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〈書評〉小関隆編『記念日の創造』(人文書院,2007年5月刊行,171頁)

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〈書評〉小関隆 編『記念日の創造』 143

<書 評>

小関隆 編『記念日の創造』

(人文書院,

7年5月刊行,

1頁)

本書は「記念日に伴う記念行事の社会的意味や機能を探ることを意図してい る」とあるように,四人の歴史家が史料を駆使して,記念日や記念行事の歴史 性について議論を展開している。読者はこれらを読みつつ,同時に世界の至る ところにある記念日を思い浮かべ,その成り立ちについて思い起こすことが 多々あるのではないかと思う。記念日やそれに伴う行事についての重層的な語 りは,歴史を専門とする人に限らず,読み物としても誰もが痛快な思いで読み 進めることができよう。 まず収録されている四つの論文について紹介したい。小関隆論文「記憶を造 形する命日―ベンジャミン・ディズレイリとプリムローズ」では,1881年に死 去したイギリス保守党政治家ベンジャミン・ディズレイリの命日が,その後プ リムローズ・ディと称される記念日となった経緯が明らかにされる。プリム ローズとはサクラソウ科の小さな花で,私もかつて「プリムラ」という名前で 鉢植えされているのを見たことがあったのを思い出した。しかし,あのちっぽ けで地味な花がどうやってここまで大々的な記念行事の中心的なアイテムに なったのか,俄かには理解できなかった。ところが読み進めるうちに,花にま つわるストーリーの「イメージ」が喚起する力,大勢の人を動員する影響力が どれほどの威力をもつものか思い知らされ,その話の裾野の広さに思わず引き 込まれる。そして,その力がそのまま19世紀後半からのイギリスにおける政治 の場において保守党が大きなうねりをもって展開していくうえで重要な一翼を 担っていたことを知らされる。つまり「……年中行事化してゆくプリムローズ・ ディは,政治的意味を薄めつつもそれを完全に喪失することはないまま,多く

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144 彦根論叢 第370号 平成20(2008)年1月 の人々をいわば<無自覚な保守主義者>として動員する機能を果たして……」 おり,同時にその巧みなしくみはどこか遠い国の昔の話として片付けておける ものではないことに気づかされる。藤原辰史論文「大地に軍隊を捧げた日―― ナチスの収穫感謝祭」では,ナチスが1934年に制定した収穫感謝の日とその記 念行事において,時代の経過のなかで感謝の対象を,農民から軍隊へと移行さ せてゆく手法を明らかにしている。ナチスの民衆啓蒙省が,感謝祭の会場設営, プログラム編成等,瑣末とも思えるほど微細なレベルに至るまで巧妙に演出し ていたことが史料から立証される。「数,音,光,旗,煙,炎,霧」といった ディテールに凝ることで,農民を「熱狂」と「陶酔」のうちに閉じ込め,ナチ 化することに成功した過程をたどることができる。農民を農民という立場に留 まらせ,その上でナチスを賛美させる様は,少し見方を変えれば今も世界に多々 ある類似の軍事的なスペクタクル行事をも彷彿させる。佐野誠子論文「中国の 祭日と死者を巡る物語り」では,古代中国の祭日,なかでも死者にまつわる祭 日に意味を与える物語りについて検討を加えている。紫姑という不幸な死に方 をした女性の命日が一月十五日とされたのも,ちょうどその日が旧暦正月のう ちでも蚕を飼い始める時期であったことと結びつけられているとされる。その 養蚕を一つの手がかりに,養蚕が女性の仕事であること,それゆえに養蚕の神 は女神であるという一連の連想が,紫姑との直接的な関係の有無に関わらず続 いて行き,付随する物語りが付け加えられて行く様子を列記している。連想の 多岐的な結びつけを追って行くことは興味深いが,それに留まらず,個々の物語 の内容自体も十分に楽しむことができる。石川禎浩論文「思い出せない日付―― 中国共産党の記念日」では,そもそも中国には1932年第一次上海事変を記念す る「一・二八」や,1923年労働運動への大弾圧事件の「二七」など,他の国に 比べて記念日が多いのではないかと述べたうえで,そのなかでもきわだって盛 大に祝われる「七一」記念日を取り上げている。「七一」とは中国共産党の創 立記念日のことであり,毎年記念行事が行われているが,その実1921年の第一 回全国大会が開かれた日付は,長年不確かなままであった。そもそもこのささ やかな会を開いた参加者たち自身が,その集まりをその後の中国の歴史的うね

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〈書評〉小関隆 編『記念日の創造』 145 りのなかでの記念碑的第一歩となる会だとは自覚していなかったせいもあり, 記録として残されていなかったのである。党として大きくなり,歴史を振り返っ た際に,第一回全国大会の日付を確定する必要が生まれ,いつであるかを同定 する議論が繰り返し行われることになった。第一回大会に参加した者は13名, その後,離党や獄死する者もあり,中華人民共和国成立の1949年時点で生存者 は6名,そのうち中華人民共和国の成立以降も中国に暮らしていたのは4名だ けであった。彼ら4名に対して第1回全国大会がいつだったのか聞き取りが 様々な方面から行われる。彼らこそ実際の日を知りうる経験を持つものとし て,確かな日付を語りうる立場にあったのであるから繰り返し聞かれることに なったのも仕方のないことではあるが,しかし,参加者は第一回という認識が なかったため,はっきりした記憶は誰も持っていなかった。四者が四様にその 日の記憶を語る態度,内容それ自体を読み物として読むうちに,「記憶」を語 ることの語り手にとっての意味とはなにか,あるいは語り手としての個人と党 との関係,国家と個人との関係を考えさせられていることに気付く。 四つの論文はいずれも緻密な史料の読み込みが行われ,示唆に富んだ論文ば かりであるが,それぞれすべてについて取り上げることは,紙幅の都合もある のでここでは行わない。しかし,歴史家ではない私ですら思わず心に留めるこ とになった人物について言及した石川論文について少しだけ付け加えておきた い。 内容の紹介でも述べたとおり,「七一」記念日の日付が時を経て明らかに実 際の日付と異なるらしいとわかるが,結局改められることはなかった。その後, 「別の日であると」証拠づけられる文書が発見されても,なおも七月一日の日 付が変更されることはなかった。もちろん学術的な関心からも,第一回大会に 参加していた四人に対してはたびたび聞き取りが行われ,そのなかで開催日に ついての質問も繰り返された。中華人民共和国成立の1949年以降,死ぬまで同 じことを繰り返し尋ねられたこの四人の,インタビューアーとのやり取りと, 彼ら自身の運命が石川の手により重ね合わされるわけであるが,それは当事者 の人となりを知る手がかりとしてあるだけでなく,国家と個人との関係を知る

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146 彦根論叢 第370号 平成20(2008)年1月 うえでも,発言の重たさを,あるいは個人の存在の軽さをも考えさせるもので ある。 そのうちの一人,1949年以降も終生,長老格の党員として名誉な地位に就い てきた董必武は,第一回大会の日付が記された文書が専門家によって1957年に モスクワで発見されたのち,党員としては比較的早い時期である1959年に現物 の文書に目を通した一人であった。一方,1938年以来,毎年中国共産党は「七 一」を党創立の「記念日」として祝賀行事を行い,次第にその日が党の誕生日 であるという認識が誤ったまま広まってゆく。董必武は要職にある立場から, 非公式にそれが確かな文書であることを認める。その上で1959年に「……わが 党はすでに『七月一日』を党の第一回代表大会の開幕日と決めているのだから, 変えなくても構わないと思う。」と述べている。さらに1971年には,党史研究 者など内輪の座談会の場で「七月一日という日付も後で決められたもので,本 当に大会を開いた日付はそうとはいえないものです。」と述べている。つまり, 実際の日付とは異なるが,それは党が決めたことなので,それに従うという立 場を示したのである。このように日付が異なることを認めた董必武とは対照的 な人物としてつぎに李達が紹介される。 李達は1921年の第一回大会参加のち,1923年に党活動が学究肌の自分とは合 わないと感じて離党する。その後,教育・著述の仕事に就き,1949年中華人民 共和国成立の年に北京を訪れ,毛沢東の勧めで再入党した。その際,毛沢東か ら離党という過去について「政治的に転んでしまったというわけだから,大き なマイナスだ」しかし「大事なのはこれからだ」と励まされる。そして毛沢東 からの期待に答えるためにも,また彼から言及された暗い過去を払拭するため にも後の半生を党に捧げることになる。インタビューの席では,実際にロシア で見つかった証拠となる文書を前に示されてもなお,七月一日であるといい続 けた。ここまで来ると,読者の側も確信めいたものを感じざるをえない。1928 年に彼が書いた文書でも「民国10(1921)年夏に,第一回代表大会が召集され た」と漠然とした記憶だったものが,約20年後の再入党の際には自己経歴書の 中で「七月一日午後七時,上海貝勒路同益里の李漢俊の寓居で,第一回会議を

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〈書評〉小関隆 編『記念日の創造』 147 行った」と逆に,より明確に記述している。後付の説明を,自分の記憶に取り 込み,つぎ木した形になっているとも考えられる。著者は「党員たることを貫 くため,党の定めた歴史から一歩も外へ出ないよう意図的に自制したのか,あ るいは学習によって学びとったものが,何度もくり返しているうちに,ついに 自分の記憶の一部になってしまったのか,これを判断するのは難しい。」と述 べているが,「七月一日である」といい続けることでしか,自らの寄って立つ 場所を確保できなかったある一人の人物の,その生き様を考えさせる。彼に終 生「七月一日である」といわしめたのは誰であるのか,どんな力であるのか, それを考えるといたたまれない気持ちにすらなる。 この本を読んで,私がまず思い出したのは,1980年代に文化人類学の演習で 読んだ E・ホブズボウムと T・レンジャーによる著書 “The Invention of

Tradi-tion”1)のことであった。これは日付を巡る話ではないが,スコットランド高地 におけるタータン文様の「伝統」が近代の産物であり,いかなる背景を持って “invention(捏造)”されたのか,あるいはヴィクトリア朝インドにおいて儀礼 等の権威の表象がいかに作り上げられたのかといった歴史の過程における伝統 の創造をいくつか取り上げ,論じたものである。そのなかでホブズボウムは「「国 民」という新しいが故に不安定な文化的同一性は過去に自らの起源を見出すこ とで,歴史的同一性を捏造する」と述べている。そう考えるならば,誰が日付 にこだわり,誰が何のために記念日を創設し,大掛かりな行事を執行したのか おのずと見えてくるというものであろう。最後にアルチュセールの言葉を引用 して終わりたい。「国家の抑圧装置は《暴力的に機能する》が,これに対して 国家のイデオロギー装置は《イデオロギー的に》機能するのである。」2)

1)Hobsbawm, E. & Terence Ranger(eds.).1983, “The Invention of Tradition”, England: the Press

of the University of Cambridge.(前川啓治・梶原景昭訳『創られた伝統』紀伊國屋書店,1992 年。)

参照

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