白族のキリスト教信者、楊任修氏のライフヒストリ ー
著者 横山 廣子
雑誌名 社会人類学年報
巻 16
ページ 143‑163
発行年 1990‑06‑15
URL http://hdl.handle.net/10502/5561
白 族 の キ リ ス ト 教 信 者 ︑ 楊 任 修 氏 の ラ イ フ ヒ ス ト リ ー
横 山 廣 子
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はじめに
本稿は︑筆者が白族研究の一環の中で行ってきた個人のライ ダ フヒストリー研究の成果の一部である︒筆者は︑中国雲南省大
理市に住むキリスト教信者︑楊任修氏から一九八七年と一九八
八年の夏︑それぞれ数時間ずつ︑その生涯の体験について伺う シけチヨウ機会を得た︒以下にもあるように︑楊氏は︑大理の喜洲出身の
自族である︒喜洲は︑F・シューの著作中[=ωdお零ロ逡㊤︺]
のウェスト・タウンの名で知られる町で︑解放前には大きな商
売を手掛ける者たちを輩出した︒それらの商人たちは︑解放後 ズロベンチヤヨの社会経済調査では﹁資本家﹂と位置付けられ︑批判の矢面に
立たされることになった︒楊氏は﹁資本家﹂に使われる側の︑
貧しい農民の出身である︒ 楊氏の語る生涯は︑民国時代から今日までの大理の白族社会
のさまざまな実像を明らかにする︒その内容については後の総
括で触れることにするが︑楊氏のライフヒストリi聴取にょっ
て︑それまでの村落調査においては知り得なかった実態を掴む
ことができたということを︑ここで述べておきたい︒村落調査
においては︑外からやって来て住みついた者など︑その他の一
般の人々と異なる背景を持つインフォーマントに充分注意をし
ていたつもりであるが︑楊氏のように外に出ていった者に関し
て多くを知る機会を得なかった︒また︑楊氏は︑なぜ︑どのよ
うに彼がキリスト教徒となっていったかを語る︒プロテスタン
トおよびカトリックの宣教師が︑雲南の少数民族の間で布教活
動を始めたのは︑一九世紀後半のことであった︒キリスト教の ジンポロ布教活動は︑景頗族など山地の少数民族においては︑村落など
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の集団単位の改宗をもたらしたが︑白族においては︑あくまで
も特別な個人の改宗に留まった︒楊氏の信仰確立までの経過は︑
彼個人の体験を通しての意識の変化を描くと同時に︑当時の白
族一般のキリスト教観をも映し出していて︑興味深い︒
以下のライフヒストリーは漢語で語られた︒日本語にするに
際し︑なるべく元のニュアンスが伝わる訳出を心がけた︒また︑
整理の際に︑話の順序に手を入れている︒
一 幼い頃のつらい思い出
グワンチヨン 私は中国雲南省大理市喜洲官充の人間だ︒四人兄弟で兄が
三人︑私は四番目だ︒生まれたのは辛亥の年︑一九一一年︒既
に三人の兄たちは皆亡くなって︑今は私一人になった︒妹かい︑
妹はいない︒姉は一人いたが︑やっばり亡くなった︒
それでは︑八歳の時から話そう︒八歳より前のことかい︑そ
れはよく覚えていない︒八歳から一〇歳の時代は︑家庭の生活 (1)が苦しかった︒私は草を刈って売り︑水を汲んで売った︒銅
鍋でもって水を汲んできて売った︒朝は市で水を売り︑午後に
なると家に帰り︑草を刈って売った︒一〇歳になると︑母親が
亡くなった︒病気で死んだ︒その後一〇歳から=二歳の時代は︑ ヤンフオ山に行って柴を刈ってきて売った︒その他に売ったのは洋火
(マヅチ)と紙巻き煙草︒袋を持って通りから通りへと売って
歩き︑それで少し小商いを覚えた︒=二歳になると父親も死ん
でしまった︒兄は二人死んで︑一人は外に出ていて家にはいな (2)かった︒父母が亡くなって宗族はいなくなり︑私はどうにも生
活できなくなってしまった︒そこで人の家に奉公に出た︒喜洲
に楊礼四という者がいた︒主人の名前が楊礼四で︑その店の名
は宝源号といい︑アヘンを売りさばいていた︒私はそこの小僧
になって三年勤めたQ
当時︑人の家で奉公するのは一番辛い仕事だった︒一年でも (3)らえたのは︑服が一揃い︑帽子一つに靴一足︑それから銅銭で
一〇〇文(当時で約○・七元)だけだった︒一年を服一枚では
足りないし︑帽子も靴も年中同じものでは擦り減ってしまう︒
銅銭一〇〇文は一日か二日ですぐ無くなってしまう︒待遇は厳
しかった︒やがて上着には穴があき︑ズボンも膝や尻が透けて
くる︒そうすると上着の袖を取って前を繕い︑長袖が半袖に︑
そしてチョッキのようになった︒ズボンは裾を切って尻当てに
したから︑長ズボンは半ズボンになった︒靴は数ヶ月でぽろぽ
ろになり︑二足目はないから裸足でいるしかなかった︒帽子も
上着もズボンも皆ぽろぽろで︑私は裸足で歩いていた︒兄は家
にいなかった︒兄はもう結婚していたけれど︑捜さん(兄嫁)
には子供がいて︑とても私の世話どころではない︒私の姉も既
にいなかったから︑全く哀れなもんだった︒
それで一年の終わりになると︑奉公先で︑やっと服がもらえ
る︒明日は新年が来るという三十日の晩(旧暦十二月三十日)
になると︑ようやく︑もらえるんだ︒その晩に新しい靴を持っ
て足を洗いに行く︒それは哀れだった︒裸足の足はひどいあか
白 族 の キ リス ト教 信 者 、楊 任 修 氏 の ラ イフ ヒ ス ト リー
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ぎれで︑一歩ごとに裂け口が痛んで︑そおっと︑こうやって歩
いた︒そして水の中に足を入れる︒何度も何度もこすって洗う︒
本当に惨めだった︒
私は店の主人に給金を上げてくれと頼んだ︒服もお金も︑も
うちょっとくれないかと聞いた︒それはつまり︑もう働かない
ということだった︒主人は︑服は一年に一揃い︑お金もそれ以
上は出せない︒おまえがいたけりゃいてもいいし︑いやならや
めてもいいと言った︒私は家に駆け戻ったさ︒家には艘さんと チエン子供たちがいる︒私を食わせる余裕はない︒そこで︑喜洲の城
ナン グロマユ南(喜洲の南にある村)の姑嬌(父方のおば)の家に行った︒
そこには一年余りいた︒一三歳から一四歳の時だ︒姑嬬の家で
は牛の世話をし︑山に行って柴を刈った︒きつい労働だった︒
それまでと同じようなことを同じように続けたわけだ︒哀れだ
った︒一年位過ぎて︑またそこも飛び出した︒姑嬌の家もつら
くていられなかった︒
その頃︑私には友人がいた︒彼は一人息子で︑その母親も私
に同情してくれ︑息子と一緒にいるようにと勧めてくれた︒そ
れはつまり︑その家の人間が一人ふえるということだった︒そ
の友人の母は喜南という名前で︑私を大変可愛がってくれ︑と
てもよくしてくれた︒しかし︑そこにも長くはいられない︒当 トンチヨン時︑私の一番上の兄は騰衝にいた︒その兄を頼って騰衝に行く
ことにした︒私が兄さんのところへ行くと言うと︑喜南は︑あ
んたは道もよくわからないのに︑そんな小さいのにどうして行 くのかと言った︒私は︑他に仕方がない︑こちらにそう長くご
厄介になるわけにもいかない︑もう︑でかけなければならない
と答えた︒年端もいかない者が一人︑お金もなくて︑小さな行 チヤオミエン李を三元数角で買い︑妙麺(小麦粉を麦焦がしのように加工し
た旅行用食品)も買い︑途中で袋を縫ってもらって首にさげて
でかけた︒騰衝へ行くといっても私は道も知らない︒かわいそ
うなもんだ︒いよいよ出発ということになって︑喜南は私のた
めに小さな麦わら帽子と︑蝋引き布を準備してくれ︑蝋引き布
を背中にはおってでかけた︒その日は雨が降っていた︒
二 騰衝までの道中
シアグワン 喜洲から下関まで来て︑宿屋で休んだ︒次の日は騰衝に向け
て旅立ちだった︒道で人に騰衝へは東駅から行くのか西駅から
行くのかと尋ねた︒西駅からで︑東駅から行ってはだめだと教 ピンポセえてもらった︒そこで東駅から西へ向かい︑平披街までいった︒
そこで布を売っている少年に出会った︒その少年は私を見て︑
どこまでいくのかと聞いた︒騰衝までと答えると︑少年は︑そ
の道は今︑ひったくりの泥棒が出るからとても一人では無理だ
と言う︒私は︑それでもしようがない︑行くしかない︑家には
いられないし︑兄さんが騰衝にいるから︑そこまで行くと言っ
た︒すると少年は︑よし︑わかった︑ともかく今晩は平披街で ヤンピコ俺と一緒に泊まったらいい︑明目は俺たちも漂潰街までいくか
ら︑一緒に行けばいい︑そしてそこから先の道連れが見つかれ
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四川省
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チ自 ミャンマー(ビルマ) ば︑その人と一緒に行けばいいし︑見つからなければ俺と一緒にいればいいと言ってくれた︒そういうわけで︑その
晩はその少年の宿で厄介になった︒
次の日︑平披街から濠潰へと出発した︒しばらく行くと
老人と三人の人夫を見つけた︒老人は袋を一つ下げ︑三人
は天秤棒で荷を担いでいた︒荷をよく見ると︑一人の荷は
トウ デイエン土錠(藍玉)で︑他の二人の荷はしっかりと縫って荷造
りされていた︒土綻は灘溝の市で売るのだろうが︑他のは パオシヤン漂溝から保山か騰衝まで持って行くのではないか︑この人
たちはきっと先まで行くと私は思った︒そこで老人に尋ね
たー﹁伯父さん︑保山までですか︑それとも騰衝までで
すか﹂︒老人は本当のことを言わず︑ ﹁私らは︑滋沸の市
にきたんだ﹂とごまかした︒私は心の中で︑保山でなかっ
たら騰衝に行くに違いないと思い︑その人たちの後にずっ
とついて歩いて行った︒
そして︑その人たちが休憩すると︑私も休憩した︒三人
の人夫は私を見てかわいそうに思った︒老入も私に尋ね
たー﹁おまえさんは︑小さいのに旅をして︑一体︑どこ
の人間だ﹂Q私は喜洲の者だと答えた︒
﹁おまえさんは︑どうして来たんだ﹂
﹁父さんも母さんも死んでしまった︒兄さんは騰衝にい
る︒喜洲では暮らしていけない︒生活が苦しい︒だから兄
さんを頼って行くんだ︒﹂