

Fukushima Daiichi Unit 5 was restored and achieved cold shutdown by getting access to power from the emergency DG of Unit 6 and installing a temporary underwater pump to replace

It is found out that the Great East Japan Earthquake Fund emphasized on 1) caring for affected residents and enterprises staying in temporary places for long period, 2)

Alluvium Talus – Alluvial fan sediment Terrace sediment Sand rock (Tomioka layer) Sandy mudrock (Tomioka layer) Granodiorite Strata boundary Fault (dash line :

Ever since G O TO – Shinpei (1857–1929), Home Minister at the time of the Great Kanto Earthquake of 1923, adopted the term fukko – to describe recovery and reconstruction from