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感情って科学の概念なんだろうか

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日本感情心理学会第27回大会特別講演

感情って科学の概念なんだろうか

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戸田山 和久(名古屋大学)

Is emotion a scientific concept?

Kazuhisa Todayama ( ) ご紹介にあずかりました戸田山と申します。よろし くお願いいたします。ちょっと今,なぜか汗びっしょ りなんです。これは冷汗かもしれません。だとする と,自分が今,どういう感情を感じているのかって, よくわかんないんですけども。今日は,もっとわかん ない問題,つまり「感情っていうのは科学の概念なん でしょうか」ということをお話しさせていただいて, 皆さんと一緒に考えたいと思います。 1. 心理学のユニークさ まず最初に背景となる私の問題意識を述べておきま す。私は哲学者ですが,特に科学哲学を専門にしてい ます。科学のいろいろな分野について,哲学的に反省 することが仕事なんですが,心理学というのは極めて ユニークな科学だと考えています。ユニークであると ともに,それがある意味ちょっと弱点でもあるのかな 思っていることがあります。それをまず,お話しした いと思います。 私のような外野から見ると,非常にユニークな仕事 ですね,心理学は。どういうところがユニークなので しょうか。学問的な物理学に対してfolk physicsとい うのがあります。これは,普通の人,つまり物理学者 でない人が日常的に生きるために使っている物理的な 概念やら理論めいたもの(「PROTO理論」と呼んで おきましょう)のことです。球が飛んでくるのを私た ちは避けることができるわけですけれども,それは, 物体の運動というのはおおよそどんなものかと何とな くわかっているからでしょう。こうした知識内容を folk physicsと言います。folk physicsには,そこに出 てくる独特の概念があって,例えば「いきおい」なん ていうのはそうでしょう。あるいは,昔,『巨人の星』 で星 飛雄馬が「おまえの球は軽い」とか言われて, ガ∼ンと。「軽い」。あれは,別に硬式球ですから,重 さは変わらないんですね。だから,質量の意味ではな いわけですね。でも,軽い・重いという言葉を使って いるわけです。 あるいは,folk biologyもありますね。学問的な生 物学に対するものとしてあります。これもわれわれが 生き物を理解したり,分類するために,日常的に使っ ているわけです。恐らく民族ごとに違っていたりしま す。虫というのには,かつての日本だとヘビも入って いたんですね,長虫というね。昆虫だけではなくて。 あるいは,トーテムという,動物なんだけれども,わ れわれの祖先であるみたいな,そういう理解もあるわ けですよね。こういう分類や理解は,科学としての物 理学や生物学はでは使わないんですね。そうしたfolk physicsやfolk biologyを研究するためには別の分野が あるわけです。たとえば,文化人類学とか,発達心理 学と教育心理学とかが,folk physicsやfolk biologyを 研究している。なんですけど,このfolkな理論と科学 としての理論の区分けが,folk psychologyと心理学 の関係については,かなり微妙ですよね。成り立って いないんじゃないかと思います。 folk psychologyというのは心理学で,二重の使わ れ方をしているように見えます(Figure 1)。ここに 普通の人たちがいる。こっちにも普通の人たちがい て,普通の人たちは,他者を理解するために,folkな 概念と,folkな前理論(PROTO理論)のようなもの を使って,雑に説明したり,予測したりして,社会生 活を営んでいます。そのときに例えば,性格という ようなfolkな概念を使っています。「この人はこうい う性格だから,こうだよね」みたいなことを言ってい ます。ここに心理学者が登場するとどうなるか。心理 学者が目指しているのは,科学的な概念と理論によっ て,われわれの心にメカニズム説明を与えましょうと いうことだと思われます。これをやっていこうとする ときにも,「性格」という概念を使うんですよ,folk psychologyから借りてきて。もちろん一定の洗練を 施します。ちゃんとメカニズムモデルに組み込もうと します。それから,客観的(間主観的)に測定方法 1 本稿は東海学園大学にて2019年6月30日に開催された日本 感情心理学会第27回大会(河野 和明大会委員長)の特別講演の 内容を,演者の了承を得て,編集委員会で記録したものである。 紙幅の都合により,司会および質疑応答の内容は割愛した。

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を考えて,尺度化して操作的に定義するということ をしますが,基本的にfolk psychologyから借りてく るわけです。そうすると,心理学者にとって,この folk psychology由来の「性格」概念は,2つの役割を 果たしています。1つは,研究対象としての役割です。 folkな心の理解で使われる性格の概念について心理学 的な研究をしましょうということですね。このように 性格概念は心理学の研究対象です。しかし一方で,自 分たちが使っている科学的概念「性格*」のルーツと しても使っている,つまり研究を進めるためのリソー スとして使っています。これが,私が言う二重の使わ れ方という意味です。 これをそれぞれ「使用1」と「使用2」ということ にしますね。「使用1」というのは,心理学の研究対 象として措定する。folk psychologyが人々の心に備 わっていて,性格という概念を人々が持っていて,そ してそれを使っていろいろやっている。そのfolkな性 格概念を研究しましょう,というふうに心理学の研究 対象として用いるわけです。と同時に,使用2もしま す。心理学理論をつくっていく際の研究リソースとし て借りてきて,それに操作的定義とか尺度化といった 一定の洗練を施して,科学的概念として使うというこ とをやります。folk psychologyはこういうふうにし て,心理学の中で二重の使われ方をしています。その ことについて,心理学者自身も,「大丈夫かなあ?」っ て思うことがあるらしくて,Garth Fletcherという心 理学者が,大変面白い本を書いてくれました2。1995

年に「The Scientific Credibility of Folk Psychology」 という本をお書きになって,その中で今言った二重の 役割を,folk psychologyは心理学のなかで果たして いますね,そんなことをやっていていいのかしらとい う批判的なトーンで指摘しています。 folk psychologyを研究のリソースとして,科学的 概念や理論のプロトタイプとして,あるいは,リソー スとして使うというのが使用2ですけども,使用2の 実態をもうちょっと詳しく見てみましょう。彼はそれ を3つに類別しています。 1つは,科学的心理学もfolk psychologyの大枠を 使っている。例えば,心的状態とか傾向性が行動の原 因になって,それは心の中にあって…といった基本前 提ですね。あるいは外の世界の表象が心の中にあると いうようなことがらは,「表象」なんて言い方はしな いかもしれませんが,folkなpsychologyでもおおむ ね前提されている。そしてその前提を科学的な心理学 も採用している。 2つ目に,folk psychologyが使っているカテゴリー や概念がある。欲求,態度,信念,感情,報酬,態度, 意図,これはみんな,実はもともと日常語なんですね。 あるいは,こういう人はこういうことをするもんだと か,こういうことを欲している人は,こういうことを するもんだというような帰納的一般化が,もちろん一 定の洗練を経てですけれども,心理学の中で使われ続 ける。 3つ目に,folk psychologyが「規範的モデル」の供 給源になっている。こういう,大抵人はみんなこうす るよねって,みんなが,素人のみんながそう思ってい るやつが,規範的モデルになる。 この使用2は要注意だというのがGarth Fletcherの 主張です。だって,どんなfolkな概念や民間理論も科 学で使用2できるわけではない。だって,物理学はそ うしない。生物学もそうしてないわけです。 私もこれ,同意するんですけど,今日はみなさんに けんか売りに来たわけではないので。でも,現状の心 理学って,folk psychology由来のカテゴリーを使用2 するときの吟味が,割と手薄かなという気がします。 やっぱりそれはしょうがなくて,心理学に特有の2つ の事情が絡んでいると。先ほど言いました,二重の使 い方がされているんですね。研究対象もfolk psychol-ogyの持ち主なので,folk psychologyの構成要素が研 究対象として含まれている一方で,研究のための概念 装置もfolk psychology由来のものを使う。というこ とで,使用1と使用2は区別しなきゃいけないんだけ ど,両者の混同が起きやすい,そういう運命にあると いうのが心理学ということですね。その,かなり微妙 なことをやっているんだけど,「構成概念ですから」 という言い訳の方法が心理学にはあって,それを多用 することによって,結構いい加減なことをやっている というふうにはたからは見える…。でも,今日はこれ はちょっと省略します。 こんな例をFletcherは挙げています。素人の方々 をtargetとして,ある性格特性の尺度を作ろうとして いるとしましょう。そこで,その性格特性を持つ人が いかにもやりそうな行動をリストアップします。で, 今度は別のグループの素人さんたちを用意して,その Figure 1.  2 Fletcher, G. (1995). . Lawrence Erlbaum Associates.

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リストから当の性格特性の持ち主が最も典型的にやり そうな行動をその中から選んでもらう。で,その成績 の良かった項目を,測定尺度として使いましょう。み たいなことをやる。素人評定者のfolk psychological な判断を,人格特性の行動プロトタイプの構成と評価 という科学的概念として使うと。こういうふうにし て,folk psychologyが理論構成のかなり核心的な部 分に,いつの間にか導入されてしまうと。ひょっとし てこれはまずいんじゃないかということですね。 どこがまずいかというと,「みんなどうですか」と, 「みんなどういうふうにfolk psychologyをやっていま すか」ということを聞いて取り出したfolkな性格特 性のカテゴリーを使用1じゃなくて使用2していると いうんですね。folk psychologyを対象とした研究で, みんなが性格というものをどう理解して,どういうふ うに使っているのか,ということを調べるために使う ならいいんですけど。そうやって取り出して尺度化し た人格特性を,これは構成概念なんですけど,今度は 素人さんの用法を表すためだけじゃなくて,科学的な 人格理論の説明項として用いる。そのときは使用2さ れています。これが問題だというのが,Fletcherのメ インの見立てです。 folk psychology由来の概念を決して使っちゃいけ ないというわけではないんですが,でも,使用2する ためには,やはりそのfolk psychology由来の概念な いし理論を科学の内部で使うときに,ある種の正当化 が必要だと思うんですね。でも,問題は,そのときに どの程度正当化されている必要があるのかということ ですね。この問題をやや科学哲学っぽく言い換えてみ ましょう。folk psychology由来のカテゴリーを使用2 して,同時に,「心理学は単なる行動予測じゃなくて, 行動の因果的説明を与える。メカニズム説明を与える んだ」と言いたいならば,このfolk psychology由来 のカテゴリーが,何らかの意味で「実在的」である必 要がある。例えば,感情というのが実在的じゃなきゃ いけないし,本当になきゃいけないし,信念というの も本当になきゃいけないし,因果的パワーをもってい ないといけない,ということです。 folk psychology由来の概念の科学的な使用,ある いは,使用2の正当化の問題。これは心理学全体に当 てはまる問題です。したがって,感情心理学も例外で はないと思います。しかし一方で,感情心理学におい ては,この問題は実はすでに気づかれ論じられてきた のではないかと思われるのですね。ただし,ちょっと 目立たないかたちで。つまり「感情は自然種か」とい う論争です。これは,心理学者と科学哲学者の両方を 巻き込んだ論争になっております。少なくとも英語圏 ではそのように展開をしているように見えます。今日 の私の話題提供では,この論争をサーベイして,私な りにコメントしたいと思います。まず,「自然種」っ て何かをご説明しましょう。そのうえで,感情が自然 種なのかという,ある種,論争のようなものが起きて いるわけですけど,これについてまとめます。で,最 後に,その論争というのは結局何だったの?というこ とを評価させていただくという段取りで進めましょ う。 2. 「自然種」って何 自然種とは何か。natural kindの翻訳なんですけど も,まず非常に大雑把な特徴づけをしましょう。すご く雑な言い方になりますよ。 (1) 存在論的な特徴づけ:Ontological Independence 人間はこの世のいろんなものを分類していくわけ です。カテゴライズしていくわけです。そのときに, conventionalで,arbitraryで,interest-drivenな, 何 か「こちらの都合」で分けるみたいなですね。それゆ えに,contingent,つまり分類する側の偶然の都合と か,人間のやりたいことで勝手に分けているんじゃな くて,われわれとは独立にすでに,世界の側で分かれ ている。世界の側で何かもうミシン目が入っている。 それに沿って分けた実在的なカテゴリー,向こうで既 に分かれてるカテゴリーを発見して取り出したものが 自然種です。例えば,「鱗翅目」って蝶や蛾ですけど も,鱗翅目は自然の側で1つのグループを成していて, それを人間があとからカテゴライズしてそう名づけた というんで,これは自然種でしょうと。でも,「害虫」 というカテゴリーは,人間の生活の必要性に応じて分 けているわけで,人間がどういうふうな生活を営んで るかってことに応じて,何が害虫かが変わってきちゃ うんですね。そういう意味で,conventionalだし,ar-bitraryだし,こんな生活を営みたいというinterestに 依存した,そういう分類です。害虫というのは自然種 じゃないと。人間が勝手に分けているだけと。これは わかりやすいと思います。 自然種の典型例ってどんなものでしょう。例えば, 陽子,電子とかみたいな素粒子の種類であるとか。そ れから,酸素とか窒素とか,いわゆる元素。water のような化合物。それから,赤色巨星(red giant)。 何かすごくでっかくなっちゃって,ブヨブヨになっ ちゃった星です。もうすぐ超新星爆発しますよみたい な恒星です。それから,tigerみたいな生物の種です ね。こういったものが典型例とされています。でも, 1つ1つについて,本当にそうなの?という議論があ りえます。まあでも,これらが典型例でしょう。これ らが自然種でなかったら,じゃあ,自然種ってないよ ねということになっちゃうと思います。 で,自然種でないものの典型例は? 先ほど言い ました害虫なんかはそうですし,貴金属(precious metal)。貴金属というのは,人間の価値観で分けてい

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るわけですね。それから,Libra。赤色巨星と同じく 天体の名前ですけど,これは,てんびん座。星座とい うのは,天球上に散らばっている星をこっちの都合で 勝手につないで,「てんびん座」ってまとめているわ けですね。あるいは,petも自然種ではないでしょう。 動物を分類したものではありますが。 (2)認識論的有用性による特徴づけ そうしますと,次の問いが生じます。じゃあ,自然 種ってどういう使用上の特徴を持つのかと。人間が勝 手に分けるんじゃなくて,自然の側でそもそも分かれ ているグループ,それが自然種だとすると,それをど ういうかたちでわれわれは使うことができるのかで すね。projection(投射)とか,induction(帰納)と か,extrapolation(外挿)に使える,explanation(説 明)にも使える,というのが答えです。これまでに調 べたエメラルドのサンプルがすべて緑色だったとしま しょう。そしたら,次のサンプルも緑色でしょうと投 射できる。あるいは未調査のものもふくめてエメラル ドってすべて緑色なのではないかと帰納できる。それ は「緑色」あるいは「エメラルド」というカテゴリー が自然種だからです。これを,自然種じゃないものに ちょっと取っ替えてみましょう。どうなるでしょう か。これまでに調べたエメラルドはすべて「調査済 み」なんですね,これまでに調べたんだから。だか らって,次のまだ調べてないやつも調査済みだろうっ て投射したら,変ですよね。これは「調査済みであ る」というカテゴリーが,こちらの都合で決まる自然 種じゃないものだからです。 あるいは,これまで調べた蝶は,すべて完全変態を すると。だから,この蝶もそうだねと。こういう投 射は可能でしょう。だけど,これまでに調べた害虫 (「害虫」は先ほど言いましたように,自然種ではあり ません)は,すべて完全変態をするということから, この害虫もそうだろうと投射することはできません。 ダニだったりして。また,なぜこの虫は完全変態をす るの?と問われて,「それは(そう見えないかもしれ ないけど),この虫は蝶の仲間だからだよ」と説明す ることはできますが,「それは,この虫は害虫だから だよ」と説明することはできません。 そのカテゴリーの中の1つのサンプルで言えたこと を,他のサンプルにprojectionあるいはextrapolation するのに使える,あるいは未調査のものもふくめた すべてのサンプルへのinductionに使える(これら をひっくるめて,外挿extrapolationと呼んじゃいま しょう)。あるいは,科学的説明の中に顔を出すこと ができる。これも自然種のメルクマールです。とい うことは,自然種について,先ほどはOntologicalな, 存在論的な特徴づけをしましたけれども,epistemic value,認識論的な価値というか有用性にもとづいた 特徴づけもできるというわけです。自然種とは,ex-trapolationとexplanationという科学の目的に適した カテゴリーであると。別の言い方をすると,それにつ いて科学的発見ができるところのカテゴリーであると いう,そういう特徴づけができます。 (3)Homogeneity:本質主義からHPCヘ 3つ目の特徴づけに話を移しましょう。なぜ,自然 種ではextrapolationができるのか。こっちのサンプ ルに言えたことを,あっちのサンプルにも当てはめて よいのかというと,その集まりが雑多なものの寄せ集 めじゃないからですよね。雑多なものの寄せ集めだっ たら,こっちに言えたことが,あっちには当てはまら ないということが頻発するけれど,自然種はある意 味でみんな,homogeneousなんですね。というわけ で,自然種というのはhomogeneous。そうじゃない カテゴリーは,heterogeneousという特徴づけができ るわけです。そうしますと,一見自然種だけど,自然 種じゃないものがあることになります。自然種って, よく誤解される哲学用語です。自然種って,自然界に あるものを分けたやつですね,という。そうでもない んですよ。例えば,ペットボトルの材料であるポリエ チレンテレフタレート(PET)。これ,水や硫化水素 と同じように,ある特定の分子構造を持っています。 だから,人間が勝手に,これもPET,これもPETっ て呼ぶわけにいかないですね。そういった分子構造 を持っているものしか,PETと呼んじゃいけません。 でも,ポリエチレンテレフタレートというのは,明ら かに人間がつくったものです。人間がつくったもので も自然種になりうるんですね。 でも逆に,自然界にあるものなんだけど,それを人 間が分けたときに,自然種にならないものがあります。 有名な例がjade,ヒスイですね。ヒスイって,有名な 話だけど,1種類の鉱物じゃないんです。見た目は似 てるんですね。何か緑色できれい,半透明とか。なん だけど,実は化学的組成も全く違うし,結晶構造も全 く違う2種類の岩石を合わせてjadeって呼んでるわけ です。2種類というのは,jadeiteとnephrite。日本語 で言うと,それぞれ硬玉と軟玉って区別されています。 構 成 元 素 も,jadeiteはNa, Al, Si, Oで,nephriteは Ca, Mg, Fe, Si, O。違いますよね。で,結晶構造です ね。jadeiteは結晶なんです。単斜晶系の結晶なんです けど。nephriteは固溶体でガラスに近くて,結晶構造 をしてなくて,いろんな成分が溶け合っているんです。 なので,だいぶん違うんです。ですから,jadeは,自 然種じゃないんです。ずうっと同じ石だと思っていた んですけども,科学が進んだら,何だ,2種類の全然 違うものを一括りにしていたんだということがわかっ たわけです。あるカテゴリーが自然種かどうかという のは,研究してみないとわかんないのです。

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でもこのことは,jadeという言葉が多義語である ということは違うんですね。ちょっとややこしいか な? 例えば,「superlunary object」月より遠くにあ る天体ですね。「月より遠くにある天体」という表現 は,多義語じゃないんです。一つの明確な意味を持っ ています。けれども,これ自然種じゃありません。人 間が勝手に月までで区切っているだけなんですね。 いま,自然種の著しい特徴として,その種に属する メンバー間に,homogeneityが成り立っているという ことを指摘しました。次に,このhomogeneityって何 だろうと考えてみましょう。何をもって「一様だ」と いうのかと。これに対する伝統的な答えは本質主義で した。カテゴリーXが自然種であるというのはどう いうことかというと,何がXに属するメンバーである かということについて,必要十分条件が存在すること だと考える。これが本質主義です。Xのメンバーだけ が持っていて,そして,Xのメンバーはそのすべての 条件を満たしている,そんな条件あるいは属性がある か。あるなら,Xはhomogeneous。すべてのメンバー が同じ属性を共有しているのがhomogeneousだとい うことだ,というわけですね。で,こういったかなり 強い意味でのhomogeneousさというのは,物理化学 的な自然種については成り立つかもしれません。例え ば,炭素という元素であるとは,原子核内に12個の 陽子を持つということだ,というふうに,かなりきれ いに必要十分条件を与えることができます。でも,こ れを例えば,生物の種みたいなのに使おうとすると, ちょっと無理なんですね。Homo sapiensみたいな生 物種について,まあ無理でしょうと。だいたい生物は 進化しちゃうんで,どんどん変わっていくわけですよ ね。なので,本質主義をちょっと緩めてあげる必要が あるよねということになりました。

そこで出てきたのが,Homeostatic Property

Clus-ter Theory3です。これはあくまで本質主義の手直し なので,「新しい本質主義」と呼ばれることもありま す。これからは端折って「HPC」と呼ぶことにしま す。これは,ある特定の自然種に属するために満たす べき必要十分条件を求めるのはやめましょうという提 案です。少し緩めたうえで,それでも自然種は,ある 種のhomogeneousさで特徴づけられる,と言えるよ うな新しい定義を探しましょうというわけです。その 定義は,いくつかの要素からなります。 1つは,property clusterという考えです。自然種 というのは,一緒に生じる,co-occurring(共起)す るいくつかの属性のclusterによって特徴づけられる。 つまり,Xという自然種を定義したかったら,いくつ かのpropertyを列挙してみよと。これはいつもおお むね一緒に現れる性質であると。それのすべてじゃな くて,それの多くを備えていれば,それはXのメン バーだということにしましょうということですね。そ うすると,生物の種に関して,非常に扱いやすくなり ます。生物種の著しい特徴に多型という現象がありま す。つまり,同じ種なんだけど,例えば,ミツバチや アリのように,社会性の昆虫ですと,女王アリと働き アリと雄のアリは全然形が違ってくるし,生態も違う というようなことがあると。あるいは,どういうふう な環境で発生したかによって,全然形が違ってくると いうこともあります。例えば,ミジンコの一種は,ボ ウフラがいる水の中で発生すると,頭にとげができる んですね。ボウフラに食べられにくいようにです。だ けど,ボウフラのいない水で発生すると,頭はツルン としているんですね。こういった現象を多型というん ですけど,これが許容できるようになりますね。ミジ ンコって,こういう性質のclusterに結び付ける。こ の中の大多数を備えていれば,いくつかは持ってなく ても,それはミジンコだということです。 ところが,今の定義だけだと,自然種のhomoge-neousさ,一様さというのを十分とらえたことになり ません。なぜかというと,たまたましばしば一緒に現 れてくる性質たちを列挙しておけば,それでもうい いってことになっちゃいますね。そうすると,世の中 は自然種だらけになってしまいます。そこで,定義 の2つ目の条件として,homeostasisという考え方が 導入されます。clusterに含まれているさまざまな属 性があるわけだけど,これがそう簡単に1個ずつ取り 外して,変えることはできないっていうことを指し ます。何か外的な変化に直面をしても,互いに支え 合って強化しあうために,1つの属性だけを取り出し て,ほかの属性に影響を及ぼさずに自由に変化させ るということはできない。属性間にこういう意味で のhomeostasisが成り立っているという条件を付け加 えます。例えば,水の沸点は100°C。水ぐらいのサイ ズの分子量の化合物としては,異様に高いです。これ が水の一つの特徴ですね。それから,融点が0°C(こ れも高い)。それから,電導性がありますとか,いろ んなものを溶かす溶媒としての性質がありますとか, いろんな属性がclusterをなしています。で,これは homeostaticなclusterの例なんです。これらの属性を 1つだけ取り出して変えることはできないんです。電 導性を取っちゃったら,ほかの沸点やら何やらにも影 響があります。だから,これはお互いに関係し合って いますね。1つを勝手に変えるということができない ような仕方で,お互いに強め合って,支え合っている, そういう属性の群なわけです。 じゃあ,なぜproperty clusterというのは,そうい うhomeostaticなものになるのかということですけど も,その背後にcausal mechanismが存在しています

3 Boyd, R. (1991). Realism, anti-foundationalism and the

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(これが定義の3つ目の条件になります)。clusterに含 まれる属性たちがお互いに支え合って,一個一個勝手 に取り外しが利かないような具合になってるという のは,その属性たちが常に一緒に現れてくるという 「共起」をもたらすcausal mechanismが存在している からです。水の場合はその分子構造がcausal mecha-nismに相当します。2つのHとOが,H‒O‒Hと一直 線に並んでいるのではなく,くの字に近いかたちに折 れ曲がっている。そのために,O側がマイナスの電気 を帯びていて,H側がプラスの電気を帯びると。そう すると,水分子同士の間に引き合う力が生じます(い わゆる水素結合)。こうしたメカニズムによって,例 えば,沸点が高くなるとか,電導性があるとか,いろ んなものを溶かすといった性質が,分子構造から因果 的に生じることになります。そのために,これらの性 質はhomeostaticなclusterを成すことになります。同 じ因果メカニズムの現れだからです。水の場合は,分 子構造というミクロな因果メカニズムでしたが,ミ クロである必要はないんです。Homo sapiensとか, さっきのミジンコとかですね,そういう種の性質も勝 手に取り外しが利くようなものになっていない。です から,この生物種にこのpropertyをおおむね共有す るようにさせているなんらかの因果メカニズムがある わけです。でもこれ,もうちょっとマクロなメカニズ ムですね,つまり,相互交配をして,遺伝子をやりと りする。その結果,種内の個体間で性質が似てくる。 そして,それが相互交配を続けていくことで維持でき るというようなメカニズムがあるからです。むしろ, ゲノムの類似性はこういったメカニズムがもたらして いるproperty clusterの1つという考え方です。です から,メカニズムというから,ミクロというわけでも ない。 (4)もう1つの付加的条件 実 は, も う1つ だ け, 自 然 種 の 特 徴 づ け に は 条 件を加える必要があります。今,述べました(1) property clusterを成していて,(2)それがhomeo-staticで,(3)そのhomeostasisを支える因果メカニ ズムがある,という3条件は,「ヨーロッパ大陸のキ ツネ」に当てはまってしまうからです。でも,「ヨー ロッパ大陸のキツネ」は自然種じゃないでしょう,生 息地で勝手に区切っているんだから。なので,以上の 3条件を満たす一番大きなclass, maximal classが自然 種である,というふうに4番目の条件を加える必要が あります。以上が,自然種とは何かについての科学哲 学における定説に近い考え方です。この自然種概念を 踏まえて,感情が自然種なのかという,ある種の論争 のようなものが行われているというわけです。 3. 感情は自然種なのか「論争」 (1)論争を理解するための2つの重要な区別 感情は自然種かどうかが問われている,ということ なんですけど。これって何が問われていることになる んでしょうか。自然種の特徴づけの(2)によれば, 自然種はexplanationとextrapolationという認識論的 有用性に訴えて特徴づけられるカテゴリーでした。で すから,感情が自然種かどうかが問われるという事態 は,感情というカテゴリーが心理学という科学にとっ て有用,あるいは正当なカテゴリーであるのかが問わ れているということと同義です。ですから,「感情は 自然種ですか」論争というのは,folk psychology由 来の概念を科学的に認知していいのか,それは正当な 使用なのかという問題の一種だというふうに考えるこ とができます。さらに,自然種の特徴づけの(3)を ここに適用してみると,感情というカテゴリーは十分 にhomogeneousな の か, そ れ と もheterogeneousな 寄せ集めであるのかということを問うことによって, この論争は進められるということになります。 すみません。哲学者というのは,いろいろ区別ばっ かりしているんですよね。もう1つ,この論争を理解 するときにものすごく大事なclarificationがあるんで, この段階で指摘させてください。次の2つの問いは区 別しないといけないと思われます。

(a)Is emotion a natural kind? (b)Are emotions natural kinds?

(b) は 何 を 問 う て い る か と い う と,fearと か, angerとか,sadnessとか,joyとかいう,たくさん のカテゴリーのそれぞれが自然種かを問うています。 fearは自然種ですか,angerは自然種ですかというこ と で す。 一 方(a) は,fearと か,angerと か,sad- nessとか,joyとかがまとまってつくっているemo-tionという1つのカテゴリーが自然種なのかどうかを 問うているんですね。これ,一応,独立の問いです。 一方にYesで,もう一方にNoという答えもあり得る わけですね。1つ1つの,fearとか,angerとか,sad-nessはhomogeneousで,それぞれ自然種だけど,そ れらの間にはあんまり共通点がないので,emotionと いうのは自然種じゃないという答えもありうるわけで す。論理的には4通り可能だと思っています。 で,この区別は,極めて曖昧なままに議論が進んで いるのではないかと思います。そのことによって,い ろんな混乱が生じています。英語だと単数形と複数形 で何とかこの区別,表現できるんですけど,日本語で この論争をしようとすると,絶望的に話がこんがらが る。「感情は自然種ですか」。単数形と複数形の区別は

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ないので。でも,この議論をしたかったら絶対に,き ちんと区別する必要があります。 なので,生物学から用語を借りてこようというのが ご提案です。生物学(の哲学)では,やはり同じよ うな問題が自覚されたために,必要があるときは次 の2つの言葉を区別して使います。「種タクソン」と 「種カテゴリー」です。種タクソンというのは,homo sapiensとか,Escherichia coli(大腸菌)というよう な,一個一個の種のことです。そして,種タクソンの すべてを集めたものを種カテゴリーと呼びましょう。 だから,種カテゴリーは1個しかありません(「種」 というカテゴリー)。一方,種タクソンはすごくたく さんあります。個々の種タクソンは,まあ自然種で しょう,homo sapiensは自然種でしょう。このよう に普通は考えられています。でも,種カテゴリーの 「種」って自然種なのかどうかは論争の余地がありま す。つまり,種カテゴリーというのはhomogeneous かって問わなきゃ駄目ですね。つまり,すべての種タ クソンが概ね共有する特徴がありますかねえ?これ は,ややこしい問題ですね。 なので,「感情タクソン」と「感情カテゴリー」も 区別した方がいいかなと思います。感情タクソンとい うのは,anger, fear, sadness, joyそれぞれです。感情 カテゴリーというのは,それらを総称したemotionな るひとつの集まりです。(個々の)感情タクソンは自 然種か。感情カテゴリーは自然種か。この2つの問い は違うから,区別して問おうということです。

さらにもうひとつの区別をしておきましょう。 emotionにしても,anger, fear, sadness, joyにしても, すべて日常用語ですよね。だから,folk psychology 由来の概念です。ですから,folk psychologyも感情 タクソンと感情カテゴリーをやっぱりそれぞれ持って いるわけです。それを明示したいときには,folkな感 情タクソン,folkな感情カテゴリー。F感情タクソン, F感情カテゴリーとします。ここからの話は以上の区 別を明示したうえで展開させてください。すいませ ん,面倒くさいですけど,この区別はとても大事だと 思うので。 それでいよいよ論争をご紹介しますが,いま言いま したように,用語がめちゃくちゃ混乱していますの で,僕の観点から簡単に整理してしまいました。です ので,みなさん「そんな単純じゃないだろう」って絶 対思うでしょうね。そう思われる方は,元の文献に当 たっていただければと思います。 (2)Griffithsが論争の口火を切る この論争の口火を切ったのは,Paul Griffithsという

哲学者です。彼は1997年に,『What Emotions Really

Are』という本を書いたんですね4。このようなこと を主張しました。folkな感情タクソン,fearとanger とかは,heterogeneousすぎて自然種とは言えないん だと。どんなことを論拠に挙げるかというと,これは 感情心理学で明らかにしてきたさまざまな知見を使う わけです。例えば,folkなangerは,少なくとも3つ のものの集まりだと主張します。1つは,affect pro-gramとか,basic emotionというように表現され,動 物も持っているような非常に原初的なangerですね。 2番目は,何か,もっと高度に認知的な要素が入って く るemotion, higher cognitive emotion。 あ る い は, complex emotionと言ったほうがいいのかなって,あ との論文では言い直していましたけども,認知要素が かなりたくさん入ってくる,そういうanger。それか ら,socially sustained pretenseとしてのanger。これ は面白いんですね。どういうものかというと,何か仕 事がなくなっちゃったと,失業しちゃったと。もう世 の中に復讐してやるとかですね,包丁を買って,通り 魔殺人をした。で,最後に自殺しちゃったという人が いるとしましょう。これって,怒りの発露ではあるわ けだけれども,ある意味で,そういうふうな境遇に 置かれた人は,かくかくのことをするもんだという ニュースとか,それからフィクションとか,映画とか ですね,そういうのを見て,そのシナリオをなぞって 再現しているという側面があるでしょう。そうする と,第一のものとも第二のものともまたちょっと違う 怒りだったと。 怒りなるものは,以上の3種類のものの雑多な集 まりだということですね。さらに,Griffithsはこん なことも言っています。この2番目の怒りは1番目の ブレンドではない。1番のいろんな感情,いろんな basic emotionsを集めた,ブレンドしたものがcom-plex emotionだというわけではないと。古い脳による basic emotion,これはまあemotionと呼んでもいいで しょう。complex emotionは,これにneocortexによ る認知が付け加わった複合体なので,これはやっぱ り1番目とは別物と解釈すべきでしょうというような 議論をして,folkな感情タクソンというのは,非常に heterogeneousなものが含まれているため,自然種で はないんだと主張しました。 それに加えて,さらに,今度はF感情カテゴリーで すね。emotionってやつですね。これも同様に,het-erogeneousすぎて自然種とは言えないんだというの がGriffithsの主張です。ただしGriffithsは,各basic emotionsは自然種と言っていいのではないかとも言 います。動物も持っているやつですね。以上の考察か ら,彼が導き出した結論は,感情についての科学的研 究のターゲットというのは,感情全般じゃないぞと。 各感情タクソンの,恐らくsubcategoryであるbasic 4 Griffiths, P. E. (1997).

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emotions,これらが感情についての科学的研究のター ゲットにまずはなるべきだというのがGriffithsの結論 です。 これは結構重要な著作ではないかと。つまり,感情 が自然種かということを論じようとするときの進め方 を決定づけているところがあります。folkであれ,何 であれ,感情カテゴリーや感情タクソンXが,自然 種ではないって言いたいんだったら,何を言えばい いかがはっきりしたんです。「Xが耐え難くheteroge-neousだ」って言えばいいと。 逆に,Xが自然種だと言いたいなら,2つのstrat-egyが考えられます。1つは,ex Cathedra strategy, あとで別の人が名づけたstrategyですけども。「ex Cathedra」って「頭ごなし」ぐらいの意味だそう です。Xのheterogeneityの証拠として,「これって angerって呼ばれているけど,心理学者がangerの定 義として提案しているものを満たさないじゃないか。 でも,普通の人はangerと見なすよね」みたいのがあ ることを指摘する。そうすると,そのangerなる感情 タクソンはheterogeneousになっちゃうんですね。 さて,そういう証拠として提出された変なもの(変 則例)があるわけです。心理学者の定義が当てはま らないんだけど,angerって呼びたくなる(みんなが 呼んでいる)ものです。こうした変則例に直面したと きに,「その変則例は実はangerじゃないんです」と いうふうに言えば,たしかにangerのhomogeneityが 保たれます。しかし,これはあんまりやると,反証の 可能性がなくなっちゃうんで,あんまりいい戦略じゃ ない。そこでとるべきもう1つのstrategyは,hidden unity strategyです。Xのheterogeneityは見かけ上の ものにすぎなくて,実は,まだ気が付いてない隠れた propertyがあって,それに注目すると,Xは十分に homogeneousであると言う。こういう隠れたunityが 存在しているので,それを見つけましょうという,そ ういうstrategyです。こういうふうな仕方で,感情の 自然種論争は進んでいきました。 (3)Barrettが論争を心理学内部に持ち込む 2006年にBarrettさん(心理学者ですね,感情心理 学者ですよね)が,感情は自然種なのかという論文5 を書いて,哲学論争だったものを,心理学内部の問題 提起の形で述べ直しました。彼女の主張は,folkな感 情タクソン,たとえばangerとかは自然種ではない。 それから,folkな感情カテゴリーすなわちemotionも, 自然種ではない。それどころか,(これはすごい大胆 な仮説だと思いますけども),いかなるdiscreteな感 情タクソン(folkなものに限らない。folkなものの洗 練化として心理学者が提案する感情タクソン,例えば Izard, Ekmanのaffect program theoryに現れる感情 タクソンにも当てはまる)も,discreteであるかぎり 自然種ではない。discreteな感情タクソンとは,これ がangerで,これがfearでという具合に区分される感 情タクソンのことです。じゃあ,自然種は何?それは core affectだと。で,科学的な感情研究はcore affect の研究に焦点化すべきだ。Barrett論文は,そういう 論文だという具合に読むことができるかと思います。 このcore affectって,あとでご説明します。 各感情タクソンは,folkなものであれ,あるいは研 究者が提案したものであれ,discreteであるかぎり自 然種ではないのだとする論拠を,彼女は,基本的に は,これまでの研究成果を援用するメタアナリシスに よって,かなり説得力ある仕方で述べています。まあ 全部,基本的にはワンパターンだと思います。要する に,各folkな感情タクソンが,心理学者が提案した定 義と,一対一に対応していないってことですね。対応 していることを示すような経験的証拠はない。逆に, 対応してないということを示す経験的証拠があるとい う,そういうことを1つ1つについて述べていってい ます。1つは,phenomenology,「感じ」ですね,feel-ingですね。あるいは,自律神経的な変化,これも一 対一に対応しない。それから,behaviorですね。そ れから,表情ですね。これも一対一に対応している証 拠はないというふうに,これをひとつひとつやってい くわけですね。neural circuitについても,そうだと いうことです。PETとfMRIを用いた感情研究につい てのメタアナリシスに依拠して,ひとつのF感情タク ソンのすべてのinstanceが,その感情に特有な神経回 路を共有しているという仮説にはそれほど強いサポー トはない,と結論されています。 以上により,F感情タクソンは自然種ではない。む しろ,F感情タクソンの使用は,つまりangerとか fearという言葉を科学的心理学の中で使い続けるの は,感情とは何かを科学的に理解する際の障害になっ ているから止めたほうがいいんじゃないの,というの がBarrettの主張です。 以上のことは,感情心理学の教科書を読めば,暗黙 のうちに書いてある。僕自身,感情心理学を素人な がらちょっと勉強したときに,すごくそう思いまし た。何か反例ばっかり書いてあるぞ,って思ったんで すね。で,Barrettの重要な指摘は何かというと,そ ういったいろんな定義がなされるんだけれども,決定 的なものがない,inconclusiveness。それが,F感情 タクソンをあまり深く反省せずに,fearとかangerと いったレッテルを,感情心理学内部で「使用2」し続 けてきたことに対して持つimplicationなんです。そ ういうことをやっていて,やばいんじゃないの?と, そういう問題意識だったというふうに思うわけです。

5 Barrett, L. F. (2006). Are emotions natural kinds? , , 28‒58.

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Barrettの議論のポジティブな部分に話を移しま しょう。discreteでfolkな感情タクソンが自然種では ないからダメだとすると,それに取って代わるalter-nativeがなきゃいけないわけですよね。それが何かと いうと,core affectだということです。core affectっ て,何かよくわかんないんですけども,第一義的には 神経生理学的な状態だということです。でも,それが 意識に上ったり,意識に利用されたときに,valence とarousalの二次元をもつ経験としてあらわれる。だ から,二義的になると思うんですよ。core affectは神 経生理学的カテゴリーであると同時に,すべてのva-lenceとarousalの組み合わせからなるカテゴリーなん だということですね。こっちの方が科学としての感情 心理学により適したカテゴリーだというので,ここで 復活してきたんですね。これ,ちょっとびっくりしま した。1980年ぐらいですか,これ。Russellがarousal とvalenceでいろんな感情を分類してみましたという ふうに教わりますよね(Figure 2)6。僕はこれ,初め て感情心理学の教科書で見たときに,いいかげんだな あって思ったんですよ。だって,sleepyとか入ってい るし,これ感情かいなって,思ったんですね。 だけど,これこそが自然種だと。すごいとらえ方 の転換だったわけです。これの特徴は,arousal値と valence値の組み合わせであって,ここでちょっと今, 赤いとこが光っている,一個一個の点がcore affect なんですね。core affectタクソンなんですね。なの で,これってcontinuousですね,discreteじゃなくて。 continuousで,しかもdimensional,二次元を持った, そういう構造。これこそが自然種なんだということで す。 (4)ScarantinoがBarrettを「批判」する Barrettの提案はとっても面白い提案ではないかと いうことで,哲学者も反応しました,Griffithsのお 弟子さん筋にあたる人だったと思いますけども,An-drea Scarantinoが2009年 に 書 い た 論 文 で,Barrett

の論文の批判的検討をしています7。批判は2点あり ます。批判Aは次のようなものです。Barrettはいろ いろな経験的証拠を挙げているんですけど,これは discreteな感情タクソンが自然種じゃないとか,いか なるdiscreteな感情タクソンも自然種じゃないという 結論をサポートするには十分じゃない。それから,批 判BはBarrettのポジティブな提案部分に対するもの です。つまり,core affectこそが自然種だというBar-rettの議論は間違っている。core affectはdiscreteな 感情分類より,もっと自然種だとは言い難いというこ となんですね。 で,批判Aはですね,ちょっと細かな話なので飛 ばしますね。批判Bのほうが面白いし,私の最後の コメントに関係するので,こちらを紹介します。core affectこそが自然種だってBarrettは言いたい。でも, Scarantinoは,それは間違い,core affectなんてもっ ともっと自然種じゃないというんですね。どうしてそ ういうことを言えるのでしょうか。core affectが,第 2節で解説したHPC, Homeostatic Property Clusterの 意味で自然種になるだろうかと考えてほしい。Yesで あるためには,core affectの一個一個の点,instance の集まりを,その種類のものにしているところのho-meostaticなproperty clusterがまずなきゃいけない し,その背後にある因果メカニズムがなきゃいけない ことになる。要するに,core affectがHPCの定義を 満たしてないといけないというだけなんですけど。そ れを確認しておいて,Scarantinoの診断はこうなりま す。core affectはF感情カテゴリー,それから,F感 情タクソン以上に,自然種ではありそうにない。理 由は,core affectは,F感情カテゴリーよりはるかに heterogeneousだからである。なぜなら,core affect はarousalとvalenceの値の可能な組み合わせ(a,v) の全てを含んでいるからだ。すべてのF感情タクソン どころか,それ以外のもの,sleepyなんかも全部含ん でいるんだから,こんなめちゃくちゃheterogeneous なカテゴリーはないでしょうと。それに加えて,こ んなにheterogeneousだったらhomeostatic property clusterはなさそうだ。そして,それを下支えしてい るところの因果メカニズムもありそうにない。そした ら,さっきのFigure 2(circumplex)の,ある点から 別の点へのextrapolationとか,projectionって,でき Figure 2. 

6 Russell, J. A. (1980). A circumplex model of affect. , , 1161‒1178.

7 Scarantino, A. (2009). Core affect and natural affective

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そうにないよねと。だから,core affectは自然種じゃ ない。F感情タクソンやF感情カテゴリーが自然種 じゃない以上に,自然種とは呼べないんじゃないか。 だから,core affectに統合的科学なんてつくれそうに ないよねと,こう言うわけです。これがScarantinoの 論です。僕は,これは間違っていると思うので,あと で批判したいと思います。 (5)Scarantinoのポジティブな提案:split戦略 以上がScarantinoの議論のネガティブパートです。 Barrettは間違ってると。それを確認したうえで,ど ういうふうに感情科学を進めていかなきゃいけない のかに関する,ポジティブな提案に目を転じましょ う。Scarantinoはこういう提案をしています8。結局 Scarantinoも,F感情カテゴリーとかF感情タクソン というものは,自然種じゃないから科学的心理学の ニーズに答えてくれないと,そこは認めるわけです ね。だから,folk psychology由来の概念に取って代 わるものを探さなきゃいけないというふうに言いま す。ここで,2人の相違点が出てくるんですね。Bar-rettは,いかなるdiscreteな感情タクソンも自然種で はありえないというふうに考えている。continuousで 2-dimensionalなcore affectこそが自然種だと,これ がalternativesの有力候補だと,こういうわけです。 対するScarantinoは,いま述べたように,core affect は自然種からほど遠い。だから,やっぱり有望な戦略 というのは,F感情カテゴリーをサブカテゴリーに分 割していって,あくまでもdiscreteでhomogeneous な何らかのクラス,類を見出すようにする。つまり, 今あるのがheterogeneousなんだったら,分けてい きゃいいだろうという。これをsplit戦略と自分で呼 んでいます。 split戦略は何を意味しているのでしょうか。folkな 感情とか恐怖が,自然種ではないということから,い かなる感情,恐怖の自然種も存在しないということは 出てこないでしょうということです。記憶は自然種で はないことがわかった。それは,短期記憶と長期記憶 とかいくつかに分かれて,それぞれは自然種だとわ かったではないかと,彼は考えているんですね。folk psychology由来の概念にとってかわるものを見つけ るのには,今,雑多なものが混ざっちゃっているのを 分割していって,homogeneousなカテゴリーを見つ ければいいのだということです。先例はたくさんあ るよねということなんですけども,まさにjadeがそ うです。jadeは2種類のものが混ざっていたわけです ね。だから,これを分けて,一個一個は自然種でし たってところまで行きましょうって,そういう戦略で す。 そうすると,split戦略の満たすべき条件はどうな るでしょう。結局のところ,split戦略とは,folkなカ テゴリーはまだ雑多だから,folkなカテゴリーをさら に分割していけば,そのうち,homogeneousになっ て,自然種に至ることができるだろうということです ね。そうやって分けていくってことは,folkなカテゴ リーをぎったぎったに切り刻んでいくわけなんで,あ る種,folkなカテゴリーを改定・変形する試みになる わけです。この改定作業が適切なものであるために は,まず,分けていった果てに見つかるものが自然種 じゃなきゃいけないのはもちろんですけど,その自然 種に属する大多数のメンバーが,もとのfolk psychol-ogyのカテゴリーのメンバーにもなっている必要があ るんですね。これが成り立たないと,分割の果てに見 つかったこれは,科学的に改定され定義され直した, folkカテゴリー「fear」のscientific versionだって言 えないですよね,両者が似てなかったら「改定」じゃ ないでしょう。以上がScarantinoの戦略です。これ に対するコメントを最後にしたいと思います。 4. 「論争」の評価 この「論争」にはいろんな人が出てきたんですよね (Table 1)9。Charlandなんて人も参戦しました。この 方は,今日は省いてしまいましたけども,またちょっ と変わった立場で面白いんですけど。でも,これ論争 なのかって。みんな,F感情タクソンは自然種じゃな Table 1 F感情カテゴリー F感情タクソン basic emotions そのほかの主張 Griffiths, 1997, 2004 not NK not NK NK

Charland, 2002 NK not NK NK

Barrett, 2006 not NK not NK not NK いかなるdiscreteな感情タクソンも ありえない

Scarantino, 2009, 2012 not NK not NK ? discreteな感情タクソンを探せ わたくし not NK not NK まだわからん ScarantinoのBarrett批判はunfair

8 Scarantino, A. (2012). How to define emotions scientifically. , , 358‒368.

9 Charland, L. C. (2002). The natural kind status of emotion. , , 511‒537. Griffiths, P. E. (2004) Is emotion a natural kind? In R. C. Solo-mon (Ed.),

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いよって言ってるんだから,論争なのかって思うわけ ですよね。みんな仲良し。じゃあ,この論争に仮想敵 がいるのかというと…。いると思いますか? 仮想 敵は,無自覚にfolkな感情カテゴリーや感情タクソン を自然種であるかのように「使用2」している多くの 研究者です。すみません,喧嘩を売っているみたい で。その人たちは無自覚にやっているので,リングに 上がってこないんですね。だからこれ,タイトルマッ チにならなくて,シャドーボクシングをやっている。 シャドーボクシングですから,結局,空振りしている。 じゃあ,この論争を追いかけることに何の価値もない かというと,そんなことはまったくなくて。重要な意 見の違いがあるんですよね。ScarantinoとBarrettと Griffithsはそれぞれ意見が違います。この相違点は, 感情科学の進め方にとっては非常に重要なimplica-tionを持っていると私は思います。それを最後に指摘 しましょう。 まず,指摘しなきゃいけないのは,この論争を通じ て感情タクソンと感情カテゴリーはしばしば混同され てきたということです。私の話も途中でちょっと混乱 してしまったかもしれません。一方が自然種だった ら,他方も自然種だというふうに想定されているかの ようです。Scarantinoがcore affectを批判するときに それが見られます。Scarantinoは一方で,folkな感情 タクソン,angerとか,fearとかが,自然種に対応し ないって言っています。このときはまた感情タクソン を対象にして議論しているんですけど,core affectを 批判するときには,valenceとarousalの可能な値が張 る空間全体,circumplex,これを対象として,これ はあまりにもheterogeneousだから,自然種じゃない と,こう主張するわけですね。何か,場面場面でどっ ちを相手にしているのかということが,ぶれているん ですね。整理しつつちょっと考え直してみましょう。 core affectの個々の値がタクソンのほうに対応する と思うわけですけど,これ,本当に自然種じゃないん だろうか。valenceとarousalの可能な値の組み合わせ ですね,a.vですよね。二次元平面上の点として表象 されています。その点を中心とする近傍を考えます。 そうすると何か,vague,あいまいというか,fuzzy なsetができます。これをcore affectのタクソンとみ なすことができますね。この辺りがある1つの種類, この辺が1つの別の種類の感情というふうに。その 個々のタクソンは,本当に自然種でありえないのか, そんなにheterogeneousかということです。でも,こ れはproperty clusterとして何に着目しているのかに よるんですよ。このモデルでは,valenceとarousalの 値,そして,それらのみが重要なpropertyなんです。 だから,そのpropertyに関しては,各タクソンは非 常にhomogeneousです。0.5と0.7プラスマイナスエ プシロンみたいな,そういう性質を共有しているんで す。すると次に,valenceとarousalの値をその特定の 組み合わせにしている因果メカニズムがあるかどうか ということを検討していかなくてはなりません。これ に失敗しちゃうと,やっぱり自然種じゃなかったかな ということになります。でも,これはやってみないと わかりません。今の時点で何か雑多なものを含んでい るように思えるというだけで,自然種じゃないと結論 することはできなというふうに思います。 実際,これもcontinuousですよね。Munsellの色立 体ですけど(Figure 3)。でも,これって,このへん とか,ここらへんは赤っぽくて,このあたりは黄色と。 これと,感情の自然種が織り成す空間は同じようなも のだと考えることができるかもしれません。 じゃあ次の問い。core affectの全体(カテゴリー) が本当に自然種でありえないのかを考えてみましょ う。 つ ま り, す べ て のcore affectが 張 る 空 間,cir-cumplex structure全体が,自然種でありえないほど heterogeneousかと。これも見方を変えれば,これほ どhomogeneousなカテゴリーはないです。だって, そこに含まれているものすべてが,valenceとarousal という2種類の値を持つという性質を共有しているか らです。それがScarantinoのように,すごく雑多なも のが入っているじゃないかと見えてしまうのは,fear とかangerといったF感情タクソンを定義する性質を すべてこの空間に写像しているからです。そうする と,何かすごい雑多な性質を持ったものが集まってい るように思えてしまいます。だけど,この空間はそう いうふうにつくられたものではありません。この空間 Figure 3. 

(12)

は,そういった性質は非本質的なものだと,感情科学 が扱う自然種として二義的なものだというふうにして 捨象したうえで成り立っています。これにもさっきと 同じことが言えて,このカテゴリーに分類されるもの が,共有している「valenceとarousalという2種類の 値を持つ」という性質,この性質をもたらす因果メカ ニズムを特定しなければなりません。これはようする に,意識の科学をちゃんとやるということです。これ はすごく大変そうだなと思います。でも,言えること は,core affectカテゴリーは自然種でないと今の時点 で結論してしまうことはできないということです。 continuousでheterogeneousでも,自然種になるん だという実例は,実はわれわれはもうすでに持ってい ます。さっきのjadeのサブカテゴリーです。nephrite (軟玉)というのは,マグネシウムと鉄という2つの 金属元素を含んでいるんですけど,鉄が100%のも のからマグネシウムが100%のものまでgradualなん ですよ。鉄の多いあたりはferroactinolite,マグネシ ウムの多いあたりはtremolite,中間的なところはac-tinoliteという名前がついています。この二つの元素 の比率を考えると,めちゃくちゃ雑多なんですよね。 でも,これは1つのnephriteという自然種を構成して いるわけです。 BarrettとScarantinoの違いは何かというと,自然 種をどうやって探すのかという戦略です。この戦略に ついて,僕は次のように主張しようと思います。どっ ちが正しいかということはない。両方やってみれば良 い。両方やった結果,2種類の異なる自然種が見つか ることもあっていい,レベルの違いということです ね。ScarantinoのSplit戦略というのは,いまあるfolk な感情分類がheterogeneousなので,それをさらに分 けていくと,どこかでhomogeneousになるだろうと, そういう戦略でした。これはある意味で,folkな分類 と同じレベルで,さらに細かく分けていこうというも のですから,同一レベルでやっていく。そういう意味 では,conservativeです。でも,folkなカテゴリーは 幾つかに分類・分割されていくので,そういう意味で は,そのままのかたちで残るわけではない。だから, revisionist改定主義的とも言えます。 これに対し,Barrettはもう少しradicalなやり方 をしている。今あるfolkな感情分類はheterogeneous だ。これはいいですね。なので,folkな分類clusterの 重要なごく少数の特徴だけに注目しよう。要するに, うんと抽象化し,うんと粗視化したレベルで,それら のhidden unityを探すことによってhomogeneousな カテゴリー,分類を見つけようという戦略です。これ をやると,もともと持っていたfolkな感情分類は捨て られる,そういう意味で,eliminativistでrevolution-aryなやり方というふうに呼べるでしょう。 2つの戦略のどっちがいいということはありません (Figure 4)。folkな分類ではこう4つに分けていると します。でも,その4つはそれぞれheterogeneousだ としましょう。Scarantino戦略では,4種類にしか分 けていなかったからheteroだったんだと考える。そ こでもっと細かく分けてみる。そうするとそれぞれは homogeneousになる。こうして自然種にたどり着く ということですね。だから,標語めいた言い方でいう と,「heteroならhomoまで分けよう」ということで すね。これに対してBarrettの戦略は,Figure 4の下 に示したものになるでしょう。4つに分類した段階で はそれぞれはheteroなんですね。そこで,その違い を無視してしまいます。違いが見えなくなるようにす ればいいですね。粗視化するなり,抽象化するなり, ごく少数の性質に注目する。そうすると,4つに分か れていたのが,その残った性質についてはhomoge-neousになっています。「heteroなら無視してしまえ」 という戦略です。こんないい加減なことでいいの?と 思うかもしれません。これ,実はよくやられているわ けです,科学ではね。 ロトカ・ヴォルテラ方程式ってありますよね(Fig-ure 5)。あれって,もともとはアドリア海のサバなど のお魚と,それからそれを食うサメ。これらの個体数 が周期的に変動するという現象をモデル化するために 立てられた方程式です。それは,食べるものと食べら れるものの数が周期的に変動する,いろんなものに当 てはまるんですね。ウサギとキツネとか,チーターと インパラとかですね。これら3つの食う食われる関係 は,もともとはheterogeneousだったわけです。現象 として全然違う性質のものだというふうに思われてい ましたけど,ロトカ・ヴォルテラ方程式はそういう違 いを見ない。個体数の変動と幾つかのパラメーターだ けに注目するというふうにすると,違いは消去され て,homogeneousなカテゴリーがつくられていきま す。さらには,これって,食べるものと食べられるも のの関係に限られないじゃないかとなるんですね。あ る種の化学反応を考えてみてください。AがBに変わ Figure 4. 

(13)

るという反応があるとしますと,Aは減ってBは増え るじゃないですか。AがBに変わる。これ,BがAを 食ったみたいです。Aが減っていくと,材料がなく なっていくからBも減少に転じるわけです。そういう ことで,「食うもの,食われるもの」というふうに一 般化されたけれども,さらに今述べたものには,いわ ゆる振動反応という化学反応も含まれるようになる。 捕食と化学反応。現象としては,これらは随分違うよ うに見えるんだけど,ロトカ・ヴォルテラ系というか たちで,1つのカテゴリーをつくった。こういうふう にして,細かな違いは気にしないぜって,どんどんモ デルを抽象化していくことによっても,homogeneous なカテゴリーというのはつくることができるし,それ は科学で日常的に行われているんです。 ところで,こうやってできたロトカ・ヴォルテラ 系って,随分違うものが含まれているね。食べるも の,食べられるものの関係と,それから化学反応。こ れって,自然種なんでしょうか,自然種と呼ぶのがふ さわしいのだろうかという疑問が湧くわけです。それ に対する私の答えは「どっちだっていいじゃん」で す。例えば,調和振動子をとってみましょう。単振り 子も調和振動子だし,それから重りをつけたバネがウ ニョウニョと動くのも調和振動子。だいぶん違う現象 です。「調和振動子」というカテゴリーはすごく雑多 なものに当てはまる。だからといって,調和振動子概 念が科学的に有用でなくなるわけではないでしょう。 つまり,もっとも考えなきゃいけないことは,科学的 に有用であるために自然種でなくてはならないのかと いうことです。 ある概念が科学的に有用であるかどうかは,幾つか のパラメーターで決まると思います。探求がどのよう な段階にあるかということ。それから,その概念を 使って何がしたいのか。少なくともこの2つに相対的 です。split戦略でやっていこうという場合でも,自 然種でない概念をしばらく使い続けなきゃいけないで すね。つまり,angerって自然種でないことがうっす らわかっているんだけど,それをうまく分けていくこ とによって自然種に至ろうとするわけですから,その 途中では自然種でない概念を,自然種でないことがわ かっているのに使い続けるということがどうしても必 要です。つまり,探求の途中においては,非自然種 だって,使わないといけないんです。なので,探求の 終点のことを考えているのか,探求の途中のことを考 えているかで,自然種と自然種でない概念,これらの 役割は異なってきます。 split戦略の最も成功した例って,これかなと思うん ですけど(Figure 6)。昔「希土類」と呼ばれ,いま は「レアアース」と呼ばれる元素の分類ですね。昔, セリウムといって一括りにしていたものが,実はラン タンとセリウムの2種類混ざったものだったというこ とがわかったんです。ところが,そのときランタンと 呼ばれていたものは,いまランタンって呼ばれている 元素と,ジジミウムに分割できるということがわか りました。さらに,ジジミウムには,サマリウムが 混ざったものだということがわかったんですね。で, 残ったジジミウムは,ネオジムとプラセオジム。そし て,サマリウムはサマリウムとガドリニウムとユーロ ピウムというふうにどんどん分割が進んでいった。こ れが今,レアアースと呼ばれている元素たちです。こ れをやっているときに,最終的には自然種でなくなっ たジジミウムというカテゴリーは,すごく重要な役割 を果しているわけです。ですよね。なので,自然種 じゃないカテゴリーだって,探求の途中では非常に重 要な役割を果たすんです。 概念の科学的有用性を左右するもう一つのパラメー ターは先ほど言いました。その概念で何をしたいのか ということですね。確かに帰納をしたり,因果メカニ Figure 5.  Figure 6. 

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