国吉康雄論
-
東西 「
美術
」の融合 か ら 「
美術
」の否定-I
鐸 木 道 剛 <アメ リカを代表す る画家で あった国吉康雄 の現在 の知名 度 > 1 岡山生 まれで、アメ リカを代表す る他家 となった国吉康雄 しよ う。彼 の作品は油彩画、水彩画か ら版画 、素描そ して写真 に及ぶ。福武哲男 ( i (1889・1953)lの作品を再考 8 ・ 6 1 9 6) 7 が精力的 に収集 した ものが現在 、県立美術館 に寄託 されてい る。その総数 は 5 1点である。 16歳で岡山を離れてアメ リカに行 った国吉は岡山で も、あま り知名度 は高 くない。作 品は概 して暗いo謎 めいていて不忠誠 な作品である。初期 の素朴 なユーモ アか ら中期 の一 連のアンニ ュイ な女性像そ して後期の明 るい色彩に恐 ろ しい敵 の道化師 に至 る作品群は、 国吉の同時代人で友人で もあ り、国吉に最 も近い女性像 を描 いたブルガ リア出身でユダヤ 人の ジュール ・バ スキン (1885・1930 、あるいは同時代の 日本人で フランスにおいて同 じ) よ うに画家 と して 自らを確立 した藤 田嗣治 (1886-1969)の作品 と並べて も、その存在感 は際立 ってお り、世界の美術 史上で も一級 品である。 これ ほ どの作品を制作 した国吉康雄 であ るのに、なぜ知名度が も うひ とつなのであろ う か2。岡 山は確 かに近代画家 を多 く輩 出 して いる。明治初期 の原 田直次郎 、松岡寿、原撫 松 866 隠れて しまってい るのだ ろ うか。 いや理 由は もっ とは っき りしてい る。 国吉の画業 を、継 続 的に評価す る批評家 あるいは美術史家がアメ リカに も 日本に もいなか った ことがそ もそ もの原因 と考 え られ る。 1 ( -1912)、鹿 子木 孟郎、満谷国四郎、児島虎次郎 ら多数である。 それ らの画家たちに 5 9 4 9 4 9 11 7年 アメ リカ美術家組合初代会長。1 8年ホイ ッ トニー美術館で個展。1 2年 ヴェ ネチア ・ビェ ンナ- レでエ ドワー ド・ホ ッパー ら3人 とともにア メ リカ代 表作家のひ と り と して出品。妹尾克 己によれ ば、「明治以降の 日本人画家で海外 で評価 され たのは、国吉 と 藤 田嗣治の二人だけ」である とい う。『中高生 のための <岡山の美術 >坂 田一男 と国吉康雄』 0 0 岡 山県立美術館、2 2た とえばア メ リカ美術 の概 説番 をみ よ う。例 えば、ク レイ ヴンの記 した浩瀞 な 8年、21頁。 8 6 ( 7頁 か らなる)ア メ リカ美術 通史では国吉康雄 は、ニュー ヨー クの ロ ックフェラーセンターの ラジオ ・シテ ィ ・ミュー ジ ック ・ホールの室 内装飾 に、設 計者 の ドナル ド・デ ィスキー 8 k ese Donal ( dD y194・1988)が依頼 したジ ョー ジア ・オキー フ L ious e ' Georgi ( aOKeeff ルイ ・ブ- シェ ( 9 8 8 1 7118 、ステ ユアー ト デイ ヴィス (6) StuartDavis1894-1964)、 ra ture, l u n t sor : t r i erca yne Bouceh)とな らんで名前が挙げ られているに過 ぎない。ル イ ・ブ- シェとともに国吉につ いては生没年 の記載 もない。Wa Cravenm,A nA Hi v a dC Ab ms, f E On i erca 1 2 4, .p4 9 9 1 .また著名 な批評家 ロバー ト・ヒュ- グの個性 的 な概説 潜に も、国吉の記載 は,
P, ic 2 e i : son i nerca h ges, b t oer 7 9 9 1 -切 ないoR Hu Ar nVi Th ED .オ クス フォー ドの美術 史輩番 の一冊である『0世紀 アメ リカ美術』で も同様、国吉 m i t f Hi8 Otv OAr nAr A f t sor f xor O t, i rnercan C tenur ・ h ite Twent v A Ar dHi yo 9 7 8 1 l e t aser to l k i r 2. 0 0 f d 2or, -の言及はない。E aDoss, Ox しか しこれ は Hami nE Fid ( 311 t 2 2 r, )について も全 く同 じ状 況である。 ク レイ ヴンのア メ リカ美術通史に-箇所 だけ名 前が挙げ られ ている が、生没年 の記載 はない。 3 -9 4 ( 4頁)<軍国主義 の 日本 を播 く> 国吉康雄 が例 えば前述 の藤 田嗣治 と比べて知名度 に多少 の人気 を欠 くのには、具体的な 理 由 もある.太平洋戦争 の時代 に描 かれ たilI国主義の 日本 を醜 く描 いたスケ ッチが何枚 も あ る 【図 1】【図 2】。 それ は我 々に複雑 な気持 ちを喚起す る。 現代 の我 々は勿論、民 主主 義 、平等 の理念 は支持 してい る。 それ が近代の理念 であ り、 目標 で ある。 しか し、い くら I T_国主義否定 とは言 って も、 こんなに残 酷 な場面を醜悪 に描 くことはないだろ う。 そ うい う気持 ちは、今 の我 々に もある。なぜ国吉 は これ ほ ど露骨 に 日本 を非難 したのであろ うか。 J 4 9 まず この絵 は、国吉の岡 山での絵画体験 に由来す ることが指摘で き る。 国吉は 1 0年 に雑誌 『美術雑誌 Ma( gaznieoAr 』 に発表 した 自伝f t) r東 、そ して西-(E SatOWett s のなかで こんなふ うな こ とを記 してい る。「絵 について考 えると、私が初 めて見た西洋 の絵 画 を思い出す。それは 6歳 か 7歳の ときであった。それ は戦争場面を リアルに描いたパ ノ ラマで、あま りに リアル で本物 そ っく りだ ったため、 とて もシ ョックだ った。 子供の ころ か ら知 っていた絵 とはま った く違 っていた。 そ こには単 に装 飾的 あるいは帯負 な ものな ど なにもなか った。 思い出す と、それは極 めて写真的な描 写であ ったにす ぎないが、その方 e 法 と画材 は奇妙 に私 を感 動 させ 、今 日まで生 き生 き と した印象 と して残 ってい る。 (Th ver a in it an t ser i trs h t i f reso as ac tw
ngbOugh tmeb kmemo ef We np gIh de
rseven ・ J wh nab see yo xorsi ar i l o f i to pant e hough n, t t S scene le r icpanora its l ea mao abatt Jt irred d oun e s t meg ybecausei far h ta ew s0 tt urr l t rea k or h t i l ea an
wassor dlfleike.Afacotrth taIh dn bea ot enawareo ifn
n e n er in h t ve o l t srange r d. d l i h dmyc hoo Heewassme wasaV yp y mo d me a d l氏 a re a w h ta gt smo ndecorat eaiv ndd h ta i ignfide .AsIloo dbke ac nk,odoubtit hoogrt aphic d n proac p h eve ow ion,h r te a h a d me d itepc ium id )s ay. h iiv io r mpess nv dtot 」 3 i 同郷人で、しか も同 じ年 の生まれ の内 田百聞に次の よ うな回想 があ る。「二年 生の時、通 知簿の通イ言欄 に、先生の云 いつけで、みんな一様 に <元逼油絵見料金一銭也 >と書いたO -中略一 当 日は全校 生徒 が各学級別 に隊伍 を組 んで、後楽園に開催 中の元蓮油絵展覧会 を 見に行 った。鶴鳴館 の中か ら栄唱革に渡 る廊 下にかけて、暗い色 の油絵 がず らず ら懸 け連 ねてあった。 女の手の平 か ら手の 甲に穴 を穿 ち、細 を通 して縛 ってあ る絵 があった。血が 流れて鮒 を染めていた。 浜辺 に鵜 の群が下 りて、一 面に散 らばってい る死骸の肉を喰 って い る絵 もあった。」 4内 田百聞ははっき り 「二年生の時」 と記 してい る。 内 田は環翠尋常小 学校 である。 明治 29年 (1896年) とい うことになる。 その とき国吉は岡山市弘西尋常小 学校の一年 生であ った。 あき らかで あ るO国 吉康雄 は後楽凶で 「元蓮 油絵 」 を見 たので あ る。 それ は矢 田一傭 9 YasuoKu 4内田百聞 『幼年時代』福 武文庫、1 F b 1 t er, uary, f in EZa i t s, to iE t,as i h
nyos We nMa eoAr 940
8 -6 7貢。 この筒所については、木 下直之 」 ) 9 9 1年 、8 3年)。そのパ ノラマの章はパ ノラマ研 究の基本文献で 9 8 『美術 とい う見世物』(平 凡社、1 ある0 16頁.
-4-3(1858-1913)が明治 28年 (1895年)に 14面を描 いた もので、軸装で全国を巡回 した。 明治 37年に博多市に元蓮記念碑 が完成 した段階で任務 を終 え、靖国神社遊就館 に納 め ら れた もので ある。縦 210セ ンチ、横 270セ ンチの巨大な絵 で、関東大震災で 3面が損傷 し、 今 は11面が残 る。 5 同 じとき、高松 で もこの 「元蓮 油絵」を見た人がいた6。高松生 まれの菊池寛である。菊 池寛は国吉や 内 田百聞 よ り一年早い 1888年の生まれで、高松に居た。彼 は 1943年に次の よ うに回想 してい るo「僕 た ちの少年時代 に、元蓮の油絵 を持 ち回 って、国防の甫大 を説 い て回 った人 (湯地文雄)が あ るO その油絵 は蛮古の残 忍 さをま ざま ざと描 いた もので、四 十年近い今 も、眼に残 ってい る。前 日、久米 (正雄 1891-1951-引用者註-)に話 した ら、 久米 も同 じこ とをいっていた。都会 に育 った人には、あま りに知 らないが、地方に育 った 我 々 と同年輩 の人々には相 当深 い感銘 を与 えたのではないか と思 う。」 7 国吉が戦時 中に描 いた スケ ッチには、 この元蓮油絵 の記憶が あったのである。 内田百聞 が具体的 に記 して もいるが、『対馬 の惨状』に描かれ た女性 と子供-の残虐 な行 い 【図 3】、 や 『再度の使 者』 の捕虜 の処刑 【図4】を挙げてお こ う8。 もちろん こ うい うスケ ッチ を描 いた国吉はアメ リカの価値観 を完全 に支持 していた。 そ れ は民主主義 と平等 の理念 である。 内村鑑 三 (1861-1930)が看破 した よ うに、アメ リカ で もそれ は建前で しかなか った部分 もあるだ ろ う。 しか しキ リス ト教国 と してその建前 は 厳然 と してあったの も事実で あ り、その近代 の価値 は西洋 に とって も永遠 の 目標 なので あ ったD 太平洋戦争 中の国吉の 日本 のアメ リカ一辺倒 と日本 の軍 国j=_義非難 については、アメ リ カ社会で生 きてゆ く際 には、そ うす る以外 になかっただ ろ うとの解釈 もある。 しか し当時 の彼 の文章 をみ ると、国吉の姿勢 は真剣 で ある。民主主義 と自由支持は、国吉の人生 を支 えている。た とえば彼 は こ う言 う。「日本 人はデモ クラシー がなんであるか を理解 していな い」 9「私 の信条や感情 は今 までず っ と生活 してきた 自由なアメ リカの雰囲気のなかで培 わ れ て きた ものです
」
「日独伊枢 軸国は民主主義文明を破壊 して、野蛮 な世 界 に戻そ うと して6
『よみが える明治絵 ugl 修 復 された矢 田-満 「蒙古襲来凶」
』福岡県立美術館、2005年。 菊池寛 もこの7T:遥油絵 に言及 していることにつ いては、このカ タログか ら知 ったoその 76 頁 6この元遠大油絵 の巡回の具体的な様子 は不 明である。菊池寛 も岡山の後楽園で見た可能 性 もあるか も しれ ない。 7菊池寛 『話 の屑龍 と半 自叙伝』文整春秋、1988年、350頁。 8菊池寛は、 自分や久米正雄 の よ うな地方の子供達におお きな影響 を与 えた と記 してい る が、この元窟大油絵 は、1896年 8月 12日か ら東京の借 生社 において軍人 を対象に東京 で 初公 開 され、後、国学院 で一般公 開 され、12月 25EIか らは上野の 日本美術 協会で展示 さ れ た とい う.藤 田嗣治は戦争 画 『ア ッツ畠玉砕』 (1943年)で凄惨 な殺教 の様子 を描 いて い るが、それ もや は りこの矢 田一滴 の 『元蓮 大油絵』の影響 が見 られ るか も しれない。『よ みが える明治絵ug-:修復 され た矢 田一滴 「蒙 古草来絵 図」』、福 岡県立美術館、2005年 、 89頁 9小滞善雄 『国吉康雄』福武 文庫、1991年 、185頁 -5 -い るので ある - ・私 たちは皆 が 自由になれ るよ-い世界 を実現 させ よ うと して-い るのです」 「私たちの生 き方 が唯一の ものだ と確信 していますか ら (戦争 に)勝 つで しょ う。」 lD民幸 主義、そ して 自由、それ を与 えて くれたアメ リカ- の感謝 に満 ちてい る。 しか し国吉は単なる 日本嫌 いのアメ リカかぶれ なので あろ うか ?断 じてそ うではない。 <国吉の近代 > 国吉は、 こ うもrlFくo 「ファシス ト-帝 国主義者の徒 党の指導者 は、・・・これ らの犯罪 をアメ リカ人 に対 して ものみ な らず、 日本人 に対 して も犯 してい る。
」
「私が決 して考 えた 2 こ とがないのは人種 につ いてであるI 」つま り国吉が 日本 を非難す るのは、文化や人種 レ ベルではない。 あ くまで民 主主義 と自由の理念 を支持す る立場か らの非難 なのである。 国 吉は 日本 の軍人の残虐 を描 くと同時 に、ナチズ ムの ドイ ツ軍人 を も描 いている。 であるか ら、 日本人 としてひ とくく りにす る考 えは国吉 にはな く1、それ ゆえ単 に民族的出 自を根 。 l 。 3 拠 とす る集 ま りで ある 日系画家連盟 と国 吉 との関係 は よい ものではなか った1 それ に国吉には、はっき りとア メ リカの価値観 を 自らの もの と したひ とつの象徴的 な事 3 9 件があった。 それ は 16歳 でアメ リカに渡 った後、ただ一度 1 1年か ら 32に年 にかけて 帰国 し、岡 山に戻 って きた ときの ことで ある。 ひ とりの警官に道 を尋ねた ところ、帽子 を とって丁寧 にお辞儀 を しなか った といって、大 きな声で怒鳴 られ た、 とい う。 この ことに つ いては帰国後 のイ ンタ ビュー で語 ってい る14.そ して きっぱ りと記 すo「日本に帰 って来 た こ とは嬉 しか ったが、 あま りに長 く離れていたので適応す るのは難 しい。奇妙で不 自然 ( 3 9 な感 じがす る。 1 2年 の 2月にアメ リカに戻った とき、わた しの故郷 は、移 ってきたこ こアメ リカなのだ とは っき り確信 したのであった Ienjoyedcmlgb kto n ac oJapan but le longer eongbl ed I i.sa dlt foun no t t Clu l ff l d oa o d tope h ta ce onv ir 3 9 r b er ac t us j d my db kinF uay1 2fmlyc in dt mya dh me lon orso a aw bi ter eng f fa l se yf gIflettsrangeandunnaurta.lI ) O a w smyllme。 また こうも書 く。 「再び私は子供時代に夢見ていたアメ リカの海岸に触れた。 f o hores h h touce i ga c ( しか し今回はた くさんの友人の出迎えを受 けた。 この国に帰ってきた ことが嬉 しい。それはもOnea nI dteS 皿yC
はや異国には見えない h hoild oddreams,thistlme i nyos Yasuo ii f rsso t i d ten tan e : i ? ercan A m i ecornn 0 Pr.,2 B ng, 3 8 9 9 r i h S i 10同、1 4ペ ー ジ 11同、1 9頁 は、 日本人 に対す るステ レオ タイプの見方-の抵抗で あった とシープ一 ・ワンは番いてい る。 PuWa g Th Ar dI yC Ku Unvo Hawaii 1 国吉が、東条英機 と同 じ丸 メガネ と口ひげを、似 てい るか らと言って避 けなかったの 2 1 hi, 8 1, .p8 13小滞善雄 14ニ ュー ヨー クの 日韓新 聞 0 『国吉康雄』福武文庫、2 2頁
一6-『p 「私 は警官 とひ どい ことにな ったんです よ。住所 をき くために交番 に寄 ったんですが、わ た しの も らったのは大 きな どな り声だ けで したO政府 の役人 に ものを申 し上げる ときには、 帽子 を とってていねいにお辞儀 を しなけれ ばな らないの に、それ を しなかったか らです よ。 で もニュー ヨー クの幣官 に誰 がそんな こ とを しますかね」小滞 『国吉康雄』福武文庫 、 3頁 M』誌 のイ ンタ ビューに答 えて次の よ うに言 ってい るとい う。 4 1 -2 4 15 seemedstrange)o ree dbyf dd dtobe acb kina dt 」 1岡 居心地 がいい し、頑 張 らな くて も、や って いけ る土地柄 な ので あ る。 だか ら他 地域 の人 達 -の想像力が ない。 それ が問題 なのだ と、聾者 は韓 国人の政治学者 に岡 山批 判 を した とこ ろ、その どこが悪 い、 とて もいい こ とでは ないか と言 われ た こ とが あ ったO この よ うに前近代 を嫌 悪 した徹底 した近代 人の国吉で あ るが、彼 の作品 をみ る とど うだ ろ う。技法 は 、西洋 と東 洋 を融合 してい る。別 の言 い方 をすれ ば 、東 洋 の技法 で油絵 具 を lan hta no 30 山の警官の不愉快 な言動 が彼 を して、アメ リカ滞在 年 に して身 に付 い て きていた アメ リ 日本の前近代- の嫌 悪 、それ があの 日本 峯 の醜 悪 なスケ ッチの背景 にあ る。 心地のいい土地柄 であ るこ とは一般 的 に も知 られて い る。天気 が よい (晴 れの 国)、災番 が ない 、水 が豊 富 (旭川 、高梁川 、吉井川)、果 物 (挑 、葡 萄) がお い しい 、魚 がおい しい 、 れ た土地 なの か も しれ ない。吉備 高原 には確 かに牧場 もた くさん あ る し養 蜂 も盛 んで あ る。 longer カ的近代的何日直観 を改 めて確 認 させ るこ とにな った と考 え られ るoEl本- の嫌 悪 ではない、 岡山 とい う場所 は 、その よ うな前近代性 あ るいは更 に古代性 が極 めて濃厚 な地域で あ る と一面言 え る と思 う。今 で もおそ らくそ うであ る。 県外 に人 が移動 して いない。 それ は名 字 か ら うかが える。 岡 山で しか遭遇 しない名字 が今 で もた くさんあ るの で あ る。 い ちい ち 確認 は しないが、それ ら稀 な名字 の持 ち主 は、み な岡 山の 十弟 の人び とであ る。 確 かに居
」(
3章 8 米 どころ、な どな ど。 岡 山は 「乳 と蜜 のあふれ る 『出エ ジプ ト記』 第 節 )祝福 さ < 日本 画 と西洋 画 の離合 > h ht eg e i d rensan te g 使 ってい る。 それ は同時代 の藤 田嗣治 (1886-1968)や佐 伯祐 三 (1898・1928)、 さらに は 梅原能 三郎 (1888・1986)、あ るいは安井曾 太郎 (1885・1955)とま った く同 じで あ る。葡 萄 を描 いた琴絵 の竹遣 いが 、 その まま油彩 の静物 由の/,tL萄 の描 写 に使 われ る。 静物 曲に見j られ る視線 は高橋 由一 の静物画 を紡排 させ もす る。 それ は僻 暇視線 で あ る こ とに由来 しよ う16。 特 に水 彩 画 の 静 物 画 に優 れ 、 それ は ほ とん ど同 時 代 の 日本 ug'家 で あ る速 水御 舟 5 3 9 1 -4 9 8 1 ( )の精轍 で はあ るが、裟師的 な静物画 を思 わせ る ところ もあ るO 女性 像 にお いて も印象派 では使 われ ない娘 を多用 す る。 さす が に後年 の梅原 龍 三郎 の よ うに 日本画 の 顔 料 を油絵 具 と一緒 に使 うこ とまで してい ないが、 日本画 の技 法で 、西洋 の近代美術 に新 風 を吹 き込み 、国吉 もそれ が評価 され たの であ る。 同様 に藤 田嗣治 は面相 Tr・を使 って線 描 に よる繊 細 な輪郭線 と 「乳 白色 の肌 (grandf dbon lanc)」でパ リのIL'4塩 を魅 了 したので あ った。 itsa L ) t pera Gnesrt -7-L doov 7 i 0 9 1 1 0 d i ttura r,ta uzon iLa, Yasu t er A 1 1 5 oKu 6アルベルテ ィの い うごとく西洋の絵 は開 いた窓 ( aa で あ るOe OnBatt lbP
i ed を永遠 を美 をみ る窓であ るか ら縦置 きで描 かれ 、縦置 き され る。それ に対 して東 洋の絵 は 内面表 出であ るか ら横 置 きで、画家 はそれ に上か ら臨んで 、文字 通 り内面 を吐露す る.縦 置 き と横 置 きの意 味につ いては 、ベ ンヤ ミンの′」、論 が あ る. ヴァル ター ・ベ ンヤ ミン 「絵 画芸術 とグラフィ ック芸術 」 ( 5』 ち くま学 芸文庫、2 0年、1 i gazne t s, t t as iE, i hnyos OWe Ma ofAr,t33(F beruary1940), .p81 icoDomenlChiV,enezai 1,547, .p15.つ ま り神
17年)『思考 の スペ ク トル ベ ンヤ ミン ・コ レクシ ョン
西洋 と東 洋の融合 はいずれ の側 に とって も新 しい美術 の実現であった ろ う。 もちろん こ の ことは、国吉は充分 自覚 してい るQ彼 は El本の近代洋軸につ いて次の よ うに書 くo「フラ ンス印象派 とその後 の ヨー ロ ッパ にあ らわれた ものか ら派生 した西洋派 (洋画) は、古い 流派 (日本画)が失 って しまっている活力や力 を持 っている。今まで 日本人が西洋美術の 意図を くんで作 った芸術 は ほ とん ど彼 らの生活 とは関係 がない よ うに思 われ る。 日本が知 るべ きこ とは、彼 らの古 い巨匠た ちの もの を完全な理解 の もとに消化す ることである。 日 本の芸術 家が西洋の道具 を使 い こなせ るか、外観 を変 えるか、舞台 を変 えるか、新 しい特 殊 な生活 のなかではっき りした土着の性格 を表現でき るよ うな芸術 をつ くりあげ られ るか、 なおまだ見つづ けねばな らないだ ろ う。」 17国吉 自身は、それに成功 した 自負 があった。だ か ら帰国 したのであ る。 そ して当時のアメ リカにおいて も国吉の作品は既 に、アメ リカ と 日本 の共同作業で生まれ た成果 O ion prt o uc od tfteth wonations)で あ ると見 な され 高 く
h ta he d t n ersoo ow O hough ln lt an de 評価 されていた18。 <国吉 の反 近代 > 以上記 したこ とは、従来言 われ てきた ことと大差はない。 注 目すべ きことは別 な ところ にある。 国吉が描 くのは、驚 くべ きこ とに、その主題 が見事 に一貫 して反近代 そ して反西 (1)午 まず牛で ある。 国吉の初期 の作品 に しば しば描 かれ るモチー フに牛 があ る。 国吉 自身が 牛歳生 まれ であったので、 いわば 自画像 であ ると国吉 自身が言 い、またその よ うに説 明 も な され てい るが、それ は本質的 な ことではない。国吉の説 明は次の よ うである。「私は牛 を、 この動物 を理解 してい る と思 うだけでな く、なぜ か近 しい もの として感 じるので描 いてき た。確 かに私は牛歳生まれ で 、牛の王国に多かれ少 なかれ支配 されてい るのである。 また 同時に牛 は装飾的 で醜 い と思 うが ゆえに牛 に関心があ る。馬 は素帽 らしい動物であるが、= ( gCWSa dc 牛 は不規則 である。 だか らい ろい ろ試 した くなる wasp n satt l h B l
mebecausesme w Ifetvyn rtotec .ow es sIt tIu dt lY,o s obrn,j I ea er di u gn 洋であ ることであ る。 主題別 に記 そ う。 ho o l t
aru皿a useeIwa gtObeguidde,moeo er rlss yt,b heb i kovnei dngom.Also ecaus o h te l t tan yu lt S snere OSn C s I cow wa din tecwb eIthoughtltdecoratlV S lug n o i n i l d pen eaSWeua ya ds as da ma I i dpane t I l i t n wasex ause.h td"HTheh eiors s lH,hesays,●'b tuteh ke a l Y rreguar o. cowISi ucn皿a mo つま り牛 は 「装飾的で醜 い」。 「馬 はす ぼ ら しい動物 であるが、牛は不規則だか ら、いろ いろ汲み つ くす ものがあ る」 とい うのであ る。 「装飾的」あ るいは 「醜い」、いずれ も西洋 の伝 統的 な美音織 が否 定 してきた ものである。 さらに さかのぼ るな ら、牛 こそ、モーセが ) t i f O Otu re 。 ‖91 ) シナイ山で激昂 して否定 した偶像 であ る (『出エ ジプ ト記』。神 は見 えないのに、それ を見 Yasuo ea horesof f, l / ers ane 9 de i r nr 2 9 1 7小樽善雄 『国吉康雄』福武 文庫、1 5年 の He yB の言葉。J My mm Wo TheS aDr m: 91年、141百 1 18 l ar E s ' i i h nyos Yasu 1 Ku vⅥ叫 9 oXu seu 3 t, t arer f no i gazn t s, t t as iE, i h nyos Ar nC Mu m, oWe Ma eoAr ュ. 6, .p vi 9 9 1 9 r F ber ( 3 u ay140) - 8
-える形 にす る とい う、十戒 が否定 した営み を、モーセの居 ない ところでユ ダヤ人が行 った のである。 その後のキ リス ト教世界において、イ コンを崇 め ることは、イ コンその もの を 崇 めてい るのではな く、イ コンを通 してその原像であ る神 を崇 めてい るのであ るか ら偶像 ではない とい う弁証が 7 7年 の第 2公会議 においてな され、イ コン と偶像 とが区別 された 。 牛 こそは、イ コンが否定 したアイ ドル の 、そ して シ ミュラクラの典型 なのであ る。 牛 8 0 2 1 の信仰 は地 中海地域 において もひ ろ く見 られ 、 ミノタ クロスを生む ク レタ島の牛信仰 、キ リス ト教の前身 と しての ミ トラ宗教な どで例証 され よ う2 しか し自然宗教 を否定す る旧約型番のない 日本で牛 を崇拝す るのは、なん ら禁 忌では な い。 スサ ノオ を祭 る神社 、菅原道真 を祭 る天満宮には必ず 牛が祭 られ て いる とい う。 岡 山県にお いて も牛神信仰 は盛 んである。 日本全国で盛 んであるに違 いない。 そ もそ も しば しば引用 され るチ ェンバ レンの近代以前の 日本 には牛 はあま りいなかった とい う観 察 。 1 は誤 ってい る2。 吉永町 に田倉牛神社 塚 【図 6】もある。瀬戸内の港 として著名な牛窓の地名 ももとは牛信仰 に由来す るとい う。 また実際 生活 にお いて も、県北の新見市の千屋 は もと労役牛の生産が盛 んであった ところ で、牛舎 があ る造 りの家屋 が多か った といい、今 も千屋牛 と呼ばれ るブ ラン ド牛の生産地 と して著名 である。 岡山に隣接す る但馬地方 も、昔か ら牛 の産 地で、但馬牛 は有名 な神 戸 牛 ともな り、 さらには但馬牛 が種牛 とな って松阪肉 となってい る。 2 【図 5】があ り、吉備 津神社 の近 くには牛の鼻 ぐ り 3 国吉は牛 を初期 に多 くモチー フと してい るが、 のために開催 した 「収穫祭 ダ ンスパーテ ィ」において2 4 9 1 6年に ウッ ドス トックで国吉が 日系人 、国吉は横 2メー トル半の大画面 6 ) l r n Co に席画 を してい る
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『牛 と少女 ( wa dGi 』1372,x50cm、岡山県立美術館 【図 7】)0 拙稿 0 he l enera use r k lSE t se ure, yso,rpg. ven i f roveso t oasan, n a carcean, Japanes sors i lve he t ara l t e an llrecent reco そ して描 いている途 中にお どけたポー ズで写真 を撮 らせてい る 【図 8】Oそ の牛 の背 中には 女性 が乗せ られている。 図像 と しては、これ は 「エ クロバ の誘 拐」であ るO ゼ ウスは フェ l hav 2 2 2 c ニキア王の娘 エ ウロバ に一 目ぼれ し、自ら白い牡 牛 に姿を変 えて、エ ウロバ をク レタ島-さらってい く。 国吉の描 く牛 の乳は張 り、牡牛 であるのだが、牛 のまだ温かい排他物が描 かれ 、そ こか ら湯気が上 ってい る ところが慢軸風 に描 かれ てい る。 これ はま さに、エ ウロ バ (ヨー ロッパ)を否定 し、 さらってい く本能 と しての牛 ではないか。 そ して更に国吉の お どけたポー ズは、テ ィツ ィアー ノの有名 な 『ェ ウロバの略奪』 のエ ウロバのポーズをな ぞ っているのではないだろ うか 【図 9】。この絵はイザベ ラ ・ガー ドナ-夫人 の所蔵であ り 1フロ リアン ・グェルナ-2 Ti yt eh dn mme et yy yn∝k heepa dg yd gee attea mp ys dn ng , 0 9 1 3年開館 のボス トンのイザベ ラ ・スチ ュワ- ト ガー ドナ-美術館 の名 品 と して展示 さ 1 0 「イ コン論 と現代」『続 ・神秘の前に立っ人間』新 世社、2 0年 、217-246頁 1 0 (臼井隆一郎訳)『牛の文化 史』東洋酋林、2 1年O O f l ororeg f t nuacure her it e ma dn nC Cene, ither s l h ier t or h iernes h ter it e hn miki d B i.as ha iicn d hera t a -l uxuryan, llregare sd iEn li eran, i t a bien fbee gs da al dmikr same et nafoo
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apanese gNo nV Connecet th 8 t ecs j 9 i S b arous u dwi 6年、17頁 9 2 血 担且 Y 3小滞善雄 『飛用 と回帰 :国吉康雄の西洋 と東洋』岡山文麻 、1 9. 7, .p1 0 0 h 2 o an, l
れ ていた。 国吉は この絵 を見 てい るはずで ある。 国吉は これ か らェ ウロバ を描 くところで ある。 男の国吉が女のエ ウロバを真似 る とい うのは奇妙 に見 えるか も しれ ない。 しか し本 能に さらわれ てい くエ ウロバ であ る。 理性 の人であ るはずの近代人が本能的衝動 に負 けて しま うOまた敵性外 国人 を十 把 - 絡 げ に差別 して しま うoこれ は戦争 中の 日本人そ してア メ リカ人の ことではないか ? (2)子供 初期 の国吉の作 品で頻 出す るモ チー フで注 目すべ きは、 さらに 「子供」がある。子供 も 人間の本能 、す なわ ち人間 の根源 的 な面 を示す存在 であ る。 フィ リップ ・ア リエスが示 し た よ うに、近代 はそ うい う子供 を 「人生に入 ってい くた めには十分成熟 していない」ので、 「子供 を大人たち と一緒 に し混清す るに先立って、ある特殊 な体制の もとに、世間か ら隔 離 された体制の も とに置 いてお く必要がある」 とす るのである24
」
幽家は小心 な世界 に住 んでい る 「恐怖 の感覚 を描 写 しよ うとす る画家 の心」(『ニ ュー ヨー 。国吉は 当時か ら、「この ) i tnng ihg tene ih rg Bo クタイムズ』1 絵 は多い。例 えば 『雷 に恐怖 す る少年 ( yF dbyL 2 92年 1月 15日) とも評 され ていたのであ り、確 かに恐怖 をテーマに した 1 2 9 1 年 ) 』(ペ ン画 1 2 9 ) k nae tene ih rg yF dbyS 』 (油彩、1 Bo ( 年 )、『夢(Dream)』 ( 『蛇 に恐怖す る少年 油 、1 彩 92 Whael)』 (油彩、1 4年 ) 2 9 a by 2年)、『夢 (Dream)』(ペ ン画、1 292年)、『鯨 に恐怖す る姉妹 (Sisetrs rgFihtened rea Ba ( dD m)』 (ペ ン由、1 492年) 、『悪夢 、『水 を恐怖す dF dbyWa 』 (油彩、1 4年) な どがある。 ウイル-ル ム ・ヴ l 2 9 ) ter inge tene ih rg hle (Wi m Worr r(188 l i h C ( る子供 k t sra 5 6 9 1 -1 )が 『抽 象 と感 情 移 入仏b t n uio nd オ リンガ -h nsce 0 9 dSe 1 iktn nf lung)』( D l terns h Me na ii i ( E 8年)のなかで番 くよ うに、「人間の本能 は理性礼賛ではな く して恐怖 t ih tnc S b ler Weltrf6mmigekits,onerd nFurcht)」なので 5 あ り2、国吉は子供 を措 くこ とで、本能的根源的 な感受性 を措 いてい る と考 え られ るので ある。 (3)道化 師 そ してサーカスをテー マ とす る一連 の絵がある。しか し描 かれ てい るのは道化師であ り、 ( 4 Di 8年 、福 武 コク レク シ ョン)。つま り国吉が描 くのは反サー カスなのである。 ing b t sur 空 中ブラン コが描かれ て も、失敗 してい るところであ る (『安眠 を妨 げ る夢 9 Dream)』1 とくに戦後 の国吉が描 くサーカス芸人については、ほ とん どが道化師で あった とは小津善 6 雄 も指摘 してい る2 り (『祭 りは終わ った 。 そ して ここで描かれ る馬 は、メ リー ゴー ラ ウン ドの馬 はひっ く り返 、あるいは首がな 4 9 ) i E ddes n e iivt F tes ( 』1 7年 、岡山県立美術館 ) 9 5 8 4 9 ) orses ) Ju l 960 ( tt nso 8 9 W orse H 3 l1
d a 1 ( 9 9 7 3 5 9 2 2 2 He ess h oWa mp』1 年 、 大原美術館 )。初期 におい て も、馬 は野生 のままであ り (『野生の馬 WidH 』1 4フィ リップ ・ア リエ ス 『<子供 >の誕 生』みすず杏房、1 0 (原著 1 )年、35頁 5岩波文庫、1 年、11頁 6小滞善雄 『国吉康雄』福武 文庫、1 年、22頁 0-い (『飛 び上がろ うとす る頭 のない馬 1 2 3 9 tor Su 年 、福武 コ レクシ ョン)、また嵐 におびえてい る (『夏の嵐 ( mmerS m)』1 8年 、-デ トロイ ト・イ ンステ ィテ ュー ト・オブ ・アー ト)。馬 は牛 とは違 って軍馬 で もあ り、つ ま り積極 的な近代化 を象徴す る馬2が否定的に描かれてい るのであ る0 (4)仮 面 仮面は、国吉に関 して も本 音 と建前 とい う紋切 り型で語 られ ることが多いがそんな レベ ル ではない。 仮面、それ は実体のない人間であ る。 しか しこれ はマイナ スイ メー ジで とら 7 えて済むわけではない。例 えば現代イ タ リアの思想家 ジ ョル ジ ョ ・アガ ンベ ン (1942-) は 自己表現 と しての芸術の限界 を指摘 し、ふ たたび中世的 な神 を描 く芸術 の復権 をい う。 その際の芸術 家は神 の前で 「JEQ」なのであ り、「中身のない人 間」である280それ は案 山子 であ り、国吉は、 旧約聖# あ るいはプ ラ トン以来の神 の形 であ り、美 を映す人体 をアナ ト ミカル (解剖 学的) に描 いて案山子の背景 に してい る。 そ して、その人体 を描 いた大判の 紙 は破 られているのである
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『啓示 (Revealtion)』19 】)。 国吉は同 じ頃の 1 0年に よ うに記 しています。 「自分が最終的にわか ったな どとい う人は愚かだ。創造は状況 と時間 とともに変化す る。 時 とともに我 々は成長 し、侮 日が変化であ る. 自分の もの と考 えてい る ものをつか も うと 5 9 「内面の律働 0 ) 4 ive 9年 、ウィチ タ美術館蔵 【図 1 InnerDr 」 と越 したエ ッセーのなかで次 の ( す るのは不 可能である。現実に向 き合 い、進んでい く しか ない allyfoundhmsi in f as s Fo . ikn i h n tance Hewhot sheh is ( ircu w l evoves io lC.reat f l e afoo nr i thc ms sa dtme ra o in t e o da n ne fro youro re ro meg nweg w; m o yt ln h ut ka wna dattmp gt oeso ingsyo i h t t o in わ hange.T he heresi t capur h ter t ano ac ry gt et m f hose b pt i gras i are rever mposs 9 ) on. ve n t i l ea fac h tas o er ya dmo J2 ne O s lso a (Aln Wi n Watt 「進 め ! 人生は、その魔法 のよ うな変容 と絶 えなる変化 を完全 に肯定 し、それ を受 け入 れ 、人生 と一緒 に進 んで、初 めて人生 を理解 できるのであ る。 すべては常に新 しくされ る のであ り、それ を受 け入れ ることによって禅 の弟子たちは大い なる奇跡 の感 覚 に満 ちてい た。世界の始 ま りは今であ る。 あ らゆる ものは今 、創 造 され る。 そ して世界の終 りも今 で そ の エ ッセ ー の 冒頭 に 引用 され て い るの が 、 ア ラ ン ・ワ ッツ ) 3 7 9 1 ・ 5 1 9 1 の著番 『禅 の精神』 か らの一節 です。 fe i d t n ersan l n eca Forw l あ る。すべての ものは今過 ぎゆ くか らである。(Wakonち no yu dl 1 0 27馬の近代的意味につ いては 、市川政麗氏の ご教示に よる。そ もそ も耶者 が記 してい る反 近代 としての国吉の意味につ いて も、きっか けは 2 福武 コ レクシ ョンの国吉作品の展覧会 のための シンポジ ウムにお け る市川 改憲氏の分析 で あった。 ここに記 して感謝 します。 1年 7月 17日の岡山県立美術館 での 0 0 7 9 細 ジ ョル ジ ョ ・アガ ンベ ン 『中身の ない人間』人文蕃院 (岡 田温 古=まか訳)、2 2年 著 1 0年) dbyA (原 le. 0. 5 9 Yasuo d ben erg,1 Z ia 29 KunylOShi,The nneI rDri ive,nTh Are tofteArh tits c,ompile r ur th - ll-ke i l ・ i smagc d e
ykee gp hi mp eaffma na dacc eofit
i llscp t epanc e bi t n en do eu ei all h i t epanc n io t i h ir lte hanges.B o f ow or, o d on er f now or, in b t, d nen S i nvers t n ens i nvers ac ion h t t rea f h ft i pn ewi yac du yt eteZ nd eis別l ma sa gc sacc wih a g ts e ofw ,fre d d innnigo eu eisn all smome gcreae ant , en f transor t he b beg t e ew. g lSPerpeutally becomi ng n Th in h t very t ea ar ings h t th ea ingsar h
t tthismomen past snigaway.)」 3 0
つま り、国吉の描 く案 山子 は、 旧約 聖 古以来のプ ロセ スを経 て形成 された 3千年の歴 史 を踏 ま えた西洋 芸術 に対 して、仮 面 をかぶ った案 山子 、「内容 の ない人 間」と しての 日本 な のであった。 それ は情 けない平べ ったい顔 の仮 面であ り、西洋 の ミケ ランジェ ロ的 肉体 に 対 す るアジア的舞踏的 肉体 であ り、1 0年代 か ら土方巽 ( が 、積 極 的 に 表 現 媒 体 とす る ガ 二 俣 で 猫 背 で 中腰 の 肉 体 で あ る 。 そ の 絵 を 「啓 示 7 9 1928186)や鈴木忠志 ( 9193・) 」と名付 け るの は、消極 的 な ロ本人 、あ るいは絶 対的 には無 目的 の 日本 人 に ) ion Revealt ( 対 して、啓示 に よって成 立 した積極 的 な近代的個 人 を指 す。 国吉の作 品 には、初期 に この 案 山子 と牛 を合 わせ て描 い た油彩 画が あ る (『モー ド (Mau ed)』1219 年 、個 人蔵)。 鼓晩 年 の仕事 が ここに先取 りされ てい る。 また この充実 した 肉体 の手前 の空 っぽ な肉体 の対比 は 、 ミケ ランジェ ロの シ ステ ィナ礼拝 堂 の 『最後 の審判』 にお け る中央 の キ リス トと、そ の手前 の抜 け殻 の聖バル トロメオ の対比 なのか も しれ ない 【図 11】。 ア メ リカの画家テ ッ ド .マー フィー (TedMurp yh)は、『最後 の審判』のバル トロメオ を、オ ヴィデ ィ ウスの 『変身物 語』 に記 され て い るマル シ ュア スの皮 剥 ぎ、 ダ ンテ の 『神 曲』 の天堂篇 、そ して ミケ ランジ ェロの ヴィ ッ トリア ・コロンナ- の詩 で解 釈 してい る。 聖バ ル トロメオは 『黄 金伝 説』 に よる と皮 を剥 が され て殉 教 した と伝 え られ 、それ は古代 のマル シ ュアスの話 と O 結 びつ け られ る。 オ ヴィデ ィ ウスの 『変 身物語』 (vid,Me mota rp osh es oo,B kVl)に よ る と、アポ ロとの笛の競技 に敗れ たマル シュア スは罰 と して皮 を剥がれ る。 その ときマル 1 シ ュアスは次の よ うに叫ぶ。 「ど う してわた しを、わた し自身 か ら引 き剥 がす のです ?」 3 i C tso ano, P d t ne ar, a (Da 感 - と敷術 す る。 「お お アポ ロよ、・・・願 わ くは私の胸 に入 り、 かつ てマル シア (マル シ ュアス) をそのか らだの鞘 か らひ き抜 いた時 の よ うに、汝 の気 息 を吹 き込んでいただ きた そのテ キス トをダ ンテ が 『神 曲』の天国篇 I)のなかで詩 人 の藍 l oonna i ttor ( d fso s, n r a 3 3 3 3 Vi aC )に捧 げたマ ド リガ- レの なかで、こ う歌 う。「い まなお贋 え る魂 の よき行 いは、荒 く硬 くて粗 野な殻 で あ る過剰 な肉体 に よ って隠 蔽 され てい る。 あなた だけがわた しの外殻 か ら、 よき行 い を取 り
0 AlnW.Watt TheS 1オ ヴィデ ィ クス 2ダ ンテ
3 Sotooaea ygooddee
い」 32さ らに ミケ ランジェ ロは グィ ッ トリア ・コロンナ 3 出す こ とがで き る。わた しの なか にはそ の力 も意思 もない ゆえに。」 3 つ ま りミケ ランジェ 6. 3 9 Zen,1 f to 主ir ) l 4 (中村 善也 訳 )『変身物語』 (上)岩 波 文庫、2 0頁 2 (野上素一駅)『新 曲』天堂篇 、第 1歌、世界古典文学全集、2 5頁 exc he O C lneae le b trern ll i h t ta s t l sou h te SC dbyt ess h te haven f Ior , h ta h t uers us i or h ic h es , f t u ro r he tso k ta i f o ca mass wnf wh hf msah kt nstlll et m o m wi t nmyo ell 't wi 'scoarse dcan udr eandhardY.oualone h llorsrtengt 一 1 2
-ロは、殻 と しての肉体 を否 定 し、肉体 の内部か らよき行 い を取 りだ して欲 しい とヴィッ ト リア ・コロンナに託す ので ある。 国吉 の案 山子 は空 っぽの空 しい肉体 を指す とい うことに な る。 国吉 とミケ ランジェロにつ いては既 に トム ・ウル フが、先 に挙 げた国吉がサーカスの失 敗 を描いた 『安眠 を妨 げる夢 (DisurtbingDr m)ea 』( 8194年 、福武 コク レクシ ョン)を、 ミケラン ジェロのシステ ィナ礼拝堂の 「アダムの創 造」の場面におけ る父な る神 の指 とア ダムの指 の対応 関係 と比較 してい る34。 そ してその数年後 、最晩年 の国吉は、薄 っぺ らな仮面 を今 ま さに外 そ うとす る恐 ろ しい 顔 の道化師を描 く (『ミスターエー ス Mr 』1 295年 、福 武 コ レクシ ョン 】O) ヴイル-ル ム ・ヴォ リンガ- の言 は既に引用 したが、本能 の人間は動物 であ り、世界 は魔 ) Ace , ( 【図 12 術 に文配 され 、恐怖 に満 ちてい る。 マ ックス ・ウェー バー (Ma We r1x be うよ うに近代 は魔術 か らの解放 なのであ り35、恐 ろ しい顔 の 自画像 は、魔術 的 日本 の 自画 像 なのである。近代社会のなかでの 日本は、民主主義 に しろ 自由の観念 に従 うに しろ、そ れ は仮面で しかない。『ミス ターエース』は、そ うい う本能 (前近代)を戦後 民主主義 (仮 面)で隠蔽 してい る戦後 日本 の姿 、そ してすべての人 間が本来 もってい る本能 を描 いてい るのである。 <近代 の 「切断」の表象論 と向き合 う> この よ うな西洋の表象論 との衝 軒的な出会い、すなわちアイ ドル の世界 の住人が超越的 なイ コン論 に出会 うことは、学習の時代 の明治時代 には稀有 な ことであ ったが、天才の感 受性 によって 、い くつか事例 はあるO美術 ではまず高橋 由一が西洋の美術 は写実だけでは の趣 味」 があ る と記 して い る3 0 2 9 1 -4 6 8 )が言 ない と喝破 してい るO 彼 は それ を 「- 60 また五姓 田義 松 0 0 )の 世界観 の問題 だ と気付 いた故 の挫折 であった ろ うと思わせ る。原 田直次郎 ミュン- ンか ら帰国後の衰 弱 の背景に も、西洋 3 0年 にお よぶ美術 に歴 史に庄倒 され た 5 1 9 1 ・ 5 5 8 1 ( 1 388年 のパ リでの原因 不明の挫折 も、西洋 の芸術 は技術だけではない 9 9 ・ 3 6 8 1 ( )の Sa s a h leangeo rl, .tb C f P toer e l se i h t i w nmy f. Th yoMI yJ me M. 母 low p, .305 fYas, uo l b 34 I m Wo Ku Women a,SmF 5「現世 を魔術 か ら解放す る とい う宗教史上 の偉 大な過程 、す なわ ち、古代ユダヤの預言 's i i h nvos rancsico,1993, .pXII 3 者 とともに始 ま り、ギ リシャの科学的思惟 と結合 しつつ、救いのための あ らゆる呪術的方 法 を迷信 と し邪悪 として排斥 したあの魔術 か らの解放 の過程 は、 ここ (カル ヴァン主鵡) deral t lh ecer W t, l i h ensce der h に完結 を見たのである We m上 ell nwi 3 JenergroL ( ereliigonsgeschlChtlihceProzeL3d Eer nztau erb ung i hsce d i t j t nProp ehtieensi ttezeun ,d im Vereinm上 tder ls h uc i der l e i h gsce k en en, ihce l t h f
ssensca nD allema nMitt Helss ea iersenei ff r an, l revever n l b ergau Ab eu dF wa dh nAb ロテ スタンテ ィズムの倫理 と資本主義 の精神』(1904ノ05)第2章 1(梶 山力 、大塚久雄訳) ) lDu h sc 」Oマ ックス ・ウェーバー 『プ e ber, 2 1 6 岩波文庫 (下)2 7頁oMaxWe DiP t t troesani hsceE ku dd rti n eGeiStdes Ⅰ S i l ta i p Ka 叫 ヱWeiteKapital,1,Tilbingen,1920(1904/05), .S 94・95 『高橋 由一履歴』、拙稿 「五姓 田義松の <天宴 の才 >と高橋 由一の <- の趣味 >」『岡山 3頁 6 3 大学芸術学研 究』第 5号 (1998年)7 05-1 -1 3
-ことがあ ったのか も しれ ない。文学では夏 目淑石 (1867-1916)の 1901年の ロン ドンで のいわゆ る 「神経束弱」、音楽では滝廉太郎 (1879-1903)の 1902年の ライ プチ ヒでの篠 息 と早世 もあげることがで き るだ ろ う。滝廉太郎の絶筆 の ピア ノ曲 『憾 み』 は現代の若い 日本人芸術家が気付 き も しない、あるいは気づいて も軽 々 と乗 り越 えて しま う西洋芸術 の 壁 の前で立 ちす くむ姿 を示 してい る。 さらには悲劇 的 な最後 を ウィー ン郊外 のホテル で迎 えた久野久 (1886・1925)がい る。 芸術 は単なる技術 ではないので ある。 そ もそ も芸術 に 技術 はな くてはな らないが 、芸術 を成 り立たせ てい る本 質的 な ものが 日本には欠けてい る のであ る。 それ はモーセ以 来、旧約 の物質否定、新約 の物質肯定、そ してその実現 と して の近代 とい う三千年 の歴 史 の なかで培 われ てきた非可逆的歴史観 であ る。 ポス トモ ダンと言 われ て久 しい。 ポス トモ ダンは も う古いな どと した り顔 にいわれ た り もす るが、それは定義上 あ りえない。モ ダン (近代)の物質肯定に対 して、物質否定のプ レモダ ン、あるいはポス トモ ダンである。終末論的 な時間軸のあるユ ダヤ ・キ リス ト教世 界ではポス トモダンであ るが、ユ ダヤ ・キ リス ト教 の終末論 を受 け入れ ない異邦人 (gentile) に とっては、プ レモダン とポ ス トモダンに区別 はない。瞭味 な動物的未 決の世界 を切断 37し て、神 による被造物た る物 質 によって永遠 に至 るべ く前 に進むのか、あ るいは 「冷た くも な く、熱 くもな く
」(
『黙示録』第 3章 15節)不可知論の海 の なかで浮遊 しなが ら生 きる のか、 これ は我 々に とって未解決 のままの永遠 の間であ るQ 37この吉井 の引用元 と して、ルイ ・アルセチ ュールの著作が よく引用 され るが、戦前の 1936年か ら 41年 まで東 北大学で教鞭 を とった ドイツ系ユ ダヤ人哲学者 カール ・レ- ヴィ ッ ト (1897-1973)の言葉 をまず想 起す べきであろ う。 「ヨー ロッパ精神 はまず批判の精神 で、区別 し、比較 し決定す ることを弁 えている。」
「批判 は、つねに存す るもの を-歩一歩 と分解 し前進せ しめるが ゆえに、ま さ しくヨー ロッパの進歩の原理 であ る。」
『ヨー ロッパ のニ ヒリズム』(柴 田治三郎訳)岩波 軒店、1 974年 (初版 、筑摩 軒房、1 948年)、1 19頁. わが国では西 田幾多郎、柳 宗悦、和辻哲郎、小林秀雄 らに よって、早 くか ら西洋文化 の根 幹 と して言及 され てい る。 一 14-(c
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