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大同団結運動と議会政党の成立-2- 利用統計を見る

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(1)

大同団結運動と議会政党の成立-2-著者

松岡 八郎

雑誌名

東洋法学

7

2

ページ

29-55

発行年

1963-12

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007829/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

大同団結運動と議会政党の成立

目 次 一 、 ま え が き 二、大同団結運動の商芽 三、三大事件の建白運動 四、大同団結運動の開始(以上七巻一号) 五、大同団結運動の展開 六、大同団結運動の分裂 七 、 三 派 の 合 同 ( 以 上 本 号 ﹀ 入、議会政党の成立 九 、 む す び

五、大同団結運動の展開

保安条例の一撃は、前述のように反政府運動の奔騰をそらし、 大同団結運動と議会政党の成立 (二)

﹁荒涼索莫﹂ならしめたが、

げ ハ MV 白 H u m 翌明治二十一年(一八 二 九

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法 宇

まさに欧米諸国巡遊の旅に出ょうとしていた ( 1 ) 反政府運動の指導者足一与をはじめ数名が秘密出版事件によって捕えられた。 八八年)に入っても、政府の追及の手はゆるまず、二月二十四日には、 さらに政府は、このような時圧手段によってのみ反政府運動を抑圧するばかりでなく、その基礎を固めるためにも 伊藤首相が薩派の中心人物である黒団長商務相と協議の上、二月一日、すでに前年より入閣を交渉していた大限霊信 を外務大臣として閣内に迎え入れることに成功し、在野勢力の一角である改進党系を味方に引き入れて、その反抗エ ネルギーをそごうとし、またさきに頓挫した条約改正交渉を大限によって打開せんとし、加えて保安条例にたいする 世評を挽回せんとしたのである。 かねてから伊藤を中心として極秘のうちに進められてきた憲法草案がよう やく完成したので、四月二十八日にはこれまた極秘のうちにこれを審議する機関として枢密氏を設置し、伊藤はその つ い で 、 議長に就任した。このため、黒田が内閣総理大臣となり、その他の閣僚をほとんど留任させたが、その後、七月には 井上臨時が再び入閣し、長商務相となった。このように政府は、まさに秘密のうちに H 在 野 勢 力 、 一般民衆になんら知 らせることなく、それらを無視しながら、着々と立憲制への準備を進め、また薩長の提携を一段と強めることによっ て政府の基礎を固めたのであった。 このような政府側の動きにたいして、反政府的勢力はその後いかなる活動を反問していったか。前述のように、保 安条例は京京から反政府勢力を一拐し、その首領にかつぎあげられ、在野勢力の大同団結を提唱していた後藤象二郎 は﹁一時左右を扮蕩せられて股肱なきに苦めり﹂という状況であった D かくて反政府的勢力は諸地方に分散し、二十 一年春からは後藤もまた大いに地方に出て遊説することになるのである。

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( 5 ) 四月二十二日には京北七州の有志三百余名が福島に集まり、怒親会を聞いたが、後藤もこれに出席して激励した。 帰京後、後藤は機関雑誌の発行を企て、大石正巳、官了法、安岡雄吉、甲藤大器らをして編集にあたらせ、六月一日 ( 6 ) には﹁政論﹂第一号を発刊するにいたり、政府批判を展開した。ついで炎熱を冒して七月五日には大石正巳らをとも なって京北遊説の途にのぼり、長野、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、福島の諸地方を巡遊し、 いたるところ 大 歓 迎 を う け 、 八月二十二日帰京した。この間、演説すること三十余回、危急存亡、大同団結を疾呼して、大いに人 心を鼓動し、各地の有志家は風を望んで馳せ参じた。 後藤の説き訴えるところは、各地での演説を綜合すれば、近年、侵略的な欧米諸国によってわが国の独立は危くな っており、しかも条約改正が失敗した現在、 いよいよ危うい状態である。また国内においては、重税によって人民の因 苦は増大しており、言論集会結社の自由もない。かかる内外の危機 H 危急存亡日を打開するためには、自由とか改進 とかの主義にとらわれることなく、今こそまず地方の団結を固め、地方の古老財産家 H 紳士と志士を大団結し、それ をわが国全体の大同団結にまで及ぼすべきであり、その力を背景として、きたるべき明治二十三年の国会議員選挙に は有為の人物を選び、責任政治、議会政治を実現せねばならないというのであっ(向。このように、後藤の主張は国家 の危急存亡を唱えながら、その解決を二十三年の国会開設までもちこそうとするのであり、したがってこの段階にお ける後藤の大同団結の究極の目標は、国会開設に対応する責任政治の擁立であり、議会政治のもとにおいて活躍する 政党日談会政党の団結であったということができよう。かくてこの運動に参加したものは、﹁少壮活液の詑よりも寧

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ろ県会議員財産家並に他の老成着実の士﹂が主力であり、後藤は過訟な壮士の自主をすら求めている。このことはか 大 同 団 結 運 動 と 談 会 政 党 の 成 立

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東 t r - v e ・ 法 戸4 寸ー ( 口 ) ﹁政党の如きも必ず中人以上の産を有する者を以て之を組織すべし﹂としていた後藤の意見とは合致した が、この運動はもはや前年のきわめて戦闘的であった三大事件建白運動とは異質のものとなっ︿問。後藤にすれば、い ね て か ら 、 わば制限選挙のもとにおける議会政党を目差す大同団結運動であったといえよう。 このような後藤の呼び掛けにたいして、当時の民衆

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殊に老成着実の士ーーが熱狂的ともいえる反応を示したの には、三つの理由を挙げることができよう。第一は、保安条例の弾圧によって反政府勢力の指導体制が崩壊し、民衆 ﹁後藤は維新の功臣として現内閣員の上に出づと知られ、而して其の風采、態度 及び弁説、皆な世の待望に背かず、少くとも地方人士が一代の英傑と想像する所の如し}というような後藤の個人的 はその去就に迷っていた。第二に、 魅力。第三に、後藤の東北巡遊にみられるように、大同団結の運動形態は主として各地方の老成若突の士が料亭で懇 親を結び、あるいは演説を行なうなど政府にたいする直接行動がなく、いわば温和な手段がとられた結果、従来あま り過激な行動を好まなかった老成章夫の紳士までもこの運動にとびついたのであ印。 このような民衆の圧倒的支持のもとに、大同団結運動はさらに展開していった。東北より帰京後、 ついで後藤は九 月十五日より関東一帯││埼玉、群馬、神奈川の諸地方を、十月七日には千葉を巡遊し、それぞれの懇親会において 大同団結の必要を力説したが、これらの地方においても民衆の反響はきわめて大きく、 る﹂勢いを示した。このまさに燃えひろがっていく大同団結運動に対抗せんとするこつの動きがあった。 方の中等以上の財産家を結合せんとする、井上馨農商務相を中心する自治制研柑私的が、十月五日創立されたことであ り、他は、国家主義者である枢密顧問官烏尾小弥太を中心とする保守党中正純抗、十一月立党大怠を発表したことであ ﹁大同団結熱は殆ど全国に法 一 つ は 、 地

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( お ) る。だがこのいずれもその後大きな勢力となることはできなかった。このような状況のもとにおいて、大同団結運動 は関西方面までも一層発展していったのである。 十月十四日には、大阪において栗原亮一、柏木枝盛、杭田虎彦、菊地侃二らの斡旋によって、全国の有志懇親会が 聞かれ、三府三十二県から集まる同志三百八十五名、それぞれ大同団結の必要を論じ、 ﹁二十三年三月を期し大同団 結を謀るが為に﹂京京あるいは横浜において全国有志大懇親会を開くべきこと、出席の有志はそれぞれ知県の後は、 ( 日 ) その地方の﹁糾合体﹂の創設あるいは拡充に尽力すべきこと、明春ふたたび会合することなどを決定した。なおこの ( 初 ﹀ 会合によって、従来長らく孤立していた九州の有志と連絡を通ずることができたのは大きな収穫であった口かくて十 一一月二十八・九の両日、熊本県山鹿において九州の同志の会合が聞かれ、集まるもの四十余名、福岡の多田作兵衛が まず全国各地での状況および板垣、後藤に面会した内容を報告し、さらに秋田から来会した大久保鉄作が京北地方の 状況と大同団結の必要を述べ、大阪より派遣されてきた菊地侃二もまた大阪の状況と大阪と九州との述合運動の必要 ついで大同団結のために委員を出すこと、大会を二十二年一月上旬熊本で聞くことなどを決定した。同じ を 説 い た 。 ころ茨城県でも有志の大会があり、また新潟においても東北十五州の有志大会が聞かれた。このように、 ﹁ 大 同 団 結 の勢力は既に関東の野を奄有し、東北を席巻して北陸に及び、関西之に風鹿し、九州も亦た震動するに至り﹂今や全 国いたるところで大同団結の戸が高くなった。 このように、大同団結運動が全国的に高揚しているとき、後藤の機関雑誌﹁政論﹂が、その第十一号に掲げた﹁政 ( 幻 ) 治家の責任﹂と題する論文によって政府の忌詳に触れ、十一月七日、治安を妨害したとの理由をもって、発行停止の 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立

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京 洋 法 学 四 上、発売を禁止され、さらに十二日にはまず発行人、編輯人、印刷人の三名が拘引され、十四日にはその記者である ( 討 ) 大石、安岡、甲藤らもまた抑えられた。この弾圧によって、後藤は再びその左右を奪われることになり、また同じ頃 私的な一九一やか起ったにもかかわらず、﹁阪然として再び起ち、﹂宋風をついて十二月七日、京海北陸地方遊説の途につ いた。海路四日市にいたり、三重、愛知、岐阜、福井、石川、宮山の諸地方を巡遊して各地で大歓迎をうけ、明けて 二十二年一月二十五日京京に帰つ一

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こんどの遊説も懇親会を通じて行なわれ、また集まったものも主として造成若 りお笑 」 乙 の と 士 い で う あ 状 つ 況 た で が あ 、 ザ コ 7こ ﹁ 氏 の 足 跡 の 印 す る 処 は 、 恰も春草の春雨を待ちて叢生する如く大同団結の勢は全国を傾到せ 以上、本節においてみてきたように、二十一年の終りごろまでの状況は、落問政府の側においては、隠長の提携を 強 め な が ら 、 ﹁国会開設の期最早綾に一年有余に迫りしを以て、﹂ ﹁種々之が準備に怠りなく、枢密院に於ては窓法 制定会議真最中﹂であり、在野勢力の側においては、後藤の議会政党を目差す大同団結の主唱のもとに、 ︿ お ) 走するもの日夜其多きを加ヘ、﹂かくて﹁政治社界は一層動揺の景況﹂であった白要するに、政府側も、在野勢力側 ﹁ 政 論 に 奔 も、立窓制への胎動を続けていたのであり、 したがって、翌二十二年二月の憲法の発布は、政治状況に大きな街撃を 与えることになるのである。 ハ 1 ) こ の 秘 密 出 版 事 件 の 精 細 に つ い て は 、 板 垣 退 助 監 修 ﹁ 自 由 党 史 ﹂ . ﹁ 明 治 的 人 間 像 │ │ 星 写 と 近 代 日 本 政 治 ﹂ 入 三 l 九 一 一 只 参 照 。 ハ2 ) 大 限 入 閣 の 経 過 に つ い て は 、 渡 辺 幾 治 郎 ﹁ 大 隈 重 信 ﹂ 一 七 六

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一 入 一 頁 、 あ る い は 、 (岩波文庫版﹀下 四 五

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七 頁 、 あ る い は 、 中 村 菊 男 ﹁ 大 限 供 人 十 五 年 史 ﹂ 二 巻 七九│

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八 二 頁 参 照 。 ハ 3 ﹀枢密院設置の趣旨および経過については、﹁伊藤博文伝﹂中巻五入四

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五 九 O 頁参照。なお﹁枢密院官制﹂の前文に、 ﹁朕元勲及録達ノ人ヲ選ミ、国務ヲ諮詞シ、其啓沃ノ力ニ侍ルノ要ヲ祭シ、枢密院ヲ設ヶ、朕カ至高駅間ノ府トナサント ス﹂とある。かくて選ばれた枢密顧問官のほとんどは薩長土肥四謡の出九巧者であった。また怒法草案の容誌にあたっては、 その容認内容を公開せず、厳重に秘密を守るよう要請された。伊藤の開院式直後の各駅間官にたいする開会の辞﹁伊藤博文 伝 ﹂ 中 巻 五 九 五

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六 頁 参 照 。 ( 4 ﹀ 板 垣 退 助 前 お 下 三 四 五 頁 。 ハ 5 ) これよりさき、改造党は東京にて四月七日に演説会、八日に大会を閃いている。この演説会ではやがて閃かるべき国会に ついて盛んに論ぜられている。また四月八日には旧九州改進党(旧自由党系)が熊本にて懇親会を開き、全国同盟の大会を 東京に開くことを論議している。以上については、指原安三﹁明治政史﹂明治文化全集九巻正史編上巻五五六頁参 照 。 この福島での懇親会の模様については、板垣退助前掲下三五

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一頁、あるいは指原安三前掲五五七頁参照。 この会合にたいする官窓の警戒は厳重をきわめ、したがって政治についての論議はほとんど行われず、事務的なことのみに つ い て 議 決 さ れ た 。 ( 6 ) ﹁政論﹂発行の趣旨に、﹁凡て国民は其政府の立憲政体なると、否とを論ぜず、其一法一令の出る毎に之を自分自身の有 様に照らし、社会一般の事情に照らして、深く其得失を考索し、其喜ぶべきものは之を喜び、変ふべきものは之を史ひ、論 弁是非すべきものは之を論弁是非し、以て其正に帰せんことを求めざるべからず﹂と述べ、政府批判を人民の当然なすべき ところ(本務﹀としている。大津淳一郎﹁大日本窓政史﹂三巻九五

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六 頁 参 照 。 ( 7 ) この遊説旅行の精細については、指原安三前掲王六二 1 五 入 一 頁 参 照 。 ( 8 ) かかる主張は、例えば、七月二十四日の山形における後藤の演説にみることができる。板垣退助前拘下三五三

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三 六 三 頁 参 照 。 ( 9 ﹀前述のように、前年の三大事件延白運動においては、具体的な三問題について直ちにその実行を政府に迫ったのであった。 大同団結運動と議会政党の成立 五

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東 洋 法 学 _,__ J、、 その後藤の主張においても、三問題について指摘はしているが、きわめて粗雑であり、しかもこの三問題は単なる手段にす ぎ な か っ た 。 (叩﹀﹁政論﹂第七号(二十一年九月六日﹀における﹁東北諸州の大勢﹂の中の一節、堀江英一・遠山茂樹編﹁自由民権期の研 究﹂三巻二=ニ頁参照。 ハロ﹀鈴木安政編﹁自由民権運動史﹂一六九頁。 (ロ﹀井上清教授は﹁﹃大同団結﹄は、もはや前年のような戦闘的な民主戦線の統一の復活ではなく、自由主義的傾向をもった、 落問政府に不満の各地各派のゆるい連合で、政府と同じ階級的基盤に立つ野党連合といえる﹂と評価している。井上清﹁条 約改正﹂二ニ三頁参照。 (日)三宅雪嶺﹁同時代史﹂二巻三四三頁。 ( U ) 井 上 清 前 均 一 三 二 l 三 頁 参 照 。 ( 日 ﹀ 三 宅 雪 嶺 前 拐 二 巻 三 四 九 頁 。 (日﹀自治制研究会については、大津淳一郎前掲三巻一 O 二│四頁、あるいは信夫清三郎﹁明治政治史﹂六│八頁参照。 (げ)保守党中正派については、大津淳一郎前掲三巻一 O 四

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一一七頁、あるいは指原安三前拘五八七

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九 頁 参 照 。 (四)自治制研究会は、井上の計画によれば渋沢栄て藤田伝三郎などが運動貨を受け持つ予定であったが、これらの実業家た ちは政治に冷淡で、その運動費の支出を跨路したため、この運動も政党的役割を果さないままで終わった。また保守党中正 派は、その中心人物たる烏尾小弥太が陸軍中将として軍籍にあることから、大山陸相に諭され、発表した立党大芯から記名 を取り消すなどのことがあって、勢力を削がれた。 (四)この怒親会の模様については、板垣退助前掲下三六五│三七二一具、あるいは指原安三前向五八四 l 五 頁 参 照 。 (加)殊に大阪の有志と九州の有志との聞に連合運動の話合いが進められ、菊地侃二が大阪の有志を代表して、九州熊本県での 会合に出席することになった。指原安三前掲五八五頁参照。 (幻)この会合の精細については、板垣退助前拘下三七二 l 四 頁 参 照 。 ( 泣 ) 板 垣 退 助 前 掲 下 三 七 五 頁 。

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(幻﹀その論文の一節に、﹁我国現時の政府は藩閥情実を以て相成りたるものにして、国会開設後と雌とも容易に他へ政権を該 るへきものにあらざれば、在野政治家の責任として、予て二十三年後の事を付度し、必ずや当局者をして諮問内閣の弊買を 破壊して政党内閣の制度を行はしむべきの埠仰を為さざるべからず﹂とある。指原安三前掲豆入七頁参照。 ハ M ) 二十二年二月八日にいたり、それぞれ判決がくだった。板垣退助前拐下三七五│七頁、あるいは、指原安三 五八六

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七 頁 参 照 。 (お)熱愛していた第三女柑子(若山絃吉に嫁す﹀の病死をいう。板垣退助 (お)この遊説の精細については、指原安三前掲五九

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三 頁 参 照 。 (幻﹀鈴木安蔵一縮前掲二二九頁。 (お)指原安三前拘五八九頁参照。 fJij i,f.j 前拘 下 三 七 七 頁 参 照 。

六、大同団結運動の分裂

一般国民にはなんら知らされることなく、二十一年五月以来、枢密院において討議されてきた憲法草案および附同 諸法案も、十二月半ばまでにほぼその討議を終了し、翌二十二年二月十一日には、大日本帝国憲法が発布されが o 全 ( 2 ) 国各地は歓喜にわきかえった。このいわゆる明治憲法は、いうまでもなくプロイセン憲法を多分に参考にして、天皇 ら 制 約 し た 、 の強大な大権を中心とし、国民の権利を著しく制限したものであり、国民の意思が政治に反映することを租々の面か ( 3 ) の憲法であった。しかも、かかる憲法の運用方針につい 外見的立志主義 ハ

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の F O 山 口 付 。 ロ ω E c t o g -m E C ω ) ては、黒田首相が述べているように、 ﹁憲法は臣民の敢て一辞を容る L 所に非ざるは勿論なり。惟施政上の芯見は人 大同団結運動と議会政党の成立 七

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せ了 / 1、. 在 ﹁ 、 町J ‘ . 法 主主主. . モF -ji、 其合同する者相投じて団結をなし、所謂政党なる者の社会に存在するは亦情勢の免れざる所な り。然れども政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可ら会とし、ま 々 其 所 説 を 異 に し 、 た伊藤枢密院議長も、 ﹁我国に於て主権は之を至尊に帰するを以て、天皇陛下は全国を統治し玉ひ、宰相は天職を行 はせらるふに付ての柿弼たるのみ。而して其補弼たるの任に至ては一定の分義なかるべからず。十五君主は臣民の上に 位し、各政党の外に立つものなり。故に一の党派の為に刺を与へ他の党派の為に害を与うるの政治を施すべきものに あらず、則不偏不党ならざるべからず。又宰相は可否献持して天職を補佐し奉るものなるを以て、政府をして常に党 ︿ 5 ) 派の左右する所たらしむるは亦甚だ容易ならず﹂と述べているように、欽定憲法であり、天皇主権であるこの憲法に あっては、たとえ政党の発生が不可避であるとしても、いわゆる超然主義(超然内閣)によって運用されるべきであ るとしたのであ幻 v すなわち在野勢力が多年主張してきた政党内閣制

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を排斥し、在野勢力との対決 を宣言したものにほかならない。 このように落問政府は、その支配体制を整備して、在野勢力との対決を決意したのであったが、他方においては、 憲法発布と同時に大赦令を発して、かつて福島事件、大阪事件、保安条例違反事件、秘密出版事件、新聞条例違反事 件などによって下獄していた人々を釈放しが。この措置は、河野広中、大井憲太郎、片岡健吉、星写、大石正巳など の指導的な元自由党員を反政府側に復帰せしめ、再び反政府勢力は多士済済となり、また政府の新しい支配体制に対 応するためにも、大同団結運動は再組織されんとする勢いを示した。三月十六日には来京で大同団結派は、出獄した 大井、星、片岡らを加えて会議を聞き、 ﹁一、来る四月二十日を期し、各地の委員を招集し、 一定の運動方向を定む

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( 8 ) ること。二、来る五月十日、大会を聞くこと。三、委員を各地に派遣すること﹂などを決定した D だがこのように大 同団結運動の再組織化がまさに結につかんとするとき、 一大突発事が起こった。すなわち後藤公二郎の入閣問題であ る 。 ( 9 ) 三月二十二日、突如後藤は黒田内閣に逓信大臣として入閣した。この後藤の伴食大臣としての入閣の事情について ( 日 ) は今もって十分明かではないが、黒田が後藤を入閣せしめようとした意図は、さきに改進党系の首領たる大限を入閣 せしめ、今また大同団結運動の首領たる後藤を入閣せしめることによって、﹁以て政府の基礎を琵回し、併せて民心 ( U ) ( ロ ) を収撹せん﹂としたのであり、またこれによって高騰している大同団結運動に大打撃を与えようとしたのであった。 また他方、機会主義的な野心家であった後藤にしても、入閣の勧誘は一つの誘惑であったと想保されるが、それだけ で な く 、 ﹁政府若し真に立憲政体を実施するの意あらば、旧自由党と雄も最早粗暴過激の挙動に及ばざるべきは余の 誓って保証する所なり、現に後藤の如きも必ず野に在るべきものにあらず、政府若し赤心を布きて之を迎え共の抱負 ( 日 ) を仲ばさしめなばために官民の感情を調するに於て頗る効力あるべし﹂と考える板垣がこの旨を黒田首相に伝え、ま た後藤にも勧めたのであった。 後藤は入閣に当って、 ( M ) ﹁大同の主義を貫徹するが為に、象二郎自ら内閣に入ること斗はなれり﹂と述べ、今後は内 悶の内部から大同団結運動の目的実現のために尽力せんとしたのであるが、後藤のこの入閣は、従来この運動のため ( お ) に努力してきた人々をいたく失望せしめ、運動を裏切ったものとして痛憤させたロかくて前述のように、元来漠然と した主張を掲げ、また後藤を中心として進められてきた大同団結運動は、やがて分解過程を歩むことになるのである。 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 九

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四 O ( 日 目 ) 後藤は入閣にあたって、大同団結運動の後事を托すために、板垣の出馬をえようとして、これを河野広中に依頼し 京 洋 法 学 ついにその承諾をえたのであった。このようにその入 ( 口 ) 閣によって動揺しはじめている運動を、後藤は板垣によって収拾されることを期待したのである。だがこの問、かっ ( 犯 ) て運動の指導的地位にあった星享は外遊し、片岡健吉も故郷に帰り、大同団結派の動揺はますます激しくなった。こ た。これがため、河野は土佐におもむき、板垣に上京を促し九 のような状況のもとにおいて、前月の決定よりややおくれ、 四月二十八日、来京に大同団結派の各地の委員八十余名 が集会し、大石正巳の提案によって、来月十日開催されるはずの大会に提出すべき主義綱領および重要議案の起草委 員十二名を選ふ問。かくて三十日には起草委員会が閲かれた。 この委員会において、組織問題について論争が展開され、大同団結運動は分裂するにいたる。大江阜、鈴木昌司、 山際七司、末広重恭、稲垣示らは、後藤入閣後、動揺している大同団結派の結束を強化し、その活動を有力ならしめ るためには、明確な政策綱領をかかげる政社組織とするを是なりと主張したのにたいして、大井忠太郎、内藤魯一ら は、大同団結運動はまだ政社となるまでには成熟しておらず、しばらく各個人の親睦を目的とする非政社組織にとど ( 幻 ) め、政社組織は時期を待って行なうべきであると主張して該らず、大論争となった。この論争は、このような組織問 題をめぐる論争として展開されたのであるが、その背後には、今後の運動方針についての基本的対立があった。後藤 の入閣に憤激していた大井らは、政社とすれば﹁集会条例﹂の適用をうけ、他の政社との共同悶争は法的にできなく なるが、非政社ならば活動が自由であり、今後の統一戦線組織に有利であるとする、 いわば急進的な態度をとったの にたいして、従来、後藤を支持していた大江らは、政社という一定の枠のなかで運動を展開していこうとする、 L、 わ

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ば比較的に漸進的な態度をとったのであった。この基本的な相違のために、殊に大井らの主張が強硬なため、論争は 容易に妥協点を見出すことができなかった。この時、前述のように板垣の上京説得のために、土佐に赴いていた河野 ( 泣 ) が帰京し、大井に政社論に同調するよう説いたが、これにも頑として応ぜず、さらに五月四日の起草委員会には大井 ら は 出 席 せ ず 、 かくて遂に六日には政社派は非政社派と別行動をとるとの議を決し、また大井らもこれを承諾し、こ こに大同団結派は分裂するにいたったのである。かくて五月十日の江京中村松での大同団結派の大会は政社派によっ て聞かれ、各府県百二十余の団体よりの委員二百三十三名、その他のもの百四、五十名が集合し、政社組織による﹁大 同倶楽部﹂を設立した戸また同じ日、非政社派は柳橋万八楼に協議会を聞き、 一府十一県の各地の団体委員八十四名 ﹁各人相互ノ交際ヲ親密ニスル為メ﹂の機関として﹁大同協和会﹂を設立し、それぞれ別行動をとること が 集 ま り 、 ( お ) と な っ た 。 かかる分裂問題の最中、さきの後藤の要請と河野の説得によって、板垣返助が五月九日京京に到着した。分裂状況 にある大同団結運動の指導を懇望されたのにたいして、政社組織とするからには一定の主義をおげねばならぬ。した がっでこの際、正々堂々と旧自由党を再建してはどうか。それならばみずからその任に当ろうと主張、いザこれにた いして河野は、今や大同団結運動は分裂の危機状況にある。勿論、早晩政党を結成しなければならぬことはいうまで もなく、また政党を組織する以上は、各方面の勢力を網羅して強力な結合としなければならない D それには非常な洋 備が必要である。したがって今日はその準備を整え、来たるべき第一回の衆議院議員総選挙が終り、新選議員が決定 した時こそ、有力な政党を組織する時であり、現在は時期向早であるとして、板垣に自重を求め、なお現在の運動の 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 四

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京 洋 法 写 四 指 導 者 と し て 京 尽 留 ま ' つ っ て い 欲 に し 空 い し と く し 、き 六 り 月 に 十 懇 九 請 日 し 、 た 郷 の 里 で 土 あ

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帰 だ っカミ たぎ板 。 垣 は 主 義 な さシ C 集 団 不 満 で あ ' つ Tこ すこ め の河野らの妥請を入れず、 このように、板垣の上京によってもなんらなすところなく、再び、大同団結派に統一をもたらすことはできなかっ た。かくて従来、後藤を首領として展開されてきた在野勢力の統一戦線 H 大同団結運動も、その首領を失い、ここに 脆くも分裂してしまったのである。 ( 1 ﹀同時に、皇室典範、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令、会計法などが公布された。 ( 2 ﹀﹁明治二十二年春、憲法発布せらるる、全国の民歓呼沸くが如し。先生嘆じて日く、吾人賜与せらるるの怒法果して如何 の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先ハ J 其名に酔ふ、我国民の思にして狂なる、何ぞ此くなるやと。怒 法の全文到達するに及んで、先生通読ご遍唯だ苦祭する耳﹂幸徳秋水﹁兆民先生兆民先生行状記﹂(岩波文庫版)一却い 八 頁 。 ベルツは二月九日の日記に、﹁東京全市は、十一日の定法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じてい る。到るところ、奉祝問、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには、誰も窓法の内容をご存じないのだ﹂と述べている。 ﹁ベルツの日記﹂(岩波文庫版﹀第一部上一 O 七 │ 入 頁 。 ︿ 3 ﹀岡義武﹁近代日本政治史﹂ I 一 一 九 一 1 四 頁 参 照 。 ( 4 ) 二月十二日、地方官を集めての施政方針演説の一節、板垣退助前掲下三人五頁参照。 ( 5 ) 二月十五日、在京府県会議長を集めての演説の一節。指原安三﹁明治政治史﹂下知明治文化全集十巻正史篇下巻 三 七

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四 二 頁 参 照 。 ( 6 ) この見解は当時の藩閥政治家の支配的見解であった。同義武前向二九六頁参照。だが大限宣伝は二月二十一日、府県 会議長三十余名にたいして、﹁わが怒法について、世間では極々の説を為す者がある。或は演説に或は新聞にその不服を表 明する有様だ。けれども憲法の妙は運用如何の上にあって、法文の規定が不十分だからと云って、さのみ不服を唱ふべきで

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はない。特にかの政党内閣制の如きは、憲法文中に規定すべき筈のものでないから、明記してないが、若し政党員にして聖 上 の 御 信 任 を 得 、

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併せて世上の輿望を得るなら、勢、政党内閣の実現を見る事は、むづかしくあるまい﹂と述べ、異色で あった。﹁大隈俣八十五年史﹂二巻一七六

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七 頁 参 照 。 ︿ 7 ) 釈放された人々については、板宿一退一助前掲下三八六│七頁参照。 ( 8 ) ﹁河野控州伝﹂下巻二九頁、および前田窪山前掲三五五

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六 頁 参 照 。 ( 9 ) 二月十一日憲法発布の朝、森有礼文部大臣が、﹁不敬の大臣﹂として暴漢に刺殺された(精細は、大津淳一郎﹁大白木芯 政 史 ﹂ 三 巻 二 四 七

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二五三頁参照)ため、大山巌陸軍大臣が臨時文部大臣を兼任していたが、三月二十二日にいたって、 大山はその兼任を辞し、榎本武拐逓信大臣が文部大臣に転任し、その後任として後藤が逓信大臣となったのである。 (叩)この入閣事情の大体については、鈴木安蔵一稲﹁自由民権運動史﹂二三三

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五頁参照。なおこれによれば、黒田の旨をうけ た高知県知事時任為基(薩人)によって、まず高知にいた板垣退助の入閣が打診されたが、板垣はこれを拒絶し、その代わ りとして後藤を推したので、黒田は伊藤、大隈らと諮り、ついに後一肢を説得したのであった。 (日)鈴木安蔵前掲二三三頁。 (ロ)岡義武前掲二七六頁参照。なおまた、政府の後藤入閣の意図は、たんに目前の大同団結運動に対する対抗手段として のみならず、やがて開かるべき議会開設後の事態に対応するためのものでもあったといわれている。 (日)鈴木安蔵一絹前掲二三三

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四 頁 。 ( U ﹀三月十九日、第三火曜日、江東中村楼における﹁火曜会﹂の発会式での演説の一節。指原安三前掲四九

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頁参照 なおこの演説に先きだって、後藤入閣の可否が論議されたが、賛成二名、反対三十名であり、したがって演説が終って、こ もごも立って後藤を難詰したのであった。 ハ日﹀たとえば、横浜の山田泰造が後藤におくつた書簡にみることができる。指原安三前掲五

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二 頁 参 照 。 (日)河野は出獄後、政界に復帰しまいと決心していたが、後藤の懇話によって再び活躍することになった。﹁河野弟州伝﹂下 巻 四 l 二 五 頁 参 照 。 (口﹀﹁河野磐州伝﹂下巻 一 四 頁 参 照 。 大同団結運動と議会政党の成立 四

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京 洋 法 字 四 回 (四﹀星は四月十八日横浜を出港して外遊の途についた。星外遊の意図については、中村菊男﹁明治的人間保││星写と近代日 本 政 治 ﹂ 一 O 九

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一 一 O 頁参照。だがこの星の洋行は、大同団結派の人々から反対された。指原安三前拘六一頁参照。 ハ叩)十二名の起草委員はつぎのようである。河野広中、大井窓太郎、多田作兵衛、小林樟雄、山本幸彦、京尼平太郎、八木原 緊祉、内藤魯て稲垣示、国友重章、大江卓、大石正巳。このうち大石は辞退した。この会合では、この起立委只選出のほ か、来る五月十日の大会には一団体より三名以下の委員を出すべきことが決定された。指原安三前拘六七

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八 頁 参 照 。 (初)﹁河野磐州伝﹂下巻三五頁。 (幻)前田窪山前掲三五七頁。 ハ幻﹀﹁河野磐州伝﹂下巻三六頁参照。 (お﹀﹁大同倶楽部﹂はその規約の第一条にその目的を掲げている。﹁第一条本倶楽部ハ左ノ目的ヲ同フスルモノヨリ成立ス 第一我国独立ノ大粧ヲ竪固ニスル事。第二責任内閣ノ実行ヲ期スル事。第三財政ヲ整理シ民力ノ休養ヲ謀ル事。第四 地方自治ノ制度ヲ完全ニスル事。第五議論集会結社等ノ自由ヲ期スル事﹂だがその主義については、明確に打ち出すこと はせず、﹁政治上意見ノ小異ヲ捨テ大同ヲ取り﹂とあるのみであった。規約の全文については、指原安三前拘六九頁参 照。なお当時、大同倶楽部を構成したものは、﹁明治政史﹂によれば、 ー﹁日本人﹂﹁日本新聞﹂ノ一派 -保守派

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一│土佐帝政党ノ一派 大同倶楽部│ 穏 和 派

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大宮犬九 阪城義州 独秋菅椙 立回等同 党青ノ宮 森 一 崎 ノ派等 ー ノ 派 ー 派 急 激 派

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京板河北後大 阪垣野越藤石 ノヲ広ノ伯末 壮推中旧ニ広 士ス小自親等 京林由近旧 北樟:~ナ国 ノ推 jレ友 旧 等 一 会 自 ノ 派 ノ 由一 │一 党 派 井 派 及 上 │ 土 角政 佐 五 論 ノ 郎 派 旧 吉 ト 白 田火 由 正 曜 党 春 会 等ノ 多 数

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指 原 安 三 前 掲 七 一 頁 参 照 。 ("は)大同協和会は、勿論﹁相互ノ交際ヲ親密ニスル為メ﹂(大同協和会々則の前文、会則の全文は、指原安三前拘七 0 . 頁 参照)の集団であり、政治目標をなんら掲げていない。なお当時、大同協和会を構成したものは、﹁明治政史﹂によれば、 一 │ 旧 自 由 党 中 壮 士 派

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旧有一館派│大赦令ニ拠リ出獄セシ人ノ多数│大井内藤ノ一派 大同協和会

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急激派

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一 ﹁栃木茨城神奈川千葉埼玉愛知東京ノ或一部│東京倶楽部ノ多数板垣ヲ推ス諸派 指 原 安 三 前 掲 七 一 頁 参 照 。 (お)なお政社派および非政社派の地域的分布については、庄司吉之助﹁大同団結運動と政党成立﹂一一一七

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一三九頁参照。堀 江 ・ 遠 山 一 桁 ﹁ 自 由 民 権 期 の 研 究 ﹂ 三 巻 所 収 。 (お)前田蓮山前掲三五七 l 入頁。﹁河野磐州伝﹂下巻三六頁参照。 (幻)﹁河野磐州伝﹂下巻三六

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七 頁 参 照 。 (お)この上京中、なお板垣にたいして政府より最初の貴族院議長に就任して欲しいとの内意があったが、これも承諾しなかっ た。﹁河野磐州伝﹂下巻三七

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八 頁 参 照 。

β、 ι」

前述のように、二十二年五月、分裂した大同倶楽部と大同協和会とは、それぞれの活動を展開していくことになっ たのであるが、やがて再び共同戦線を組むべき問題が発生した。すなわち大隈重信の条約改正にたいする反対運動で あ る 。 大限は二十一年二月外務大臣就任以来、その功をおさめんと、条約改正問題に没頭してきたが、同年十月にはその 大同団結運動と議会政党の成立 四 五

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廿T /l、 洋 法 品 寸 四 /'¥ 成新一を得たので、各国別の交渉に入った。ドイツ、 ア メ リ カ 、 メ キ シ コ 、 イ ギ リ ス 、 フ ラ ン ス 、 ロ シ ア 、 イタリアな どと交渉に入ったが、イギリスを除いては、交渉は順調に進んだ D 大隈を支持する改進党系の諸新聞は大隈の功績を ( 2 ) たたえ、条約突の内容を少しも知らされていない国民も、完全対等条約の結ばれるのも、もうすぐだとばかり思って ( 3 ) いた。ところが、二十二年四月十九日の﹁ロンドン・タイムス﹂に大限突の内容が掲載され、それが五月末から六月 初めにかけて新聞﹁日本﹂に訳載されると、その内容がかつての井上案より多少の進歩はあっても、その本質U不平等 条約 H において同じではないかとし、また最初の期待が大きかっただけに、世論 H 殊に新聞の獄然たる反対がおこっ ( 4 ) た。当初、反対の急先鋒は新聞﹁日本﹂に拠る国松主義者であったが、七月に入ると、七日にはかかる売国条約の締 結を座視するに忍びずとして、大同協和会が条約改正中止の建白を元老院に提出した。この廷白に当って、大同倶楽 部にも共同闘争を申し入れたが、 ﹁大同倶楽部にあっては、後藤伯が内閣に其の椅子を占めて居る関係もあり、有も 之に反対する上は、必ず大波淵を拾き起すと同時に、其の運動は飽迄徹底しなければならない。そこで初めは大いに自 ( 5 ﹀ 重し徐かに大勢の推移に注意し、軽挙を戒めて﹂この申し入れに加わらなかった。 一方、大限派の諸新聞 l 殊に報知 新聞は懸命に大限突の弁護につとめ、ここに新聞に雑誌に演説会に賛否両論が入りみだれ、騒然たる状況を呈した。 ( 6 ) ようやく態度を明らかにした。かくて八月十五日には、大同倶楽 大同倶楽部も七月下旬には条約改正中止派になり、 部、大同協和会、保守中正派(烏尾小弥太のひきいる党)、政教社および新聞﹁日本﹂社友、九州団体連合(熊本の紫 浜会、福岡の玄洋社の連合体) の五団体より各三名、 日本、政論、京京新報、文京公論、部、絵入自由、保守新論、 京 京 朝 日 、 日本人の各社より各一名計二十五名が神田開花楼に集合して、非条約改正委員会が閃かれ、今後の反対運

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動の指導部を形成した。同月十八日には全国非条約改正論者聯合大懇親会が関かれ、また二十五日から三日間は全国 有志聯合大演説会が行われるなど、反対の運動はまずまず激しくなっていった。またこれに対抗して大限派も防戦に ( 7 ) 努めたが、反対の勢力の方が強かった。しかもついに反対の戸は政府の内部からも起り、まず内閣法制局長官井上毅が 外人法官任用は、憲法第十九条﹁日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務 ニ就クコトヲ得﹂とあるに違反するとして、七月二十三日辞表を提出した。その後、政府内部においても、中止論、 反対論が盛んとなり、後藤はいうにおよばず、伊藤、井上啓、山県、西郷、松方、大山らも中止論に加担し、大限は ( 8 ) 黒田を唯一の味方とするのみとなった。しかもこの間、 五団体連合の指導する反対運動は、 京京に各地にますます 餓烈となっていった。こうして十月十五日には、最後の決を与えるものとして御前会議が聞かれ、断行か中止か激論 が霊ねられたが、決定しなかった。十月十八日にも会議が開かれ、それを終って大限が外務省にかからんとした時、 玄洋社員来島恒喜に襲撃され、 片足を失うという事件が発生した。 かくて事態は急転し、 政府は条約改正中止に決 し、同月二十四日内閣は総辞職した。このように大隈の条約改正は内外からの反対のために挫折せざるをえなくなっ たのである。この結果、同月三十日、五団体の非条約改正連合はその目的を達したとして解散した。こんどの共同戦 線は、国辱的条約改正反対、すなわち国経を守るための闘争であり、また主として国松派(新聞﹁日本﹂の活躍に典 型的にみることができる)の主導のもとにおこなわれたためもあって、その後運動は発展せず、このように解体して ︿9 ﹀ しまったのであり、大同倶楽部と大同協和会との関係も、また分裂の状態にもどってしまい、 ﹁両派ノ問販モスレハ 恥際ヲ生スルノ紋アリ﹂ D 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 四 七

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京 洋 法 字 四 八 ( 印 ) このような﹁兄弟踏-一閲クカ如キ﹂状況を憂えて、板垣は、十月、書を各地の旧大同団結派諸氏に送り、その一致 団結を求め、またかねての主張である﹁同一主義ノ団体﹂の必要なることを説いた。この時、条約改正問題が一段落 を告げるにいたったので、大井憲太郎は、板垣をたてて自由党を再建せんとする希望をもって、十一月十一日、土佐 に板垣を訪ね、板垣の決起を要請した。そこで板垣は使者を東京に送り、河野広中に自由党再建につき協力を求めた。 だが河野は以前と同じように、旧自由党員のみによる政党の結成は現在の段階では意味がないとし、また国民的大政党 を組織するには未だ時期熟さずとして、板垣の自重を重ねて要望した。しかるに板垣は、十二月十七日を期して、大 阪に旧友懇親会を聞き、新政党組織のことを協議したいから参集して欲しい旨の書簡)を全国の旧自由党の同志に発し た。このような政社派と非政社派を統合して一大政党を結成せんとする板垣の計画にたいして、大同倶楽部では大挙 してその懇親会になだれこみ、懇親会の主導権を握るべく、盛んに壮士を集めた。これに対抗して大同協和会も壮士 を集め、それぞれの勢力が大阪において対峠することとなった D かかる対立的状況のもとでは到底、自由党の再興は 覚束無いとみた板垣は、愛国公党という名称のもとに再出発しようと決意したが、大同協和会は飽くまでも自由党を ( 臼 ﹀ 固執して該らず、板垣と扶を分かち、遂に旧友懇親会に出席しないことに決した。かくて十二月十九日、旧友懇親会 は大阪支成郡桃山産湯楼において大同協和会の欠席のまま閃かれ、 五百七十余名が参会した。この席において板垣は ﹁大同団結の下には大同倶楽部大同協和会の二派あって殆と氷炭相容れさる勢あれば、大同団結を変して愛国公党と 為し、旧怨若くは行掛り等の事は全く水に流して将来自由主義の運動を為すことに致し皮・

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の主旨を述べた。この 愛国公党設立の提議にたいして、大同倶楽部は、なんの反応も示さず、ただ、聞きおくというのみでその可否を論ぜ

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ず、したがって旧友懇親会はほとんど平穏のうちに散会した。同じ目、大同協和会は別に同志懇親会を今宮商業倶楽 部に開き、集まるもの二百余名、自由党を組織することを決定した。翌二十日には大同倶楽部が臨時総会を中の島洗 心館に聞き、会するもの二百五十余名。 ﹁大同倶楽部の名称を変換し以て愛国公党と為すや否やの議題を捉出し其可 否を衆員に問ひしに、十九名に対せる八十二名の多数を以て否決﹂し、また﹁自今自由主義を執るの可否を問ひしに 満場総起立を以て可決﹂した。かくて板垣の政社派非政社派統一計画は失敗に終わり、自由主義者は三派 l 河野を中 心とする大同倶楽部、大井を中心とする再興自由党、板垣を中心とする愛国公党

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に分かれ、それぞれ政治団体を組 織するにいたり、さらに分裂を遂げたのであった。 一月三日、板垣は﹁愛国会の趣己最﹂を発表して、広く全国の同志に訴え、続いて関西各地 を遊説した。再興自由党は、同月二十一日江東中村楼にて結党式を挙げ、立党趣意書および規則を決定し、ついで二 月二十一日より二十三日まで自由党総会が同所にて聞かれ、主義綱領党議の決定をみた。この党議において、具体的 二 十 三 年 に 入 る と 、 な政策を列挙し、政党内閣の実現、対等条約の締結、一一一口論の自由、選挙権の拡張、税制の改正など、進歩的な政策を 掲げ、二月末ごろには党員八百十四名を獲得した。大同倶楽部は、愛国公党が関西地方において次第に勢力をうるに したがい、いずれに加担すべきかその去就に迷うものが多くなったため、各地の組織を強固ならしめる目的をもって、 河野らをして遊説せしめ、また五月には来たるべき総選挙にそなえるために大会を聞くことを予定し、その準備を進 ( 却 ) めていた。愛国公党では、板垣が一月以来、近畿、中国、四国の各地を遊説していたが、ようやくその参加者も増加 してきたので、四月一日には﹁愛国公党創立事務員﹂の名をもって、来たる二十五日、東京において結党式を挙行す 大 同 団 結 運 動 と 議 会 政 党 の 成 立 四 九

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京 洋 法 ~ 寸ー 五

ベく通知を発し、また板垣も近江から福井、三重などを遊説した後、四月二十五日には入京した。この時に当って、 ﹂の三派を合同せんとする動きが現われた。 すなわち、板垣たちの愛国公党が結党式の挙行を発表するにいたって、板垣は本来自由主義者を合同する意思をも っていたのではないか、しかるに今や確然と別の党派を立てるのは不可であるとし、その結党式を妨害せんとする大同 ( 幻 ) 倶楽部や自由党の一部壮士があった。かくて一大椿事の勃発をも想像されるにいたったので、当時、横浜に関居して いた旧自由党の領袖中島信行は、竹内網、加藤平四郎と謀り、三派の調停に乗り出し、さらに京浜問に散在した旧自 由党関係の青年団体│横浜住民倶楽部、青年自由党、平民同盟会、自主館、青年自由倶楽部、それに栃木県有志とも 協議して、青年団体に調停運動を依頼した。四月十五日には各団体が集合して、 ﹁板垣伯の上京あらば直に迫って 先つ該結党式の延期を詰ひ、更に三党合併論を唱ヘ、自由大同愛国の三名称を棄て一の党名を撰ひ以て自由主義各派 合同一致の輿論を吾輩各青年団体に於て喚起すヘし﹂とし、さらに十七日には各団体より三名の委員が集まり、 年各団体ヲ合セ之ヲ調和青年同盟会ト名称ヲ附シ﹂談判委員などを決定しに。二十六日には、上京してきた板垣の賛 ﹁ 青 ついで大同倶楽部、自由党、愛国公党のそれぞれと交渉に入った D 大同倶楽部は予定通り五月四日、江京中 村楼に大会を聞き、党議を決定し、五日には合同問題に当るべき七名の協議委員を選出した。また愛国公党は予定よ りやや後れ五日、組織大会を木挽町厚生館に開き、宣言書を発表し、ついで三党合同委員七名を選んだ。自由党にお 成 を え 、 いても、七日常議員会を聞き、 八日には議員総会を開催し、合同問題を協議するための相談員七名、その補欠員五名 を選出した。このように各党において、合同を協議するための委員が確定したので、各委員が集合してこの問題を討

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議することになり、ここにいたって調和青年同盟会は以後団体としての運動をやめ、それぞれ個人として活躍するこ ととなった。かくて五月十四日、左の委員および仲裁人が会合した。 大同倶楽部

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河野広中、稲垣示、泣藤秀去、 八木原繁祉、多旧作兵街、鈴木霊述。 自由党 l 新井章吾、山岡泰造、長坂八郎、中島又五郎、水島保太郎、山川善太郎、宮田誠吉。 愛国公党 l 片岡健吉、小林樟雄、植木枝盛、鵜飼節郎、塩田央造、渡辺小太郎。 仲裁人│中島信行、竹内綱、加藤平四郎。 討 議 の 結 果 、 ﹁従来存在スル三派ノ政社組織ヲ解キ吏-一相合シテ一政党ヲ組織スル事﹂ ﹁右合同ノ上成立シタル政 党ハ庚寅倶楽部ト称シ共同団体トナシ首領ヲ置カサル事﹂﹁庚寅倶楽部ハ自由主義ヲ執持スル事ヲ表白スル事﹂などを 決定し焔 v ついで各党からそれぞれ三名の事務委(郎、が選出され、その九名によって庚寅倶楽部は運営されていくこと になった。六月三目には委員会を聞いて庚寅倶楽部規則を定め、同月十七日には、自由党派人名、愛国公党派二十九 名、大同倶楽部派四名、計四十一名を庚寅倶楽部員として、政党組織の届出を行ない、ここに三派の合同が形式的に は完成した。だが当時は七月一日に行なわれる第一回衆議院議員総選挙の選挙運動中であり、三派出身の候補者はそ れぞれ旧名称で立候補していたので、選挙の終了するまで、三派は的?を延期した。 このように、大同団結運動の分裂後、足並みのそろわなかった旧自由党系諸勢力も、ようやく総選挙を前にして合 同し、やがて閃かるべき帝国議会の開設による新しい政治状況に対応せんとする胎瓢

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みせるにいたったのである。 大 同 団 結 辺 勤 と 議 会 政 党 の 成 立 五

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東 洋 法 学 五 ( 1 ) その内容については、井上清﹁条約改正﹂一四O│二頁参照。さきの井上襲来と比較すれば、法権については相当の進歩 がある。第一に治外法枢の存続期間が十二年より五年に短縮され、また外人裁判官制の期間も十七年から十二年にちぢめら れた。釘二に井上采では外国人が原告たると被告たるとを問わず、外人にかかわる事件はすべて外人判事が多数を占める裁 判所で取り扱われるとされたが、新案では外人が被告たるときのみに外人裁判が行なわれる。第三に井上来が大審院、控訴 院および松浜と神戸の始容裁判所に外人の判事および検事を置くとしたのを、新来では大容院に判事のみを百くとした。第 四に井上果では日本の法典を﹁泰西ノ原理﹂により編纂し、外国の承認を得べしとあったが、新宗はたんに法典を編纂し公 布することをあらかじめ宣言しただけで、外国の承認をもとめることもない。なお大隈の外交の基本原則は、列国共同会議 方式を避けて国別談判方式をとり、強硬主義をもって臨んだ。また国民にたいしては秘密外交の態度をとった。 ( 2 ) メキシコとは二十一年十一月三十日、完全な相互対等主義による修好通商条約を結ぶことに成功した。それは二十二年七 月十七日公布された。指原安三前掲八四│六頁参照。 ( 3 ﹀その内容については、指原安三前掲八一!二頁参照。 ( 4 ﹀﹁当時日本新聞に於て条約改正論熱度表なるものを製せり。而して自ら言ふ、日本は実に沸騰の極全く気化して張力の当 るへからさる股熱蒸気となりしか故に此中に掲けすと、其表左の如し。但し表中氷点の部に列記せるものは未た黙して言は さるものにして当時或は之を筒井主義と云ふ。﹂ 者論堅攻│ │者論護弁 重新開要公論 訪 日 報 知 新 聞 勝 点 政論関西

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指 原 安 三 前 掲 八 三 頁 。 ( 5 ) ﹁河野控州伝﹂下巻五五頁。 ハ 6 ) 河野が後藤に、反対運動に同意して欲しいと相談したところ、後藤は明白に賛成はしなかったが、黙認の態度をとったの で、反対運動を展開することとなり、最初に七月二十八日、久松座において反対の演説会を開いた。﹁河野磐州伝﹂下巻 五 六

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七 頁 参 照 。 ( 7 ﹀条約問題について、﹁九月三十日元老院の調査を見るに其数左の如し。 建 白 書 数 三 O 五 人 員 六 三 、 六 一 六 中 止 論 建 白 一 八 五 人 員 五 六 、 八 五 七 断 行 論 建 白 一 二 O 人 員 六 、 七 五 九 ﹂ 指 原 安 三 前 掲 九 九 頁 参 照 。 ( 8 ) このように、政府首脳部のほとんどが反対にまわったのは、大限の条約改正成功によって従来の諮問勢力が打開併を受ける のを恐れたためであるといわれている。井上清前掲一五六照参照。薩派の首領ともいうべき黒田が最後まで大限を支持 したのは、大限を入閣させる際、条約改正を大隈にまかせると約束した手前、大隈を見殺しにするわけにはいかなかったの である。前田蓮山前拐三六三頁参照。 ( 9 ﹀井上清前掲二ハニー五頁参照。 (叩)この書簡の全文については、指原安三前掲一 O 四

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六 頁 参 照 。 (日)この呑簡の全文については、﹁河野磐州伝﹂下巻七 O 頁 参 照 。 ハロ)大同倶楽部は、近畿、北陸、山陽、山陰方面の同志を糾合し、大同協和会は、三多摩、神奈川、名古屋の有志を集めた。 ﹁河野砦州伝﹂下巻七六

l

七 頁 参 照 。 (日)大同協和会が出席しないことになったのは、頭数において到底、大同倶楽部に勝つ見込みがなかったことにもよるといわ れている。前困惑山前掲三六五頁参照。 ハ M ﹀指原安三前拘一一九頁参照。 大同団結運動と議会政党の成立 五

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京 洋 法 主主. :子 五 四 (日﹀指原安三前掲一二四頁参照。 ハ叩山)愛国公党をまず構成したものは、板垣の側近にある人々 1 4 1 1 片岡健吉、小林樟雄、栗原亮一、江口三省らーーと兵庫県の 県会議員(議長石田貫之助ら)たちであった。 (げ﹀その全文については、大津淳一郎﹁大日本憲政史﹂三巻三九六│四 O 五 頁 参 照 。 ハ四)その全文については、大津淳一郎前掲三入五

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七 頁 参 照 。 (四﹀その全文については、指原安三前掲一五四│五頁参照。なおこの決定は、来たるべき総選挙に臨むための主義政策の 発 表 で も あ っ た 。 (初)その精細については、大津淳一郎前掲四 O 五

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六 頁 参 照 。 (幻﹀このように結党式を妨害せんとしたのは、大同倶楽部では石川盈進社であり、自由党では青年自由倶楽部、自主館の壮士 で あ っ た 。 (泣﹀運動方法については、指原安三前掲一六六頁参照。 (お)大同倶楽部の具体的な政策を発表したものである。その全文については、指原安三前掲一七

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一 頁 参 照 。 (川此)結党式と言わず組織大会と称したのは、一ニ党合同問題が起っていたため、他党を刺戟しないよう芳点したのである。なお 宣言書において愛国公党の具体的な政策を発表した。その全文については、指原安三前掲一七三│六頁参照。 (お)だが裏面においては、かならずしも三派の足並みがそろったわけではなかった。殊に大同倶楽部は合同に全面的に賛成で は な か っ た 。 (お﹀事務委員としてつぎの人が選出された。 大同倶楽部││大江卓、遠藤秀景、八木原繁祉。 愛国公党││小林樟雄、渡辺小太郎、直原守二郎。 自由党

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新井章吾、内藤魯一。 ハ幻)愛国公党および自由党は、入月四日解散し、大同倶楽部は八月十七日の臨時大会において解散した。 (お)すでに板垣は一月三日の愛国公党の趣意書の中で、つぎのように述べている。﹁立怒政体ノ下ニ起ルヘキ政党ハ施設ノ責

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-一任スルヲ以テ腕力ノ弊ヲ戒メ智力ノ用ヲ利シ客気ノ弊ヲ去テ時勢ノ要ヲ知リ学識経験相待テ其用ヲナジ、財政ナリ外交ナ リ法律ナリ兵制ナリ実地問題ニ付キ其主義ニ基キ時勢ニ適シタルノ綱領ヲ定メ政務ヲ任シ国会ノ議事-一応用スルノ備ヲ為ス ヘシ。之ヲ国会ノ議ニ付シ而シテ共主義ヲ買キ行ハント欲セハ同主義中小党分裂ノ弊ヲ矯メ以テ一大政党ノ体ヲ成ササル可 カ ス ﹂ す な わ ち 議 会 政 党 の あ り 方 に つ い て 示 唆 し て い る の で あ る 。 拍 原 安 三 前 拘 一 三 五 頁 参 照 。 ( 未 完 ﹀ (付記)本稿は、昭和三十八年度文部省科学研究費交付金(各個研究)による研究成果の一部である。 ( 本 学 助 教 授 ) 大同団結運動と議会政党の成立 五 五

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