真
■諦 訳
の
摂
『大 乗 論 世 親 釈﹄
三
性 説について︵上︶
に お ける
石
1⊥8田
諦 静
+ptlng ︵Panc martha︐ 499−569︶は多くの唯識学の文献を翻訳したの
で あるが︑その中でも特に﹃摂大乗論﹄の思想を伝播することに心
を砕いたようである︒
無 著︵Asaihga︑誉ωΦ5−470︶の﹁摂大乗論﹄︵吋庁︒σq旭p︒ぎo﹈︺oピ切合切
p
a︐ MahEyana−sariigraha︶に対して︑世親︵<ρ巴σ§^夢F苦さ中べ80︶
が 注 ︵1︶ 釈 したのが﹃摂大乗論釈﹄ ︵Theg pa chen po bsdus pahi hgrel pa︐
] I
a
ha yana−saihgraha−bh a− $ya︶である︒ この﹁摂大乗論﹄とその﹁世
親 釈﹄には残念なことにサンスクリット本は現存していない︒しか
し︑チベット訳本が現存する︒漢訳本として︑﹃摂大乗論一=には仏陀
扇 多 訳・真諦訳・達摩笈多訳・玄奨訳の四訳が有り︑﹃世親釈﹄には
真諦訳・達摩笈多訳・玄奨訳の三訳が有る︒この内真諦訳だけが
真一揃訳の﹃摂大乗論世親釈二におけろ三性説について︵上︶ ︵岩田︶ 他の漢訳本より分量が非常に多くなっている︒その原因は本来の
「 世
親 釈﹄に真諦が訳場参晰者のために講義したものが合楳された
︵2︶ か らであると考えられる︒その講義には真諦白身の唯識学説が含ま れ ていることについてはすでにいくつかの論文が発表されている︒
それは彼の訳出に成る﹃転識論﹄﹃決定蔵論﹄﹃三無性論﹄などを観
ても理解することができるように︑その訳出態度は訳出と同時にそ
こに自己の学説を発表していることからも伺える︒﹃世親釈﹄におい
て も同じような訳出態度であったと推定しても少しもおかしいこと
はなく︑むしろ事実であったと見た方が妥当のようである︒
このように考えられることから︑真諦訳の﹃世親釈﹄を読むにあ
たっては︑無著及び世親の唯識説と︑訳者真諦の唯識説とを明瞭に
判 別 区
別 して理解する必要がある︒この目的のために以下に三漢訳
本 とチベット訳本とを比較対照するという煩墳な作業をしばしば行
二五
法華£化研究︵第十三号︶
うことになろう︒
なお︑釈応知勝相品︵所知相章︶全体について︑真諦訳と他訳との
相違点については︑すでに他の論文で公表しているので︑本拙論で ︵3︶
は 三 性 説 に お ける真諦の唯識説の特徴を見ようと思うo
三 性 説 の 性 に 相当する言語として︑一三ρ£言︵相︶とsvabhaiva ︵性︶
が ?︶ 知 られている︒唯識の諸論書には tr21Nt二竺/ヴ爺三但︵111相︶を説く 文 献 と︑traya−sー︐ft bhax︐a︵三性︶を説く文献がある︒ 摂大乗論﹈に は この二型式の三性説が説かれているが︑世親の﹃唯識三十頚﹈に
はtraya−s. vabha♂︐pだけが説かれている︒このことは﹃摂大乗論﹂
と﹃唯識三十頒﹄との思想的展開の一端を示しているようである︒
摂
i大 乗 論﹄において︑三性説を説く章t/f jfieyE二①アp毒︵所知 相 章︶と称されている︐︒その章名が示すように﹇︹二z5言︵相︶を中心に お い ているように考えられる︒真諦訳は応知勝相品へさ︒▽え巴窃p9︶
を四章に区分している︒ その相章第一と差別章第二では ︷三︶︑竺
]
a k.¥a;pa︵三相説︶が説かれ︑分別章第三と顕了意依章第四ではご︒ロ・郎7
ジ.①三さく陪︵三性説︶が説かれている︒相章と差別章においては︑依
他性相が十一識と唯識無塵の説を中心に説かれている︒そこでは︑
分 別 性
相 と真実性相は非常に簡単に説かれるだけである︒それに対
して分別章と顕了意依章においては︑三性の体義︑三性の不1不異︑ 二六
依 他性成三性︑依他性における八警︑金蔵土の堤﹈などがそれぞれに 詳 細 に
説明される︒このように所知相章は三性説を説くにあたって
明確な相違がある︒それが声日匂こ三%p言とご3.9圭≦三三≦の
相違であるのかとも考えられる︒
漢訳とチベット訳の三相の名称をあげると次のようである︒初に
相 章・差別章について見よう︒
他 性 相 妄想分別相 成 就 相 ︵仏陀扇多訳︶
依
他性相 分別性相 真実性相︵真諦訳︶依
他川 分別相 成就相︵達摩笈多訳︶
依 他起相 遍計所執相 円成実相 ︵玄堤訳︶
g.shan .cr.yi dbai! gi nitshan ihicl︐ paratantra−JakZai﹈a
kun brtags pabi intg. han fiid︐ ︶arikalpita−lakt;aiOa
yohs su grub pal.ii nitshan fiid︐ ︶arini.s﹈panna−Iaks.arpa
真諦訳だけは三鰍三pを﹁性相﹂と訳しているが︑他訳はすべて
r 相﹂と訳している︒チベット訳の︼三乙一已ココ三はlaksai﹈aに相
当するものである︒
次 に
分 別章・顕了意依章について見よう︒
依 他 性 妄想分別性 成 就 性 ︵仏陀扇多訳︶
依他性 分別性 真実性︵真諦訳︶
依
他性 分別性 成就性︵遠摩笈多訳︶
依 他起自性 遍計所執自性 円成実自性 ︵玄堤訳︶
gthan gyi dbah gi tho bo iiid︐ paratcintra−svabhafva
kun tu brt.ags. pabi rio bo fiid. parikalpita−svabhava
︶oihs. su grub ︶abi fio bo fiicl︐ ︶arini∠panno −sxabhiixa
玄奨訳だけはs. x︐abhax︐aを﹁自性﹂と訳しているが︑他訳はすべ
てr性﹂と訳している︒チベット訳の言一︶︵︶三二はs/a︶havaに ︵5︶
相 当するものである︒
『 解深密経﹄でtelll相説 ︵traya−laksarpa︶が説かれ︑﹃楡伽論﹄で は
三 相 説 と三性説︵traya−sぐabhava︶が説かれている︒それを継承し
て﹃摂大乗論﹄は三相説と三性説を同時に説いている︒これは無著
までは三相説と111性説が共存し同時に説明されていたことを示唆し
︵6︶ ている︒しかし︑世親は﹃中辺分別論﹄の注釈において︑三相説を ︵7︶
三 性 説 に よって︑次のように説明している︒
parikalpita−lak$arparii nitya.ni asad ity etat parikalpita−
svabhti.ve t.atvain aviparit︐atNii二
paratcantra−lak$ai﹈aiii sac. ca na ca tatvato bhrantatvad ity etat paratantra−f Nabhtrive tatvaii二
p︐arini$︶anna−Iakソa.i﹈ari﹈ .︐sad−asat−tatvata. cet﹀︑ etat parin−
ispanna−sぐabhaev tatvaM l ︵RFxliil ︵parikalpita−lal︷$arpa︶は常に無であると言う︑それは分 別 の−m:tp− ︵parikalpita−svabhava︶において無顛倒性の故に真実で
ある︒
真﹇.疏訳の﹃摂大乗論世視釈﹄におけろ三性説について︵上︶︵岩田︶
依 他相︵℃自①音日日ムp冨昌p︶は散乱性の故に有と無との真実で あると言う︑それは依他のn性︵paratantra−svaぴhava︶において
真実である︒
真実相︵parini$panna−lak$arpa︶は有と非有との真実であると言う︑
それは真実のs=SSi ︵parinispanna−svabhava︶において真実である︒
このように世親は三塩竺昌︵顕相︶を・・≦三三z但︵n性︶として説明
している︒一巴ちρ言が現表的な性質を意味するのに対して︑tvabhava
は 本 性 的 な性質を意味する言語であろうか︒世親は自著の﹃唯識三 十 頚﹄では三性説︵traya−svabha−va︶だけによって説いている︒そし
て︑世親以後は三相説では︐¥くlll性説がおもに説かれるにいたって
い
る︒「 摂
︵8︶ 大 乗論﹄の三相説は常に依他相から説かれる︒いまその順序
に 従って初に依他相について考察しょう︒
ノ
トヘ ソノ ト ニレル ノナリヲカスヤ真諦訳・摂大乗論
トクト ト ト ト ト ト ト 依他性相者︑本識為二種子﹁虚妄分別所レ摂諸識差別︒何者為ニ 差 別つ謂身識︑身者識︑受者識︑応受識︑正受識︑世識︑数識︑
ト ト ト トジリ
トトトトトトトトトキノハ 処 識︑言説識︑白他差別識︑善悪両道生死識︒
身
識 身 者 識 受 者 識 応 受 識 正 受
識 世識数識処識言説識︑如レ此等識
テ ノ ニ ジ
囚一三﹇説煎習種子一生︒
二七
法 華 文化研究︵第十三号︶
自他差別識︑囚二我見薫習種子i生︒
パ テ ノ ニ ノ
ハ テ ノ ニ ズ
善 悪 両 道 生 死 識︑因二有分薫習種Hl i生o
テ キ ノノ1I ノト ト トノ ー ヲス ト ガ
山二如レ此等識三切界・道・煩悩所摂依他性為レ相︑ 虚妄分別
チ ル スルコトヲ
即 得二顕現﹁
チ︑ヘット訳・摂大乗論
〔8言σ︒乙三σ・柵︑i dba.fi gi nitg. han flid gaih g. he na 1 .oaih kun
O三コ5∋る一︑方・二︶︒三拳ピ§・︑an ﹀.ah clag pa. nia yin pa
k
u
n rtogqpas bg. dug︐ ppbi rna.づ1 pal︐1︐ig pa言=
d
e ︶aii gaih fhe na1lus dai二霧・箋言h1za bapohi
1,
目∋℃p二︐貫H︶p合コ一︵言日ピ巴︐sP︸a︵;al bya bal︶i ﹈︐naヨ
Pa.1︐ 1ig ︶a da三・言言ぎひ︒・︐sl﹀︑odl︶a. 1︐1i r Il ︐ft Tll pal︐ rig pa
dai二︵言5ri IIlcalll I︶cll︐一︐養一︶貧〜三σ︒一︐p三kyii︐na.rll p︐11︐ rlg
▽ρ
言二﹀ul gyi i︐;∋言︐一︐貫言・三1 tha s. na・;︶﹀二11alll
p
a 二︐ig ︶a dai二σ︵言旨一三乙・・三5︑i b﹀︑e bi︑ag gi r︐n.lm pclr
g
ri pa daih ﹇ bde bgi︐︒・三き言・︐o dai二三︑hi bpho clath
g−kye babi︼−11a.lll 1︶alJ I︑貫る言=
d
e
la Izs daih lui c︑︐nn d.a th za bapo三一.二︹こづ零︼︐1︐ig pag
a
n
﹀︐﹇︷二︶ご三it ldes i!e bar sI︶﹀ac1 par b﹀︑pひal.li Inarll ︶p﹁r
ig
pa gafi ﹀.in pa ︵laih﹇ d︶ la. iざ一︶駕於三︑od pabi i︐nam
Pal︐・︑品℃①.夕︒︒・ご︑in pa daih I clut dai二空︐牡.旨・言三﹀︑ul dah
二 八
=ha sfiad kyi rnani par rig pa gah yin pa de ni ini!on
p a
r brjocl pahi bag cha gt kyi s. a bon Ias byuih babi phyii︐
r o
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g完︵雪﹂琶﹀︒コ逸.﹀i ︶ye brag gii︑Tlal﹈! I︶a﹈ 1ig I︶a g︐︐1 I/i
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三二︶ρ号三ピ旨σ︒ごこご︒吉二︶台・︑ha︐ gs k﹀i g. a. boi二9
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babi ︶hyir ro=
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e hgro daii thaii l︶gio dah bch=も︼﹈︵二六μコ三二︑らご・﹀.三
・、
。
駕i ︶a.r rig. pa gah yin pa de ni g.rid pahi ﹈ran lag g一
b
a
g chags kyi sa bon las b︸uii bahi ph﹀︑il︐ 1︐︵二
r
ゴ
。
己℃2言︼︶二色︼llclll! k﹀︐is/ khanis dati l.﹈σro ba dah s
kye gn.at ︵dafi kun nas. iLion in9言℃p︺三p巳︼加つえ言巳三
p
a
gqshan g︸・︑i dbaii gi int.shan i/ ic=二yi yaii dag ︶a nia yinPE kui二已⁝質一︶ρひ箕彗一︶ρソ︑ill ﹈1一二
その中で︑依他相︵℃2巴§☆ρ吉冨日ρ︶とは何かとは︑アー
ラヤ識の種子であ.る虚妄分別に摂せられる表識︵vijfiapti︶のこ
とである︒
それはまた何かとは︑ω身と②身者と③受者の表識とωそれ
に よる所受の表識であるものと㈲それを能受する表識であるも
の と⑥世の表識とω数の表識と⑧処の表識と⑨言説の表識であ
るものと⑩自他の差別の表識であるものと⑪善趣と悪趣と死と
生 の 表 識
で あるもの︑とである︒
その中で︑ω身と②身者と③受者との表識であると︑ωそれ
に よる所受の表識であると㈲それを能受する表識であると㈲世
( 時︶と⑦数と㈲処と⑨言説の表識であると︑それは︹ア−ラ
ヤ 識 の︺言説の薫習の種子から生ずるからである︒
00 自他の差別の表識である︑それは︹アーラヤ識の︺我見の
煎習の種子から生ずるからである︒
00
善 趣 と悪趣と死と生の表識であるそれは︹アーラヤ識の︺
有 分 の 薫習の種子から生ずるからである︒
これらの表識によって1切の︹三︺界︵△富εと︹五︺趣︵σQp連
と︹四︺生◎︒巳︶と ﹇雑染︺が摂せられるのが︑依他相の虚妄
分 別であると知らるべきである︒
玄 漿訳・摂大乗論
此 中︑何老依他起相︑謂阿頼耶識為二種子﹁虚妄分別所レ摂諸
識︒此復云何︑謂︑身︑身者︑受身識︑彼所受識︑彼能受識︑
世 識︑数識︑処識︑言説識︑自他差別識︑善趣悪趣死生識︒
此 中︑若身・身者・受者識︑彼所受識︑彼能受識︑世識︑数
識︑処識︑言説識︑此由二名言薫習種子﹁
若自他差別識︑此由二我見蕪習種子つ
若善趣悪趣死生識︑此由11︷支蕪習種子﹁由二此諸識﹁一切界
・
趣・雑染所レ摂︑依他起相虚妄分別︑皆得二顕現ゴ
真諦訳の﹁摂大乗論世親釈﹄におけろ三性説について︵上︶︵山五川︶
このところで真諦訳が本識と訳したものは︑他の三漢訳では阿頼
耶 識 で あり︑チベット訳でも︼らF三σ︒︒︒ご;pヨでp﹁云ノ︼邑︵巴p苫−
ぐ菅習ρ︶となっている︒これにより真諦訳も依他相とは﹁アーラヤ
識 を種子となし︑虚妄分別に摂せられる諸識の差別なり﹂というこ
とになる︒その諸識の差別とは十l識のことである︒十一識は次の
ように説かれている︒
ω 身 と②身者と㈲tiXi︿lff︳ lugL daih lus can daii za ba pobi rnam
par rig pa ︵deha−dehi−bhoktu−vijfiapti︶
ω ︵JtiXff cles iLie bar g.pyad par bya bahi rnani par rig pa
︵tadupabhukta−viji!a︶ti︶
㈲ 正 受 識 ^8言ロ.﹇杉︹・三︐○︵1 pahi i−11a111︶ar rig pa ︵tadup−
abhoktr−vijiicipti︶
θklsu︐ .︐ dus k﹀︐i rnani par rig pa ︵kala−xijiiapti︶
⑦rdpt. graris kyi rnani par rig pa ︵s.a. ipkhya−vijf﹈apti︶
⑧stff yul gyi rnani par rig pa ︵deSa−x︑ご旨三一︶
⑨ 言 説 識 こ5巴竺1 kyi rnam par rig 1︶a ︵N・︶︑ρvahara−siijnapti︶
㈹t!T.ieJmaasrd bdag daiit gshan gyi by︒ brag gi rnam par rig I︶a ︵s/︑2︶p日く70名ー二言ど︶ε
oo 善悪両道生死識 σ︵六言﹁o^言∨︼ざコご頒3︹言ゴ言三︸己o︵一p=
skye babi rn︐ftin par rig pa ︵sugati−clurf︐.iti−c︶︐ut﹀−三︶三︶p三−
ー︑三三一︶三
二九
法華文化研究︵第十一.ロゲ︶
この中で︑真諦訳は身識・身者識・受者識と訳されているが︑玄 堤 訳
が 身・身者・受者識と訳するが如く︑チベット訳も﹂⊆ソ合コ
]
u
s cun ︵tah za ba pob;nani par rig pa ︵deha−dehi−bhokt;−vijfiapti︶
と訳されていることから︑この三識は一グループのものであること
を示している︒︐Jの十一識は三種の種子説として説かれる︑第一身
識 より第九言説識までの九識は言説煎習種子︵名言薫習種子︑rni!on
p
a
r brjod pahi bagqchags kyi sa bon︐ abhilapa−vasana−bija︶に囚って 生じ︑第十自他差別識は我見屯 mXZ種N ︵bckgtu lta bahi bag chags
k
yi sa bon︐ atinadT$ti−vasanaL −bija︶に因って生じ︑第十一善悪両道生 死 識 は︷分薫習種子︵有支重習種th︑ srid pahi ︸︐an lagσqi bag chags
耳︷・︒但ご︒三ピゴ︒ぐ◎謡pム︑器昌苧ピ号︶に因って生ずると説かれる︒
それにより十1識は三種薫習種子に因って顕現したことがわかる︒
その言説薫習種子とは言説︵言語︶を媒介として思考した概念に依っ
て
重
習される種子である︒一それは善・悪︵不善︶・無記の三性の力に
よって頂習された種子が︑すべての現象︵一切諸法︶の直接の原囚
( 親
囚縁︶となることである︒これは善因により善果が︑悪囚により
悪 果 が︑無記囚により無記果が現行することを意味している︒それ
故に言説薫習種子は等流習気ともよばれ︑煎習66子の総称とされる︒
我 見 薫 習種子とは日我は実在するとなす我見︵我執︶に依って頂習さ れ る種.士である︒これは自我意識によって自己が他者と異なるとい
う考えの根本をさす考えである︒これも言説薫習に属するものであ 三〇 る︒右分屯習種子とは業種了ともいわれ︑異熟習気ともよばれる︒ それは誰∵悪の業に依って薫習される種子である︒それは三界六道
の
︵9︶ 苦 46竿を生ずる生死流転せしむる種子であるという︒この頂習も 言 説 兎 習 に 属するもので業種子を別出したものであ.る.
それらト1識は1切の三界・五趣︵六道︶・四生・雑染︵・・ρ叶≦色筋﹇〒
g
ati−yoni−samkleSa︶であると説かれるのである︒四生はチベット訳
だ けにある解釈である︒またチベット訳の論本には三漢訳にある雑
染の語が欠けている︒ただしチベット訳の釈論にぱ見られる︒
この十一識について﹃世親釈﹂には︑ω身識は眼等の五界を意味
し︑匂身者識は染汚識を意味し︑③受者識は意界を意味し︑ω応受
識 は 色 等 六
外 界を意味し︑㈲正受識は六識界を意味し︑㈹世識は生
死 相 続 不 断
識 を意味し︑⑦数識は一より阿僧舐の数識を意味し︑O
処
識 は器世界識を意味し︑㈲言説は見聞覚知識を意味する︒この第
一 身識から第九言説識は言説薫習差別を因とするものであり︑⑩白
他差別識は自他の依止の差別識にして我見勲習を閃とするものであ
り︑00善悪両道生死識は生死道の多種の差別識にして有分薫習を因 ︵9︶ とするものであると説いている︐
さらに論木では十1識を十八界に説明するが︑それに対する世81
︵︳︳︶ の 注釈はない︒しかし︑それについて真諦訳だけに次のような説明
が なされているので見てみよう
真諦訳・摂大乗論世親釈
論 日︒由il身識︑身者識︑受者識﹁応レ知摂二眼等六内界﹃以二
応 受識﹁応レ知摂二色等六外界﹁以二正受識﹁応レ知摂二眼等六識
ヘ ヨ ヘ へ も ゼ へ
界つ山二如レ此等識為レ木︑其余諸識是此識差別︑
釈 U︒此言︑欲レ顕二何義ゴ欲レ顕二真実性義↓若不三定明二一切 法唯有主識︑真実性則不レ得︐i顕E:S 7若不三具説二十﹈識﹁説ご俗.諦一 不レ尽︑若止レ説二前五識ハ唯得ご俗諦根本ぺ不レ得ll俗諦差別義ゴ 若説二俗諦一不レ遍︑真諦則不二明了?真不二明了1則遣レ俗不レ尽︒
是故︑具説二十一識べ通摂二俗諦一為下如二十八界一11六中有根塵識h
為レ不レ爾︒
この論本の訳でケン点をつけた﹁由︐1如レ此等識為p本﹂の訳文は真
諦が特に注解した説明であり︑十一識の前五識が根本であることを
明らかにしたものである︒この注釈の部分はまったく他訳にはなく︑
真諦訳だけにある説明で明らかに真諦の白説を明らかにしたもので
ある︒それは十一識全体を俗諦であると理解する︒それをさらに根
本義と差別義に区別している︒十1識はすでに見たように三種重川習
種 子
に よっても解釈されるが︑その場合︑第一識から第九識までを
一
グル ープとして説いている︒この十一識について︑一切諸法とし
ての十八界の区分方法と︑薫習種子における区分方法とがあること
を明らかにしている︒三界十八界に限れば前五識で一応の説明がで
きる︒しかし︑三種薫習種子説に立つと第一識から第九識までが言
説
点 習種子と称されることより︑十一識全体がその理解のために必
真疏訳の﹃摂大乗論世親釈﹄における︑︐︑性説について︵上︶︵岩田︶
要 となる︒それを図示すると次のようになる︒
識﹇謬蕊ジ一一竃
︑ω世識⁝:・⁝⁝・:⁝・:生死相続不断識ゴ ω 数 識 ⁝⁝⁝⁝⁝一より阿僧祇の数識
別倒処識⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝・⁝⁝器世界識﹇ 差 識 ⑨言説識⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・::見聞覚知識一
1
ω 自他差別識⁝⁝⁝⁝⁝⁝依止差別識 ︵12︶ ・O善悪両道生死識⁝生死趣種々差別識﹂
更に︑十一識について真諦の見解を見よう.
真諦訳・摂大乗論世親釈
論 日︒由︐I如レ此等識﹁
釈日︒ 一切界即三界十八界︒
有三二煩悩﹁即惑・業・果報︑ 界
八 ー俗諦根本義 十 つ 俗諦桧別義
一切界・道・煩悩所レ摂︒
一切道即六道︒於一一此界此道中﹁
此 三
亦 名二煩悩ゴ亦名為レ濁︒俗
諦 不レ出二此等法づ即以二前十一識一摂二此等法¶
チベット訳・椰︹大乗論世親釈
二 切 の 界と趣と生とを摂する﹂とは︑三界︵trildh輌tuka︶とそ
の中に在る五趣G昌8−gati︶−︐ J g IM ︵catur−yoni︶と雑su. ︵sathkleSa︶
一三
ノト︿
o dノ)
つ
o
摂 7 す る
L と は
、
L
れ
の
∫﹇性 m
口巨
P)1
♂
v.
法 華
文
化研 究
第
一
ト
,〔
i/
LY
の ことである︒
玄
呉 訳・摂大乗論世親釈
一 切界・趣・雑染所レ摂者︑謂堕・三界五趣雑染﹁是彼自性故名二 所 摂﹁
真諦訳のものは前半はチベット訳をはじめとする他の漢訳に相当
するが︑後半は解説されたもので︑真諦の白説であろう︒チベット
訳 などでは五趣であるものが︑真諦訳では六道となっている︒真諦
はその三界十八界六道の中には惑と業と果報との三煩悩があり︑そ
れ
は 俗諦のものであると解説している︒それを十!識・三種薫習種
子 とについて図示すると次のようになる︒
遵酬第九識織卵謙隔
我々の対象とする世界は木識アーラヤ識を所依として虚妄分別に
よって顕現されるSls ︵laksarpa︶であり︑それは識が識変異して十
一 識の諸識として表象される世界である︒それは三種煎習種子によ
る差別識として説かれる︒それを真諦は俗諦の根本義と差別義とし
て捉えている︒その世界は三界十八界六道であって︑惑・業・果報
の 三 煩 悩
か らなる世界であり︑俗諦であることを明らかにしている︒ 十1識の諸識として︑すなわちx︐ijThaptiとして顕現される世界とは 三二
全 体 としてそれはlak.vai︶a ︵相︶の世界ではないのではなかろうか︒
それは依他相が虚妄分別による世界と説かれることではないかと考
えられる︒
次 に︑真諦訳の﹁世親釈いにだけ見ることのできる変異・識変異
に つ ︵13︶ い て少しく考えよう︒
トヘ ヲント ニレしノ
真 諦訳・摂大乗論世親釈
㈹ 論 口︒依他性相者︑本識為二種子ハ虚妄分別所レ摂諸識差
﹂弓 刀
リテヘヘハ クひ らシテ ルニ ト ハ チ レ ノ ナリ
釈日︒由l︐1本識能変異 作二十一識﹁本識即是十一識種子︐十 一識既異故言二差別つ分別是識性︒識性何所分別︒分二別無一為レ i p¥11−Z︐1虚妄づ分別為レ因︑虚妄為レ果︐川二虚妄果得レ顕二分別囚﹁
Z﹇ 1此分別性﹁摂一二切諸識一皆尽︒
チ ベ
ッ
ト訳・摂大乗論及び世親釈
︹論︺ ︵一つ言力言z空.=lbaih gi mtsh﹇三コ三頒州三∫三︑nl二
gll1ニニ三コqshi rnam par ScLs 1∀p三竺一x三三コグah dag pti
m.ft ﹀.iii 1︶a kun rtog pas bs.du.spal.ii rnaTll I︶︷11ユg Psξ二
︹釈論︺ ﹀︑︐a li ctag pa m.1 ﹀︑三る言コ︷u 1togpas bsdu二三
h
s u
s bノa ba ni yaTi daσ pa n﹈a ﹀︑in pa kt三;二og pa言=
〔 論一 その中で︑:v;K=pt相 ︵paratantra−laksarpa︶とは何かとは︑
ア −ラヤ識の種子である虚妄分別に摂せられる表xe︳ ︵vijfiapti︶
の ことである.
〔 釈 論﹈ ﹁虚妄分別に摂せられる一とは虚妄分別のことである︒
笈 多訳・摂大乗論世親釈
論 日︒此中︑何者是依他相︑阿梨耶識為二種子﹁虚妄分別所レ 摂 諸
識.釈 日︒虚妄分別所レ摂者︑虚妄分別休性故︒
玄 奨訳・摂大乗論世親釈
論 日︒此中︑何者依他起相︑謂阿頼耶識為二種子ハ虚妄分別
所レ摂諸識︒
釈 日︒虚妄分別所レ摂諸識者︑謂此諸識虚妄分別以為二自性づ
㈲ 真
諦 訳・摂大乗論世親釈
論日︒本識識︑
ヘ ヘ ヘ ヤ
釈日︒一識謂一本識︒本識変異為二諸識一故言二識識﹃
◎
真諦訳・摂大乗論世親釈
論日︒仏世尊言︑弥勒︑与レ心不レ異︑何以故︑我説二唯有τ識︑
真諦訳の﹃摂大乗論世親釈﹄における三性説について︵上︶︵岩田︶
ヤ ヤ も も此 色 相境界︑識所二顕現﹃
釈 日︒︵中略︶如二経言﹁此色相境界︑議亦二鵬恥﹁実無二境界﹁
へ め ひ
是 識 変異所作︒先説舟識一後説二境界識づ
チベット訳・摂大乗諭及び世親釈
︹S$︺ 1IlaM ︶.11−Ses Pa三合二﹂qs 1︶cz r︶lanl pal rig一︶ρ拾o∋
gyis rab tu pliye b︐a can ﹀in no g.h︒s thas b. ad do=
︹釈論︺ ^品9itS PEi fies par l︶krel bahi mdo las kyath inam
る﹁ろψ廿ρ三合二σっ︒・一︶︒二5己一︶p﹁ユσ︒一︶ρ巨万pヨσqyis rab tu
言ピ・⑫98ココo切言抑旨・・言竺江〇三︒切鵬﹇三拾る︵8拾言
d
n︶igf pa rnarn par rig I︶a tsani gyis rab tu ︶hye ba can
dc︸ ni rnam par rig pa t:ani ftid d︵︶ldon gyis s.toi! pa shes
bya. bal.﹈i th︐a tshig g︹二
︹論︺ 識とは所縁がただ表識のみ︵唯識︶によって顕現され
るものであると我︵世尊︶は説くのである︒
︹釈論︺ 解深密経にも﹁識︵く菅昌ρ︶とは所縁︵巴但目ピρロロ︶が
ただ表識のrC ︵vijfiapti−matra︶によって顕現されるもの︵苫ρ︐
tib
hasa︐ prabhasa︶であると我︵世尊︶は説く﹂と説かれる︑それ
〔 解深密経︺によれば﹁所縁がただ表識のみによって顕現され
るものである﹂とはただ表識のみであること︵ぐ昔竜己−白巴田飼
唯 識 性︶ということであって︑対象︵pヰプP境︶が空︵ひ旨苫︶で
三三
法華文化研究︵第十三い万︶
あるという意味である︒
この㈹は︑依他相︵︸︶p日夢葺日−﹂p冨pロ㏄︶の定義を説く箇所であり︑
すでに考察したのであるが︑真諦訳の釈論にある﹁変異﹂の語は真
諦の唯識説を現わすところから再び考察の対象としたものである︒
働 の 真 諦 訳 の 釈 論 は︑チベット訳笈多訳・玄堤訳がよく一致する の に 対 して︑非常に相違している︒そこに説かれる﹁変異﹂及び﹁識
変異﹂の訳語は真諦訳の﹃世親釈﹄だけに見ることのできるもので
ある︑それについて筆者は︑すでに世親の﹃大乗唯識論﹄︵真諦訳︶
・
唯 『 識二十論﹂︵玄装訳︶・サンスクリット本﹃唯識二十論﹄︑さら
に 1一転識論﹄︵真諦訳︶・﹃成唯識論﹄中の﹁唯識三十頚﹂︵玄奨訳︶・
サ
ンス クリソト木一唯識三十.頒﹄などを比定して︑変異はI︶:1li﹈.121Mtl に 相当し︑識変異︵本識変異︶はー・ニコぼコ︹二三三牡一ξに相当するもの
と推定したところである︒働の﹁木識は能く変異して十1識と作る﹂
と倒の二識とは謂く一木識なり︒本識が変異して諸識と為る﹂と
ある︑それは二識︵本識・阿黎耶識︶が変異して諸識︵八識.十1識︶
となる﹂と説くもので一識説を説くものとなっている︒このことに
つ め も い てすでに論じたところを招介すると次のようになる 釈 応 知 勝 相 品 の 真諦の増広付加の注釈部分に説かれている変異は︑
笈多訳・玄 訳・チベット訳には見出せない訳語で真諦訳の特徴で
あり︑それは真諦の唯識説を説くものと考えられる.その変異につ ゴ.閨
い て以下のことが理解されたと考える︒O変異︑は︑一識︵本識・阿黎 耶 識︶が変異して諸識︵八識・十一識︶となると説かれる一識説である︒
そこで識が変異して相見二分説を説くことから︑変異は一る三︺二三p
と考えられる︒口識変異︵本識変異︶は﹁転識論﹄と﹃唯識三十顛﹄
との比定から理解できるようにYijT﹈ilT﹈aI︶aIiT.ktMaが想定できる︒
⇔
乱 識の変異は顛倒・煩悩又是識変異といわれるように迷乱性を含
ん で
い る︒㊥三性説の中で説かれる依他性の変異は依他性の分別性
との関係に限定されている︒これは﹃摂大乗論﹄における三性説の
異 門説のように︑依他起性が異門によって依他起性となり︑異門に
よって遍計所執性となり︑異門によって円成実性となるという説と
は異っている︒㈲変異には種子生現行の因果異時による時間的な相 ︵:︶
違 が 見 られる︑などの意味が含まれることを明らかにした︑
この㈲に関して︑勝︹信静教授は︑r十1識はアーラヤ識の種子か
て ヘ へ ら生じたものであるが︑論本の趣旨は︑種子から生じたということ
よりも︑一切諸法の表象たる十﹈識はそれに対応する種子を持つも
の
で あるということをあらわすものであろう︒しかし︑真諦訳には
「 木識が能く変異して十一識と作る﹂といって︑識の能動性がかな
り明瞭に示されている︒つまり本識が主観であって︑それから客観
的 ︵1︶ 表 象としての十一識が生ずるという形があらわされていると見ら
れ る.︒﹂と説いている︒◎では論本の識所顕現が釈論では識変異所
作と説明されている︒その識所顕現の顕現はチベット訳ではrab tu
ph y
e ba ︵pratibha−sa・ prabhasa︶である︒また︑後に分別性相の説 明 の 中にも︑論本の唯有二識体︼顕現が釈論では識所二変異顕現一と説
明されている︒その唯有識休顕現の顕現はチベット訳でti s. nai︶ ba
( pratibhasa︐ prabhasa︶である︒ このことから変異には顕現︵言P t
ib ha
s a︐ prabhasa︶ S意味が含まれるものと考えられると勝呂教授は
論 じられている︒そして︑そのことについて次のように解説されて
い る︒﹁本来の﹃摂大乗論﹁においては︑顕現11三pコご牡︵唱p亘ピプ器p
a
bhasa︶ Q語が一般的に用いられているが︑この語は﹁ものが見ら れ る﹂という受動的意味が中心である.﹃摂大乗論﹄の文脈において
もそのような意味によって読んで差支えないと思う︒しかるに真諦
訳 に お い ては変異の語が用いられているので︑それとの関連におい
て当訳においては顕現は能動的な意味に転していると見られよう︒
も ヘ ヘ ヤ ヤ て ヘ ヘ ヘ へ
すなわち顕現とは︑表象すること︑何らかの対象をあらわし出すこ
との意味に理解される.﹁変異顕現﹂というように二語が続けて用い
られている例があるが︑それは識の能動的な作川である変異に基づ
い て対象が顕現されるという意味であろう︒つまり変異の概念は顕
現
の 意味をも含んで︑対象を表象する作用という意味に用いられて
︵16︶
い るのである︒﹂と論じられている︒これより以降にも変異について 説 か
れ るが︑その都度触れることにする︒
次に︑
依 他 性 川 に
対 する世親の注釈を聞き︑そこに付加された真
真而パの﹃摸大乗論世親釈﹂におけ.万一..刊説について︵−に︶︵川⑪田︶
諦 ︵17︶ の 解説を見よう︒
真而訳・摂大乗論世親釈
フ ノノ ト ヘ ヂコ ル て ヤスルコトゾ
論 日︒依他性為レ相︑虚妄分別即得二顕現ゴ
ノ ハサント プ ビ ア ノこ ス ト トピへ めノ
ひでトペチレ ノ たコ ヘトレ ノノ ハヂレヤヵノヤもナリ 釈日.欲レ顕二 虚妄分別づ但以二依他性一為二体相?乱識及乱識 ノ ヘノ スレパルモ ノ ノ えマレパリヘヘノも ニハ 変異︑即是虚妄分別︒分別即是乱識︑虚妄即是乱識変異︑ 虚 ニへ てハ コハ トリ ノ ノノ ナル ノ ハ 妄分別皆広説 有二十一種識﹁若略説 右二四種識づ一似塵識︑
ニ 似根識︑三似我識︑四似識識︒一切三界中所有虚妄分別︑
デ ノヲ ノア トノノモごレニ えレコトヲモ クトエコロノノハンア ノ
不レ出庇義づ巾三如レ此識即得二顕現﹁ 難レ説下如レ此識摂二切
ヲ クづロト ィデ ノ ノ ノ ニ ヲカ ノ ト ヲヵ スヤ
虚妄分別一皆尽加執二此虚妄分別中へ何者為二依他性﹁何者為二 分 トトノノハ ノ ニノテプノミノヴごト 別 性つ
ト ノノトハニ ヒ トピ トヲ ノニグリプ ノミ ニ 論 口︒如レ此等識︑虚妄分別所摂 唯識 為レ体︒
釈 日︒如レ此等識即顕二十一識及四識づ 一切法中唯有レ識︑更
ビヅ ニ ノミヲ ペナリ ト ノ ロ レガ ンニ ニ リ ニ ルガ ノ
無二余法一故唯識為レ体.此体由レ有故異二分別性﹁由二虚妄分
ス ヒノレルニ ニ ン ゼノソハヤズヤ アへたルコァ カけ ぴいルソもヂルコ
別性摂一 故︑異二真実性づ此性非二実有ハ 実非レ 無
めニ ノト レ ルコトヲ ノ ヘ レ ノ ァルガ ロ ク ノ ナゆト
ザル ロ ノノももペレ ニンテレヲク ト 故︑不レ免二虚妄ゴ 此虚妄是其性 故︑説二虚妄分別所摂↓
論 日︒非レ有虚妄塵顕現 依止︑是名二依他性相﹃
ンデ キガ ニ フ ズト ニ にレ ニ ニノテ モ レガ ノ ト エ
フ ノト テ トトトヘニ ニヤヘヘンテ ナルガニフ へもト 釈日︒定無二所有一故言レ非レ有︒非レ有物 而為二六識縁縁一故 ノ ハテ フ ガトニフ ト ヘパン ンァフスガト ノハ ロハ 言二虚妄塵づ似二根塵我識﹇生住滅等心変異 明了 故言二顕現﹃
此 顕 ン テノハぽレロコ ルゲもヘベノぷめンラルニニニ クバル 現 以二依他性一為レ囚故言二依止つ警如二執レ我為ワ塵︒此塵実 無三所有﹇以二我非ジ有故︑巾二心変異顕現 似ジ我故︑説二非レ
ニ ノ ト スルハ ノ フ トノノ フ レげ コロ フ ン ノ ノ
有 虚 妄塵↓顕二現 此一囚・・依他性一起故︑依他性為二虚妄塵
三圧
法華文化研究︵第十.︑.号︶
ブリルトイラリスナリ ト
顕 現 依止﹁説レ此為二依他性相︹
チ ベ
ッ
ト訳・摂大乗諭及の世親釈
〔 論︺ σqshan gyi clbtdi gi mtshan fiid kyi yah dag p︐a日ρ yi
n pa ktIII tU rtOg 1︶F・1bsta.n pa yin no=︼︐コ巴ゴ一︶か;1︐ig pa
言こご5目工5iS 1︐llaM I︶2二r rig pa tsam iiicl ﹀︐ai﹈ da.g pa nia
〉i
n
po kun rtog l︸as bs︵;g・ pa﹀︐od声︶ρヨρぴin p.a da.i! 1 nor言三=lon sn2ニゴ三二ご空さ∫築三︶︐三一︶已言二三写han gツ.i dbcl l1
空
∋ド乙一ρ二三二︵1︵二〔 釈 論︺ σ︒竺磐n g﹀i dba ii g=ゴ三5ココ三2工言︑沿﹇三三
〇﹈︶︐1.11 g﹀ii ︵ibaih gi bclag T︶i︵1 de 1 yari claσg pa ina柵︑in p︐ft言
k
u n tu rtogql︶a一︶二牡コニ已三二n︵二 ;alll pal rig一三ご=一︐i﹈︷lms kyis rllam一︶﹇二.二ぬ二二7︹二昌
nicl ﹀︐afi dag l︐a一つoyin 1︶f二ごごln tu 1tっg pag. bs.︵lus pa
乙hc・s bxa ba d︵二p﹀︑a ii da gI︶lt ma ︸︐三一︶つ三ごIII tU 1tog
p a s. 1︶s︵;s l︶a乙一︵.ン・一ヴ︑2言三︵ご・三コobo ihicl dc︶ 11 yod pa
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二二
三︵︑=1︵﹈i ltar l︶dag gi Tf︾ 1︸o ︵lon ︵一c言hin du ﹀ocl Pt1 1.
bzF三コρンら二c二三一パ↑bdag=﹈ecl pEu b︵l a.g cu s. .s ntニゴごξ三︵・一
三 六
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e
l)i gnas ni g. naii bal.﹈i gn︐as. te rgyu slic.t b﹀︑oσ〇三巳5
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s hig go 1 de Ita bu ni gshan g柵︑︷︹巨ρコσ〇二三二一︹三コ一巳︹言=
〔 論︺ 依他相が虚妄分別であ.ると説かれろ︒これらの表識
( vijfiapti︶は︑唯識性︵︿号p箕r∋禦日S︶であるが虚妄分別に摂 せ られる︑無所有にして迷乱なる対象︵境︶の.顕現︵︒︒奉コピP
pratibh5. sa︶する所依であるときこれが依他相である.︑
〔 釈論一 ﹁依他相﹂と仕依他を自体とする虚妄分別であると 説 か
れ
る︒[ これらの表識は唯識性であるが虚妄分別に摂せられる﹂と い う︑その中で一︑虚妄分別に摂せられる﹂とはその一俵他相の︺
自性︵言ご○己鼻・︒ぐρ巳緬〆.ρ︶である︒﹁この無所有にして迷乱な
る対象の顕現する所依である﹂とは無所有にして迷乱なる対象
の 顕 現 の 因︵・︒ロ昌言官品﹀.F苫︒泣げ冨巴−9εである.︑その中で︑
「 無所有であ.る﹂とは非有であ.って︑しかも我の白体相の如く
有として執着せらるる故に︑そこに我が無いのに我として.顕︑現
することである︒その﹁所依﹂とは顕現の所依にして囚と二.口わ
れ るものである︒是の如きものが依他相である.
ハ ノみ れ スレコトヲレノ ハ ノ 笈多訳・摂大乗論世親釈 論 口︒⁝依他相虚妄分別故︑得二︑顕現づ 此等諸識虚妄分別所
ニ
シテ
レ ナリク ヰルニノ スル ナリレハレ ナリ 摂︑唯是識量︒無二所有一不レ実義顕︑現依止︒此是依他相.
トハ ヲスカトナリ ノニ ノ トハ レノ
釈 日︒⁝依他相者依他為レ体故︒此中虚妄分別所摂者︑是彼
ノ ドノ
本乍敗︒
ク ニド ノ プン みり ハ レ ク ヅレ ロノ ノ ノ ノノ
無所有一不レ実義顕現依止 者︑是無二所有一不レ実義顕現因故︒
ノ トハ キカ ク トトノにドレ ハ ゴノ ノ
此中無所有者無・実体一故︑如二我塵一無レ有レ実義︑於二無所有中一
ロヘレニト ヘパ ノ ノ ヂ レ エノテ ソテ ノ ゐル ノ ノ ノ ク
執 取
ノト トハノナリニナレ ゾリ
讐如レ我︒即是無所右 而有我相一顕現︑此所依止名ニ 顕
現 依止つ依止者因義故即是依他相︒
玄 奨訳・摂大乗論世親釈
ハ ノ ハ ル スルコトヲ ド ノ ハ レ ノ
論 日︒依他起相虚妄分別皆得二顕現﹃ 如レ此諸識皆是虚妄分別
ニノテ イミフス ト レク ぱル ノ スル ナリ デコブ
所 摂︑唯識 為レ性︒是無二所有一非二真実一義︑顕現所依︒如レ
ノ ケテ ス ト
トハ ハク ヲンテト ハ ルナリ スルヲ 是 名為二依他起相づ
釈 日︒⁝依他起相者︑謂依他起為レ体虚妄分別皆得二顕現﹁
ノナルガニク ト 如レ此諸識皆是虚妄分別所摂 唯識 為レ性者︑謂此諸識皆是
キ ノ ハ レ ノ ニンテ ノミヲストハト バクノ ハ レ虚 妄 分 別自性 故名二所摂つ
レ
ク にル ニ ノ スル ナリトハ ハクク コ ル ニ
是無二所有一非二真実一義顕現所依 者︑謂無三所有一非二真実一
ノ スル アリ ザルガ ニ ニク ト チハノ スンノ そカ 義顕現所因︒非二真実一故名二無所有¶如二所レ執我﹁無二所有一
故名二非真実﹁
ニ ク トトハ ノリ フ チノガ ニ クノア テ ろンソ フハ ト
義 者
ノニノテレノドリレフテケァス ト
所 取︒謂下即彼我実無二所有べ似レ我顕現垣言二所依一者︑
顕 現
所 依︑是所囚義︒此即名為二依他起相づ
これに従えば真諦訳を除くiOのIII訳は内容的にも分量的にも一致
真諦訳の﹃摂大乗論世親釈 における..一性説について︵上︶︵岩旧︶ するようである︒それによれば依他相は虚妄︿Ras ︵yah dag pa ma yi
n pah=UI二u rtog pa︐ abhtita−parilac lpa︶に依って顕現するもので
あると雪口う︒それは十↓識として表象される虚妄分別に依って生起
するものであり︑その本質は︑唯識為体︵唯識為性︑唯是識量︑ rnac M
p
ar rig pa tg.am nid︐ vijrta︐ ptimatrata︶と説かれる唯識実性であるが︑
境︵塵︶の所依として顕現したものである︒故に︑それは﹁非レ有虚
妄塵顕現依止﹂︵真諦訳︶と説かれる本来実有に非ざる塵︵2夢ρ︶を
所
依 として考えられたもの︑即ち虚妄の塵を顕現するものと分別す
るものが依他相であると説かれる︒﹃世親釈﹄において依他相は﹁依
他 起為レ体﹂︵玄奨訳︶と説かれるように縁起をその自体とする縁起性
を意味するものである︒それは無所有であるから非真実義であると
説 く︑チベット訳から無所有は﹀︐od pa. m︐i ﹀︑iil 1︶a ︵iicl bhidyate︶で
あり︑非真実.義±1 Tlor baLii don ︵vitatha−artha︶である︒そして︑
この無所有とはコ三︹二︶知︵呂﹈ぽぐa︐ aくidyamina︐非有︶である︒故に︑
依 他相は︑無所有としての非有の中に非真実なる対象が顕現するこ
とを自性とするものである︒それは本来無所有であるものを我が有
るかのように虚妄分別して本来無我であるものを我が有るかのよう
に
顕 現することであると説いている︒
真諦訳には笈多訳・玄堤訳・チベット訳に比較すると多くの解釈
を上げている︒いまその事に注意をむけてみる事にしよう︒即ち︑
¢乱識と乱識の変異について︑〇十一識を四種識と説くことについ
三七
法峰疋化研究︵第十一.↓号︶
て︑⇔﹁此性非二実有﹁実非レ無故﹂について︑それらの解釈は真諦
訳 の み
に 見出すこのとできる説明である︒次にそれらについて少し
く杉察しよう︒
初 め
に O︑乱識と乱識の変異は虚妄分別である︒それは分別が乱
識 で あり︑虚妄が乱識の変異であるという︒また分別は識性であり︑
虚 妄は﹁無を分別して有と為すが故に虚妄と言う﹂と真諦は説いて
い る︒そうすると乱識とは分別である識性であり︑乱識の変異とは
賑
、妄である非有を分別して有と執着することであるということにな
る.これは後に説くように乱識は依他相を︑乱識の変異は分別相を
意 味する.真諦訳のみに見られる︑この依他相に関する解釈を我々
は 彼の訳出した川中辺分別論いと□二無性論﹈の中に見出すことが
で きる︑﹁中辺分別論﹄は﹃摂大乗諭﹄にも引川されている論ぷであ
(9︶
るが真諦はさらに多くを﹁中辺分別論﹂より j摂大乗論世親釈﹄の
解釈のために採用したものと考えのられる︒この乱識について﹃中
辺 ハ リテノ ヒヘンコノ あろう︒すなわち︑相品第一の第四頒に︑ ︵19︶ 分 別論﹄巻上相品第一の第三〜五頚の注釈部分を採用したもので 乱識虚妄性︑山二此義一得レ成︒
abhutapai︐ikalpatvarii s. i︵l︵=i︐a ni at ya. bh avaty atah 1
(
I−!a︐ b︶︵20︶ とあり︑これを注釈して︑
ハ リテ ノ ニ トハ ズルニトソ ク ハ ノミナリ ノ
乱
識 虚妄性由二此義一得レ成 者︑謂︑一切世間但唯乱識︒ 此
ゾ クル ト ルガ トシテ ルニ ナノ ニ パガ プルニ ニ三八
乱識云何名t虚妄﹃山∴境 不p実故︑山二体散乱一故︒
abhutaparika﹈patvamb. ︵I−tla︶
...na c︐L sa lN︐v.ithLtt bhitivo bhiEiiiti−mati︐asy6tpadat 1
とある︒故にabhutal︶arikalpatVclが乱識虚妄性と訳され︑虚妄性
が 乱識であることを意味している︒ それは注釈によってご三^三ニー
巨三〇︵唯乱識︶であると注釈されている︒t Jの a.bhuta par=/三一︶巴くρ
とピ7芸三7∋三日は同義語であることを明らかにしている︒また︑ ︵N︶
じ ハク ノミリテルガニニレノノ : 中辺分別論一巻上相品第一の第五頒の依他性を注釈して とあるが︑これを梵本に見ると ︵2︶ 依 他性者謂唯乱識有非レ実故︑猶如二幻物一 三三三三︶↑ご︐ikalpal.i paratantrah svabhava﹈.i
とある︒ここでも真諦訳には梵本以上のことが説かれている︒五ハ諦
はabl﹈utaparikaIpaを唯乱識と解釈したことを明らかにしている︒
さらに︑この乱識について﹃中辺分別論﹄より後に訳出された﹃三 ︵23︶
無 性論﹄巻上にも︑
トハ クゾ ニリ ニハルルノ ニンテチ ナリ リテタル トタル
依他性者謂依レ因依レ縁顕 法自性︑即乱識分︒依二囚内根縁
トヘ レガ ナリ
とある︒乱識が依他性に属することを明らかにする︒その乱識は因 も 外 塵・起故︒
め たる内根と縁たる外塵とに依って起るものであることを明らかにし
ている︒ 次にO︑虚妄分別を広説して十一種識として︑況き︑略説して似塵
識・似根識・似我識・似識識の四種識であると説くことについて見
よう︒これも﹃中辺分別論﹄相品第一の第三頒とその世親釈からの ︵24︶
説 明であることはすでに指摘されているところであるが︑それにつ い
て 少し詳しく見てみよう︒
ト ト ト ピ トへ
塵 根 我
及 識
ガ ラニア ル ニ
本 識 生 似レ彼
レト︑ IT ク ハ ンテ ヘ ニ
似.似。似。似 レトレトレトレ 識。我.根.塵
者者老者
、 、 、 、ロロへ
lT//
川
の へ
二
川=
ロへmiil
謂︑
artha−g. attvatnia−vijfiapti−pratibhasani vijfianarb⁝⁝
p叶巳挙−℃﹁葺ε言拳己
sattva︶ratibhas−︐ rii nayor l atma−pratibhEa.sanh 巴ヨH︺冨ぺoσq鋤二 vijfiapti−pratibhiLg.ath $ac.1 vijfianan二
これによれば似塵はal二峯﹈︶日二ひゴ宕①︑似根はsattva−pratibh a sa︑
似 我 は a
tma−prati︶hasa︑似識はvijfia︶ti−pratibh2/isaである︒こ の 四 種 は本識︵<昔習ρ︶より生ずると説かれているが︑真諦はその本
真諦訳の﹃摂大乗論世親釈﹄におけろ三性説について︵上︶ ︵岩田︶ ルアリ
本 識 顕
現 相コ似 色等↓
ハ
ア
コニ
ア ニ ロへしゾリ
識 似二五根一於二白他相続中一顕現︒
ハ ト ト ト スルガ ニナリ
意 識 与二我見無明等一相応 故︒
ナリ
六 種識︒
praj︵iyate l
︵I−3a︐ b︐ c︶
yad rtip︐fidi−bhavena pr︐atibhcisate l
y
at paricOndriyatven.a sva−para−santa−−
こ一三︹己ピ∋p二pプ一2∋p∋○言△7
識 を阿黎耶識であると解釈している︒しかし︑梵本にも玄奨訳にも
阿 頼 耶 識 の 語 は ないcそれらの四識はO祭﹁t−hal︶ratil・ha.sa−vijn;tT︶a
( 似
塵識︶ a S. attVll−I︶1−2tti1︶h:1S﹇1VijTlaTIEI ︵似根識︶︑ ⇔︵二三二二三−t
ibl﹈asa−vi jniLna ︵似我識︶︑㈱ vijTlal︶ti−I︶1atil︶hEls︐rt−vijl﹈tlnll ︵似識識︶と言うことになろう︒そして︑それらは真諦によれば本識阿黎耶識
か らの顕現であるということである︒この四種識と十一識との関連
に つ
い てみるとその注釈から︑似塵識は⑲応受識に︑似根識はO身
識 に︑似我識はO身者識国受者識に︑似識識は岡正受識に相応する
ことになる︒このように似塵等の四識は十一識の前五識に相応する︒
これは真諦が十一識の本は俗諦根本義の前五識にあると解説した説
明に添うたものになっている︒
さらに次に⇔︑此性非二実有一実非レ無故について見よう︒ この解 ︵25︶ 釈 に相当するものとして︑同じく相品第一の第四頚後半とその注釈
が ある︒それは次の如くである︒
ルガノト トニニ
非二実有・無一故⁝⁝
トハノニ ク シテルモ ニ バクナルガニ
非二実有一者︑謂︑顕現似二四物一四物永無 故︒
ルガ ノ ニ ニトバ ク ズ ク ナルニハ ルガ ズルニ ニ