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力の概念再訪-香川大学学術情報リポジトリ

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力の概念再訪

石 川   徹

Abstract

 The chief objective of this paper is to find a new perspective for Hume’s philosophy by reexamining the difference between Reid’s concept of Power and David Hume’s concept of power. Reid constructed his philosophy by criticizing Hume on almost every important argument in Hume’s Philosophy. Especially arguments about concept of power are very important. We have already considered Reid’s system before. So now we turn our inquiry for the other side of problem. We discover some inconsistencies Hume’s theory, but these difficulties illuminate three different stages in Hume’s System, which are neglected by Hume scholars. But these inconsistencies will be explained away reconsidering Hume’s arguments in terms of relations of these stages.  『トマス・リードの心の哲学』と題した一連の論文1の中で、われわれはリードの哲学が単に自説 の主張としてヒュームに対して対立的なテーゼを提出しているというだけでなく、彼の積極的な議 論の展開そのものが、ヒュームが展開している一々の議論に対する批判的な言及によって構成され ていることを明らかにしている。つまり、彼らの理論間の対立という側面とは別に、リードの議論 はヒュームの哲学に根底的に依拠しており、悪く言えば寄生的といってもよいほどである。しかし ながら逆に、そのことはリード哲学との対比検討によって、ヒュームの思想そのものもより深く理 解できる可能性を示しているということでもある。  リードのヒューム批判の肝ともいえるものは、一つは観念説(Theory of ideas)批判特に感覚知覚 の批判であり、もう一つは因果性批判に関するものである。前者は当時の哲学者の大半が採用して いた感覚知覚説(知覚表象説)に対して新しい議論を提示するものであり、独創的な知覚理論を提 示するもの2ではあるが、これは端的にヒューム批判になっているとは言い難い。ヒューム自身の 議論がリードの批判対象である知覚表象説の持つ難点を批判し、そこから彼の懐疑論を展開してい るからである。もう一つの因果論批判が、ヒューム理解にとってはより意味のあるものだと言え る。まさにヒューム自身の積極的な提案そのものを問題としているからである。  我々はすでにこの議論を検討しているが3、主としてリードの論述の流れに沿う形で行なった。

今回はヒュームの議論、特に『人間本性論』(A Treatise of Human Nature)第二巻において展開されて いるヒュームの議論との対比において、「力(Power)」という概念をもう一度考察しなおしてみるこ とにする。

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 さて、まず、両者の議論を検討する前に、そもそも「力」という概念の果たす役割を簡単に概観 しておこう。

 トマス・リードの場合、主著の一つである『人間精神の能動的諸力について』(Essays on the

active powers of man) という題名が表すように、彼は「力」という概念を中心においてヒュームの

因果論を批判する。それに対して、ヒュームは基本的には「力」という概念の使用には慎重である。 彼は様々な力や原因に関わる語を同義語とみなし(1.1.14.)4それらを因果関係、それも現象の恒常 的連接に還元し、一元化しようとする。さらには力とその行使を原則的には区別しない(1.1.14.31, 2.1.10.4)。言い換えれば、力という言葉が本来持つ潜在的な実現可能性という含意を否定する。こ れは後述するヒュームの因果論の成立の経緯から考えれば当然のことである。ヒュームの原因の二 種類の定義(1.11.14.28)から明らかであるが、原因を認定するのに必要なのは恒常的連接の経験と、 それに基づいて行われる推理という認識論的な要請から得られる二つの条件である。これらの二つ の定義は、独立した定義というよりは相互に補完するものと考えるのがより妥当であると思われ る。もちろん潜在的な力という考えを論理的にだけ考えれば、認識論的には正当化されないが、存 在論においては否定されないという解釈も可能である。しかし、ヒュームは潜在性も含めた力、力 能を積極的に認めているのは、他者評価におけるある意味誤った信念としてだけである(2.1.10.4)。 したがって、少なくともヒュームの明示的な因果論においては、力という概念は良くて原因の同意 語、そうでなければ、誤った存在論に基づく不正な概念ということになる。  しかし、リードは逆に力という概念を必須のものであるとする。リードは人間の自発的な行為を 次のように考えるからである。一般的な理解では人間の行為がまさにその人の意図的な行為と呼ば れるためには、行為者の側に対象に対する欲求とそれを手に入れるための手段の信念が必要であ る。そしてその信念のなかには、自らの能力に関する信念も当然含まれているのでなくてはならな い。よって人間の行為の自発性を前提とする限り、潜在的な含意をもつ力という概念は必須であ る。そしてそれは事物の必然的な結合というヒュームが考える原因の本性とは別のものと考えなけ ればならない。そして、このことがヒューム批判の原点となるのである。  してみると、ヒュームとリードの「力」の概念をめぐる真の対立点は、人間の行為をどのような 本性のものとみなすかという問題になる。そしてそれはまた自由意志の存在の問題に関わってく る。  そこで本論文ではこの人間の行為における力の存在という問題についての両者の考察を比較検討 することで、前回の考察5とは違った形で、特にヒュームの理論の持つ含意と可能性を考察してみ たい。その際とりわけ問題となるのは行為者とは何かという問題であると思われる。リードにおい て行為者はあらかじめ前提とされているので、問題となるのはそれがどのような性質を持っている かということだけであるが、ヒュームの場合は行為者、さらには道徳的評価を受ける私という行為 主体をどのように考えるかにはその最初から難点が潜んでいるように思われる。その由来を明らか にすることは現在筆者が進めているヒューム哲学の再評価6に関わる面を持っているので、そのこ とも明らかにしていきたい。 1  まず、ヒュームが因果性に関して述べているところを簡単に振り返ってみよう。  先ほど述べたように、ヒュームは因果関係に二種類の定義を与える。自然な関係と哲学的関係で ある。この二つの定義の関係に関しては様々な議論がなされているが、それに対しては深く立ち入 らないでおく。要するに哲学的関係は実際に観察されている事実としての恒常的連接を主たる内容 としており、自然的関係は観念連合つまり実際に精神にそれらの観念が現れてきたときに原因とな

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る観念と結果となる観念を結び付ける精神の働きを主とした定義である。今回の議論のためには、 ヒュームが恒常的連接と因果推理の二つの条件を因果関係に認めていることが確認できれば十分で ある。  そして、この二つの条件のみを基に考察すれば、自然に関わる現象に関しても、人間の行為や社 会に関わる現象に関しても、因果関係を見いだすことは容易である。もちろん因果論それ自体とし てみた時には、これは問題を残す。規則性の経験と推論の可能性だけではそれが偶然的事象であっ たり、単に共通の原因をもつがゆえに規則的に見えるだけで、両者の間に何ら実在的な関係を想定 できない場合も含まれてしまうからである。二つの時計の針の動きに規則性があるからといって、 両者の間に直接的な因果関係を想定できないというような事例は数多くある。しかし、ともかく も、ヒュームは因果関係の本性にこれ以上の説明を求めないで、人間の世界に関する推論も因果的 規則性に基づいているという事実を述べたうえで、心身の結合という存在論に根差した問題を、わ れわれは実際に因果推理をしているという事実によって乗り越えてみせるのである(2.3.1)。しかし ながら、これだけではヒューム自身が認めるように物質に関しても、精神に関してもその本質に関 してはわからない。しかし、これだけのことから、ヒュームは自由意志の存在を否定する議論を始 める。ともあれ、ヒュームの議論は大枠次のよう整理できる。 (1)人間の行為に関しても因果推理が可能である。よって、因果推理を可能ならしめている恒常 的連接が成立している。つまり自然現象と同じく人間の精神的活動も必然的に規則的である。 (2)自由は原因の否定であるから偶然と同じであり、未決定を意味する。したがって、自由が介 在すれば、規則性に基づく推理は不可能になるはずだが、現実には行われている。それゆえ自由は 存在しない。 (3)意志の自由が存在すると考える立場の有力な根拠は、人間の意思決定において自由であると いう偽の感覚が存在することである(2.3.1.2)これは具体的には複数の選択肢が存在する時に、実際 に選択したのではない選択肢を選ぼうと思えばそうできたはずだ、という形で現れる。しかし、そ のようなことは、自由意志を否定する議論を反駁しようとする意図を前提としているので、真の反 駁にはなりえていない。 (4)また宗教にとって危険であるという反論すなわち、自由意志を前提に宗教が成立していると いう立場に対しては、神の法も人間に対する影響力を前提としており、因果関係が人間とその行為 の間にあることを前提としている。故に、人間の行為とそれを生み出す人格との結びつきを否定す る自由の説はこれを不可能としてしまう。  また人間の道徳的評価も、人間の行為がその人格との因果的な結びつきがあるゆえにその行為を 生み出した人格を評価できるのであり、故に宗教にとっても道徳にとっても因果関係は極めて重要 な役割を果たしているのであるとする。 2  もちろん、これにはさまざまな問題があるが、それらの指摘は後にして比較検討のために、トマ ス・リードが力に関して言っていることを以前の論文から抽出して要約し、考察を加えてみること にする7  まず、能動的力という表題に関してであるが、この言い方はアリストテレスを引き合いに出さず とも受動的な力という語と対になって使用されることに、さして不自然さは感じない。自然現象に おいて、力の作用は他の何にでも及ぶわけではなく、適切な条件のととのった被作用主体が作用の 発現が現実化するためには必要だからである。しかし、リードにとっては、これは真の作用主体で はない。なぜなら、作用主体、すなわち原因はまた別の原因によって規定される結果でもあり、そ

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の意味で受動でもあるからでもある。必然的結合によって宇宙の事象すべてが規定されているとす れば、一つの原因は必ず何か別のものの結果なのであり、それゆえ真の意味で原因(結果でないよ うな原因)と呼べるものはない。しかし、一方で、われわれは少なくとも部分的には自分の自由な 意志によって行為を決定してるように思える。それ故に、各事象が原因でもあるが必ず結果でもあ るような必然的結合の連鎖とは異なる何かを見いだす可能性があるとすれば、人間の意志的行為の 原因である意志、ないし、行為主体が第一候補ということになる。真の原因を見いだせる可能性は そこにしかない。「したがって「Active」という語は力自身の本来持つ「能動性」という性質をあらわ すとともに、人間の行為においてその姿を現すものであるという意味で、人間の行為に関わるとい う二重の意味を持つことになる。」8 そしてリードは人間の精神の能力を知性と意志に分ける。通常の分類では知情意の三つであるが、 情念はその名の示す通り人間にとっては受動的であると考えるので、この能動的な力には加えられ ていないのである。情念にこそ人間の行為を動かす力を認めるヒュームとはいちじるしい対象をな している。  リードによれば、知性の持つ思弁的な能力(Speculative Powers)により人間にとっての最良の目 的を提示し、その目的を達成するために最も適切な行動体系を設計し、「意志」の持つ能動的能力 (Active Powers)により、これを実行に移す。これが人間のあるべき姿であり、したがって、徳と悪 徳という人間の性質はひとえにこのような能力を人間がいかに使用するかにかかっていることにな る。  つまり本能や情念欲求などに動かされる動物の行為とは別に、知性と意志の働きによる人間の行 為が存在するというところから出発するのがリードの力に関する理論である。このようなリードの 立場は人間と動物の間に連続性を見て取るヒュームとはいちじるしい対象をなす。9  そして力はリードによれば何らかの定義を与えられるようなものではないので、代わりにいくつ かの観察を行う。まず、①力とはそれ自体外的感覚の対象でも内的意識の対象でもない。つまり力 に関してそれについての直接的経験は存しないということである。それゆえ、②力について我々は 間接的にのみその思念をもつことができる。このような立場をとってなお力の概念を認めるという ことは、ヒュームの立場から見れば、ロック的な立場に戻るということになるであろう。もちろん リードはロックのような観念説を認めないが、ロックを経験論の不徹底と考えるヒュームの議論は 熟知しているはずであるから、あえてこのような説を主張していることになる。しかも、ロックと は異なる枠組みでそれを考えているということになる。さらに③力は単独では存在しえず、必ずそ の力の基体が存在する。④力は行使されない場合でも、また行使された程度の大きさに限定される というわけでもない。この点において、力とその行使の区別を否定するヒュームとは真っ向から対 立する。そしてこれらの観察は言語使用ができる人間にとって、判明であり、理解しまた推論する こともできるという。  さて、われわれの一般的な理解では何か変化が生じた時にその変化を起こすものが原因であり、 起こされたものが結果である。そしてそれは能動と受動という人類の言語に普遍的な区別に対応し ている。個々の事例において、この能動受動の区別が間違っていたとしても、このような普遍的な 区別が多様な言語に存在している事実が、能動受動の区別の実在性を主張する傍証として使用され る。  要するにリードは力について、その所有について、我々は確信しているが、一方でそれ自身を直 接経験するわけではなく、間接的に知るという主張をする。この立場は先にも述べたようにリード の批判の原点でもあるロックの立場に似ているように見えるが、やはりそれとは重要な点で異な る。

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 一つは、ロックの説は作用の現実性の経験を力の観念の源泉としていることである。したがっ て、力一般の実在性を認めるというより、力という日常語を有意味に使えるための経験論的な説明 をしているだけととらえることも可能である。リードのように力の存在の含意を強力にとっている わけではない。つまり、ヒューム的立場から言えば、確かに日常語において力の概念は使用されて いるが、それは哲学的には使わなくてもよく、必然的な規則性があればそこから説明できるものと いう主張をしていることになるだろう。すなわち日常的な経験に由来する力という概念と、観念の 分析から生じる必然的結合による因果関係の両方をわれわれは手にしているが、そのうち、ヒュー ムは後者をとっているのであり、リードは前者を取る。ロックのような立場はその両者の対立を先 鋭化させないでおいているように思われる。リードの立場はロックにより近いように見えると先の 論文においては書いたのだが10、それはリードがロックに近いということではなくで、ロックが一 方では観念説を主張しつつ、一方で日常的な信念の枠組みを維持しているがゆえに、リードの主張 がロック的に見えるということであろう。しかし、ここで重大なのは、力の観念は間接的にのみ知 りうるが、力の行使すなわち力の作用については直接知りうるということである。力と力の行使を 明確に区別するだけでなく、ここでは力の行使(すなわち作用)という直接意識されるものを認め たうえで、なお間接的にしか知りえない力の存在を認める、というリードの考えの理由をヒューム と比較することで、両者の相違が一層鮮明になるであろう。  またリードのヒュームに対する批判では、力の概念が通俗的つまり学問的ではないという批判と 因果律の論証不可能性という力の存在に対するヒュームの批評に対する反論として行われている (R511-512)11が、結局においてその根拠は、感覚所与への観念の還元可能性というヒュームの使用 する有意味性の基準に対する批判ということになる。そのような所与が与えられていることは確か に経験的な証拠となるが、それだけでは日常の経験や科学的知識を説明するには狭すぎるというこ とがリードの念頭にあったであろう。実際因果律が証明不可能であるにしても、それ抜きにはわれ われの経験が説明不可能であるとする点においてリードとヒュームは共通する。  したがって、ヒュームとリードの違いを求めるとすると、結局において、人間の行為に原因のモ デルを求める立場と人間の行為をも一つの自然現象とみる立場との対立と考えることができる。そ して、これは明らかに、自由意志をめぐる論争に関わるということができる。  自然科学の発展以降、この問題は自然現象が因果的に決定されているということを前提として、 人間の意志的行動がこのような自然現象と同列の存在に含まれるか否かという形で論じられてい る。ヒュームの自由意志否定もこの線に沿ったものである。リードの戦略はこれをひっくり返して 考えることにある。つまり人間の行為は人間の自発性や意思決定抜きには考えられないので、この ことを動かせない事実として考えようとするのである。したがって、自然現象間の必然的結合はそ れが必然的結合であるがゆえに、力の概念が当てはまらない、故に真の意味での原因ではないとい う主張なのである。この意味での力の概念が自然現象の必然性を説明するものではないことは明ら かである。そしてリードは力の概念から自然現象の必然性を説明するような形而上学を明示的には 示していないので、一種の二元論的な説明になるととらえることもできるであろう。  さらに、リードの最終的な目標は人間の道徳性にあり、しかもその評価に関しては創造主たる神 に与えられた力を正当に行使するか否かにかかっている(R525)。つまり、人間が与えられた力を 正当に行使するならば、それは神の意志にかなったことになり、道徳的に正しいことを行ったこと になる。とすれば正しくないことは自らの力を神の意志とは異なった仕方で使用すること、ないし は使用しなかったということを意味することになる。このような言い方が可能になるためには、当 然力と力の行使は区別されねばならない。力とその行使のあり方の一致不一致が道徳的な評価の基 準だからである。道徳的評価が可能であるためには、人間が力を持ち、その行使不行使が、主体と

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しての人間に依拠するということが必要なのである。  以上の考察で、ヒュームとリードの力という概念に関する差は明らかになった。そしてリードの 力の概念が、自然現象における結合の概念を直接説明するものでないことも明らかになった。推測 ではあるが、この問題を解決するにはおそらく究極の原因としての神の想定が必要になると思われ るが、リードの宗教論に関しては現在論じる用意がないので、問題の指摘にとどめておきたい12 3  次に、ヒュームとリードの比較のために両者の道徳的判断について考察しておきたい。なぜなら 共に道徳的判断のために、力ないし原因の概念を擁護しているからである。  リードの擁護の議論は先に触れたので、ヒュームの擁護論について触れておきたい。  まずヒュームにとって道徳的判断は、究極的には、行為の是非に関する判断ではなく、それを生 み出す原理、すなわち人格の善し悪しについての判断である。そして人格それ自体は観察されない がゆえに、その善し悪しの結果として生じる、行為の善し悪しを手がかりにその原理のあり方を探 るという、推論に依拠している。行為の善し悪しではなく、人格の善し悪しがより根本的であると いうヒュームの立場をどう解釈するかはそれ自体問題ではあるが、ここではそれについては論じな いでおく。ともかくこの立場からすれば行為を生み出す人格とその行為の間には堅固な結びつきが なければならない。ヒュームによれば、すべての事実に関する推理は因果推理に帰着するのである から、道徳的判断の成否は因果推理に依存する。すなわち、原因である自己と外的な行為との因果 的結びつきが必須であるということになる。故に因果必然性の支配する世界のもとで自由意志を認 めることは、主張者の意図とは逆に道徳を破壊してしまうというのである。  このような主張はヒュームの道徳観を理解する上で様々な疑問点を及ぼす。以下思いつくままに 列挙してみる。  行為の道徳的評価は最終的に、一般的に考察された快苦への共感に基づく判断である13。した がって、きわめて、功利主義的かつ結果主義的な色彩の強いものである。これが行為主体に対する 道徳的評価に結びつくためには、行為主体の潜在的な可能性に結びつかなければならないと思われ る。ヒュームにとっては、それは未来への行為への期待、すなわち、蓋然的推理ということになる であろうが、だとすれば、行為主体の行為の可能性への期待値が道徳的判断の本質ということにな る。しかし、日常的信念は主体そのものの性質を述語づけているように思われ、このような未来の 行為への蓋然的な期待値を意味しているとは考えられない。もちろん精神の傾向的な性質と考え ることは不可能ではないが、そのように考えるときヒュームの考えは本来対立的であったはずの、 リードの考え方に近づくことになる。  さらに、道徳的評価の原型は誇りや愛などの間接情念である。そこでは誇りや愛の対象である自 己や他者対して自己や他者と関係のある善き性質を持った原因が(正確には善き性質を持っている という信念が)愛や誇りという情念を生み出し、対象である人に向かわせる14。このような情念の メカニズムと類似のメカニズムが道徳的判断を生み出すと明示的に書いているわけでないが、これ が原型であろうという推測はかなり確度の高いものであると言えるだろう。とすれば、道徳的判断 も対象に関して何ごとかを述語づけるものではなく、主観の側の評価にすぎない。それゆえ、リー ドのような力の実在性を先に定立するような立場とは根本的に異なるということはできる。故に、 ヒューム理論の不整合とはならないという弁護はできるだろう。しかし、その場合例えば、道徳的 判断の性格付けが行為主体に対する直接的な述語づけではないということは可能であるとしても、 そのような情念を生み出す信念、例えば、彼は金持ちであるという信念についての、解釈が問題に なる。ヒュームは、金は持っているが、使うことのできない吝嗇家(2.2.5.7)を例にとり、彼は金を

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使うという力を本当には持っていないが、一般規則のせいで金を持っているという事実から、彼が 金を使うことによって得られるであろう人生の快に対する共感が生じ、そこから吝嗇家に対しても 通常の裕福な人たちに対するのと同様の敬意が生じるのだという。しかし、まさにこのような偽な る信念が意味をもつことこそ、力という概念が有意味であることの証拠であると言える。なぜな ら、確かに金持ちであるという信念が敬意を生むことの正しさは、彼が金を使って人生を享受する という事実にあるだろう。しかしながら、金持ちもいつも必ず金を使うわけではない。金を使用し ていないまさにその時、に使用の可能性の存在を付与していると考えていると言ってもよかろう。 そして決定的なことはヒューム自身二巻では、このような力とその行使を区別しない立場を事実に 合わせて放棄していることである15。つまりこのような信念が行為を生みだす、もしくは生み出さ れる条件となっているわけである。とすれば、ただ単にそれが原因となっているというだけではな く、そのような意味内容の理解が正確か不正確は別として、正しいものとして受け取られている時 に、信念の持ち主がそれを真である、すなわち、力というものを人が所有しているという事実をみ とめていなければならない。したがって、ヒュームは少なくともこの事態について単に舞台が違う ということでは済ませるというわけにはいかないように思われる。  さらにもう一つ大きな問題点が存在する。それはこの信念が力という潜在的な性質を帰属させる 基体としての自己や他者を考えているという点である。道徳的評価とは言わないまでも行為や精神 作用の主体としての自己に関するかぎり、ヒュームが基体としての自己の観念を批判しているよう に、自己を日々刻々移り変わる観念の織り成す劇(1.4.6.4)のようなものとしてとらえることも十分 理のあることであると思われる。しかしながら、間接情念のメカニズムの説明にみることができ るように、ヒュームは情念の対象としての自己と、情念の原因としての自己を分ける(2.2.1)。原因 としての自己の性質の善し悪しに応じて対象に向かう情念の種類が変わる。してみると、ここで は、ヒュームは具体的な性質を持つ自己ではなく、それより一段抽象度の高い、自己の性質がある 程度変化しても変わらない同一性を保つ基体としての自己を考えているように見える。もちろん、 ヒュームを敢えて弁護すれば、彼はここで哲学的に正当化できない日常的な自然な信念を道具と して利用しているだけだということも言い得るであろう。しかし、その場合問題なのは、ここで、 ヒュームが説明に使っているのが印象と観念の二重の連合という完全に観念説の枠組みの中で話を しているということである。しかもヒュームが自然な信念として日常を構成するものとして挙げて いるものに対してヒュームが挙げている説明のメカニズムはすべて、観念説の枠組みを超えるもの なのであるにもかかわらず、ここでの議論は観念説の枠組みを使っていることには疑問を感じざる を得ない。  このような不整合が力の概念をめぐるヒュームの理論の中で、とりわけ力の概念を必要とする、 人間の精神の作用や行動の説明に関して、多くの不明確な点を残していると言わざるを得ない。と はいえ、このことだけをもって、ヒュームの理論が間違っているというつもりはない。これは人間 の行為をどのように理解すべきかという立場に関する根本問題に関わるからである。ただ最後に、 ヒュームの議論がなぜこのような不整合をもつようにみえるか、その理由に関して考察を加えてみ たい。 4  ヒュームの議論の中心が因果批判にあることは『本性論』以降に書かれた『人間知性研究』(An

Inquiry concerning Human Understanding(1748))や『本性論概要』(An abstract of a treatise of Human nature(1740))をみれば明らかである。さきに述べたようにヒュームの因果論の要諦は恒常的連接

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得られたものである。観念は必ずその原型である対応する印象を持たねばならないといういわゆる 複写の原理から得られるものである。そして平たく言えば、これは直接経験に現れていないものは その実在性を認めないという経験論の原理として機能する。しかし、彼は何の分析をしてこの結論 に達したのか。答えは明白で日常的な因果的な信念を分析したのである。これはどのようなことを 意味するのだろうか。例えば恒常的連接と推理という二つの条件を兼ね備えている事例があったと しても、自然な因果的信念と認められなければこの分析は不可能であったろう。この意味でこの観 念説の次元における因果関係の分析は、われわれの日常経験のなかでの自然な信念を前提にしなけ れば不可能な分析であり、その意味でそもそも日常的信念が構成する世界を所与として与えられて いなければならない。もちろん探求がそこから出発したからといって、その探求の結果が前提を破 壊するということはありうる。しかしながら、ヒュームの探求はその観念説の枠組みを超えて、結 局、元にあった日常的信念の枠組みへと戻る。故に、観念説の枠組みを使用して経験論的批判を徹 底させ、日常的信念の枠組みを破壊したヒュームという旧来の描像は決定的に間違っている。しか しだからといって、ケンプスミス以来の自然主義という立場も簡単には取りえない。それはこの立 場では、観念説による分析を経てたどり着いた懐疑論の役割をうまく説明できないからであり、探 求の出発点の時にとっていた存在論の枠組みを除けば、結局リードの常識主義の立場と大きな差異 はなくなってしまうからである。よってヒュームが人間本性論においてなそうとしたことに関して は、もう少し複雑な考察を必要とするように思われる。そのための見通しが、前論文16において提 示した、ヒュームの議論における三つの層の区別である。  第一は、日常的信念によって描かれる常識の世界である。しかし、これは必ずしも学問的な吟味 を受けていない信念の世界である。ヒュームはこの世界の信念を自分の哲学的な議論によってよ り納得のゆく理性的なものにすることを考えていた。これが第二の段階、すなわち常識を批判的 に吟味したことによって得られる世界である。そして第三の段階が観念説を徹底した議論である。 ヒュームの体系はこの三つの段階の相互依存関係によって成り立っている。  さきに挙げた、観念間の恒常的連接と日常的な因果的信念、知覚の塊としての自己の観念と、力 の主体や瞬間瞬間の変化を通じて存続すると考えられている自己ないし他者の観念、これらの両方 をヒュームはともに認めているのであると考えざるを得ない。考察はいったん打ち切らざるを得な いが、ヒュームにとってはそれぞれに実在性をもつと思われるこれらの三つのステージの関係を解 明することが、ヒューム哲学の独自の体系性を明らかにすることになるであろう。今回の力の概念 の最高はそのための重大な手がかりとなるものである。 注 1 「トマス・リードの心の哲学(1)」(香川大学教育学部研究報告第一部95号(1995)「同(2)」(同研究報告第 121号(2004)「同(3)」(同研究報告第123号(2005)「同(4)」(同研究報告第125号(2006))「同(5)」(同研 究報告第125号(2006)「同(6)」(同研究報告第133号(2010)「同(7)」(同研究報告第135号(2011)「同(8)」 (同研究報告第143号(2015) 2 これについては前掲「トマス・リードの心の哲学(1)」において詳しく論じている。 前掲論文「トマス・リードの心の哲学(2)」を参照せよ。 最近の慣例に倣い『人間本性論』の個所を示す際には(巻.部.節.段落)の番号で示す・ 註3の論文における考察 拙論『人間本性論』の構造再解釈序説―観念説の役割をめぐって―」(香川大学教育学部研究報告第一部第149 号(2018) 7 主として註3の論文の考察を基にするがあらたに考察して意見を変えた部分もある。

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前掲論文p.86

ヒュームは知性論においても情念論においても、類似の働きが動物にもみられるとし、そのことをもって、

自説の補強的な証拠と見なしている。つまり、人間と動物の間に断絶ではなく類似をみるのである。

10 前掲論文p.88

11 括弧内のRのついた数字は全てThe Works of Thomas Reid, ed. By William Hamilton 6th

edition、Edinburgh 1863を Thoemms Pressが1994年に復刻出版した本のページを示す。 12 リードが若いころにバークリの非物質論に共感していたという事実からすると、彼が精神の能動性を強く主 張したい気持ちを持っていたということは推測可能であり、バークリーに似た形而上学を展開することも不 可能ではなかったと思われる。 13 たとえばある人が有徳であるという判断は、ある人の行為が自分及び周囲に生み出す快に対する共感から生 じる(2.1.7) 14 間接情念に関する詳しい説明は拙論『解説 ヒューム『人間本性論』における情念論』(デイヴィッド・ヒュー ム『人間本性論』第二巻情念について 訳石川徹・中釜浩一・伊勢俊彦 所収PP.223-347)をみよ。 15 「行使され、作用している状態に置かれるのでなかれば、人であれ、その他のどんな存在者であれ、何か能力 を持っているとは決して考えられてはならない。しかし、このことは正しい哲学的な思考法においては厳密 に真であるけれども、われわれの情念の哲学ではないということも確かである。」(2.1.10.4) 16 註6の論文

参照

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