草花の匂ふ国家(要約)
著者名(日)
桶谷 秀昭
雑誌名
井上円了センター年報
号
6
ページ
3-31
発行年
1997-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002828/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja草花の匂ふ国家︵霧︶
桶谷秀昭
品“ミミミS△e 以下の文章は、雑誌﹁日本及日本人﹂の平成七年陽春号︵第一六一八号︶から平成九年陽春号︵第一六二六号︶ まで、九回にわたり連載した拙論の要約である。一回の枚数、四百字×三十枚、計二七〇枚であるが、未完であ り、あと百枚くらゐを書いて完結する予定である。 ︵ご 明治改元の年から十年の西南戦争までの時期は、明治国家創成期にあたり、維新革命を携つた志士たちが廟堂 にあつて、財政上、軍事上、心細く、新国家像の青写真もさだかでない維新政府を暗中に模索しつつ運営してゐ た。 ひと口に藩閥政府といはれてゐるが、その実体は、はるかに弱体で、旧雄藩の威力に匹敵する力はなかつた。 とりわけ薩摩出身の西郷隆盛と大久保利通は、鹿児島にあつて新政府要人らを憎悪し、逆臣、裏切者と罵倒して ゐる島津久光と彼を支持する士族集団と新政府との板ばさみになつて、苦悩してゐた。 また新政府内部において、木戸孝允を代表とする長州閥の勢力との均衡を維持するべく心を砕いてゐた。︵長 3 草花の匂ふ国家(要約)州は藩事情がきはめて透明だつた。︶それは大久保利通の一見マキヤベリスト風の権謀術策においていちじるしい。 西郷隆盛は戊辰戦争がをはると、鹿児島に帰り、島津久光派の士族集団と自分を支持する反久光派の士族集団と あもりがは の板ばさみになつて、鹿児島市内に身を置くことを避け、大隅半島のつけ根にひろがる、天降川の中流域にある ひなたやま 日当山温泉に隠棲してゐた。 この頃、西郷は次の七言絶句をつくつて、その心境を述べてゐる。 世上ノ殿誉 軽キコト塵二似タリ 眼前ノ百事 偽力真力 追思ス 孤島幽囚ノ楽 今人二在ラズ 古人二在リ この漢詩は明治二年六、七月の頃と推定される。 西郷は明治二年六月二日、維新の勲功として、賞典録二千石を授与された。それを心苦しく思つてゐた。ちな みに、三條實美、岩倉具視ら公卿の五千石を別にすれば、大久保利通、木戸孝允ともに千八百石である。 しかし、もつとも心苦しかつたのは、藩主島津忠義が従三位、その後見人の島津久光が従二位で、西郷より下 位に叙せられたことである。西郷は再三、賞典叙位の返上を大久保を通して請願し、つひに受け入れられた。 島津久光は朱子学の教養と水戸学の歴史観を身につけた骨の髄までの保守思想家で、彼にとつて王政復古は、 絵に描いたやうな公武合体の封建制への復古を意味してゐた。それゆゑ、版籍奉還から廃藩置縣を断行して、中 央集権制を実現しようとする新政府を憎み抜いた。 ﹁眼前ノ百事 偽力真力﹂といふのは、さういふ背景において一変した新時代を疑つてゐる。彼はほとんど生 4
きてゐたくなかつたであらう。幕末、島津久光に憎まれて、大島と沖之永良部島へ流されたときの流諦の生活の 方が、今よりよほど楽しかつたといふのである。 西郷は戊辰の北越戦争で弟吉次郎を戦死させた。 ﹁拙者第一に戦死すべき処、小弟を先立たせ、涕泣いたすのみ﹂︵明治二年三月二十日得藤長宛︶ ﹁今人二在ラズ 古人二在リ﹂とは、新時代に生きる悲しみが自分にも信じられない程深いことに驚いてゐる のである。 ︵二︶ 明治政府は、太政官制をつくり、大化改新の復古政体にならひつつ、外政において、安政の不平等条約に苦し みながら、完全主権の回復をめざし、復古的政体とうらはらな近代国家を実現しようとしてゐた。 明治二年六月の版籍奉還から四年七月の廃藩置縣にいたる過程で、これを推進した中心人物は、大久保利通で ある。しかし発案者は木戸孝允である。木戸は維新政府にあつて、もつとも開明的な思想を抱いてゐたが、その 心情において極度の不気嫌と不安と憂薔におそはれてゐた。 明治元年九月十八日の木戸日記は、彼の不気嫌と不安を語つてゐる。 ﹁此の日大久保市蔵に秘密事を談ず、彼一諾尽力すると云ふ、余久しく心に期するを施す能はず、遺憾也、 実に皇国千載に関渉せしことに付き、元より功名は度外に拠ち、人の手を以て其志を遂げ、柳か君父の為、 皇国の為に相尽す所以也、大久保と錐も未だ能く奥意を語る能はず、只表面の条理のみにして止めり、実に 今日の遺憾なり。﹂︵原文、漢文体の送り仮名を補ひ、よみやすくやや改める。以下同じ︶ 5 草花の匂ふ国家(要約)
この日の大久保の日記は、極めて簡単である。 ﹁朝、今日、木戸と内談の事あり。﹂ この対照的な日記に、木戸の文人風のめんめんたる優情と、大久保の果断なレアリスト政治家の風貌があらは れてゐる。 木戸の不安は版籍奉還に当つて、薩長のどちらが主導権を握るか、その運び方の区々にわたる密談を欲したの に、大久保が心底をみせずにコ諾﹂したことに、あらためて疑惑をかき立てられたのであらう。 木戸の疑ひ深い性格もあるが、その根は討幕の過程において薩藩に煮え湯を呑まされた記憶に由来する。さら に﹁世上薩長離間の説あり﹂、︵十一月二十四日︶と日記に記し、不安に包まれてゐる。﹁世上薩長離間の説﹂をも たらしたのは、岩倉具視の右筆で名和緩である。 岩倉は討幕の過程で大久保と親密であり、長州人の間に好物とする見方がつよい。薩長離間の巷説の出所が岩 倉であるのが不快だつた。 年が明けて明治二年正月五日、政府の参与横井平四郎の暗殺事件が起つた。暗殺の下手人たる撰夷党に対して 世間の風評が好意的なのも、木戸の不安をさらにかき立てた。この頃、大久保に長文の書簡を送り、 ﹁皇国御維持之目的相立たず、百世之後に相期せざる事に御座候へば、大政一新は一時之戯れにて、害有り 候とも、益は決して無きの事と存じ奉り候。﹂ といふ明治政府の前途を悲観した言辞を洩らしてゐる。 この頃、木戸は心身の不調に悩んでゐた。﹁脳痛暴発﹂といふ。激しい頭痛に襲はれてゐた。オランダ人医師 ボートインは身心の過労と診断し、転地静養をすすめ、木戸も再三、それを願ひ出たが果さなかつた。 6
明治二年三月二十八日、朝廷は京都から東京へ移り、江戸城を皇居とさだめた。五月、版籍奉還の実現をみ た。木戸は五月二十九日に東京に着き、麹町三番町の寓居に入つた。 藩主を知藩事とする件で、それを世襲制とする案に、木戸は執拗に反対し、﹁世襲﹂の二字を削除せしめた。 七月八日、明治政府は行政官を太政官と改めた。民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務の六省の上に神舐官を 置いたこの組織は、祭政一致の思想の実現を意図したものである。 その人選は、三條實美︵右大臣︶、岩倉具視︵大納言︶、副島種臣︵参議︶、前原一誠︵参議︶、大久保利通、木戸 孝允、板垣退助は待詔院学士といふ、いはば宮中顧問官に当る閑職。薩長土三藩の維新の功臣を激務からはつし て優遇する名目だが、この人選を画策したのは大久保で、その意図は新政体から木戸派の追ひ出しを実現するこ とにあつた。 参議に薩摩から人を出さず、佐賀の副島に大久保の代理をさせる。前原は長州だが新政府内で孤立して無力で ある。 ﹁政体御変革且つ人選等の事を聴く、余の見と異なる事多し。﹂ と木戸は日記に不満を記してゐる。 大久保の木戸派追ひ出しの意図は、洋化維新推進派たる木戸派を追ひ出して、保守的王政復古色を新政体につ よめ、島津久光の復古派の影響下にある薩摩藩との調和をもたらさうとしたと推測される。 つまり明治政府は、西国の一雄藩の顔色を窺はねばならぬほどの頼りない存在だつた。 しかし新政体は、中枢に大久保と木戸がゐないことからくる不安とさまざまな憶測が生じ、たちまち崩壊の危 機に陥つた。木戸は捲き返しを図つた。岩倉が大久保とともに参議再任を懇請してくると、病気を理由に断りつ 7 草花の匂ふ国家(要約)
づけ、大久保がつひに参議就任を承諾すると、廣澤真臣を参議に任じて、対抗した。廣澤は長州藩の秀才官僚の 出である。 てい し この頃、木戸はしきりに吉田松蔭を思ひだしてゐた。松蔭を﹁先師﹂と呼び、﹁ついては弟も帰るに如かず﹂ ︵七月二十六日廣澤宛︶と隠棲の志を打明けてゐる。この後も木戸は事あるごとに隠遁の衝動に襲はれてゐる。 九月十日の早暁、箱根で静養中の木戸は、大村益次郎が京都木屋町の旅寓で刺客に襲はれたといふ知らせを受 けた。直接の下手人は浮浪の撰夷浪士らだが、黒幕が京都弾正台長官の海江田信義であることが、この事件を陰 惨にしてゐる。海江田は薩摩藩士で戊辰戦争では東山道先鋒軍の参謀となり、西郷、大久保と苦楽を共にした。 大村益次郎との間に確執があつた。大村は作戦指導を西郷・海江田から奪つて、戊辰戦争を勝利にみちびいた。 大村益次郎がまだ無名の村医で村田蔵六を名乗つてゐた頃、その軍事家としての天才的能力を見抜き、抜擢し たのは木戸である。 大村は重傷を負つたが、すぐには死なず、十一月十二日に病あらたまつて死んだ。その前夜、木戸は夢に大村 と語り合つたといふ。深夜、夢から醒めて日記に悲歎の想ひを書いてゐる。 ﹁彼剛腸にして且つ心切、毫も表裏なし、実に此際に当り尤も益友たるを知り、交情甚だ厚し、尚前途の事 むかひ も共に相憂ひ、大いに後来の策を約せし事少なからず、︵中略︶今夜夢寝の間、屡々大村に対て相語る、覚 めて又愁然不可言之心事なり。﹂ 木戸は黒幕の存在を知つてゐた。が、それを暴露すれば、薩長離反を惹起し、政府崩壊の因になりかねないの で、切歯して憤懸を日記に洩らすしかなかつた。 8
︵三︶ 大久保利通は薩長土三藩の兵を召集して朝廷の警備に当てるといふ意見を抱いてゐたから、徴兵による近代常 備軍を構想してゐた大村の死を政治的に利用する機会を見逃さなかつた。 すなはち、薩摩の黒田清隆と川村純義を兵部大丞に任命し、この二名の人事のみでは兵部省の薩藩乗つとりの 疑惑を招くから、旧幕臣の勝麟太郎をも兵部大丞にひつばり込むことを画策した。勝は長州ぎらひの薩摩びいき であり、旧幕臣の生活を救ふために苦慮してゐたから、大久保の士族をもつて親兵とする方針を支持するであら うと考へた。しかし勝は、海軍ならともかく、陸軍は自分の能力に余るといつて辞退した。 そこで大久保は、参議の前原一誠を兵部大輔に転任させることを岩倉に要請し、この人事が実現して、兵部省 における徴兵案は葬られた。 大久保は参議に再任したとき、岩倉に三ケ条から成る意見書を送つた。 一、﹁大目的を定む。﹂政府のこれまでの目的が曖昧で、小規則に拘泥し、﹁寛にあらず厳にあらず、疑団を抱 いて手を下し、基体立つこと能はず﹂、こんなことでは外交上も各国の侮蔑を招くばかりである。 二、﹁政は一本に出づ。﹂廟議において決つたことは、あくまでこれを奉じ、異議四方に起つても﹁屹然として 顧るべからず。﹂要路在職の者は皆、表裏軽薄を捨て、責任を他になすりつける弊をやめよ。 三、﹁機は密を要す。﹂従来、一介の野士が尊顕に出入りして機事にあつかり、甚しい場合は廟議を動かしたり した。﹁自今断然としてこれを改め、政府要路の外、公事を談ずるを厳禁せんことを欲す。﹂ 浮浪の浪士の暗躍を封殺するためには”万機公論”の方策もなげうち、政府独裁も厭はない、といふのであ る。 g 草花の匂ふ国家(要約)
さらに大久保は木戸にはたらきかけ参議復帰を懇請し、それが実現するなら自分は待詔院の閑職に戻つてもい いといつた。しかし木戸は応じなかつた。十月末のことである。 大久保はその後、毛利敬親、島津久光、西郷隆盛を政府に呼び寄せ、薩長聯合して新政府の根幹を固める目的 で、木戸とともに帰藩して、それぞれのもと藩主に政府の実情を説明することを考へ、岩倉、三條の同意を得 た。 この間、薩長二藩の兵を以て常備軍とする議決がおこなはれ、三條實美は木戸に出兵の斡旋のため帰藩を要請 した。大久保も木戸とともに長州に寄るといふ。気むつかしい木戸もさすがに固辞しきれなかつた。 十二月十七日に木戸は東京を発ち、翌十八日大久保が発つた。途中、大久保は京都に寄り、海江田信義を叱責 説諭した。大村益次郎暗殺の下手人の死刑執行を停止してゐたのが京都弾正台の海江田だつたからである。三日 間にわたる説得で、海江田はやうやく屈した。 明治三年正月十一日、三田尻に上陸、翌日、山口に着く。十四日には鴻嶺の山麓に新築したばかりの木戸邸で 一夜歓談し、翌日、知藩事毛利元徳に会ひ、話を聴いた。 十九日、鹿児島着。二十日、二十四日以降は毎日のやうに島津久光、忠義に会ひ、久光の上京を懇請したが、 久光は病気を理由に応じない。 西郷隆盛は、この頃、山口で奇兵隊はじめ諸隊が兵制改革に不満を抱き暴発したのを鎮めるために、兵を率ゐ て北九州へ赴き、居ない。月があらたまつて、二月十七日、帰つてきた西郷に、さつそく大久保は会ひに行つ た。 山口で木戸が苦境に立たされてゐたとすれば、鹿児島の西郷は薩藩のさらに困難な事情の中で苦しんでゐた。 10
島津久光の影響下の保守派と藩政改革派との対立を西郷が何とか鎮めてはゐるが、それを置いて上京できる状況 ではない。久光は西郷が反久光派を煽動してゐると考へ、激しく憎んでゐる。 二月二十四日、久光は、胸中の考への詳細を問ふた大久保に﹁激論﹂をぶちまけた。 ﹁実に愕然に堪へず﹂ と、大久保は日記に衝撃を記してゐる。久光は明治政府を﹁洋夷の属国﹂政府に過ぎず、大久保らを藩の裏切 者として罵倒した模様である。大久保は激せんとする心を抑へて断念し、翌日むなしく鹿児島を去つた。 二十八日海路長崎に着いたが、風浪高く、連日の雨で足留めを食つた。 春深ク連日 雨紛々 半嶺晴レテ 半嶺雲ラント欲ス 一睡醒メ来リテ 猶未ダ暮レズ 故山何処ヲ望メドモ 分チ難シ 沈着冷静なこの政治家が失意の心を抱いて、常になく洩らした感傷である。 ︵四︶ 廃藩置縣が明治四年七月にすんなりと発布されて、格別の騒擾も起らなかつたとき、あの傲慢な英国公使パー クスですら、感嘆していつた。 ﹁わが欧州において、かくのごとき大変革は数年のあひだ兵馬を用ゐるにあらざれば、成功期すべからず。 これを世界未曽有の事業にして神為といふべし。﹂ 11 草花の匂ふ国家(要約)
十八世紀末から十九世紀なかばのヨオロツパで起つた革命の歴史像を念頭に置いてゐたパークスが、極東の島 国で起つた大変革を、その徹底した無償性と自己否定性において﹁世界未曽有の事業にして神為﹂と呼んだの は、無理からぬところがある。 およそ革命は、それを遂行した階層による権力の奪取をもつてをはる。が、維新革命は、それを遂行した武士 階層が、みつからの身分と特権を放棄することによつて消滅してをはつた。そんな革命は世界史上たしかに前例 がない。 これは、まかりまちがへば欧米列強の植民地になるといふ危機意識を、薩長側も佐幕派も共有してゐたからで ある。 勝海舟は、維新後だいぶたつて、あれは幕軍が敗けてやつたのだ、といふ意味のことを、彼独特の轄晦的な口 調で語つたことがある。 勝つた側の維新革命の指導者たちの心性にうかがふことのできる一種の放心、隠遁癖は、西郷や木戸にいちじ るしく、彼らの革命の目的が、権力奪取になく、もつと荘漠とした国家をつくる理想にあつたからであらう。 一等マキヤベリストの匂ひのする大久保ですら、維新政府におけるその権力意志は、たとへば、明治三年三月 十日の岩倉宛の手紙にみられるやうな、理想家の祈りに通ずる香気を帯びてゐる。以下、その部分を口語文に逐 語訳して引く。 ﹁:⋮・今年いつばい、恐れながら至尊をはじめとして有司百官、非常の覚悟が必要です。丁卯︵慶応三年︶ の冬、伏見の砲声を耳の底に聞く心地がします。あの勝ち目のない戦争にのぞんだときのやうに、各人が一 死を期して尽痒しないならば、前途の成功はとてもむつかしく思ひます。利通にしてもこの節は、はるばる 12
遠国まで命を奉じて行きながら何の甲斐もなく、さらに重罪の至りです。断然方針を改め、自分ひとりにな つてもこの志を貫かなくては、死んでもなほ罪ありと、髪冠を衝くくらゐに奮起してをります。つきまして は、姑息の方法に頓着せず、痕断を持つて天下を統御することを大目的とし、今日から新しく始めるつもり で、天皇を御輔導することからはじまり、次いで右大臣、大納言、参議、諸省がその職掌を艶れるまで尽 し、政府諸省が手足のごとく一身のごとく合体して、その実をあらはし、公然至当の道をもつて天下に及ぼ し、みつから大いに信ずるところを天下に宣布するのでなければ、将来はないと、このまへ申し上げた通り であります。︵以下略︶﹂ たつたひとりになつても維新政府に殉ずる大久保のパトスが感ぜられる。 なほ、危機に際して、岩倉を感奮興起せしめ、さらにその岩倉によつて、個人としては誠実だが、右大臣の職 にあつてまことに頼りない三條實美の肚をくくらせようとする、この大久保のやり方は、以後くりかへされる行 動の型になつた。 在野の浪人の不穏な動きは、無論ある。その動機、人間像にみるべき例として米澤藩士雲井龍雄がゐる。三年 十二月、雲井は伝馬町の牢に入れられ、臭首の極刑に処せられた。雲井の政治思想は土佐の公武合体論に近く、 しかし幕府の存続を認めない。ただし、薩摩の幕末における動きにたいする疑心と憎悪を抱き畠つづけてゐた。維 新後、集議院といふ太政官の諮問機関に席を置いてゐたが、その激烈な議論のゆゑに孤立し、その資格を剥奪さ れ放免された。 三宅雪嶺が﹁若し明初に生るれば高青邸たるべく、英国に生るればバイロンたるべし﹂と惜しんだこの浪曼的 詩人のパトスは、のちに北村透谷に維新革命の精神として受けつがれる。 13 草花の匂ふ国家(要約)
もう一つの例は、横山安武の憤死である。横山は森有糺の実兄であり、薩摩藩庁より東京に派遣されて深川の 田口文藏の漢学塾に学ぶ書生であつたが、七月二十六日払暁、政府の腐敗堕落を弾劾する建白書を、集議員の門 前に竹にはさんで立てかけ、割腹した。 のちに西郷隆盛は横山を弔ふ文章を書いて、これは西郷の文章の特色を示すものである。 ︵五︶ 明治四年四月二十一日、西郷隆盛は薩摩藩常備兵四大隊、砲兵四隊を率ゐて、上京、市ケ谷台の旧尾州藩邸の 兵営に入つた。前年の暮、勅命を奉じた岩倉と大久保が再度、鹿児島へ来て、廃藩置縣の一大変革に参画するこ とを要請したのに応じた、上京である。 これは予想される反革命士族集団の内乱を鎮圧する目的をもつた行動であるが、西郷が何を考へてゐたかは、 甚だつかみにくい。 西郷が廃藩置縣の後にくる近代国家の青写真として何を構想してゐたかとなると、 漠としてつかみどころが ない。新政府の内情が、横山安武の弾劾するやうな情ない醜態であることを聞いて、巨眼から落涙した。 けれども、この巨大な体躯と巨大な感情量をもつ人物は、大久保のほとんど無私といつていい政治的意志とは 一オクタアヴちがふ、はるかなものにむかふパトスにつかまれてゐたやうにみえる。同時に幕末において彼が倒 した敗者にたいする、並みはつれた、ほとんどそれゆゑに反革命の側に転じかねない、側隠の情に襲はれてゐ た。 西郷は誰よりも過去を曳きずつて生きてゐた。明治三年七月以降四年四月にいたる間、薩藩の大参事の任にあ 14
つたとき、彼は島津久光の維新政府にたいする憎しみを、一身に浴びて耐へてゐた。その頃大久保宛に書いてゐ る。 それ にくし ﹁実に難渋の場合、行廻候時機にて、只一人にて御疑惑を積み、夫故御悪みも一人に止り候次第に御座候。 かざり さだめ いつれ、此上は御疑惑を解き候か、又は発候かの両様に相決し、毎日死を極め、今日限と定て出勤仕候処 ︵下略︶﹂︵明治三年八月三日︶ 島津久光の保守思想には鎖国撰夷主義者でなくても、共感することのできるものが少くない。西郷もそれを認 めてゐたであらう。それ故に苦しんだ。ただ、西郷はその青年期に側近として仕へ、多大の感化を受けた開明的 な島津齊彬の記憶に照らして、久光を﹁じごろ︵田舎者の意︶﹂と呼んで、その固随な気質を軽蔑してゐたが、だ からといつて久光の憎悪を無視したり解消したりできなかつた。 西郷の文明感覚は、西洋と日本の差別相に鋭敏に反応するよりは、形而上的な普遍感覚への信において特徴づ けられる。 いへど ﹁道は天地自然の物なれば、西洋と錐も決して別無し。﹂ あまね ﹁文明とは道の普く行はる﹀を賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世 人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮 ぢやと云ひしかば、否な文明だと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆ ゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして つぼ 未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮ぢやと申せしかば、其人口を苔めて言無か りきとて笑はれける。﹂︵﹁南洲遺訓﹂︶ 15 草花の匂ふ国家(要約)
この文明観は、やがて実現する近代国家日本の精神的動向を主導しなかつた。そして在野浪人の地位において 近代日本を批評した思想家たちにひきつがれた。内村鑑三の﹃代表的日本人﹄や岡倉天心﹃東洋の理想﹄﹃茶の 本﹄にそれをみることができる。 近代日本を主導したのは、幅澤諭吉が紹介し主張したギゾオやバツクルの西欧文明一元論である。 木戸孝允は幅澤をもつとも高く買つてゐて、しばしば訪ねては意見を聴いた。木戸の開明性は西欧文明一元論 に傾いてゐた。レアリスト大久保利通は木戸の開明性をより現実的な中央集権国家創設のために利用した。 西郷の文明感覚は、木戸や大久保から孤立し、ときに島津久光の復古思想と同一視さへされながら、廃藩置縣 の一大変革に参画した。彼が率ゐた薩摩の精鋭四大隊は、近衛兵になつたが、実質は兵士といふより壮士の集団 だつた。桐野利秋をはじめ壮士らは勇躍して上京したが、それは廃藩置縣のイデオロギイのためではない。そん なものは眼中になかつた。 この壮士集団の雰囲気は、近代国家創成の目的をもつ政府軍といふ尺度からみれば、異様なものであり、逆に 朝令暮改、方針も定まらず、腐敗堕落した新政府を叩きつぶすために上京した薩南健児の集団とみる者があつて も、不思議ではなかつた。 その頂点に西郷隆盛といふ、巨大な人望をもつ、しかし何を考へてゐるのか、みる者の希望的臆測の区々と、 あらゆる正反対の臆測に反響し、それら両方を許容するかにみえる、 漠とした矛盾の巨体が存在する。 16 ︵上O 岩倉全権使節団が、 横浜を出帆したのは明治四年十一月十二日のことである。
特別全権大使 同 同 同 同 この主要成員に一等書記長田邊太一 その総数五十名を越える。 の不平等条約の更新期限が迫つてゐて、 も、廃藩置縣直後の問題山積してゐる時期に、 て国を留守にするといふのは、 この異様な人選を推進したのは大久保で、 めの政変の折、西郷と対のかたちで参議になることを大久保が執拗に要請したのであるから、 木戸を抱き込んで外へ連れ出すに如かずと大久保が考へたのは、 を残して置けば、西郷とのあひだに折合がつかなくなることを危惧したからだといふ説がある。 六年政変﹄︶別のいひかたをすれば、 どめる、と考へたのであらう。 九月十七日の岩倉宛の大久保の手紙がこのことを語つてゐるやうに思はれる。 ﹁昨夜も西郷が参りまして、 右大臣 岩倉具視 参 議 木戸孝允 大蔵卿 大久保利通 工部大輔 伊藤博文 外務小輔 山口尚芳 ︵外務少丞︶、盟田篤信︵外務大記︶、頑地源一郎、久米邦武以下が加はり、 この顔ぶれをみると、をかしな事に気がつく。使節団が、翌明治五年七月に安政以来 条約改正にむけてその瀬踏みをするために企画されたのはわかるとして 岩倉、大久保、木戸といつた政府の柱といふべき人物が、こぞつ 異様である。 とりわけ木戸を加へることに執着した。木戸は、廃藩置縣実現のた さらにをかしい。 木戸といふ何ごとも﹁精微に過ぎ困りもの﹂ ︵毛利敏彦﹃明治 大久保は、岩倉使節団が政府の本体で、日本の政府は留守居番の役割にと 木戸をひき抜き、西郷に留守をまかせれば安心できる。 現代口語文に逐語訳して引く。 くりかへし利害得失を談じました。西郷は、︹木戸を使節団に加へることにつ 17 草花の匂ふ国*(要約)
き︺板垣退助が異論を申し立てたときは、十分に論破して得心のいくやう尽力するといひました。そして使 節団が出発した後のことは、︹その責任を︺もはや遁れることはできないのだから、自任して発れるまで身 を挺してつとめると申しました。西郷はけつして食言するやうな人間ではありませんから、御安心くださつ てよろしいと私からも請け合ひます。︵以下略︶﹂ 岩倉全権大使一行を乗せたアメリカ号を横浜に見送つた西郷は、 ﹁あげん船はいつそのこと沈んでしまふのがよろしうごはす﹂ といふすさまじい譜護を洩らした。 天性のユーモリストが、西郷の中にあつて、抜きさしならぬ困難に直面したときに、この種の譜謹を洩らし た。彼は大久保から留守政府を守ることを依頼されたが、次のやうな誓約を押しつけられてゐた。 ﹁︹内地の事務は︺なるべく新規の改正を要すべからず、万やむを得ずして改正することあらば、派出の大使 に照会すべし。﹂ あるいは、諸官省の長官に欠員が生じても、補充してはならない。﹁参議これを分任し、その規模目的を変革 せず。﹂ これほど留守政府をばかにした話はない、と参議板垣退助が憤慨したのもむりはなかつた。が、西郷は板垣を なだめなければならなかつた。 西郷は、いつそ死んだ方がましだと思ふ窮地に立たされてゐた。彼なら人にものを頼むときに、かういふやり かたはしない。予想される困難において、自分が矢面に立つことを前提にして依頼するのが、西郷のやりかたで ある。 18
廃藩置縣が成立したとき、鹿児島にあつて島津久光は終夜、花火を打ち上げて癌癩を破裂させた。西郷はさら に久光の憎悪を煽るために上京したやうなものである。彼が率ゐる近衛兵、実質は薩摩士族の壮士集団は、廃藩 置縣以来、憤懸をつのらせて、いつ暴発するかもしれぬ不穏な雰囲気をつのらせてゐる。それを抑へ、なほか つ、外遊組が押しつけて行つた誓約の下に留守を守らなければならない。 政府の内実がどんなものかは、いやになるほどわかつてゐる。西郷の国家理想からすればこれは商事会社にす ぎない。横浜で外遊組を送る宴席で、西郷は、大蔵大輔井上馨にむかつて、いつた。 ﹁三井の番頭さん、一杯いかう。﹂ ︵七︶ 岩倉全権大使一行を乗せたアメリカ号は明治四年十二月六日暁にサン・フランシスコに着いた。一行は市を挙 げて歓迎された。 伊藤博文は十四日夜、市のグランド・ホテルで、市知事、カリフオルニア州統領、陸海軍将校はじめ官民三百 人による盛大な歓迎の晩餐会において、英語で演説して喝采を浴びた。その主旨は、維新後の日本の現状につい て、先進諸国の文明に近づかうとして政府と人民が熱烈な希望を抱いてゐるといふことを、誇張をまじへて自画 自賛したものである。伊藤が演説の結びに、日本の国旗の意匠について次のやうに述べたのが、とりわけ市民に 印象的で、﹁日の丸﹂演説と呼ばれて評判になつた。 ﹁わが国旗の中央にある赤い円形は、もはや封じられた帝国の封蠣のやうにみえることはないであらう。将 来は事実上、その本来の意匠のやうに、世界の文明諸国民に伍して、前進と上昇をつづける昇る太陽の高貴 1g 草花の匂ふ国家(要約)
な象徴となるであらう。﹂ 以後、伊藤博文は使節団要人の中でもつとも舞ひ上つてゐた。彼は米国は二度目であり、プロオクンながら英 語を話すことができる。それに文明の相違からくるギヤツプを、事もなげに跨いで行く奇妙な能力と活力を生来 備へてゐた。 かつて松下村塾にゐたとき、弟子の才能を発見することにかけて天才的であつた吉田松蔭が、伊藤の学問、識 見にみるべきものなしとしながら、﹁利助︵伊藤の幼名︶は周旋の才あり﹂と評したのは、さすがに桐眼といはね ばならない。 外遊中、伊藤はかつて自分を引き立てた長州の先輩木戸から離れて、大久保に接近した。そのきつかけは年が ありのり 明けて五年一月二十一日に一行がワシントンに着き、駐米少弁務使森有糺に接し、森の、ただちに条約改正の交 渉をはじめるべきだといふ勧告に乗つた頃からである。 ﹃米欧回覧実記﹂︵久米邦武編︶は、 ﹁三日 陰 国務省二於テ国務掛ノ書記官フイシユ氏二応接ス﹂ と、二月三日に第一回目の交渉のあつたことを記してゐる。このときフイシユは六十三歳、グラント閣僚中の 最大の実力者だつた。日本使節団は最年長の岩倉が四十七歳、大久保四十二歳、木戸三十九歳、伊藤三十一歳 で、ブイシユと親子くらゐの年齢差があり、かつ、外交交渉において幼児のやうに未経験だつた。 交渉はたちまちつまついた。領事裁判権の撤廃と関税率の決定における自主権の回復といふ日本側の要望に、 フイシユは頑強に応じなかつた。のみならずブイシユは、全権委任状をもつてゐるかと念を押した。さういふも のはもつてゐないが、天皇陛下の信任を受けてゐると日本側が釈明すると、フイシユはあはれむやうに、いつ 20
た。 ﹁あなたがたは国際法を知らない﹂ フイシユはこの言葉で、全権委任状のほかに、通商条約で最も重大な”最恵国条項”のことをほのめかしたの であらう。しかし日本側は森有糺を含めて誰も、そのことを知らない。 ﹁十二日 晴風寒シ 朝六時ヨリ大久保副使発程シ、ニユーヨルクヲ経テ帰朝セリ。﹂︵﹃米欧回覧実記﹄︶ 大久保利通と伊藤博文は委任状を得るために一時帰国の途についたのである。 これより約半年の間、日本使節団は痛ましくも滑稽な徒労による時間の空費を強ひられた。 木戸は、森、伊藤ら外国半可通の言にのせられたことを、後悔し、痛憤する日記を記してゐる。 ﹁このたび、俄に大久保、伊藤帰朝して、条約改正の勅許を乞はんとす。今この挙動、反顧いたし候に、余 等、伊藤或は森弁務使等の粗外国事情に通ぜしに托し、勾率その言に随ひ、天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案 せざるを悔ゆ。実に余等の一罪也。﹂︵二月十八日︶ 老猶なフイシユは居留地の撤廃、外国人の内地雑居、旅行の自由などの日本側の方針には愛想よく応じたが、 しかし、と釘を刺す。 ﹁日本政府の開化進歩の施策を疑ふわけではないが、それが日本全国の民心にあまねく行きわたつてゐるとは 信じがたく、現状では外国人の生命財産の保障をお委ねできません。したがつて御希望の件は⋮⋮﹂ と、領事裁判権廃止の提案は拒絶され、交渉はここで行き詰つてしまふ。 この間、森有札の極端な米国かぶれ、公然外国人に日本の風俗をいやしめる言動、使節にたいする傲慢無礼な 挙動があり、岩倉、木戸の痛憤は昂つて行つた。 21 草花の匂ふ国家(要約)
大久保と伊藤は日本へ帰つて、五十日を費して全権委任状を手にしたが、その書面には次の但し書きが含まれ てゐた。 つまびらか もた いんじゆん ま ﹁而シテ其擬スル所果シテ朕ガ意二適スルヤ能ク之ヲ審ニセン為之ヲ朕ガ前二齎ラシ朕力允准ヲ須ツベシ﹂ “允准”とは許可の意味である。あらかじめ天皇の許可をまたなければ、条約締結をしてはならないといふの であるから、これは委任状を空文たらしめるものである。 これは岩倉大使、副使の権威がいまや地に墜ちたことを意味する。大久保、伊藤の両副使は空手形をもたさ れ、おまけに外務大輔寺島宗則の監視つきでワシントンへひき返すといふ、滑稽な役割を演じた。六月十七日の 朝である。 その間に、岩倉、木戸らは、駐日ドイツ公使フオン・プラントが帰国の途上、ワシントンへ寄り、最恵国条項 の説明をはじめて聞き、三たび後悔と痛憤におそはれた。フイシユとの交渉は打ち切られた。 ︵八︶ 岩倉全権大使一行は明治五年七月三日ボストンを発ち、大西洋を越えて英国リヴアプールに着く。ヴィクトリ ア女王はスコツトランドに避暑中で、十一月四日の謁見の日まで待たされた。十一月十六日、ドーヴア海峡を渡 り、カレーからさらに汽車でパリに着く。二十二日、電信で、日本が太陰暦を廃して太陽暦を採用することにな り、明治五年十二月三日をもつて明治六年一月一日とする詔書の発布されたことを知つた。 条約改正のための打診は英仏両国において望みがなく、各国同時談判の企図も断念せねばならなくなつた。 一行がベルギイ、オランダを経てベルリンに着いたのは六年三月九日、皇帝ヴイルヘルム一世に拝謁して国書 22
を捧呈し、十五日外相ビスマルクの招待を受けた。ビスマルクは新興ドイツの刻苦数十年を語つた。その軍国主 義の政策は英仏諸国に対する対等の国権を有るための手段にすぎない。国際外交の世界は弱肉強食、大国が万国 公法に固執するのは、自国に利益があるときのみで、万国公法が自分に不利なら掌を翻したやうに武力に訴へる のが常である。ドイツは日本の苦衷をよく察してゐる。もし必要なら、いくらでも人材を周旋しよう。 このビスマルクの演説は、欧米諸国を廻つてきた大使一行がはじめて接した知己の言葉であり、多大の感動を あたへた。気むつかしい木戸が立ち上つて、ビスマルクの好意に応へ新興日本の祈願を語つた。 岩倉全権大使団が帰つてきたのは明治六年九月十三日、大久保利通はそれより早く五月二十六日に別途帰国し た。三條實美より﹁内国方今多事﹂につき、大久保、木戸両人に中途帰国するやう勅命が来たのは、ベルリン滞 在中で、大久保は即刻、帰国の意思を抱いたが、木戸が不快感を抱き渋つた。 ﹁大久保与帰朝一条に付、過日已来、議屡交換、終に三四度に到り、その為今朝来甚だ不愉快、漸く晩に到 り一決、大久保先発、余は魯国に至り、それより欧洲中順路経歴帰朝に決せり﹂︵三月二十六日﹁木戸日記﹂︶ この間、大久保の日記は空白である。大久保はおそらく木戸以上に失意とむなしさにおそはれてゐた。全権委 任状を得るために、むなしく太平洋上を往復して以来、木戸とは疎遠になり、互ひに口もきかなくなつてゐた。 使節団は惰性で外遊をつづけてゐるが、実質は解体したのも同然である。 木戸はポーランドを経由、ロシアへ行き、ヨオロツパを廻つて七月二十三日、帰国した。そして不気嫌を抱い たまま、健康を害ねてひきこもつた。 岩倉もまた全権大使として不本意な心境で帰つてきたことは疑ひ得ない。﹁条約は結びそこなひ金は捨て世間 へたいし︵大使︶何と岩倉﹂といふ狂歌が、使節団の中でつくられたほどである。 23 草花の匂ふ国家(要約)
三條實美がいつてよこした﹁内国多事﹂とは、予算をめぐる各省と大蔵省との紛糾、島津久光が鹿児島壮士団 を引率して上京したことによる不穏な形勢、台湾原住民が漂流した琉球人を殺害した事件に端を発する清国との 緊張、韓国問題などである。 大久保が帰国したときは、二つの国内問題は片がついてゐたが、予算をめぐる大蔵省と司法省との紛糾がとく に激しかつた。司法卿は江藤新平である。この佐賀人は法規、章程の立案起草において天才的な頭脳の持主であ り、フランスの民権論や法思想の本質をいちはやく掴んで、日本を一日もはやく法治国家たらしめたいといふ激 しい使命感を抱いてゐた。 ﹁訴を断ずる敏捷便利公直。 えんわう 獄を析する明白至当にして冤狂なく、且つ姦悪を為す者は必ず捕へて折断、敢て逃る﹀を得ざらしむ。是を 本省の職掌とす。﹂ これは司法卿に就任早々、江藤が﹁司法省の方針を示すの書﹂と題して発表した文章であるが、その撤文のや うな激烈な文体は、彼の性格をそのままにあらはしてゐる。 江藤はこの宣言を実行に移し、明治五年五月就任以来、半年間に三府十二県に府県裁判所を設置し、民法草案 をほぼ完成し、各区裁判所の章程、訴訟法、治罪法、刑法を立案し、警察規則を施行し、監獄規則を完成した。 この実績を背景に九十六万円の予算を請求したところ、大蔵省はそれを四十五万円に削減した。大蔵省は、大 輔井上馨が濯澤榮一︵三等出仕︶ときりまはしてゐたが、陸軍省にたいしては要求額のほとんど全額八百万円を みとめた。陸軍卿山縣有朋は井上とおなじ長州人であり、あきらかに、この予算措置には派閥の情實がからんで ゐる。 24
山縣は山城屋和助事件といふ御用商人との汚職事件を起してをり、井上馨は尾去沢銅山強奪事件として知られ る事件を起してゐる。 江藤は井上を検束して獄へ叩き込んでやる、といふ執念に燃えてゐた。 江藤は予算問題に憤激して長文の意見書とともに辞表を提出した。江藤の辞職表明に追ひつめられた井上は大 蔵大輔を辞任した。 三條實美は政府解体の危機感を抱いて狼狽し、太政官の機能を、従来の各省の権限を内閣参議に集中してきり ぬけようとした。これが明治六年五月二日の太政官制の﹁潤飾﹂といはれる改革で、﹁潤飾﹂といつたのは、外 遊組との約束で機構改革はやれないから、さういふ表現を使つたのである。そして参議三名を増やした。 西郷、板垣、大隈の従来の三人の参議に加へて、江藤新平、後藤象次郎、大木喬任の新参議が加はつた。佐賀 三名、土佐二名、薩摩一名、長州一名︵木戸︶、で薩長二大派閥は一掃され、さらに大蔵省の権限はいちじるし く縮小された。 新帰朝者である大蔵卿大久保利通は、はじき出されたと思つたであらう。そして﹁潤飾﹂された太政官の最大 の実力者が江藤新平であることを知つた。 ︵九︶ いはゆる征韓の議が、太政官正院の閣議に上つたのは、明治六年六月である。事の起りは明治元年にさかのぼ るが、維新政府が、対島大守宗重正を通して、幕末以来しばらく途絶えてゐた交渉を再開しようとし、左の国書 を送つたことに発する。 25 草花の匂ふ国家〔要約)
﹁我邦、皇祖聯綿、一系相承、総撹太政、二千有飴歳干斯 。然中世以降、兵馬之権、學任武將。外国交際 並管之。爾後昇平之久、不能無流弊、而貴国交誼、業既久 。宜益結懇歎万世不楡。是我皇上之盛意也。乃 馳使以修旧好。翼諒此旨。﹂︵傍点、引用者︶ この文書中、﹁皇祖﹂﹁皇上﹂の文字、なほ、この文書に付して宗氏が韓廷に送つた書翰の中の﹁皇室﹂﹁奉勅﹂ 等の文字が、旧例古格に違ふ、いまだかつて日韓両国の書契において用ひなかつたものであり、隣好に惇るとし て韓国は峻拒して応じなかつた。 以来、維新政府は再三にわたつて交渉の再開を要請したが、韓国の頑強な鎖国撰夷の国是が背景にあつて、進 展しなかつた。鎖国壌夷は幕末の日本の姿であつたが、それであるが故に、明治維新によつて西欧列強と和を結 び、制度風俗を急速に変へた日本にたいする不信、侮蔑を、韓国の側に惹起した。つまり、日本人は韓国との国 交三百年の習慣を破つて恥ちない民族だといふ。 明治六年二月、釜山の日本居留地にある倭館に掲示された、韓国政府の﹁伝令書﹂は、さういふ排日感情を露 骨に述べてゐた。いまの日本人は、 ﹁ソノ形ヲ変へ、俗ヲ易フ、コレスナハチ日本ノ人ト謂フベカラズ。ソノ我ガ境二来往スルヲ許スベカラズ。 船隻二騎スル所、若シ日本旧様ニアラザレバ、スナハチ、亦、我ガ境二入ルヲ許スベカラズ。﹂︵原文、漢 文︶ 西郷隆盛の征韓論の動機を、士族集団の不平を外征によつて解消しようとする、侵略主義とする説が、戦後と くにいちじるしい。ノーマンの﹃日本の丘ハ士と農民﹄などマルクス主義史観による日本近代論の影響も大きい。 西郷が征韓論についてまとまつた所説をのこしてゐないから、臆説が生まれるのであるが、六月十二日の廟議で 26
西郷が主張したことは、平和使節として大使を派遣し、副島種臣といふ教養人の外務卿をさし措いて、自分がそ の任に当ることを懇請したことである。 この日の閣議の出席者は、太政大臣三條實美をはじめ、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬 任、江藤新平ら六人の参議である。このうち、板垣、後藤、江藤が西郷に賛同し、大隈ははつきり反対した。彼 の反対の論拠は、留守政府が岩倉全権一行と約束した手つづき論であり、大久保から依頼された留守政府の監視 役をさうすることで果さうとしたのであらう。 一口に征韓論といつても、板垣のそれと西郷とはちがふ。板垣はただちに一大隊の兵を釜山に送つて修好条約 の談判をすべきだと主張した。西郷はこれにつよく反対した。陸海軍の派遣はさしあたつてやめ、責任ある全権 大使が正理公道をもつて韓国政府を説く、もしも相手が暴慢の挙に出て、殺害されるにいたつたならば、その非 を万国にあきらかにしてこれを討つべきである、といふ。 全権大使である以上、兵を率ゐ、軍艦に乗つて行くべきである、と三條が西郷の身を案じていふと、西郷はこ れにもつよく反論した。大使たるものは、烏帽子、直垂を着し、礼を厚くし、道を正しくして行くべきである。 身に寸鉄を帯びず、汽船に乗つて行くといふのである。 これは、韓国政府がいふところの、いまの日本人は﹁その形を変へ、俗を易ふ﹂といふ非難に正面から応へ て、旧日本人としての礼装をもつて行くことを意味する。維新、開国の新日本を代表しつつ、すくなくみつもつ ても日韓交渉三百年の歴史を背に負ふた日本人として行くといふのである。ここには西郷の文明観に根ざした思 想がある。西欧列強が﹁文明﹂の名のもとにアジア諸国に開国と通商を求めて行なつたやり方、軍艦と宣教師を 伴ひ、﹁野蛮﹂を征服するやり方を採らないのである。﹁実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、 27 草花の匂ふ国家(要約)
懇々説諭して開明に導く可き﹂︵﹃遺訓﹄︶である。 韓国の宮廷を支配してゐた大院君は﹁半島の猛虎﹂といはれ、フランス、アメリカの艦隊を江華島において撃 退して、その頑強な鎖国撰夷主義者としての名声は韓国民衆のつよい支持を得てゐた。大院君は、烏帽子、直垂 を着た巨漢が、礼を正し、道を説けば説くほど、彼が背負つてゐる文明開化日本との大矛盾をいかがはしく思ふ かもしれない。説得に失敗すれば、文明開化日本の孕む巨大な矛盾を一身に具現してゐるこの巨漢の全権大使に たいする更なる侮蔑と憎悪に駈られて、西郷を殺すか、捕へて辱かしめるかもしれない。虜囚の辱しめを受ける まへに西郷は自殺するつもりであつたと思はれる。彼は遣韓大使が自分に決まつたあと、別府晋介に頼んで短銃 を購入し、それを身につけて行くつもりだつた。護身用といふより自殺用の短銃だつたであらう。 ﹁副島君の如き立派の使節は出来申さず候へども、死する位の事は相調ひ申すべきかと存じ候。﹂ 西郷は死ぬつもりであつた。 八月十八日、三條が箱根に避暑中の天皇に遣韓大使の件を奏上し、御嘉納になり、その旨を西郷に伝へると、 西郷はたいへん喜び、弟従道の青山の別邸に移つて専心健康の回復につとめた。この頃、﹁朝鮮国二使スルノ命 ヲ蒙ル]と題する詩を作つてゐる。 酷吏去来シテ秋気清シ。 鶏林城畔涼ヲ逐ウテ行ク。 須ク比スベシ蘇武歳ノ操。 応二擬スベシ真卿身後ノ名。 告ゲント欲シテ言ハズ遺子ノ訓。 28
離ルト錐モ忘レ難シ旧朋ノ盟。 胡天ノ紅葉凋零ノ日。 遙カニ雲房ヲ拝スレバ霜剣横ハル。 漢の蘇武が旬奴に使節として行き、酷寒の地に捕はれて十九年苦節を持して、つひに帰るを得た。唐の顔真卿 が反徒李希烈のもとに使節として行き、殺された。この二つの古事を回想してゐるのは、殺される覚悟とともに 死に急ぐことはしまいといふ自覚を抱いてゐたのであらう。 西郷の征韓論について忘れてならないのは、それが対ロシアの南下侵略にたいする東亜経営の一環であつたと いふことで、征韓論は、征露論と切つても切り離せない。つまり、韓国と攻守同盟を結んでロシアに対抗すると いふのがその意図である。対露戦の戦略構想も具体的に抱いてゐた。 ﹁⋮⋮只今北海道ヲ保護シ、夫ニテ露国二対時相成ル可キヤ、サスレバ弥以テ朝鮮ノ事御取運ビニ相成リ、 ホツセツトノ方ヨリニコライマデモ張リ出シ、此方ヨリ屹度一歩彼地二踏込ンデ此地ヲ護衛シ、﹂︵酒井玄蕃 筆記︶ 右の記録は庄内藩士酒井玄蕃が、明治七年、鹿児島に行つて征韓論の顛末を聞いてこれを筆記したものであ る。 西郷の対露戦略構想を敷術していふなら、以下のやうなことにならう。1不幸にしてロシアと戦端を開くに いたるならば、この世界の強国にたいして正面から戦ふよりはむしろ奇襲戦法で戦ふべきである。すなはち、は じめから敵を国境︵北海道︶に待ち受けて兵火を接するのは戦争の常道ではあるが、そこで一敗地にまみれたと きは国家存亡の危機に陥る。したがつて、沿海州の南端、韓国と境を接する露領ポシエツト湾を攻略し、さらに 29 草花の匂ふ国家(要約)
アムール河の河口のニコライエフスクまで進出する。ロシアの反攻を支へきれぬときは、後退戦をくりかへし、 一防戦ごとに月日を費やし、本土決戦にいたるまでにすくなくとも数年を支へることができるであらう。 西郷は薩南健児を中核とする近衛師団の士族たちの士気をもつてすれば、さう簡単に敗けない自信があつたで あらう。なほ、彼の視野は、クリミア半島においてトルコの帰趨をめぐつてロシアと英国が対峙してゐる国際状 況を把握してゐた。英国を味方につけるならば、たとえ連戦連敗するとも、敗けるとはかぎらない。 以上の戦略論からしても、韓国大使派遣は急務といはざるをえない。この戦略構想が、三十年後の日露戦争の 予言的洞察でもあることはいふまでもない。大久保の慎重緻密な内治優先論と比較して、西郷の征韓論を粗大な 暴論とみなす説が、昔も今もあるが、それは当らない。 それに西郷の征韓論は、単に戦略論の次元でのみ考へるのは、この人物のこれに命を賭けた決意と、その決意 の基礎をなす国家理想を無視することになるであらう。 たとひ ﹁国の凌辱せらる﹀に当りては、縦令国を以て覧るx共、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。﹂︵﹃遺訓﹄︶ この国家理想に西郷は殉じようとしてゐた。 一方、大久保利通は、西郷との対決において、次のやうな現実主義的な政策論を抱いてゐた。 ﹁凡そ国家を経略しその彊土人を保守するには、深慮遠謀なくんばあるべからず、故に進取退守は必ずその 機を見て動き、その不可を見て止む、恥ありといへども忍び、義ありといへども取らず、﹂︵﹃意見書﹄︶ さらに大久保には、欧米列強がかつて日本に不平等条約を強ひたのとおなじことを、今度は日本が韓国にむか つておこなふのは、近代国家の道を行かうとしてゐる日本にとつて必然の行為であるといふ前提があり、それを 疑つてゐない。そして西郷の国家理想は、明治六年の征韓論の敗退を契機として、以後、国家経営の現実に二度 30
と課題として登場することはなかつた。それは在野の浪人や思想家の中に志として潜流した。 しかし、西郷が死を覚悟して遣韓大使の任に殉じようとしたやうに、大久保は西郷との対決において、 明治国家を身命を賭して保守しようとしてゐた。 劣弱な 付記 参看し、引用した参考文献の主要なものを挙げる。 ﹃西南紀伝﹄︵黒龍会本部編︶ ﹃大西郷全集﹄︵大西郷全集刊行会︶ ﹃西郷隆盛全集﹄︵西郷隆盛全集編集委員会︶ ﹃大久保利通伝﹄︵勝田孫彌著︶ ﹃大久保利通日記﹄︵大久保家蔵版︶ ﹃松菊木戸公伝﹄︵木戸公伝記編纂所︶ ﹃江藤南白﹄︵的野半介著︶ ﹃伊藤博文伝﹄︵春畝公追頒会︶ ﹃伊藤公全集﹄︵小松緑編︶ ﹃米欧回覧実記﹄︵久米邦武編︶ ﹃大久保甲東先生﹄︵徳富蘇峰著︶ ﹃明治六年政変﹄︵毛利敏彦著︶ ﹃醒めた炎1ー木戸孝允﹄︵村松剛著︶ ﹃翔ぶが如く﹄︵司馬遼太郎著︶ ﹃島津齊彬公伝﹄︵池田俊彦著︶ ﹃同時代史﹄︵三宅雪嶺著︶ ︵平成九年四月二十日稿︶ 31 草花の匂ふ国家(要約}