悲母を送て五十年、はらからは追孝供養を楡しく相談している。己が既に古稀に垂んとし平坦ならざる人生を辿て 両親特に悲母の慈愛が切々と胸を打つ。人生は斗争だと叫んだ強者あり、仏陀は滅後の社会相を、根鈍性悪、そして 次第に邪悪に濁され今日の時代相を、斗謡言訟、白法隠没、その結果人類斗争、社会悪は劇しさを増し終には両性斗 争までエスカレートすると予診され、それ故に応病の良薬を遺すと説かれた。私は母が没我与子、凡てを与へて何一 つ酬いを求めなかった慈愛、克己と忍従、姑舅と夫に事へ育児と膜、農婦として男に負けずに農作業、営々として働 かれ更に信心強盛で、些の屈托なく厨で鼻歌を唄ひ興に乗ずれば太功記を語り紀井の国を踊った母。泣きごと斥ひ、 他人に迷惑をかけることをこよなく厭た母。特に私の出家は母の切望によったことを聞かされ、あの慈母観音、只管 なる母の生涯の命綱は宗祖であったことを想い、宗祖の女性観は、私の母の如き振舞なれば男女斗争などは絶対生じ ないと思い、母の追孝にと表題を選んだ訳です。 一、人類創生以来の女性の位置 一一 一 一 一一 、 、 、 中国の女性観 日本の女性観
日蓮聖人の女性観
宮崎海優
(16)独乙の。へI・ヘルはその婦人論の冒頭に﹁被圧迫老たることは婦人と労働者と同一である﹂の書き出しから論を進め 永い間の婦人の地位の低さ価値の乏しさを論究している。今日文化の定義の一に婦人開放が数へられていることは依 然として女性劣視の証拠である。原始時代以来両性の関係は人類進化の過程で物の生産方法により変化し、更に未来 も亦た変化しつづけるだろう。自然界には永恒不変はなくあるのは変遷の象である。最切人類は群︵ホルデ︶であっ た。草根、果実、食料の不足に伴て分裂離散が始った。人類進化の経過は、。ハッホウフェン、タイラ、マクレナン、 ラポック等により解明され、次でモルガン、フリートリッヒ、エンゲルス等の剋明な探索の結果次第に文化発展の.ヘ ールが開かれてきた。今日までの人類の歴史を、野蛮、未開、文明の三期に分け、これは食料等生活資幟の痩得上の 基礎改良、即ち火の発見、漁、狩、弓矢、石器、獣畜飼養、肉牛生産、革、皮、角、鉄鉱利用、文字の創造等により 区分される。原始期の両性はモルガン説によれば、北米、イロクオイ人の中に容易に離婚出来る対偶結婚の事実が発 見され、野蛮時代は、血族団体内での乱婚、凡ての男女は多夫多婦制で、従て亦子供も共有であった。ストラポーは アラビヤ人の混交を報告し、人類の生殖は近親結婚に始まると云う。モルガンは血族結婚の次に、家族生態、ブナル 七六究四 、 、 、 、 結論 日蓮聖人の女性観 法華経に説かれた女性 経典に顕はれたる女性
一、人類創生以来の女性の位置
(〃)人口の増加、生産の分業、仕事の区分、狩猟、漁携、牧畜、農耕等、特別な知識、訓練が要求され、道具、材料の 製造の多様化に伴い富の取得分配から父権時代が勃興した。母権が次第に制圧され結婚も男系中心に改められ、ユダ ヤ人は女性は無権力、結婚は売買そして貞操は要求され、女権は共産、平等を、男性は私有、支配を意味し同時に婦 人に従属抑圧が課せられた。アマゾン帝国の伝説はそれを物語ている。ギリシャの神話や、戯曲に失はれた母権の影 同率に活動していた。 を宿している﹂と信派 一人の女性が多くの夫をもつ場合、父系の証明は不可能で父系は仮定で、ゲーテは﹁ただよき信用のみ﹂と述べて いるが真実性はまずない。況や複数結婚では母の承が正しく、子供は母系に属するが次第に血族の弊害が判り異種血 族との結婚が要求され、文化の進展に伴て兄弟姉妹の性交が厭はれ、新しい氏族は母系に決定され母が家長であり ﹁リシャ﹂人は必ず最初に母系の名を挙げ、女王、女君が出現した。この時代の神話、アスタルテ、デメーター、セ レス、ラトウナイシス、ブリツガフライア、ゲルタ等女神を主とし婦人を尊重し殺母は極悪罪と制し婦人擁護は男子 の勇気ある行動と称した。タシッスは著﹁ゲルマ’一ァ﹂の中で独乙人は﹁婦人は何か神秘な性質、独特の予言的性能 を宿している﹂と信じ、婦人の言行、意見を尊重すると述べている。母権時代は単純で男女とも肉体精神に大差なく ア、家族が生じ、次でトーテム団体結婚が行われたと述べている。
父権の勃興
母権時代
(I8)四大文明の随一中国は心六世紀、標桿なる漢民族が北方より南下し黄河流域に定住し、狩猟、牧畜、農業に従事し B 次第に勢力を増し、三皇、五帝、伏義、神農、堯、舜、禺、湯と相次で、治山、治水に成功し、確固たる基を築いた、 神農は名の如く農業の神、禺は九ヶ年治水に没頭し我家を通っても寄らなかった有名な話もあり、今日まで水を治む る者は国を治むと治国の代名詞となり、県の長官を牧民と呼んでいる。三千年前蒼額が鳥跡より文字を創作し、漢の 許慎が説文を表はして文字の六義を定め、その中女は象形で母は女に両乳を点じ、海は凡ゆるものを生み出すから散 水に母を作て造り、男は田と力の組合はせ、父は鞭を交互にかけ合はせ字意からでも既に男性中心、農耕が主力であ り、制裁者指導者を鞭で表はしている。中国五千年史は女性軽視であり、栄啓期は三楽の中に女と生れなかったこと を挙げ、災は三女︵妹己、姐己、褒似︶より起るとし﹁幼にしては父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従 う﹂の三従は白虎通に載ている。男女七才にして席を同じゅうせずと。永年中国思想の根幹をなしていた論語に﹁詩 三百思無邪﹂の轍を借りれば、論語二十篇一言以て之を云へぱ、陽貨篇に﹁女子と小人とは養い難し﹂に尽きる﹁之 を近ずくれば則ち不遜、之を遠ざくれば則ち怨む﹂孔夫子が女性の所遇に如何に手を焼いたか髪潔と浮ぶ。論語全篇 運命づけられていた。 朝の祈の中に男子に生れたことへの感謝のことばがある。英、仏では人間を男子で代表し男尊女卑は既に遠い昔から 安寧が保たれ﹁ほむべき哉﹂と称讃している。プラトンは八つの恩恵の中に女に生れなかったことを数へ。ユダヤの 像、売婬、側室が数々談られている。クロンは売娼制度創設を、アテネの男子はこれによって風儀が改まり、女子の
中国の女性観
(19)殆んど女性論なく、微子に﹁斉人女楽を帰り﹂この楽に耽た太夫に憤慨して孔子は﹁行る﹂で出国した。女尊は泰伯 篇に九人の才能の中に文王妃が加へられているに過ぎない。挙一例諸で四書、五経中も同轍で女性軽視思潮である。 無為、虚無、思想の老子は八十一章中二ヶ所女性論があるが、物を生ずる点と己の虚無思想と女性の柔軟性が同調で あることより劣視よりも、人生処世に忍従、柔順型を推奨しているが根本は主体性のない柔弱を底値と認めての立論 である。然し文紘後現代の中国は男女同権、女性開放に積極的に取組んでいる。 宗祖は﹁日本国は天照大神と申せし女神のつきいだし給へる島なり﹂と大和朝廷の祖先天照大神を我国の祖宗と仰 がれ、魏志の倭人伝には卑弥呼が三世紀の半に耶馬台国を治め朝貢した記事あり、八人の女帝、神功皇后は胎中天皇 を懐いて三韓征伐の古事あり女権時代も伝へられるも、我国の旧名豊薙原瑞穂国の称号の如く農耕国であるから男性 中心であったことは論をまたない。古来七去三従の厳しい伝統があり、七去とは、一、母に順ならざること、二、子 のなきこと、三、窃盗、四、婬乱、五、嫉妬、六、多言、七、悪疾、三従とは、幼にして親に従い、嫁して夫に従い 老いて子に従う。可なり不平等な規制であり、七人の子をなすも女に心を許すな。俗に﹁お袋﹂の表言は自ずと女性 劣視の根底に立ち、貝原益軒著と云はるる、女大学には終始隠忍と自重を強い、克己と忍従を婦徳の最高と称へ男性 の影武者的の存在にしていた。中国の女卑、印度の五障三毒説、殊に平安期に中国渡来の末法説が弘まり、か弱い女 性の位置は低下し冷遇された。鎌倉時代は末法思想と永い兵乱肉親相剋の修羅場が現出し、現在のはかなさ、女性の 象じめさを歎くの余り、苦の娑婆を厭い、未来の浄土、極楽往生に憧れ、偶を唱導された浄土信仰に救を求め瞭原の
日本の女性観
へ (20)火と燃えた。念仏流行の面 間の事情を現はしている。 念仏流行の裏 印度はアーリャン民族が北方よりインダス、ガンジスの両河に添うて南下し、先住民族を追放して農耕を主として 定住した。釈迦族に浄飯、白飯塀飯等米穀の名が付せられているのもその証である。従て肉体的に強壮な男性中心で あったことは当然である。古来三従説は、マヌの法典に根拠し、四姓の階級厳然として女性は常に男性の従属的生活 に甘じた。仏教は実に人類平等、階級打破より出発している。女性劣視は仏の継母、橋鐘弥の出家物談、即ち五部律 四十八、中阿含二十八等に記されている﹁女人の出家をゆるせば仏法流伝五百年減る﹂説や、四部律、五部律、十諦 律、等の女人禁制、比丘尼の入団は﹁甘庶田にカビが生じたようなもの﹂の響、比丘の二百五十に対して比丘尼の五 百戒等、複雑な戒律は女性に欠陥多きを証拠立ている。ハルリ王の釈迦族虐殺の因はその母の出生を卑められたこと に由る。経典中の女性劣視は、肉体、精神劣勢ばかりでなく僧伽護持上の障害排除をも考慮されている。最初の僧団 は比丘中心で新興教団として厳しい戒、禁制が布かれた。人間本能中の最大煩悩は性欲であって﹁諸苦所因食欲為 本﹂を別本には﹁婬欲為本﹂と更へてある。強烈な性欲の対象の比丘尼の入団は劣視もさることながら教団維持の障 害になることが恐れられた。乃で酷しい制戒を布いて教団の護持を計った。女卑の例である三従は、賢愚経、法句臂 諭経、大智度論にも有り、五陣は法華経提婆品、超日月経に説かれ、華厳経の﹁外面如菩薩、内心如夜叉﹂﹁三世の 諸仏の眼は大地に落つとも女人は成仏せず﹂銀色女経、五悪は穣悪、両舌、嫉妬、膜患、無反復、八態は嫉妬、妄膜、 には当時の無常観が与て力あったと云へる。今も残る﹁禅宗武士に浄土女﹂の風刺はその
経典に顕はれた女性
(21)罵晉、冗誼、鎮圧、樫貧、好飾、含毒、九悪法は臭穣不浄、悪口、無反復、嫉妬、樫嫉、喜遊行へ膜患、妄壷唄所言 軽挙、五部律の八不可越法とは、一、比丘尼は半月毎に比丘衆に従うて教誠を乞う○二、比丘尼は応に無比丘所に於 て夏安居すべからず。三、比丘尼は自志の時応に比丘衆に従て三事見聞疑罪を請う。四、式叉摩那は三才戒を学し己 らんに応に二部僧中に在りて具足戒を受く。五、比丘尼は比丘を罵ることを得ず、白衣家に於て比丘の破戒、破威儀、 破見を説くを得ず。六、比丘尼は比丘の罪を挙ぐるを得ざるも而も比丘は比丘尼を呵するを得。七、比丘尼粗悪罪を 犯さんに応に二部僧中にありて半月摩那唾を行じ已りて応に各二十僧中に出罪を求む。八、比丘尼は受戒して百歳な りと雄もなお応に新受戒比丘を礼拝し起仰すべし。と飽くまで比丘への従属が強いられている。以上の如く厳しい制 戒は勿論劣視に由るも戒は防非止悪で戒めて事無きを期する為めで徒なる呵責ではない。仏陀の本来の考は男女平等 で後の八才の竜女成仏に見る外相は差別なれども、本質に於ては平等、価値平等を説くのが本旨である。乃ち次に示 す勝堂夫人の徳行は、竜女成仏と共に女性尊重の好資綴である。 和国の教主、百家の興主、八宗の祖師と仰がるる聖徳太子は親ら朝廷に於て袈裟をかけ、諸経特に法華、維摩、勝 霊の三経を講じ、更に三経の疏を作り、篤敬三宝を実践せられた。即ち法華経は諸乗一仏乗に帰し万善同帰の経王と し、右に維摩、左に勝堂を配し、維摩は男性の理想像、勝堂は女性の亀鑑として国民の信仰を奨められた。その勝童 夫人は権化でなしに実在の女性である。本経は勝童夫人が仏教についての自らの信解を語ると云う特異な形式の経典 である。仏在世にコーサラ国の王プラセーナジッ卜と、王妃マッリカ夫人が隣国のアョーデイャー国王ヤショウミト
勝窒経の概要
(22.)第十三章自性清
第十四章真子章
第十五章勝童章
第十三章自性清浄章
第十二章顛倒真実章
第十一章一依章
第十章一諦章
第九章空義隠覆真実章
第八章法身章
第七章如来蔵
第六章無辺聖
第五章一乗章
第四章摂受正法章
第三章三願章
第二章十受章
第一章如来真実功徳章
容で、十五章から成り、各題名がよく本経の綱領を提示している。 ラに嫁した娘シュリーマーラI︵勝窒︶に仏教入信を勧め、その因縁で入信した勝霊夫人の信仰と、信解の告白が内 如来蔵 無辺聖 章 諦章 (23)この中一から三までは序分で、夫人が諸仏の功徳を讃歎し、十ケ条の誓と、三願を建てることを内容とし。第四は 摂受正法の意義と功徳が説かれ本経所説の目的である。第五から九までは仏教の究寛目的を一乗と云い、それが大乗 であり、三乗ともに一乗に帰すべきことを説き、その功徳が説かれ、第十、十一はこの一乗の真理は苦滅でありこの ﹁苦を減す﹂ことが仏教の目的であると説かれ、十二’十四は、以上の一乗に帰入すること、その真理の苦滅諦とは 如来蔵があると云う真実に基いている点と、その事実に対する信が説かれ、十五は夫人を通じて説かれた仏教が広く 人々に受持されていくことで結んでいる。乃ち本経は一乗思想と、如来蔵思想を説いた経典で、一乗とは仏教の種々 の思想が最後には唯一の教に帰せられてゆく、それが一乗で、これは勿論法華経を継承した思想で、本経の特色はそ の一乗思想の根本たる如来蔵を説く点にあると云へる。如来蔵思想は凡ての人に如来となる種子があると云う思想そ れが一乗思想の基盤として説かれ、それが本来清浄の面と、客塵煩悩との二面から説かれ、これは阿含の自性清浄と、 客塵煩悩からの系譜で、自性清浄は凡ての存在は縁起で我執すべきものはないと云う存在の事実、諸法実相、真如で あり、客塵煩悩は凡てが清浄であるにも不拘、現実には煩悩は限り無く起り苦んでいる。ここに本来清浄なるが故に 煩悩は救済されねばならぬ。即ち凡てのものは清浄と云う肯定と、それ故に浄化さるべき否定、即ち清と濁の二事実 が如来蔵である。この二事実が凡ての人に平等であることに於て凡ての人に如来蔵があると説かれ、それが一乗思想 の基盤となっている。正法章に夫人が三願即ち、正法摂受と、正法を説く、正法を護持の功徳の甚大を述べると、仏 陀はそなたは智慧深く方便を以て説く才能あり、そなたの如く深く法の意味を理解する人は稀であろうと夫人の智慧 の深さをおほめになった。 (24)
世尊、如来蔵は輪廻の証拠である。輪廻は既に受けた諸根が減するや直ちにまだ受けざる諸根を受ける、この為に 輪廻と云う。この輪廻は如来蔵と同じ意味である。生死は世間の仮の名で、死は諸根の減、生は新に生れることであ る。所が如来蔵は生も死もなく有為転変を超へている常住不変、確固不動の存在である。而も如来蔵は煩悩と別なも のとして存在せず、如来より離れていない為諸法存在の所依であり、基盤である。同じく如来蔵は煩悩より離れてい るのに、而も如来と別なものとして存在している為に煩悩から解放されていないと認識される有為の存在の所依であ り基盤である。若し如来蔵がなければ、苦を厭い楽を願うことはないであろう。私達の眼による認識は持統瞬間的で ある。それに対して如来蔵は永遠の存在で、生も減もなく、而も苦しみを受ける如来蔵が苦を厭い浬藥を求めるので ある。如来蔵はアートマン、サッドヴァ、ジーヴァ、ブドラとかのように実体的ではなくその人々に理解し難い存在 なのである。この如来蔵は正法の根本、本来清浄、諸法の根原である。如来蔵は本来清浄、空であるのに煩悩に汚さ れる、これは如来の法身が煩悩から脱却していない状態である。これは如来だけが理解されることである。本来清浄 の如来蔵が何故煩根に汚されるか、これは私達には理解出きない。世尊こそが眼であり、智慧であり、一切法の根原 であり、一切の教主です。この難解な如来蔵を説明した夫人を称へ、仏陀は本来清浄の、空な心が煩根によって汚さ れる意味は難解である。このことを理解し得たのは、そなたか大いなる正法を身につけた菩薩であると証言された。 この一乗思想︵法華経︶と如来蔵思想︵浬梁経悉有仏性︶即ち仏教の二大思想を了解し得た夫人は権化でなく仏在世 実在の女性である。如来は伝統の男尊女卑を踏まへて女性の才能を充分に認識されていた証拠である。
自性清浄章
(25)法華経を拝して如何なる聖者も時代、社会を離れて語ることは不可能と思う。法華経の成立史は次第に解明されつ つあるが、経文の説相に顕はれた人物、生活様式、習慣の表現で成立年代が逆算されると思う。貧富の差、男女の別、 社会秩序が浮き彫りにされやはり男尊女卑年代が窺はれる。最初は化城諭品で諸母諦泣、これは十六王子の出家を悲 しむ母の声で、これは悟への首途を煩悩の母が泣くと註釈され、次の五百弟子品に富楼那の成仏、劫国名号が明され 法明如来の国には﹁悪道女人、婬欲なし﹂と、雄弁の富楼那の国には﹁女人なく婬欲なし﹂とやはり艇されている。 次が提婆品で悪人、女人の成仏の典型である。什訳に提婆品がなかったことは通説で、聖徳太子の義疏が廿七品であ ったことは現存で証明され、爾後、南岳、天台の交に挿入されたと云はれ、天台の文句、妙楽の記には灼然として﹁二 十八品一々文を是真実﹂と讃歎されているから廿八品成立は畑である。迩門の正宗、諸法実相、十如同体、開三顕一 が説かれ、難化の二乗が成仏したことは十界皆成の証拠で、敗種破石、永不成仏が受記されれば況顕で当然余の八界 成仏は可能である、但に理でなく事実として天台授記品の文句の所謂﹁他経は男に記して女に記せず、今経は皆記す﹂ と註された如く、他経に的確な女人成仏がないから証拠として、竜女成仏が説かれ、又極悪の提婆の成仏は、提婆は 元と阿私仙として嘗て千載給仕の檀王、今の釈尊の師であった。これは善悪不二邪正一如、所謂、逆即是順と云う法 華経の真髄の徹底発揮である。八才の竜女は海で、文殊の﹁唯常宣説妙法華経﹂で得度した。これを智積と文殊が疑 た。仏道は懸砿で芥子の如きぱかりも菩薩にして苦行せざる所なし、それほどの苦修の結果成仏したのに、竜畜八才 の女が忽ち成仏し得るか、舎利弗は女人は垢微で五陣︵一、梵王、二、帝釈、三、魔王、四、転輪聖王、五、仏身︶
法華経に説かれた女性
(26)あって成仏不可能とされている点を強調して難詰した。乃で竜女は一念三千の宝珠を仏に献り、仏即ち之をお受けに なるや忽ち男子と成て南方無垢世界で、三十二相、八十種好を具へて妙法を説き、皆遙見彼、竜女成仏した。この現 実に、智積も舎利弗も一会も黙然信受したとある。前述の五陣が不成仏の要因で、これは女性の肉体構造、精神内容 が男性に及ばず、各界の王となり得ず、況や成仏は不可能ときめつけたのであるが、智祇や、舎利弗は歴劫修行、別 教の心地からの非難で、竜女成仏は、円教の善悪不二、邪正一如、男女同質、一念三千の境地から答へた。伝教大師 は絃を﹁能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏﹂と註された。変成男子は古来から問題で女性は男子に変らなければ不 成仏かと云うに当時の風習で仏には三十二相具足がきめられ、女性には隠馬蔵相がない。この男性の象徴は、勇気や 剛健男性独特の強さの根元を示し、更に後の造仏に関して必然的相好になっていた。乃で外相は男子であるが、本質 は両性ともに価値平等、それは後の寿量開顕の暁に決定するのである。流通は正宗の価値宣伝であるから悪人、女人 成仏を証拠に、経の力を発揮し、次の勧持品に橋曇弥、耶輸陀羅の記別があり、次で薬王菩薩の本地が開顕され、苦 行乗乗、此経の功徳と修行の厳粛性、焼身供養が示され、次で日月浄明徳仏の、化境が明され﹁彼国には、女人、地 獄、餓鬼、畜生、阿修羅なし﹂と示され、舷では女性は六道界に摂属されているが、後段に法華受持の功徳で、妙楽 の﹁永く女質を雄る﹂﹁女人を尽くして亦受けじ﹂と確約され、滅後後五百歳に女人此経を修行すれば﹁安楽世界に 往いて蓮華の宝座に生ぜん﹂と予約され、観音経には﹁女入若し男性を求めば、福徳智慧の男を、若し女性を求めば 端正有相、宿植徳本、衆人愛敬の女を生ん﹂と説かれ、妙荘厳王品には、浄徳夫人が浄蔵、浄眼の二子と協力して外 道に深著せる夫父の妙荘厳王を仏道に入信せしめた因縁が説かれている。以上法華経経文中の女性について略述し た。 (27)
宗祖は法華経を本迩二門に分け、その特色を二乗作仏、久遠実成に絞り、開目抄に﹁先ず世間の学者もゆるし我身 にもさもやとうらおぼゆることは、二乗作仏、久遠実成なるべし﹂と特殊性を票挙された。二乗作仏とは法華経以前 にない教相で他経には敗種、破石と斥い、永不成仏と烙印が押されている。世間道徳では三悪道四悪趣とて、負、膜 痴、慢、疑などは邪であり、悪であり、二乗のように只管道を求め、世俗の欲望を去り、山野に遊行し、決して他に 迷惑を及ぼさず解脱を求むる修行者は称さるべき人間であるが、仏教の批判は本質から、根原からであるから一般道 徳論より酷しいのである。俗に二乗根性とて、己の象行いすまして世間を離れ、灰身滅智とて煩はしい此世に再び出 生せず空を寂含の理想境を目標とし、孤調解説とて独り安住、独善主義なのである。 仏はこの点を排撃されたのである。仏教では人世は互具互融で、相互扶助、有無相通じ、同甘同苦でなければなら ない。相会相関が娑婆の実相である。単独行動は直接悪ではないが根本道徳に背くことは本質から云へぱ最悪に当る のである。乃で永不成仏ときめられたのである。それが方便品に諸法実相、開仏知見で、我盈は必然的に仏種を持ち 宗祖の女性観を述ぶるに先達てその法華経観を概説する。夫れは宗祖は法華至上主義で一切の現象、善悪、邪正、 尊卑、優劣は法華経に合うか否かで決判されるからである。開目抄に﹁善につけ、悪につけ法華経を捨つるは地獄の 業なるべし﹂と票挙して一切の能判を法華経に本拠されているからである。
日蓮聖人の法華経観
日蓮聖人の女性観
(28)此の世は十界互具、十如同体と、彼此相通じ、有無相融し、脈絡関係を保て存在していることが明され、蚊に今まで 斥はれた二乗の十如も、仏の十如も本来一体と判り、舎利弗が成仏の記別を受け二乗作仏が決定したのである。一番 難化の二乗が成仏したから理として他の八界は成仏するわけなのである。次の久遠実成は本門寿量品の説相で、仏は 伽耶城を去ること遠からざる道場に坐して成道したと説かれたが、実は五百塵点の昔に成仏し、以来、三身常住、三 世益物、非生現生、非滅現滅とて無始以来大慈の手をのべ、六或示現とて、形声二益を施し、毎自の悲願窮ることな く、我等憐子を救済されつつあることが開顕され、こうて顧みれば三千大千世界、草木国土、人畜、四生、悉く本仏 の化現でないものはなく、即身成仏、娑婆即寂光が決定したのである。これが本門の中心思想、久遠実成である。こ れを教相的に要約すれば法華経は一切経の綜合統一である。即ち大乗小乗、権実、本迩を綜合し題目の五字に結帰し 行は三学六度、三十七科の道品一切の行を受持一行に統一し、人は三世十方の仏を久遠の一仏に結帰し、理は諸経偏 円の理を妙法の極理に摂帰し、更に仏滅後の時と機を予断して応病の良薬を判定し、今時、末法は本化の再来宗祖が 唱導の大士で、法は上行所伝の題目と決定された。これが宗祖の法華経観の概要である。 次で宗祖の女性観を述べれば、端的に云って寿量所顕、本地開顕の立場より男女は久遠本仏の縁起で絶対平等であ るが、人間存在の制約上、花紅柳緑で、自ら外相は差別し、上下、軽重、内外の異りが生ずる。宗祖は﹁男子女入そ の性本より分れたり、火はあたたかに水はつめたし﹂︵日妙聖人書︶と差別の特質を認められ﹁花は緑をへだてて愈 紅し﹂で反対なるほど相互扶助で調和し、その力用が発揮される。根本の正法を信受し、両性長短相扶け始めて安心 立命、家庭平和、永遠の平和が確立すると訓へられたのである。宗祖讃に、学問の淵博、思想の深刻、実行の徹底、 報恩徳操、義分の尊重、同情の博大、慈悲の深遠等が挙げられるが、報恩の徳操、御自身の両親、殊に母君への孝養 (29)
の篤さ、法華経は内典の孝経、提婆の成仏は一切の父の成仏、竜女の成仏は一切の母の成仏の実証であり、もと法華 経は末法濁悪、五逆の人々の救済が主であり、極悪救済中心なればか弱い女性済度が法華経の正目的である。妙法尼 書に﹁法華経は女人成仏の御経なり﹂とも、千日尼書には﹁この経は女人成仏の手本﹂、乙御前御書には﹁法華経は 女人のためには闇きに灯、海に舟、恐ろしきにはまもり﹂と女人成仏の御経と判ぜられた。父君は岩本入蔵中に逝か れたが、母君への孝養は至れり尽せり突で、最も誇高き御名日蓮を、御両親に分対し、父君は妙日、母君へは妙蓮と おくられ、小松原法難は母上省親の途次の刀難であり、母の病を祈て四ヶ年の寿命を延べ、喜びにつけ悲につけ、父 母、殊に母君を欣慕され、他に対する感謝の最大敬語は必ず﹁父母代らせ給う﹂と引き合はされ、刑部女房書の﹁父 母の御恩は今始めて事あらたに申すべきには候はねども、母の御恩の事、殊に心肝に染ゑて貴く覚へ候﹂は人の子と して切盈の情一読五体に泌承る感激である。 身延在山御病躯を挺して峻嶮をよじ、思親閣に登り故郷を拝し、元政上人をして﹁父母を鯖望してこの高きに登る﹂ と歎ぜしめ、育恩堂上今だに残る母杉の奇跡、身延は恩の山、孝の山と讃へ、池上御入滅に臨み永年懐中の母君の遺 髪を己の瓶中に入れ身延へ葬れとの御遺言を遺弟の発議で、後年門子檀越への孝養の生型見に御尊像の払子へうえ込 んで末代孝養の亀鑑として現に池上祖師堂に在します。御自ら孝養の実践、そして、富木、池上、四条、上野、阿仏 等の夫人への切をたる慈訓。或は慰問、同情、感謝、奨励等、誠に至れり、尽くせりの対機説法、之を仰げは愈為高 しの感が迫るのである。毎に慈懐切々、筍且にも女性軽視はなく、諄含と説かれ、信女をして不惜身命の信仰を奮起 させられているのである。中で池上兄弟夫人への賜書、兄弟抄の一節﹁女人となることは物に随て物を随へる身なり﹂ この御文は宗祖の女性観の一句万了と思ふのである。兄弟書は信仰上の争いで家庭不和を誘起した池上兄弟への御書 (30)
で、併せて奥方への切々の教訓、女性は男性に比して劣りはしないが、天地、陰陽、上下あり、先づ与へれば必ず帰 へる、女人は与へることに喜びを感ずる。先天的に肉体構造が、姫娠、育児等、男性不可能の特別使命を以て生れて きている﹁与へることは取ること﹂女性への本質として尤も適切な訓と思うのである。富木書に﹁箭の走ることは弓 の力、雲のゆくことは竜の力、男の業は女の力なり。烟を見れば火を見る、雨を見れば竜を見る、男を見れば女を見 る﹂阿仏房書に﹁男は柱、女は桁、男は足、女は体、男は羽、女は身と、男女能所の所対が巧に表現されている。強 い男は決局弱い女、忍従の徳に従う。男の業、外の働きは実は内なる女の力、優しき奉仕、励ましの力の表現であ る。富木殿が身延詣を夫人の力とし、阿仏坊の身延参拝を尼のさせる業とおほめになっている。一応は与へて実は奪 ている。然し、乙御前書の﹁軍は大将を魂とし女人は夫を魂とす、家に男子なければ人に魂なきが如し﹂と世の常道 論もあり、更に第一義の信仰面からは﹁いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随うべからず﹂と断乎拒 否を厳命信仰の純雑の相異は強く禁めておられるのである。故郷の恩人、光日房賜書と云はるる法華題目抄に﹁妙と は蘇生の義なり﹂の大活釈を示し法華経信仰をすすめ、最後に﹁法華経ををしえずして念仏ををしゆる入念こそ一切の 女人のかたきなれ、南無妙法蓮華経と一日に六万、十万、千万等も唱へて後に暇あらぱ時時は弥陀等の諸仏の名号を も口ずさみなるように申給はんこそ法華経を信ずる女人にてはあるべき﹂実にユーモラスに巧に念仏ごりの女人への 勧誠が説かれ、到底不可能な条件を付して尚お力あらぱとのおすすは深く噛象しめて拝読すべきである。更に大学夫 人の生理の御質に対して随方毘尼を引いて﹁その気のあらんほどは御経をょませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱 へさせ給へ﹂と我国の習慣に従うまでで、さして忌象厭うことでなしと教理面より巧に御訓へになっている。最後に 日妙聖人書を引いて宗祖の女性観をくくりたいと思ふ。四ヶ度の大難中、竜口の巨難、御自身は頸の座、門子、檀越 (31)
は連累で追放、所領召上げ、入牢等の大迫害、浅い信仰、著世の男女は雪崩を打て退転、聖人門下の一大危機に直面 し宗祖の御心痛如何ばかりか、然し猪の金山、難来るを安楽行と難に遭う毎に大勇猛心、残る信徒も却て大難に殿へ られ、金剛の強信この危機を契機として寧ろ燃え上った。宗祖は佐渡遠流の厄難、而しこの最悪時が最重要時で、開 目、本尊の二宝冊、大曼茶羅の御図顕、後人佐渡を宗祖の正宗分と判ずるほど、宗義顕揚期であった。流罪の翌年、 文永九年五月に鎌倉より海山千里の嶮阻を亘て幼子を抱へて乙御前の母が見舞はれた。屈強の男子ですら容易な旅程 でないのに女性而も幼子を携へての長旅苦難は完く思半ばに過ぎるものであろう。この強信の女性に宗祖の感激は如 何ばかり、感謝と御賞美、畢に門下で始めての女性聖人号が授与された。﹁須弥山をいただきて大海を渡る女人をぱ 見るとも、此の女人をぱ見るべからず当に知るべし、釈迦、多宝、十方分身の諸仏、上行、無辺行等の大菩薩、大梵 天王、帝釈四天王等此の女人をぱ影の身に副うが如く守り給ひ候らん、日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名 を一つ、つけ奉りて不軽菩薩の義になぞらへて日妙聖人﹂と法華経の信仰は不自惜身命第一幼子を連れて山海千里を 超へて佐渡訪問、仏祖への不惜身命のこころ、本仏の功徳は譲与される、乃ち日妙と名を賜はる。妙とは不可思議具 足、本仏の功徳名、生命の本原、故に蘇生の義である。五障三毒の女性が一度び妙法受持の当所即身成仏する。挙一 例諸で今、末代の女性も妙法受持の当所本仏の因果の功徳は譲与される。今本宗で女性の法号に妙字を付するは蚊に 基因していると思う。女人の五陣は妙法を受持すれば﹁梵釈四天は反て行者を守り﹂況や本化の菩薩なれば新池書に ﹁梵釈四天は馬となり身に立ちそう﹂と仰せられ、五障どころか恭敬礼拝される。妙法受持の功徳の如何に広大なる 哉。粗鉱ほど殿へれば名刀となり、劇毒ほど調剤すれば仙薬になる。三毒、五陣の女人ほど妙法の電流を通ずれば逆 に特殊のはたらきを起す、法華経の真髄は、逆即是順で為毒変薬が勝用である。上下、優劣と云うも不動でなく条件 (32)
に由る。巨樹の梢は天を摩するがそれを養う根原は地下に在り、車輪の軸木はその空間を作る為に在る。宗祖の女性 観は、男女単平等でなしに、価値平等で、相反する男女が一致して、互具互融、初めて円満な家庭、平和な社会、国 家が建立する。これが宗祖の女性観である。而し徒に女性に優しかったわけでなしに、義分の尊重で旧恩の領家の大 尼が本尊授与を申出でたに対し退転、逆縁を理由に授与を拒否され、内房の老尼が峻しい山坂を超へて遙を身延詣に 対して氏神詣の序との言分に本末転倒は許されぬと面会拒否せられた邪突あり、人情絹より細い宗祖は半面義分に於 て秋霜烈日の厳しさがあった。今日も尚お遵守すべき大義である。 最近の女性は永い間の圧迫から解放され男女同権より否、女性優位を主張し、ウーマンリブで、随処に両性の角逐 現象が起きているが斗争は凡て両性の本質の不認識より起きていると思う。宗祖の御示教に素直に従うべきである。 慥に洋の東西、古来より勝れた女性、男性を凌駕するほどの才女も多く在ったが本質的に、肉体構造、精神組織が異 質で各々長短あり、その特質を生かして相依り相関て始めて完全な一致を見る。父は慈、母は悲、慈は与楽で子供の 長所を伸ばし生き甲斐を与へ、悲は抜苦で子供の欠点に同情し共に悲しみ苦を抜いてやる。両性天賦の異あり、これ が一致して始めて完全な力が発揮する。今時未開発、発展途上国は依然として女性は低い位置に甘んじ、・ヘーベルの ﹁婦人は過去にそうであったから必然的に未来もそうあるべし﹂ここの二大タブーに釘付けされて永遠に浮ぶ瀬はな い。と警告しているが、我々は文化の定義にもなっている女性開放のポイントに、宗祖の女性観を置き両性の完全一 致、希望と平和な社会、国家作りに努力すべきである。我母は遺子に崇敬と感謝で供養され、私は色神は父母の遺体 結 垂> 耐11 (33)
四種の婦人
㈲貧欲膜悪嫉妬口腹志貧欲はあるが嫉妬せず施しをする臼忍辱心はあるが施をせず嫉妬心がつよい四心
寛ぐ忍耐強く嫉承なく施しをする
四人の妻㈲肉体口財産日親族四因縁
H人殺口盗人日主人の如き四母の如き国妹の如き内朋友の如き㈲下脾の如き
七種の妻玉耶経
㈲貞操を守る口家政を整へる回使用人を大切にす四浪費しない であることを想い天職に励むことが無上の供養と信じ仏祖に御給仕申上げている。 古来からの女性への針言と偲諺大火を抱くとも女を抱くなかれ中阿含一
四人の妻 (34)女は物を嫉むに賢し女心は風の如し捕へがたし女心は水にえがく定まらざる故河の如し曲れる故に。日妙聖 人書 入を浪費せず H夫の両親を敬う口夫を尊敬しその師を敬う日夫の仕事に理解をもつ四婚家の使用人を大切にする倒夫の収 勝曼夫人の十願 ㈲戒を守て犯心を起さず口長上を尊敬する日膜志を起さず四不嫉妬餌内外の法に於て不樫惜内不貯蓄財物 ㈹己の為めに四摂法を行ぜず伽衆生の困苦に心を捨てず”摂受折伏を以て悪律儀及犯戒を止む㈹正法を摂受す 牝鶏の腱するは家の乱れの元 夫婦は栄辱を倶にす
七去三従傾城傾国
女賢うて牛売りそこねる 七人の子をなすも女に心許すな 宗祖の戒め 嫁の五戒中国
白虎通
日本
日本
日本
(35)良妻と健康は人間の宝 妻の箸侈は夫を無能にする 夫の愛は一部妻の愛は全部 国家を動かす手は母の手 貞婦若し夫を指導せんとせば唯一つ忍従の象 愚者と女は恨を忘れない 小児の運命は母の手の中 母の愛は最善の愛 女は弱し然し母は強し
妻は恋人伴侶保母
家の仕事に没頭している妻は一番美しい 人をためすには女を以てす 夫の才能は妻の忍耐 妻は夫を諌める最善の者 妻は夫の般善か最悪の財産 よき妻は最上の財産 腹はかりもの母はおふくろ ″ ″ ″ ″ ″仏国
ナポレオン独乙
シルレル ペーコンロダン
〃 〃 〃英日 国本 エマーソン (36)沈黙と謙遜は女の最上の装飾 子供は母親の作ったまま 子供を見れば母親がわかる 口の動く女は手は動かない 秤の片方に世界片方に母をのせれば母の方が重い 子供を抱いている母ほど美しいものはない