Tokyo University of Science
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前 田 辰 こ の永い間に先 生にお逢いで きた私達に とっ て、 先 生は 「明 月」 であ り 、
中
の東
海の山)
」で ある日数教
、 理数
研、若宮会
は淋
しさ 一色
に包
まれてい ます。大正
15
年5
月5
日に、兵庫県の地にお生まれ に な り、 終 戦後の混乱時 代の昭和22
年4
月 に、東京物理学校 第ご 部数 学科に入学 され ました。 敗戦後の衣 食住すべ て に事欠 く時代で 、電力 事情 も不 安定で夜の授業で の停電は致命的です。前
田先
生は同期の小泉真
悦氏 らと共に推
さ れて学
生委員
とな り、時
に は学 生服の服地の公平 な配分と その作業 の円滑
な運営
の指
揮、毎夜
の 停電
対策に自家発電の提案 を学校に交渉 するなど、 学生生活
防衛
にも学
習面同様に、 先 頭に立っ ておられた。 戦後の学制改革で
、東
京理科大学が 発 足し、 昭和25
年4
月に は 、 二 部数学科の第3
学 年に編 入学さ れ 、 昭和27
年3
月に 卒 業さ れ ま した。 (小泉真悦氏
よ り )卒業と同時に 、中央 区明正 中学 校教諭とし て奉職され、 い ろんな
境遇
や能力
の生徒達
に接し 、” どの ような生徒 も数学 好 きにさせ たい” と念願
し努力
されたことが、その後 の数学教育
に深 くか か わて い く出発点
とな っ た、重要
な時期
で あっ た と思 われ ます。 昭 和32
年4
月か らは東京都
立航
空工業高
等学校教諭に転 任し、 文 部省教科 用図 書検定審 議 会の 調査員を務め られ た。 続い て 「産業教育
」の指定校
とな る と、 研究課題
「創意
工 夫の能 力の 育成にっ い て 」の 数学 部門 を担 当さ れ、極
めて独 創的 な研 究成
果を発表され ました。 こ の頃の世 界各 国は科学 ・技術
の振興
・発達
の ため に教 育改革が すす め られて い たが、前
田先
生もこうした流
れを察知し て、高等 専門学校へ の昇 格に尽 力され ま した。 昭和37
年4
月に東 京都立航空工業専門学 校に昇格
し、 同時
に同校
助教授
、 そ して48
年7
月に教授に
な られ ました。 数 学教育
の 研究
に加
えて、 コ ンピュ ー タ数 学にも独 自に 学 習研 究 されて、 草 分け的存 在ともな られ ました。 さ ら に特
筆すべ きこと は、 学級担任 三先
生 を 偲 ぶ 記 若 宮 会 松 澤 正 夫平成
9
年8
月12
日に、東京都
立高等専
門学校名
誉
教授
、東 京経営短期大学教 授の前田辰三先生が逝 去されました。 享年71
歳で した。「明月 は帰 らず
碧
海に沈み
白雲愁
色蒼梧
に溝
つ 」ご葬 儀の後、
8
月16
日の朝 日新聞
”折
々の うた”に 、
李白の詩の転結部
分が 目に入 りました。「天の
原
、 ふ りさけ見
れば春 日な る三笠の山に出
で し月か も」で
有
名な阿部仲麻
呂は 、遣
唐留学 生として玄 宗
皇
帝に仕え、 李 白や 王維 らの大詩 人とも親交を結 び、 兆衡の中国名 も持っ 、
古
代 国際
人の筆頭
とい える人である。 日本へ の帰国
船
が暴風の ため安南
に漂着
し 、結
局在唐半 世紀で没 した。 李 白がこの 難船の悲報に接し てよん だ詩とい う。 (大岡 信 ) 前田先生は数学教育に身を捧 げて 、 まさに半世紀、「
蒼梧
(伝説
一238
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryTokyo University of Science
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学 級担任を途中休 まずに、 連 続して受け持たれ まし た。 校務の中でも、 生 徒や父兄と 一