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野上弥生子とゲーテ(二)--『ゲエテとの對話』「第一」「第二」-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 一七

    一   前稿 ﹁ 野上弥生子 とゲーテ ︵ 一 ︶ ― ﹃ 伊太利紀行 ﹄ 及 び ﹃ イフヰゲー ニ エ ﹄ ― ﹂ で は 、 弥 生 子 が 大 正 十 二 年 八 月 二 日 の 日 記 の 欄 外 に 記 し た ﹁ ゲーテのイフゲナイアをよむ 。﹂ の ﹁ イフゲナイア ﹂ とは 、 同年五月 二十日 に 刊行 された 舟木重信譯 ﹃ タウリスのイフヰゲーニエ ﹄︵ 岩波書 店 ︶ であることを 指摘 した 。 併 せて 、 弥生子 がこのとき ﹃ タウリスのイ フヰゲーニエ ﹄ を 読 んだ 理由 として 、 当時 ギリシア 悲劇 に 傾倒 していた 夫豊一郎 の 影響 が 大 きいことを 指摘 した ︵ 1 ︶ 。   本稿 では 、 大正十三年十一月 から 翌年 の 一月 にかけて 弥生子 が 読 んだ ﹁ ゲ ー テ と の 対 話 ﹂ の 訳 本 を 特 定 し 、 つ い で 日 記 に 言 及 さ れ た 箇 所 を 特 定 し 、 さらには 同 ﹃ 対話 ﹄ が 弥生子自身 の 作品 にどう 活用 されているか などを 中心 に 見 ていきたい 。   弥生子 は 大正十三年十一月十三日 に 日記 に 次 のように 記 している 。   十三日   父 さ ん は 今 日 学 長 や 竹 内 さ ん と 学 校 の 敷 地 を 見 に 行 つ て 七 時 頃 に 帰 る 。 吉祥寺 の 先 を 二 ケ 所見 たのださうな 。 明後日 また 一 ケ 所見 に 行 く 筈 。 住宅組合 の 低利資金 の 借入 も 出来 た 由 、 最高四千円 。 それで 土地 を 買 つておくとよいとおもふ 。 千坪位 。 この 間 ゲエテの 対話 をよんだ 時 、 ゲーテ ・ ハウスの 樹 がゲエテが 四十年前 に 植 えたのだといふくだ りをよんで 感動 したことをおもひ 出 す 。 家 は 小 さくともよろしい 。 樹 木 は 多 くなければ 。 同時 に 知識的 なよい 隣人 を 持 ち 度 いとおもふ 。 し かし 日本 では 男 はしらず 女 はそんな 気 をおこしても 絶望 である ︵ 2 ︶ 。   昭和五十二年 、 弥生子 は ﹁ 文学 と 思想 ﹂ と 題 する 対談 の 中 で 、 対談相 手 の 中村哲 に 対 して 、﹁ たとえば 、 あれ 、 御存知 ないでしょうか 、﹃ ゲー テとの 対話 ﹄ のもとの 亀尾英四郎 さんの 翻訳 。 あれが 初 めて 二巻 もので 出 た と き な ん か 、 一 字 一 字 暗 記 す る ほ ど 精 読 し 、[ 宮 本 ] 百 合 子 さ ん に も 読 むことを 勧 めたものでした 。 ︵ 3 ︶ ﹂ と 語 っている 。 弥生子 がここで 言 及 し て い る ﹃ ゲ ー テ と の 対 話 ﹄ と は 、 春 陽 堂 か ら 刊 行 さ れ た エ ツ ケ ル マ ン 著 、 龜 尾 英 四 郎 譯 ﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 一 ﹂︵ 大 正 十 一 年 十 一 月

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一八 二 十 一 日 ︶ と 同 ﹁ 第 二 ﹂︵ 大 正 十 三 年 九 月 五 日 ︶ で あ る 。 ゲ ー テ が エ ッ ケルマンに 自分 の 庭園 の 樹木 は 四十年前 に 自 ら 植 えたものだと 語 った 件 は ﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 一 ﹂ の 一 四 二 三 頁 に 見 え る 。 一 八 二 四 年 三 月二十二日 、 エッケルマンはゲーテの 庭園 を 案内 される 。 エッケルマン は 丘 の 上 からの 眺望 を 楽 しみたい 旨 をゲーテに 伝 えると 、 ゲーテはそれ に 同意 し 、 先 に 立 って 坂 を 登 り 始 める 。    坂 の 反對 の 側 へうねうねとした 道 を 下 りながら 、 私 は 潅木 にとり 圍 まれた 次 のやうな 有名 な 詩 の 句 を 刻 んだ 一 つの 石 を 見 つけた 。     ������������������������������������������������������ ̶̶     此處 で 靜 かに 男 が 戀 しい 女 を 想 ふた 。    そして 、 私 は 現 に 古典 めきたる 場面 に 居 るやうな 氣 がした 。    そのすぐ 近 くに 半 ば 生長 した 槲 や 樅 や 、 白樺 や 山毛欅 の 木 の 群 があ つた 。︵ 中略 ︶    樹木 の 群 を 廻 つて 再 たび 家 の 近 くの 大道 に 出 た 。 今 しがた 廻 つて 來 た 槲 や 樅 や 白樺 や 山毛欅 は 互 に 交 り 合 つて 、 眞中 の 空地 の 上 に 半圓形 の 天井 を 描 いてゐる 。 その 中 で 、 圓 い 机 をとり 圍 んでゐる 小 さな 椅子 に 二人 は 腰 を 下 ろした 。    太陽 は 非常 に 強 く 、 落葉 した 樹 のささやかな 影 がもう 氣持 ちのいゝ ほ ど で あ つ た 。﹃ 夏 の 日 盛 に は ﹄ と 、 ゲ エ テ は 言 つ た 、﹃ こ ゝ が 何 よ り の 避 難 所 だ 。 私 は か う い ふ 樹 木 を 四 十 年 前 に 全 部 自 分 で 植 え つ け た 、 以前 は 樹木 の 大 きくなつて 行 くのが 樂 しみだつたが 、 今 ではもうこの 凉 しい 樹蔭 を 樂 しめるやうになつた 。 槲 や 山毛欅 の 葉 は 強 い 日光 でも と ほ らない 。 暖 い 夏 の 日 の 晝食後 には 此處 に 腰 を 下 ろしてゐるのが 好 きだ 。 ともするとこの 草地 から 公園一體 にかけて 、 昔 の 人々 が 牧神 が 眠 つてゐるとも 言 ひさうな 、 靜 かさが 支配 するからである 。﹄   かれこれする 内 、 町 で 二時 を 打 つ 音 が 聞 こえたので 、 我々 は 家 へ 歸 つ た ︵ 4 ︶ 。   樹 木 に 囲 ま れ た 静 か な 環 境 の 中 で 、 読 書 や 執 筆 に 専 念 し た り 、﹁ 知 識 的 によい 隣人 ﹂ と 知的 な 会話 を 楽 しみたいというのが 弥生子 の 夢 であっ た 。 彼女 の 夢 は 後年 、北軽井沢 の 山荘 と 田辺元 という 形 でかなえられる 。   大 正 十 三 年 十 一 月 十 三 日 の 日 記 の 中 で ﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 一 ﹂ 中 の 一節 に 言及 してから 一 ヶ 月後 の 十二月十六日 の 日記 に 、 弥生子 は 次 の ように 記 している 。   十 六 日   ゲ ー テ と の 対 話 集 ︵ 下 巻 ︶ を ま た ぼ つ ぼ つ よ ん で ゐ る 。 い ろ いろなことを 考 へさせられる 。 ゲーテ ほ どの 人 でもひどい 推敲 をした のだ 。 チロル 人 の 小唄 をきいて 、 ゲーテ 家 の 人 たちやエッケルマンな ど が 感 心 す る の を ゲ ー テ は 組 し な い で 、﹃ 桜 ん 坊 や 苺 の 味 は 雀 と 子 供 に 聞 け ﹄ と 云 つ て ゐ る の を お も し ろ く よ ん だ 。 斯 ん な 言 葉 や 警 句 を 引 けばきりがないのだが 。 ― 夏目先生 の 木曜会 の 話 なども 気 をつけてよ く 書 いておくとよかつたのだとおもふ 。 小宮 さんなどなさればよかつ たとおもふ ︵ 5 ︶ 。   ﹁ ゲーテとの 対話集 ︵ 下巻 ︶﹂ とは ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ のことで あ る 。 ゲ ー テ が ﹁ 桜 ん 坊 や 苺 の 味 は 雀 と 子 供 に 聞 け ﹂ と 言 っ た エ ピ ソ ー ドは ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂の 最初 の 頁 に 紹介 されている 。    千八百二十八年六月十五日 、 日曜    われわれが 食卓 についてしばらくすると 、 ザイデル 氏 ︵ ������ ︶ はチ ロル 人 を 伴 れて 來 た 。 開 け 放 たれた 戸 から 姿 がよく 見 え 、 歌 が ほ どよ く 聞 えるやうに 、 歌 ひ 手達 は 圓亭 にと ほ された 。 ザイデル 氏 はわれわ れ の 食 卓 に む か つ た 。 快 活 な チ ロ ル 人 の 小 唄 や ゲ ヨ オ デ ル ︵ チ ロ ル 人 特有 の 歌 ︶をわれわれ 若 い 者 は 面白 がつた 。 ウルリケ 孃 と 私 は 特 に﹃ 花 束 ︵ ������� ︶﹄ と ﹃ 君 よ 、 君 はわが 心 に ︵ ���������� ������������������ ︶﹄ と 野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 一九 が 氣 に 入 つた 、 われわれはその 原本 を 求 めた 。 ゲエテ 自身 はわれわれ の よ う に 面 白 が つ て ゐ な か つ た 。﹃ 櫻 ん 坊 や 苺 の 味 は ﹄ と 彼 は 言 つ た 、 ﹃ 子 供 や 雀 に 聞 け 。﹄ 歌 の 間 ま に チ ロ ル 人 は い ろ ん な 國 振 り の 舞 踏 を 、 一種 の 横 にした 彈琴 と 喨 らな 横笛 とに 合 はせてした ︵ 6 ︶ 。   弥 生 子 は ゲ ー テ が チ ロ ル 人 の 小 唄 や ヨ ー デ ル と い っ た 素 朴 な 芸 能 を ﹁ 櫻 ん 坊 や 苺 ﹂ に 喩 えたが 愉快 であったらしい 。   一八二八年九月十一日 、 エッケルマンはゲーテが 自分 の 全集 に 収録予 定 の ﹃ ウィリアム ・ マイスターの 遍歴時代 ﹄ の 改作 に 苦心 していると 記 している 。 弥生子 の 言 う ﹁ ゲーテ ほ どの 人 でもひどい 推敲 をしたのだ 。﹂ とはこの 個所 を 指 しているのであろう 。    かゝる 一切 の 目前 の 事 を 一層煩 はしくした 一 つの 事情 を 私 はみのが し て は な ら な い 。﹁ 遊 歴 時 代 ﹂ の 入 る 筈 の 彼 の 全 集 の 第 四 巻 は ク リ ス マスに 印刷 へ 渡 さねばならなかつた 。 昔一巻 で 出 したこの 小説 をゲエ テ は 全 然 改 作 し だ し て ゐ た 、 昔 の も の に 多 く の 新 し い も の と 合 せ て 、 新版 では 三巻 にしてだすつもりである 。 もつともかなり 出來 てはゐる が 、 まだ 終 まぬところがよ ほ どある 。 草稿 にはまだ 埋 ねばならぬ 白 い あ き が い た る 所 に あ る 。 或 は エ ク ス ボ ヂ チ ォ ン に み た ぬ と こ ろ が あ る 、 或 は 讀者 によせ 集 めの 作 だと 思 はせないやうに 、 巧 みな 推移 を 考 へねばならぬ 。 かやうにして 、 この 重要 な 書 を 同時 に 氣持 よく 、 典雅 にするには 、 三巻 を 通 じて 、 まだ 非常 に 多 くの 修正 が 要 る ︵ 7 ︶ 。   弥 生 子 は 漱 石 山 房 に お け る 木 曜 会 に 出 席 し た こ と は 一 度 も な か っ た が 、 漱石 の 門下生 の 一人 であった 夫豊一郎 からその 模様 や 話題 について 詳 しく 聞 いていた 。    私 は 、 この 、 夜 の 木曜会 というものには 、 一度 も 列席 いたしたこと は ご ざ い ま せ ん 。︵ 中 略 ︶ し か し 、 私 は 、 木 曜 会 の こ と は 非 常 に よ く 知 っております 。 それは 、 才気煥発 なお 仲間 の 末席 に 座 って 、 おとな しく 聞 き 手 の ほ うへ 廻 っていたであろう 野上 は 、 存外 こまかいことを 見 聞 し て 来 て 、 み や げ 話 に 、 き ょ う は ど う い う 作 品 が 読 ま れ た と か 、 それがどういう 批判 を 受 けたとか 、 そうして 、 先生 がどうおっしゃっ たとか 、 高浜 さんがどうだとか 、 そういうふうなエピソードを 、 いろ いろと 聞 かしてくれたものでした ︵ 8 ︶ 。   ﹁ 夏目先生 の 木曜会 の 話 なども 気 をつけてよく 書 いておくとよかつた の だ と お も ふ 。﹂ と は 、 自 分 や 門 下 生 が そ う し な か っ た こ と へ の 強 い 後 悔 の 言葉 ととれる 。 なお 、﹁ 小宮 さん ﹂とは 漱石 の 門下生小宮豊隆 である 。 小宮 は 十五年後 の 昭和十三年七月 に 漱石 の 伝記 ﹃ 夏目漱石 ﹄︵ 岩波書店 ︶ を 著 わしている 。     二   翌年 の 大正十四年一月十日 の 日記 にも 、﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ を 読 んでの 感想 がしたためられている 。   十日   又 ﹃ ゲ ー テ と の 対 話 ﹄ を も と き ど き 読 む 。 こ れ も い つ よ ん で も 興 趣 が つ き な い 。 抜 き 書 を し か け れ ど 殆 ん ど 全 部 を 書 か な け れ ば な ら な い わ け だ が 、 こ の 間 よ ん だ と こ ろ で 、﹃ 自 分 の 洒 落 の 一 つ ひ と つ に は 金 袋 が つ い て ゐ る 。 あ ら ゆ る 経 験 を 積 む た め に 五 十 万 円 の 私 財 を 使 ひ 、 ま た 今 ま で 文 学 的 労 作 か ら 来 た お び た ゞ し い 金 を 使 ひ 、 大 公 か ら は 百 五 十 万 円 の 金 ま で 出 た ﹄ と い ふ 言 葉 を よ ん で 、 い か に も ゲ ー テ ら し い 話 だとおもへた 。 一代 の 代表的人物 と 一緒 に 会食 する ほ どでなけれ ば 、 すつかり 社会 を 見 つくしたとは 云 へないといふのである 。 これは

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野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 一九 が 氣 に 入 つた 、 われわれはその 原本 を 求 めた 。 ゲエテ 自身 はわれわれ の よ う に 面 白 が つ て ゐ な か つ た 。﹃ 櫻 ん 坊 や 苺 の 味 は ﹄ と 彼 は 言 つ た 、 ﹃ 子 供 や 雀 に 聞 け 。﹄ 歌 の 間 ま に チ ロ ル 人 は い ろ ん な 國 振 り の 舞 踏 を 、 一種 の 横 にした 彈琴 と 喨 らな 横笛 とに 合 はせてした ︵ 6 ︶ 。   弥 生 子 は ゲ ー テ が チ ロ ル 人 の 小 唄 や ヨ ー デ ル と い っ た 素 朴 な 芸 能 を ﹁ 櫻 ん 坊 や 苺 ﹂ に 喩 えたが 愉快 であったらしい 。   一八二八年九月十一日 、 エッケルマンはゲーテが 自分 の 全集 に 収録予 定 の ﹃ ウィリアム ・ マイスターの 遍歴時代 ﹄ の 改作 に 苦心 していると 記 している 。 弥生子 の 言 う ﹁ ゲーテ ほ どの 人 でもひどい 推敲 をしたのだ 。﹂ とはこの 個所 を 指 しているのであろう 。    かゝる 一切 の 目前 の 事 を 一層煩 はしくした 一 つの 事情 を 私 はみのが し て は な ら な い 。﹁ 遊 歴 時 代 ﹂ の 入 る 筈 の 彼 の 全 集 の 第 四 巻 は ク リ ス マスに 印刷 へ 渡 さねばならなかつた 。 昔一巻 で 出 したこの 小説 をゲエ テ は 全 然 改 作 し だ し て ゐ た 、 昔 の も の に 多 く の 新 し い も の と 合 せ て 、 新版 では 三巻 にしてだすつもりである 。 もつともかなり 出來 てはゐる が 、 まだ 終 まぬところがよ ほ どある 。 草稿 にはまだ 埋 ねばならぬ 白 い あ き が い た る 所 に あ る 。 或 は エ ク ス ボ ヂ チ ォ ン に み た ぬ と こ ろ が あ る 、 或 は 讀者 によせ 集 めの 作 だと 思 はせないやうに 、 巧 みな 推移 を 考 へねばならぬ 。 かやうにして 、 この 重要 な 書 を 同時 に 氣持 よく 、 典雅 にするには 、 三巻 を 通 じて 、 まだ 非常 に 多 くの 修正 が 要 る ︵ 7 ︶ 。   弥 生 子 は 漱 石 山 房 に お け る 木 曜 会 に 出 席 し た こ と は 一 度 も な か っ た が 、 漱石 の 門下生 の 一人 であった 夫豊一郎 からその 模様 や 話題 について 詳 しく 聞 いていた 。    私 は 、 この 、 夜 の 木曜会 というものには 、 一度 も 列席 いたしたこと は ご ざ い ま せ ん 。︵ 中 略 ︶ し か し 、 私 は 、 木 曜 会 の こ と は 非 常 に よ く 知 っております 。 それは 、 才気煥発 なお 仲間 の 末席 に 座 って 、 おとな しく 聞 き 手 の ほ うへ 廻 っていたであろう 野上 は 、 存外 こまかいことを 見 聞 し て 来 て 、 み や げ 話 に 、 き ょ う は ど う い う 作 品 が 読 ま れ た と か 、 それがどういう 批判 を 受 けたとか 、 そうして 、 先生 がどうおっしゃっ たとか 、 高浜 さんがどうだとか 、 そういうふうなエピソードを 、 いろ いろと 聞 かしてくれたものでした ︵ 8 ︶ 。   ﹁ 夏目先生 の 木曜会 の 話 なども 気 をつけてよく 書 いておくとよかつた の だ と お も ふ 。﹂ と は 、 自 分 や 門 下 生 が そ う し な か っ た こ と へ の 強 い 後 悔 の 言葉 ととれる 。 なお 、﹁ 小宮 さん ﹂とは 漱石 の 門下生小宮豊隆 である 。 小宮 は 十五年後 の 昭和十三年七月 に 漱石 の 伝記 ﹃ 夏目漱石 ﹄︵ 岩波書店 ︶ を 著 わしている 。     二   翌年 の 大正十四年一月十日 の 日記 にも 、﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ を 読 んでの 感想 がしたためられている 。   十日   又 ﹃ ゲ ー テ と の 対 話 ﹄ を も と き ど き 読 む 。 こ れ も い つ よ ん で も 興 趣 が つ き な い 。 抜 き 書 を し か け れ ど 殆 ん ど 全 部 を 書 か な け れ ば な ら な い わ け だ が 、 こ の 間 よ ん だ と こ ろ で 、﹃ 自 分 の 洒 落 の 一 つ ひ と つ に は 金 袋 が つ い て ゐ る 。 あ ら ゆ る 経 験 を 積 む た め に 五 十 万 円 の 私 財 を 使 ひ 、 ま た 今 ま で 文 学 的 労 作 か ら 来 た お び た ゞ し い 金 を 使 ひ 、 大 公 か ら は 百 五 十 万 円 の 金 ま で 出 た ﹄ と い ふ 言 葉 を よ ん で 、 い か に も ゲ ー テ ら し い 話 だとおもへた 。 一代 の 代表的人物 と 一緒 に 会食 する ほ どでなけれ ば 、 すつかり 社会 を 見 つくしたとは 云 へないといふのである 。 これは

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二 〇 ゲーテにてはじめて 云 ひ 得 ることで 、 又 この 点東洋 の 隠遁的 な 文人 と 行 き 方 のちがふところだとおもふ 。 又斯 ういふ 言葉 も 記憶 に 深 く 刻 み つけられた 。 それは 、 大公 のやうな 壮麗 な 家 に 住 むと 、 無為 にしてな まける 気 になる 。 自分 たちは 矢張 りこの 粗末 な 不秩序 ジプシー 風 の 家 にゐる 時 が 一番自由 で 活動的 になるといふのである 。 ゲーテの 如 き 人 にしてもこの 言 があるかとおもへた ︵ 9 ︶ 。   弥生子 が 鉤括弧付 きで 記 した 箇所 ﹃ 自分 の 洒落 の 一 つひとつには 金袋 がついてゐる 。 あらゆる 経験 を 積 むために 五十万円 の 私財 を 使 ひ 、 また 今 まで 文学的労作 から 来 たおびたゞしい 金 を 使 ひ 、 大公 からは 百五十万 円 の 金 まで 出 た ﹄ は 、 一八二九年二月十三日 に 、 ゲーテがエッケルマン に 語 った 次 の 言葉 を 要約 したものである 。    ﹃ かゝる 一切 に 通 ずるには 年 をとらねばならない 、 又自分 の 經驗 を 購 ふに 十分 な 金 を 持 たねばならない 。 私 の 洒落 の 一 つ 一 つには 一袋 づ つの 金 がかかつてゐる 。 五十萬 の 私財 が 今 の 私 の 知識 をうるために 無 くなつて 了 つた 、 たゞ 私 の 父 の 全財産 だけでなく 、 私 の 俸給 も 、 五十 幾年來 の 漠大 な 文學的方面 からの 収入 もさうだ 。 加之偉大 な 目的 のた め 百五十萬 の 金 が 、 私 と 親密 にしていたゞき 、 その 行動 や 幸不幸 にた づさはらせていたゞいた 侯爵 から 出 てゐる ︵    � 10︶ 。   日記 にある 一文 ﹁ 一代 の 代表的人物 と 一緒 に 会食 する ほ どでなければ 、 す つ か り 社 会 を 見 つ く し た と は 云 へ な い と い ふ の で あ る 。﹂ は 、 右 の 引 用文 のすぐあとに 続 く 一節 ﹃ 才能丈 けでは 不充分 だ 、 卓識 をつむにはそ れ 以上 のものが 必要 だ 。 大 きい 環境 の 中 に 暮 らさねばならぬ 、 その 時代 の 花形連 が 骨牌 をとつてゐるのを 見 たり 、 自 ら 勝敗 に 加 はるやうな 機會 をつかまねばならない 。﹄ を 弥生子流 に 言 い 換 えたものであろう 。 また 、 ﹁ 東 洋 の 隠 遁 的 な 文 人 ﹂ と 社 交 を 重 ん じ る 西 洋 の 文 学 者 の ﹁ 行 き 方 ﹂ の 違 いにも 思 いをいたしている 。   ﹁ 大 公 の や う な 壮 麗 な 家 に 住 む と 、 無 為 に し て な ま け る 気 に な る 。﹂ 旨 の 発 言 を し た の は 、 一 八 二 九 年 三 月 二 十 三 日 の こ と で あ る 。 こ の 日 、 ゲーテはエッケルマンに 対 して 次 のように 語 った 。    ﹃ 華 やかな 家屋 と 室 とは 王侯 や 富豪 のものである 。 さういふ 中 に 暮 らすと 、 落 ちつき 、 滿足 して 、 何 もしたくないやうになる 。    ﹃ 私 の 性質 はさういふことにまるで 合 はない 。 カルルス 、 バ アドに 持 つてゐるやうな 華 やかな 家 にゐると 無性 に 無爲 になる 。 それに 反 し て 今 われわれのゐる 一種 の 不秩序 な 秩序 がありジプシイ 風 な 所 のある 貧 しい 室 のやうな 、 過当 な 家 が 私 に 合 ふ 、 内心 がのびのびとし 、 活動 的 になり 進 んで 働 くやうになる ︵    � 11︶ 。﹄   ゲーテでも 恵 まれすぎた 環境 の 中 では 無為 になりがちであったことを 知 り 、 天才 にもきわめて 人間的 な 弱点 があるのを 知 り 共感 を 覚 えたので あろう 。   四日後 の 大正十四年一月十四日 の 日記 には 、﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ に 対 する 比較的長 い 感想 が 記 されている 。   十四日   午前 はゲーテ 。 ゲーテの 死 に 対 する 沈着 をひどくかんじた ―― 大公母 の 死 の 時 、 又 はエッケルマンと 共 に 伊太利旅行 に 出立 して 、 ローマで 頓死 した 息子 の 若 いゲーテの 死 に 際 して ―― またフアウストの 二部 が どうして 完成 されたかの 順序 に 深 い 感銘 をおぼへた 。 八十余歳 の 老人 のあの 勢力 と 芸術的精進 をおもふと 、 ぐづぐずしてはゐられない 気 が する 。    しかしたゞこのエッケルマンの 著作 に 於 て 残念 なのは 、 これはゲー テにこびないまでも 、 ゲーテの 幻影 と 威力 から 瞬間 も 脱 することの 出 野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 二一 来 なかつた 者 の 書 きものだといふことである 。 且 つ 、 ゲーテの 目 を 通 して 出版 されたものだ 。 エッケルマンが 自由 に 批評的態度 で 書 いたも のではないのだから 、 これ ほ ど 委 しくかいてありながら 、 ゲーテの 真 の 生活 といふものがはつきり 読者 の 頭 にひゞかない 恨 みがある 。 少 く ともその 内的生活 は 分 らない 。 これはゲーテの 芸術的生活 と 外的生活 の 最 も 美 しい 記録 と 云 ひ 得 るが 、 真 の 生活記録 ではない ︵    � 12︶ 。   エ ッ ケ ル マ ン は 大 公 母 が 薨 去 し た と き と 、 息 子 が 事 故 死 し た と き の ゲーテの 様子 をそれぞれ 次 のように 記 している 。    千八百三十年二月十四日 、 日曜    この 午後食事 に 招 かれてゲエテの 許 へゆく 途次 、 ちょうど 大公母 が 薨去 されたとの 報 に 接 した 。 このために 年 とつたゲエテにさはりがな ければいゝがとすぐ 思 つた 、 そして 多少案 じつゝ 家 に 入 つた 。︵ 中略 ︶ 五十年以上 も 、 と 私 は 考 へた 、 彼 は 大公母 にお 仕 へして 特別 の 恩寵 を 蒙 つてゐた 、 大公母 の 死 を 非常 に 嘆 くにちがひない 。 かう 考 へながら 私 は 彼 の 室 に 入 つた 、 然 し 彼 が 非常 に 快活 に 元氣 、 婦人 や 孫 とともに 食卓 にむかひ 、 事 もなげにスウプをたべてゐるのを 見 て 、 私 は 少 なか ら ず 驚 い た 。︵ 中 略 ︶ 彼 は 、 あ た か も 世 の 悲 し み に 動 か さ れ な い 高 い 存在物 のやうにわれらの 目 の 前 に 座 つてゐた ︵    � 13︶ 。    今 日 の 新 聞 を み る と 彼 の 一 人 息 子 が 伊 太 利 で 卒 中 で 死 ん だ と あ る ︵ 中 略 ︶ 私 が 最 も 心 配 し た の は ゲ エ テ が 非 常 に 年 と つ て ゐ て [ 当 時 八 十 一 歳 、 引 用 者 注 ] 父 親 の 情 の 烈 し い 嵐 に た へ る で あ ら う か と い ふ 事 で あ つ た 。︵ 中 略 ︶ ゲ エ テ の 室 に 下 り て 行 つ た 。 彼 は 毅 然 と し て 直 立 して 私 を 兩腕 に 抱 いた 。 彼 は 全 く 快活 で 落 ついてゐた 。 二人 は 腰 を 下 ろしてすぐと 如才 ない 話 をした 、 そして 私 は 再 たび 彼 の 許 にかへつ て 非常 にうれしかつた 。 彼 は 私 に 二通 の 手紙 をみせた 、 ノルドハイム の 私宛 に 書 いたが 、 出 させないでしまつたものである 。 われわれは 大 公妃 や 王子 やその 他 いろいろの 話 をしたが 、 彼 の 息子 の 事 は 一 ことも 口 にしなかつた ︵    � 14︶ 。   大恩人 の 大公毋 と 愛 すべき 息子 の 訃報 に 接 しても 、 ゲーテは 全 く 悲 し み を 表 に 出 さ な か っ た と い う 。 弥 生 子 は こ の 箇 所 を 読 ん で 、﹁ ゲ ー テ の 死 に 対 する 沈着 をひどくかんじた ﹂ と 記 しているが 、 筆者 にはゲーテの この 反応 はきわめて 不自然 と 思 える 。 ゲーテが ﹁ 世 の 悲 しみに 動 かされ ない 高 い 存在物 ﹂ であることを 演 じているか 、 あるいはエッケルマンが ゲーテを 神格化 しているとしか 思 えない 。   ﹃ ファウスト ﹄ 第二部 がどのような 順序 で 、 どのような 苦心 を 払 って 完 成 さ れ た か は 、﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 二 ﹂ の 一 五 〇 頁 ︵ 一 八 二 九 年 十二月六日 ︶ から 三四五頁 ︵ 一八三一年六月六日 ︶ に 亙 ってとびとびに 記 されている 。 そしてこの 戯曲 が 完成 したとき 、 ゲーテは ﹁ 以後 の 私 の 壽命 は 全 くの 贈物 のやうな 氣 がする 、 畢竟何 をしやうとしまいと 同 じこ と だ ︵    �15 。﹂ と 語 っ た と い う 。 八 十 歳 を 越 え た ゲ ー テ が 全 精 力 を 傾 注 し て ﹃ フ ァ ウ ス ト ﹄ を 完 成 さ せ た こ と を 知 っ て 、 弥 生 子 は ゲ ー テ の ﹁ 勢 力 と 芸術的精進 ﹂ に 大 いなる 刺激 を 受 けている 。   ところで 、 弥生子 は 人間 としてのゲーテ 、 芸術家 としてのゲーテに 深 い 感銘 を 受 けると 同時 に 、エッケルマンの 書 き 記 した ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄ の 欠点 にも 気 づいている 。 その 欠点 とはゲーテという 対象 への 心理的距 離 が 欠 け て い る こ と で あ る 。﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄ が 結 局 は ゲ ー テ 崇 拝 者 の 描 いたゲーテの 美 しい 肖像 に 終 っていることに 弥生子 は 不満 を 感 じて いる 。 彼女 は 、 たとえば 、 ナポレオンの 妻 ジョゼフィーヌを 主人公 とし た ﹃ 真珠 ﹄、 ﹃ 大内良雄 ﹄、 ﹃ 秀吉 と 利休 ﹄ 等 の 歴史 に 取材 した 小説 で 、 神 格 化 さ れ た 人 物 を 複 雑 な 性 格 を 持 っ た 生 き た 人 物 と し て 描 こ う と し た 。 彼女 の 関心 は 人間 の ﹁ 複雑怪奇 な 感情 ︵    �16 ︶ ﹂ を 知 ること 、 描 くことであっ た 。

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二 〇 ゲーテにてはじめて 云 ひ 得 ることで 、 又 この 点東洋 の 隠遁的 な 文人 と 行 き 方 のちがふところだとおもふ 。 又斯 ういふ 言葉 も 記憶 に 深 く 刻 み つけられた 。 それは 、 大公 のやうな 壮麗 な 家 に 住 むと 、 無為 にしてな まける 気 になる 。 自分 たちは 矢張 りこの 粗末 な 不秩序 ジプシー 風 の 家 にゐる 時 が 一番自由 で 活動的 になるといふのである 。 ゲーテの 如 き 人 にしてもこの 言 があるかとおもへた ︵ 9 ︶ 。   弥生子 が 鉤括弧付 きで 記 した 箇所 ﹃ 自分 の 洒落 の 一 つひとつには 金袋 がついてゐる 。 あらゆる 経験 を 積 むために 五十万円 の 私財 を 使 ひ 、 また 今 まで 文学的労作 から 来 たおびたゞしい 金 を 使 ひ 、 大公 からは 百五十万 円 の 金 まで 出 た ﹄ は 、 一八二九年二月十三日 に 、 ゲーテがエッケルマン に 語 った 次 の 言葉 を 要約 したものである 。    ﹃ かゝる 一切 に 通 ずるには 年 をとらねばならない 、 又自分 の 經驗 を 購 ふに 十分 な 金 を 持 たねばならない 。 私 の 洒落 の 一 つ 一 つには 一袋 づ つの 金 がかかつてゐる 。 五十萬 の 私財 が 今 の 私 の 知識 をうるために 無 くなつて 了 つた 、 たゞ 私 の 父 の 全財産 だけでなく 、 私 の 俸給 も 、 五十 幾年來 の 漠大 な 文學的方面 からの 収入 もさうだ 。 加之偉大 な 目的 のた め 百五十萬 の 金 が 、 私 と 親密 にしていたゞき 、 その 行動 や 幸不幸 にた づさはらせていたゞいた 侯爵 から 出 てゐる ︵    � 10︶ 。   日記 にある 一文 ﹁ 一代 の 代表的人物 と 一緒 に 会食 する ほ どでなければ 、 す つ か り 社 会 を 見 つ く し た と は 云 へ な い と い ふ の で あ る 。﹂ は 、 右 の 引 用文 のすぐあとに 続 く 一節 ﹃ 才能丈 けでは 不充分 だ 、 卓識 をつむにはそ れ 以上 のものが 必要 だ 。 大 きい 環境 の 中 に 暮 らさねばならぬ 、 その 時代 の 花形連 が 骨牌 をとつてゐるのを 見 たり 、 自 ら 勝敗 に 加 はるやうな 機會 をつかまねばならない 。﹄ を 弥生子流 に 言 い 換 えたものであろう 。 また 、 ﹁ 東 洋 の 隠 遁 的 な 文 人 ﹂ と 社 交 を 重 ん じ る 西 洋 の 文 学 者 の ﹁ 行 き 方 ﹂ の 違 いにも 思 いをいたしている 。   ﹁ 大 公 の や う な 壮 麗 な 家 に 住 む と 、 無 為 に し て な ま け る 気 に な る 。﹂ 旨 の 発 言 を し た の は 、 一 八 二 九 年 三 月 二 十 三 日 の こ と で あ る 。 こ の 日 、 ゲーテはエッケルマンに 対 して 次 のように 語 った 。    ﹃ 華 やかな 家屋 と 室 とは 王侯 や 富豪 のものである 。 さういふ 中 に 暮 らすと 、 落 ちつき 、 滿足 して 、 何 もしたくないやうになる 。    ﹃ 私 の 性質 はさういふことにまるで 合 はない 。 カルルス 、 バ アドに 持 つてゐるやうな 華 やかな 家 にゐると 無性 に 無爲 になる 。 それに 反 し て 今 われわれのゐる 一種 の 不秩序 な 秩序 がありジプシイ 風 な 所 のある 貧 しい 室 のやうな 、 過当 な 家 が 私 に 合 ふ 、 内心 がのびのびとし 、 活動 的 になり 進 んで 働 くやうになる ︵    � 11︶ 。﹄   ゲーテでも 恵 まれすぎた 環境 の 中 では 無為 になりがちであったことを 知 り 、 天才 にもきわめて 人間的 な 弱点 があるのを 知 り 共感 を 覚 えたので あろう 。   四日後 の 大正十四年一月十四日 の 日記 には 、﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ に 対 する 比較的長 い 感想 が 記 されている 。   十四日   午前 はゲーテ 。 ゲーテの 死 に 対 する 沈着 をひどくかんじた ―― 大公母 の 死 の 時 、 又 はエッケルマンと 共 に 伊太利旅行 に 出立 して 、 ローマで 頓死 した 息子 の 若 いゲーテの 死 に 際 して ―― またフアウストの 二部 が どうして 完成 されたかの 順序 に 深 い 感銘 をおぼへた 。 八十余歳 の 老人 のあの 勢力 と 芸術的精進 をおもふと 、 ぐづぐずしてはゐられない 気 が する 。    しかしたゞこのエッケルマンの 著作 に 於 て 残念 なのは 、 これはゲー テにこびないまでも 、 ゲーテの 幻影 と 威力 から 瞬間 も 脱 することの 出 野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 二一 来 なかつた 者 の 書 きものだといふことである 。 且 つ 、 ゲーテの 目 を 通 して 出版 されたものだ 。 エッケルマンが 自由 に 批評的態度 で 書 いたも のではないのだから 、 これ ほ ど 委 しくかいてありながら 、 ゲーテの 真 の 生活 といふものがはつきり 読者 の 頭 にひゞかない 恨 みがある 。 少 く ともその 内的生活 は 分 らない 。 これはゲーテの 芸術的生活 と 外的生活 の 最 も 美 しい 記録 と 云 ひ 得 るが 、 真 の 生活記録 ではない ︵    � 12︶ 。   エ ッ ケ ル マ ン は 大 公 母 が 薨 去 し た と き と 、 息 子 が 事 故 死 し た と き の ゲーテの 様子 をそれぞれ 次 のように 記 している 。    千八百三十年二月十四日 、 日曜    この 午後食事 に 招 かれてゲエテの 許 へゆく 途次 、 ちょうど 大公母 が 薨去 されたとの 報 に 接 した 。 このために 年 とつたゲエテにさはりがな ければいゝがとすぐ 思 つた 、 そして 多少案 じつゝ 家 に 入 つた 。︵ 中略 ︶ 五十年以上 も 、 と 私 は 考 へた 、 彼 は 大公母 にお 仕 へして 特別 の 恩寵 を 蒙 つてゐた 、 大公母 の 死 を 非常 に 嘆 くにちがひない 。 かう 考 へながら 私 は 彼 の 室 に 入 つた 、 然 し 彼 が 非常 に 快活 に 元氣 、 婦人 や 孫 とともに 食卓 にむかひ 、 事 もなげにスウプをたべてゐるのを 見 て 、 私 は 少 なか ら ず 驚 い た 。︵ 中 略 ︶ 彼 は 、 あ た か も 世 の 悲 し み に 動 か さ れ な い 高 い 存在物 のやうにわれらの 目 の 前 に 座 つてゐた ︵    � 13︶ 。    今 日 の 新 聞 を み る と 彼 の 一 人 息 子 が 伊 太 利 で 卒 中 で 死 ん だ と あ る ︵ 中 略 ︶ 私 が 最 も 心 配 し た の は ゲ エ テ が 非 常 に 年 と つ て ゐ て [ 当 時 八 十 一 歳 、 引 用 者 注 ] 父 親 の 情 の 烈 し い 嵐 に た へ る で あ ら う か と い ふ 事 で あ つ た 。︵ 中 略 ︶ ゲ エ テ の 室 に 下 り て 行 つ た 。 彼 は 毅 然 と し て 直 立 して 私 を 兩腕 に 抱 いた 。 彼 は 全 く 快活 で 落 ついてゐた 。 二人 は 腰 を 下 ろしてすぐと 如才 ない 話 をした 、 そして 私 は 再 たび 彼 の 許 にかへつ て 非常 にうれしかつた 。 彼 は 私 に 二通 の 手紙 をみせた 、 ノルドハイム の 私宛 に 書 いたが 、 出 させないでしまつたものである 。 われわれは 大 公妃 や 王子 やその 他 いろいろの 話 をしたが 、 彼 の 息子 の 事 は 一 ことも 口 にしなかつた ︵    � 14︶ 。   大恩人 の 大公毋 と 愛 すべき 息子 の 訃報 に 接 しても 、 ゲーテは 全 く 悲 し み を 表 に 出 さ な か っ た と い う 。 弥 生 子 は こ の 箇 所 を 読 ん で 、﹁ ゲ ー テ の 死 に 対 する 沈着 をひどくかんじた ﹂ と 記 しているが 、 筆者 にはゲーテの この 反応 はきわめて 不自然 と 思 える 。 ゲーテが ﹁ 世 の 悲 しみに 動 かされ ない 高 い 存在物 ﹂ であることを 演 じているか 、 あるいはエッケルマンが ゲーテを 神格化 しているとしか 思 えない 。   ﹃ ファウスト ﹄ 第二部 がどのような 順序 で 、 どのような 苦心 を 払 って 完 成 さ れ た か は 、﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 二 ﹂ の 一 五 〇 頁 ︵ 一 八 二 九 年 十二月六日 ︶ から 三四五頁 ︵ 一八三一年六月六日 ︶ に 亙 ってとびとびに 記 されている 。 そしてこの 戯曲 が 完成 したとき 、 ゲーテは ﹁ 以後 の 私 の 壽命 は 全 くの 贈物 のやうな 氣 がする 、 畢竟何 をしやうとしまいと 同 じこ と だ ︵    �15 。﹂ と 語 っ た と い う 。 八 十 歳 を 越 え た ゲ ー テ が 全 精 力 を 傾 注 し て ﹃ フ ァ ウ ス ト ﹄ を 完 成 さ せ た こ と を 知 っ て 、 弥 生 子 は ゲ ー テ の ﹁ 勢 力 と 芸術的精進 ﹂ に 大 いなる 刺激 を 受 けている 。   ところで 、 弥生子 は 人間 としてのゲーテ 、 芸術家 としてのゲーテに 深 い 感銘 を 受 けると 同時 に 、エッケルマンの 書 き 記 した ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄ の 欠点 にも 気 づいている 。 その 欠点 とはゲーテという 対象 への 心理的距 離 が 欠 け て い る こ と で あ る 。﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄ が 結 局 は ゲ ー テ 崇 拝 者 の 描 いたゲーテの 美 しい 肖像 に 終 っていることに 弥生子 は 不満 を 感 じて いる 。 彼女 は 、 たとえば 、 ナポレオンの 妻 ジョゼフィーヌを 主人公 とし た ﹃ 真珠 ﹄、 ﹃ 大内良雄 ﹄、 ﹃ 秀吉 と 利休 ﹄ 等 の 歴史 に 取材 した 小説 で 、 神 格 化 さ れ た 人 物 を 複 雑 な 性 格 を 持 っ た 生 き た 人 物 と し て 描 こ う と し た 。 彼女 の 関心 は 人間 の ﹁ 複雑怪奇 な 感情 ︵    �16 ︶ ﹂ を 知 ること 、 描 くことであっ た 。

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二二   ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄ を ﹁ 真 の 生活記録 ではない ﹂ と 断 じた 翌日 、 弥生 子 は ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ を 読了 している 。   十五日   ゲーテがすんだ 。 長 いたのしいよみものであつた 。 私 はこれに 依 つて ゲーテの 偉大 と 同時 に 平凡 と 芸術家 としてのまた 人間 としての 各部 に ふれることが 出来 た 。 慾 には 彼 の 婦人 とのつながりを 今少 し 委 しく 知 り 度 い 。 これは 単 なる 好奇心 ではない 。 あれ ほ ど 多 くの 婦人 に 動[ か ] されたゲーテは 、 その 動 きの 中 に 最 も 彼 らしい 彼 を 見 せるに 相違 ない とおもふからである 。   続 けてイタリー 紀行 を 読 まうかとおもつたが 、 あと 廻 しにしてアリス トテレスの 詩学 を 読 みはじめた ︵    �17 。   ゲーテとエッケルマンとの 対話 は 、 主 に 文学 、 演劇 、 絵画 、 音楽 、 宗教 、 自然 、 科学 、 外国旅行等 、 さまざまな 分野 からなっている 。 知的関心 の 強 かった 弥生子 はこれらの 話題 を 充分堪能 したであろう 。 しかし 、 前日 の 日記 にも 記 しているように 、 弥生子 はゲーテの 内的生活 について 知 る こ と の で き な い こ と に 不 満 を 感 じ て い る 。﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄ に は ゲ ー テの 女性 についてのことは 全 くといっていい ほ ど 記 されていない 。 ゲー テに 対 するエッケルマンの 態度 、 ゲーテの 年齢等 を 考 えると 、 弥生子 の 期待 は 無理 であろう 。   なお 、﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂ の 終 わり 近 くで 、 エッケルマンは 次 のように 記 している 。    千八百三十一年三月二十五日   金曜    ゲエテは 私 に 一 つの 華奢 な 緑色 の 安樂椅子 を 見 せた 、 この 頃 ある 公 賣 で 買 はせたものである 。    ﹃ し か し こ れ は あ ま り 或 は 全 く 使 は な い だ ら う 。﹄ と 彼 は 言 つ た 、 ﹃ 何 故 な ら 氣 樂 な 類 の も の は み な 私 の 性 質 に ま る で 合 は ぬ か ら だ 。 私 の 空 にはゾフアが 一 つもあるまい 。 私 はいつも 古 い 木 の 椅子 に 掛 けて ゐる 、 頭 のために 凭 れをつけたのはつい 二三週間前 のことだ 。 便利 な 優 美 な 道 具 に か こ ま れ て ゐ る と 考 へ が 散 り 、 私 は 氣 樂 に 消 極 的 に な る 。 青年時代 から 習慣 になつてゐる 人 は 別 だが 華 やかな 室 や 優美 な 家 具 は 思想 を 持 たない 人 か 或 は 持 ちたくない 人 のものだ ︵    �18 。﹄   弥生子 は 昭和三年五月二十五日 の 日記 に 次 のように 記 している 。    さ て こ の 家 具 [ 五 月 八 日 、 フ ラ ン ス 展 で 見 た フ ラ ン ス の 有 名 図 案 家 たちの 考案 になる 家具 ] でおもい 出 したが 、︵ 中略 ︶ これ 等 の 間 でこれ 等 の 調 度 に 順 応 し た 生 活 を 朝 夕 せ ね ば な ら な い と な る と 苦 痛 で あ ら う 。 即 ちこれに 準 じた 着物 を 着 、 立 ち 居 ふる 舞 をし 、 談話 をせねばな らないとすれば 。 丁度舞台 の 人物 のやうに 。 自然 にそれが 出来 るやう な 階級 に 生 れついたものは 別 として 、 我々 にはとてもそんなひまも 心 の 余裕 もありはしない 。 言葉 だつて 、 せりふのやうな 洗練 された 洒落 か 詩 の や う な 甘 い 囁 き か よ り 外 に は 不 適 当 で あ る 。 そ れ に つ け て も ゲーテの 言葉 をおもひ 出 す 。 彼 は 何 かの 競売 で 青 い 絹 ばりの 椅子 を 二 つ 買 つたが 、 そんなものをふだん 使 つてゝは 頭 の 仕事 は 出来 ないと 云 つたあの 意味 の 言葉 を 。 ―― 簡素 と 単純 と 安静 これより 外 に 我々 の 住 みうべき 世界 はない ︵    �19 ︶ 。   弥 生 子 は 大 正 十 四 年 一 月 十 日 の 日 記 に 、﹁ 又 斯 う い ふ 言 葉 も 記 憶 に 深 く 刻 みつけられた 。 それは 、 大公 のやうな 壮麗 な 家 に 住 むと 、 無為 にし てなまける 気 になる 。 自分 たちは 矢張 りこの 粗末 な 不秩序 ジプシー 風 の 家 にゐる 時 が 一番自由 で 活動的 になるといふのである 。 ゲーテの 如 き 人 にしてもこの 言 があるかとおもへた 。﹂ と 記 している 。 読書 や 執筆 といっ た 知的活動 には ﹁ 簡素 と 単純 と 安静 ﹂ が 必要 と 常々考 えていた 弥生子 は 、 野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 二三 ゲーテも 同 じように 感 じていたことを 知 り 、 この 箇所 が ﹁ 記憶 に 深 く 刻 み つ け ら れ た ﹂ よ う で あ る 。 そ し て 、﹁ 華 奢 な 緑 色 の 安 樂 椅 子 ﹂ に 対 す るゲーテの 見解 も 弥生子 の 生活信条 に 合致 したものとして 忘 れ 難 く 、 記 憶 に 残 ったのであろう 。 この ﹁ 華奢 な 緑色 の 安樂椅子 ﹂ はこの 時構想中 で あ っ た ﹃ 眞 知 子 ﹄ の 中 で 利 用 さ れ て い る 。﹃ 眞 知 子 ﹄ の 最 終 章 で あ る 第九章 に 、 衒学家 である 山瀬 が 自分 の 書斎 で 河井輝彦 を 相手 にして 、 こ の 逸話 を 自慢気 に 語 る 場面 がある 。    眞 知 子 の 返 事 に 、 山 瀬 は 急 い で 自 分 も 續 け 、 當 時 の 夢 の 切 れ つ 端 [ 台 湾 大 学 に 就 職 が 決 ま り か け て い た こ と ] を 眼 鏡 の か げ で 追 う た 。 ﹃ 残 念 で し た が 、 つ ぎ の 機 會 に は 優 先 権 を 持 つ て る わ け で す か ら 、 ま あそれを 待 ちますよ 。 でこぼこの 疊 で 押 し 通 してるのもそのためなん でして 。 ―― しかし 思 ふに 、 あなた 方 のやうな 豪奢 な 生活 に 馴 れてゐ られる 方 は 別 でせうが 、 われわれの 如 き 貧乏 な 學徒 に 取 つては 書齋 は 簡 素 な ほ ど い ゝ で す ね 。 寧 ろ 必 要 で す 。 そ れ に 就 い て 思 ひ 出 す の は 、 御存 じのエッケルマンとの 對話 に 出 て 來 るゲーテの 青 い 椅子 の 話 です が 。﹄    ﹃ 青 い 椅子 を 、 ゲーテがどうかしたのですか 。﹄    ﹃ たしか 競賣 かなんかで 買 つたんですが 、 自分 の 書齋 には 、 青 い 絹 の 椅子 が 贅澤 すぎて 落 ち 着 けなくなると 云 ふのです 。 黄金 のインク 壷 か ら で も 平 氣 に 書 け た 筈 の ゲ ー テ に し て こ の 言 葉 が あ る か と 思 ふ と 、 ― そう 深 い 意味 を 感 じさせられますね ︵    �20 。﹄   大 正 十 四 年 一 月 十 五 日 の 日 記 の 引 用 部 分 の 最 後 で 、 弥 生 子 は ﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄ を 読 了 後 、﹁ イ タ リ ー 紀 行 ﹂ を 読 も う と 思 っ た と 記 し て い る 。 こ の ﹁ イ タ リ ー 紀 行 ﹂ は ゲ ー テ の ﹃ イ タ リ ア 紀 行 ﹄ の こ と で あ ろ う 。﹁ 野 上弥生子 とゲーテ ︵ 一 ︶ ― ﹃ 伊太利紀行 ﹄ 及 び ﹃ イフヰゲーニエ ﹄ ― ﹂ で 論 じ た よ う に 、 弥 生 子 は 大 正 六 年 二 月 一 日 以 前 に 高 木 敏 雄 訳 ﹃ 伊 太 利 紀 行 ﹄︵ 隆 文 館 、 大 正 三 年 五 月 七 日 ︶ を 読 ん で い る 。 な ぜ 、﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 二 ﹂ 読 了 後 に こ の 作 品 を 読 も う と し た の で あ ろ う か 。 こ の 疑 問 を 解 く 鍵 は 、 大 正 十 四 年 十 月 三 日 の 日 記 の 一 節 に 求 め る こ と が で き る 。 弥 生 子 は 同 日 の 日 記 に ﹁ 大 村 か ら ゲ ー テ 詩 集 を 送 つ て 来 た の で 一 昨 日 か よ ん だ 。 三 浦 吉 兵 衛 氏 の 訳 。︵ 中 略 ︶ 斯 ん な 表 現 し か 出 来 な い と す れ ば 、 ゲーテ 詩集 は 、 むしろゲーテ 全集 は 翻訳 されない 方 がゲーテのためによ かつたといふ 気 さへする ︵    �21 。﹂ と 記 している 。 この 一節 に 見 える ﹁ 大村 ﹂、 ﹁ ゲ ー テ 詩 集 ﹂、 ﹁ 三 浦 吉 兵 衛 氏 の 訳 ﹂、 ﹁ ゲ ー テ 全 集 ﹂ か ら 、 こ の 日 記 の 中 で 言及 されている ﹁ ゲーテ 詩集 ﹂ とは 大村書店版 ﹃ ゲーテ 全集 ﹄ 第一巻 ﹁ 詩集 ﹂︵ 三浦吉兵衛譯 、 大正十四年八月二十日 ︶であると 分 かる 。 また 、 こ の 全 集 の 奥 付 に は ﹁ 非 賣 品 ﹂ と あ る か ら 、 こ の 全 集 は 予 約 出 版 物 で あ り 、 野 上 家 で は 大 村 書 店 版 ﹃ ゲ ー テ 全 集 ﹄ を 予 約 購 読 し て い た と 考 え ら れる 。   大村書店版 ﹃ ゲーテ 全集 ﹄ の 第一回配本作品 は 第十三巻 ﹃ 伊多利紀行 ﹄ ︵ 吹 田 順 助 譯 ︶﹃ 伊 多 利 に 就 い て ― あ る 旅 行 記 の 斷 片 ― ﹄︵ 吹 田 順 助 譯 ︶ であり 、 発行年月日 は 大正十三年十二月十五日 である ︵    �22 ︶ 。 弥生子 が ﹃ ゲ エテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ を ﹁ 一字一字暗記 する ほ ど 精読 ﹂ してい たのは 、 大正十三年 の 十一月 と 十二月 であり 、 読了 したのが 十二月十五 日 である 。 読了 したその 日 か 、 数日前 に 大村書店版 ﹃ 伊多利紀行 ﹄ が 届 いていたので 、 ゲーテに 夢中 になっていた 弥生子 は 十年 ほ ど 前 に 高木敏 雄訳 では 読 んでいたものの 、新訳 で 再読 してみようと 思 ったのであろう 。    注 ︵ 1 ︶田村道美 ﹁ 野上弥生子 とゲーテ ︵ 一 ︶― ﹃ 伊太利紀行 ﹄及 び﹃ イフヰゲー ニ エ ﹄ ― ﹂︵ ﹃ 香 川 大 学 教 育 学 部 研 究 報 告 第 Ⅰ 部 ﹄ 第 八 十 四 号 、 香 川 大学教育学部 、 一九九二年一月 ︶。 ︵ 2 ︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 ﹁ 日記一 ﹂︵ 岩波書店 、 一九八六年 ︶、 一五八 九頁 。

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野上弥生子 とゲーテ ︵ 二 ︶   ― ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ 二三 ゲーテも 同 じように 感 じていたことを 知 り 、 この 箇所 が ﹁ 記憶 に 深 く 刻 み つ け ら れ た ﹂ よ う で あ る 。 そ し て 、﹁ 華 奢 な 緑 色 の 安 樂 椅 子 ﹂ に 対 す るゲーテの 見解 も 弥生子 の 生活信条 に 合致 したものとして 忘 れ 難 く 、 記 憶 に 残 ったのであろう 。 この ﹁ 華奢 な 緑色 の 安樂椅子 ﹂ はこの 時構想中 で あ っ た ﹃ 眞 知 子 ﹄ の 中 で 利 用 さ れ て い る 。﹃ 眞 知 子 ﹄ の 最 終 章 で あ る 第九章 に 、 衒学家 である 山瀬 が 自分 の 書斎 で 河井輝彦 を 相手 にして 、 こ の 逸話 を 自慢気 に 語 る 場面 がある 。    眞 知 子 の 返 事 に 、 山 瀬 は 急 い で 自 分 も 續 け 、 當 時 の 夢 の 切 れ つ 端 [ 台 湾 大 学 に 就 職 が 決 ま り か け て い た こ と ] を 眼 鏡 の か げ で 追 う た 。 ﹃ 残 念 で し た が 、 つ ぎ の 機 會 に は 優 先 権 を 持 つ て る わ け で す か ら 、 ま あそれを 待 ちますよ 。 でこぼこの 疊 で 押 し 通 してるのもそのためなん でして 。 ―― しかし 思 ふに 、 あなた 方 のやうな 豪奢 な 生活 に 馴 れてゐ られる 方 は 別 でせうが 、 われわれの 如 き 貧乏 な 學徒 に 取 つては 書齋 は 簡 素 な ほ ど い ゝ で す ね 。 寧 ろ 必 要 で す 。 そ れ に 就 い て 思 ひ 出 す の は 、 御存 じのエッケルマンとの 對話 に 出 て 來 るゲーテの 青 い 椅子 の 話 です が 。﹄    ﹃ 青 い 椅子 を 、 ゲーテがどうかしたのですか 。﹄    ﹃ たしか 競賣 かなんかで 買 つたんですが 、 自分 の 書齋 には 、 青 い 絹 の 椅子 が 贅澤 すぎて 落 ち 着 けなくなると 云 ふのです 。 黄金 のインク 壷 か ら で も 平 氣 に 書 け た 筈 の ゲ ー テ に し て こ の 言 葉 が あ る か と 思 ふ と 、 ― そう 深 い 意味 を 感 じさせられますね ︵    �20 。﹄   大 正 十 四 年 一 月 十 五 日 の 日 記 の 引 用 部 分 の 最 後 で 、 弥 生 子 は ﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄ を 読 了 後 、﹁ イ タ リ ー 紀 行 ﹂ を 読 も う と 思 っ た と 記 し て い る 。 こ の ﹁ イ タ リ ー 紀 行 ﹂ は ゲ ー テ の ﹃ イ タ リ ア 紀 行 ﹄ の こ と で あ ろ う 。﹁ 野 上弥生子 とゲーテ ︵ 一 ︶ ― ﹃ 伊太利紀行 ﹄ 及 び ﹃ イフヰゲーニエ ﹄ ― ﹂ で 論 じ た よ う に 、 弥 生 子 は 大 正 六 年 二 月 一 日 以 前 に 高 木 敏 雄 訳 ﹃ 伊 太 利 紀 行 ﹄︵ 隆 文 館 、 大 正 三 年 五 月 七 日 ︶ を 読 ん で い る 。 な ぜ 、﹃ ゲ エ テ と の 對 話 ﹄﹁ 第 二 ﹂ 読 了 後 に こ の 作 品 を 読 も う と し た の で あ ろ う か 。 こ の 疑 問 を 解 く 鍵 は 、 大 正 十 四 年 十 月 三 日 の 日 記 の 一 節 に 求 め る こ と が で き る 。 弥 生 子 は 同 日 の 日 記 に ﹁ 大 村 か ら ゲ ー テ 詩 集 を 送 つ て 来 た の で 一 昨 日 か よ ん だ 。 三 浦 吉 兵 衛 氏 の 訳 。︵ 中 略 ︶ 斯 ん な 表 現 し か 出 来 な い と す れ ば 、 ゲーテ 詩集 は 、 むしろゲーテ 全集 は 翻訳 されない 方 がゲーテのためによ かつたといふ 気 さへする ︵    �21 。﹂ と 記 している 。 この 一節 に 見 える ﹁ 大村 ﹂、 ﹁ ゲ ー テ 詩 集 ﹂、 ﹁ 三 浦 吉 兵 衛 氏 の 訳 ﹂、 ﹁ ゲ ー テ 全 集 ﹂ か ら 、 こ の 日 記 の 中 で 言及 されている ﹁ ゲーテ 詩集 ﹂ とは 大村書店版 ﹃ ゲーテ 全集 ﹄ 第一巻 ﹁ 詩集 ﹂︵ 三浦吉兵衛譯 、 大正十四年八月二十日 ︶であると 分 かる 。 また 、 こ の 全 集 の 奥 付 に は ﹁ 非 賣 品 ﹂ と あ る か ら 、 こ の 全 集 は 予 約 出 版 物 で あ り 、 野 上 家 で は 大 村 書 店 版 ﹃ ゲ ー テ 全 集 ﹄ を 予 約 購 読 し て い た と 考 え ら れる 。   大村書店版 ﹃ ゲーテ 全集 ﹄ の 第一回配本作品 は 第十三巻 ﹃ 伊多利紀行 ﹄ ︵ 吹 田 順 助 譯 ︶﹃ 伊 多 利 に 就 い て ― あ る 旅 行 記 の 斷 片 ― ﹄︵ 吹 田 順 助 譯 ︶ であり 、 発行年月日 は 大正十三年十二月十五日 である ︵    �22 ︶ 。 弥生子 が ﹃ ゲ エテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂﹁ 第二 ﹂ を ﹁ 一字一字暗記 する ほ ど 精読 ﹂ してい たのは 、 大正十三年 の 十一月 と 十二月 であり 、 読了 したのが 十二月十五 日 である 。 読了 したその 日 か 、 数日前 に 大村書店版 ﹃ 伊多利紀行 ﹄ が 届 いていたので 、 ゲーテに 夢中 になっていた 弥生子 は 十年 ほ ど 前 に 高木敏 雄訳 では 読 んでいたものの 、新訳 で 再読 してみようと 思 ったのであろう 。    注 ︵ 1 ︶田村道美 ﹁ 野上弥生子 とゲーテ ︵ 一 ︶― ﹃ 伊太利紀行 ﹄及 び﹃ イフヰゲー ニ エ ﹄ ― ﹂︵ ﹃ 香 川 大 学 教 育 学 部 研 究 報 告 第 Ⅰ 部 ﹄ 第 八 十 四 号 、 香 川 大学教育学部 、 一九九二年一月 ︶。 ︵ 2 ︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 ﹁ 日記一 ﹂︵ 岩波書店 、 一九八六年 ︶、 一五八 九頁 。

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二四 ︵ 3 ︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄別巻二 ﹁ 対談 ・ 座談二 ﹂︵ 岩波書店 、 一九八二年 ︶、 三 ⃝ 四頁 。 ︵ 4 ︶エツケルマン 著 、 龜尾英四郎譯 ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第一 ﹂︵ 春陽堂 、 大正十一年 ︶、 一四二 三頁 。 ︵ 5 ︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 、 一六三頁 。 ︵ 6 ︶エツケルマン 著 、 龜尾英四郎譯 ﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂︵ 春陽堂 、 大正十三年 ︶、 五頁 。 ︵ 7 ︶同書 、 一 ○ 一頁 。 ︵ 8 ︶ 野 上 弥 生 子 ﹁ 夏 目 先 生 の 思 い 出 ﹂、 ﹃ 随 筆 � 一 隅 の 記 ﹄︵ 新 潮 社 、 昭 和 四十三年 ︶、 九二 三頁 。 ︵ 9 ︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 、 一六八頁 。 ︵ 10︶﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂、 六九頁 。 ︵ 11︶同書 、 八八頁 。 ︵ 12︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 、 一七 ○ 頁 。 ︵ 13︶﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂、 一八三頁 。 ︵ 14︶同書 、 二四四 六頁 。 ︵ 15︶同書 、 三四五頁 。 ︵ 16︶ 野上弥生子 ﹁ 私 と ﹃ アンナ ・ カレーニナ ﹄﹂ 、﹃ 随筆 � 一隅 の 記 ﹄、 九二 三頁 。 ︵ 17︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 、 一七 ○ 一頁 。 ︵ 18︶﹃ ゲエテとの 對話 ﹄﹁ 第二 ﹂、 三一九 二 ○ 頁 。 ︵ 19︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第二巻 ﹁ 日記二 ﹂︵ 岩波書店 、 一九八六年 ︶、 二四四頁 。 ︵ 20︶ 野上彌生子 ﹃ 眞知子 ﹄︵ 文藝春秋新社 、 昭和二十二年 ︶、 二九五 六 頁 。 ︵ 21︶﹃ 野上彌生子全集 ﹄第 Ⅱ 期第一巻 、 三一八頁 。 ︵ 22︶﹃ 明治 ・ 大正 ・ 昭和翻訳文学目録 ﹄ では 、 吹田順助訳 ﹃ 伊太利紀行 ﹄ の 発行年 が 大正十四年 となっているが 、 これは 誤 りであり 、 正確 な 発行年月日 は 大正十三年十二月十五日 である 。

参照

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