資 料
島根県の助産師教育の始まりとその変遷
Initiation and transition of midwifery education
in Shimane Prefecture
灘 久 代(Hisayo NADA)
*1狩 野 鈴 子(Reiko KANO)
*2 抄 録 目 的 島根県における助産師教育の歴史を辿り,その変遷を明らかにしながら,産科医不在・不足問題の渦 中にある助産師の取り組むべき課題を見出す。 対象者と方法 島根県の助産師教育に関係した機関や関係者に聞き取り調査を行うと共に,資料や文献から経時的に まとめた。 結 果 島根県の助産師教育は,明治24年「私立松江産婆養成所」として開校し,時代の流れのなかで何度も 名称を変えながら昭和28年まで続いた。新制度により一時,中断したが,昭和57年,助産師らの要請 を受け再び助産師教育が開始され,現在に至っているが,施設内外における助産師数の充足には至って いない。 結 論 時代が大きく様変わりする中で,お産・助産師教育,そして助産師のおかれている状況も変化する。今, 産科医不足の中で,妊産婦が安心して子どもを産み育てられるために,また需要に応えるためにも助産 師は,力量の形成と共に数の確保は必須であり,そのための職能団体・国の支援は重要である。 キーワード:島根県,助産師教育,変遷,時代,助産師 Abstract PurposeRecently, although most babies are delivered at hospitals, there is a shortage of obstetric doctors, especially in rural areas in Japan. Our purpose was to find themes and problems of present midwives by reviewing the history of midwifery education in Shimane Prefecture. We were inspired by the fact that Shimane Prefecture has 5 monu-ments commemorating 5 midwives dating back to 1918, an indication of the contribution of midwives in the past. Methods
The initiation and transition of midwifery education in Shimane were investigated using reference literature, as
*1徳島文理大学保健福祉学部看護学科(Department of Nursing, Faculty of Health and Welfare, Tokushima Bunri University)
*2島根県立大学短期大学部(出雲キャンパス)専攻科助産学(Midwifery Course, Department of Nursing, The University of Shimane Junior College) 2007年11月19日受付 2008年8月11日採用
well as interviewing related institutions and individuals between June 2003 and January 2006. Informed consent was obtained from each person and the findings were listed sequentially.
Results
We found that midwifery education in Shimane started in 1891, as the Matsue Nongovernmental Training School for Midwives. Though the name of the school was changed several times, it remained open until 1953. The school was discontinued until 1982, then restarted and continues as of today. However, the number of midwives re-mains insufficient.
Conclusion
Although situations of pregnant women and the role of midwives have been changing in accordance with the generations, midwives should be aware of the importance of their specialty to assist each pregnant woman for se-cured delivery, as well as collaborations with obstetricians and other midwives, while advocating a sufficient num-ber of midwives to meet the present-day needs.
Key words: Shimane Prefecture, midwifery education, transition, history, midwife
は じ め に
島根県は,全国でも珍しい「助産碑」が建立されて おり,現在,5つの碑を確認している。碑の背景には, 開業助産師たちの地域住民への計り知れない貢献が あったからだと思われる。このように助産師は地域の 中で,また家庭で,長い間,お産を取り扱ってきたが, 戦後の高度経済成長期を境に病院・診療所など,医療 施設内で行われるようになり,助産師の存在も自然と 影を潜めるようになった。ところが今,産科医不在, 不足問題という渦中において,助産師が再び注目を浴 びるようになった。 本調査は,この大きな変化の渦中にある助産師が, この時代の要請にどう応え,また向かい合うのか,助 産碑の背景にある助産師の歩みと,その活動の根底と なった島根県の助産師教育の変遷を顧みることで,1 つの示唆が得られると思われた。研 究 方 法
1.研究対象者と方法 助産碑および島根県の助産師教育の変遷について, 文献や資料と共に関連機関や関係者に聞き取り調査を 行った。 2.調査期間 平成15年6月∼平成18年1月まで。 3.データの整理方法 助産碑および島根県の助産師教育の経緯を時系列に まとめた。 4.倫理的配慮 関係者ならびに関連機関に,研究の主旨と調査協力 を書面で依頼し,電話で承諾を確認後,対象者の都合 の良い場所で面接や,電話による聞き取り調査を行っ た。データは研究目的以外に使用しないことを約束す ると共に,結果の公表および聞き取り時の筆記につい て,事前に承諾を得た。 注)産婆・助産婦・看護婦は,保健師助産師看護師法によ り助産師・看護師と名称が改正されているが,歴史的 な背景もあり,文中では当時のまま表現し,記述して いる。結 果
1.助産碑 1 )安井ラク産婆碑(写真1);天保4(1843)∼大正2 (1913)年,碑名「産婆安井ラク記念碑」,碑の建立 時期は不明だが,有志104名で,出雲市古志町思 案橋に建立されている(出雲市古志町誌編纂委員会, 1990)。 写真1 安井ラク(1843〜1913)産婆碑2 )原マサ産婆碑(写真2);弘化3(1846)∼昭和2(1927) 年,碑銘「産婆原マサ女壽碑」,出雲市知井宮町嘉 儀に建立されている。マサは,農業に精励し,育 児に努めた後,明治22(1889)年に産婆の資格を得, 知井宮村の産婆として30年間,活躍した。大正7 (1918)年9月,マサ73歳の時,産家280の産児,約1,000 人達したのを記念して,産家および有志によって碑 が建立された。碑の高さは台座を含め2m40cmもあ る。マサは当時としては,すこぶる健康で,まれに みる長寿であったことを祝って「壽」の文字が刻み 込まれた(郷土誌神門編集委員会,1997)。 3 )伊藤キノ産婆碑(写真3);安政3(1856)∼昭和元 (1926)年,碑銘「産婆伊藤キノ刀自」,出雲市神門 町沖上に建立されている。碑は産家によって,昭和 2(1927)年11月に建立された。碑面に「刀自」とあ るのは,万葉の時代から家事をつかさどる女性に対 して,尊敬の念をこめて使った言葉とされている(郷 土誌神門編集委員会,1997)。 4 )中村ソノ産婆碑(写真4);文久元(1861)∼昭和29 (1954)年,碑銘「助産碑」,出雲市木次町木次公園 に建立されている。建立は昭和8(1933)年,ソノ 73歳の時であった。碑の裏には「助産に50年従事し, その間4301人ものお産を慈母の心で取り扱い,そ の徳を表し,産家らで建立された」と刻まれている。 5 )佐藤サト産婆碑(写真5);明治6(1873)∼昭和36 (1961)年,子育て地蔵,松江市寺町東林境内に建 立されている。サトは明治28年,内務省の免許制 度で産婆の免許を取得した。この世を87歳で去る までの分娩介助数は,約1万人に及ぶ。昭和38年, サトの供養と共に,子どもが丈夫に育つようにと親 族によって建立され,碑の裏には「うまれいし幼子 どものいきいきと育つ姿をまもりつづけん」と刻ま れている(山陰中央新報,1978)。 写真5 佐藤サト(1873〜1961)産婆碑 写真4 中村ソノ(1861〜1954)産婆碑 写真3 伊藤キノ(1856〜1926)産婆碑 写真2 原マサ(1846〜1927)産婆碑
2.島根県の助産師教育の始まり 年号 西暦 事 項 明治元 1868 我国は江戸時代から産婆の名称で職業として一般化していたが,その教養は極めて低いものであっ た。そのため大政官布告を発して自覚を促した(島根県医師会史集委員会,1972)。 明治 7 1874 医制において産婆に関する条項を設け規定したが,各地方の取締規則に委ねられた(杉田,2007)。 明治 9 1876 我国の近代助産婦教育の始まりとして東京府病院内に産婆教授所を開設。産婆の養成と試験合格者 に対する仮免状の下付を始め,従来開業者の再教育をも実施した(木下,1974)。 明治16 1883 明治12年,全国のコレラ流行を契機に大日本私立衛生会を結成。各都道府県に支部がおかれ島根 県も知事の指令の下,県内郡市に衛生会を発足し,その1つに「簸川郡(現,出雲市)私立衛生会」 があった。主な事業は衛生知識の普及にあったが,その中に臨時看護婦の講習会及び産婆の再教育 の講習会もあった(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。(資料1) 明治17 1884 8月30日,島根県で「産婆取締規則」を制定し,満25歳以上の女子で新たに産婆免許鑑札を得んとす る者は,履歴書に所定の科目を修得した医師の証明書を添えて願出させた。また異常分娩に臨んで 手術を施すこと,産科器械を用いること,薬剤を与えまたは薬方を指示することを禁じた。この規 則は,出願者の年齢下限を引き下げた他は医制の規定に準ずるものであった(浜田市医師会,1998)。 明治23 1890 2月25日,島根県は産婆取締規則を更正し,第2条に「新たに産婆を営業せんとする者は科目試験を 受け,其の及第証写を添え願い出るべし,但し産婆学校卒業証書若しくは之に相当する資格を有す ると認める者は試験を要せす」とした(浜田市医師会,1998)。4月神かん戸ど郡(現,出雲市)今市町に産 婆講習所,8月津和野講習所を開設し,翌年1月に13人の卒業生を出している(浜田市医師会,1998)。 明治24 1891 島根県は4月2日付で「産婆試験科目及試験法」の告示を行った。内務省の免許を受ける者は筆記と 実地試験が課せられたが,県の免状を受ける者は本科(筆記試験)と簡易科(口答試験)に分けて実 施した。告示に基づいて4月25日から3日間,松江病院に於いて産婆開業試験を実施し,出願者は 2名であった。同年,私立浜田病院に産婆講習所,森本文斎(開業医)が私立松江産婆養成所を設け るなど,県下各地に小規模の産婆講習所が多数,設けられた(浜田市医師会,1998)。 明治30 1897 私立松江産婆養成所に看護婦科を併置し,校名を私立産婆看護婦養成所と改称した。 明治32 1899 産婆規則を公布し,産婆名簿登録規則・産婆試験規則を発布した。産婆の免許制度が確立し,全国 的レベルで資質水準の統一が図れた(日本助産婦会60年史編集委員会,1988)。(資料2) 明治39 1906 明治36年,医師開業試験に合格した島根県の福間ハルは産婆会を創設。新医学による産婆養成の ため安濃郡立(現,大田市)産婆講習所を開設した(島根県医師会史集委員会,1972)。 明治40 1907 簸川郡私立衛生会主催の講習会で講師を務めた7代目,三原介人(写真6)らは講習会が打切られた後, 各地区開業医の協力を得て産婆養成所を開設。自宅兼診療所の一部を区切り,畳敷に座机をおいた 寺子屋式の教室で,介人一族が教師となって産婆科・看護科の講義を担当し,町内外の寄託医院で 実習を行った(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。(資料3) 明治43 1910 邑智郡医師会は,生徒30名で邑智郡産婆養成所を開設。成績優秀のため矢上村(現,矢上町)にも 講習所を開設した。また同年,私立産婆看護婦養成所を私立松江産婆看護婦養成所と改称した(島 根県医師会史集委員会,1972)。(資料4) 明治44 1911 「三原私立産婆養成所」を「簸川郡私立産婆看護婦養成所」に改称した。第1期生は産婆科8名,看護 婦科1名で,本養成所を卒業すると,県の検定試験受験資格が得られた。 明治45 大正元 1912 簸川郡私立産婆看護婦養成所卒業式が7月に行われた。第1期卒業生片寄コマ(写真6)は10月に行 われた産婆検定試験を首席で合格した(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。 大正 7 1918 大正2年,森本文斎(59歳)がこの世を去り,当時としては私財を投げ出してまで産婆学校を開設す ることは画期的なことであった。そのため故人の徳を慕い,教え子たちが松江の地形を眺見して築 城の構想を練ったという景勝の地,床几山上に記念碑(写真7)を建て,功績を顕彰している(米田, 1972)。森本文斎死去後,私立松江産婆看護婦学校は子息(森本昇)が経営を敬称。私立松江女子看 護婦学校(明治42年6月松江市内の開業医,古瀬一郎氏と木村辰二郎が創設)と合併し,私立松江市 医師会附属産婆看護婦学校となった(写真8,資料5)。私立松江産婆看護婦学校が合併までに養成 した産婆数は133名,看護婦数は146名であった。私立松江女子看護婦学校が校舎とした為いしゅん春館かん(写 真9)を私立松江市医師会附属産婆看護婦学校が継続して使用した(島根県医師会史集委員会,1972)。
昭和 2 1927 11月19日,為いしゅん春館かんが狭くなったため,昭和3年,昭和天皇の御大典の記念事業として医師会館建 設の落成式が行われた(松江市医師会百年史編纂委員会,1990)。(写真10) 昭和16 1941 介人の夫人ダイ(写真6)が86歳の長寿を全うした。ダイは東京女医学校で勉学中「産婆規則」が公 布されたのを機に受験。産婆資格を得るや学業を廃して帰郷。産婆を開業しながら夫開設の「簸川 郡私立産婆看護婦養成所」講師を明治44年から務め,後進の養成と旧産婆の再教育に意を傾けた。 また東京仕込みの当郡初めての公許産婆であったが,進んで窮民の助産も引き受け,助産料を求め ず,産着・褥衣の類を持参することも毎々であった。老齢に至るまで東奔西奔し,簸川郡の「産婆 の産みの親」と敬慕された。ダイの徳を顕彰して碑の建立を企てられたが第2次世界大戦が勃発し, 実現せぬまま今日に至っている(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。 昭和17 1942 医療制度改革のため,医療関係法令を統合して国民医療法が制定され,産婆規則も同法律の中に規 定された(石原他,1987)。 昭和18 1943 国民医療法により,医師会令改正で医師会支部が財産を持つことを禁じた。全国各郡市医師会は解 散し,各府県医師会の支部に改組となり,建物,所有財産ならびに事業は総て島根県医師会の下に 入り,学校も島根県医師会附属松江産婆看護婦学校と改められた(出雲准看護婦学校史編集委員会, 1977)。 昭和19 1944 医師会支部が財産を維持するため財団法人の認可を受け,島根県医師会附属松江産婆看護婦学校は 財団法人松江産婆看護婦学校となった(松江市医師会百年史編纂委員会,1990)。(資料6) 昭和22 1947 7月,国民医療法の委任に基づく政令として「保健婦助産婦看護婦令」が公布。政令により産婆は助 産婦と法的に名称が改正され,産婆規則は殆ど内容の変更を見ることなく助産婦規則と改めた(看 護行政研究会監修,2006)。産婆の名称改正に伴い,財団法人松江産婆看護婦学校は財団法人松江 助産婦看護婦学校に改めた。また保健婦助産婦看護婦令の発令により旧産婆規則,旧看護婦規則に よる医師会運営の産婆及び看護婦講習所は閉鎖され,簸川郡私立産婆看護婦養成所は出雲看護婦学 校と改めた(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。 昭和23 1948 7月,国民医療法が戦後の社会情勢にそぐわないことから廃止し,これに伴って保健婦助産婦看護 婦令を引き継いだ形で保健婦助産婦看護婦法(以後,保助看法)を新しく制定し,現在の看護制度 が発足した。同時に甲種看護婦・乙種看護婦が規定され甲種は高卒3年,乙種は中卒2年の新制度 の看護婦教育が9月から始められた(亀山,1991)。8月,出雲看護婦学校は学校教育法(昭和22年3 月制定)による各種学校の認可を知事より受けた(出雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。 昭和24 1949 昭和24年5月,保助看法に基づき文部・厚生両省の省令として,保健婦助産婦看護婦学校養成指定 規則が定められた(小山,2003)。 昭和25 1950 甲種看護婦国家試験が実施された(資料7)。旧規制の看護婦で一定の教育と実務経験のある者は, 厚生省認定の講習を受け,甲種看護婦国家試験を受けて甲種看護婦になる事ができた。第1回目の 甲種看護婦国家試験は,旧看護婦規則による看護婦免許取得者のみを対象とし,第2回目は新法に よる看護学院第1期生と既得権者のうち指導的立場の人が主に受けた。この頃より甲種看護婦・乙 種看護婦制度が上手く機能せず,社会問題となった。 昭和26 1951 4月14日,保助看法の一部が改正され甲種看護婦,乙種看護婦の区別を廃止した。同時に准看護婦 制度を設け看護婦,准看護婦制度に改めた。さらに11月,法律改正により認定講習を廃止し,旧 制度看護婦は国家試験を受けなくても登録料1000円を払うことで国家免許に切り替えができた(大 林道子,1985)。同年3月まで旧制度が並行し,同年8月に最後の検定試験が行われた。さらに同年, 保健婦助産婦看護婦学校養成指定規則が公布され,旧来は国民学校を出て,直ちに助産婦教育を受 けることができていたが(山下 猛,1951),助産婦学校への入学資格を,看護婦資格を基盤にした 甲種看護婦国家試験合格者とした(小山,2003)。同年5月,島根県は県民の健康保持,看護婦の需 要から出雲市に乙種看護婦養成所として島根県立看護学院(2年課程)を創立し,出雲看護婦学校は, 法律の一部改正によって同年9月,認可を受けて准看護婦を養成する出雲准看護婦学校となった(出 雲准看護婦学校史編集委員会,1977)。 昭和27 1952 新制度による助産婦教育(看護婦の教育課程修了後1年の教育課程)が開始し,教育後に国家試験を 受けることになった(氏家,1991)。12月,第1回助産婦国家試験が行われた(日本看護協会出版会編, 2004)。新制度により戦前派61校あった助産婦養成学校は,全国で僅か8校に激減した(葉久,2006)。
昭和28 1953 4月,乙種看護婦養成所として創立した島根県立看護学院(2年課程)は,法律の一部改正によって 看護婦養成所または准看護婦養成所に転換の行政指導があり,改めて厚生大臣の指定を受けて3年 課程の看護婦養成所,島根県立高等看護学院を発足した(瀬戸山元一編,1998)。旧制度の助産婦は 昭和26年4月の入学生が最後となり,松江助産婦看護婦学校助産婦科は昭和28年8月,最後の卒業 式を挙行した(松江看護高等専修学校記念編集委員会,1994)。 昭和29 1954 乙種看護婦は4回生を卒業させたところで終了した。「乙種」が削除され,旧制度看護婦と同等の取 扱となった。 昭和32 1957 1月,島根県立高等看護学院は島根県立中央病院附属高等看護学院に改称した。 昭和42 1967 1月,島根県立中央病院附属高等看護学院は再び島根県立高等看護学院に改称した。 昭和49 1974 4月,島根県立高等看護学院は島根県立出雲高等看護学院に改称した。 昭和57 1982 4月,島根県立出雲高等看護学院は島根県立総合看護学院と改称し,助産学科が新設された。松江 助産婦看護婦学校助産婦科以来,30年ぶりの再開となった(瀬戸山元一編,1998)。 平成 7 1995 4月,島根県立総合看護学院は島根県立看護短期大学として開学した。 平成10 1998 4月,島根県立看護短期大学に専攻科助産学が開設された。 平成19 2007 4月,島根県立看護短期大学は島根県立大学,島根県立女子短期大学と合併。さらに法人化となり, 地方独立行政法人島根県立大学短期大学部専攻科助産学として現在に至る。 資料1 明治36年 島根県簸川郡私立衛生会 卒業証書 資料2 明治36年 島根県産婆試験合格証書 職 員 所長兼教師 三原介人 産婆科教師 三原ダイ 教師(医師) 三原氷四郎 学科課程 と教科書 産婆科 榊原順二郎著 産婆教程 二巻看護婦科 確井龍太郎著 看護婦科教程 二巻 教習時間 産婆科 毎日2時間学説講義後随時実習 看護婦科 毎日2時間学説講義 実 習 夫々の寄托医院にて実習 修業年限 各科 2ヵ年 資料3 簸川郡私立産婆看護婦養成所の概要 (出雲准看護婦学校史より抜粋) 資料4 私立松江産婆看護婦学校校歌案 私立松江市医師会附属産婆看護婦学校校報第2号(昭和13)より
写真6 明治45(1912)年7月、「簸川郡私立産婆看護婦養成所」第1回卒業写真 三原介人(前列中央) 三原ダイ(介人より左3人目) 片山コマ(2列目 右より2人目) 写真7 森本文斎の碑 写真8 昭和3年 私立松江市医師会附属産婆看護婦学校卒業写真 資料5 昭和4年私立松江市医師会附属産婆看護婦学校 卒業証書 写真9 当時の私立松江女子看護婦学校が校舎としていた為春館(資料 島根県医家列伝(米田正治)より抜粋)
考 察
1.時代の変革期での助産師 助産師の仕事は,看護職の中でもっとも早くから職 業として確立し,その教育組織や法規も早くから整備 され,社会的にも承認されてきた。島根県でも産婆の 免許や取締りについての規則は定めたが,県が自らそ の養成に乗り出すことはなかった。そこで開業医(産 婦人科)たちは私有財産をも投げ打って,庶民の教育 も十分でなかった時代に,県下各地に産婆講習所を設 け,個人授業に等しい方法で,夜間診療や手術がない 時に近隣の志願者を自家に招いて産科学を教え,産婆 養成に尽力した。このように開業医たちが,地域医療 や保健衛生に大きな影響を与えた産婆養成も時代の波 に飲み込まれ,島根県では戦後,新教育制度の下,30 年ほど助産師教育の火が途絶えた。 助産師教育が途絶えた昭和27年から58年までの間, 助産師による自宅分娩の主流から,日本に駐留した連 合軍指令部(GHQ)の出産の医療化,施設化の方針等 により,昭和35年には半数以上が病院などの医療施 設内分娩に移行した(竹内,2003)。その渦中,地域の 助産師は力を合わせ,共同助産所や厚生省の補助事業 としての母子センターの開設に尽力した。昭和32年 に島根県助産婦会館設立と同時に館内に助産所を設け, 昭和34年には邑智郡邑南町母子健康センター,三隅 町立母子健康センター,石見母子健康センター,を開 設し,正常産を助産師の手で守り続けた。しかし昭 和40年代の半ば頃より,高度成長の時代背景と共に, 医師による産院開設が多くなり,昭和48年には84%, 昭和51年には99%が施設分娩となり(杉山,2002), 地域に密着した開業助産師による家庭分娩は毎年毎に 激減し,同時に地域助産師の高齢化で助産師数の減少 も進んだ(表1)。 そして,ほとんどが施設分娩となり,第二次ベビー ブーム到来と共にどの施設でも分娩数が増加し,助産 写真10 当時の医師会館 (私立松江市医師会附属産婆看護婦学校) 資料6 昭和22年 財団法人松江産婆看護婦学校 卒業証書 資料7 第1回甲種看護婦国家試験合格書 表1 島根県の産婆数(島根県統計書より抜粋) 年 号 助産師数 年 号 助産師数 年 号 助産師数 明治13 483 明治40 628 昭和15 470 明治18 841 大正元 603 昭和40 497 明治19 953 大正 5 603 昭和45 279 明治24 1.281 大正10 556 昭和50 223 明治25 614 昭和元 533 昭和55 234 明治30 690 昭和 5 561 平成16 212 明治35 640 昭和10 594師は夜勤日数や産直制による重労働で深刻な助産師不 足問題が浮上した。そこで日本看護協会島根県支部助 産師部会は,県に対し助産師学校の設置を求めて陳情 活動を行った。その取り組みもあって,30年ぶりに島 根県での助産師教育が県の設置で再開となった(島根 県看護協会記念誌編集委員会,1992)。現在,島根県 での助産師養成は地方独立行政法人島根大学短期大学 部専攻科助産学が,県内唯一の教育機関である。しか し施設内外における助産師数の充足には至っておらず, 県内の助産師数も今なお減少している(表1)。 あわせて助産師教育は,今や専門職大学院や修士課 程で資格を得る時代となり,体系化された理論と,知 性に裏づけされた高度な技術を伴う職業として発展し ているが(加藤,2007),その一方で助産師養成は,4 年制大学の内で僅か半年程度の教育期間で十分,専門 性を学べないまま卒業している学生も少なくない。し かも看護大学が160校を越えたものの,助産課程の定 員は少なく,そのうえ助産師学校や短期大学専攻科の 数も減少し,数の確保も十分ではない。 2.現況での助産師の課題 昭和35年代から急速に進んだ施設分娩の過程では, 正常産から異常産まで産科医主導で取り扱われてきた。 しかし,ここにきて産科医療事情が大きく変化し,平 成18年4月以降,お産の取り扱いをやめた病院は77病 院で,3月末での休止は22病院。他に6病院が平成19 年度中に分娩をやめ,さらに減少する傾向にある。主 な休止理由は,人手不足に陥った大学の医局による引 き揚げ,開業や定年で退職した医師の後任が不在,医 師一人で分娩を取り扱うリスクの回避,過酷な勤務状 況などである(朝日新聞,2007)。 そうした中,厚生労働省は新しい周産期医療体制の あり方を考える中で,院内助産所と助産師外来を推進 するまでになった(森山,2007)。その役割の存在モデ ルは「開業助産師」と思われ(江角他,2007),正常妊 産婦については,助産師が妊娠・分娩・産褥までの一 貫したケアを自立して行うことへの期待が高まり,産 科を持つ病院が,院内助産所や助産外来開設を促進す るために,医療機関管理者,助産師に研修を行う費用 を予算化した(村上,2008)。しかし助産師数の減少に 加え,時代の流れの中で正常分娩を医師に委ねてきた 助産師にとって,すぐさま役割を担うことは容易では ない。昭和33年(3/10付)の島根新聞には,「出生率 が低下しているから,助産婦の数もそう必要ないだろ うなどという考え方は間違いで,実際には優秀な技術 と豊富な知識を持った助産婦が足りなくて困っている のが現状である。最近は病院や産院など出産整備の 整っているところで出産する人が増えているが,一 番,助産婦が不足しているのは,これらの施設である。 今,全国で5万5千人といわれる助産婦のなかで,病院, 産院で働いている人はわずか2千5百人くらい,残り は独立開業しているが,この人たちの平均年齢は55 歳で,若い人たちとの間にはかなりの年齢的ギャップ があり,その上,若い助産婦のなかには,まだ経験の 浅い人もずいぶんおり,熟練した腕利きはごく少なく なってしまう」と,施設内助産師数だけではなく,助 産師の質についても既に記載されている。それから 50年が過ぎた現在,産科医不足という事態から,今 なお助産師の量・質ともの課題を抱えている。再び助 産師の手に正常産を取り戻し,お産の中心的存在とし て病院の中で自立し,職責を全うするには,まずは自 らの術を磨くことにある。 3.自分を活かす助産師業 顕彰碑が建てられた産婆の時代から今日において, 助産師は仕事場所を自宅から医療施設へ,そして,お 産そのものも助産師から医師の介助へと移っていった。 さらに地域の人々から「産婆さん」と親しみをこめて 呼ばれてきた名称も助産婦,助産師と改称された。そ して助産師は,お産を助ける助「産」師ではなく,医 師を助ける助「医」師となっている場面も見受けられ る(陣痛促進剤による被害を考える会編,2003)と指摘 され,助産師自身も産科病棟の閉鎖や混合化が進むな か専門性を生かせられず,モチベーションを低下させ ている(産科病棟における調査委員会メンバー,2004)。 さらに島根県では平成19年,地域に密着し,住民にとっ て身近な存在として活動を続けてきた有床の助産院が 途絶えた。 家庭分娩の時代,開業助産師たちは外回転術や分娩 介助に高い技術を持ち,医師からも信頼されていた。 技術は学校で教えられたものだけでなく,各々の助産 師が技術なくしは母子の命を守れない,人からは信頼 が得られない,という思いで経験を積み重ね,体得し てきたものである。そして必要とされれば,損得を考 えずに駆けつけ,母と子,2つの生命を守るために助 産師としての自分を限りなく活かしてきた。例えば被 爆直後,死臭と血とうめき声に満ちた焼け残りのビル の地下室で,若い女性が産気づき,マッチ一本ない暗
がりで,どうしたらいいのだろうと,人々は自分の痛 みも忘れて気づかった。そのとき「私が産婆です。私 が生ませましょう」といったのは,先ほどまで,うめ いていた重症者であった。暗がりの地獄の底で新しい 命は生まれ,命を取り上げた産婆は,暁を待たず静か に死んでいった(栗原,1991)助産師の姿がある。 「仕事は人である」といわれるように,1つ1つの実 践は単なる手技に終わるものではない。人を相手にす る職業,特に出産という人間的な営みにおいては,目 に見えない人間と人間との温かい触れ合い,人間的な ぬくもりが人を安心させる(灘,2007)。産科医の減少 に伴い,産科事情も変化し,変化に対応できる技量も 助産師の使命として求められるが,同時に人間愛や生 命への慈しみを育て,助産師としての人間性(精神性) に磨きをかけることも業といえる。
結 論
戦後の教育改革に伴う助産師養成課程の激変により, 全国に助産師学校の数も少なく,定員も限られた。そ して戦後の施設化の方針から,医師主導の施設分娩と なり,助産師の質も自然と低下した。こうした状況の 一方で,今,産科医不足の対応として,かっての開業 助産師を反映した助産師外来・院内助産院開設の推進 が図られるなど,社会の変動が助産師の働き方にも影 響し,時代や産科医療の変化に翻弄されてきた面は拭 えない。 刻々と変化する社会情勢の中で,起こってくるさま ざまな課題に助産師として適正に対処していくには, 状況を的確に捉え,しっかりとした信念や技を持って 仕事に取り組み,社会に貢献する必要がある。また状 況を改善し,助産師の発展を生むためにも質と共に量 は必須である。そのためにも助産師同士の協力や結束 力,政策と連動した専門職団体の活動が大きな鍵とな る。 謝 辞 お忙しい中,本研究へのご理解とご協力を頂きまし た三原医院院長三原淳良先生,森本病院院長森本紀彦 先生,池田悦子助産師,(故)加納繁代助産師,秦 春江助産師,堀西クニエ助産師,八幡清子助産師,佐 藤友章氏,藤原重信氏らからは,貴重なお話や資料, 写真を拝借することができました。心より感謝申し上 げます。 注)島根県の助産師教育の変遷については,年代を経てい ることもあり,限られた方々からの聞き取りと資料・ 文献から提示していることもあり,本稿での事実の間 違い等がありましたら,ご遠慮なくご教示を頂きたい と思います。 引用文献 朝日新聞(2007).3月25日掲載. 江角二三子,皮野さよみ(2007).地域と助産師の連携, 日本助産学会誌, 20(3), 35. 葉久真理(2006).助産師教育の現状と将来展望,四国医 学雑誌, 62(5・6), 211-218. 浜田市医師会(1998).濱田市医師会史,115-117,浜田: 浜田市医師会. 飯島信(1970).教育原論,178-181,東京:法政大学出版局. 石原明,杉田暉,長門谷洋治(1987).看護史,146-149,東京: 医学書院. 石井トク(2005).母子の安全を保障するために,助産師, 59(4), 92-93. 出雲市古志町誌編纂委員会(1990).出雲市古志町誌, 526-529,出雲:出雲市古志町誌編纂委員会. 出雲准看護婦学校史編集委員会(1977).出雲准看護婦学 校史,7-31,出雲:出雲医師会. 亀山美知子(1991).看護MOOK No.3,日本における看 護教育の歴史,11-19,東京:金原出版. 加藤尚美(2007).プロフェショナルとは,助産師, 61(4), 6-8. 看護行政研究会監修(2006).看護六法,873-875,東京: 新日本法規. 木下安子(1974).近代日本看護史,6-11,東京:メジカル フレンド社. 小山真理子(2003).68-79,看護教育の原理と歴史,東京: 医学書院. 栗原貞子(1991).日本の原爆記録19,ヒロシマというとき, 326-327,東京:日本図書センター . 郷土誌神門編集委員会(1997).郷土誌神門,479-486,出雲: 郷土誌神門刊行委員会. 松江看護高等専修学校記念編集委員会(1994).創立80周 年記念誌,13-16,島根:松江看護高等専修学校. 松江市医師会百年史編纂委員会(1990).松江市医師会百 年史,551-573,島根:松江市医師会. 村上睦子(2008).日本赤十字社医療センターでの助産外 来の歩み,助産雑誌, 62(3), 194-197. 森山幹夫(2007).院内助産所と助産師外来はお産の救世 主か,ペリネイタルケア, 26(7), 76-77.灘久代(2007).姑から学んだ助産師業,そして自分が生 きた道,日本助産学会誌, 21(1), 40-51. 日本看護協会出版会編(2004).平成16年看護関係統計資 料集,32-33,東京:日本看護協会出版会. 日本助産婦会60年史編集委員会(1988).60年のあゆみ, 7-10,東京:社団法人日本助産婦会. 大林道子(1985).助産婦職能の変遷を探る6,助産婦雑誌, 39(6), 79-85. 大林道子(1987).助産婦職能の変遷を探る22,助産婦雑誌, 41(4), 74-79. 産科病棟における調査委員会メンバー(2004).産科病棟 における混合化の実態調査に関する報告書,3-24,東 京:社団法人日本助産師会. 山陰中央新報(1978).1月8日掲載. 杉山義一(2002).お産の歴史,218-222,東京:集英社. 瀬戸山元一編(1998).閉校記念誌 看護の礎,80-85,出雲: 島根県立総合看護学院. 島根県医師会史集委員会(1972).島根県医師会史,137-142, 島根:島根県医師会発行. 島根県看護協会記念誌編集委員会(1992).十周年記念誌, 26-27,島根:社団法人島根県看護協会. 竹内正人(2003).自然分娩とそのあり方,86(1).産婦人 科治療,8. 氏家幸子(1991).看護MOOKNo.3,看護教育の概念,1-9, 東京:金原出版. 山下猛(1951).日本助産婦史,53-58,東京:社団法人日 本助産婦会. 米田正治(1972).島根県医師医家列伝,121-130,島根: 今井書店. 陣痛促進剤による被害を考える会編(2003).陣痛促進剤 あなたはどうする,79-82,神戸:さいろ社.