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だいりからきょうとごしょへ7内裏から京都御所へ知る 内裏と大内裏だいりだいだいり内裏とは 天皇が住み 儀式や執務などを行う宮殿のことで 禁中 禁裏 御所などともいいます 平安宮内裏は延暦年間( 七八二~八〇六) に造営されました 内裏の周囲には朝堂院 豊楽院や二官八省をはじめとした官庁が並び 諸ちょ

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Academic year: 2021

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だ い り か ら き ょ う と ご し ょ へ

■ 内 裏 と 大 内 裏 だ い り だ い だ い り 内 裏 と は 、 天 皇 が 住 み 、 儀 式 や 執 務 な ど を 行 う 宮 殿 の こ と で 、 禁 中 ・ 禁 裏 ・ 御 所 な ど と も い い ま す 。 平 安 宮 内 裏 は 延 暦 年 間 ( 七 八 二 ~ 八 〇 六 ) に 造 営 さ れ ま し た 。 内 裏 の 周 囲 に は 朝 堂 院 ・ 豊 楽 院 や 二 官 八 省 を は じ め と し た 官 庁 が 並 び 、 諸 ち ょ う ど う い ん ぶ ら く い ん 官 庁 の ま わ り は 大 垣 ( 地 ) 囲 ま れ て い ま し た 。 そ の 囲 ま れ た 区 域 を 大 内 裏 あ る い は 平 安 宮 と 呼 ん で い ま す 。 ■ 大 内 裏 の 変 遷 大 内 裏 と い う 呼 び 方 は 、 六 国 史 ( 撰 の 六 つ の 国 史 ) ど に り っ こ く し は 見 え ず 、 十 二 世 紀 頃 の 記 録 か ら 使 わ れ は じ め ま す 。 ち な み に 、 そ れ ま で は 大 内 裏 を 指 す 言 葉 と し て は 「 大 内 」 と お お う ち い う 語 が よ く 使 わ れ て い ま し た 。 大 内 裏 の 四 面 に は 合 せ て 十 四 の 門 が 設 け ら れ 、 南 面 中 央 の 朱 雀 門 を 入 る と 朝 堂 院 が あ り ま し た 。 す ざ く も ん ち ょ う ど う い ん 朝 堂 院 の 北 東 に は 内 裏 が あ り 、 内 裏 の 西 に は 「 の 松 原 」 い え ん ま つ ば ら う 空 閑 地 が 広 が っ て い ま し た 。 朝 堂 院 は 大 内 裏 の 中 心 に 位 置 し 、 天 皇 の 即 位 式 や 外 国 使 節 の 謁 見 な ど 国 家 的 行 事 の な さ れ る 場 で し た 。 そ の 中 心 と な る 御 殿 ( 殿 ) 大 極 殿 で す 。 朝 堂 院 の 西 に あ る 豊 楽 院 は 、 国 家 せ い で ん だ い ご く で ん ぶ ら く い ん 的 行 事 に 伴 う 宴 会 の 場 で 、 そ の 正 殿 が 豊 楽 殿 で す 。 平 安 宮 大 内 裏 建 設 に お い て 、 大 極 殿 は 延 暦 十 五 ( 九 六 ) に で き 、 豊 楽 殿 は 遅 れ て 同 十 九 年 に 完 成 し て い ま す 。 、 、 大 内 裏 の 諸 殿 舎 は 火 災 や 大 風 な ど で た び た び 被 害 を 受 け そ の 都 度 復 興 さ れ ま し た が 、 十 一 世 紀 に な っ て 天 皇 が 大 内 裏 、 、 外 の 里 内 裏 に 常 住 す る よ う に な る と 維 持 が む ず か し く な り さ と だ い り 豊 楽 院 は 康 平 六 ( 〇 六 三 ) 年 焼 失 後 、 朝 堂 院 は 治 承 元 ( 一 、 。 七 七 ) 焼 失 後 と も に 再 建 さ れ る こ と は あ り ま せ ん で し た 大 内 裏 内 外 の 諸 官 庁 も 平 安 時 代 後 期 頃 か ら 廃 絶 す る も の が 増 え 、 十 三 世 紀 に な る と ほ と ん ど 殿 舎 を 失 い 、 大 内 裏 の 跡 地 は い つ し か 内 野 と 呼 ば れ る 荒 れ 野 に な り ま し た 。 う ち の ■ 内 裏 の 変 遷 内 裏 は 、 そ の 正 殿 を 紫 宸 殿 と 呼 び 、 北 に 仁 寿 殿 ・ 承 香 殿 ・ し し ん で ん じ じ ゅ う じ ょ う き ょ う 常 寧 殿 ・ 貞 観 殿 と 並 び 、 西 に 天 皇 の 日 常 の 居 所 で あ る 清 涼 殿 じ ょ う ね い じ ょ う が ん せ い り ょ う が あ り ま し た 。 こ の 他 に も た く さ ん の 殿 舎 が あ り 、 そ れ ら は 廊 下 に よ っ て 結 ば れ て い ま し た 。 、 、 平 安 宮 内 裏 は 十 四 回 も の 焼 失 ・ 再 建 を 繰 り 返 し ま し た が 大内裏の模型(部分)

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嘉 禄 三 ( 二 二 七 ) 四 月 再 建 途 中 に 焼 け た の を 最 後 と し て 、 宮 城 内 の 内 裏 は 廃 絶 し ま し た 。 内 裏 火 災 の 度 に 、 天 皇 は 京 内 の 藤 原 氏 の 邸 宅 な ど に 移 り 住 み 、 そ こ を 里 内 裏 と 呼 び ま し た 。 十 一 世 紀 半 ば か ら 天 皇 は 堀 河 院 ・ 一 条 院 ・ 枇 杷 殿 ・ 京 極 殿 ・ 東 三 条 殿 な ど の 里 内 裏 に 常 住 す る び わ こ と が 多 く な り 、 里 内 裏 の 一 つ で あ っ た 土 御 門 東 洞 院 殿 を つ ち み か ど ひ が し の と う い ん 光 厳 天 皇 が 居 所 と 定 め て か ら は 、 北 朝 の 主 た る 皇 居 と し て 定 こ う ご ん 着 、 明 徳 三 ( 三 九 二 ) 、 後 小 松 天 皇 の 在 位 時 に 南 朝 よ り 三 種 神 器 が 渡 さ れ 、 南 北 朝 が 合 一 さ れ る と 、 以 後 、 他 所 へ 移 る こ と な く 、 こ の 場 所 が 皇 居 と 定 ま り ま し た 。 ■ 京 都 御 所 の 変 遷 現 在 の 京 都 御 所 は 土 御 門 東 洞 院 内 裏 の 後 身 に あ た り 、 元 弘 元 ( 三 三 一 ) の 光 厳 天 皇 即 位 時 に は 、 紫 宸 殿 と 清 涼 殿 を 兼 用 す る よ う な 小 規 模 な 里 内 裏 で し た 。 そ の 後 、 何 度 も 焼 失 を 繰 り 返 し 、 そ の た び に 織 田 信 長 や 豊 臣 秀 吉 な ど 時 の 権 力 者 に よ っ て 再 建 が 行 わ れ ま し た 。 天 明 八 ( 七 八 八 ) に 天 明 大 火 で 焼 失 し た 際 、 幕 府 は 老 中 松 平 定 信 ( 七 五 八 ~ 一 八 二 九 ) 命 じ て 内 裏 造 営 に あ た ら ま つ だ い ら さ だ の ぶ せ ま し た 。 寛 政 二 ( 七 九 〇 ) 、 定 信 は 裏 松 固 禅 ( 一 七 三 六 う ら ま つ こ ぜ ん ~ 一 八 〇 四 ) の 『 大 内 裏 図 考 証 』 に 従 い 、 承 明 門 ・ 紫 宸 殿 ・ だ い だ い り ず こ う し ょ う 清 涼 殿 な ど の 一 郭 を 平 安 時 代 の 形 式 で 復 元 再 興 し て い ま す 。 安 政 元 ( 八 五 四 ) に も 焼 失 し ま す が 、 翌 年 に は 寛 政 時 と 同 規 模 で 再 建 さ れ ま し た 。 こ れ が 現 在 の 京 都 御 所 の 建 物 で す 。 内 裏 敷 地 は 、 江 戸 初 期 の 慶 長 造 営 時 に 東 に 拡 大 し て 、 そ の 後 何 回 か の 拡 張 を 経 て 、 現 在 は 東 西 で 二 百 五 十 四 メ ー ト ル 、 南 北 で 四 百 五 十 三 メ ー ト ル と な り 、 中 世 の 土 御 門 東 洞 院 内 裏 の 数 倍 の 広 さ に な っ て い ま す 。 御 所 の 東 南 に は 別 に 築 地 を め ぐ ら し た 仙 洞 ・ 大 宮 御 所 が あ り ま す 。 せ ん と う 江 戸 時 代 ま で 御 所 を 取 り 囲 む よ う に 、 有 栖 川 宮 な ど の 宮 家 や 、 近 衛 ・ 九 条 ・ 一 条 な ど の 公 家 の 邸 宅 な ど が 並 ん で い ま し た が 、 明 治 二 ( 八 六 九 ) の 東 京 遷 都 以 後 は 、 広 大 な 京 都 御 苑 ( の 国 民 公 園 ) な り ま し た 。 現 在 で は 、 春 ( 月 上 旬 ) 秋 ( 月 中 旬 ) 年 二 回 、 京 都 御 所 が 一 般 に 公 開 さ れ て い ま す 。

■ 平 安 宮 跡 上 京 区 千 本 丸 太 町 附 近 平 安 宮 跡 は 、 市 街 化 で 大 規 模 な 発 掘 調 査 を す る こ と が む ず し い 場 所 で す 。 そ れ で も 朝 堂 院 ( 極 殿 ) 豊 楽 院 ( 楽 殿 ) 建 物 基 壇 、 内 裏 内 部 回 廊 跡 の 雨 落 溝 、 官 衙 地 域 の 建 物 跡 ・ 築 地 ・ 側 溝 等 の 遺 構 が 見 つ か り 、 発 掘 さ れ た 遺 物 か ら も 平 安 宮 の よ う す を 推 測 す る こ と が で き ま す 。 千 本 丸 太 町 交 叉 点 北 西 に あ る 内 野 児 童 公 園 内 に は 、 明 治 二 十 八 ( 八 九 五 ) 年 に 建 て ら れ た 「 大 極 殿 遺 址 」 の 碑 が あ り ま だ い ご く で ん す 。 し か し 、 最 近 の 発 掘 調 査 に よ っ て 大 極 殿 の 中 心 部 は ち ょ 内裏 平面図

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う ど 千 本 丸 太 町 交 叉 点 の す ぐ 北 方 附 近 で あ る こ と が 判 明 し て お り 、 現 在 、 交 叉 点 北 西 お よ び 南 東 角 に 詳 し い 説 明 板 が 設 置 さ れ て い ま す 。 こ こ か ら 南 に 朝 堂 院 の 建 物 群 が 立 ち 並 び 、 さ ら に 朱 雀 門 ( 京 区 千 本 通 押 小 路 上 る 東 側 に 石 碑 が あ る ) ら す ざ く も ん ま っ す ぐ に 平 安 京 の メ イ ン ス ト リ ー ト で あ る 朱 雀 大 路 ( 千 本 通 ) 南 へ 延 び て い ま し た 。 交 叉 点 か ら 西 へ 行 く と 国 指 定 史 跡 で あ る 豊 楽 殿 跡 ( 京 区 聚 楽 廻 西 町 ) あ り 、 交 叉 点 の 北 東 に は 内 裏 が あ り ま し た 。 下 立 売 通 の 発 掘 調 査 に よ っ て 内 郭 回 廊 跡 ( 屋 町 通 西 入 南 側 ) や 承 明 門 跡 ( 浄 福 寺 通 西 入 南 側 ) ど 多 く の 遺 構 が 見 つ か っ し ょ う め い も ん て お り 、 出 土 し た 資 料 な ど は 京 都 市 考 古 資 料 館 ( 京 区 今 出 川 通 大 宮 東 入 元 伊 佐 町 ) 展 示 し て い ま す 。 平 安 宮 ( 内 裏 ) 、 現 在 の 二 条 通 が 南 限 で 、 北 は 一 条 通 、 、 。 、 東 は 大 宮 通 西 は 御 前 通 が 境 界 に あ た り ま す そ の 大 き さ は 東 西 約 一 ・ 二 キ ロ メ ー ト ル 、 南 北 約 一 ・ 四 キ ロ メ ー ト ル の 長 方 形 で 、 面 積 は 四 十 九 万 六 百 二 十 四 坪 ( 一 ・ 七 平 方 キ ロ メ ー ト ル ) に な り 、 現 在 の 京 都 御 苑 ( 〇 ・ 九 一 四 平 方 キ ロ メ ー ト ル ) 約 二 倍 の 大 き さ が あ り ま し た 。 ■ 京 都 御 苑 上 京 区 京 都 御 苑 京 都 御 苑 と は 、 宮 内 庁 管 轄 の 京 都 御 所 と 大 宮 ・ 仙 洞 御 所 の 外 苑 に あ る 環 境 省 所 轄 の 国 民 公 園 の こ と を 指 し て い ま す 。 こ の 地 は 、 本 来 の 大 内 裏 に 近 接 し て い た た め 、 平 安 京 造 都 、 。 以 来 藤 原 氏 一 門 を 中 心 と す る 多 く の 公 家 邸 宅 が あ り ま し た そ の 後 、 豊 臣 秀 吉 の 時 代 に は 内 裏 の 周 辺 に 公 家 を 集 住 さ せ て 公 家 町 が つ く ら れ ま し た 。 公 家 町 は 「 御 築 地 内 」 と 言 わ れ て お つ い じ な い い ま し た が 、 築 地 塀 で 囲 ま れ て い た わ け で は な く 、 公 家 屋 敷 と 町 家 が 道 を 隔 て て 建 ち 並 ん で い ま し た ( A ) 宝 永 五 ( 七 〇 八 ) 三 月 の 大 火 後 に 、 内 裏 の 南 西 地 域 に あ っ た 町 家 を 鴨 川 東 の 二 条 川 東 ( 京 区 ) な ど に 移 転 さ せ て 、 に じ ょ う か わ ひ が し 跡 地 に 公 家 屋 敷 を 建 て ま し た 。 こ の 頃 に 現 在 の 京 都 御 苑 の 規 模 が 定 ま っ た よ う で す ( B ) 明 治 二 ( 一 八 六 九 ) 年 の 東 京 遷 都 に よ り 公 家 町 が 荒 廃 す る と 、 明 治 十 ( 八 七 七 ) か ら 同 十 六 ( 一 八 八 三 ) ま で 京 都 府 に よ る 「 大 内 保 存 お お う ち ほ ぞ ん 」 、 事 業 が 実 施 さ れ じ ぎ ょ う 境 界 を 北 は 今 出 川 通 、 西 を 烏 丸 通 、 東 は 寺 町 通 、 南 を 内 椹 木 町 通 見 通 し さ わ ら ぎ ( 後 に 丸 太 町 通 ま で 拡 大 ) に 設 定 し て 、 そ の 周 囲 に 石 垣 を 築 き 、 空 地 に は 芝 生 や 樹 木 が 植 え ら 。 、 れ ま し た そ の 後 大 正 四 ( 一 九 一 五 ) 年 の 大 正 天 皇 即 位 大 礼 の 際 に 大 改 修 が 行 わ れ 、 昭 和 二 十 四 年 に 国 民 公 園 と し て 今 の よ う な 景 観 が 整 え ら れ ま し た 。 苑 内 に は 以 下 の よ う な 旧 跡 が 残 っ て い ま す 。 御 苑 の 南 西 隅 に 位 置 す る 、 閑 院 宮 邸 の 閑 院 宮 邸 跡 か ん い ん の み や て い あ と 遺 構 。 天 明 大 火 後 に 建 て ら れ た も の で す が 、 明 治 以 降 も 事 務 所 と し て 使 用 さ れ て い ま し た 。 現 在 は 建 物 ・ 庭 園 を 公 開 し 、 御 苑 に 関 す る 展 示 を し て い ま す 。 図B 宝永の大火以後の内裏 (中井家蔵「御築地廻り公家衆屋 敷割絵図」の一部) 図A 宝永の大火以前の内裏 (中井家蔵「御所近傍之図・昔 之図也」の一部)

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堺 町 御 門 内 西 側 に あ る 数 奇 屋 造 の 茶 室 で 、 拾 翠 亭 し ゆ う す い て い 九 条 家 邸 の 遺 構 。 庭 園 は 池 泉 回 遊 式 で 、 中 島 に は 鎮 守 神 だ っ た 厳 島 神 社 が 残 り 、 そ の 石 鳥 居 ( 要 美 術 品 ) 笠 木 が 唐 破 い つ く し ま 風 に な っ て い る こ と で 知 ら れ て い ま す 。 拾 翠 亭 の 西 北 に あ る 花 山 院 家 の 鎮 守 神 。 か つ 宗 像 神 社 む な か た て は 藤 原 氏 の 小 一 条 院 ( 嗣 邸 ) あ り ま し た 。 西 園 寺 家 邸 内 に あ っ た 鎮 守 社 。 現 在 、 出 水 口 白 雲 神 社 し ら く も 東 側 に あ り ま す 。 京 都 御 所 の 北 東 角 は 鬼 門 除 け に 隅 を 欠 き 、 そ の 猿 ケ 辻 さ る が つ じ 築 地 屋 根 の 蛙 股 に 、 御 幣 を か つ ぐ 猿 の 浮 彫 り が あ り ま す 。 ■ 仙 洞 ・ 大 宮 御 所 ( 都 御 苑 内 ) せ ん と う お お み や 仙 洞 ・ 大 宮 御 所 は 、 京 都 御 所 の 東 南 、 築 垣 に 囲 ま れ た 一 郭 に あ り ま す 。 西 北 部 に 大 宮 御 所 、 西 南 部 に 仙 洞 御 所 ( ) あ り ま す 。 仙 洞 御 所 と は 、 も と も と 天 皇 を 退 位 し た 上 皇 が 住 む 内 裏 の こ と で 、 院 御 所 と も 呼 び 、 平 安 時 代 以 来 の 歴 史 を も っ て い ま す 。 現 在 、 御 苑 内 に 残 る 仙 洞 御 所 は 、 寛 永 四 ( 六 二 七 ) 、 小 堀 遠 州 ( 五 七 九 ~ 一 六 四 七 ) 作 事 奉 行 と し て 後 水 尾 天 こ ぼ り え ん し ゅ う 皇 の 譲 位 に 備 え て 造 営 さ れ た も の で す 。 大 宮 御 所 も 仙 洞 御 所 と 同 じ 時 、 東 福 門 院 ( 後 水 尾 天 皇 中 宮 ・ 徳 川 秀 忠 息 女 ) の 御 所 と し て 女 院 御 所 跡 に 造 ら れ ま し た 。 仙 洞 御 所 は 数 回 の 焼 失 を 繰 り 返 し 、 安 政 元 ( 八 五 四 ) 年 を 最 後 に 再 建 さ れ る こ と な く 、 今 は 苑 池 を 残 す の み で す 。 大 宮 御 所 も 同 じ く 安 政 元 年 に 焼 失 し ま し た が 、 英 照 皇 太 え い し ょ う 后 ( 明 天 皇 皇 后 ) た め に 慶 応 三 ( 八 六 七 ) に 再 興 さ れ 、 現 在 で は 国 賓 等 の 宿 舎 に 用 い ら れ て い ま す 。 ■ 他 所 に 移 さ れ た 内 裏 の 建 物 豊 臣 秀 吉 造 営 の 天 正 内 裏 ( 五 八 九 ~ 九 一 ) 慶 長 造 営 ( 、 六 一 一 ~ 四 ) 際 、 大 幅 に 取 り 壊 さ れ て 、 紫 宸 殿 は 泉 涌 寺 ( せ ん に ゅ う じ 山 区 ) 海 会 堂 と さ れ ま し た 。 慶 長 造 営 の 建 物 は 、 寛 永 造 営 時 ( 一 六 四 一 ~ 二 ) 一 部 取 壊 さ れ て 、 紫 宸 殿 は 仁 和 寺 ( 京 区 ) 金 堂 に 、 清 涼 殿 の 古 材 は に ん な じ 同 寺 御 影 堂 と 近 江 正 明 寺 ( 滋 賀 県 蒲 生 郡 日 野 町 ) 、 内 裏 し ょ う み ょ う じ 古 材 は 、 大 和 氷 室 神 社 ( 良 市 ) や 長 講 堂 ( 下 京 区 ) 下 賜 さ ひ む ろ ち ょ う こ う ど う れ ま し た 。 ま た 、 修 学 院 離 宮 ( 京 区 ) 中 御 茶 屋 の 客 殿 は 、 女 院 御 所 し ゅ が く い ん り き ゅ う 奥 対 面 所 が 東 福 門 院 没 後 に 、 当 時 、 離 宮 内 に 住 し て い た 皇 女 光 子 内 親 王 へ の 形 見 分 け と し て 移 建 さ れ た も の で す 。 て る こ ■ 里 内 裏 の 石 標 土 御 門 東 洞 院 内 裏 以 外 に も 里 内 裏 は た く さ ん あ り ま し た 。 現 在 、 以 下 の よ う に 、 そ の 一 部 に は 石 標 が 建 て ら れ て お り 、 跡 地 で あ っ た こ と を 示 し て い ま す 。 … 中 京 区 竹 屋 町 通 堀 川 西 入 冷 然 院 跡 れ い ぜ ん … 中 京 区 堀 川 通 二 条 下 る 東 側 堀 河 天 皇 里 内 裏 跡 ほ り か わ … 中 京 区 押 小 路 通 釜 座 西 北 角 東 三 条 殿 址 … 中 京 区 押 小 路 通 小 川 西 北 角 閑 院 内 裏 址 か ん い ん 北側から見た京都御苑の模型

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… 上 京 区 烏 丸 通 下 長 者 町 上 る 土 御 門 内 裏 跡 つ ち み か ど … 中 京 区 姉 小 路 通 釜 座 東 入 北 側 高 松 殿 址 … 中 京 区 富 小 路 通 夷 川 上 る 西 側 大 炊 御 門 万 里 小 路 殿 址 お お い の み か ど ま で の こ う じ … 中 京 区 富 小 路 通 夷 川 下 る 西 側 二 条 富 小 路 内 裏 址

参照

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