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6) 7) Vol. 50, No. 3, July 2004

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「梅津何応欽協定」再考

日中関係史の視点から

内田尚孝

はじめに

本稿が対象とする 1935 年前半期は、33 年 5 月の塘沽停戦協定締結と 37 年 7 月の盧溝橋 事件勃発のほぼ中間点に位置し、同協定善後交渉を通して蓄積されてきた日本側の華北分 離の志向性と「満洲国」承認を回避し続け、同協定の破棄をも模索し始めた中国側の対日 姿勢との矛盾が一挙に可視化した時期に当たる。 この時期の日中関係を象徴するいわゆる「梅津何応欽協定」は、近現代の日中関係史を 扱った著作では必ず言及され、その成立過程については、日中(大陸・台湾)の研究でそ の大要が明らかにされてきたとはいえ、依然として多くの問題や謎が残されている。交渉 を担当した何応欽(軍政部長兼軍事委員会北平分会代理委員長)や蒋介石ら国民政府首脳は、 当時からそもそも「何梅協定」など存在していないと主張しており1)、戦後もなお「協定」 の存在そのものをめぐって議論が交わされているという状況である2)。また、協定に冠され ている梅津美治郎(支那駐屯軍司令官)や支那駐屯軍を代表して交渉にあたった酒井隆(同 参謀長)の役割についても不明な点が残されている3)。 また、日本では、この「協定」は華北分離工作が本格化したことを象徴するものとして 捉えられており、この点については大陸・台湾の間でも大きな見方の相違はないが、その 評価をめぐって両者の見解は大きく異なる。例えば大陸の研究者、余子道氏は、それを「喪 権辱国的協定」と位置づけたうえで、「民族の願望に背くものであり、対日妥協の産物で ある」4)と厳しく批判しているのに対して、台湾の劉維開氏は、「中国の主権に重大な損傷 を与えた」ことを認めつつ、「これはまぎれもなく弱国という情況下で中国が応変図存す る(突発した事態に対処して生存を図る)ための方法であった。つまりこれは、中日問題にお いて中央が決定した、日本の侵略・圧迫に対応して国力を保全するためのやむを得ざる対 日外交戦術(策略)の一つであった」5)と評価している。ここでは「安内攘外」政策―国 民政府の内政・外交政策の枠組みに対する評価、つまり「妥協」か、それとも「策略」か ―が決定的な評価軸となっている。この両者の見解は当時の中国における位相の異なる 二つの言説を代表しているとも言える。例えば、余氏は「全国民衆」という表現を用いて いるが、それほど広範ではなくとも、日中交渉の最前線である華北地方の民衆が同「協定」 に不安を募らせ、かれらが大きな犠牲を強いられたことは事実であり、他方、国家レベル

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で考えれば、劉氏が指摘するように「図存」のための苦渋の選択であったことも事実であ ろう。今後は、この両視点を二者択一的ではなく統一的に把握してゆくことが必要になる ものと思われる。 このように大陸・台湾における同「協定」をめぐる評価は一様ではないが、いずれも国 民政府あるいはその内外政策に対する評価、換言すれば国内的関心に重点が置かれ、日中 関係という視点が脆弱である点では共通している。また、日本における研究も、日本軍の 侵略プロセスとか出先軍部の暴走などといった日本史的関心からのアプローチが大半を占 め、もう一方の当事者であった中国側への関心や中国側からの視点は欠落しがちであった ように思われる。日本側資料のみの分析によった一方的な考察ではなく、日中双方の資料 をつき合わせ、日本側と同レベル・同比重で中国側の動きを明らかにし、そのうえで日中 関係にとっての意味を問うことは重要な課題である6)。 以上のような研究上の問題点を踏まえつつ、本稿では、まず、同「協定」交渉の重要な 背景の一つに密輸と絡んだ戦区保安隊問題があったこと、天津日本租界事件の処理を当初 主導していたのは支那駐屯軍ではなく関東軍であったことを明らかにする。次に、北平で の日中交渉の展開を受けた上海、南京での動きに留意しつつ、中央軍の河北撤退という日 本側要求に中国側がどのように対応し、その決定の背景に如何なる情勢認識があったのか 究明する。そのうえで改めて同「協定」の特異性を考えてみたい。そして最後に、東京(外 務省・陸軍中央)における出先軍の行為の法的根拠をめぐる政策調整過程について検討を 加え、この時の東京の対応が以後の日中関係に如何なる問題を残すことになったのか明ら かにする7)。

Ⅰ 天津日本租界事件

1935 年 5 月 2 日深夜から 3 日未明にかけて、天津日本租界で新聞社社長二名が立て続け に暗殺されるという事件が発生した。一件目は、国権報社長胡恩溥が夫人とともに日本租 界寿街北洋飯店 16 号室に投宿していたところ、2 日午後 11 時 5 分、「1063」ナンバーの自 動車で乗りつけた二人組みが押し入り、ピストルを発射、4 発の銃弾を受けた胡が間もな く死亡したという事件であり(『大公報(天津)』、5 月 3 日)、二件目は、振報社長白逾桓が、 日本租界須磨街の自宅寝室で就寝中の 3 日午前 4 時頃、同じく二人組みが押し入り、ピス トルを発射、3 発が白に命中し、即死したという事件であった(同、5 月 4 日)。事件の内容 を最も詳細に報じたのは地元紙『大公報』であったが、いずれも地方面扱いであった。 事件発生から 4 日後の 5 月 7 日、まず日本側が動き始めた。午前 10 時半、高橋坦(公使 館付武官補佐官)が陳東昇(河北省政府参議)と会見し、中国側に「誠意ある処理」を求める とともに、「白・胡両人は親日親満家」で、かれらが「横暴な手段で殺害された」ことは 「非常に日本人の精神を刺激した」と述べたうえで、「本件が単なる個人の犯罪行為であれ

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ばまだよいが、中国政府あるいは軍事機関と関係がある場合には遺憾の極みであり、重大 事件として対応、処置しないわけにはゆかない」8)と警告した。早くも中国政府あるいは 軍事機関の関与を示唆している点が注目される。 続いて同日午後 3 時、今度は儀我誠也が于学忠(河北省政府主席)を往訪した。儀我は「支 那側ノ停戦協定違反行為ニ関シテハ厳重ニ之ヲ監視」することや、「停戦協定地域ハ勿論 北支那ヲシテ逐次之ヲ親満的地域タラシムヘキ方案ヲ研究」することなどの任務を帯び9)、 1933 年 10 月から関東軍指揮下で山海関特務機関長を務めていた人物で、高橋と共に戦区 に関する対中交渉を担当していた。儀我は于に対して、原因については種々とりざたされ ているが、「両人はいずれも親日親満家で、日満に好感を抱いていたため、日本人や満洲 人(日満人)が危害を加えるはずがなく、加害者は親日親満に反対している人物に決まっ て」おり、「数時間内に二件連続」して発生していることなどからみて、組織的で計画的 な犯行であると判断しており、「政治の影があれば、事態は拡大することになろう」と述 べた。そして、「関東軍は日満に好感を持っていた人物に危害が加えられたことに特に注 意している」と改めて強調した。儀我は、この日関東軍からの電報を受けて于との会見に 臨んだと語っていること、儀我と高橋の発言要旨が基本的に同じであることなどから、天 津租界事件を最初に「重大事件」と認定し、これをきっかけに中国側に何らかの要求を突 きつけようとしたのは、関東軍であったことがうかがわれる。塘沽停戦協定締結交渉とそ れに続く善後交渉を通して固定化されていった華北における日中交渉の枠組みでの動きで あったと言うことができよう。 さらに、儀我と于との間で次のようなやり取りが行われていた。 儀我:主席はいったい誰が本件を起こしたと考えておられるのか? 主席:おそらく白・胡両人に常々接している者がやったのであろう。部外者がどうし てその行動を知り得ようか。両人は平時より厳しく警護していたと聞いている。 儀我:憲兵隊、党部にはいずれも特務要員がおり、憲兵第三団および中央方面も直接 諜報要員を派遣しているではないか。 主席:どうか疑いすぎないでいただきたい。如何なる機関および公務員もかかる手段 に出ることがないことは、すでに述べた通りである10)。 注目すべき点は、この段階で儀我がすでに党部や憲兵第三団を容疑団体として具体的に 列挙している点であり、先に高橋が言及した「中国政府あるいは軍事機関」も、これらの 団体を指しているものと考えて間違いないであろう。日本側は明らかに事態の拡大を狙っ ていた。 その方向は 4 日後の 11 日、より鮮明となる。この日、高橋は何応欽を往訪し、華北に おける日中関係悪化の原因は、「表面では日本との親善を口にしつつ、裏では憲兵、藍衣 社、青幇を利用して親日的な人物に圧力を加える」という蒋介石の「二重外交」と、張学

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良による華北地方政府の操縦であり、この二大原因を除去しなければ改善の望みはないと の考えを示したうえで、これらが除去されない場合には「どうなろうと知ったことではな い」11)と述べ、今後事態が大きく展開する可能性を示唆した。華北における張学良勢力の 除去、つまり于学忠の罷免や「藍衣社」、憲兵第三団の活動停止は、5 月 25 日付け「秘電」 (後述)の第三項に明記される主要な要求事項であり、日本側の対中要求がすでに具体化し つつあったことがうかがわれる。事態はすでに日中外交全体を巻き込む可能性をはらみつ つ推移し始めていたのであった。

Ⅱ 戦区問題

1.Ʒ༦ٚЄય⭱ުⲤ 戦区保安隊問題は、塘沽停戦協定締結直後から日中間の大きな懸案であり続け、長春会 談(1933 年 6 月 22 日)、大連会議(同 7 月 3 日∼ 5 日)においては李際春軍や石友三軍など「傀 儡軍」の扱いをめぐって厳しい交渉が行われていた。これらの交渉では、大量の「傀儡軍」 を保安隊に改編して戦区に駐屯させるという日本側・「傀儡軍」側の要求に中国側が大幅 に譲歩する形で解決が図られた。その後中国側は、行政督察専員公署の設置などを通して 戦区治安の回復を試みたが、芳しい成果をあげることができず、さらに 1934 年夏頃から 戦区経由の密輸が顕在化したことによって12)、素質不良な保安隊に代えて訓練をつんだ新 編部隊を戦区に送り込んで治安回復を図ろうとし、その旨日本側に強く申し入れるように なり、これが日中間の新たな摩擦を生むこととなった。中国側からみれば、保安隊に改編 されてからも日本軍の「惜しみない庇護」を受けていた旧李際春・石友三部隊は、実質的 には「土匪」で「赤匪以上に酷く」、戦区内の民衆は「塗炭の苦しみをなめている(水深火 熱)」状態であったという13)。 日本側記録によると当時の戦区保安隊の概況は次の通りであった。 (A)日本側と関係を有する部隊 第一総隊(劉佐周)  灤州を中心に兵力約 2 千人(旧李際春軍を改編) 第二総隊(趙雷)   唐山を中心に兵力約 2 千人(旧李際春軍を改編) 補充隊(韓則信)   玉田を中心に兵力 1 千 2 百人(旧石友三部隊を改編) (B)日本側と関係ない部隊 第一総隊(楊玉成)  昌黎を中心に兵力約 1 千 6 百人 第二総隊(範景華)  順義を中心に兵力約 2 千人 第三総隊(周毓英)  撫寧を中心に兵力約 2 千人 河北省政府は、張硯田、張慶余をそれぞれ隊長とする 9 千人からなる新保安隊を育成し、 素質不良な(B)保安隊と交替させようと計画していた。関東軍は戦区保安隊の総数を 9 千 とし、(A)部隊をそのままとして差し引き 4 千の入れ替えしか認めないと主張していたの

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に対して、中国側は(A)のほかに新保安隊 9 千を投入することを要望していた。1935 年 2 月 13 日北寧路局長殷同宅で開催された「非戦地域諸問題ニ関スル日支関係者会議」では、 中国側が要望していた 9 千の内、5 千を(B)と交替させ、残り 4 千は武器を携行しない形 で公安局に編入することで調整が図られていた14)。中国側としては(A)の戦区からの立ち 退きを最も強く望んでいたものと考えられるが、日本軍との関係上それは不可能であり、 (B)との交替という形でより多くの新保安隊員を送りこみ、相対的に(A)の影響力を減退 させようとしていた。 4 月 3 日には殷同、陶尚銘(灤楡区行政督察専員)、殷汝耕(薊密区行政督察専員)らが協議 し、新保安隊を 10 日までに戦区に進駐させること、張慶余部隊を薊密区に、張硯田部隊 を灤楡区に駐屯させ、両部隊の人数を 5 千人とすることなどを確認するに至った(『大公 報』、4 月 4 日)が、新保安隊の進駐は遅々として進まなかった。日本側記録は、于学忠は 行政督察専員を保安司令に、于の直系である張硯田、張慶余を副司令に任命して「親日満 的傾向にある劉佐周、趙雷を制」しようとし、また、劉・趙の警備担当区域を縮小して于 直系保安隊の警備区域を拡張することを主張していたと伝えている15)。11 日、天津で日(高 橋・儀我)中(殷・陶)間の協議が行われ、「専員は保安隊を指揮する」が、保安司令のよ うな名称を用いず、また副司令を置かないことや「李允声部隊改編の為生ずる過剰兵器は 日本側にて回収する」16)ことなどが取り決められたが、細部をつめることができず、20 日 に進駐を実施できるか否か危ぶまれる情況となった(同、4 月 12 日)。さらに、「四月下旬 に至るや于学忠は右協定事項を無視し日本側に無通告にて李允声部隊の改編、劉佐周の警 備区域たる昌黎、楽 マ 昌 マ に張硯田部隊の進入等を命じ傍若無人振を発揮せんとせり此に於て 我軍部出先機関は厳重なる抗議を敢行したる処于学忠は其企図を放棄し既協定事項を遵守 すること」17)になったという。 この経緯について、5 月 4 日の関東軍非公式声明は、4 月 11 日天津において詳細な協定 が成立したが、30 日于は同協定に不同意を唱え「天津駐屯軍においては直ちに警告を発 した」にもかかわらず、于は態度を改めようとはしなかったと説明している。さらにこの 声明は、于が「反省」しなければ「関東軍は重大な決意を以て対処せざるべからず」との 強硬な姿勢を示し(『東京朝日新聞』、5 月 5 日)、于に対する不満をあらわにしている。何応 欽はこの戦区保安隊問題をめぐる両者間の関係悪化を深く憂慮するに至っていた18)。 5 月 2 日、10 日に交替を開始すること、張慶余部隊の総隊部を薊県に、区隊部を薊県と 順義に、張硯田部隊の総隊部を留守営に、区隊部を撫寧と盧龍に設置することが決まった が(『大公報』、5 月 4 日)、新保安隊が携行する歩兵銃の数量をめぐって新たな問題が起こっ ていた。先に見た 5 月 7 日の于と儀我との会談で、于が「戦闘員五千人」の携行する歩兵 銃の数量を「五千丁」と主張したのに対して、儀我は「約定したのは五千人であって五千 丁にあらず。五千丁から計算すれば六、七千人の編成が可能ということになる……さらに 主席は戦闘員と言っておられるがこれは大いなる誤りで、保安隊は警察であって軍隊では ない」と激しく反論している19)。日本側は新保安隊の武装力を最小限に止めさせようとし

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ていた。 この頃、戦区について高橋坦は陳東昇に次のように語っている。 「関東軍はもともと戦区を占領地帯と見なしており、現在塘沽協定によって中国に返 還されてはいるが、その観念はいまなお存在しており、中国側が中国の領土と見な し、随意に職権を行使できるものとするなら、お互いの視点は根本的に相違すること になる。戦区が特殊地域であることを理解し、(戦区の)事務については日本軍と話 合って、紛糾を回避されんことを願う。」20) 戦区は「特殊区域」=「占領地帯」であって、中国側の主権行使は認められず、あらゆる ことに日本側の同意が必要であるとの考えは、塘沽停戦協定締結以来日本側の一貫した主 張であったが、保安隊問題を前にして改めて警告を発したのであった。そして于は、この 高橋の発言を、次のような注目すべき内容のコメントを付して蒋介石に報告している。 「鉄道の南側から海浜に至るまで、例えば昌黎、楽亭などは、元々省保安隊の防衛地 域であったが、(日本側は)新保安隊との交替を認めようとはせず、劉佐周部隊の一部 駐屯を主張している。その意図は、わが権力を及ばないようにさせ、その後やりた い放題のことをやっても、誰からも咎められないようにして密輸の便を謀ることにあ る。銀、アヘン、物資の密輸はいずれもその典型例である。」21) ここからは日中間の対立点が保安隊の総数や歩兵銃の数量のみならず、密輸と絡んだ 駐屯地点にもあったことがうかがわれる。先ほど見た日本側記録においても、于が「劉佐 周の警備区域たる昌黎、楽 マ 昌 マ に張硯田部隊の進入」を指示したとの内容を確認することが できる。「楽昌」とは正しくは楽亭のことで、昌黎、楽亭は北寧路と渤海湾に挟まれた地 域で、海上からの密輸を取り締まるうえで極めて重要な位置を占めていた。日本側は、従 来河北省の保安隊が駐屯していた同地域への新保安隊(張硯田部隊)の進駐を認めず、灤 州を中心に駐屯し、日本側が影響力を行使することのできる保安隊(劉佐周部隊)を配置 して密輸の便を図ろうとしていたのであった。5 月 2 日、張部隊の駐屯地が北寧路以西の 内陸に位地する撫寧、盧龍に改められた背景には、このような事情が存在していたのであ る。 以上の交渉の結果、漸く 5 月 10 日から新保安隊の進駐がはじまり(同、5 月 11 日)、新た な警備体制が戦区に構築されようとしていた正にその時、孫永勤軍問題が起こった。 2.Ʒચᕲأ⟨ުⲤ 孫永勤は河北省興隆県人で、中国共産党の関元有らと連絡を保ちつつ 1933 年 12 月「民 衆軍」の成立を宣言、孫自ら軍長に就任し、孫杖子村で抗日蜂起している。34 年 5 月まで

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に「民衆軍」は兵力 5 千、4 総隊を擁するまでになり、中共遵化県委員会の軍事幹部・徐 英の建議を受け、「抗日救国軍」に改編した。ところが 35 年 3 月、弾薬、衣類の不足が生 じ関内への移動を準備、4 月、孫は「救国軍」を率いて灤河を東に渡り老梁山区に進駐し たが、「傀儡軍」数千名の包囲攻撃を受け、激しい戦闘の末、孫は重傷を負い、5 月初め には兵力も 1 千 7 百に激減、地方政府の支援を受けるため 5 月 15 日、関内の遵化・遷安 地域一帯に移動していた22)。 問題が拡大するのは 5 月 20 日のことで、この日関東軍の指示を受けた高橋坦は、遵化 県長らが孫軍を庇護するような行為は容認できないこと、関内に逃げ込んだ孫軍を「消 滅」させるため、「やむを得ず自発的に必要な兵力を遵化一帯に進入させる」23)ことを鮑文 樾(軍事委員会北平分会弁公庁主任)に通告した(何応欽は 19 日から 23 日まで太原視察のため北 平不在)。これに対して鮑は、遵化方面には張慶余・周毓英部隊が駐屯しており、自力で 掃蕩できると説明して関東軍の関内進駐を断ったが、関東軍はこれを聞き入れずこの日関 内に軍を進めた。24 日、孫軍「約四百名は遵化兪家溝、毛山溝一帯でわが警団と日本軍 双方の囲剿によって全て潰滅し、死者約三百名、確証によると孫永勤は銃殺された」24)。こ の後日本側は、遵化県長(国民政府)が孫軍を支援していたことに加え、「于学忠ノ部下タ ル保安隊ハ」「一度モ之ニ攻撃ヲ加ヘス却ツテ退却方向ヲ指示」していた25)などと主張し て天津租界事件と連動させ、中国側に苛酷な要求を突きつけてゆく。

Ⅲ 現地交渉の開始

5 月 25 日、酒井隆(支那駐屯軍参謀長)は天津租界事件をはじめとする以上の問題に対し て次のような方針(以下、「秘電」と総称)で臨むことを杉山元(参謀次長)に示した。 一、白逾桓は我軍の「機関新聞社長」で「軍関係使用人」であり、「条約ニ依リ保護」 されるべきであるのに、「支那官憲指導ノ下」にかかる「テロ」事件が続発したこ とは心外である。また、「孫永勤匪」は南京政府統制の下で停戦地域を擾乱したの であり「停戦協定ヲ蹂躙スル此種行為ハ断シテ黙過スルコトヲ得サル」ことを中国 側に声明する。 二、「南京政権」は「累次ノ親日声明ニ悖リ」、停戦協定の精神に背き、且つ「団匪事 件解決交換公文書」に違反する行為を敢行した。これは「我方殊ニ我軍部」に対す る「挑戦的行為」であり、厳重に中国側の責任を問い、「必要ニ応シ自衛ノ為将来 無警告ニテ任意ニ適当ト信スル行動ヲ執リ且之カ為発生スル不祥事ニ関シ責任ヲ負 ハサルコト」を宣言する。 三、酒井および高橋は北平政務整理委員会(以下、政整会)・軍事委員会北平分会(以 下、軍分会)に右の趣旨を厳達するとともに「少クモ中央憲兵第三団類似機関ノ撤 退同団長蒋孝先、団附丁(樺山)及河北省主席于学忠ノ罷免ヲ要求シ且国民党部、

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藍衣社、軍委分会、政治訓練処等一切排日団体ノ工作ヲ禁止シ尚施策途中ニ於テ要 路ノ衝ニ在ル者ノ責任上失脚スルコトアルモ更ニ意ニ介セス。」26) 先述したように、「秘電」のアウトラインはすでに関東軍−高橋坦・儀我誠也のライン で形作られつつあったが、16 日高橋が、天津租界事件については現在調査中で、酒井の 天津帰着を待って根本的な解決案を決定する旨声明を発していたように27)、支那駐屯軍が これに全面的に関わり始めるのは、参謀長会議のため一時帰国し、「中央部と諒解を遂げ」 た酒井の天津帰任28)以降のことである。支那駐屯軍が河北省政府や天津市政府に圧力を加 えはじめた 21 日29)、酒井は、高橋、儀我らを集めて天津で「重要会議」を開催(『東京朝日 新聞』、5 月 23 日)、23 日にも同じ顔ぶれが天津に参集しており(『大公報』、5 月 24 日)、これ らの会議の中で「秘電」案が練られていったと考えて間違いない30)。 「秘電」内容の特徴として、まず、第一に、天津租界事件、孫永勤軍活動のいずれも中 国当局・国民政府が関与していると断定し、国民政府への敵対心をあらわにしているこ と、第二に、天津還付交換公文と塘沽停戦協定を同列に扱い、天津租界事件は前者に、孫 軍問題は後者に違反していると指摘し、日本側主張の法的正当性を両文書に求めている こと、第三に、支那駐屯軍参謀長の酒井が、関東軍の主管事項である戦区問題(孫軍問題) を取り上げ、酒井(支那駐屯軍)と高橋(関東軍)が連繋して対中交渉を行うとしているこ とを指摘できる。さらに、第四に、国民党党部および国民政府の影響力を華北から排除す ることについては、遅くとも 1934 年 6 月から東京(外・陸・海)や現地(青島、上海、大連 での各武官会議)で議論されていたことであり、それらを踏まえて提起された要求であっ たことを指摘することができよう。 それから 4 日後の 5 月 29 日、酒井は支那駐屯軍を、また高橋は関東軍を代表して、何 応欽、兪家驥(政整会秘書長)を往訪した(第一回会談)。まず日本側は、(一)平津一帯が「日 満擾乱」の根拠地となっていること、(二)胡・白暗殺事件に中国官憲が関与しているこ と、(三)「中国官庁」が孫永勤軍のような「義勇軍」を支援していることを国民政府は承 知しているか否か問い質したうえで、誰がこれら「反日集団」を指導し、誰が責任を負っ ているのか明確に回答するよう求めた31)。そして、(四)塘沽停戦協定実施後、日本軍は長 城線に撤退するという規定があるが、決してこのような義務はなく、もし中国側が騒乱 を起こせば、「日本軍ハ遂ニ再ヒ長城線ヲ越エテ進出スルノ必要ヲ生スルノミナラス北平、 天津ノ両地ヲ実質的ニ停戦区域ニ包含セシムルノ必要ヲ生起スヘシ」、(五)「胡、白ノ暗 殺ハ白等カ日本軍ノ使用人タルニ鑑ミ北清事変、天津還附ニ関スル交換公文ヲ蹂躙」する もので、「歴然タル排外行動」であり「日本ニ対スル挑戦」である。今後このような行動 が行われたり、行われることが予知された場合には「日本軍ハ条約ノ権限ニ基キ自衛上必 要ト信スル行動ヲ執ルコトアルヘシ」32)との「通告」を行い、中国側主権に大幅な制限を 加えた戦区の平津(北平・天津)への拡大と天津還付交換公文を根拠とした「自由行動」が あり得ることを提示した。これに続いて、「秘電」の第三項に新たに中央軍の撤退を加え た「要求」を何・兪に突きつけた。

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「要求」には于学忠の罷免が盛り込まれていたが、これは 11 日段階で高橋が示唆してい たもので、その後も日本側は、河北を張学良の「外府」と指摘して于および張廷諤(天津 市長)に不満を表明し、両者の罷免は必至の情勢となっていた33)。日本側からの「要求」提 示は、汪兆銘(行政院長兼外交部長)と会談した黄郛(政整会委員長、1935 年 1 月 18 日より北 平不在)が、「万一先方が条件として正式に要求してきたら実に主権と体面のいずれにとっ ても好ましくない」ため、先手を打って対処すべきである34)と蒋介石に意見具申した矢先 のことであったが、日本側「要求」は、黄らの想定をはるかに上回る極めて広範で厳しい ものであった。すでに 25 日、磯谷廉介(大使館付武官)と会談した黄は、「箭は弦上に在 り」35)との危機的認識を持つに至っていた。兪家驥から報告を受けた黄が、「要求」を呑ま なければ、(四)、(五)の「極端な情勢」になると分析していたように36)、中国側としては、 戦区拡大や日本軍の「自由行動」といった最悪の事態を回避するためにも、大幅な譲歩が 必要とされたのである。 翌 30 日、黄郛は、磯谷、影佐禎昭(上海駐在武官)と会見して日本側の真意を探ってい るが、先の会談で、磯谷は、今次事態の「遠因」として河北省政府の移転が遅々として進 まないこと、通航問題が一向に進展しないことを、「近因」として(一)地方が孫永勤を 庇護している嫌いがあること、(二)日本租界事件の内容が複雑であること、(三)于学忠 の対応に一貫性がなくバランスを欠いていること、そして(四)大使館昇格に対する反動 であることを列挙し、さらに、「近く林銑十郎(陸相)は梅津司令官を呼んで長春で会議を 行う予定であるが、(何か)決定があるようであり、天津で発動されるのも近いかもしれ ない」と語っていた37)。梅津が「駐屯軍の軍状並に北支状況報告のため」「新京」(長春)に 入ったのは 5 月 27 日のことであり、同日林も「新京」に到着している(『東京朝日新聞』、5 月 28 日)。「天津での発動」の具体的内容は詳らかでないが、軍事行動あるいはそれに類似 した行動と考えられる。実際 30 日には支那駐屯軍が河北省政府の門前に装甲車、軽機関 銃などを並べて威嚇していた。さらに、「十九日第二次天津暴動を発動するため便衣隊組 織は準備を整えていたが、梅津が穏健を堅持し、ひとまず中止した。しかし随時発動の可 能性がある」38)、あるいは「(一)日本軍は 6 月 11 日から天津および北寧路沿線で約千名の 増兵を行う、(二)昨日(29 日)より日本軍機二、三機が北平市附近やその他地域を偵察 飛行している、(三)孫永勤軍を掃蕩した日本軍部隊はいまだ撤退していないばかりか引 続き増加している」39)などという不穏な情報が現地北平から南京に次々と寄せられていた。 このうち(一)は、支那駐屯軍部隊の一部交替による部隊の移動のことを指しており、交 替部隊が重なり兵士の数が多くなるこの時期を選んで日本側が要求を突きつけた可能性は 十分考えられ、中国側にとって大きな圧力になったものと推察される40)。実際、第三回会 談の席上日本側が中国側回答のタイムリミットとした 12 日は、日本からの部隊が天津入 りした日であった(同、6 月 13 日)。 この後、6 月 4 日に第二回会談、9 日に第三回会談、10 日に第四回会談が開かれた。こ の間、中国側は蒋孝先(憲兵団長)、曽拡情(政訓処長)、于学忠、張廷諤の罷免、党部の活

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動停止など次々と譲歩を重ねていった41)。

Ⅳ 中央軍撤退要求をめぐる国民政府の対応

6 月 7 日、磯谷ら各地武官が支那駐屯軍司令部に参集し武官会議が開催された(梅津主 宰)。中国側が得た情報によると、かなり物々しい内容であったようで、河北省政府主席 を罷免された于学忠を「三省の職務(川陝甘辺区剿匪総司令)に任命するとは、実に誠意が ない」と断定し、国民政府の対応に不快感をあらわにするとともに、万一の場合に備え て、「支那駐屯軍を主体として津浦線・黄河北岸および天津を占領し、関東軍は山海関か ら出動して戦区の治安を維持し……熱河の駐屯軍は直ちに古北口から出動して北平を占領 し、同時に張家口および察東に向かって北平に駐屯している中央軍を圧迫する」準備を整 え、一両日中に国民政府に最後通牒を突きつけて「二十四時間以内に回答を迫る」ことな どを決議42)したという。決議内容を伝える日本側資料は確認できないが、参謀本部第二部 が 1933 年 9 月に「支那占領地統治綱領案」を、支那駐屯軍が 1934 年 3 月に「北支那占領 地統治計画」を作成していたことから考え、決議にまでは至らなくとも、このような内容 が議論された可能性は排除できない43)。 武官会議についての上記報告を得た何応欽は、直ちに「剿共」戦のため成都に滞在して いた蒋介石に電報を打ち、「磯谷、酒井は今夜北平入りすることになっており、明日朝来 訪するものと思われるが、万一かれらが厳重な態度で中央軍撤退問題を提起してきた場 合、職(何)が情況を考慮して自発的に北平附近の中央軍を保定あるいは長辛店以南に移 動させて情勢を緩和してもよいか否か」44)指示を求めた。これに対して蒋は、「先方の会議 内容の真偽如何に関わらず、わが方はしっかりと配置して万一に備えなければならない。 部隊の南への移動は今は絶対に行ってはならず、さもなければ情勢を緩和できないばかり か、その計にはまり、いたずらに党国の崩壊を促すことになる」45)と返電し、中央軍を移 動させれば、事態はさらに悪化するとの見通しを示した。この日、須磨弥吉郎(南京総領 事)と唐有壬(外交部次長)が南京で会見し、須磨が「中央軍が撤退しなければ、手を引く ことはない」46)という軍部の意見を伝えたのに対して、唐は「停戦協定ト関係ナキ地帯ニ 駐屯スル中央軍ノ一律撤退ヲ要求セラルルハ了解ニ苦ム」47)と反論していた。中央軍の撤 退問題が交渉の焦点となっていたのである。 唐・須磨会談の報告を受けた汪兆銘は、翌 8 日早朝、日本軍は上海事変を再演しようと しているとの見方を展開しつつ、中央軍の撤退を「二、三日遅らせれば、われわれに撤退 を迫る通知と先方の軍隊の前進が同時に到来することは避けられない」ので、本件につい ては「敬之兄(何)が相機処理し、弟(汪)が共同で責任を負うのがよい」48)との考えを蒋 介石に伝えた。「相機処理」とは、現地において情勢を見極めながら判断、処理するとい う意味であり、この場合判断の主体は何応欽ということになる。汪は、何による「相機処

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理」に中央軍の即時撤退要求に対応し得る政策決定の方途を見出し、それを蒋に示したの であった。この時、何が、軍政部長兼軍事委員会北平分会代理委員長の職にあったことに 加え、華北の対日交渉のうち「軍事に関しては、兄(何)が全権処理し、一々指示を請う 必要はない」49)との考えを示すほど、蒋が何の判断に信頼を寄せ、華北における何の役割 を重視していたことが重要であった。中央軍を撤退させるか否かは、何の最終判断に委ね られることとなった。 6 月 9 日まず磯谷が、続いて酒井、高橋が居仁堂の何を往訪した(第三回会談)。何は于 学忠、張廷諤を罷免したことなど中国側の対応状況を説明し理解を求めたが、これに酒井 らはまだ満足していないとして、 (一)河北省内の一切の党部を完全に廃止する(鉄道党部を含む)。 (二)第五十一軍の撤退および河北からの完全撤退日時を日本側に通知する。 (三)中央軍は河北省から撤退する。 (四)全国の排外排日行為を禁止する。 を再要求した。そして、「即日処理することを希望しており、さもなければ日本軍は断固 とした措置を採る」、「さらに一、二、三項は決定事項であり、譲歩の余地はなく」、「十二 日午前に回答していただきたい」50)と述べ、これらの要求が期日通り実行されなければ、 決裂もあり得ることを示唆した。何は、(三)(四)は中央に請訓し、(二)は現在処理中 であると返答した。さらに(三)について何は、「第二十五師団を河北から撤退させ、第 二師団を保定に駐屯」させようとしたが、酒井らは「日本軍部の決議は絶対に変更するこ とはできない。故に第二師団も即日河北から撤退するよう」要求した51)。 何応欽から上記会談の報告を受けた汪兆銘は、直ちに「一、四の両項については中央の 命令がなければ実施できないので、至急明朝の会議で決定する。二、三の両項は軍事に関 するものなので、兄(何)が相機処理し、共同で責任を負う」52)考えを何に伝えるとともに、 同夜、唐生智(訓練総監)、陳公博(実業部長)、陳立夫(調査統計局長)らと協議して「自発 的に実施する」形で日本側要求を受諾する方針を固めた53)。 ところが、蒋介石からは依然「中央軍の南への撤退問題は、受け入れ難い」54)考えを伝 える電報が送られてきていた。その理由は、中央軍の撤退は「華北の放棄」と同義であり、 「先方の目的が中央を倒し、中国を分割する」ことにあることは明々白々で、「中央軍が南 に撤退するか否かに関わらず、おそらく先方は引続き隙に乗じて中央に挑戦し、全目的 を達成しない限り止むことはないであろう」、そして「北平を固守することの方が、平津 から撤退後やむを得ず抵抗することよりよい」55)と判断していたことにあった。塘沽停戦 協定善後交渉では率先して対日譲歩を打ち出してきた蒋も、さすがに国民政府による華北 統合を軍事的に象徴する中央軍の撤退には容易に応じられなかった。中央軍を撤退させれ ば、実質的に「華北を放棄」することになるばかりか、「両広(広東・広西)に口実を与え、 開府に踏み切らせる」ことになり、民衆の信頼を損ないかねず、さらに「国際社会への対 処が困難になる」ことを深く憂慮していた56)。華北放棄にも等しい中央軍撤退要求に武力

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抵抗することなく応じ、ここを日本側に明け渡したと内外から判断された場合、政権の正 統性そのものが揺さぶられかねない深刻な事態になる、とみていたことが分かる。2 年前、 激しい反対論の中、塘沽停戦協定締結に踏み切った際の説明理由は、華北、とりわけ平津 を保全することにあった。中央軍撤退要求を呑むことでその平津を引き続き保全できるか 否か、これが重要な鍵を握っていたのである。 日本軍と蒋介石の板挟みとなって、極めて厳しい対応を迫られることとなった何応欽 は、蒋に対して「日本側は直ちに中央軍との衝突が発生することを望んで」いるが、「万 一戦争(戦事)が勃発すれば、瞬く間に平津は切り離され、南京、上海および長江一帯に 影響が及び、国内は崩壊」の危機に瀕することになるという見通しを示したうえで、「黄 (杰)師団の大部分は保定に駐屯していて南苑には二個連隊(団)が駐屯しているのみで、 関(麟徴)師団の二個連隊も演習中で三個連隊が黄寺に駐屯しているのみであり、于(学 忠)軍・商(震)軍は交替を行っている最中で、短時間に配置に就くことは不可能であり、 しかも全く後方の準備はできておらず、攻守いずれも困難」である、と絶望的な状況判断 を伝え、「直ちに中央軍を自発的に河南省に撤退させる命令を発して平津および国力(国 家元気)を保全し、持久戦の基礎を残す」べきであるとの意見を開陳した57)。これは中央軍 撤退が平津を保全するための最善の策であるという何の最終判断であった。

Ⅴ 日本側要求の受諾と「覚書」調印の拒否

翌 6 月 10 日、汪兆銘は前夜固めた方針を国防会議と中央緊急会議に諮った。蒋介石の 判断を仰ぐべきとの意見が出て会議は紛糾したが、迅速な対応が求められる「やむを得ざ る時」は、汪がまず責任を持って決定し、蒋が納得しない場合は後からこれに修正を加 える手順で対処することをすでに蒋に連絡済である旨説明し58)、受諾決定への理解を求め た。 両会議での審議を終えた汪は、直ちに「第五十一軍および中央軍の撤退に異議無し」59) と何応欽に打電するとともに、何の蒋宛て電報を引きつつ、改めて中央軍の撤退を決定す るに至った背景とその理由を蒋に説明した。 「中央軍撤退後、日本軍が進軍しないか否か定かではないが、中央軍が撤退しなけれ ば、12 日には戦争(戦事)が始まることになる。敬之(何)の電報によれば平津を持 ちこたえさせる術はなく、その時平津および河北はいずれも熱河の二の舞となり、あ るいは塘沽協定よりさらに広範で過酷な停戦協定を締結しなければならず、さらに多 くを失うことになる。」60) 中央軍を撤退させなければ戦争勃発は避けられず、戦争となればさらに甚大な損失を

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被ることは必至、という切迫した情勢認識に基づく苦渋の決断であったことが語られてい る。熱河抗戦での敗退によって塘沽停戦協定締結を余儀なくさせられた記憶はまだ生々し く、しかも現にいま生起している問題はまぎれもなく同協定に起因したものであった。開 戦−敗北−停戦協定締結を繰り返すことで、主権を喪失してゆくことだけは絶対に回避し なければならないとの判断があった。 反日的言論の取り締まりを趣旨とした「邦交敦睦令」を国民政府が公布したこの日、午 後 6 時、何応欽は、国民党中央執行委員会および汪兆銘の電報に基づき高橋坦に対して口 頭で回答した(第四回会談)。 (一)河北省内の党部の撤退については本日即日実施して終えるよう命じた。 (二)第五十一軍はすでに移動を開始し、11 日から列車で河南省に輸送する予定で、 今月 25 日頃輸送を終える。 (三)第二十五師団、第二師団はすでに移転することが決まった(一ヶ月内に輸送を終 える予定)。 (四)全国の排外排日の禁止に関して国民政府は改めて命令を発した61)。 ここに中国側は日本側要求をすべて受諾した。梅津は「茲ニ一段落ヲ告クルニ至リシハ 慶幸トスル所ナリ」と参謀総長に報告している62)。 ところが翌 6 月 11 日、高橋は、中国側がこれまで受諾してきた諸事項に新たに三項目 にわたる「附帯事項」を加えた「覚書」を作成し、再び何応欽のもとを訪れた。この時高 橋は何に直接面会することができず、朱式勤(軍分会副組長)を通じて「覚書」を何に届け させ、捺印させようとした。しかし、「省・市など職員を任命する際には、日本側の希望 を受け入れて、中日関係を不良ならしめざる人物を採用するよう希望する」とか、「約定 事項の実施に関して、日本側は監視および糾察の手段を採る」63)などと規定していた「附 帯事項」は 、 中国側には受け入れ難い内容であり、何は朱を通して拒絶の意向を高橋に伝 えた。また、報告を受けた汪兆銘も 「 各項はいずれもわが内政で、われわれが自発的に実 行すればよいのであって、もし書面で回答すれば、協定的性格となる 」 ので、何の判断を 全面的に支持する考えを示した64)。 汪兆銘は、翌 12 日の中央政治会議で、日本側が「覚書」への捺印を求めてきているこ とを報告したが、これを受けた審議は緊迫したやり取りとなった。例えば、「拒絶後、抵 抗するか否かは軍事状況を見て決めればよい」(覃振)、「もし拒絶して、敵が軍事行動を 開始し、われわれを追撃してきた場合、わが部隊は抵抗するのか否か、決定しておくべき ではないか」(黄慕松)、「抵抗の問題は作戦の問題である、作戦には物資と精神の準備が 必要であるが、われわれには物資の準備はなく、また精神的にも敗戦のおそれがあり、抵 抗は極めて困難である」(陳公博)65)、といった委員の発言から分かるように、華北における 戦争勃発の可能性が真剣に議論されていたのである。中国側は、12 日午前中というタイ ムリミットが「覚書」への捺印にまで適用されるものと理解していたのであった。審議の 結果、捺印を拒否することと、「日本軍が進攻してきた場合、わが軍は当然抵抗する」こ

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とが決定された66)。 日本側が文書への捺印を求めてきたこと、そして日本の特務機関員が宋哲元軍の哨兵に 身柄を拘束されるという事件(第二次張北事件)をめぐって日本側が宋軍の撤退を要求し始 めたことなどを考慮し、何応欽は軍分会の事務処理を鮑文樾(同弁公庁主任)および常務 委員に委ね67)、13 日午前 2 時 10 分、特別列車で北平を離れ南京に向かった。何自らが北平 不在となることで文書への捺印を回避しようとしたのであった。この日午後 5 時、高橋 は、新たに「備忘録」を作成して鮑を往訪し、高橋が梅津を、鮑が何を代表して捺印する ように求めたが、鮑は「権限外」のことであり、何の帰任を待つべきである旨述べ、捺印 を拒絶した。なおも高橋は捺印を求め、鮑が代わりに捺印できないのなら、何に転送する よう要求した。南京では 15 日臨時国防会議が開かれ、「文字規定を設ける必要はない」こ とを改めて確認し、その旨鮑に指示している68)。 7 月 1 日、高橋は四度「通告文」を携行、周永業(軍分会副組長)を通して鮑に渡し、何 応欽に転送するよう求めた。「通告文」を受領した何は「新生事件」の展開を考慮しつつ 汪と協議を重ね、最終的に次のような「普通信」を作成して梅津宛に送ることを決めた69)。 「逕啓者、六月九日酒井参謀長所提各事項均承諾之、並自主的期其遂行、特此通知。 此致 梅津司令官閣下 何応欽 民国二四年七月六日」70) 鮑は、タイプライター刷りに「何応欽ノ認印」が捺してあった71)この文書を周に携行さ せ、高橋に手渡した。その際高橋は、これで「河北事件は一段落を告げた」と述べたとい う72)。 以上がいわゆる「梅津何応欽協定」の現地交渉過程であるが、何応欽は、中国側の対応 は「自発的」なものであるとし、一貫して「梅津何応欽協定」なるものは存在していない と主張している73)。確かに、何は日本側要求を受諾はしたが、文書化された協定が作成さ れ、正式に調印が行われたわけではない点で、塘沽停戦協定などとは明かに異なった性格 のものであったと言える。しかもこれを日本側が「協定」と言い始めるのは華北分離工作 がより公然化、過激化する同年秋以降のことである74)。正式な協定文書が存在しないにも かかわらず、口頭による受諾とその受諾内容を「自主的に遂行する」ことを通知した「普 通信」が公式の協定と同様の拘束力を持ったところに、当時の華北問題の深刻さがうかが われる。程錫庚(駐平外交特派員)が、冀察政務委員会発足直後に外交部に宛てた報告書は、 「日本軍機の任意飛行、憲兵隊による任意逮捕、地方官に対する任意譴責」は、署名して いない「覚書」の監視・糾察権であると指摘し75)、日本軍は中国側が調印を拒絶したはず の「覚書」の権限を行使していると捉えていた。

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また、同じ頃第二次張北事件をめぐって行われていた交渉の結果、「土肥原秦徳純協定」 (6 月 27 日)が成立した。「梅津何応欽協定」と「土肥原秦徳純協定」は、ほぼ同じ時期に 華北において出先軍が中国側に対して苛酷な要求を突きつけたという点からワンセットで 扱われることが多いが、「協定」という観点からすれば、両者には大きな違いも存在して いる。第一に、前者は軍政部長兼軍事委員会北平分会代理委員長である何応欽が交渉に当 たったのに対して、後者は一地方官の察哈爾省政府代理主席である秦徳純が奉天特務機関 長の土肥原賢二と交渉したこと76)、第二に、両者とも正式な協定文書が作成されたわけで はなかったが、後者では交渉に当たった秦が受諾事項を具体的に明示した書簡を土肥原に 直接手渡したことである。しかし、いずれも公式の外交ルートを通じての協議、交渉を前 提とする国民国家外交という枠組みから大きく逸脱する形で交渉が進められたという点で は共通している。そして、この時東京は、このような交渉形態をむしろ積極的に承認する 方向で動いたのであった。

Ⅵ 南京と東京

以上のような交渉が北平で進められる中、対応次第では「九・一八事変」が再発するの ではないかと危機感を強めた汪兆銘は、5 月 30 日、蒋作賓(駐日大使)に至急電を打ち、「日 本側武官のかかる道理無き要求は、特に双方が親善に努力している時に宜しくなく、法を 講じて制止されん」ことを広田弘毅(外務大臣)に申し入れるよう指示した77)。訓令に従っ て蒋は翌 31 日、広田を往訪し、斡旋を依頼、これを受けて 6 月 1 日、桑島主計(東亜局長) は広田の代理として参謀本部を訪れ、岡村寧次(第二部長)、橋本虎之助(陸軍次官)と協 議した。この時の陸軍側主張は次のようなものであった。 一、今次問題は「専ら塘沽停戦協定の範囲内において支那側が不法なる協定蹂躙の結 果より勃発した」ものであり、「これが解決は一に軍司令官の職権内の統帥事項に 関連しているもので外交々渉とは何等関係しないものである。」 二、今次問題は「軍中央部解決主義の方式を排し飽くまで関東軍並に北支駐屯軍の職 権に委ね」、「現地解決主義」で処理する。 三、「現地解決」だからといって、「単に一局地的問題として解決する」ことは望んで おらず、中国側が「対日二重態度」を根本的に反省し、「本問題を契機として誠意 ある対日方針を披瀝すべきことを」飽くまで要求する(『東京朝日新聞』、6 月 2 日)。 前日 31 日に伝えられた「軍部当局の見解」(同、5 月 31 日)では、「今回の支那側の行動 は天津還付交換文書中に明記」してある「条文に該当するもので、現地の執れる態度は条 文の権限による自衛的行動である」としていたが、ここでは、その法的根拠を塘沽停戦協 定のみに求め、天津還付交換公文には全く言及していない。出先軍の行為の法的根拠をど の文書に求めるのか陸軍中央内で必ずしも統一見解があったわけではなかったことがうか

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がわれる。 この点につき、6 月 5 日陸軍中央が外務省に提示した「北支交渉問題処理要綱」は、陸 軍内部の意見調整の結果を示していると言える。この「要綱」の「方針」では、「北支交 渉問題処理に方りては北支停戦協定並天津還附に関する日清交換公文に基き専ら支那駐屯 軍並関東軍をして北支政権を対象として地方的に交渉を促進せしめ成るべく迅速なる解決 を期す」78)と記されており、「北支停戦協定」と「天津還附に関する日清交換公文」、つま り塘沽停戦協定と天津還付交換公文の両文書を掲げている点で、先に見た「秘電」と一致 していた。ところが、その後、外務省側から天津還付交換公文違反に関する交渉は「専ら 外務省側に於てなすべきもの」であるとのクレームがつき、「北支交渉問題処理に方りて は北支停戦協定に基き専ら関東軍及其の友軍たる支那駐屯軍をして北支政権を対象……」 (6 月 7 日)79)という表現に改められた。要するに、陸軍中央は塘沽停戦協定と天津還付交 換公文の両文書に法的根拠を求めることで意思統一を図ったが、外務省との協議を通して 最終的に前者のみにそれを求めることとなったのである。 実はここには、公式外交交渉による華北をめぐる日中対立の解決推進における大きな問 題が存在していた。第一に、外務省は天津還付交換公文の主管的立場を確保したものの、 「統帥事項」に関わる塘沽停戦協定のみに出先軍の行為の法的根拠を求めたことによって、 逆に外務省が関与できない法的空間を平津地域にまで拡大させることになった。第二に、 出先軍は天津還付交換公文と塘沽停戦協定を法的根拠に行動していたが、前者が外された ことによって、天津租界事件も塘沽停戦協定に関する問題とされ、実質的に同協定の適用 範囲が拡大されることになった。そして第三に、これまで関東軍が主管してきた塘沽停戦 協定関連事項に、支那駐屯軍が加わることを陸軍中央(結果的には外務省も)が明確に認め、 支那駐屯軍もそれに主体的に関わるようになった。 この他、陸軍中央の主張の問題点として、陸軍中央が、今次問題処理にあたって関東軍 および支那駐屯軍に大きな権限を与えたことを指摘しておかなければならない。しかも、 それは「局地的問題」の解決を図るためではなく、それを通して中国の対日政策全般を改 めさせるという、より大きな目的実現のためであった。「現地解決」にあたる出先軍の役 割が中国の対日政策全般を規定するほどのものとして位置づけられ始めていた。 外務・陸軍協議の結果を受け、6 月 1 日、広田弘毅は蒋作賓に対し、「本件ハ主トシテ 停戦協定ニ関連セル軍関係事項ナルヲ以テ外交交渉トシテ取扱フニ便ナラス出先軍憲ニ 依リテ処理セラルヘキ性質ノモノニ付速ニ南京政府ヨリ我方出先軍憲ト交渉セラレ可然シ 是レ事件ヲ拡大セシメサル為ニモ必要ト思考ス」80)と回答、国民政府の申し入れを明確に 断った。特に外相である広田が、天津租界事件を含む複数の案件を塘沽停戦協定に関する 軍事案件として一括し、「出先軍憲」との交渉を積極的に勧めている点に注目しておきた い。 国民政府は、塘沽停戦協定をその法的元凶とする華北問題が公式の外交交渉によっては 解決され得ないことを知らされることとなった。6 月 20 日、蒋作賓大使の信任状捧呈に

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随行した蕭叔萱(大使館付武官)は、昭和天皇が「申し訳ない(対不住)」と発言したことを 「元首が儀式後に詫びるのは極めて珍しいことで、外部に漏らさぬように」81)とのコメント を特記して報告したが、特にこれが国民政府内で注目を集めるようなことはなかった。 5 月 17 日に日中両国公使館の大使館昇格を実現した矢先に、外務省が上述したような 対応をとったことの意味は極めて大きいと言わなければならないであろう。そして、こ のことは外交面で華北分離工作に側面協力することをも意味していた。さらに、6 月下旬 になると数多くの「対支申入案」や「対支要求案」82)が外務省で作成されるようになるが、 そこに華北を中心とした数多くの経済的要求が盛り込まれていることを確認することがで きる。これらの要求を実現するために、華北を中心に何がしか軍事的圧力を容認するよう な雰囲気が外務省内において醸成されていたとも推察されるが、この点については別稿に て考察したい。

おわりに

何応欽が日本側要求を受諾した直後の 6 月 11 日、陸軍中央の意向を伝えるため天津の 支那駐屯軍司令部で開催された会議に参加していた参謀本部支那課長の喜多誠一は、1936 年 3 月から大使館付武官として上海に駐在していた。その喜多が、盧溝橋事件勃発後の 1937 年 7 月 19 日、何応欽と次のようなやり取りを行っていたことが記録されている。 何:二十四年、軍分会は中日両軍の衝突を回避するため、第五十一軍、第二師団、第 二十五師団を北平・天津から移動させたが、これは臨時的な措置であって、その後 の中国軍の移動は、如何なる拘束も受けない。 喜多:二十四年了解事項の解釈について、日中双方の説明は異なっている。日本陸軍 当局は、第五十一軍、第二師団、第二十五師団の河北撤退後、如何なる中央軍も再 び河北省内に入ることはできないと考えている。 何:わが方は二十四年にかかる了解をした覚えはない。当時わが方が、第五十一軍、 第二師団、第二十五師団が再び平津に進駐することはできないと言ったことはな い。中国の軍隊はいずれも国軍で、いわゆる中央軍とその他の軍という区分けはな く、第二十九軍も国軍である。 喜多:中国側のかかる解釈は、日本側と全く異なる83)。 「二十四年了解」とは本稿で考察してきた「梅津何応欽協定」を指している。何が、 1935 年の措置は臨時的なもので、中国軍の移動については「如何なる拘束も受けない」と 述べているのに対して、喜多は「如何なる中央軍も再び河北省内に入ることはできない」 というのが「二十四年了解」の内容であり、中国側の行為は「了解」違反であると反論し

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ている。明かに喜多は、「二十四年了解」を恒久的なものと位置づけたうえで、その拡大 解釈を試みようとしていた。盧溝橋事件後、何と喜多は「梅津何応欽協定」の解釈をめぐっ て上記のような激しいやり取りを行い、結局対立を解消することができず物別れに終って しまった。何が「中国の軍隊はいずれも国軍で、いわゆる中央軍とその他の軍という区分 けはない」と反駁している点や、この会談の終りに「事態が拡大するか否か(の責任)は、 日本にあって中国にはない」と主張している点などからは、譲歩に譲歩を重ねた 1935 年 5–6 月段階以降の二年間に中国側の対日姿勢が如何に大きく変化したかをうかがい知るこ とができる。 そしてこの会談記録は、「二十四年了解」と「二十四年了解」、すなわち「梅津何応欽協 定」成立に至る過程で出先軍の行為の法的根拠となり、1936 年の川越・張群会談の中で 中国側が強く破棄を求めた塘沽停戦協定が、日中全面戦争へと至るプロセスの中で極めて 重要な意味を持っていたことを改めて問うているように思われる。 (注) 1) 1935 年 12 月 23 日付『大公報(天津)』、蒋介石「政府与人民共同救国之要道」、秦孝儀主編『中華民 国重要史料初編―対日抗戦時期・緒編』(一)、中央文物供応社、1981 年、744 ページなど。(以下、『緒 編』と略す。) 2) 例えば、謝国興『黄郛与華北危局』、国立台湾師範大学歴史研究所、1984 年、342–344 ページ。 3) 松崎昭一「再考『梅津・何応欽協定』」、『軍事史学・日中戦争の諸相』第 130 号、錦正社、1997 年。 4) 余子道『長城風雲録』、上海書店、1993 年、366 ページ。大陸で出版された最新の通史も同様の評価 を下している(周天度ほか『中華民国史』第 3 編第 2 巻、中華書局、2002 年、431 ページ)。 5) 劉維開『国難期間応変図存問題之研究―従九一八到七七』、国史館、1995 年、308 ページ。 6) この時期の日中双方の資料を分析した研究として、安井三吉『盧溝橋事件』、研文出版、1993 年、同 「塘沽停戦協定から盧溝橋事件へ」、衛藤瀋吉編『共生から敵対へ―第 4 回日中関係史国際シンポジウ ム論文集』、東方書店、2000 年。また、一部中国側資料を用いて日中の交渉過程を跡づけた研究として、 臼井勝美「『梅津・何協定』締結前後」、『日中外交史研究―昭和前期』、吉川弘文館、1998 年。 7) 鹿錫俊氏は、「満洲事変」から塘沽停戦協定締結に至るまでの国民政府の対日政策を検討したうえで、 華北分離工作は同協定のライン、「すなわち中国の救国大計に定められた対日妥協の限界線を越えた」た め、国民政府は「対日政策の方向を再修正せざるを得なくなった」と指摘している(『中国国民政府の対 日政策・1931–1933』、東京大学出版会、2001 年、259 ページ)。国民政府の対日政策史という点でこの見 方に異論はないが、日中関係における塘沽停戦協定の役割に着目すると、これは、同協定の二面性のう ち、「満洲事変」終結という側面により大きな重点を置いた捉え方のように思われる。本稿では、もう一 つの側面、つまり同協定が当初より華北分離につながる志向性を内在化していた点に着目して検討を進 めていきたい。なお、同協定締結後から本稿が扱う時期に至るまでの日中関係については、拙稿「塘沽 停戦協定善後交渉と日中関係」(上)(下)、『中国研究月報』第 632 号・第 633 号、2000 年。 8) 「于学忠より蒋介石宛書簡」(5 月 17 日)、『緒編』、665–666 ページ。公使館付武官補佐官は参謀総長 の指揮下にあったが、高橋ら北平駐在武官は、塘沽停戦協定成立以降、同協定によって出現した「戦区」 の問題処理を日常業務とするようになり、戦区を主管していた関東軍からの指示を受けて中国側との交 渉にあたっていた。 9) 「関参二命第四九号」(昭和 8 年[1933 年]10 月 19 日)、『満密大日記』昭和八年二十四冊ノ内其 二十一、防衛研究所図書館所蔵。 10) 前掲、「于学忠より蒋介石宛書簡」(5 月 17 日)。 11) 「何応欽発蒋介石、汪兆銘、黄郛宛電報(真酉行秘電)」(5 月 11 日)、『国民政府ᚾ案―国民政府対 日情報及意見史料』(二)(上)DVD 版、国史館、2002 年。(以下、『対日情報及意見史料』と略す。) 12) 孫準植『戦前日本在華北的走私活動・1933–1937』、国史館、1997 年、第一章。 13) 「邵鴻基発楊永泰宛電報(寒電)」(3 月 14 日)、『特交ᚾ案分類資料―中日戦争・華北局勢』第 18 巻、 (台湾)国史館所蔵。(以下、『特交ᚾ案』と略す。) 14) 「非戦地域諸問題討議ノ為メ日支関係者第四回会議ノ件」(昭和 10 年[1935 年]2 月 20 日)、松

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A.1.1.0.21-27『満洲事変・華北問題』第五巻、外交史料館所蔵。 15) 参謀本部「停戦協定を中心とする北支諸懸案の現況(支那時局報第 21 号)」(昭和 10 年[1935 年]5 月 7 日)、小林龍夫ほか編『現代史資料―満州事変』第 7 巻、みすず書房、1964 年、583 ページ。 16) 同上。 17) 同上。 18) 前掲、「何応欽発蒋介石、汪兆銘、黄郛宛電報(真酉行秘電)」(5 月 11 日)。 19) 「于学忠より蒋介石宛書簡」(5 月 17 日)、『特交ᚾ案』第 18 巻。 20) 「于学忠より蒋介石宛書簡」(5 月 22 日)、『緒編』、667–668 ページ。 21) 同上。 22) 謝忠厚『河北抗日戦史』、北京出版社、1994 年、35–38 ページ。 23) 何応欽将軍九五紀事長編編輯委員会『何応欽将軍九五紀事長編』(上)、黎明文化事業股份有限公司、 1984 年、391 ページ。(以下、『長編』と略す。) 24) 「何応欽発蒋介石、汪兆銘、黄郛宛電報(宥亥行秘電)」(5 月 26 日)、『長編』、395 ページ。 25) 参謀本部「北支事件ニ就テ(支那時局報第 30 号)」(昭和 10 年[1935 年]6 月 10 日)、『旧陸海軍関 係文書』1–132、国立国会図書館所蔵。 26) 「酒井支那駐屯軍参謀長発杉山参謀次長宛電報」(5 月 25 日)、島田俊彦ほか編『現代史資料―日中 戦争』第 8 巻(1)、みすず書房、1964 年、78 ページ。(以下、『日中戦争』と略す。) 27) 5 月 17 日付『北京新聞』、李雲漢『宋哲元与七七抗戦』、伝記文学出版社、1978 年、69 ページ。 28) 軍令部「北支に於ける反満抗日策動に基く日支軍の交渉其の一(支那特報第 7 号)」(昭和 10 年[1935 年]6 月 12 日)、『日中戦争』、61 ページ。 中国側文書によれば、鈴木美通(公使館付武官)が上海で武官会議を開催し「抗日が停止されなければ、 華南と華北を分離(分化)する政策を採る」とともに、酒井に全権を委ねて「欺瞞外交」を展開してい る黄郛(政整会委員長)を駆逐する決定をしていたという(「蒋孝先発胡宗南宛電報(支電)」(1934 年 12 月 4 日)、『閻錫山ᚾ案―各方民国二十四年往来電文原案』、国史館所蔵)。なお、文書の日付から、 ここで言う上海の武官会議とは 1934 年 11 月 16 日から数日間にわたって開催された会議を指すものと考 えられる。 29) 李雲漢、前掲書、70 ページ。 30) 参謀本部作成の文書には「北支事件ニ関シ支那駐屯軍ハ北支関係軍機関ト協議ノ結果……本事件ノ対 策ヲ決定シ五月二十四日予メ中央ニ報告シ中央亦之ヲ是認セリ」(参謀本部「北支那事件交渉経過ノ概要 (支那時局報第 32 号)」(昭和 10 年[1935 年]6 月 17 日)、『旧陸海軍関係文書』1–132、国立国会図書館所 蔵)とある。「秘電」は 5 月 25 日付とされているが、これが発電日でもあったのかは確認できない。も し「秘電」が 24 日に発電されていたとすれば、24 日の報告とは「秘電」のことを指している可能性も出 てくる。もちろん本稿で明らかにしたように、出先軍はかなり早い段階から事態拡大を狙って動いてお り、「秘電」とは別途報告があった可能性も十分考えられる。いずれにせよ支那駐屯軍が 24 日陸軍中央 に対し予め報告していたということであれば、天津出発日時を含めた梅津の「秘電」への関与について の再検討も必要となろう。 31) 李雲漢編『抗戦前華北政局史料』、正中書局、1982 年、427–428 ページ。(以下、『史料』と略す。) 32) 「高橋大使館付武官補佐官発杉山参謀次長宛北第 383 号電報」(5 月 29 日)、『日中戦争』、78–79 ページ。 33) 「何応欽発蒋介石宛電報(感申行秘電)」(5 月 27 日)、『緒編』、670 ページ。 34) 「黄郛発蒋介石宛電報(感戌電)」(5 月 27 日)、『特交ᚾ案』第 21 巻。 35) 「黄郛発蒋介石宛電報(有酉電)」(5 月 25 日)、『対日情報及意見史料』。 36) 「黄郛発汪兆銘、蒋介石宛電報(卅未電)」(5 月 30 日)、『緒編』、673 ページ。 37) 「黄郛発蒋介石宛電報(卅午電)」(5 月 30 日)、『緒編』、671 ページ。 38) 前掲、「何応欽発蒋介石宛電報(感申行秘電)」(5 月 27 日)。 39) 「何応欽発蒋介石、汪兆銘、黄郛宛電報(卅午行秘電)」(5 月 30 日)、『長編』、399 ページ。 40) 「支那特報第 7 号」には、「期限に就ては概ね北支駐屯軍交代兵上陸期を利用することとし」た、と記 述されている(『日中戦争』、63 ページ)。 41) このうち党部の活動について、当初何応欽は、「河北の省・市党部は専ら内部活動を行い、外部活動 および宣伝工作を停止する」方針を立て、「内部活動」という形で党部の活動維持を図ろうとしていた (「何応欽発蒋介石宛電報(卅申行秘電)」(5 月 30 日)、『特交ᚾ案』第 21 巻)。 42) 「何応欽発蒋介石、汪兆銘宛電報(庚申行秘電)」(6 月 8 日)、『緒編』、677–678 ページ。 43) 日本軍による華北を含む「中国占領地統治」計画は、参謀本部第二部(情報)「支那占領地統治綱領 案」、支那駐屯軍「北支那占領地統治計画」(「永久計画」)、支那駐屯軍司令部「昭和十一年度北支那占領 地統治計画」(「十一年度計画」)の順に策定、具体化していったことが明らかとなっている(永井和「日 本陸軍の華北占領地統治計画について」、『人文学報』第 64 号、1989 年)。なお、安井三吉氏は、このう

参照

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