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(ニ) 中河内の人口変化(創刊10周年記念号)

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(1)

N

(二)中河内の人口変化

宮 畑 巳 年 生

Change of the Population at Nakanokochi

Mineo Miyahata

1  申河内は山間の一集落であるが,北国街道の 宿場としてもとはそれなりにかなりの活況を呈 していたところである。南北に山坂峠と栃木峠 を控える峠集落であるばかりでなく,冬季の積 雪のためもあって,北国街道中でもことに知ら れた難所の宿場であったが,この難所にあたる ことがいわば北国街道の箱根としてかえってそ の活況にプラスしたとみられる。明治初年には 北陸路面大名の参覗交代のはなやかな行列はも ちろんすでに見られなくなっていたが,この頃 の中河内は忌引きつS’き宿場としての賑わいを 保ち,人馬の往来と物資の輸送にあけくれてい た。しかし近代交通路線としての鉄道の建設が この北国街道の難所をさけて行われると,中河 内の宿場的機能はたちまちにして麻痺状態にお ちいった。かって宿場としての存在意義を高め ていた条件が今度は逆にその命取りとなったわ

第1図 栃木峠附近

灘i紳羅螺

右の建物は旧栃木茶屋。中央の道は北国街道。 左側の建物は炭小屋,その所有者は本郷の人, 福井県側で焼いた炭をここに一時しまいこむ。 小屋の後方は峠の名が起り,又茶店の栃餅の 原料を提供した栃の木。栃の木は元はこの附 近に多数あったという。 けである。  明治17年柳瀬トンネルが完成して,長浜・敦 賀間の鉄道が開通すると,中河内はにわかにさ びれはじめた。それでもなおしばらくは宿場と しての命脈をもちこたえていたが,明治29年敦 賀・福井間の鉄道が開通すると,その宿場的生 命に最後のとX“めをさXれた形となった。この 間の事情は交通の項に詳しいが,これ以後柳瀬 一中河内一今庄間の北国街道の利用はたえ,中 河内は近代交通網から全くおきざりにされて, 山中に孤立する僻村と化したのである。本陣・脇 本陣・問屋,その外10戸に近かった一般旅館も 第2図 栃木峠の旧茶店

鯨爆解罵.

鷹麟』べ 蜜餐  熱 ・盛、騰恐

嶽鐘

  t A  t  ’

桝醜越

旧茶店を前面から見たところ。手前は水田跡 に植樹された杉苗。その後白いのはソバの花。

(2)

50

滋大紀要

第  10 号 1960 軒並営業不能となり,栃木峠・椿坂峠の茶店も      コ 閉鎖された。馬方・人足として貨物輸送や旅客 運送に従事していた人々も生活の道に窮するこ とになった。本陣がその広大な建物の維持が困 難となり,一部を村外へ切り売りしたというの も当時の中河内の不況を象徴する一挿話であろ う。部落の中心部の本郷では明治32年8月,つ x’いて34年5月の2回にわたる大火があり,宿場 時代の建物はほとんど焼失した。悲運は外部と 内部とからいわば二重苦の形をとって一時に中 河内を襲ったわけである。その後再建された建 物も昭和31年8月の大火にあい,今中河内の集 落景観に宿場時代の名残を求めることはきわめ て困難な状態となっている。たx“例年8月17日の 氏神境内で行われる野神まつりには,部落の若 者の扮した道中姿の奴の行列がくり出され,そ れが宿場時代の中河内をしのぶよすがとなって

第3図中河内本郷1

前面の水田が脇本陣跡。鳥居は秋葉社。右側 枯木後方の建物は旧問屋の土蔵,3回の火事 に焼け残った。31年の火災後応急住宅,ブロ ック建築,土地の人のいう本建築が雑居の形 をとる。氏神広峯神社より撮影。

第4図中河内本郷1

火災後のブロック建築。三輪トラックは部落 に3台ある。写真のものはその中の1台。電 柱の下は出荷を待つ木炭の山。   2) いる。  現在の申河内は平凡な一山村という外ない。 食料自給のための農業経営と現金収入源として の製炭が,その住民のつXましい生活を支えて いるのである。かって活況を呈していた宿場か ら静まりかえった山村への変化。もちろん宿場 時代といえども農業が営まれ,製炭も今ほどで はないにしても行われていたというが,しかし 住民の生活は宿場的機能に大きく依存するもの であったことはいうまでもない。申河内はその 申心部の本郷の外に栃木峠・半明の小集落を出 郷としてもっている。鼠姑は北国街道から外れ て位置し,もとからとくに農山村的色彩が強か ったし,栃木峠も街道沿いではあるが,茶店を 除けば半明同様だったという。この外今では無 人の椿坂峠にもすでにふれた茶店があり,別に 1戸農家が居住していた。しかしこれら出郷で も茶店はもちろんのこと。一般農家も宿場的機 能と無関係に生活を営んでいたわけではない, 第5図 半 明 景 観 〈負い縄ひとつの宿場稼ぎ〉が耕地に恵まれな い山間農民の兼業として,少なからずその懐を うるおしていたのである。宿場から純山村への 変化が急激であっtだけに,ことにそれが人口 支持力の急低下を招くものであっただけに,そ れが当時の申河内の住民の生活に及ぼした影響 も直接的で深刻であった。 2.  中河内のおかれた上述のような生活条件の激 変は人口・世帯数の推移にも当然反映したはず である。しかし,これについての統計的数値は 十分にえられなかった。第1表の明治5年から

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20年までの数字は壬申戸籍によったものである が,これでみるとこの頃中河内は人口・世帯数 共に増加の傾向にあった。ことに入口において そうであった。しかしその末期は上述の中河内 の混迷変化の時期に入っていfc。明治20年以降 昭和5年までの半世紀に近い期間の統計がえら れず,申河内のこの転換期の変化を適確に知る ことができないのは遺憾という敏ない。聞き取 りによると,明治20年代一頃から一家をあげて の村外移動(全家移動)がはじまり明治末まで に18世帯(他に絶家2)に達した。離村は住民 の上層下層を問わず行われ,従来ダンナン株と よばれて一般のアンサン役とは別格視きれてい た本陣・脇本陣・問屋の三家申,本陣・問屋も       3)明治20年代にあいついで離村している。 第1表  人ロ・世帯数の変化 年代 明治5

 10

 15

 20

昭和5

 14

 15

 19

 20

 21

 22

 23

 25

 27

 28

 30

 35

人  口 男   一 計 216 236 255 261

072181842552778984916188862111112121111

221 239 259 273

2896σ61、449068

88892341890762111222211211

437 475 514 534

221787986458557876257988535333344333333

世帯数 102 106 107 108

75559278988818777788777777

 大正時代に入っても全家移動はあとを断たな かった。もちろん一方では新たな村内分家もあ り,絶家の再興も行われたし,少数ながら村外 からの転入(小学校教員その他)もあったが, 減少戸数を相殺するには遠く,世帯数は明治20 年の108世帯が昭和5年には87世帯にまで減少し     うている。このおよそ半世紀間に人口はわずかな がら増加しているが,それは増加というよりも むしろ停滞というべき性質のものである。昭和 14年には世帯数をさらに減少したが,一方人口 はいっそうの減少ぶりを示し,入口の村外流出 がおびただしかったことを推測させる。しかし その後の人口・世帯数の変化はほゴ平行して一 進一退の形をとり,戦時以来の疎開者による一 時的な膨脹はあったが,全般的には停滞的な傾 向をみせている。昭和35年の国勢調査の結果は 人口335人世帯数71,すなわち統計的に知りう る最低数で,明治20年に比べて人口62.7%,世 帯数65.7%}こすぎない。集落別では本郷は367人 ・80世帯が240人・52世帯に,栃木峠は58人・ 9世帯が18人5世帯に,椿坂峠は17人・2世帯 が無人となった。宿場的機能と無関係に生活し ていたのではなかったとはいえ,他に比べては もとから最も農山村的色彩のこかった半明だけ は,85人17世帯が77人・14世帯と減少がそれほ ど目立たない。  さて中河内の現住71世帯についてみるに,外 来者は寺院の住職1世帯と小学校教員4世帯に 限られ,残り66世帯は先祖伝来のこの土地の住 民である。もっともこの中には明治20年以降に 分家独立しf4世帯と絶家再興の3世帯をふく むから,明治20年の寺を除いた107世帯中現在ま で続いているものは59世帯ということになる。 さしひき48世帯が絶家又は全家移動をしたわ けである。全家移動は家系の古いものの外,新 しい分家でも起ることが当然推測される。分家 は一般に生活基盤が弱いだけに,移動の可能性     のは高くなる。申河内の明治20年以降の事情は部 落全体としてみれば分家慣行を困難にしたが, それでも先述の4戸のように村内分家が全くな かったわけではない。分家後,絶家したものは なかったが,全家移動したものも少くとも7戸 はあった。これらの分家をもあわせて,全家移 動叉は絶家した55世帯の移動絶家年代,移動し たものについては移動先を表示したのが第2表 である。  移動先は移動年代による差を大してみせず, いずれの年代にも敦賀が最も多い。池河内経由 の間道を利用すれば,敦賀は申河内から最も近 い都市でその距離約10キロ。中河内でく町〉と

(4)

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滋大紀要

第  10 号 1960 第2表  全家移動状況

繍避1難杢謝鞠里1制計

滋賀県  伊香郡片 岡    余 呉    木之本    北富永  長 浜 敦 賀 京 都 大 阪 名古屋

東京

朝 鮮 不 明 絶 家   計

QV331

119μ

1 6

111

20 1 10

164

6 2 4 15

11

23

1 2 10

1221243541118

     2

55 この表以下 浜中の市町村は全て町村合併促進 法施行前のものをさす。 いえば敦賀の代名詞であった事実が端的に示 しているように,中河内は敦賀とことに深い関        ラ 係をもっていた。その上一旦誰かが移って落着 くと親類縁者がそれにならうという事情もあっ た。こうした事情が多くの人に移動先として敦 賀をえらばせたのである。滋賀県側近接地域へ の移動は意外に少ない。之に対して京都・大阪 ・名古屋・東京などの大都市への遠距離移動が 早くからみられる。それは大都市の人口吸引力 の大きいための現象でもあろうが,一面中河内 が宿場としてこれらの土地と常々なんらかの交 渉があったことと無関係でないと思われる。宿 場育ちの積極性が発揮されたとみられるふしも ある。  移雨後の世帯主の職業は明らかでないものが 多いが,分った範囲でみると商人か労働者かで ある。労働者としては以前は日雇人夫,敦賀で はとくに仲仕が多かったが,最近の転出者には 工員になるものもいる。商人としては宿場出身 にふさわしく飲食店経営が比較的多く,叉他面 では山村出身者らしく,木炭商・材木商などが 見られる。 3 員の各個移動が注意される。村内分家が少ない ことから当然考えられるように,こXでは義務 教育終了後の青年前期に転出するものが多い。 第3表 小学校男子卒業者の移動状況(戦前)

痴蕾轡雌、1廼、1担1、騒照1。1計

滋賀県  伊香郡木之本    其 他 藩

 賀下阪甲州他明

旦   古   

 敦京大名東其不

移動者実数 残留者数  合 計 −R︶ 2

221

13 −Qり

11

24 19自−

11

6 ﹁OQU

 2

28 1

1229臼24

   1

1

5V 122

11 25

1021

∩VQ︶ −■工 29 31

1172265672

   199

440◎1 

111

14 69

91

rO8

2ρ0

11

28 140 第4表 小学校女子卒業者の移動状況(戦前)

画死高畠τ劇珊鷺戦1計

 岡本他

  之

 片木其

 郡  浜根他 賀他

県香     県  都阪帯屋他明

賀伊  長彦其井門魔       古

滋      福  京大東名其不

計 1

199臼1

1

421

3

1911

22321

25 1 23 移動者実数 残留者数  合司畠

2411

26

8211

30 5 1 2

111

1 12

1711

28

335

  1

3 4 12 2

17﹁003只︶   5

14953224

2 

1

﹂424

1 1

2 

7

21

36 ] 39 Qゾ7 2

93

2 32 36 135 申河内の人口流出には全家移動の外,家族成 Qソ2Q︶5 151 第3・4表は明治43年から昭和10年まで外来者 を除いた本来の中河内出身の小学校卒業生中さ

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らに卒業後まもなく両親に従って全家移動した ものをはぶき,その残り全員について,学籍簿 に記入された卒業後8年間(ただし昭和7年, 8・9両年,10年の卒業生についてはそれぞれ 6年間,5年間,4年間)の移動状況を基礎と して作成したものである。移動の時機は小学校 卒業直後のこともあるが,2−3年家事家業を 手伝うか,高等小学校を出るかして,大体戦後 の申学校卒業生馴の年令に達してからが多い。 はじめは近接の町に出て,やがて遠方の都会に 移るのが定石であるが,女の場合はそれがいち じるしい。表では一度移動したものは後に帰村 してもすべて移動者として取り扱い,又同一人 が2回以上の地域移動を行っている場合はその すべての転出地をあげた。従って転出者と転出 先の合計は必ずしも一致しない。尚部落外高等 小学校への進学は移動とみなしていない。中等 学校進学は少なく,それもほとんどが伊香農学 校(所在地木之本町,今の伊香高校の前身)に 限られ,卒業後は帰村しているので,この場合 も移動にはかぞえ入れていない。  さてこの表によって男子からみると,26年間 140人の卒業生中81入(57, 8%)が村内残留組, 59人が移動組である。移動組には帰村者も出た が,卒業後8年目(昭和7年以降では学籍簿の 最終年目)の部落内居住者数は残留・帰村と組 合せて依然81人である。帰村による増加はあっ ても,一方では死亡による減少もあって相殺さ れた結果である。このことから,表の26年間の 卒業生中,部落に定着して家庭をもつに至った のは,80人内外であると推定しても,それほど 大きなあやまりではないであろう。今かりに1 世代を25年とすれば,80世帯の部落を維持する には,25年聞80人の後継者を必要とする。中河 内はこの表にかxげる期間中の昭和5年87世帯 14年75世帯であるから,26年閻に残留者80人内 外というのは,大雑把にみて,この世帯数を維 持するのがせいぜいの人数である。こXでは部 落に残るのは主に家の後継者で,それ以外の次 三男による分家慣行は余り行われなかった事実 が,この数字に反映しているわけである。前に みた世帯数の減少はいうまでもなく,このよう にして残留した者の中から後に全家移動や絶家 の現象を起したことに主に基因ている。  ところで残留者と移動組では,比率が必ずし ’も一定せずかなりの波が見られる。明治末から 大正初にかけての卒業生では両者が同率である が,その後の大正年代を通じて残留組が圧倒的 に高率となり,大正末年から昭和初年にかけて は,逆に移動組の比重が高まっているQこのこ とは長男その他家長の後継者として転出出来な いもの,逆に言えば将来の家長以外の転出すべ き運命のものが年代的にかtよったためでもあ ろうが,一方では就職の機会がその時々の経済 事情に左右されるからでもあろう。長男残留の 原則も時には破られるわけである。  移動先々に転出者数をみると,26年間を通じ て最も多いのは全家移動の場合と異なり,京都 の22人,つ塁,て敦賀の12人である。初期には 敦賀が多かったが,後には京都が敦賀を圧倒し た。敦賀と共に比較的近い都市として長浜も比 較的多人数の移動対象地となっている。この外 名古屋・大阪・東京などの大都市に向うものが あるのは全家移動の場合とよく似ている。しか しその職種は移動先による明らかな相違はな く,多くは商店員で工員となるものはほとんど なかった。  女子の場合に関しては,151人中残留組52人 (34.3%)移動組99人(65.7%)と移動組が男子 よりもいっそう多い。男子と異なり,女子は家 庭内において長女と次女以下との間に差別意識 が余りなく,叉一般に山村の労働ははげしく女 性向きでないため,その労働力の燃焼の場を村 外に求めざるをえず,一方では女は結婚までに 一度は行儀見習に外に出るものとする風習もあ って,それらが女子の移動を促がしたわけであ るQしかし村外移動が男子の場合は家や郷里と の血縁関係を断ってよそものとなる第一歩であ るに対して,女子の場合は家や郷里との関係は ほとんど変らず,結婚前には一応帰郷するのを 前提としている。女子の場合は又転出先も変り 易い。卒業後2∼3年間の家事見習からはじま って,先にも見にように近距離移動,次には遠 距離移動と型通りの移動を行うものが多い。移 動実数99人に対して転出先合計は135,それも滋 賀県内が75に達しているのはそのためである。

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滋大紀要

第  10  号 1960 その転出先は各年代毎に,従って又総計におい ても長浜が筆頭である。全家移動の最も多い敦 賀や男子移動者の最も多い京都がこれにつX”い ている。長浜との関係は主に製糸工場の女工員 の需要に応じて多入数の移動があったためであ るが,しかし初期に長浜に出たのは商家の女中 としての場合が多く,女工員としては大正7年 の卒業生が最初であった。長浜以外では勤め口 の年代的変化はなく,大多数が女中奉公であ る。  次に戦後の昭和25年以来35年までの中学校卒 業生の進路についてみると,第5表のとおりで ある。表の対象としたのは戦前の小学生の場合 とほぼ同様で,外来者や一時的疎開者などを除 き,純然たる中河内出身者に限った。ただ移動 地は戦前の小学生の場合と異なり,卒業直後の もののみを示してある。 第5表 中学校卒業者の移動状況    (昭和26−35年)

移動先

男 女 剤 滋賀県  伊香郡片 岡    木之本  長 浜  彦 根  草 津 福井県

 敦賀

 武 生  鹿 蒜 京 都 大 阪 名古屋 東 京

其他

 計 者 留 面 一言 合 0 14(13) 2 1 0

10113510

42(13) 13 55(13) 1 5(2) 12, 1 3 3 1(1) 0 7 3 6 1 8 54(3) 3 57(3) 1 19(15) 14 2 3 4 1(1) 1 8 6 11 2 8 96(16) 16 112(16) ()内は左記数中の高等学校進学者数  まず男子の場合,残留率・移動率はそれぞれ 8.3%・61.7%。戦前の26年間に比べると移動 率はいっそう高いが,戦前も昭和初年の10年間 だけに限って比べるとかえって低い。戦前同様 家業をつぐことの予定されている長男が残留す る原則はくずされていない。残留組はほとんど 長男ばかりであり,移動組はことごとく次男以 下である。移動先は木之本が最:も多いが,こ れは大部分高等学校進学のtcめのもので,卒業 後大学進学のきいはもちろん,就職の場合も木 之本にとどまることはまずない。帰村すること もない。戦前の進学者を表中移動者として取り 扱わなかったのに対して,戦後の進学者を移動 者の中にふくめるのは戦前の進学者がほとんど 帰村しているに対して,戦後の進学者は例外な く帰村せず,村外に生活の道を求めているから である。  この木之本の特例を除くと,移動者の絶対数 はきわめて少数となり,それから結論的なもの を導くのは偶然的な要素に左右され易くて危険 であるが,強いて一応の見通しを立てると,次 のようである。すなわち移動者は戦前縁の深か った敦賀・長浜などの近接都市よりも名古屋や 大阪など大都市へ進出する傾向がうかがわれる ただ同じ大都市でも戦前関係の深かった京都が 戦後は縁遠い存在となっている。要するに移動 地の分布そのものは戦前と比べてそれほどの差 はないが,移動地としての相互の比重関係には 多少の変化が起りかけているようである。移動 後の勤めば戦前には商店員が多かったが,戦後 は各種工場の工員が圧倒的に多くなっている。  女子の場合は残留組3人(5,3%),移動組54 人(94.7%)と移動率がきわめて高く,戦前26 年間はもちろん,その間のどの時期に比べても 飛躍的な高さを示している。しかしそのこと以 外は戦前との差は比較的少ない。転出先は依然 長浜が最も多い。ただ集中度は低下している。 京都も従来通り割合多いが,敦賀は急減し,之 に代って名古屋との関係がふえている。転出地 での職業は,長浜では各種繊維工業の女工員, その他では女申という戦前からの伝統が守られ ている。 4.  中河内が宿場的機能を失って以来,人口流出 がはげしく,それが全家移動,家族成員の各個 移動の形をとって行われたことは上述のとおり である。この部落の住民は誰でも部落外,とい

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うよりも遠方の土地に近親者の1人や2入はも っている。それは中河内と外部地域のつながり の強さを示し,宿場時代からの開放的側面の形 をかえた展開とさえみられるが,しかしこのよ うな人口流出も,主としてその山村としての経 済的基盤の脆弱さから生じたもので,村外から の異質人口の流入を伴わないいわば一方交通的 な現象でしかない。それだけに申河内のこの開 放性も見せかけの開放性として実は大きな限界 をもつ。それは開放性とはいxながら,閉鎖性 と抱き合わせの開放性に外ならないのである。  この点に関連しつX,申河内の人口現象の特 異性を知るために,次に通馬圏の問題をとりあ げてみよう。  一般に明治初年はどこでも部落内婚が多く, 部落外婚が少ないのが普通であった。しかも配 偶者選定の容易な大部落ほどその傾向が強かっ たが,中河内はその頃100世帯をこえる大部落 (当時は独立の村)であったにもかXからず, 例外的に部落外婚率が高かった。明治5年まで の入婚者について壬申戸籍に表わされるところ をみると,第6表に示すように,入婚者は妻・ 入夫合計して115人,その内58人(50. 4%)が 部落外からである。当時の通婚は部落内婚が80 %,90%に及ぶ高率を示すのが普通であったか       りら,中河内のこの数字は全く異例に属する。壬 申戸籍に書き加えられた壬申以後明治20年まで の場合は,部落外婚率はいっそう高く64,2%に も達している。  この部落外からの入婚者を出身地別にみる と,それが隣接地域に多いのは当然であるが, 平均した分布を示さず,同じ隣接地域でもこX から北方の堺・東郷をはじめて,福井県側に多 い。之に比べて南の滋賀県側では丹生川沿いの 丹生村にや瓦めだつ外は,一般にきわめて少 なく,中河内同様北国街道沿いで明治22年以後 中河内もその一部となった片岡村内にも全く見 られない。分布は近郷からさらに広範囲に及ん でいるが,近郷の場合同様,北に厚く南に薄い。 北の北陸路では福井県南部はもちろん,遠く石 川県・富山県などにも及んでいるのである。  同じ深雪地帯に属して生活様式の上にも何彼

第6表壬申戸籍による入婚者数

こ、_一一一一.一 年次

 \\刃繍\

出身地\

  伊  其 南

 賀香   井条     賀 阜川山落

落義丹耶蘇讃愛壊乱郡㌦県警計

  富     高

  永生津  郷 発庄蒜他

      敦其   部合

 滋   

福       岐石富

戸籍作成(明治5年5月)以前 妻  入夫  計 49

2﹁012

4凸01321

 1

44313

    4

92 8

07.01←00

00ド005

    1

23 57

2712

4^7149μ1

 1

44818

    5

115 戸籍作成以後明治20年まで 妻  入夫  計 17 o 1

3ρ01

32831

28 45 1 1 o ∩︶10

10103

7 8 18 1 1

371

42934

34 53 合 嚢口i

妻1入刈計

66

2ド013

762324227411

 1       1     7 137 9

0300

080101010802

       2

31 75

28160

742425237213

2   

1 1 9

168

(8)

56

滋大紀要

第  10  号 1960 と共感をよぶものもあったためもあろうが,中 河内の二二圏の北陸への意外なひろがりは,そ れが宿場としてこの地方と密接な交渉を不断に もっていたからに外ならない。鉄道開通以前に は,農閑期の冬,杜氏をはじめて北陸からの出 稼者の群が京都大阪方面への往来に北国街道を 利用し,そのため申河内も秋の終りや春の始め はことに賑やかであったという。この北陸の出 稼者はくおのぼりさん〉と総称されたが,中に は中河内に下男・女中としてとどまるものも少 なくなかったらしい。物資を通じての北陸との 交渉の深かったことはもちろんで,中河内は北 陸あっての中河内であった。  明治はじめの中河内の通婚圏のひろがりが, 宿場的機能に負うものであったことは,それを 全く欠いている現在との比較によって,いっそ う明らかとなる。中河内の現在の戸籍をもと に,本籍の中河内現住者(ごく最近の転出者を ふくむ)に限り,入婚者について調査すると, 第7表のような結果となる。入婚者の出身地は 明治初年とそれほどの差を示さないが,部落内 婚が圧倒的に多く,部落外婚は婚姻数103中 19,全体の18,4%を占めるにすぎない。いNか えると,明治初年に比べて通婚圏の縮小したこ とを意味するものであるが,しかもそれを年代 的にみると,明治よりも大正,大正よりも昭 和,同じ昭和でも戦前よりも戦後と,年代が新 しくなるにつれて,しだいに部落外婚率が低下 している。明治時代の通婚では部落外婚が33.3 %であるが,戦後のものはそれが10.5%にまで 低下している。逆にいえば古い世代では部落内 婚が66.7%であるが,戦後の新しい世代では90 %近い高率を示している。  部落内婚の減少,部落外婚の増加というの が,明治以後の旧婚に見られる一般的原則であ るが,中河内は全くそれと逆現象を呈してい る。この点に関していえば,歴史は中河内では後 向きに進行し,純山村化と共にその閉鎖性は強 化されていく傾向にあるともいえるのである。 同じ戸籍の中から世帯主の息や兄弟などで既婚 かつ本籍居住ではないもの(多くの場合長男で はなく,次三男であり,兄ではなく弟である が)についてみるときは,その部落内婚率は 19.2%,部落外婚率80.8%となる。同じ中河内 の出身者であるが,部落内居住者と部落外居住 者の通婚圏はあざやかに対無的で,両者の間に は断層的なへだたりが感ぜられる。  山河内の入婚を通じてみられる通論圏の変化 は宿場から山村への生活基礎の変化に即応した ものと考えられ,その特異な様相こそ中河内の もつ地理的歴史的性格の自己表現ということが できよう。

第7表現住入婚者数

1=、…△婿年代 明30−44

,恥耀ミ国入夫「評

 生  発艦尾  

内偵丹 二尊愛砂湯 県庁

 Bぢ

 君君

落組香田井

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福 君  ト 君  夕

立川落合

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 石 10 1 1 2 1 5 15 o o o o o o 1 1 2 1 5 15 大元一14

到入夫同

17 o 2

2116

23 o o

0000

o o 2

2116

23 昭元一20 妻入夫【計 20 2 1 1 4 24 3 o o o o 3 23 2 1 1 4 27 昭21−25 合 二

曲圏書面入夫【計

33 1

11

1 4 37 1 o

00

o o 1 34 1

11

1 4 38 80 ∩01

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     1

99 4

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0000000

4 84

31

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     1

103

(9)

5  明治以降宿場的機能を喪失して純山村へと 後退を余儀なくされた中河内について,人口世 帯数の変化の特性を知り,全家移動と各個移動 を通じて流出人口の諸相をみた。大量の流出人 口の存在は一見中河内の外部とのつながりを強 めているようであるが,通婚圏の分析を通じて それとは逆の現象も生じていることを指摘した 。しかし資料もとXのわず,問題の取り上げ方 も未熟であるので,十分な検討は将来の課題と したい。      、       註 ①旅客を相手に栃木峠の茶店では三三が,椿坂峠の  茶店ではヨモギ餅が売られていた。毎晩の売上金の  勘定が女中を泣かせたほど繁昌したという。椿坂峠  の茶店はとり払われて久しいが,栃木峠の茶店の建  物は残っている。しかし母屋とは別にその裏にあっ  て諸大名が休憩した上段の間は早く中河内に移され  たが,昭和31年の大火でやけた。地籍図には名物栃  餅屋と記入されている。 ② 野神まつりは昭和31年の大火以後3年毎に行うこ  とになった。まつりの中心は奴の道中ではなく太鼓  踊りである。 ③中河内は4つの三組に分れているが,それは地域単  位でなく,宿場時代の部落内の階層関係乃至勢力関  係を反映して構成されたものらしい。年寄講・中講  ・脇講・新講がそれであるが,年寄講はダンナン株  を中心に12戸から成り,最有力で部落一切の主導権  をにぎっていたという。下組はシメコウ(1月16日)  ヤマコウ(11月と2月の9日)などに講宿に寄り共食  する。年寄講は5戸が他出7戸が残っているが,現  在は名目だけとなり,講行事はなにもしていない。 ④ 第1表の入口・世帯数昭和5年は伊香郡志申(昭 和27年)14−23年のものは小学校学籍簿,25−28年  は役場資料,30年,35年は国勢調査による。 ⑤ 中河内の生業といえば,農業と製炭である。農業  には主に婦人があたり,製炭が男子の仕事となって  いることは付近の山村と変らない。耕地はもちろん  私有であるが,山林約2200町歩は大部分が部落有で  私有は少ない。この部落有林の一部は割山として明  治初年住民の間で地上権のみ1世帯4枚ずつ分配し  た。1枚は5反という。しかし実際にはもっと広く  所によっても異るが,2∼3町の広さのものも珍しく  ない。割山は離村の場合は2年以内に部落に返還し  なければならない。この割山は分家には与えられな  かったので,それが村内分家を少なからしめた一つ  の理由である。かりに分家しても割山があたらない  ことはそれだけ分家の経済力にひS’いた。現在では  分家にも2枚の宵山が与えられる。 ⑥ 池河内経由の敦賀への道は戦後利用されなくなつ  て,今は草で通れなくなっている。大正10年頃まで  は中河内には炭売りを渡世とするものが5∼6入い  て牛の背中に木炭6∼7俵をのせ,自分も3∼4俵  を負うてこの道を敦賀まで出かけ,帰り荷として塩  ・米・石油・しょうゆ等を運んでいた。中河内の氏  神のまつりの買いものはすべて敦賀でする習慣であ  つたし,若者達はふだんでも炭焼仕事をすませたあ  と,夕方から敦賀に遊びに出かけ,夜中に帰ってく  ることが多かったという。又敦賀まつり(気比神宮  大祭)には子供連れで出かけるのが長い間の風習  だった。 ⑦ 同じ近江盆地周縁の山村では杉野谷でこのことを  たしかめた。滋賀大学学芸学部紀要第8号(1958  年)杉野谷調査詞書 人の動きの項。

参照

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