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映画から見たアポリネール作品の《poésie》について

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(1)

映画から見たアポリネール作品の《poesie》につい

著者

伊勢 晃

雑誌名

年報・フランス研究

38

ページ

1-12

発行年

2004-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/10322

(2)

映画か ら見たアポ リネール作品の 《

p06sie》

について

伊勢 晃 I 2004年3月 4日 、アポ リネール研究の泰斗 ミシェル・デ コー ダンが逝去 した。 ペ ール・ ラシェーズ墓地 にお け る葬儀 の場 で、盟友 ビク トール・マル タ ン

=シ

ュメ ッツが捧 げた言葉 の とお り(1)、 彼 は 〈

ouverture〉〉、〈〈partage〉〉、く〈don〉〉のす べ て を備 えた研 究者 で あ り、 この こ とは若 手研 究者 ロランス・ カ ンパ との共著 PαssJθκノクθ〃J″αた ∫Zα′θおJθ a′θrたル ソνθ(2)が遺著 となった ことに象徴 され てい るで あ ろ う。本 書 は、伝記 ィ′θ〃jttα姥 °)の場合 と同 じく、研 究者 で あって も 日 にす る こ とが非 常 に困難 な数 多 くの一次資料 で構成 され てお り、 これ 自体 が高 い資料的価値 を有す るもの となっている。また、2003年度 〈〈Prix le la Critique du Pen Club〉〉に選 ばれ た著書 Иρθ〃J“α姥 “ )にお いては、詩人 に関す る最新 の知 見 を取 り入れ つつ 、広 範 な視 野か ら彼 の創 作活動全般 が詳述 され てお り、アポ リ ネ ール研 究 の全 体像 を鳥腋 図的 に知 る こ とがで きる。 氏 の研 究活動 は、晩年 ま で ま った く衰 え る こ とはな く、世界 中の研 究者 が一 堂 に会 す る数 々の研 究会 を 主催 し、 自 らの研 究成果 を発表 し続 けたが、そ こに一貫 してい た ものは、 あ る 分 野 にのみ偏 った研 究 ではな く、常 に対象全体 の真 実 を浮 かび上が らせ よ うと す る、真摯 な姿勢 で あ った。 ミシェル ・デ コー ダ ンは、 これ まで重要視 され て こなか った詩以外 の作 品つ ま り短篇 作 品や 映画 、演劇 に対 して も精 力的 な研 究 を行 つた。 これ は、様 々な文学 の形 式 と芸術作 品の形式 の あいだの境界 を取 り

(3)

映画か ら見たアポリネール作品の 《po6sic》 について 払 お うと したア ポ リネ ール の創 作態度 に通 じる と言 えよ う。 ア ポ リネール の創 作活動全体 に流れ る《poёsた 》の解 明 こそデ コー ダ ン教授 の 目指 した ところで あ り、後進 の研 究者 たちに託 され た共通 の課題 である。 本 稿 では、 この よ うな視 点 に立脚 す る こ とに よ り、 ア ポ リネール の映 画作 品 にみ られ る 〈〈poёde〉〉につ いて検討 を加 えたい。詩人 は、映画 が将来 、書物 に 取 つて代 わ る もの で あ り6)、 あ らゆ る芸術 が結 ばれ る叙 事詩 で あ る と述べ てい る “ )よ うに、アポ リネール の作 品解釈 に 「映画 」 とい う観 点 を導入す る こ とに よって、彼 の考 えるく〈poё sie〉〉、す なわ ちエ スプ リ 0ヌ ー ヴオー を さらに明確 に で き る と確信 す るか らで あ る。今 回 は特 に、短篇 作 品 《Un bcau nlm〉 〉、くくLc Toucher a distance〉 〉とシナ リオLα Brど乃α′′′θ を中心 に考察 を進 めたい。 II イメー ジの書物

18世

紀 か ら

19世

紀末 にか けて、 さま ざまな視 覚 の娯 楽 が開発 され た。 た と えば、 ステ レオ ス コー プや 写真 、パ ノラマ 、 ジオ ラマ な どで あ る。 これ らはす べて観客に 「仮想現実」を楽 しませ る 「見せ物」としての機能 を果た していた。 特 に、パ ノラマ 、 ジオ ラマ にお いて は鑑 賞者 た ちは どこまでが現実 で どこか ら が虚構 の世 界 か判 断す るの が困難 な ほ どで あつた とい う。 さ らに観 客 は 自分 を 取 り囲む

360度

の絵 画 に よつて一点 に とどま りなが らすべ て を見つ めるこ とが で きる とい う視 点 の変化 が生 まれ 、 これ までの遠 近 法的 な視 点 か ら解放 され る こ とになつたので あ る。 この よ うな時代 を受 けて映画 が誕 生 した。 しか し、20 世 紀初頭 の映画 は見せ 物 と して の性 格 が強 く、批評 家 か らは軽 蔑 され てお り、 映画 が芸術 と しての価 値 を有す るな どとは考 え られ ない こ とで あつた。 渡辺淳 は、「映画 の本格 的 な芸術化 へ の動 きは第一次大戦後 、 フランスや ロシアのア ヴ ァン

=ギ

ャル ド映画 、ドイ ツの表現 主義 映 画 のそれ に始 ま つた とみ なせ よ う。 それ らによつて大衆的・前衛 的 を問わず、二〇世紀の新 しい芸術・芸能 として、

(4)

映画か ら見たアポ リネール作品の 《po6sie》 について 〈〈映画言語 〉〉の練 り上 げが緒 につ き、推 し進 め られ、演劇や文学 との関わ りも、 は つき りと映画 の側 か ら主体的 にあ らためて考 えなお され 、そ の結 びつ き、 と くに文学 との結 びつ きは、概 してい よい よ強化 され た よ うに思 われ る。」 とLO、 文 学 と映画 の間 の問題 が意識 的 に視 野 に入 り始 めたのが第一次大戦後 だ と考 え て い る。 しか し、ア ポ リネ ール は文 学 の側 か ら映画 の役 割 につ いて考 えなお し て い る。 映画 が娯 楽 以上 の価値 を持 た なか った時代 に、ア ポ リネール が映画 を 芸術 の一分 野 と して認 知 し、積極 的 に高 く評価す るだ けで はな く、そのなか に 新 しい〈〈po6sie〉〉の可能性 を見いだ していた こ とは もつ と知 られ て良い事実 であ る。 講 演Z EsprJ′ “οzνθανθ′′θs Pο aたsでは、 画 、 文 学 の 総 合 」 を強 調 しな が ら、 映 画 に を与 えて い る。 「視覚の叙情性」 と 「芸術、音楽、絵 「イ メー ジの書物」 とい う位 置づ け

Il eut 6t6 ёtrange qula une 6pOquc ot rart populaire par excellence,le cinё ma,cst

un livre dlilnages, les poёtes n!cussent pas essay6 de composer des images pour les esprits inёditatifs et plus raffln6s qui ne se contentent point des imaginations grossiё res des fabrications de f11lnso Ceux… ci se rafflneront, ct ron peut pr6voir le jour ot le phonographe ct le cinё

ma

ёtant devenus ies scules folttnes d'ilnpression en usage, les poёtes auront une libertё inconnucjusqula prё sent。(8)

当時、映画 は まだ無声 の時代 で あ り、 白 と黒 の画面 が織 りなす イ メー ジの世 界 で あ つた。無 声 で あ るか らこそ、観 客 はイ メー ジ に よつて、 あた か も詩 を読 んでい るかの よ うに、想像力 がか き立て られ る。 アポ リネール が、「動 くイ メー

ジ」 とい う映画 の本質 に早 くか ら着 日していた こ とは、Lёopold SuⅣageの論 文

〈〈Le rythme colorё 〉〉を 自分が編集者 であった雑誌 Zω ttJrどθs tt Pαrお に掲載 し

(5)

映画か ら見たアポ リネール作品の 《po6sie》 について ア ンフ ィオニー芸術 カ トリーヌ・ムーアが指摘す る とお り(11)、 映画言語 は動 くイ メー ジで書かれ 、 そ の こ とに よつて新 しい文 法規 則 が考 え出 され たが 、 これ は、 アポ リネ ール の 短篇 作 品の主人公 のひ と りで あ る ドル ムザ ン男 爵 が考案 した 「ア ンフ ィオニー 芸術」 に通 じる(12ゝ

Ayant ainsi instituё ma libertё dans esthё tiquc,j'inventai un nouvel art,fondё sur

le pё ripathёtisrrle d'Aristote. Je nonllnai cet art : liamphionie, en souvenir du pouvoir

ёtrange que possёdait Ainphion sur les moenons et les divers matё riaux en quoi consistent les villes。 (。¨)L'instrurrlent de cet art et sa inatiё re sont une ville dont il s'agit de parcourir une partie,de fa9on a cxciter dans l'ame de liamphion ou du dileuante des sentiments ressortissant au beau et au sublime, comme le font la musique, la poё sie,

ctc。(13) 男 爵 は この 芸 術 を 実 践 で き る場 は パ リで あ る と述 べ て い る。 パ リは 現 在 と過 去 と未 来 が重層 的 に交錯 し、多彩 な時 空 間 が混在 す る構 造 を有す る都 市 で あ る。 そ こで は 時 間 軸 か ら切 り離 され た もの が ひ とつ ひ とつ の オ ブ ジ ェ とな り、 全 体 的 な イ マ ー ジ ュ を作 り上 げ て い る。 ま た 近 代 的 な 通 信 手 段 、 交 通 手 段 で あ る電 話 、 電 信 、 ラ ジ オ 、 自動 車 の発 展 や 鉄 道 網 の拡 張 に よ つ て 空 間 的 距 離 も格 段 に 縮 小 され た。 ア ポ リネ ー ル は 時 空 間 を超 え た と こ ろ に新 しい 世 界 を創 造 す る こ とが 詩 人 の 役 割 だ と考 えて い た が 、 そ の 手 段 と して絵 画 で 用 い られ る コ ラー ジ ュ の 方 法 を文 学 作 品 の 中で応 用 して い る。 詩 人 は過 去 に執 筆 した作 品 の 断 片 を 別 の 作 品 の 一 部 で使 用 す る方 法 を頻 繁 に利 用 した が 、 これ は 現 在 と過 去 そ して 未 来 ま で もひ とつ の 空 間 上 に並 置 す る こ とに よ つ て 時 空 間 を超 越 し ょ う とす る 試 み の ひ とつ で あ っ た 。 しか し映 画 で は 、 オ ー バ ー ラ ップ や 多 重 露 出 、 フ ェ ー ドな どの 手 法 を用 い て 、様 々 な 時 代 や 空 間 を共 存 させ る こ とが 可 能 で あ る。 こ の こ とを考 えれ ば 、 ドル ム ザ ン男 爵 の ア ン フ ィ オ ニ ー 芸 術 は 、 この 第 七 芸 術 を

(6)

映画か ら見 たアポ リネール作 品の 《po6sie》 について 意識 した ものであ る と言 えよ う。ドル ムザ ン男爵 は、短篇集 二

Z象

短勧″θασθ の最後 を飾 る作品 〈〈Le toucher a distance〉〉において、遠隔装置機械 を利用 して 同一時刻 に異 な る場 に存在 す る とい う遍在 を可能 に したが、 これ は映画 のス ク リー ンの 中の世 界 で実現 され た。 映画 は、演 出者 の主観 で時空 間を断片 として 切 り取 り、 自由に組 み合 わせ る こ とがで き る。 つ ま り、 アポ リネール は詩人 と して、文学で この世界 を演 出 したのである。 虚構 と現実 一連 の ドル ムザ ン男爵諄 は映画的 なイ メー ジで構成 され てい る。 その 中心 と な るのが、短篇作 品 〈〈Un beau■lm〉〉で ある。 この作品が 当時の映画状況 を正 確 に踏 ま えて執筆 され た こ と、特 にジ ョル ジュ・ メ リエ スの映画 に影響 を受 け てい るこ とは拙稿(14)で指 摘 した とお りであ る。 アポ リネール は メ リエ スの こ と を 「光 の錬金術 師」 と呼び、互 いに面識 もあつた(153。 奇術 師で もあつた メ リエ スは、ゆだν あκSル Zγκθ(1902)に見 られ るよ うな トリックを発 明す ることで、

SFや

妖精物語 、空想諄 そ して現実の事件 に着想 を得 たニ ュー ス映画 な どを撮影 し、映 画 の持 つ可能性 を拡大 した こ とに よ り、今 日の映画 の基礎 を作 つた と言 われ てい る。メ リエスは トリック撮影 を多用す ることで驚異世界 を構築 したが、 ア ポ リネール が映画 に求 めた ものは、 この驚異 と創 造 とい うエ スプ リ・ヌー ヴ ォー の 中心 的 な要素 で あった。 カ トリー ヌ・ ムー アは この二人 の芸術 家 が映 画 に見 いだ した もの と して、現実 の諸 イ メー ジか ら、事実 よ りも真 実 ら しい魅 惑 的 な嘘 の世界 を生 み 出す とい う映画独 自の特徴 をあげ、次 の よ うに述 べ てい る。

Les deux artistes comprenalent le caractёre unique du cinё matogra/phe qui joue avec des images《 r6elles》 cOmme la poё sie jongle avec les mots du langage prosahuc _pour crёer une faussetё enchanteresse plus vraie que la rёalitёo Si les notions de r6alit6

(7)

映画 か ら見 たアポ リネール作 品の 《po6sie》 について

elles reposent sur une nouvelle syntaxe quc M61iё s,le prenlier,apprit a inaftriser。 (16)

くくUn beau■lm〉〉は、 この よ うな映画 の特徴 を意識 的にまた巧妙 に利 用 した

作 品で あ る。ドル ムザ ン男 爵 た ちは、犯罪 現場 の撮影 とい う目的 を達成 す るた

め に、 あ るシナ リオ を考 え出す。彼 は、作 り上 げ られ た偽 物 の場 面 を見せ る こ とで観 客 を編せ た と して も、実写 に慣れた 自分の欲望は満 たせ ない と考 える。

Nous avions d'abord pensё a engager des acteurs pour nlimer le crilne qui nous manquait,rnais,outre que nous eussions trompё nos futurs spectateurs en leur offrant des scёnes truquёes,habituёs que nous ёtions a ne cinё matographier que de la rё alitё9 nous ne pouvions etre satisfaits par un simplejeu thёatra19 si parfait mt―il。(17)

そ して若 い男女 と紳 士 を誘 拐 し、紳 士 を脅 し強制 的 に二人 を惨殺 させ る。 そ の シー ンを撮影 し、映画 と して上映す る。 偶然 、そ のカ ップル が高貴 な身分 で 不倫 の 関係 にあ つたた めに、映画 は大変 な話題 にな る。 あま りの騒 ぎに警 察 は 何 の関係 もない無実 の人間 を犯 人 に仕 立て あげて しま うが 、ドル ムザ ンた ちは その処刑 シー ンまで撮影す ることに成功 した。 こ こで は現 実 と虚 構 が重層 的 に組 み合 わ され て い る。 つ ま り二人 の殺 人 の シ ー ンは実写つ ま り現 実 であ るが 、それ は ドル ムザ ン達 の考案 した シナ リオ に沿 ってな され てい る こ とであ り、虚構 で あ る。 また、 ス ク リー ンは、窓 と同 じよ うに、世界 を内部 と外 部 に三分 す る もので あ るた めに、 ス ク リー ン内の 出来事 はた とえ実写 で あつて も、それ を見 る観 客 に とつて は、手 の届 くこ との ない虚 構 の世界 とな る。くくUn beau■lm〉〉において、観 客はス ク リー ン内部で起 こつて い る こ とが限 りな く事 実で あ る と理解 す る よ うにな り、そ の意 味で は ドル ムザ ン男爵 と共犯 関係 にあ る と言 え るが、実写 だ とい う確信 を もつてい るわ けで は ない。 また警察 に とつては、映 画 の世界 な どフ ィクシ ョンに過 ぎないた めに、 彼 らは ドル ムザ ン達 を疑 うこ とさえ しない ので あ る。 さ らにわれ われ読者 は、 殺 人犯 の冷静 な態度や ドル ムザ ン男 爵 の悪 びれ ない態度 、愉悦 にひ た つてい る

(8)

映画か ら見 たアポ リネール作 品の 《po6sie》 につ いて よ うな態度 か ら、男爵 自身 によって語 られ ること自体が、信憑性 を持つ ものか、 それ とも虚 言 で あ るの か判 断 に迷 い、現実 と虚構 の間に引 き裂 かれ て しま う。 ア ン ドレ・ ビー との共作 である映画 シナ リオ Zα Brび乃α′J″θ は この よ うな現実 と 虚 構 の入れ 子構 造 を軸 と して展 開す る作 品であ るこ とを考 え る と、 くくUn beau ■lm〉〉は短篇 作 品 とい う形 で映画 にお ける現実 と虚構 の空 間 を具体 的 に提示 し た ものだ と言 えるであろ う。 それ で は、 この よ うな現 実 と虚構 との関係 をアポ リネール は映画 で どの よ う に表現 しょ うと考 えていたのだ ろ うか。132も のカ ッ トか らな る映画 シナ リオ Zα Brび乃α′ブ″θ を分析す ることによ り、考察 を進 めたい。 III フ ィク シ ョンか ら生 まれ る現 実 Zα βだ乃α′′ηθ は 、 プ ロ ロー グ と

4幕

か らな り、 プ ロ ロー グ と第

2幕

、第

4幕

をアポリネールが執筆し、残りの

2幕

はアンドレ・ビーが担当した

(18ゝ 小説 家 ブル トゥイ ユ はブ レア 島で灯 台守 のア リーヌ に出会 い、彼 女の婚約者 が漁 に出た まま行方 不 明になった こ とを知 る。 小説家 は この話 を題材 に して 、 「婚約者 が悪 に手 を染 めた結果 、ギ ロチ ンで処刑 された こ とを知 ったア リーヌ が投身 自殺 を図 る」 とい うフィクシ ョンを新 聞 に連載す る。 この新 聞小説 を読 ん だア リー ヌは、そ こに書 かれ てい る内容 を事実 だ と信 じ、入水 自殺す る。 そ の後 、行方 を くらま していた婚約者 が現れ 、小説家 に こ との顛 末 を聞 き、ア リ ーヌの 自殺現場 に向か うが、そ こで 自らも足 を滑 らせ て激流 に落 ちて しま う。 このス トー リー にお いて も 〈〈Un beau■lm〉〉と同様 に、現実 と虚構が多層 的 に組 み合 わ され てい る。小説家 ブル トゥイユ は実際 にア リーヌ に会 い、婚約者 が行方 不 明で あ る とい う事実 を聞 く。 そ して、 これ に着想 を得 て連載小説 を執 筆 す る こ とで、新 しい フィクシ ョンの世界 を構 築 してい る。 ところが、 この小 説 の舞 台や 背景 はア リーヌ の話 した こ とと同一 であ り、 また主人公 の名 前 もア

(9)

映画か ら見たアポ リネール作品の 《po6sie》 について リー ヌ とい う灯 台守 と同 じもの が用 い られ てい るな ど、限 りな く現 実 に近 い虚 構 で あ る。 しか しなが ら、 ア リー ヌ は、 この小説 を読み 、 内容 が事 実で あ る と 思い 自殺 した ことを考 えれ ば、彼女 に とつては現実の ことであつた と言 えよ う。 小説 家 ブル トゥイユ が 、パ リで実際 に悪事 を働 いて いた彼 女 の婚約者 と偶然 に 出会 うこ とに よ り、彼 の小説 に書 かれ てい る こ とは事実 に一層 近づ くこ とにな るが、実際 にはア リー ヌの婚約 者 が生存 していた こ とか ら、完全 な フィクシ ョ ンで あ つた こ とが明 らか とな る。 しか し、 この婚約者 が 、 ア リー ヌが 自殺 した 同 じ場 所 で滑落 死す る ことに よ り、若 い二人 が悲劇 的 な死 を迎 える とい うブル トゥイ ユ の小説 は結果 的 には現 実 の もの とな ってい る。 映画史家 ア ラン・ ヴィ ル モー に よれ ば、 当時 の映 画 で は、離れ ばなれ にな った女性 が 、婚約者 と再会 す る とい う物語 の形式 が多 く見 られ た とい うこ とで あ る(1動が、アポ リネール は この よ うな半 ば定式化 され た物語 をモ チー フに しなが らも、 フ ィクシ ョン と現 実 が交錯 した新 しい世界 を提示 して い るの で あ る。 また 、 ブル トゥイユ が執 筆 す る小説 の名 前 は、 この シナ リオの タイ トル と同 じLα Brご力α′jηθ であ る こ とか ら、 この連 載小説 が シナ リオの 内容 を規 定す る とい うメ タ構 造 にな って い る こ とも注 目しなけれ ばな らないであろ う。 現実の断片の再構成 二α βrび力α′J″θでは、くくUn beau■lm〉〉の場合 と同 じよ うに、超 自然的な ものが 持 ち込 まれ る こ とな く、 日常的場 面 にお い て虚 構 と現実 との境 界 が曖味 な世 界 が生み 出 され てい る。 アポ リネ ール は、 この よ うに詩 人 に よつて創 造 され た世 界 を、映画 とい うメデ ィア を用 いて 、いか に具体的 に表 現 しょ うと した ので あ ろ うか。 この こ とは 、演 出者 ア ポ リネール の撮 影指 示 か ら、 うかがい知 る こ と が で き よ う。詩 人 はオーバ ー ラ ップや フェー ドを多用す る こ とに よ り、異 な る 時 間 と場所 を同一画 面 に存在 させ て い る。 現実 の断片 を再構成 す る こ とに よつ て 、時 間や 空 間 の東縛 を受 けない、演 出者 の主観 にな る世 界 が見 る者 に提示 さ れ る こ とにな る。 特 に物語 りが大 き く展 開す る場 面 で、 この よ うなテ クニ ック

(10)

映画か ら見たアポリネール作品の 《po6sie》 について が多用 され てい る。

La Πlain ёcrit

APttS UN LONG PROCЁ S,IL FUT CONDAMNЁ

Å]MORT ET GUILLOTINЁ

SANS S'ETRE MSSOUVENU D:ALINE QUIL'ATTENDAIT TOUJOURS

Surilnpression la guillotine

fondu

Surilnpression Aline attend dans le phare du Paun et regarde le portrait de son flance

refondu

Rayrnond Breteuil,se promёne dans son cabinet en inё ditant(20)

物 語 の 最 終 場 面 で は 、 場 面 転 換 の 速 度 が 増 し、 過 去 の 一 場 面 と現 在 の シ ー ン や オ ブ ジ ェ が め ま ぐ る し く交 替 す る。

Les corps entiers pench6s sur le gouffre

Surilnpression Yves donne la baguc a Alinc

retour des honllnes regardant le gouffre Yves fait un faux pas et tombe dans lc gouffre,

Effroi de Breteuil, smpeur du vicux Maedec.Le vicux cur6 donne rabsolution in extr61111s

Surilmpression la mort dり 、line

Surilnpression l'afflche de lancement de′ α Brび乃α′Jκθ

retour des 3 holllines contemplant le gouffre Breteuil lnet sa tete dans ses lnains

fondu

(11)

映画か ら見たアポリネール作品の 《po6sie》 について この よ うに 、短 篇 集 ιl〃びrびsjαη夕θθ′σ

gに

お い て ドル ム ザ ン男 爵 が創 造 した 「ア ン フ ィオニ ー 芸 術 」 は 、映 画 に よつて 実現 され た の で あ り、時 空 間 の東縛 を受 け ない 詩 人 独 自の概 念 の 現 実 を 、 この 新 しい メデ ィア は具 体 的 に現 出 させ る こ とに成 功 した の で あ る。 IV ア ポ リネール は、諸芸術 の総合 を 目指す に 当た って、映画 とい う新 しい メデ ィア を芸術 と して認 知 し、作 品 に反 映 させ た。 この よ うな姿勢 がの ちの シ ュル レア リス ト達 に継承 され る こ とを考慮すれ ば、アポ リネール の作品解釈 に 「映 画」とい う観 点 を導入す ることが必要であ り、そのなかに詩人の考 える〈〈poёsie〉〉 を読 み取 らな けれ ばな らない。彼 は、 自分 の作 品が ス ク リー ンに映 し出 され る こ とを夢見 てい たが 、それ はか なわ なか つた。 しか し、彼 は、映画 か ら生み 出 され た新 しい詩 的言 語 を作 品に取 り込 む こ とに よ り、文学 に新 たな可能性 を開 いたのである。 今 後 、アポ リネー ル の 「エ スプ リ・ ヌー ヴォー 」 を解 明す るた めには 、詩 人 が雑誌 や新 聞、 カ タ ログな どに寄稿 した絵 画論 と映画論 に共通す る要素 を抽 出 しなが ら、それ らが彼 の詩 作 品や散 文作 品 に どの よ うな形 で具現化 され てい る か の検 討 が必 要 であ ろ う。 また 、 これ まで評価 され て こなか つた戯 由に も同様 の検証 を行 わな けれ ばな らない。 対象 とす るテ キス トの範 囲 を広 げ、 さ らに詳 細 な記述 を 目指す ことが、 これ か らの課題 である。 使 用 テ ク ス ト Pガ:αタッ

“θs θ″ρ“θSθ εθ″ρ厖′ω ムGallimard(BibliOthё que de la Plёiadc),1977.

Pr〃:αテタッras θ′ρ

“θSθ εο″ρttras工らGallimard(BibliOthёque de la Plё iade),1991.

Prfff:α]″ν″s`′ρЮS`εο″ρ′とω ″,Gallimard(BibliOthёque de la Plёiade),1993.

(12)

映 画 か ら見 た アポ リネ ー ル作 品 の 《po6sie》 につ い て

H

6tude par Alain Vimaux,Minard(Archives des Lettres modemes n° 126),1971.

(1)2004年 3月 10日 、ペール・ ラシェー ズ墓地 にお ける追悼 の辞。

(2)Laurence Campa,Michel D6caudin,Pα jοκ/紗θ〃j″αJ″ ′θお a ρθr′θ

`た ヵ`,Les

Edition Textuel,2004.

(3)Michel D6caudin,々 ο′j“αjた,Librai五e S6guier/Vagabondages,1986.

(4)Michcl Dё caudin,ィ′οJJjηαj“θ,Librairic Gёrale Fran9aise/Lc Livre de Poche,2002.

(D Gaston Picardのイ ンタ ビューで以 下 の よ うに答 えてい る。

〈く11(le livre)est a sOn d6clin.Avant un ou deux siё cles,il mourra.Il aura son successcut son seul successeur possible dans le disque de phonographie ct le fllin cin`matographique. On

niaura plus besoin d'apprendre a lire ct a 6crire.〉〉 Pκノ五,p.989.

)病床 にあつたアポ リネ ール は、アルベ ール・ ビロのイ ンタ ビュー で次 の よ うに語 つ

てい る。

くくLe poёte ёpique s'cxp五mera au llloyen du cinё lrla,ct dans une belle ёpopёe oi se raOindront tous les arts, le musicien jouera aussi son r61e pour accompagner les phrases lyHques du

rёcitant.〉〉,S,c″ο.∂―ゴθαο′ルοc′οb4θノ9ノσ.

S′ε,Jean―Michel Place,1993,p.59.

σ)渡辺淳 、 『 映画 と文学 の間』、清水 書院 、1997、 p.21.

(8)Pκ

,p。944.

(9)Jean―Marie Clercは A la veille de 1920, les 6crivains dё couvrent le cin61Fla a travers la

recherche abstrait du peintre L6opold Sulvage et le lrlanifeste surく 〈Lc ryhme colorё 〉〉qu'il publie dans la revue d:Ap01linaire Zθs SοJrどω ∂しPαrな,qualiflё par le poёte d'〈くart nouveau de la peinture en movement.¨〉〉と述 べ てい る。

Jcan―Marie Clerc,Zj′tёra′ν″ θ′εj″

“α,Nathan,1993,p.11. (10)Pκ

,p。845.

(11)Cathe五 ne Moore,〈くApollinaire et Mёliёs:La po6sic en images〉 〉,Dttβ″J′JοηS α 漁びグこβ″j′jο″s

カ ル ′οι

ノ海″fαおθ″9θθ―ゴ95の ,InStytut Romanistyki_Uniwcrsytet Warszawaski,2003,

p.9.

(12)ロランス・ カ ンパ は、アポ リネール の美 的言説 につ いて以 下の よ うに述べ てい る。

〈〈 Le mouvement est synonyme de vic : le discours esthёtique d'Apollinaire s;interoge inlassablement sur rexpression de la vie,sur le mouvement du temps,partant,sur les rapports de la tradition et de la llllodenlitё ,sur la flgure du cr6ateut alliё et organisateur du mouvement.

(13)

12

映画 か ら見 たアポ リネール作 品の 《po6sic》 につ いて

Autant de questions que le poё te niest pas le seul a se poset mais auxquelles il sait donnet dans un style oHginal, des rё ponses personneHes. 〉〉 Laurence Campa, L Es′ 力ど′′g″

` グИρο〃j″α′,Sedes,1996,p.42. (13)Pκ二,p.196. (14)拙稿 、「Aponindreの短篇 作 品 と映画ゴルα″ノル を中心 に _」、『 年報 フランス研 究』 29、 関西学院 大学 フ ランス学会 、1995、 pp。101-H2.

(15)Pierre Caizergues,く Apollinaire et M61iё

s〉〉,G夕j′麟ν″θ“ 4,ο′′j″αJ″15,Minard,1980,pp。 168-170. (16)catheHnc Moore,9ρ ,p.10。 (17)Pr二 ,p.199. 。助二α3だ力α′j″の構成や 内容 につ いては、拙稿 、「Apolhnaireと 映画_シ ナ リオ ニα3だ力α′j″θ につ い て_」、『 人 文論 究』45-3、 関西 学院 大 学 人 文 学 会 、1994、 pp.131-142.を 参 照 の こ と。

(19)Alain Virlnaux,〈 〈二α13rど力α″″θ et le cinёma:Aponinaire en quete d'un langage neuf〉 〉,Bた,

pp。104-108. (20)Bた ,p.59。 (21)Jbj″ ,pp.92-93. (京都教育大学教育学部助教授)

参照

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