「かいもちひ」の研究―『徒然草』を中心に―
著者
久保田 一弘
著者別名
KUBOTA Kazuhiro
雑誌名
東洋大学大学院紀要
巻
55
ページ
1-21
発行年
2019-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010614/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止要旨 『 徒 然 草 』 に は「 か い も ち ひ 」 と い う 食 べ 物 が 見 ら れ、 先 行 研 究 では現在の「ぼたもち」とする説や「そばがき」とする説が唱えら れている。しかし現状においてその根拠は両説とも明示されておら ず、またいつ頃から両説が唱えられているのか明らかでない。 本論文の第一章では近世と近現代の『徒然草』の注釈書における、 「 か い も ち ひ 」 に つ い て 調 査 し た 結 果 の 考 察 を 行 っ た。 第 二 章 で は 「 か い も ち ひ 」 の「 ぼ た 餅 」 説 と「 そ ば が き 」 説 の 妥 当 性 を 検 討 し た。第三章では「かいもちひ」について、亥の子、持戒、酒宴とい う三つの新たな視点から検討を行った。 キーワード かいもちひ 徒然草 ぼたもち そばがき 亥の子 はじめに 『 徒 然 草 』 に は「 か い も ち ひ 」 と い う 食 べ 物 が 見 ら れ、 先 行 研 究 では現在の「ぼたもち」とする説や「そばがき」とする説が先行研 究で唱えられていると昨年の紀要論文で記した。 当然ではあるが、ぼた餅とそばがきは現在では全く別の食べ物で ある。はたして何故この二つの食べ物が、共に「かいもちひ」とし て説明されてきたのだろうか。この点は先行研究では触れられてお ら ず、 理 由 は 明 ら か で な い。 こ う し た 現 状 を 踏 ま え て 本 論 文 で は 「 か い も ち ひ 」 の 通 説 で あ る ぼ た 餅 説 と そ ば が き 説 の 妥 当 性 に つ い て検討し、またどのような食べ物であったのか考察を行う。 第 一 章 で は 近 世 と 近 現 代 の『 徒 然 草 』 の 注 釈 書 に お い て、 「 か い もちひ」がどのように解釈されてきたか述べる。第二章では「かい もちひ」の説として言及されるぼた餅説とそばがき説の妥当性につ いて、食文化の視点から検討を行う。第三章では「かいもちひ」に 1
文学研究科日本文学文化専攻博士後期課程1年
久保田
一弘
「かいもちひ」の研究
―『徒然草』を中心に―
ついて亥の子、仏教の持戒、酒宴で出される食べ物という三つの視 点から新たな解釈の可能性を探っていく。 第一章 『徒然草』の注釈で見る「かいもちひ」 第一節 近世の『徒然草』注釈書 近世には数多くの『徒然草』の注釈書が刊行された。これらの注 釈書の二一六段と二三六段の「かいもちひ」にはどのような注釈が 付 け ら れ、 ど の よ う な 傾 向 が あ る の だ ろ う か。 本 節 で は 慶 長 九 年 ( 一 六 〇 四 ) 刊 で あ る 秦 宗 巴『 徒 然 草 寿 命 院 抄 』 か ら、 天 明 三 年 ( 一 七 八 三 ) 刊 の 厭 求『 徒 然 要 草 』 ま で 二 六 冊 の 注 釈 書 に お け る、 二一六段と二三六段の「かいもちひ」の注釈の項目を調査した結果 の考察を行う。 二一六段の「かいもちひ」の注釈について整理すると、大きく分 け て 二 つ と な る。 一 つ は 注 釈 が 付 け ら れ て い な い( 1) 『 徒 然 草 寿 命院抄』から、 (7) 『徒然草抄』までの注釈書である。このような 段 階 か ら 変 化 が 生 じ た の は( 8) 『 徒 然 草 句 解 』 で「 俗 に 萩 ノ 花 ト 云物也」と、初めて「かいもちひ」を萩の花とする注釈が付けられ て 以 降 の こ と だ。 ( 10)『 徒 然 草 文 段 抄 』、 ( 11)『 徒 然 草 抄 増 補 』、 ( 12)『 徒 然 草 諺 解 』、 ( 13)『 徒 然 草 大 全 』、 ( 14)『 徒 然 草 参 考 』、 ( 15)『徒然草直解』 、( 18)『徒然草諸抄大成』 、( 19)『首書註釈徒然 草 』、 ( 23)『 徒 然 草 拾 穂 抄 』 の 合 計 一 〇 冊 の 注 釈 書 で「 萩 の 花 」 と す る 解 釈 が 継 承 さ れ て い る。 こ れ ら 以 外 の 注 釈 の 内 容 と し て は、 ( 16)『徒然草拾遺抄』で『宇治拾遺物語』の用例が引用されている 例や、 ( 25)『つれづれしののめ』の「かいといふことば手間入らぬ につかふ痒所をちらとかく間といふ略し也」という言葉の意味が説 明されたものがある。しかしこれらは他の注釈書に影響を与えるほ どではなかった。 二三六段の「かいもちひ」の注釈について整理すると、こちらも 大 き く 分 け て 二 つ と な る。 一 つ は( 2) 『 野 槌 』 の 注 釈 で 示 さ れ た 「 撹 餅 」 と い う、 「 か い も ち ひ 」 の 漢 字 を 示 す 注 釈 だ。 以 下( 5) 『 徒 然 草 金 槌 』、 ( 6) 『 徒 然 草 古 今 抄 』、 ( 8) 『 徒 然 草 句 解 』 の 三 冊 の注釈書で示されている。こうした「かいもちひ」に「撹餅」とい う漢字をあてる例は、文明一六年(一四八四)に成立した大伴広公 の著で あ る『温故知新書』に も見ら れ る。 『野槌』は『温故知新書』 な ど の 古 辞 書 類 か ら 引 用 し、 「 か い も ち ひ 」 に「 撹 餅 」 と い う 漢 字 をあてたのであろう。 も う 一 つ は( 10)『 徒 然 草 文 段 抄 』 で「 田 舎 な れ ば 結 構 な る 馳 走 はえすまじきなどゝ卑下していへる挨拶の詞也」とあり、田舎に誘 う際に大した物はご馳走できないという挨拶の言葉とする注釈であ る。 ( 12)『 徒 然 草 諺 解 』 で は「 田 舎 の 挨 拶 ナ リ 」、 ( 14)『 徒 然 草 参 考 』 で も「 田 舎 へ つ れ ゆ く 挨 拶 」 と し( 18)『 徒 然 草 諸 抄 大 成 』 に おいても『徒然草文段抄』の説が引用され、田舎と関連する挨拶の 2 3 4
言 葉 と い う 解 釈 が 継 承 さ れ て い る と わ か る。 ま た『 徒 然 草 文 段 抄 』 で「 田 舎 な れ ば 結 構 な る 馳 走 は え す ま じ き な ど ゝ 卑 下 し て い へ る 」 と、 田 舎 で ご 馳 走 す る も の が な い と い う 決 ま り 文 句 と す る 解 釈 が、 ( 13)『 徒 然 草 大 全 』、 ( 19)『 首 書 註 釈 徒 然 草 』、 ( 23)『 徒 然 草 拾 穂 抄』において継承されている。 ここまで近世に刊行された『徒然草』の注釈書における「かいも ち ひ 」 の 項 目 を 調 査 し た 結 果 に つ い て 述 べ た。 主 に 二 一 六 段 で は 「 か い も ち ひ 」 を「 萩 の 花 」 と す る 注 釈 が 見 ら れ、 現 在 の ぼ た 餅 説 へ と 繋 が る 解 釈 と な っ て い る。 二 三 六 段 で は 撹 餅 と「 か い も ち ひ 」 の漢字を記す注釈や、田舎に誘う際の挨拶や決まり文句とする注釈 が見られる。これらの近世に刊行された『徒然草』の注釈書で両段 と も 同 じ 内 容 で あ る の は( 15)『 徒 然 草 直 解 』 以 外 に は 見 ら れ ず、 段に即して異なる注釈となっていた。 一方、これらの注釈書ではそばがき説が見られないことが特徴と して挙げられるだろう。つまり近世の『徒然草』注釈書においては、 「 か い も ち ひ 」 を そ ば が き と は 考 え て い な か っ た と い え る だ ろ う。 で は 現 在 多 く の 注 釈 で 取 り 上 げ ら れ る そ ば が き 説 は、 い つ 頃 か ら 『 徒 然 草 』 の 注 釈 で 見 ら れ る よ う に な っ た の か。 次 節 で は 明 治 以 降 に 刊 行 さ れ た『 徒 然 草 』 の 注 釈 書 で、 「 か い も ち ひ 」 が ど の よ う に 解釈されていったか見ていく。 第二節 近現代の『徒然草』注釈書 近世には数多くの『徒然草』の注釈書が刊行されたが、明治以降 はそれ以上に多くの『徒然草』の注釈書が刊行されてきた。本節で は明治以降に刊行された一二七冊の『徒然草』の注釈書について調 査した結果の考察を行う。 一八九〇年から一八九九年の間に出版された一二冊の注釈書を見 ると、 (1) 『纂註徒然草校本巻の下』の二一六段の注釈に「蕎麥ガ キの類ひを云ふ」とあり、初めてそばがき説が見られる。しかしこ の 時 期 に 刊 行 さ れ た 他 の 注 釈 書 で は( 3) 『 増 註 徒 然 草 』 が「 今 俗 に 萩 の 餅 と 云 物 な り 」、 ( 4) 『 文 章 解 剖 標 註 徒 然 草 』 が「 今 萩 の 花 と い ふ 物 也 」 な ど、 概 ね 近 世 の 注 釈 書 と 同 様 に「 か い も ち ひ 」 を 「 萩 の 花 」 と す る 解 釈 が 継 承 さ れ て い る。 ま た 二 三 六 段 を 見 る と ( 3) 『 増 註 徒 然 草 』 で は「 田 舎 の 挨 拶 な り 」、 ( 4) 『 文 章 解 剖 標 註 徒然草』が「田舎なれば結構なる馳走はえせねどなど卑下していへ る 也 」 と あ り、 こ ち ら も 同 様 に 近 世 に 刊 行 さ れ た『 徒 然 草 文 段 抄 』 の注釈が継承されている。 以降( 13)『徒然草読本』から( 40)『最新研究徒然草詳解』まで 二 八 冊 の 注 釈 書 で は、 「 萩 の 餅 」 あ る い は「 掻 練 の 餅 」 と す る 解 釈 が主流であった。これらの中で特筆すべき注釈書としては、一九一 六 年 に 出 版 さ れ た( 27) 秋 梧 生『 徒 然 草 新 訳 註 解 』 が 挙 げ ら れ る。 こ の 注 釈 書 で は「 飯 に て 造 り た る ぼ た 餅。 又、 そ ば が き を も 云 ふ 」
とあり、現在と同様にぼた餅説とそばがき説を併記する注釈となっ て い る。 『 徒 然 草 』 の 注 釈 書 の 中 で「 か い も ち ひ 」 の 両 論 を 併 記 す る嚆矢といえる一冊であろう。 こ の よ う に 一 九 三 〇 年 代 ま で に 刊 行 さ れ た 注 釈 書 で は「 萩 の 餅 」 等のぼたもち説が主流であり、そばがき説は散見される程度であっ た。しかし橘純一氏が『徒然草』の注釈書でそばがき説を記したこ とにより、広くそばがき説が浸透していくこととなる。一九三八年 に 刊 行 さ れ た( 41)『 新 註 つ れ づ れ 草 対 照 用 』 の 二 一 六 段 の 注 釈 で は「牡丹餅の事とも、蕎麦掻の事だともいふ。今、仮に後説をとつ た(中略)酒後の食事代りのものとしてはまだしもそば掻の方がよ くはないかと思ったから」とし、 ( 47)『徒然草』で「牡丹餅だとも 蕎麦掻だともいふ。後説がよいであろう」 、( 52)『昭和校註徒然草』 では「今の牡丹餅とも、蕎麦掻とも两説ある」と両説を併記する内 容 と な る が、 ( 62)『 徒 然 草 ( 日 本 古 典 全 書 )』 で は「 蕎 麦 粉 を ね っ て味をつけたもの」とあり、いずれの注釈書においても橘氏は一貫 してそばがき説を採用している。こうした橘氏の一連の注釈書にお け る そ ば が き 説 の 主 張 が、 他 の 注 釈 書 に 影 響 を 与 え た。 ( 90) 松 尾 聡『新纂徒然草全釈』では「諸注では「ぼた餅」説が有力であるが、 橘氏は酒後の食事代わりのものとしてはそばがきがふさわしいと考 えておられる」とあり、橘氏の唱えるそばがき説を踏まえたことが 記 さ れ て い る。 ま た 今 回 調 査 し た 結 果( 41)『 新 註 つ れ づ れ 草 対 照 用』以前に出版された四〇冊の『徒然草』注釈書の内、そばがき説 が 採 用 さ れ て い る の は 二 冊 で あ る の に 対 し て、 『 新 註 つ れ づ れ 草 対 照用』以降に出版された八六冊の注釈書の内五三冊でそばがき説が 採用されていることがわかった。以上の二点から橘氏の一連の注釈 書 に お け る そ ば が き 説 の 主 張 が 一 つ の 契 機 と な り、 「 か い も ち ひ 」 をそばがきとする説が広まったと考えられる。 またそばがき説を主張する注釈書の中には、その根拠として方言 を 挙 げ る 注 釈 が 見 ら れ る。 一 例 と し て( 71)『 新 纂 徒 然 草 全 釈 』 の 二一六段の注釈を挙げる。 宇治拾遺物語・古今著聞集などにも見えるが、どんなものか 明らかでない。近世以降ぼた餅(おはぎ)のことを関西および 加 賀( 物 類 称 呼 )・ 会 津・ 新 潟・ 富 山・ 岐 阜 で は「 か い も ち 」 といい、そば粉をこねた一種の食物(そばがき?)のことを盛 岡(御国通辞) ・出羽最上(物類称呼) ・秋田・岩手・福井・福 岡では同じく「かいもち」といい、干鮑を粉にして餅にしたも のを仙台(物類称呼)ではまた「かいもち」という由(東峯操 氏「方言辞典」 )である〈 『新纂徒然草全釈』 〉 「 か い も ち ひ 」 を ぼ た 餅 の 意 で 呼 ぶ 地 方 と、 そ ば 粉 を こ ね た 一 種 の食物というそばがきに近い意で呼ぶ地方、また干鮑を粉にして餅 にしたものを指す地方があるという三つの説が、方言を根拠として 紹 介 さ れ て い る。 こ う し た そ ば が き 説 の 根 拠 と し て 方 言 を 挙 げ る 5 6
注 釈 書 は( 74)『 改 稿 徒 然 草 詳 解 』、 ( 76)『 新 講 徒 然 草 』、 ( 83)『 徒 然 草 全 講 』、 ( 1 2 7) 『 し っ か り と 古 典 を 読 む た め の 徒 然 草 全 釈 』 等が挙げられる。 本 章 で は 近 世 と 近 現 代 の『 徒 然 草 』 の 注 釈 書 を 調 査 し、 「 か い も ちひ」についてどのように解釈されてきたか述べた。その結果とし て二つのことが判明した。一つは近世においては「かいもちひ」を 萩の花とする注釈が多く見られ、現在のぼた餅説へと繋がる解釈が されていたこと。もう一つは、そばがき説が明治以降に刊行された 注釈書から見られる説であることだ。次章では『徒然草』の注釈書 において近世以来主張されているぼた餅説、そして明治以降に主張 されるようになったそばがき説の両説を、食文化の視点から「かい もちひ」としての妥当性を検討する。 第二章 「かいもちひ」の諸説検討 第一節 ぼた餅説について ぼた餅という名称の初見は西武の編で寛永一五年(一六三八)に 成立し、寛永一九年(一六四二)に刊行された俳諧撰集の『鷹筑波 集 』 に 収 め ら れ た「 萩 の 花 ぼ た 餅 の 名 の み ぐ る し 野 ママ 」 の 句 と さ れ ている。萩の花という食べ物の別名でぼた餅という名称は見苦しい、 と い う 句 意 だ。 文 化 末 年( 一 八 一 八 ) 頃 か ら 弘 化 二 年( 一 八 四 五 ) 頃にかけて執筆された小山田与清の随筆『松屋筆記』では、このぼ た餅という名称の由来が記されている。 ボツテリと云詞ボタ〳〵ボタ餅ボタ足 俗に人の肥たるをボ ツテリと太ツタなどいひボタ〳〵などいへる皆同語也ボタ餅も 牡丹餅など書くは好事の附会にて実はボタ〳〵としたる餅なれ ば也〈 『松屋筆記』 〉 ぼた餅という名称は見た目がぼたぼたとしているのが由来であり、 牡丹の餅とはこじつけだという説が紹介されている。いずれにして もこうした語源が考えられていたため、ぼた餅という名称が見苦し いという『鷹筑波集』の句が生まれたのだろう。 ではこのぼた餅の別称として挙げられている萩の花とは、どのよ うな食べ物であったか。イエズス会宣教師の編で慶長八年(一六〇 三)頃に成立した『日葡辞書』には「ハギノハナ」の項に「中に碾 きつぶした豆の入っている一種の小さな米の餅。これは婦人語であ る」 とあり、餅のなかに小豆餡が入ったものであったようだ。 では現在ぼた餅に使用される小豆餡やきなこは、いつ頃から存在 し た の だ ろ う か。 小 豆 は 延 喜 一 八 年( 九 一 八 ) の 成 立 と さ れ る 深 根 輔 仁 の 本 草 書『 本 草 和 名 』 に、 「 赤 小 豆 和 名 阿 加 阿 都 岐 」 と あ るのが初見とされる。ここでは「和名阿加阿都岐」とあり、小豆は 「あかあつき」という名称で呼ばれていた。また承平四年(九三四) 7 8 9 10 11
頃の成立である源順編の漢和辞書『和名類聚抄』には「小豆腐婢附 本草云赤小豆和名阿加安豆木崔禹錫食経云黒小豆紫小豆黄小豆緑小 豆 皆 同 類 也 蘇 敬 本 草 注 云 腐 婢 和 名 阿 豆 岐 乃 皮 奈 小 豆 花 名 也 」 と あ り、 『本草和名』の小豆の説明を引用した内容が記されている。 このように小豆は上代から存在したが、小豆餡としての用例は中 世以降にしか見られない。永正元年(一五〇四)に成立した『湯山 聯 句 鈔 』 と い う 連 句 集 に 収 録 さ れ た 寒 韻 の 部 の 聯 句 に「 敦 軽 絲 与 鼎/易飽土耶饅」とあり、この「饅」の注として「饅頭ノヤウニ丸 イ ホ ド ニ、 饅 ノ 餡 ニ ハ 小 豆 カ 砂 糖 カ ナ ル ガ 土 饅 ノ 餡 ニ ハ 人 ガ ナ ル 」 とある。饅頭の中に入れる餡は小豆や砂糖だが、土饅頭は墓だから 中には死人が入るという内容だ。また『日葡辞書』の「アン」の項 で は「 餅 や 饅 頭 の 中 の 詰 め 物 」 と 説 明 が あ り、 饅 頭 だ け で な く 餅 と共に餡は食されていた。同じく『日葡辞書』の「アンモチ」の項 目では「豆をつぶしたものに粗糖を加えて、あるいは、粗糖なしで 中 に 入 れ た 米 の 小 餅 」 と 説 明 が あ る。 精 製 さ れ て い な い 砂 糖 を 使 用した現在の小豆餡に近いものを餅の中に入れた食べ物が、中世の 末頃には食されていた。 次にきなこについてである。大豆の初見は小豆と同じく『本草和 名』に「生大豆 和名於保末女」 とあり、 「おほまめ」という名称で 呼ばれていた。なお上代には既に大豆は粉状にして使用されており、 『 和 名 類 聚 抄 』 に は 大 豆 を 引 い て 粉 に し た も の で あ る「 大 豆 麩 」 に 和 名 と し て「 未 女 豆 岐 」 と あ る。 「 ま め つ き 」 と い う 名 称 は、 豆 を 搗いて作るという行為に由来するのだろう。 現在用いられるきなこという名称は、室町時代末の成立とされる 作者未詳の礼儀作法の書『女房躾書』に「まめのこをばきなことも う す い ろ の こ共云」 と あ る の が初見と さ れ る。つ ま り「き な こ」は、 「 ま め の こ 」 や「 う す い ろ の こ 」 の 名 称 で 呼 ば れ て い た。 こ れ ら の 名 称 の 内、 『 日 葡 辞 書 』 に は「 ま め の こ 」 の 項 目 で「 ほ か の 料 理 を 作 る 材 料 と し て 使 う。 搗 い て 碾 い た 大 豆、 あ る い は、 豆 」 と 説 明 がある。きなこだけを食べるのではなく、現在と同じく他の物と一 緒に食べる物であった。順興寺實従が記した日記『私心記』の永禄 四年(一五六一)一二月二一日の記録には「夕飯如昨日。夜、祝餅 小 キ 也。 サ キ、 ア ヅ キ・ キ ナ コ 也 」 と あ り、 夜 に お 祝 い の 小 さ な 餅と小豆ときなこが出されて餅と共に食されている。また奈良興福 寺 の 多 聞 院 の 院 主 の 日 記『 多 聞 院 日 記 』 の 天 正 十 三 年( 一 五 八 五 ) 正 月 九 日 の 記 録 に は「 マ メ ノ コ 餅 并 餅 膳 伴 マ テ 三 人 六 枚 ツ ヽ 遣 之 」 とあり、まめのこを使用した餅が作られ振舞われていた。これらの 古 記 録 の 用 例 は、 『 日 葡 辞 書 』 に 他 の 物 と 共 に 食 す と あ る 記 述 を 裏 付ける内容となっている。 以上のようにぼた餅は近世以降、萩の花は中世末頃から見られる 名称である。こうしたぼた餅に必要なきなこは上代から存在してい たと考えられるが、小豆餡は中世以降の用例しか確認できない。こ のことから『徒然草』の成立した時代にきなこを付けた餅が食され ていた可能性はあるが、小豆餡を付けた餅は無かったと考えられる。 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
ま た ぼ た 餅 は 後 代 に 生 じ た 名 称 で あ る た め、 そ の 概 念 を『 徒 然 草 』 の「かいもちひ」に当てはめるのは適切ではないだろう。ではなぜ 「かいもちひ」をぼた餅とする説が生まれたのか。 天文元年(一五三二)頃に成立した山崎宗鑑編の俳諧集『犬筑波 集』には、亥の子の題で三句が収められている。そのうち一句目に 「 か い も ち も え つ か ぬ 宿 は へ の こ か な 」 と あ り、 亥 の 子 に「 か い も ち ひ 」 が 出 な い 宿 を へ の こ だ と 馬 鹿 に す る 意 と、 「 か い も ち ひ 」 は 搗いてつくる餅ではないという意が掛けられた句がある。二句目は 「 山 寺 の し ん ぽ ち か い も ち い の こ か な 」 と あ り、 山 寺 に 新 た に 発 心 して仏道に入った新発意が亥の子の日に「かいもちひ」を食すとい う意と、戒律を保つという意が掛けられた句がある。いずれの句も 「 か い も ち ひ 」 が 亥 の 子 餅 と し て 出 さ れ て い た こ と を 踏 ま え た 上 で 創 作 さ れ た 句 で あ り、 「 か い も ち ひ 」 を 亥 の 子 の 日 に 食 す 餅 と し て 扱う地域や時代があったと考えられる。そして亥の子の題の三句目 に は「猪の子と は白き を や後あ づ き餅」 と い う句が収め ら れ て い る。 これは亥の子を飯の粉と掛けて、初めの亥の子の日には白い餅であ るのに、次の亥の子には小豆を使用した餅を出すことのおかしさを 詠んだ句である。二の亥の子の際に小豆を使用した餅が出されてい た時代や地域があったのであろう。 ちなみに現在の亥の子について文化庁の編である『日本民俗地図 Ⅰ( 年 中 行 事 1) 』 で は、 日 本 各 地 の 亥 の 子 の 際 に 食 す 食 べ 物 が 記 録されている。このうち北は山形県の鼠ガ関から、南は佐賀県竹崎 の 全 国 一 〇 九 の 地 域 で 亥 の 子 の 際 に ぼ た 餅 を 食 す と の 記 録 が あ る。 『 犬 筑 波 集 』 の 三 句 目 で 見 ら れ る よ う な「 か い も ち ひ 」 の 小 豆 餅 が ぼた餅と混合され、その結果として「かいもちひ」をぼた餅とする 説が生まれたのではないだろうか。現在亥の子の際にぼた餅を食す 地 方 が 日 本 各 地 に 存 在 す る の は、 「 か い も ち ひ 」 の 小 豆 餅 が 亥 の 子 餅として食されていた名残として考えられる。 第二節 「そばがき」説 蕎 麦 は 延 暦 一 六 年( 七 九 七 ) に 奏 上 さ れ た 平 安 初 期 の 官 撰 国 史 『 続 日 本 紀 』 の 用 例 が 初 見 と さ れ る。 『 続 日 本 紀 』 巻 九 の 養 老 六 年 ( 七 二 二 ) 七 月 十 九 日 の 元 正 天 皇 の 詔 に「 天 下 の 国 司 を し て 百 姓 に 勧め課して、晩禾・喬麦と大小麦とを種樹ゑて蔵め置き、儲け積み て 年 荒 に 備 へ し む べ し 」 と あ り、 百 姓 が 救 荒 に 備 え て 栽 培 す る 穀 物の一つに蕎麦が挙げられている。しかしこの養老六年に出された 詔以降、蕎麦に関連する布告は百年以上見られず、次の用例は任明 天 皇 の 時 代 に 下 る。 『 続 日 本 後 紀 』 の 承 和 六 年( 八 三 九 ) 七 月 二 十 一日の記録に「令畿内国司勧種蕎麦、以其所生土地不論沃瘠、播種 収 穫 共 在 秋 中、 稲 梁 之 外 足 為 人 天 也 」 と あ る。 こ こ で は 養 老 六 年 の詔と同様に、痩せた土地でも栽培可能な穀物として蕎麦が奨励さ れている。こうした痩せた土地でも蕎麦が栽培されていたのを示す 説話が『古今著聞集』に収められている。 22 23 24 25 26 27
道命阿闍梨、修行しありきけるに、山人の物をくはせたりけ る を、 「 こ れ は な に も の ぞ 」 と 問 ひ け れ ば「 か し こ に ひ た は へ て 侍 る そ ま 麦 な む こ れ な り 」 と い ふ を 聞 き て、 よ み 侍 り け る、 ひたはへて鳥だにすゑぬそま麦にししつきぬべき心地こそすれ 〈『古今著聞集』 〉 『 古 今 著 聞 集 』 巻 二 八 飲 食 の 部 に あ る「 道 命 阿 闍 梨 そ ま む ぎ の 歌 を詠む事」という説話で、道命阿闍梨は「ひたはへて鳥だにすゑぬ そま麦にししつきぬべき心地こそすれ」という歌を詠む。この歌で は猪と肉(しし)とが掛けられており、前者では一面に生えて鳥で さえ食べない蕎麦も猪は食い荒らすという意、後者では蕎麦を食べ て人間は肉が付き滋養になるような気がするという意になる。こう した『古今著聞集』の説話からも痩せた土地であっても栽培が可能 な穀物である蕎麦は、身近な穀物として人々に浸透していたと考え られる。 穀物としては上代から存在していた蕎麦であるが、その調理方法 についての記録は室町時代にようやく見られる。山科家の雑掌であ った大沢氏の日記『山科家礼記』の文明四年(一四七二)四月二十 八 日 の 記 録 に「 さ い り ん あ ん よ り そ は の こ 一 袋 」 が 届 き、 そ の 翌 日の記録に「一、壽福寺出來候、加持候也、そはの子ねり候てまい ら せ 候 也 」 と あ り、 届 い た 蕎 麦 粉 を 練 っ て 食 し た 記 録 が 残 さ れ て いる。また同時代の用例に京都相国寺鹿苑院内の蔭涼軒主の記した 日 記『 蔭 涼 軒 日 録 』 の 延 德 元 年( 一 四 八 九 ) 十 二 月 二 日 の 記 録 に 「蕎餅」 という語が見られ、蕎麦を使用した餅が作られていた。 「 か い も ち ひ 」 の 説 明 で 用 い ら れ る そ ば が き と い う 名 称 は、 慶 長 末から元和末年(一六一四〜二四)頃に成立した仮名草子の『きの ふはけふの物語』にある、豊臣秀吉がそばがきを好んだ話が初見と される。 有夜、ひてよしこう、夜しよくにそはかきを御このみなされ、 御しやうはんしゆうへもくたされける。おりふし、なかおかけ ん し、 御 と ふ し や う な さ る ゝ。 す な は ち、 そ は か き を す は り、 ふたを明、とりあへす、うすゝみにつくりしまゆのそはかほを よくくみれはみかとなりけり〈 『きのふはけふの物語』 〉 秀 吉 か ら 夜 食 に そ ば か き を 出 さ れ た 際 に、 長 岡 玄 旨( 細 川 幽 斎 ) が「うすゝみにつくりしまゆのそはかほをよくくみれはみかとなり け り 」 と い う 歌 を 詠 む。 「 う す ず み に つ く り し ま ゆ 」 は 薄 墨 で 描 い た 眉 と そ ば が き 、「 そ ば 」 は 顔 の そ ば と 蕎 麦、 「 み か と 」 は 帝 と 三 日がそれぞれ掛けられている。前者の意では薄墨で描いた眉の顔を そばでよく見れば帝である秀吉であったという意であり、後者の意 では三日連続でそばがきを出されたという歌となる。この『きのふ はけふの物語』に収められた秀吉がそばがきを好んだ話と同様の話 が、 『 多 聞 院 日 記 』 の 文 祿 四 年( 一 五 九 五 ) 十 二 月 四 日 の 記 録 に あ 28 29 30 31 32 33
る。 ソハカヰモチニテ酒進了、アラレ一升蓮ゟ給了、太閤ソハカ イモチ好也シ、細川兵部大夫歌ニ、ウススミニツクレルマユノ ソハカホヲよくく見レハミカとなりけり〈 『多聞院日記』 〉 そばかいもちで酒を飲んだ後に関連した話題として思い出したの か、 秀 吉 と 長 岡 玄 旨 の や り 取 り が 記 さ れ て い る。 『 き の ふ は け ふ の 物語』と『多聞院日記』で異なる点は、前者では秀吉が好んだ食べ 物がそばがきだったが、後者ではそばかいもちと変化している点で ある。このそばかいもちについて『松屋筆記』には「畿内の人ソバ ガ キ を ソ バ カ イ モ チ と 云 」 と あ り、 江 戸 時 代 の 後 期 に は 畿 内 の 人 の方言としてそばがきのことをそばかいもちと呼んでいたと記され て い る。 「 か い も ち ひ 」 を そ ば が き と す る 説 が 生 ま れ た の は、 こ の そばかいもちと「かいもちひ」の製法が近似していたためではない だろうか。 では何故中世の末頃にかけて、そばがきやそばかいもちという名 称が見られるようになったのだろうか。その理由としては、蕎麦を そばきりとして食べる文化が発生したことが一つの要因として挙げ られる。そばきりとはそば粉を水でこねて薄く延ばしたものを細く 切 っ て 茹 で て、 つ ゆ を 付 け た り 煮 た り し て 食 べ る 麺 の こ と で あ る。 現在そばとして一般的に食されているのは、このそばきりを指して いる。 そばきりは信濃国定勝寺の天正二年(一五七四)の三月二十六日 の 文 書 に「 振 舞 ソ ハ キ リ 金 永 」 と あ る の が 初 見 と さ れ る。 こ れ は寺の修復工事の竣工祝いの品物として、そばきりが檀家の金永に よって振舞われたという記録である。このそばきりが新しい蕎麦の 食べ方として近世以降に広く流布していった。寛永二〇年(一六四 三 ) 刊 の 著 者 未 詳 で あ る 日 本 初 の 料 理 本『 料 理 物 語 』 に は、 「 蕎 麦 きり」の項目で作り方や美味しく食べるための方法が紹介されてい る。 めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても又とうふを すり水にてこね申事もあり 玉をちいさうしてよし ゆでゝ湯 すくなきはあしく候 にへ候てからいかきにてすくひぬるゆの 中へいれさらりとあらひ さていかきに入にへゆをかけふたを してさめぬように又水けのなきやうにして出してよし 汁はう どん同前 其上大こんの汁くはへ吉 はながつほ おろし あ さつきの類又からし わさびもくはへよし〈 『料理物語』 〉 湯を使用して捏ねて小さい玉を作り、たっぷりの湯で茹で上がっ た蕎麦を温い湯で洗い、水気を切って出すという作り方が紹介され る。また薬味に大根おろしや花鰹、あさつきやわさびを加えるのも 良いとあり、美味しく食すための方法が記されている。享保一八年 34 35 36 37
( 一 七 三 三 ) に 成 立 し、 同 十 九 年 に 刊 行 さ れ た 菊 岡 沾 凉 の 随 筆『 本 朝世事談綺』には、そばきりの始まりと江戸で流行したことが以下 のように記されている。 中古二百年以前の書、もろ〳〵の食物を詳に記せるにも、そ ば切の事見えす、こヽを以見れは、近世起る事也、もろこし河 漏津と云、船着の湊の名物、茶店に多これを造る、よつて河漏 と云、是日本のそば切の事也、江府のそは切の盛美には、諸国 ともに及がたし〈 『本朝世事談綺』 〉 古い書物には見られないためそばきりは最近生まれた食べ物であ り、特に江戸ではそばきりが諸国に類を見ないほど非常に流行して いるとある。このように蕎麦をそばきりとして食べる方法が普及し ていく過程で、蕎麦という言葉は現在のようにそばきりを指す言葉 へと変化していった。 以上のことからそばがきやそばかいもちという名称は、そばきり という蕎麦の新しい食べ方との差異によって生まれた名称だと考え られる。そばきりが作られる以前、蕎麦は現在のそばがきのように して食されていたのではないだろうか。そばがきという名称がそば き り と の 差 異 に よ っ て 発 生 し た の だ と す れ ば、 『 徒 然 草 』 な ど が 成 立した時代に「かいもちひ」という名称で呼ばれていたという主張 は誤りである可能性が高い。 第三章 「かいもちひ」考 第一節 亥の子と「かいもちひ」 亥の子の初見は『宇多天皇御記』の寛平二年(八九〇)二月三十 日 の 条 の 記 録 で あ る。 「 卅 日、 丙 戌。 仰 善 曰。 正 月 十 五 日 七 種 粥。 三 月 三 日 桃 花 餅。 五 月 五 日 五 色 粽。 七 月 七 日 索 麪。 十 月 初 亥 餅 等 」 と あ り、 年 中 行 事 と し て 一 月 一 五 日 の 七 草 粥、 三 月 三 日 の 桃 花 餅、 五月五日の粽、七月七日の索麪に並んで、十月の亥の日に亥の子餅 が挙げられている。 亥の子という行事の意味について、鎌倉時代初期頃の成立とされ る公事の儀式の内容を記した『年中行事秘抄』には、 「群忌隆集云。 十 月 亥 日 食 餅。 除 萬 病 」 と あ り、 万 病 を 避 け る た め と さ れ る。 ま た『下学集』には「雑五行書云十月豕日食餅令人無病又一説云豕能 生 多 子 故 女 人 羨 之 至 十 月 豕 日 献 祝 之 也 」 と あ り、 万 病 を 避 け る だ けでなく猪が多産であることにあやかり、女性が子宝に恵まれるこ とを願って催される行事だとされている。 この亥の子という行事について『年中行事秘抄』には、その作法 が記されている。 亥子餅事。或記云。盛朱漆盤立紙四枚。居御臺一本上。女房 取之供朝餉。次召蔵人所。鐡臼入其上分擣。令為猪子形。以錦 38 39 40 41
嚢之。挿於夜御殿帳畳四角 朱塗りの盤四枚に紙を立てて台の上に据え、女房がこれを取って 朝餉へと置く。次に蔵人所の鉄臼に餅を入れて搗き、猪子形にして 寝所の四隅に挿すのだという。また建武年間(一三三四〜三八)頃 の成立とされる後醍醐天皇の著した『建武年中行事』には「ゐのこ は く ら れ う よ り ま ゐ る □、 朝 が れ ひ に て ま ゐ ら す 」 と あ り、 内 蔵 寮より届けられた亥の子餅は朝餉の間で供じられるという形式が記 されている。 こうした亥の子の際に出される亥の子餅の素材や作法については、 時代や地方により様々であったことが先行研究により明らかになっ ている。主に平安時代の亥の子について菅原壽孝氏は論文「十月亥 子餅について」で、亥の子餅の形式や変遷を『源氏物語』等の文学 作品や『小右記』等の公家の日記を引用し、当時もて囃された儀式 で あ っ た こ と を 論 じ て い る。 ま た 中 世 の 亥 の 子 に つ い て は 盛 本 昌 広氏が、室町時代に行事の習慣が広がり幕府の行事として儀礼化し、 黒赤白黄青の五色の亥の子餅が将軍から武士や公家に下賜されてい たことや、亥の子餅の呼称が厳重、亥猪、御成切と多様化し詳細な 故実が定められたことを論じている。 これらの先行研究では触れられていないが、亥の子という行事の 変遷の中に第三章で取り上げた『犬筑波集』の用例以外にも「かい もちひ」が亥の子餅として出されていた用例が複数見られる。天文 十九年(一五五〇)頃の成立で伝一条兼良の筆とされる『酒飯論絵 巻』には、季節の行事に出される餅を列挙した場面がある。 やよひもはしめのわか草はちゝこはゝこのはう子もち手つく りからにいたゐけやかはらぬ色のまつもちゐ千世とそ君をいの りけるほんなうのきつなきりもちゐ菩提にすゝむたよりあり命 は水のあはもちゐ世のあたなるもしられけり五月五日のちまき には屈原かむかしおもひ出冬のはしめのいはひにはゐのことな つくるかいもちゐ秋の鹿にはあらねとも紅葉をしくもいとやさ し青陽の春のはしめにはたかきいやしきをしなへてことさらか かみの祝にそ千とせのかけをはうつしける〈 『酒飯論絵巻』 〉 三 月 の 初 旬 に は 父 子 草 や 母 子 草 な ど を 使 用 し て 作 る 草 餅 や 松 餅、 笹 餅、 煩 悩 を 断 ち 切 る と 掛 け て 切 り 餅、 水 の 泡 の よ う に 儚 い 粟 餅、 五 月 の 節 句 に は 屈 原 の 故 事 を 思 い 出 す 粽、 冬 の 始 め で あ る 十 月 の 亥の日には亥の子餅とも呼ばれる「かいもちひ」を出すが紅葉を敷 いて供するのも風情があり、正月の初めには鏡餅を作るとある。こ の『 酒 飯 論 絵 巻 』 の 用 例 は、 『 犬 筑 波 集 』 の 用 例 と 同 様 に「 か い も ちひ」が亥の子餅として出されていた文化的背景が踏まえられてい る。 また中世の日記類にも亥の子に「かいもちひ」が出された記録が 残されている。山科家の雑掌を勤めた大沢氏の日記である『山科家 42 43 44 45 46 47
礼記』の長禄元年(一四五七)一〇月八日の記録には「一、いのこ に本所ニ御出仕候也、本所の面ゝこれへ御出候也、かいもちい進候 也 」 と あ り、 亥 の 子 に 本 所 に 出 向 い た 際 に「 か い も ち ひ 」 が 出 さ れ て い る。 『 山 科 家 礼 記 』 で は こ の 用 例 以 外 に も 寛 正 四 年( 一 四 六 三)一〇月二日に「一、これニかいもちいあり、本所面ゝ出來候也 ( 中 略 ) 一、 室 町 殿、 本 所 い の こ に は し め て 御 參 候 」 、 文 明 一 二 年 ( 一 四 八 〇 ) 十 月 一 七 日 に「 こ れ ニ て か い も ち し て 各 ゝ ま い ら せ 候」 、文明一三年(一四八一)十月十日に「一、か い も ち い候、京 へ も 酒・ か い も ち い 上 候 」 と あ る。 こ れ ら『 山 科 家 礼 記 』 に 見 ら れる長禄元年から文明一三年にかけての四例の「かいもちひ」はい ずれも十月の亥の日に出されており、用例の偏在傾向が見られる。 これら『犬筑波集』 『酒飯論絵巻』という文学作品や、 『山科家礼 記 』 と い う 古 記 録 の 用 例 か ら は、 「 か い も ち ひ 」 が 亥 の 子 餅 と し て 出されていた時代や地域があったと考えられる。 第二節 持戒と「かいもちひ」 先に挙げた『徒然草』 、『宇治拾遺物語』 、『古今著聞集』の用例は、 い ず れ も 仏 教 と の 関 連 が 窺 え る 内 容 と な っ て い る。 『 徒 然 草 』 第 二 一六段では最明寺入道と足利左馬入道といずれも仏道に入った人物 が 登 場 し、 第 二 三 六 段 で は 聖 海 上 人 と い う 高 僧 が 登 場 す る。 『 宇 治 拾遺物語』の「児の搔餅するに空寝したる事」は比叡山での出来事 を 舞 台 と し た 説 話 で あ り、 『 古 今 著 聞 集 』 の「 近 江 法 眼 寛 快 供 米 の 不法を諷する事並びに文覚と相撲の事」には寛快と文覚という僧侶 二 人 が 登 場 す る 説 話 で あ る。 こ れ ら の 仏 教 と の 関 連 が 窺 え る 話 に 「 か い も ち ひ 」 が 登 場 す る 理 由 に つ い て は、 い ず れ の『 徒 然 草 』 の 注釈や先行研究においても触れられておらず検討する必要がある。 第三章でも取り上げたが『犬筑波集』の「山寺のしんぽちかひも ち い の 子 か な 」 と い う 句 が あ る。 こ れ は 山 寺 に 新 た に 発 心 し て 仏 道に入った新発意が亥の子に「かいもちひ」を食すという意と、仏 教の戒律を保つという意味の持戒を「もちかい」と読み、それを反 転することで「かいもちひ」とする意が掛けられた表現である。こ の『犬筑波集』の用例以外にも「かいもちひ」と持戒を掛けた表現 が用いられた作品がある。 室 町 時 代 中 期 の 成 立 で 伝 二 条 良 基 の 作 と さ れ る『 餅 酒 歌 合 』 は、 時宗の道場で小僧と老僧がそれぞれ「かいもちひ」と酒を欲したの を契機と し て狂歌合わ せ を行う と い う作品で あ る。こ の『餅酒歌合』 の三番左の歌に「法の師のをしへのまゝにをのづから たもちやす き は か ひ も ち い か な 」 と い う 餅 の 歌 が 詠 ま れ て い る。 こ の 歌 で は 法師の教えである持戒を自然と保てるという意と、持戒と「かいも ちひ」を掛けた表現が用いられている。この用例については前掲の 福 田 氏 の 論 文 で も 触 れ ら れ て お り、 「 勿 論『 持 戒 』 を 懸 け て い る 」 とされている。 また鮭の大介鰭長を大将とする魚類方と納豆の太郎糸重を大将と 48 49 50 51 52 53 54
する精進方との合戦を記した物語で、室町時代中期の成立で伝二条 良基の作とされる『精進魚類物語』にも「かいもちひ」の用例が見 ら れ る。 「 さ る ほ と に、 國 内 通 解 の 事 な れ は、 精 進 の か た へ そ、 聞 えける、戒餅の律師、四十八人の弟子を召具して、あたゝけの御所 へ そ、 参 ら れ け る 」 と あ り、 魚 類 方 が 挙 兵 の 決 意 を し た こ と が 知 れ渡り、その情報を伝える役割として戒餅の律師が登場し丸餅の御 所 へ と 向 か う。 『 精 進 魚 類 物 語 』 の 用 例 で は 他 の 用 例 と 同 じ く「 か いもちひ」と持戒を掛けた表現が見られ、またそれを戒律に通じた 僧である律師として擬人化されている。 以上のように『犬筑波集』 、『餅酒歌合』 、『精進魚類物語』の用例 では、いずれも「かいもちひ」と仏教の戒律を保つ持戒を掛けた表 現が用いられる。このことから中世において「かいもちひ」は持戒 との関連から、特別な食べ物として扱われていた可能性が考えられ る。こうした前提に基づけば室町時代後期の成立で作者未詳の御伽 草子『常盤嫗物語』に見られる「かいもちひ」の用例の意味合いが 理解さ れ る。 「さ の み い ふ も は づ か し や。か い も ち ひ こ そ い づ れ よ り。 片時へ む し も わ す ら れ ね。あ ら あ ぢ き な や。南無阿弥陀仏」 と あ り、 他の何よりも「かいもちひ」という食べ物を忘れることが出来ない という老女の言葉がある。この用例は仏教の戒律を堅く守る持戒と 掛けて、特別な食べ物として「かいもちひ」が扱われていた当時の 文化的背景によって生じた老女の言葉の重みではないだろうか。 第三節 宴席における「かいもちひ」 『 徒 然 草 』 の 第 二 一 六 段 は 最 明 寺 入 道 こ と 北 条 時 頼 が 鶴 岡 八 幡 宮 に参詣した帰りに、足利左馬入道こと足利義氏の屋敷へと赴き歓待 を受ける話である。その宴席で出された食べ物は「一献にうちあわ び、 二 献 に え び、 三 献 に か い も ち ひ に て や み ぬ 」 と あ り、 は じ め に鮑の肉を薄く長く切り延ばして干したものである打鮑、次に海老、 最後に「かいもちひ」が出されたという内容であった。本節ではこ の三献という形式の歴史の中で「かいもちひ」が見られるか検討し ていく。 酒宴で三献が出されるという形式は、中世において広く行われる ものであった。鎌倉末期の成立とされる食膳や食事作法の有職故実 を記した正玄の『世俗立要集』には、宮中の警衛や雑役につく滝口 の武士の待肴の内容が記されている。 一蔵人所瀧口ノマチザカナ。 マチザカナトイフハ。事ヲスル日イマダヨラヌサキニ。ザセ キニスヘマウクルナリ。高ツキ廿前ヲ中ヲ人トヲラヌヤウニ。 タ カ ツ キ ノ ツ メ ヲ ア ハ セ タ ル ガ ゴ ト ク。 カ タ 〳〵 十 前 ニ テ。 二行ニスフベシ。人一人マヘニ一本ナレバ。アヒヲヒロクス フベシ。 ヲヒザカナ三獻内。 55 56 57
ハジメノ一獻。クラゲウチアハビ。ニテ。 次。ウチミ。ツキ。時ノ美物。 サテ三獻ヲハリテ。トリアゲテ饗ヲスウ。 滝口の武士は待肴として高杯を二列に十膳並べ追肴として持って 出て、一献は海月と打鮑、二献には生魚の打身、三献には美物とし て季節のご馳走を出し、三献が終わった後に新たに宴席を設けるた め に 饗 を 据 え る と あ る。 『 徒 然 草 』 の 第 二 一 六 段 で「 三 献 に か い も ちひにてやみぬ」とこれで終わったと記されているのは、饗宴が後 に設けられなかったことを示している。第二一五段、第二一六段は いずれも北条時頼が質素倹約であったことを記した内容であること から、後に饗宴が行われない簡素な形式であったことを示したので あろう。 また『世俗立要集』では、武家の三献の内容について解説がなさ れている。 一武家ノサカナノスエヨウ 承久以降武家ノ肴ノ様ヲミルニ如此。梅干ハ僧家ノ肴也。而 ヲ俗家ニ用ラルヽ事如何。若漢土ノ作法歟。漢土ニ鴆ト云鳥 アリ。其鳥ノ羽ノ拘入ツル酒ヲ鴆酒ト云。此酒ヲ飲ツレバ必 死 ス ト 云 々。 其 薬 ニ 梅 干 ヲ 用 ル。 而 ヲ 若 敵 ア リ テ 鴆 酒 モ ヤ スヽムルト。ハシノ臺ニ梅干ヲ一置ト云々。而ニ日本ニハ鴆 酒ナシ。彼梅干ヲ肴ニスフベキナリトモ。上ニスフル事如何。 式ノサカナニ精進ヲモチイル事。イリ豆ノ例歟。縦梅干ヲス フ ベ キ ナ リ ト モ。 ク ラ ゲ ラ ス ヘ ラ レ タ ル 所 脇 ニ ス フ ベ キ カ。 予元日ノワウバンツトメタリシハサゾスヘタリシ。ムメボシ ノ所ニ。クラゲヲトリカヘタリ。 滝口の武士の待肴と武家の肴の据え方は概ね同じであるが、梅干 を入れ る と い う点が異なって い る。そ の理由に つ い て『世俗立要集』 は中国の文献に見られる毒を持った鳥である鴆の毒消しとして、梅 干を用いたのが始まりだとしている。滝口の武士の待肴や武家の肴 の形式は『徒然草』にある「一献にうちあわび、二献にえび、三献 にかいもちひ」とある内、最初に打鮑を出すという形式が共通して いる。一方、二献に生魚の打身や三献に季節のご馳走を出すという 形式は大きく異なっている。 こうした『世俗立要集』に記された三献の形式は後代にも継承さ れている。永正元年(一五〇五)に小笠原備前守政清が記した秘伝 書の『食物服用之巻』には、式三献の内容について以下のように記 されている。 一 心のしき三こんとて口傳あるよし候。梅干すえ候事は。人 のまへにて物にむせじためぞと。梅干は口に酢たまるゆへ也。 又くらげをすえ候事は。ほねあるものもちひがたき人のため 58 59
にや。 (中略)二献目男はさしみ。女はうちみ。 (中略)三こ ん目このわたいり。 一献に梅干を出すのは食べ物でむせるのを防ぐためであり、海月 を出すのは骨のあるものを食べることが出来ない人のため、二献に は男性は刺身で女性は打身、三献には魚介類の腸を煎り煮にした腸 煎を出すとある。意味合いの解釈が加えられているが一献の海月や 二献の打身については滝口の武士による待肴の内容と共通しており、 三献の形式が継承さ れ た こ と が わ か る。一方、 『徒然草』に あ る「二 献にえび、三献にかいもちひ」を出すという三献の形式はこれらの 資料では見られない。三献という酒宴の文化の形式が変遷する過程 の 一 例 と し て、 『 徒 然 草 』 第 二 一 六 段 に 記 さ れ た 内 容 を 検 討 す る 必 要性があるだろう。 おわりに 本論文では「かいもちひ」について『徒然草』の注釈書でどのよ うな説が考えられてきたのか調査し、通説であるぼた餅説とそばが き説の妥当性を検討し、どのような食べ物として考えるべきか三つ の視点から述べてきた。 最後に「かいもちひ」という名称についての考察を述べる。第三 章第一節で触れた『犬筑波集』の句で「かいもちもえつかぬ宿はへ の こ か な 」 と あ る よ う に、 「 か い も ち ひ 」 は 搗 い て 作 る 餅 で は な か ったと考えられる。ではどのようにして「かいもちひ」は作られて いたのだろうか。小川直之氏は「餅のいろいろ―多様な材料とその 製法―」において、日本各地で作られている餅の製法を五つに分類 している。 粉 を 水 や 湯 で こ ね て か ら、 握 っ て 蒸 し た 餅( 粉 蒸 し 餅 )、 蒸 し て か ら 搗 い た 餅( 粉 搗 き 餅 )、 茹 で て 握 っ た 餅( 粉 茹 で 餅 )、 焼いた餅(粉焼き餅)と、ソバガキのように粉を熱湯で掻いた 餅(粉掻き餅)とがある 小川氏の分類の中でそばがきは熱湯で掻いた餅(粉掻き餅)とい う製法の分類に当てはまる。第三章第二節で触れたそばかいもちと いう名称は、このようにして蕎麦粉を掻いて作った餅という製法に 由来すると考えられる。こうした掻いて作るという動作に由来して、 あめんぼをカイモチカキという名称で呼ぶ地方がある。民俗学研究 所 編 の『 総 合 日 本 民 俗 語 彙 』 で は「 カ イ モ チ カ キ 」 の 項 目 で「 大 阪・中国地方の一部でみずすましのこと。ミコノマイなどともいい、 この虫には異名が多い。水面に浮かんで旋回し、渦を巻くような動 作 を 見 て 命 名 し た も の 」 と あ る。 大 阪 や 中 国 地 方 の 一 部 で は あ め んぼが手足を動かす様子と「かいもちひ」を作る際の様子が似てい る こ と に由来し、 「カイモチカキ」と い う名称で呼ば れ て い る と あ る。 60 61 62 63
こうしたそばかいもちや方言から「かいもちひ」という食べ物は搗 いて作る餅ではなく、そばがきのように掻いて作る餅であることに 由来して生じた名称ではないかと考えられる。 本論文において「かいもちひ」について解明することが出来た点 は必ずしも多くはないが、先行研究について整理を行い、問題点を 明 ら か に し て き た。 今 後 の 課 題 と し て は 広 く 餅 類 の 歴 史 の な か で 「 か い も ち ひ 」 が ど の よ う に 位 置 付 け ら れ る か、 ま た 酒 宴 の 形 式 の 中で「かいもちひ」が見られるのか、より調査検討していきたい。 注記 本 論 文 は 昨 年 発 表 し た、 久 保 田 一 弘「 『 か い も ち ひ 』 考 ―『 徒 然草』注釈書を中心に―」 (『東洋大学大学院紀要』五四巻・二〇一 七年)を踏まえた内容となっている。 本 章 で 扱 う 注 釈 書 は 前 掲 の「 『 か い も ち ひ 』 考 ―『 徒 然 草 』 注 釈書を中心に―」で調査した内容の考察である。 貞 享 二( 一 六 八 五 ) 年 に 完 成 し た 辞 書『 鸚 鵡 抄 』 に は「 か い も ち ひ 」 の 項 目 に「 野 云 撹 餅 」 と あ り、 『 野 槌 』 で「 撹 餅 」 と 記 述 さ れ て い る こ と が 引 用 さ れ て い る。 ( 荒 木 田 盛 徴 ほ か 『 鸚 鵡 抄 』 雄 松 堂書店・一九八〇年・一〇七二頁) 中 田 祝 夫『 中 世 古 辞 書 四 種 研 究 並 び に 総 合 索 引 』( 風 間 書 房・ 一 九七一年)三八五頁 松尾聡『新纂徒然草全釈』 (清水書院・一九五三年)三三二頁 『 新 纂 徒 然 草 全 釈 』 で 挙 げ ら れ て い る 方 言 辞 典 と は、 一 九 五 一 年 に東京堂から出版された東條操編の『全国方言辞典』のことを指す。 神 田 豊 穐『 日 本 俳 書 大 系 6 貞 文 俳 諧 集 』( 日 本 俳 書 大 系 刊 行 会・一九二六年)二五七頁 国 書 刊 行 会 編 輯『 松 屋 筆 記 第 一 』( 国 書 刊 行 会・ 一 九 〇 八 年 ) 一七二頁 土 井 忠 生 ほ か 編 訳『 日 葡 辞 書 邦 訳 』( 岩 波 書 店・ 一 九 八 〇 年 ) 一九七頁 小 学 館 国 語 辞 典 編 集 部 編『 日 本 国 語 大 辞 典 第 二 版 第 十 二 巻 』 ( 小 学 館・ 二 〇 〇 一 年・ 一 二 〇 頁 ) の「 ぼ た も ち 」 の 項 目 で は「 糯 米と粳米とをまぜてたき、軽くついたものを、ちぎって丸め、あず き餡、きなこなどをまぶしたもの」とある。この定義に基づき、本 節では小豆餡ときなこがいつ頃から見られるのかという食文化の視 点から、ぼた餅説の考察を行った。 塙 保 己 一 ほ か 編『 続 群 書 類 従・ 第 三 十 輯 下 雑 部 』( 続 群 書 類 従 完 成会・一九二八年)四二七頁 京都大学文学部国語学国文学研究室編『諸本集成倭名類聚抄』 (臨川書店・一九六八年)七四二頁 大塚光信ほか校注『中華若木詩抄 湯山聯句鈔』新日本古典文 学大系 53(岩波書店・一九九五年)三二一頁 土 井 忠 生 ほ か 編 訳『 日 葡 辞 書 邦 訳 』( 岩 波 書 店・ 一 九 八 〇 年 ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
二四頁 土井忠生ほか編訳『日葡辞書 邦訳』 (岩波書店・一九八〇年) 二十六 〜 二十七頁 塙 保 己 一 ほ か 編『 続 群 書 類 従・ 第 三 十 輯 下 雑 部 』( 続 群 書 類 従 完 成会・一九二八年)四二七頁 京 都 大 学 文 学 部 国 語 学 国 文 学 研 究 室 編『 諸 本 集 成 倭 名 類 聚 抄 』 (臨川書店・一九六八年)七四二頁 国 田 百 合 子『 女 房 詞 の 研 究 』 所 収『 女 房 躾 書 』( 風 間 書 房・ 一 九 六四年)四五八頁 土 井 忠 生 ほ か 編 訳『 日 葡 辞 書 邦 訳 』( 岩 波 書 店・ 一 九 八 〇 年 ) 三八二頁 上 松 寅 三 校 訂 編『 石 山 本 願 寺 日 記 下 巻 』 所 収『 私 心 記 』( 清 文 堂出版・一九三〇年)四九〇頁 辻 善 之 助 編『 多 聞 院 日 記 第 三 巻 』( 角 川 書 店・ 一 九 六 七 年 ) 三 九七頁 木 村 三 四 吾 ほ か 校 注『 竹 馬 狂 吟 集 新 撰 犬 筑 波 集 』 新 潮 日 本 古 典集成第七七回(新潮社・一九八八年)二二五頁 木 村 三 四 吾 ほ か 校 注『 竹 馬 狂 吟 集 新 撰 犬 筑 波 集 』 新 潮 日 本 古 典集成第七七回(新潮社・一九八八年)二二五頁 木 村 三 四 吾 ほ か 校 注『 竹 馬 狂 吟 集 新 撰 犬 筑 波 集 』 新 潮 日 本 古 典集成第七七回(新潮社・一九八八年)二二五頁 文 化 庁 編『 日 本 民 俗 地 図 Ⅰ( 年 中 行 事 1) 』( 国 土 地 理 協 会・ 一九六九年)五一一 〜 五四四頁 青 木 和 夫 ほ か 校 注『 続 日 本 紀 二 』 新 日 本 古 典 文 学 大 系 13( 岩 波 書店・一九九〇年)一二三頁 森田悌『続日本後紀(上) 』(講談社・二〇一〇年)三〇六頁 永 積 安 明 ほ か 校 注『 古 今 著 聞 集 』 日 本 古 典 文 学 大 系 84( 岩 波 書 店・一九六六年)三〇六頁 豊 田 武 ほ か 校 訂『 山 科 家 礼 記 第 二 』( 続 群 書 類 従 完 成 会・ 一 九 六八年)二二七頁 豊田武ほか校訂『山科家礼記 第二』 (続群書類従完成会・一 九六八年)二二八頁 玉 村 竹 二 ほ か 校 訂 編『 蔭 涼 軒 日 録 巻 三 』( 史 籍 刊 行 会・ 一 九 五 四年)五三四頁 北原保雄編『き の ふ は け ふ の物語 研究及び総索引』 (笠間書院 ・ 一九七三年)一四頁 女 房 言 葉 に つ い て 記 し た『 女 重 宝 記 』 に は「 そ ば か い も ち は う す ず み」と あ る。国田百合子『女房詞の研究 続編』 (風間書房 ・ 一九七七年)六一五頁 辻 善 之 助 編『 多 聞 院 日 記 巻 五 』( 角 川 書 店・ 一 九 七 八 年 ) 二 二 頁 国 書 刊 行 会 編 輯『 松 屋 筆 記 第 一 』( 国 書 刊 行 会・ 一 九 〇 八 年 ) 一〇四頁 信 濃 史 料 刊 行 会 編『 信 濃 史 料 第 十 四 巻 』( 信 濃 史 料 刊 行 会・ 一 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
九五九年)一二頁 吉 井 始 子『 翻 刻 江 戸 時 代 料 理 本 集 成 第 一 巻 』( 臨 川 書 店・ 一 九 七八年)三〇 〜 三一頁 岸 上 操 編『 近 古 文 藝 温 知 叢 書 第 三 編 』( 東 京 博 文 舘・ 一 八 九 一 年)四〇頁 増 補 史 料 大 成 刊 行 会 編『 歴 代 宸 記 』( 臨 川 書 店・ 一 九 六 五 年 ) 一 六頁 塙 保 己 一 編『 群 書 類 従 第 六 輯 律 令 部 公 事 部 』( 続 群 書 類 従 完 成會・一九三二年)五三九頁 中 田 祝 夫 ほ か『 古 本 下 學 集 七 種 研 究 並 び に 總 合 索 引 』( 風 間 書 房・一九七一年)四九頁 中 田 祝 夫 ほ か『 古 本 下 學 集 七 種 研 究 並 び に 總 合 索 引 』( 風 間 書 房・一九七一年)五三九頁 和田英松註解・所功校訂『建武年中行事註解』講談社学術文庫 (講談社・一九八九年)三一九頁 菅 原 壽 孝「 十 月 亥 子 餅 に つ い て 」 日 本 風 俗 史 学 会 編『 風 俗 史 学 』 二一号(二〇〇二年一〇月・つくばね舎) 盛 本 昌 広『 贈 答 と 宴 会 の 中 世 』( 吉 川 弘 文 館・ 二 〇 〇 八 年 ) や 「織豊期における能勢餅の贈答」 『和菓子』二一号(虎屋文庫・二〇 一四年三月)で、中世の亥の子行事について論じられている。 伊藤信博ほか編『 「酒飯論絵巻」影印と研究 文化庁本・フラ ンス国立図書館本とその周辺』 (臨川書店・二〇一五年)三二頁 中 国 楚 の 政 治 家 で あ っ た 屈 原 の 故 事。 中 傷 に あ っ て 江 南 に 追 放 され、汨羅の淵に身を投じた。その後、楚の国の人々によって、屈 原が身を投げた汨羅で太鼓を打って、その音で魚を脅し、粽を投げ て、屈原の死体を魚がたべないようにしたことによる。伊藤信博ほ か 編『 「 酒 飯 論 絵 巻 」 影 印 と 研 究 文 化 庁 本・ フ ラ ン ス 国 立 図 書 館 本とその周辺』 (臨川書店・二〇一五年)三六頁 豊 田 武 ほ か 校 訂『 山 科 家 礼 記 第 一 』( 続 群 書 類 従 完 成 会・ 一 九 六七年)六五頁 豊田武ほか校訂『山科家礼記 第一』 (続群書類従完成会・一 九六七年)一九三頁 豊田武ほか校訂『山科家礼記 第三』 (続群書類従完成会・一 九七〇年)二五二頁 豊 田 武 ほ か 校 訂『 山 科 家 礼 記 第 四 』( 続 群 書 類 従 完 成 会・ 一 九 七二年)五八頁 木 村 三 四 吾 ほ か 校 注『 竹 馬 狂 吟 集 新 撰 犬 筑 波 集 』 新 潮 日 本 古 典集成第七七回(新潮社・一九八八年)二二五頁 宮 内 庁 書 陵 部 編『 桂 宮 本 叢 書 第 十 七 巻 』 所 収『 餅 酒 歌 合 』( 養 徳社・一九五六年)三七四頁 福 田 秀 一「 「 か い も ち ひ 」 考 」( 『 解 釈 』 一 〇 巻 六 号・ 教 育 出 版 セ ンター・一九六四年)八頁 横 山 重 ほ か 編『 室 町 時 代 物 語 大 成 第 七 』( 角 川 書 店・ 一 九 七 九 年)二八三頁 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55
塙 保 己 一 編『 群 書 類 従 第 二 十 八 輯 雑 部 』 所 収『 常 盤 嫗 物 語 』 (続群書類従完成會・一九三二年)六二二頁 『 徒 然 草 烏 丸 本 下 』 勉 誠 社 文 庫 39( 勉 誠 社・ 一 九 七 八 年 ) 三 〇 九頁。 塙 保 己 一 編『 群 書 類 従・ 第 十 九 輯 管 弦・ 蹴 鞠・ 鷹・ 遊 戯・ 飲 食部』 (続群書類従完成会・一九三二年)七六一 〜 七六二頁 塙 保 己 一 編『 群 書 類 従・ 第 十 九 輯 管 弦・ 蹴 鞠・ 鷹・ 遊 戯・ 飲 食部』 (続群書類従完成会・一九三二年)七六二頁 塙 保 己 一 編『 群 書 類 従・ 第 十 九 輯 下 遊 戯・ 飲 食 部 』( 続 群 書 類 従完成会・一九二五年)三〇九 〜 三一一頁 木 村 三 四 吾 ほ か 校 注『 竹 馬 狂 吟 集 新 撰 犬 筑 波 集 』 新 潮 日 本 古 典集成第七七回(新潮社・一九八八年)二二五頁 大 島 建 彦 編『 餅 双 書 フ ォ ー ク ロ ア の 視 点 10』 所 収、 小 川 直 之 「餅のいろいろ―多様な材料とその製法―」 (岩崎美術社・一九八九 年) 民 俗 学 研 究 所 編『 総 合 日 本 民 俗 語 彙 』( 平 凡 社・ 一 九 五 五 年 ) 三 一八頁 参考文献 * 参考文献については紙幅の関係で引用文献にあげていない書籍を 記した。 ・中村義雄『王朝の風俗と文学』 (塙書房・一九六二年) ・古川瑞昌『餅の博物誌』 (東京書房社・一九七二年) ・山中裕『平安朝の年中行事』 (塙書房・一九七二年) ・阪本寧男『モチの文化誌 日本人のハレの食生活』 (中央公論社 ・ 一九八九年) ・ 渡 部 忠 世 ほ か『 も ち( 糯・ 餅 )』 も の と 人 間 の 文 化 史 89( 法 政 大 学出版局・一九九八年) ・ 安 室 知『 餅 と 日 本 人「 餅 正 月 」 と「 餅 な し 正 月 」 の 民 俗 文 化 論 』 (雄山閣出版・一九九九年) ・青木直己『図説和菓子の今昔』 (淡交社・二〇〇〇年) ・赤井達郎『菓子の文化誌』 (河原書店・二〇〇五年) ・野本寛一『栃と餅』 (岩波書店・二〇〇五年) ・ 服 藤 早 苗 編『 女 と 子 ど も の 王 朝 史 ― 後 宮・ 儀 礼・ 縁 』( 森 話 社・ 二〇〇七年) ・鈴木健一『風流江戸の蕎麦 食う、描く、詠む』 (中央公論新社 ・ 二〇一〇年) ・ 服 藤 早 苗 編『 平 安 朝 の 女 性 と 政 治 文 化 : 宮 廷・ 生 活・ ジ ェ ン ダ ー』 (明石書店・二〇一七年) ・古川瑞昌「餅酒論の系譜」 (『風俗』第一〇号・日本風俗史学会・ 一九七一年八月) ・北畠直文「食の媒介機能―餅に関する考察―」 (『人文学報』第八 六号・京都大学人文科学研究所・二〇〇二年三月) 56 57 58 59 60 61 62 63
・森多佳江「紫の上の『亥の子餅』―逸脱の三日夜儀礼―」 (『國學 院大學大学院文学研究科論集』第三八号・國學院大學大学院文学研 究科学生会・二〇一一年三月) ・橋爪伸子「近世京都における禁裏御所の玄猪餅にみる菓子の機能 ―霊力が宿る媒体―」 (『会誌食文化研究』第一二号・一般社団法人 日本家政学会食文化研究部会・二〇一六年一一月)
The study of Kaimochihi : Focusing on
“Tsurezuregusa”
KUBOTA, Kazuhiro
(Summary)
“Kaimochihi” food is seen on “Tsurezuregusa”. About Kaimochihi In previous studies “botamochi” theory and “sobagaki” theory have been advocated. But now the reason is unclear both theories.
In the first chapter of this paper shows the result of investigation on “Kaimochihi” in the commentary on “Tsurezuregusa” in modern and modern times. In Chapter II we examined the validity of the “Botamochi” theory of “Kaimochihi” and the “Sobagaki” theory. In the third chapter about “Kaimochihi”, I studied from three new viewpoints, “Inoko” “Zikai” and “Banquet”.