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明治期における日本人の労働移民-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第

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巻 第

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研究ノート

明治期における日本人の労働移民

佐 藤

は じ め に 日本がかつて労働力の輸出国であったことは周知の事実である。これにかんする文 献はその多くが日本人移民の経験を当事者の観点から克明に描くものであり,いわば ライフヒストリーとしての歴史叙述である。移民史の研究はそれ自体が独自の領域を 形成し,その他の研究分野から孤立しているようにみえるのであるが,移民史はそも そも歴史事実としてたとえば日本経済史,とりわげ日本の賃労働史とどのように関連 しているのだろうか。もし関連があるとすれば,それはどのように把握されるべきな のであろうか。本稿は,そうした問題意識にもとづく研究の第一歩として,移民史の 文献から得られる諸事実を私なりに暫定的に整理したものである。そのさいの主要な 着目点は,渡航方法,労働形態,そして組織化という移民の成熟過程である。 1 . 渡 航 方 法 l 政府間協定 日本の労働者を公式に受け入れた最初の国は,ハワイである。当時のハワイは,モ ノカルチャー経済の独立王国である。ハワイ経済の担い手は,大規模農場と精製工場 とを所有し,砂糖キビから生産した粗糖をアメリカ合衆国へ輸出する主として欧米系 のプランターたちである。ハワイ原住民は生産労働力として消滅の危機にあったため, 早くから,労働力輸入が計画された。

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年に移住民局

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が (1) 設置され,労働力輸入の公的な規制が開始される。農業労働力の給源を安定的に確保

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-452 香川大学経済論議 760 することは, しかしながら,容易ではなかった。中国人労働者は, プランテーション の労働を忌避し,従順な労働力とはみなされなかった。香港における募集活動は,イ ギリス政府の意向に左右されざるをえなかった。中国人の次に給源として組上にあ カまったのカむ 日本人であった。ちょうど幕末から明治維新にかけての混乱期にあった 日本は,近代化の遅れた人口過剰な国であり, なによりも,植民地化されていないた め,欧米列強の影響力から比較的自由であり, その意味で魅力的であった。 しかし労 働力輸出を奴隷貿易とみなす国際的な論調と, とりわけ明治維新の政治的な混乱とが 災いした。徳川幕府によって許可された 153人の渡航は,明治新政府によって無効と され, それゆえ「違法」な形で強引に実現した。この問題は 2年後の 1870年,イギリ ス,アメリカ両政府の仲介を得て,政治的な解決をみた。 40名の即時帰還措置となら んで, 100名強の残留希望者を公式に渡航者として事後的に認知した。明治元年の渡航 者という意味で i光年者J (がんねんもの) と命名された。明治政府はこれを契機と して,人身売買国外移送罪を規定し,労働力輸出にたいして一層の警戒を強めた。他 方ハワイでは,真珠湾の軍事的使用を許可した見返りとしてアメリカ合衆国とのあい (3) だに締結した互恵条約 (76年)によって,砂糖の輸出に拍車がかかり,生産ブームを 迎えていた。プランテーションの数はそれまで 20にすぎなかったが, 80年には 63へ と著増し,生産量も 70年の 9千トンから 80年には 3万トンを超える水準に達した。 プランターたちは,輸出市場の安定的確保のために, アメリカ合衆国との合併を志向 した。当面の急婚する労働需要には,中国人およびポルトガル人の輸入によって対処 した。 しかし,いずれの労働者もプランテーション耕地への定着が悪く, とりわけア メリカ合衆国が 1882年に制定した中国人排斥法は中国人労働者の導入を間接的に制 限した。こうした状況のなかで,ハワイは中断している日本人労働者の輸入の再開に むけて動き始めた。 ( 1) Edward D. Beechert, Working in Hawaii A Labor History, University of Hawaii Press1985, pp. 61-65 ( 2) 牛島秀彦 r行こかメリケン,帰ろかジャパン』サイマル出版会, 1978年,に詳しい。 ( 3 ) Edward D.Beechert, 0ρ,ιit, p..83 ( 4 ) Ibid, p..80;ロナルド・タカキ著(富田虎男・白井洋子訳)rパウ・ハナ ハワイ移民 の社会史』万水害房 1985年, 31頁,参照。

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761 明治期における日本人の労働移民 453 ハワイ国王の訪日 (81年)が政府間交渉を軌道に乗せた。ハワイ国王は日本皇室と (5) ハワイ王族との婚姻を提案したとも伝えられている。アメリカ合衆国からの独立を維 持したいとするハワイ王国がそのための緩衝剤として日本人労働者の導入に寄せてい た期待の大きさを推察できる。ハワイ政府は,元年者の代表との話し合いにより協定 (6) 案を煮詰め,日本の政財界にパイプを持つ R Wアーウィンを総領事兼移住民局特派 委員に任命し,日本政府との折衝に当たらせた。 1884年に交渉は妥結し,模範契約書 (7) ともいうべき i約定書」が取り交わされた。その内容は,以下のごとくである。 第1条 ハワイ政府は,渡航者(妻と子供2人を含む)の横浜からホノlレノレまでの 旅費を負担する。 第2条ハワイ政府は,渡航者に,農業労働者としての3年の雇用を提供し 1ヶ 月6ドル(妻については 4ドJレ)の食費を支給する。住居および炊事用の 薪炭は無料で提供する。 第3条ハワイ政府は,労働報酬として,渡航者に1ヶ月9ドル(妻については6 ドル)を支払う。 第4条ハワイ政府は,渡航者とその家族を無料で診察する。 第5条 ハ ワ イ 政 府 は 1ヶ月の勤務日を26日 1日の勤務時聞を 10時間(工場 については12時間)とする。通勤時間は勤務時聞に算入する。 第6条 渡 航 者 と そ の 家 族 は 3年間,人頭税免除とする。 第7条渡航者およびその委の受け取るべき給料の2割5分は,ハワイ郵便局に預 金しなげればならない。その預金は,日本領事の承諾がなければ,引き出 すことはできない。 明らかなように,渡航費および医療費の全額負担のみならず,労働報酬および食費 についても一定額の支給を約束している。しかもその主語はハワイ政府である。「約 定書」にもとづいて, 1885年2月8日,シティ・オブ・トーキョー号が946人の渡航 (5 ) 牛島,前掲書, 83頁:ハワイ日本人移民史刊行委員会『ハワイ日本人移民史』布睦日系 人連合協会, 1964年, 78-83頁,参照。 (6 ) 向上, 89-90頁。 (7) 同上, 91-92頁。

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-454ー 香川大学経済論叢 762 者を乗せてハワイに上陸した。翌年 r渡航人へハワイ国の憲法法律にしたがい,最も 完全かっ有効の保護を与えん」ために,渡航条約が政府間で正式に締結された。渡航 条約の第4条は rハワイ政府は渡航人にたいし雇用主の義務を負担すべき」であるこ とを明確に規定した。すなわち,ハワイ政府は日本人労働者にたいして雇用主として の責任が自らにあることを公的に表明したのである。日本人労働者は,ハワイ上陸と 自 由 ともに,移住民局をつうじてプランターに割り当てられたが,プランターとのあいだ に雇用契約を締結したわけではない。移住民局は,募集にさいしては労働者とのあい だに,そして割り当てにさいしてはプランターとのあいだに,契約を二重に締結した。

二種類の契約に食い違いがみられ,紛争の種にもなった。日本政府とハワイ政府との あいだの政府間協定は,国境を越えた労働者の募集・調達を両国政府によって承認し ただけではない。受け入れ国たるハワイ政府に「雇用主の義務を負担」させているの である。労働力輸出によって国家の威信が損なわれることを最も警戒した日本政府の 利害を強く反映したものである。 1887年の砂糖価格の暴落をきっかけに,それまで無 料であった渡航費は月賦返済方式に,医療費も掛け金拠出方式に変更したが,送り出 し固たる日本政府の国家的な威信にたいするハワイ政府の大幅な譲歩と配慮とは,揺 るがなかったといってよい。日本人労働者の監督保護を強化する目的で,ハワイ政府 が移住民局のなかに日本移住民局を設置したのは,このような脈絡のなかで理解でき る。アーウィンの推薦により監督官長に就任したのは,横浜税関長,イタリア総領事, 宮内官を歴任したことのある中山譲治であった。月収250ドルともいわれる彼の給料 は,ハワイ側が負担した。そしてまた,日本人労働者を「親切の絹糸」で扱うよう忠 U~ 告する回章がアーウィンによってプランター宛てにわざわざ発送されてもいる。日本 (8 ) 同上, 99頁。 (9 ) 悶上, 112頁。 (10) Edward D.. Beechert, 01うじが, p..55 (11) 島岡宏「初期ハワイ官約移民の窮状一契約不履行と井上勝之助特使派遣Jr人文自然論 叢j (大阪学院大学)11号, 1984年6月, 45頁。 (12) Hilary Conroy, The lapanese Frontier in Hawaii, 1868-1898, University of California Press1953, pp. 75-76;山崎俊一『ハワイ出稼人名簿始末記』日本放送出版会, 1985年, 41頁。 (13) Ibid, p 69. (14) 前掲『ハワイ日本人移民史J105頁。

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明治期における臼本人の労働移民 -455-外務省も i出稼ぎ心得書」を募集地に発送し i常に誠実を旨となし,職業に勉強し, かりそめにも指揮する者の命令に背くべからず」と訓告し, i

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ヶ年の後はかれこれ合 して

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円以上の蓄財をなすこと,さほど難しき業にあらざるべし」と宣伝している。 日本人労働者たちがハワイ政府および日本政府の庇護のもとにあるという幻想を抱い たとしても不思議はない。送り出し国が受け入れ国とのあいだに対等の立場で締結し た政府間協定であり,国際労働力移動の歴史において画期的であるといっても過言で はないであろう。こうした政府間協定の枠組のもとで渡航した労働者は,官約移民と 呼ばれている。合計

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万人弱の日本人労働者が,

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年間

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回にわたって,官約移民と してハワイに上陸した。アメリカ合衆国の軍事的支援のもとにプランターを中心とす る改革派がハワイ王政を打倒したとき(1

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年),政府間協定の枠組も消滅した。日本 ではこの時期,松方デフレが収束し,為替相場の下落による圏内物価の高騰がマイル ド・インフレーションをともないつつ,圏内景気を回復させ,

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年代後半の企業勃興 期をもたらしていた。 2わ民間斡旋業者

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年代にはいって,海外雇用を斡旋する企業が登場しはじめた。日本郵船副社長 吉川泰次郎と秀英会社長佐久間貞一とによって

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年に設立された日本吉佐移民合 資会社が最初のものである。海外雇用の募集斡旋がハワイを含めて全面的に民間斡旋 業者に委譲されるのは,

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年以降である。そのための法律は,

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年,移民保護法 として制定された。「労働に従事するの目的をもって外国に渡航する者およびその家族 にしてこれと同行しまたはその所在地に渡航する者」を「移民」と規定した。そして 移民の募集・斡旋に携わる「移民取扱人」は,行政官庁の認可を得なければ営業でき ないとした。資本金の規模,募集地および渡航地における業務代理人の存在などが認 (15) 向上, 95頁。 (16) 向上,

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児玉正昭『日本移民史研究序説』渓水社,

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頁,参照。 (18) 中村隆英'19世紀末日本経済の成長と国際環境」梅村又次他編『松方財政と殖産興業政 策』東京大学出版会,

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児玉,前掲書,

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-456ー 香川大学経済論叢 764 。 的 可基準である。世紀の変わり自には, 50社近い斡旋業者が営業している。当時 '5大 会社」とみられていたのは,森岡真,海外渡航会社,熊本移民合資会社,東洋移民合 資会社,そして日本移民合資会社である。 1908年までの 15年間で,おおよそ 15万人 弱の日本人が斡旋業者の手によって海外へ働きに出ている。ハワイ,カナダ,メキシ コ,ペルー,クイーンズランド,フィリピンなど,渡航先はほとんど環太平洋諸国で

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ある。ハワイはこのうち約 8割を占め,依然として最大の渡航先である。 1908年は, 日米紳士協定によって北米への労働移民が事実上禁止された年である。これを機に, ブラジルが日本人労働移民の新たな渡航允として浮上した。第一次世界大戦までに, 仰) 1 5万人弱が同地におけるコーヒー農園の労働者として就業した。 民間斡旋業者は,それぞれ独自のやり方で渡航先を開拓し,雇主とのあいだに契約 を交わした。もとより,民間斡旋業者は労働者と雇主とのあいだの雇用契約の仲介者 にすぎない。雇用契約の内容は,業者によっても,渡航先によっても,異なる。一例 を挙げよう。以下は,海外渡航会社(本社・広島)とハワイ砂糖耕地の雇主とのあい

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だに締結され,移住民局によって認可された契約である。政府間協定の内容と比較す ればわかるように,月収には食費が含まれ,賃労働としての性格が明確になっている。 また新たに,勤続加給的な要素が附加されている。残業手当,休日が明示されている。 過去の経験から生まれた現実的な契約内容であるといえよう。 第 1条 雇 主 は , 最 初 の 12ク月間,月当たり 11ドル,次の 12ヶ月間,月当たり 12 ドル,そして最後の 12ヶ月間,月当たり 13ドルを労働者に支給する。契約 満了時には, 18ドルのボーナスを支給する。 (20) アラン・T・モリヤマ著(金子幸子共訳)w 日米移民史学~ PMC出版, 1988年, 61-73頁,参照。 (21) 児玉,前掲書, 255頁。 (22) ハワイに 124,623人(向上書, 87頁),メキシコに 8,706人(鈴木譲二『日本人出稼ぎ 移民』平凡社, 1992年, 206頁),クイーンズランドに 2,960人(児玉,前掲書, 295頁), ぺ1レーに 5,634人(アメリア・モリモト著『ペルーの日本人移民』日本評論社, 1992年, 64頁),フィリピンに 2,845人(早瀬晋三『べンゲット移民の虚像と実像』同文舘, 1989 年, 124-125頁),カナダには 1900年までにすでに 4,048人(ユウジ・イチオカ著『一世 繋明期アメリカ移民の物語』万水害房, 1992年, 64頁)である。 (23) 大月泉『国際労働力移動に関する研究』広島大学修士論文, 1994年, 89頁。 (24) Hilary Conroy,

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cit, pp..155-156

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765 明治期における日本人の労働移民 -457 -第2条雇主は,労働者の妻が働く場合には,その妻に月当たり 7..5ドルを支給す る。 第3条 雇 主 は , 最 初 の 12ヶ月間, 50セント,残る 24月間 1ドlレを労働者の賃 金から天引きする。海外渡航会社はそれをホノルノレの銀行に預金し,労働 者の帰還費用に充てる。 第4条 一 月 の 労 働 日 数 は 26日, 1日の就労時間は 10時間,工場については 12時 間とする。 第5条 30分を超える超過勤務は,時間当たり 10セント,女性については 7セント を支給する。 第6条雇主は,労働者およびその妻に住居,薪を無料で提供し,必要な医療を施 す。 第7条労働者は,兵役,税金を免除される。 第8条新年,クリスマス, 11月 3日,日曜,およびハワイの祝日は,休日とする。 海外渡航会社は,労働者の雇用契約を上のように定めるとともに,雇主とのあいだ に「覚え書き」を交わし,渡航費用については雇主が負担する必要のないことを明記 するとともに,手数料の支払方法を取り決めている。手数料は,男子労働者について は年額7ドル,女性労働者については年額 4ドルとした。雇主は,到着時 1年後, そして2年後の計3回,麗用関係が継続していることを前提として,支払うこととし

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た。 民間斡旋業者は,麗主との契約にもとづいて,圏内で募集活動を開始する。選定し た募集地で顔のきく人物,たとえば元県会議員で村長といった人物を業務代理人に指 定し,それとのあいだで契約を結ぶ。渡航者一人いくらという成功報酬である。雇用 契約を途中で破棄するような労働者では,上の例からもわかるように,業者に入る手 数料が少なくなるし,雇主からの信用も低下してしまう。そこで渡航者の契約違反に たいする連帯責任を業務代理人に負わせる契約をとることが多い。そこで業務代理人 は,移民周旋人を使って,応募者の身元調査を入念に行う。こうして集められた渡航 (25) Ibid, p..157

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官 -458- 香川大学経済論議. 766 希望者を,身体検査によって求人数の倍近い人数に絞り込む。斡旋業者の祖員,業者 雇いの医師立ち会いのもとで,最終的に渡航者が確定される。確定数は,辞退者や求 人数の突然の変更を想定して,プラスアルファを加味している。旅券申請手続き,旅 費立て替え等にかかわる手数料の返済方法を業者と渡航者とのあいだで契約し,乗船 倒 した上で,雇用契約への署名が船中でなされる。 1897年には,所持金をもたない日本人渡航者の上陸がハワイ新政府によって拒絶さ 世1) れる事件が相次いだ。日本人の渡航者は,そのほとんどが入国前に契約に署名してい る。アメリカ合衆国は,この積のいわゆる契約労働者の入閣を 1885年以降,禁止して いる。まだ見たこともない職場で働く契約をもって入国する者は,契約を拒否する能 力をもたず,もし所持金がなければ,事実上の奴隷状態に置かれてしまいやすいと考 えられたからである。それ自体は,入国する労働者の資質を高め,雇用関係を正常化 しようとする合理的な入国政策であると思われる。しかしながら,ハワイが96年 5月 から1年間のあいだに入国を許可した契約労働者は,日本人を抑制し,それにかえて 中国人を増加させるというものであった。日本人の2,802人 に た い し て 中 国 人 は

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4,319人である。日本人の流入にたいする警戒心の高まりがハワイをしてこうした政 策を採らせたのである。日本政府は,軍艦を派遣して抗議した。民間斡旋業者は,もっ と佼猪であった。 50ドノレの見せ金を渡航者にもたせ,入国審査をパスした段階で取り 上げ,業者が共同で設立した銀行に強制的に預金させたりした。 2年弱の月賦返済計

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薗を立てさせ,渡航者をそのあいだ雇用関係に拘束しようと試みたのである。 3 個人的ネットワーク 日本人移民の出身地は,特定地域に偏っている。 1925年時点でアメリカ合衆国に居 住する日本人25万人強のうち,およそ 4人に 3人が広島,山口,熊本,沖縄,福岡, そして和歌山の 6県の出身である。海外渡航者は,あきらかに西南日本に集中してい (26) 児玉,前掲書, 309-321頁,参照。 (27) 前掲『ハワイ日本人移民史J150-152頁。 (28) Hilary Conroy, 0.少• cit, p.117 (29) 木村健二「京浜銀行の成立と崩壊ー近代日本移民史のー側面Jr金融経済J214号, 1985 年10月, 1 -36頁,参照。

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767 明治期における日本人の労働移民 -459-ー 。 曲 る。広島,山口両県だけで,半分弱をしめる。両県においても,全県に均等に分散し ているわけではなく,広島湾を囲む地域に集中している。すなわち,広島県の佐伯郡, 安芸郡,安佐郡と,山口県の大島郡,玖珂郡である。「アメリカ村」と呼ばれるほど海 外移民を集中的に送り出す村落(たとえば,広島県佐伯郡地御前村,和歌山県日高郡

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三尾村,愛媛県西宇和郡真穴村穴井など)は西南日本のそこかしこに点在したが,そ の波及カはしかしながら微弱であった。日本人移民の出身地におけるこうした偏りは, ヨーロッパからの移民が出身地を地理的に拡散しつつ,移民総数を膨張させていった のと対照的である。ヨーロツパ全域でみれば,北欧および西欧の諸国から移民が開始 され,南欧および東欧の諸国へと拡散していった。日本と同じく剖年代にはいって移 民を送り出しはじめたイタリアをみても, 1910年代にかけて出身地が北から南へと波

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及し,次第に平準化しているのである。 日本人移民の出身地が特定地域に偏ったのは,なぜだろうか。移民多出地域は綿作 の衰退した地方に多い。他作物への転換に失敗し,ほかの就業機会が近郊にも存在し ないため,海外渡航圧力が高まったとする見解が有力である。この「衰退作物地帯説」 は,しかしながら,同じような環境のもとにある他の地方(たとえば,鳥取,島根な ど)で移民が少ないことを説明できない。そこで「偶然的要素」を強調したのは,若 (3~ 槻である。ハワイ宮約移民の生みの親ともいうべきアーウィンの相談役をつとめたの は,外務大臣井上馨と三井物産社長益田孝である。二人は,ともに長州藩の出身であっ た。移民募集を山口,広島で集中的に行うよう指示したのは井上であり,それにもと

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づいて社員を岡地に出張させたのは益田であった。井上の出身地と政治的なカという (30) 若槻泰雄「アメリカ移民多出地区の要因分析JI玉川大学農学部研究報告』第19号, 1979 年, 104-105頁。 (31) 児玉,前掲魯, 37頁。 (32) たとえば,石川友紀「広島湾岸地御前村契約移民の社会地理学的考察Jr人文地理』第 19巻 l号, 1967年, 75-91頁;村川庸子「愛媛のアメリカ村Jr社会科学研究年報~ (龍 谷大学)第12号別冊, 1982年 3月, 34-49頁;福武直編『海外移民が母村に及ぼした影 響ー和歌山県日高郡三尾村実態調査』毎日新聞社人口問題調査会, 1953年,をみよ。 (33)

J

D.Gould, European Inter-Continental Emigration: The Role of {Diffusion} and

{Feedback}, in: Iournal of EuroJうeanEωnomicHisωη9 (198ゆ), pp. 267-315,とくに p..284,をみよ。

(34) 若槻ゅ前掲, 116-122頁,参照。

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460- 香川大学経済論叢 768 偶然的な要素がハワイ移民の出身地を決定したといってよい。労働者としての渡航が 建前上禁止されているアメリカ合衆国への渡航は,政府の後ろ盾も民間斡旋業者の仲 介も当てにできない。アメリカ合衆国へのパイオニア移民は,それゆえ,海外に活路 を見いだす冒険心の強い個性によって引き起こされた。 80年代の渡航者のなかから, 2人だけを拾ってみると,外国船のボーイから洋食庖,ホテル等の大実業家になった 愛媛の西井久八,スクールボーイから洋食j吉経営をへて,東洋銀行重役になった福島 の 荒 井 達 也 め

2

。パイオニア移民からの送金,手紙をつうじた情報は,婚姻圏の範 囲で共有化され

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。日本人移民たちが渡航先においてお互いを「ムラモン」あるいは (甜) 「クニモン」と呼んで識別したように,地縁・血縁関係は日本人移民の基本的な単位 である。「他県人じゃ,具合が悪いですよ。惑いことはないけれども,どっちかといえ ば,頼みにくいわけですね。同県人が,しかも同村とか,同郷の人だ、ったら~.おまえ, ょう来た。なんかやってみんか』とか,金がいれば,少し貸してやるとか,こういう 旧自 ところへ行けば,何とか使ってもらえるとか,まあ,世話をしてもらえるわけですより 排日運動の兆しが見えはじめた 1900年から,日本政府はアメリカ合衆国向けの旅券発 仰) 行に県別の割当制を導入し, 1ヶ月当たり 10人未満までに制限した。日本政府は,出 身地の分散をつうじて渡航制限しようと意図したのである。しかしながら渡航制限が 厳しくなればなるほど,面倒を見てくれる個人的なネットワークへの依存はいっそう 強まった。コネをもっ者は,渡航のためにあらゆる手段を講じた。旅券が得やすい県 に戸籍を変えると

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,ハワイ,メキシコ,カナ夕、経由で合衆国を目指すといったやり 方である。 1901年から 1907年のあいだで,およそ 8万人の日本人労働者が渡航制限さ

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れているアメリカ合衆国に入国した。その半数を,ハワイからの転航者が占めた。 1907 (36) 村山裕三『アメリカに生きた日本人移民一日系一世の光と影』東洋経済新報社, 1989年, 17-21頁,参照。 (37) 児玉,前掲替, 153-154頁。 (38) 新保満『日本の移民一日系カナダ人に見られた排斥と適応』評論社, 1977年, 53頁。 (39) 北村崇郎『一世としてアメリカに生きて』草思社, 1992年, 47頁。 (40) 鶴谷寿『アメリカ西部開拓と日本人』日本放送出版協会, 1977年, 91頁。 (41) 向上:吉田恵子「東日本における明治期出移民の実態Jr移住研究]29号, 1992年 3月, 75一76頁。 (42) ユウジ・イチオカ,前掲書, 60貰。

(11)

769 明治期における日本人の労働移民 第1表渡航者の経済的地位 1890年代 1900年代 階層 総納税者 渡航者 総納税者 渡航者 人数 % 人数 % 人数 % 人数 % I 15 3 9 3 1 1 3 II 95 19 9 7 6..5 62 21 1 23 30.3 III 199 41..8 49 45..8 91 3LO 30 39.5 IV 168 35.2 51 47.6 132 44.9 22 28.9 計 477 100.0 107 100.0 294 100.0 76 100.0 (出典) 児玉正昭『日本移民史研究序説』渓水社, 1992年, 160頁,および村川 庸子『アメリカの風が吹いた村』愛媛県文化振興財団, 1987年, 138頁, より作成。 (注)1. 1890年代は広島県佐伯郡宮内村の事例, 1900年代は愛媛県西宇和郡真ー穴 村の事例である。 2 等級分類は 4つの階層に簡略化して表示した。 461-年転航禁止令, 1908年日米紳士協定のあとは,家族の呼び寄せが中心となるが,密航 仰) という手段も駆使されている。日本人の移民ノfターンは,偶然あるいは強烈な個性と いう要素が生み出したパイオニア移民からの情報提供によって大きく左右され,そし てそれによって限界を画されたのである。 渡航者の日本国内における経済的な地位をみると,第1表のごとくである。対象地 はいずれも移民多出村落である。対象村落も調査時点も異なるため,厳密な比較はで きない。しかしながら,おおよその見当をつけることはできる。経済的な地位は,納 税額(村税あるいは県税)の戸数割等級表を基準に4つの階層に大まかに分類されて いる。 1900年代にはいると,渡航費はもちろん,所持金なしには入国が難しくなって おり,それゆえ経済的な地位も上昇していることがわかる。 1900年代の渡航者の経済 的な地位は,明らかなように r中よりやや上層」にある。これにたいして 1890年代 の官約移民は, 1910年代の渡航者と比べると,どちらかといえば,貧困な層に偏って いるといえる。 1890年代には,上位の 2階層からはほとんど渡航者がいなし〉からであ る。とはいえ,官約移民となったのは貧困者であるというよりは,むしろ移民多出村 落のなかの平均的な村民であるというほうが実態に近いのではなかろうか。 (43) 船員の脱船,外国航路の汽船への潜入,打瀬船での太平洋横断,旅券の偽造など密航の 事例については,村川庸子『アメリカの風が吹いた村』愛媛県文化振興財団, 1987年, 30-40頁,村山,前掲書, 40-43頁,参照。

(12)

462 香川大学経済論叢 770 II.労 働 形 態 1 .年季奉公 西インド諸島,モーリシャス島,フィジー島など,熱帯地域の砂糖産地では奴隷制 の廃止を受けて 3年から5年の年季奉公契約にもとづく労働者が主としてインドか ら導入されていた。奴隷制の経験をもたないノ¥ワイでも,労働力確保のために, 1850 年以降,年季奉公の雇用関係を開始した。その法的根拠は,主従法(TheMasters and Servants Act)である。主従法は,次のような規定をもっていた。無断欠勤した労働者 は,欠勤日数の2倍の期間,無報酬で追加的な就労義務を負う。いわゆるダブル・カッ トの規定である。奉公義務に服すことを拒否する場合には,刑務所に入れられ,改心 するまで強制労働に従事しなければならない。逃亡を二度試みた者は,雇主にたいす る奉公義務に加えて,禁固3ヶ月に処する。残虐行為,悪用など契約違反した雇主は, 5ドルから 100ドルの罰金に処する。逮捕,罰金,禁固を命ずるのは,治安判事であ る。こうした年季奉公は,奴隷制の新たな形態とみなされやすい雇用形態であるとい える。 ハワイの主従法は,しかしながら,日本人労働者が政府間協定にもとづいて渡航し てくるちょうど1年前の 1884年,円功〉なる雇主も,損失時間にかんして,その損失 時聞を表す貨幣額以上のものを労働者の賃金から控除しではならない」と修正し,か (ゅ の悪名高きダブル・カットを禁止している。また裁判所も,労働者に有利な判例を示

(44) Cf S.tanley

L

Engerman, Contract Labor, Sugar, and Technology in the Nine -teenth Century, in:]ournal of E,ωnomic HistoryV 01 XLIII N o. 3 (Sept 1983), pp 635-659; Stanley L Engerman, Servants to Slaves to Servants: Contract Labour and European Expansion, in: P

c

.

.

Emmer (ed), Colonialism and Migration引 ln -dentured Labour Before and Afler Slavery, Martinus Nijhoff Pubi1shers 1986, pp. 263 -294 ;とりわけインド人年季奉公人の雇用関係については, BrijV. Lal, Labouring Men and N othing More: Some Problems of Indian Indenture in Fiji, in: Kay Saunders (ed.), lndentured Labour in the British EmPire1834-1920, 1984;脇村孝平「インド 人移民と砂糖プランテーションーモーリシャスを中心として」杉原京・玉井金五編『世界 資本主義と非白人労働』大阪市立大学出版会, 1983年, 61-93頁,参照。

(45) Katharine Coman,

o

p

cit, pp 7-9; Edward D Beechert,

o

p

cit, 41-49. (46) Katharine Coman, ibid, p..20

(13)

771 明治期における日本人の労働移民 -463-した。日本人労働者が耕地で働きはじめたばかりの頃,病欠および休日の扱いをめぐっ て訴訟を起こした雇主にたいして,裁判所は病欠および休日の日数を損失時間として 抱 月 カウントしではならないとした。日曜やクリスマスなどの休日は,労働日に含まれな いことが確定したのである。病気のさいの治療は模範契約書によって約束されている 以上,病欠日数を損失時間に加えることは契約違反であり,病気療養中の住居・食費 は保障されなければならないとしたのである。日本人労働者は替油を飲んでよく仮病 倒 するという報告がなされているが,それは与えられた権利を行使しようとする日本人 労働者のしたたかさを示唆している。 砂糖キビ耕地における畑作業は 5種類ある。鍬で荒れ地を耕し,雑草を除去する ホウハナ(鍬仕事),畑に濯減用の水を引き込むハナワイ(水当て),キビの枯れ葉を むしり取るホレホレ(枯葉むしり),キビの茎を刈り倒すカチケン(刈り取り),刈り 取ったキビの茎を貨車に積み込むハツノfイコウ(キビ運び)である。女性たちは,ホ レホレに従事した。カチケンは日本人の得意技といわれていた。作業の指揮監督は, 馬に乗り権威の象徴である黒蛇の鞭を振り回すJレナ(監督)が行った。 Jレナは,ポー ランド人をはじめヨーロツパ系が占めた。日本人労働者は,麗主のことをボーシといっ た。 側 「ノ、ヮイハワイと 来てみりゃ地獄 ボーシが閤魔でノレナは鬼」一これは,日本人 労働者が作業しながら歌ったホレホレ節のひとつである。午前5時の起床サイレンで 起きて食事を済ませ 5時半集合。集合していなければ,耕地巡査が叩き起こしにく る。午前 6時から作業開始し,午前 11時半に昼食休憩となる。正午にふたたび、作業を 開始し,午後4時半の終業サイレンで一日の仕事が終わる。午後 8時の就寝サイレン まで,自由時間である。午後

8

時半には消灯となり,翌日の仕事ために睡眠にはいる。 たいていの日本人労働者はこれまで貧しくとも好きなときに仕事し休憩することので (47) Edward D. Beechert, 0.ρcit., p..110 (48) 前掲『ハワイ日本人移民史J,106頁;北村,前掲書, 31頁。 (49) 牛島,前掲書, 101-102頁;ジャツク・ Y・タサカ『ホレホレ・ソングー哀歌でたどる ハワイ移民の歴史』日本地域社会研究所, 1985年, 40-42頁。 (50) ジャツク・ Y ・タサカ,向上書, 45頁。 (51) ロナルド・タカキ,前掲書, 85-93頁, 131-136頁。

(14)

-464- 香川大学経済論叢 772 きる自立した農民だったのだから,こうした他人に管理された時間のなかで生活する スタイルは,生活リズムのまさしく 180度の転換である。 24時聞にわたる徹底した時 間管理のもとにおける労働生活は,日本人労働者にとって i地獄」に映ったとしても 不思議はない。他方,日本人労働者たちは,耕地における作業そのものは,キビの鋭 (52) 利な葉に傷つき難儀する点を除けば,日本におけるよりも楽であると感じていた。肥 料は使わないで,濯j飯用水だけで栽培できる。運搬は牛馬を使うから,肩や背中に担 がないでよい。しかも日曜は休むことができるからである。 ハワイの年季奉公制度にとりわけ顕著な点、は,その賃金支払形態である。フィジー やモーリシャスの砂糖キビ・プランテーションで働くインド人労働者は,基本的に, 出来高給であることが報告されている。監督が,作業能率の高い労働者の仕事ぶ、りを 基準として,各労働者の遂行すべき作業の質量を決定する。規定量の作業がこなせな ければ,その理由の如何にかかわりなし罰金が課され減給処分となる。労働者の作 (日) 業能率を刺激する合法的な手段が賃金形態のなかにあったといってよい。ところがハ ワイでは年季奉公人の賃金形態は,日給月給制である。賃金形態がなんであれ,ハワ イのプランターたちは労働者の能率を高めるために能率の低い労働者に罰金を課すこ とを当然と考え,そして実施していた。移住民局は,日本総領事からの抗議もあり, 1888/9年,次のように通達した。契約書は, 10時間の労働日を要求しており,遂行す べき作業量については言及していなし〉。したがって,作業量の質量を基準として罰金 ( 刊 を課すことは,裁判所の命令がないかぎり,しではならないと。ハワイのプランテー ションに出来高給が導入されるのは,アメリカ合衆国へ併合され年季奉公制度が廃止 (52) 山崎,前掲書, 93-95頁。 当時の日本国内の工場労働においても,年季奉公制度が用いられていた。たとえば,製 糸業の女工(隅谷三喜男 r日本賃労働史論』東京大学出版会, 1955年, 170頁),織物業 の女工(市川孝正「農村工業における雇傭労働」市川孝正ほか『封建社会解体期の雇傭労 働』青木香底, 1961年, 107-171頁),あるいは機械工業における男子定雇職工(隅谷, 向上書, 232-233頁:兵藤『日本における労資関係の展開』東京大学出版会, 1971年, 125頁)である。日本国内におけるこれら種々の年季奉公は,もとよりハワイのそれとは 異なるが,ハワイの年季奉公を日本人労働移民に受容しやすくするうえで,ひとつの索地 として機能したと考えられる。 (53) Brij Y. La!, ot.cit , pp.133-136 ;脇村,前掲稿, 86-88頁。 (54) Edward D.. Beechert, 0.ρcit, p..111

(15)

7

7

3

明治期における日本人の労働移民 465-された

1

9

0

0

年まで待たなければならない。罰金は明らかな規律違反に限定されてい 自 由 た。酔っぱらい,キャンプでの賭事,命令違反,などである。 Jレナによる暴行虐待を めぐって発生したいくつかの紛争は,移住民局や総領事の調停により. )レナを解雇す (開) ることで解決している。違法手段をつうじてでも作業能率をなんとかして高めようと する雇主およびルナの衝動は,いたるところで存在していたといってよい。だが忘れ てならないことは,ハワイの日本人労働者は同じような年季奉公にある他地域のイン ド人労働者とは異なり,過重労働を防止しうる制度と権利とを保有していたという点 $7) である。フィジー島やガードループ島への労働移民が短期間のうちに失敗に終わった のは,そこにおける労働条件が日本人労働者の許容範囲を逸脱していたからにほかな らない。 ハワイの砂糖キビ・プランテーションにおける日本人労働者の量的な十比重を確認し ておこう。第

2

表は

.

1

8

8

6

年から

1

8

9

9

年にかげての推移を示している。労働者総数は, このあいだ.

1

3

7

4

3

人から

3

5

1

8

4

人に増えている。日本人労働者の割合は

1

8

8

6

年に は

14%

にすぎなかったが.

1

8

9

9

年には

73%

となり,圧倒的な多数を占めている。労働 者の9割以上は,男性労働者である。女性労働者は,ほとんど日本人である。男性労 働者の

63%

は,年季奉公人である。年季を終え耕地に労働者として残った者は,年季 に拘束されず移動可能な自由労働者となる。

1

8

9

9

年において,日本人男性の

75%

が年 季奉公人である。ハワイ人,ポノレトガ/レ人では1割を切っており,中国人についても 半分以下である。日本人の年季奉公人は同年における年季奉公人総数の

85%

を占め る。日本人労働者は,砂糖プランテーションにおける労働者総数の4人に 3人,年季 奉公人の5人に 4人を占めるわけであるから,その比重は絶対的、であるといってよい。

1

8

9

9

年になると,日本人労働者のなかにはJレナに昇進する者もいた。

9

3

人の日本人ル (日) ナは,しかしながらルナ総数

(

7

9

1

人)の

12%

を占めるにすぎない。

(

5

5

)

ロナJレド・タカキ,前掲香.

1

0

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頁。

(

5

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)

前掲 rハワイ日本人移民史J.

1

2

6

-

1

2

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頁。

(

5

7

)

児玉「第

2

編第

3

章 ガードノレープ島への日本人契約移民J.前掲脅,所収;石川友紀 「フィジー諸島における日本人契約移民 (1894~1895) について J r移住研究

u4

号.

1

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7

7

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月.

5

5

7

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頁。

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ー -466- 香川大学経済論叢 774 第2表 ハワイの砂糖プランテーションにおける労働者数 1886年 男 性 女性 子供 計 年季奉公 自由労{動 ハワイ人 1,319 817 119 2.255 ポルトガJレ人 1,846 609 444 182 3.081 日本人 1,691 24 234 1,949 中悶人 863 4,736 6 5,605 その他 535 169 149 853 計 6,254 6,355 952 182 13,743 1896年 男 性 女性 子イ共 計 年季奉公 自由労働 ハワイ人 399 1.186 30 1,615 ボルトガJレ人 375 1,466 116 311 2,268 日本人 6,497 5,518 878 12.893 中国人 4,374 1,915 6,289 その他 60 341 401 計 11,705 10.426 1,024 311 23,466 1899年 男 性 女性 子供 計 年季奉公 自由労働 ハワイ人 163 1,125 38 1.326 ポルトガlレ人 153 1.618 130 252 2.153 日本人 17,547 5,741 2,366 25,654 中国人 2,768 3,201 5.969 そのf也 430 430 計 20,631 12,115 2,534 252 35,184 (出典)Katharine Coman, The History of Contract Labor in the Hawaiian

Islands, in: Roger Daniels (edl, The Asian Eゆeriencein No付hAmerica. Chinese and ]apanese, Arno Press 1978, p..64 (注) その他は, ドイツ人,ノルウェ一人,南洋諸島を指す。 2 季節労働 アメリカ合衆国における日本人労働者の賃金相場は,最低でも日給1ドノレであるか ら,ハワイの2倍に相当した。ハワイで働いて r400円」であるとすれば,アメリカ合 衆国では「千両箱」が手にはいる計算になる。第

3

表をみよ。一獲千金を夢見た日本 人労働者が従事した労働は,年季には縛られないが,しかし季節性の激しい臨時労働 である。農繁期に出来高給で農作業に従事し,収穫期が終わると鉄道工夫になるとい

ω

うのが,一般的なスタイルであった。カナダでも, 7月から 11月まで鮭漁をやったあ (59) 鈴木,前掲書, 91-95頁。

(17)

775 明治期における日本人の労働移民 第3表 賃 金 格 差 (単位:銭) 職 種 1902年 1908年 日履(中等) 39 53 日本 農作業(中等) 32 39 大工(中等) 58 81 ハワイ 砂糖キビ耕地 124 138 アメリカ合衆国 鉄道工夫果樹国 300 320 324 フ令ラジJレ コーヒー採取 120~150 (出典) 木村健二「近代日本移民史における国家と民衆一移民保護 法下の北米本土転航を中心としてJr歴史学研究1582号, 1988 年7月, 29頁。 (注) 1ドル =2円の為替レートで換算。 -46iて と製材所の仕事に従事するというように,季節性が労働生活を律していた。北米大陸 の太平洋側に上陸した労働者たちは,いくつかの季節労働を掛け持ちしたのである。 カリフォルニア州で季節労働者として働いた日本人労働移民の草分けの一人であり, 後世にその名を残した者として,高野房太郎がいる。1886年,家の再興をめざし17歳 で渡米した少年が, 10年後にふたたび、日本の地を踏んだ、ときには,日本労働運動の創 始者となっていた。 1891年に職工義友会を組織して労働組合運動の研究をはじめ,ア メリカ労働総同盟(AFL)のオルグとして日本に戻り, 1897年,労働組合期成会を結成 したのである。日本人労働者は,高野の帰還をあたかも待っていたかのごとくに,世 紀転換期頃から大挙して北米をめざしはじめた。 渡航してきたばかりの労働者たちは,労働契約をもっていないし,もちろん英語も できない。苦学生として渡航し,スクーノレボーイをやりながら,英語を習得し,労働 請負人として身を立てる日本人が貴“震な仲介役を演じた。 1902年,日米勧業社を設立 した安孫子久太郎がその典型である。最盛期で3,000人の日本人労働者をカリフォル ニア州周辺の砂糖耕地,鉱山,鉄道に供給した。太平洋北西部には,ノーザ、ンパシフィッ (60) 新保満『カナダ移民排斥史一日本の漁業移民』未来社,新装版, 1996年, 68-69頁, 参照。 (61) ニ村一夫「高野房太郎小伝」高野房太郎著(大島清・二村一夫編訳)r明治日本労働通 信』岩波書底, 1997年, 491-540頁,参照。

(18)

-468 香川大学経済論叢 776 ク鉄道に保線区工夫を供給する熊本ーニ三のタコマ工事会社があった。大手の業者だ けでも,この時期,太平洋北西部に3担,カリフオlレニア州に4社,ロッキ一山脈地 帯で2社が活動していた。労働請負人は,たいてい,日本人の経営する旅館を募集の 窓口として利用した。雇主との契約にはじまり,食糧の配給,医療の手配,送金手続 きなど,生活上のあらゆる面倒をみた。雇主にとっても労働力を調達してくれるだけ でなく,通訳も兼ねてくれるので有り難かった。労働請負人は,労働者から手数料を 腕) 取ることによって,サービスを提供した。 農業労働は 2月のアスパラガスにはじまり,西洋梨,ジャガイモ,タマネギ,豆 類の収穫,そしてトマト,セロリと続く。労働者は,作物の収穫期に合わせて,農場 を転々とする。請負人は農家生産者とトン当たりの価格を契約し,労働者を日給たと えば 1ドル 25セントで集め,それを組に組織して請負う。労働者に支払う給料と出来 制) 高との差額が請負人の収入となる。 鉄道工夫の職場は,一定距離の線路の保線を担当するセクションと,緊急事態に対 処して移動するギャングとに分かれている。日本人労働者は,白人フォーマンの下で 働くセクシヨンの工夫(ボーイ)が多いが,ジャップ・ギャングと呼ばれる日本人ギヤ

ω

ング長の指揮下に組織された場合も少なくなかったようである。労働者はアメリカの 生活に慣れ仕事の経験を積むにつれ,労働請負人を頼りにしなくなった。雇主自身も 労働者の直接雇用を考えるようになった。そしてまた労働請負人相互間の競争か激し くなるにつれて,手数料を犠牲にしなければ労働者が集められない状況も発生してい 足 労 働 者 の 新 規 渡 航 が 1908年に禁止されるに至ることで,労働請負人の役目は終 わった。日本人フォーマン数は次第に増加し, 1910年代にはいると非日本人セクショ 曲目 制 ンにも配置されるようになった。一例を紹介しよう。 1911年, 16歳で,父親と兄のい るワイオミング州のロックスプリング炭坑に働きに来た少年は

2

年ほどのち,ユタ (62) ユウジ・イチオカ,前掲書, 65-92頁,参照。 (63) 東栄一郎「繁明期の在米日本人労働者ーカリフォノレニア州ウォルナットグロープの場 合Jr移住研究J32号.1995年 3月. 52-53頁;向上書, 90頁,参照。 (64) 鶴谷,前掲書. 127-129頁。 (65) 村山,前掲脅. 81-84頁。 (66) 向上書. 69-70頁。 (67) 北村,前掲書. 41-42頁。

(19)

777 明治期における日本人の労働移民 469 州のオグデンに移り,鉄道工夫と砂糖大根の収穫とを交互にやった。「 砂糖大根の季 節が終わると,またね,日本人のフォーマンに紹介してもらって,鉄道のセクション で仕事するんですよ。その日本人のフォーマンはグリークとかメキシカンを使ってい たんですね。だけど,日本人だから,特別の好意で,グリークとかメキシカンを跳ね 除けて,使ってくれるわけですよ。J

2

3

年後には,みずからも「ムチャクチャに試 験を受けさせられて」セクション・フォーマンになっている。ボーイの月収が 45ドノレ のとき,非日本人セクションのなかで「一番小さい,貧相な男」が 21歳にして月収 75 ドノレの地位に就いたのである。季節労働者として働きはじめた日本人労働者が技能水 準を向上させ経営者からの信頼をも獲得していったことが示唆されている。 III.定 住 へ の 道 1 独 立 年季奉公を終えたハワイの労働者たちは,生活の安定を求めて,新しい仕事を探し 伽) た。耕地に残る場合の選択肢として,いわゆる請けキビ制度がある。数人から数十人 で一組を作って,一定区画の耕地を会社から借り受け,砂糖キビの植え付けから収穫 まで一切の作業を自分たちが寅任をもって請負うというものである。日本人労働者トを なんとか確保しておきたいという雇主の意図から 1900年に生まれたものである。収入 は収穫量に応じて増減するが,創意工夫を生かせるという点で労働者にとってもやり がいのあるものであった。そのほか,耕地よりも賃金が若干高めに設定されているパ ( 印 ) 側 イナップノレ工場へ移動する者,洗礼を受け牧師となる者,都市に出て雑貨底を経営す

るかたわら,娘のために日本語学校を設立し,日本から教師を呼び寄せた者,さまざ まである。 1909年までに,ハワイには 59の教会・寺院, 68の日本人学校が建設され 似 ている。 (68) ジャック・ Y・タサカ,前掲醤, 160-164頁;ロナノレド・タカキ,前掲書, 126-127頁。 (69) Edward D. Beechert, op cit., pp..181-183 (70) ノTッツィ・スミエ・サイキ著(伊藤美名子訳)rハワイの日系女性』秀英書房, 1995年, 75頁。 (71) 向上, 54-56頁。 (72) ロナfレド・タカキ,前掲香, 234頁。

(20)

-470- 香川大学経済論叢 778 カリフォlレニアでは,前述した安孫子が労働請負人として獲得した財産をもとに, 1906年,米国殖産会社を創設した。この会社がリビングストンに購入した 3,200エー カーの未墾地は, 40エーカーの区画に分けて,自営農業を希望する臼本人労働者に売 却された。のちにヤマトコロニーとなるこの事業は,カリフォルニアにおける日本人 農業の発展の礎となるものであった。 渡航地を新たな生活の拠点として構築しようとした労働移民たちの試みは,世紀転 換期にはいたるところで展開されていたといってよいが,そのなかでもとりわけ注目 に値するのがメキシコ移民たちの手によって遂行された実験である。発端は,いわゆ る榎本殖民である。函館の五稜郭に立て箆って明治新政府にたいし徹底抗戦を挑んだ ことで知られる榎本武揚の持論は,日本人の海外殖民であった。榎本は,外国人の下 で働く労働者の移民ではなく,日本人コロニーの建設を推奨したのである。外務大臣 を務めた 1891年には外務省に移民課を設置し,翌年には殖民協会を創設して候補地の 具体的な探検にあたっている。メキシコ政府から購入したチアパス州のコーヒー栽培 用の土地をめざして,榎本殖民団が横浜港を出発したのが, 1897年 3月のことである。 地質調査の責任者トを監督とし,出資者 6名,労働者 29名からなる。しかし,入殖時期 の誤算,資金不足,死亡者,逃亡者の続出により,この殖民計画はわずか3ヶ月で破 綻した。中夏本自身も 1年足らずして殖民事業から完全に手を引いた。 出資者

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名と労働者

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名の計

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名が残った。開墾した農場と雑貨庖の経営を

6

人の 共同事業とするため, 1901年 3月,協同組合を設立した。事業は拡大し,資本金は 5 年間で 4倍に増加した。運営を規定した組合規則は,次のようにきわめて独特であり, 特筆に値する。構成員一人ひとりのもつ知力,労働力,資本金はすべて組合の共有財 産とする。営業利益は積立金を除いて平等に配分する。労働力の対価としての賃金と いう発想は否定する。そのかわり,必要な生活費は合議にもとづいて組合が支給する。 構成員は,能力に応じて働き,必要に応じて受け取るという文字どおり社会主義的な 原則を確立したのである。 1905年には,日曇協働会社という新しい名称の会社組織と (73) ユウジ・イチオカ,前掲害, 163-170頁。 (74) 以下の叙述は,上野久『メキシコ複本殖民一榎本武揚の理想、と現実』中央公論社, 1994 年,にもとづく。

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779 明治期における日本人の労働移民 -471-なって,事業をさらに展開した。 1908年には,社員数は 11人に拡大し,その家族数は 25人となった。新たに加わった社員 5人は,ハワイで年季奉公を終えグアテマラ経由 でメキシコにやってきて, そこで働いていた労働者である。これらの担員およびその 家族のほかに,日本人労働者35人,メキシコ人労働者 50人を雇用している。 3,000ド ノレ弱の資本金でスタートした事業は, 1911年には8万ドルを超えるまでになった。 日墨協働会社は,営利事業を拡大しただけではない。メキシコ人の女性とのあいだ に産まれてくる子供たちの将来を見据えた。子供たちは,自分たち以上に, 日本とメ キシコをこつの祖国として生きなければならない。そのためには,二つの国民性を十 分に理解しうる異文化教育が必要であるとした。「我々社員の理想は, (金儲けと享楽 をもとめる)そんな卑しき者であってはならぬ。たとえ各人の利益は少なくとも人々 が皆安穏に生活し,完全に児童教育をなし, (15) 日本民族の発展を百年ののちに期すると いう遠大な思想、を保持せねばならぬ。」生活の基盤を海外にもとめた臼本人労働者はみ ずからの実体験と感性にもとづいてこのような理想を描くに至ったのである。教育積 立金によって小学校を設立し,会社の経費で日本から教師を呼んだ。スペイン語圏で 生きる日本人のために商和辞典の編纂を企画した。 11年の歳月をかけた努力の結晶 は,日本で最初の西和辞典として出版された。臼墨協働会社の理想、を追求した営為は, メキシコ革命とともに幕を閉じたが, まぎれもなく日本人労働者による偉大な所業で ある。 2 団体交渉 日本人の労働移民は, 1900年代にはいってから,みずからを組織化し,集団的に行 動するようになった。

カナダのプレーザー河で鮭漁に従事する日本人漁師からみよう。鮭の値段は,鮭を 缶詰加工する製缶工場(キャナリー)との交渉力によって左右される。日本人漁師は, 白人漁師よりも早期にこの事実を見抜いていた。 1897年に「プレーザー河日本人漁師 (75) 向上書, 79頁。 (76) 新保満『カナタ。移民排斥史』前掲, 82-91頁:新保満『石をもて追わるるごとく一日系 カナダ入社会史』お茶の水害房, 1996年, 26-31頁。

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472 香川大学経済論叢 780 団体」が結成された。漁価を団体交渉で決めるためである。日本人のための病院を経 営,維持するという相互扶助の目的もあわせもった。日本人漁師の数は, 1900年に 3, 000人を超えるピークに達し,その後は減少している。 1907年時点でみても,鮭漁に 出航した漁船(775隻)の7割弱が日本人の操業による。日本人はフレーザー河におけ る鮭漁の圧倒的多数を占めていたのである。白人漁師たちは,日本人より 2年遅れて, 1899年に労働組合を結成し,日本人漁師の排除をも目指した。 1900年の漁価設定をめ ぐる団体交渉は,次のごとくである。漁期を直前に控えた 6月 30日,キャナリーは 1 尾 15セントを提示した。これにたいして,白人組合はl尾 25セントを要求してスト ライキに入った。当初同調していた日本人の組合は, 7月 20日,キャナリーと独自に 交渉し 1尾20セントで妥結し, 24日,出漁を決定した。事実上のスト破りである。 ストライキを続行する白人漁者と出漁する日本人漁者との紛争を抑え,日本人漁者を 保護するため,キャナリーは箪隊の派遣を要請した。白人の組合は,結局, 1尾19セ ントで妥協した。好機を捉えて行動し,成果を確実に獲得する能力において白人漁師 より上手であったことがよくわかる。 的) カリフォノレニアの日本人農業労働者による労働争議をみよう。砂糖大根の一大産地 であるオックスナードが舞台である。精製工場は,栽培農家から砂糖大根を購入する。 農家は,労働請負業者から労働力を調達する。 1903年時点で,精製工場には 700人の 白人労働者が雇用されていた。 1,300人を超える農業労働者は,日本人とメキシコ人と からなり,日本人が過半数を占めていた。数社の労働請負業者が競争していたが,そ のなかでも商部農業請負会社(WACC)が 75%のシェアを占め,圧倒的な優位に立っ ていた。 WACCによる労働供給の実質的な独占は,請負単価の引き下げを意味してい た。生活物資を指定底で購入するよう義務づけるやり方も,批判されていた。 1903年 2月11日,日本人労働者 500人とメキシコ人労働者 200人は r日義労働者協会」と いう労働組合を結成し,ストライキに入った。 3月第1週までに農業労働者の 90%を 組織した。「太平洋岸の労働組合史上初めて,農業労働者組織化の機会が訪れた」とい われている。 WACCによる第二組合の結成,ストライキ参加者の銃殺事件をへて, 3 (77) ユウジ・イチオカ,前掲書, 106-109頁。

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明治期における日本人の労働移民 --473-月

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日,最終決着に到達した。 WACCのシェアは,従来の4分の1に縮小した。労 働者は,これにより栽培農家と自由に請負単価を交渉しうる余地を拡大した。「日墨労 働者協会」は,この成果にもとづいて,アメリカ労働総同盟(AFL)の支部設立許可を 申請した。 AFLは日本人労働者の締め出しを基本方針としたため,これは実現しな かった。日本人労働者は,生活条件を改善しようとするならば,労働組合をつうじた 組織的な行動が大いに役立つということを身をもって学んだにちがいない。 同じ頃,ハワイでも生活条件の改善をもとめて,日本人労働者は組織的な行動を起 こしている。労働組合という組織の結成は,ハワイでは遅く,

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年まで待たなけれ ばならない。しかしながら,突発的に不満をぶつけるというこれまでのような粗野な 行動を脱し,

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世紀初頭のこの時期,組織的かつ知的に洗練された運動スタイノレがは じめて登場している。

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月,オアフ島ワイアルア耕地に働く日本人労働者は, ( 1時 砂糖価格の上昇に比例して賃金も引き上げることを要求した。選出した代表団をつう じた交渉は,あっさり拒否された。断続的な職場放棄が3日間くりかえされたあと, 翌日から耕地の全面的なストライキに入ることを従業員集会で決定し,雇主に通告し た。ちょうど収穫期にあたっていた。収穫した砂糖キビは遅滞なく工場に運び込んで 搾汁しなければ,粗糖の品質は低下を免れない。経営としてはきわめて貴重な時間で あり,損失時間の経済的な打撃は決定的で、ある。生産工程に習熟した労働者のみが知 りうるきわめて効果的なタイミングである。その夜のうちに,雇主は慌てて労働者キャ ンプを訪れ,話し合いにやってきたが iただいま要求書の作成に追われており,明日 の朝までお相手致しかねる」と労働者代表によって丁重に追い返されている。要求書 の作成にまる 2日かかり,そのあいだ収穫・運搬作業は全面的に停止した。日本人労 働者

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人のうち,ほぽ半数

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人)がストライキに参加した。正式の要求書が 代表団の手で直接雇主に提出され,その日のうちに,雇主は文書で回答した。ハワイ 砂糖産業で最初の団体交渉がここに生まれた。要求書は

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項目にわたっていた。経営 者団体のプランター協会が労働者の移動を防止する目的で賃金額の上限を設定してお り,賃金額については据え置きとせざるをえない旨,回答している。それ以外の諸点

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-474- 香川大学経済論議 782 については,労働者の要求をほとんど承認した。たとえば,労働時間の4分割がある。 従来は,半日単位でのみ分割が認められていた。半日以下しか働かない場合には,賃 金の支払いはなかった。労働者は 4分 の し 2分の1,4分の3を認めるよう要求 したのである。要求は,労働条件に限定されていなし〉。居住環境の改善にかんする要 求は, 12項目にも上っている。割れた窓の取り替え,水の配管の設置・補修,衛生設 備の改善,などである。また人事にかんする要求もある。治療にたいしてチップをも とめる看護婦,ウイスキーと引き替えに薪を配給する警備員の解雇がそれである。居 住環境や人事にまで発言しはじめたことは,労働者が労働キャンプ在もはや一過性の ものではなしそこに形成されたコミュニティを大切に育て,誇りあるものにしよう としていることの表れであろう。 側 1909年のオアフ島ストライキは,労働者たちのあいだに芽生えつつあるこうした意 識の変化をより広い社会的な基盤のうえに顕在化させた。そのさい労働組合に変わる 役割を演じたのは,都市インテリ層とマスメディアである。ハワイは外国語新聞の発 側 刊を支援しており,日本語新聞だけでも 11紙を数える。そのなかでも,オアフ島スト ライキを鼓舞したのは~日布時事』である。社長兼編集長のソウガ・ヤスタロウは, 日本の大学で法学,薬学を学んだのち,友人を頼って, 1896年に 23歳でハワイへ渡航 し,友人の経営する新聞社を手伝った。のちに国会議員の娘を姿とし,息子は元同志 社大学総長の娘と結婚してい

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。ソウガはハワイに居住する日本人インテリの代表と いってよい。ソウガのほか,カリフォルニア大学で法学士を取得したネゴロ・モトユ キ日布時事』記者タサカ・ヨーキチ,雑貨商経営者マキノ・キンザブロウの4人を 指導者とする42人の日本人が, 1908年 12月 1日,増給期成会を結成した。 12月 12日, ホノルルで大衆集会を開催し,1,700人の日本人が参加した。物価の上昇に見合う 25% の賃上げを要求することに決定した。増給期成会は,要求の根拠となる労働者生活の 実態調査報告書を添えて, 1909年 1月,プランター協会会長に要求書を提出した。完 全無視の状態が続くなか

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月にはいって,オアフ島の各耕地でストライキが勃発し (79) Ibid, pp. 169-176;ロナルド・タカキ,前掲書, 227-243頁。 (80) Edward D.. Beechert, 01うcit.,p..169 (81) パッツィ・スミエ・サイキ,前掲書, 174-176頁。

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783 明治期における日本人の労働移民 -475-た。増給期成会は,山城旅館をストライキ決行本部とすること,オアフ島以外の他島 の耕地労働者は就労継続し,オアフ島全島のストライキを財政的に支援すること,と いった戦術を決めた。プランター協会は,非妥協的な態度を崩さなかった。7,000人を 超えるストライキ参加者にキャンプ立ち退きを命じた。フィリピンから労働者をスト 破りとして調達し,日本人労働者の5分のlから6分のl程度の作業量しかこなせな い労働者に倍額の賃金を支給した。プランター協会の結束の堅さは,オアフ島の経済 的な損害を他島のプランターが分担するという申し合わせに表現されている。またス トライキに反対する『布睦新報』へ融資し,その経営者であるシパ・ソメタトウを密 告者として利用した。そして労働者にとって最も決定的な打撃は,共謀罪のかどで指 導者4人が6月10日逮捕され,懲役10年を宣告されたことである。住む場所を失っ た労働者と家族のために劇場,空きビル,公園が臨時の宿泊所となり,支援者による 炊き出しが組織された。指導者を失い精根尽き果てた労働者は,

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日,シパ暗殺 未遂事件を起こした。その2日後,終結宣言がなされ 3ヶ月にわたるカの対決に終 止符が打たれた。 「私たちはここに永住すること,ハワイの政治形態に一体化すること,つまり,ハワ イの他の市民とハワイの繁栄や苦難を共有しあい,私たちの運命とハワイの運命とを 曲 目 結び合わせることを決意したのです。J3ヶ月もの長い闘争を支えたのは,労働者たち のこうした「決意」であった。ストライキのほとぽりが冷めた頃, 11月29日,プラン ター協会は,基本給の 18ドルから 20ドルへの引き上げを決定した。圧倒的なカで押 さえつけたはずのストライキにたいする事後的な譲歩である。翌年の7月4日には, 4人の指導者が知事の恩赦により釈放され,万歳三唱で歓迎された。これをきっかけ として,日本人労働者はハワイにおける労働人生にある種の誇りと自信とを見いだし たといってよい。 むすびにかえて ヨーロッパ経済史を繕けば,おそらく誰でも経済成長と労働力輸出とが密接に連関 (82) ロナルド・タカキ,前掲脅, 234頁。

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-476' 香川大学経済論叢 784 制) していたことに直感的に気づく。産業革命をへて経済成長の軌道に乗った固から順次, 労働者の海外移住が始まった。イギリスに始まり, ドイツ, スウェーデンといった ~t 欧,西欧諸国がそれに追随し, そしてイタリア,ハンガリーといった南欧,東欧諸国 へと波及していった。国際労働力移動の給源の波及は工業化の波及する過程でもあっ た。逆にいえば,経済成長によって一定の所得水準が達成されるまでは,労働者の国 外移住は起こらなかった。国際貿易の拡大をとおして世界経済が順調な発展を示した 第一次世界大戦前の半世紀のあいだに, およそ 5,000万人の労働者が大西洋を横断し た。工業化の初期段階で所得制約を乗り越えた諸国から労働力の流出が起こり,所得 水準のさらなる上昇とともに流出に拍車がかかるが,工業化と所得水準が一定の水準 に到達すると,労働者の流出が減少しはじめ, こんどは工業化の軌道に乗り始めた後 発国の労働者の受け口となる。 日本もまた, ヨーロッパ諸国と同様,労働者輸出国として工業化を開始した。日本 が労働者を輸出しはじめたのは,本稿でみたように,明治維新後の政治的・経済的混 乱が一応収束し,本格的な工業化と経済成長に向けて動き始めた 1885年である。経済 成長への離陸と労働力輸出とは, この日本においても同時並行的に生起した。労働力 輸出の仕方は, しかしながら独特なものであった。その年,明治新政府はハワイ政府 とのあいだに政府間協定を締結した。賃金,食費,労働時間,福利厚生を規定し,ハ ワイ政府に監督責任を認めさせるものであった。 4年ハワイで働けば, 日本の年収3 年分の貯金を持って帰ることができると計算された。

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W アーウィンという日本通 で日本びいきの人物を交渉の窓口として獲得できたことも,幸いした。賃金の支払形 態を出来高給ではなく, 日給月給としたこと,病気のさいの食費を保証したこと, 日 本移住民局といういわば労働基準監督官ともいうべき役職を任命したことなどは,特 筆されなければならない。労働者の送り出し国と受け入れ固とが国境を越える労働者 の移動と労働条件とを対等の立場で取り決めた画期的な協定であるといえる。砂糖キ ピ・プランテーションの労働は, しかしながら日本人労働者の想像を超える厳しさで

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この点にかんする計量的な分析については Timothy J Hatton and Jeffrey G Williamson, The Age

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Migration Causes and Economた1mρ'act,Oxford Univer -sity Press 1988,とりわけ第 3章 WhyDid Europeans Emigrate ?をみよ。

参照

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