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インドネシアにみる統治スタイルの連続性 [Continuity in Indonesian Styles of Political Rule]

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東南 アジ ア研 究 12巻4弓・ 1975年3月

イ ン ドネ シ ア に み る統 治 ス タ イル の連 続 性

西

正*

Continuity in Indonesian Stylesof PoliticalRule

b

y

M asashiNISHIHARA

QualitiesofleadershipoftwoIndonesianpresidents,SukarnoandSuharto,often arecontrastedin suchtraitsas personality,professionalbackground,and national policy. Asapro-Communistrevolutionary,Sukarno'scharismaishardlysimilarto thatofhissuccessor,ananti-Communist,development-conscious"SmilingGeneral." Yetthereareatleastasmanysimilaritiesin,asdifferencesbetweentheirrespective stylesofgovernlng. Bothhavebeen intensely concernedaboutthe politicalunity ofthenationandhave usedtothisendthe ProclamationofIndependenceDay,the Constitutionof1945andthePancasila(fiveprinciplesofthestate).

A briefcontentanalysisOfthepresidentialspeechespresented annually on I nde-pendenceDay reveals,asisshowninthetable,astrikingly frequentuseofcertain keywordsandslogansduringbothSukarno'sGuidedDemocracy period(1959-1965) andSukarto'sPancaSilaDemocracyperiod (1966todate).Sukarno'sattachmentto "revolution"andSuharto'sconcernfor"developmentHbothhavebeenfashionedinto slogansandacronynlS,thusintosymbolsofgovernmentalperformance. Theposト 1965PancaSilaDemocracyandthepre-1965GuidedDemocracy,insubstance,differ onlyslightlyfrom eachother.

Continuity alsocanbeobservedinthemanagementOfgovernmentalandpolitical apparatus. Rule by the Javanese majorityhasbeen a fundamentalprinciple of lndonesian politicsfor the lastthree decadesofindependence,and with thishas comeanextremesensitivity tobalancingpowerbetweenJavaneseandnon-Javanese forces. Sukarno'SconceptofNASAKOM has prevailedin Suharto'sideaofthree politicalgrouplngS:Golkar,theIndonesianDemocratic Partyandthe Development UnityParty, Bothleadershaveattemptedfurthertoturnthebureaucraticapparatus intoaconvenientmachinetosupportandtopromotegovernmentideology. Finally, thepre-Gestapu and post-Gestapu presidents,notbeingabletouseeffectively the massivegovernmentbureaucracy,haveresorted to"extra<onstitutional" meansto

accomplish theirobjectives,asexemplified by Sukarno'screation ofthe Natiollal Front,KOTI,andKOTOE,andSuharto'ssinlilarrelianceuponBAKIN forintelligence, OPSUSforpoliticaloperations,andKOPKAMTIB forsecurityandorder.

Thepersonalitycultof"PakHartoH is muchlessdistinctthanthatofHBung Karno.H Sukarno'suseofHakuH(the intimateform ofthe firstperson singular) appearsamazinglyofteninhis1965speecll,butincontrast,Suharto'Smorerecent effortstopresenthimselfasasymbolofunitymustnotbeoverlookedeither,Too,while *京都産業大学外 国語学 部

(2)

西原 :イ ン ドネシアにみ る統 治スタイルの連続性

Sukarno'sconcernfor himselfandhisnationledtotheconstructionofmonuments of''revolution,"Suhartohasfollowedsuitthrough hismonumentsof''developmentH: theincreaseofhotelsandentertainmentfacilitiesinandaroundthecapital.aswell asanilトfated "MinH ndonesia" projectsomewhatresemblingDisneyland.

Itmaybe wondered whether SullartO'S leadership willdraw closertothatof

Sukarno,ifheremainsin powerfora long period oftime. Itis impossibleto determinenow how hisstylewilldevelop. WhatseemsmorecertainisthatSuharto willcontinuetocreateslogansofunityand developmentand willresorttoextra -constitutionalaswellastoconstitutionalinstrumentsofconvenience.

は じ め に イ ン ドネ シ アが 独立 後 に隼 ん だ二 人 の大統領 は, 性 精 お よび政 策 にお い て対 照 的 で あ る とす るのが常 識 で あ る。 熱 弁をふ りま く笹命家 ス カル ノに対 して軍 人 ス- ル トは 「微 笑 む将 軍

巨 ご あ t), 隼命 イデ オ ロギ ーを説 く前 大統 額 に対 して現 大統 領 は イ デ オ ロギ -を否 定 L r開 発J を 唱 え,前者 が 容共 主義 で あ るな らば , 後者 は 反共 主 義 で あ るo Lか しこ :)Lた対 照性 に もかか わ らず

,

両 者 U)統 治 ス タイルに は 多 く0)点 で連続性 が あ る J √‖ニ見え る。 こU)小稿 は 統 治 ス

イル の連続性 を検討 し, イ ン ドネ シ アの統 治 ス タイル の特 徴 を と らえん とす る もので あ る。 エ リー トの統 治 観 や, 政 治過程- の対 応 ぶ りが か い まみ られ よ う

L

, 統 治者 の態 度が表 われ て くるだ ろF') 。 そ れ は統 治者 と被 統 治者 との政 治 的 コ ミュニ ケー シ ョンの姿 で もあ る。 ス カル ノ, ス- ル トの思 想 , 政 策 面 の研究 は比 較 的 多 いが,1'過 去 に おけ るイ ン ドネ シ アの 統治 ス タイル の研究 は きわ め て少 ない。2' フ ィー ス とキ ャ ッスル (モ ナ シ ュ大学 ) は, 1970年 に イ ン ドネ シ アの 政治 思想 を 集成す る ことを試 み, 1973年, B.ア ンダ- ソ ソ (コ- ネ ル大 翠 ) が , そ の試 み は 社 会 上 層 部 の政 治思 想 にか た よ-'てい る と批 判

て,一 般人 の政 治 的価 値

1) 主要な文献 としては次のものがあげ られる。 George M.Kahin,Nationalism and Revolution in Zndonesia,(Ithaca:CornellUniversity Press,1952);HerbertFeith,TheDeclineofConstitutional DemocracyinIndonesia,(Ithaca:CornellUniversityPress,1962):J.D.Legge,Sukarno:A political Biograbhy,(London:Allen Lane,the Penguin Press,1972);BernhardDahm.Sukarnoand ike StrugglcforIndonesianIndependence,(Ithaca:CornellUniversityPress,1969);PeterC.Haus・ wede11,日Sukarno:RadicalorConservative?IndonesianPolitics1964-5,"Indonesia,No.15(April 1973),pp.109-144;0.G.Roeder,TheSmuing General(Jakarta:GenungAgung,1969);Howard P.Jones,)ndonesia:ThePossibleDream (New York:HarcourtBraceJovanovich,Inc"1971): PeterPolomka,)ndonesiaSinceSukarno(Victoria:PenguinBooks,1971).またスカル ノの自伝 と

しては Sukarno,Sukarno:AnAuiobiogr(ゆhyAsToldtoCindyAdams(New York:Bobbs-Merrill,

1965)がある。

2) 例えば,IierbertFeith,"DynamicsofGuidedDenlOCraCy/〉inIndonesia.ed.RuthMcVey (New

Haven:HumanRelationsAreaFiles,1963),pp.309-409・,Feith,''Suharto'sSearchforaPolitical Format,"Indonesia,No.6 (October1968),pp.88-105;DonaldHindley,"DilemmasofConsensus andDivision:Indonesia'sSearchforaPoliticalFormat,"GovernmentandOpposition,IV:1(Winter

1969),pp.70-99を参照。

(3)

東南 アジア研 究 12巻4早 観 を探 り, そ うした価値観 が どうい うス タイルで伝達 され てい るかを論述 した。3'前者 は イ ン ドネ シアの政治思想 を思潮 のなかで分類整理す る努力であ り, その集成 に "ィ ソ ドネ シア的" な ものをみ た とす るが

,

後者 は "よ りイ ン ドネ シア的"な思想を,記 念塔 ,政治 マ ンガな どに 求め,そ うした イ ン ドネ シア人 の間接 的 な 政治 的 コ ミュニケ- シ ョソの特徴 を探 ってい る

。上

述 の文脈 でいえば, ここで論述を試み る 統治 スタイルは この両者 のいずれ の 視点 と も異 な,Lて) 浴,両者 を補充す Z)ものであZ);)o つ ま り,--

:

方でイ ン ドネ シアの政治思想 の持 ち主を ス カル ノ, ス-ル トの両者 に短

縮し,

他方 でそれをいかに国民に伝達 させ よ うと してい るかをみ る も のであ る。 t 統治スタ イルの概 念設定 統治 ス タイル とは, 一 国 の統治 エ リ- トが統治能 力を表 出す Z)形態 であ り,統治 目的を達成 す る手段で あ る。 統治手段は, 統治 目的に よって異 な -つて こよ うが, ここでは統治 口的を国民 統合 口的 と政 策遂 行 日的 u)二 次元 で考 え,4)統治手段 を シ ン′ボル と組織 とい う二つ の側面か ら 観 察 してみ たい。 国民統合 と政策遂行 とは決 して峻 別で きる次元ではな く,両者 は補充関係に あ る。 例 えば, 国土 防衛 とい う目的は防衛政策 とい う要素 のみ でな く, 国民を統合す る要素 も あわせ持 ってい るのであ り, また革命遂行 とか 開発促進 とい う国家 目標 も同次元 の 目的を満 た す ものであ る。 しか し経済政 策 の立案遂行は, どち らか といえば政策次元の 目的で あろ うし, 愛 国心高揚 は国民統 合次元 の [川勺であろう 。 これ らの 目的を遂行す るにあた って, 統治 エ リー トは いか な るシ ンボルお よび組織を用い よ うとす るで あろ うか。 一般 に統治 エ リ- トは, 非統治 エ リー トか らの信頼 を得 るために,統治 シ ンボル (非組織的手段)お よび組織 的手段 に頼 るのであ るが, そ のいずれを用い るかは,疏 治 目的やそ の国 の政治文化 に よって も異 な るで あろ う。 組織的手段 の効果が限 らjlてい る所 で は,統治 シ ンボルが よ り多 く動 員されが ちで あ る。 ここでい う統治 シ ンボル とは,単 に ス ロー ガ ンばか りで な く,威信事業 (prestige projects)の促進 や個人 崇拝 の奨励を も意 味 してい る。 組織 的手段 に依存す る場合 に も, 憲 法に規定 され た統治組織 にで きるだけ沿 うか たちで統治 し よ うとす る場合 と, 違 法でない と して も憲法 に規定 され ていない機 関,組織に重要な立法,香 政, 司法 の機 能を与 え る場合 が考 え られ る。 前者 を仮 に 日露法的手段」(constitutionalmeans) に よる統治 と呼べば

,

後者 は 「憲 法外的手段」 (extra-constitutionalmeans)に よる統治 と呼

ぶ ことがで きよ う。

3) HerbertFeithand LanceCastles,(eds.),Indonesian PoliticalThinking,1945-1965(Ithaca・. CornellUniversityPress,1970)および BenedictAnderson,"Noteson Contemporary Indonesian PoliticalCommunication,"Indonesia,No.16(October1973),pp.39-80をみ よ.

4) この二分については,たとえばJameSS.Coleman,"TheDevelopmentSyndrome:Differentiatio n-Equality-Capacity,=in Leonard Binder,etal.,Crises and Sequencesin PoliticalDevelopment

(4)

西原 :イ ン ドネ シアにみ る統 治 ス タイ/レの連続性 統 治 ス タイルを統治 の 目的 と手段 とい う二つ の軸 で と らえ る ことに よって, イ ン ドネ シアの 二人 の大統飯 を 比較検討す るのであ るが, ここでは ス カル ノ, ス- ル ト両政権を, それ ぞれ 「指導民主主義」時代

(

1

9

5

9

--

6

5

年), rパ ンチ ャ ・シ- ラ民主主嵐 」時代

(

1

9

6

6-7

4

年 )に焦 点をあ て,両者 が どうい う統治 シ ンボルを用い て きたのか, また ど うい う組織 を用 いて きたの か, そ の特徴 を探 らん と してい る。 この過程 で,毎年

8

月に行 なわれ る大統領 の独立記念演説 の簡 単 な内容分析 を行 ない, その結果 も参考 に してい る.lUなお本稿におい ては 両政権 の対外 政策 につ い ては扱 っていない。 イ ン ドネ シアの政治 を観 察 して, 政治 シンボルが頻繁に使われ るのに気 づかぬ ものは ない。 ス カル ノや ス-ル トが政策 や行事 の ス ローガ ン化を好む指導者 であ ることは,反

イ ン ドネ シ アの国民がそれ を好む 国民 であ ることを 意味 してい るのであ るが,そ の理 由を探 す のは決 して 容易 ではない。 国民一般 の教育水準が低 い場合, ス ローガ ンや耳 に響 きの よい語句は, 国家 目 標や政策 を理解 させ るには効果 あ る手段 であ るが, イ ン ドネ シア国民 よ り教 育水準 の低 い国民 であ りなが ら, ttス ローガ ン政治" のな され ていない国は多 くあ る。 統 治 シ ンボルは, 先 に述 べ た よ うに二 種類 の統治 目的に よってそれ ぞれ 国民統合 シ ンボル と 政策遂行 シ ./ボルが考 え られ る。 もっと も,与 え られ た シ ンボルがいずれ の部類に属す るかは 判別 し難 い場合 が多い。 ここでは

4

5

8

1

7

J

,r

1

9

4

5

年憲 法」

,

「パ ンチ ャ ・シ- ラJ

,「革

命」

,

「開発」

,

「指導民主主義」, 「パ ンチ ャ ・シー ラ民主主義

の諸語句を取 りあげ, い ちお う 「統合 シ ンボル」 と 「政策 シ ンボ

ル」

の区別は してい るが, 決 して一方 の 鋸 勺のみ のため の シ ンボル とい うわけではない。 とはいえ,政策 シ ンボルの カテ ゴ リーに入 る シ ンボルは, ス カル ノとス-ル トで対 照的であ る。 一方相対 的に統合 シ ンボルの カテ ゴ リーに入 るものは,両指導 者 に共通 であ る点は留意 され るべ きであ る。 統合 シ ンボル としての個人 崇拝 , また統合 兼政 策 シ ンボル として の威信事業 につ いては最 後 の章 で検討す る.。 組 織面 で の統治 ス タイルに も, イ ン ドネ シアの生 んだ二人 の大統領 には類似性 がみ られ る。 特 に次 の四点に しぼ って検討Lてみたい。 す なわ ち,第一 に, いずれ もジ ャワ人 支配 の原則 を 貫 きなが ら非 ジ ャワ人 勢力 との 均衡 を組 織 内で保 と うとし

い る こと,第二 に両者 と も既存 の 政治勢力を三 つ に ま とめて, そ の間 の協調 に よる統 治方式 を とってい る こと,第三 に両者 とも 官僚機構 を与党組織 の中核に お こ うとす る方式 を とってい ること, 第四に両者 とも建前 として は

4

5

年憲 法遵守 を唱いなか ら, 実際 の統治にあた っては憲 法に規定 され ていない機 関 を設置 し てそ こで重要 な立法, 行政,司法機 能を果 た させ てい ること, であ る。 前二 点は相対的 に国民 統合 のため の組織 に属 し 後二 点は政策遂行 のため の組織に属 してい るだろ う。 5) -政治体系の統治スタイルの研究においては指導者個人の特徴とその政権全般のそれとの区別ほ しが たい場合が多い。ここでもとりあえず,両者の区別をしないで扱 うこととする。 439

(5)

東南 アジア研 究 12巻4号

国民統 合シンボル

1

.

「17・V

u

・45」 (1945年8月17口) ス カル ノが創 出 した 国民統合 のため の 統治 シソボルのなかで 最 も重 要な ものは,「17・Ⅷ ・ 45」とい [)数字群 であろ う,,言 うまで もな く, こ′恒 ,tス カル ノ ・- ツタの民族独立運 動指導者 が独立 を宣 言 Lた

1

94

5年 8

月17日を表 ))してい る。)イ ン ドネ シアが オ ランダか ら正式に独立 し た 日

,

す なわ ち独立闘 争の到達 点であ った49年12月27日を無視 して, いわば独立闘争 の出発点 であ った1945年 の独立

言口を重視 した のは, スカル ノをは じめ当時 の指導者が意 識的に操 作 した と言 -)て よい o そ の後 「45年 8月17粧」は到 る所 で使 用 され てい るが,そ の典型 として国 章 の ガル ダ (ジ ャワ伝 説 に由来す る黄金 の ワシ) の羽 の数 をみ るのが よい。正式 には,両翼 の 羽は各17枚 , 尾翼 の羽 が8枚, 首 の羽が45枚措かれ るこ とにな ってい る

6

)また内務省 の省章 ってい るが, イネには45粒の コメ と8本 の フサ,17個 の綿 の実 と葉 がついてい ろ。7)ジ ャカル タには 「8月17日大学」 とい う私立大学 さえあ るo もちろん毎年8月17日は国を挙 げての祭

で,全 国各地 で盛大 な独立記念式典が くりひ ろげ られ るo ス カル ノ大統領 は恒例 の独立記念演 説 で聴衆 を熱狂 させ, そ の カ リス マ性 を存分に発揮 したのであ る。 さ らに この数字群は,1961 年 の経済

8

カ年計画発表 において そ の クライ マ ックスに達 した感が あ った。そ の計画書 は

8

部 17章1945項 (段落)か らな ってい ると発表 さjtたのであ る。8' 「8月17日」 の シ ソボル化は ス-ル トに も受け継がれ てい る。 ス カル ノの雄弁 と比較 され る ことを避け るためか, ス-ル トは恒 例 の独立 記念演説を民衆 の前 では な く, しか も独立記念 日 の前 日または前 々 日に国会 で行 な うとい う相違 をみせ ては い るが, そ の行事 の盛大 さは変わ っ てい ない。 また多 くの記章 のなかに も織 り込 まれ てい る。 例 えば,1971年総選挙 で初めて正式 に政治 の舞 台に登場 した翼賛組織 , ゴル カ-ルの記 章 も,45粒の コメをつけた稲 の穂 と,17個 主義 」 の象徴)を包 んでい る構 図 とな -)てい るo 2. 「ー1945年憲法

1945年8月に採択 され た ものであ るが,1959隼 7月, ス カル ノが大統領 令に よって正式 な憲法

6) 例 えば Indonesia,DepartmentofInformation,Indonesia Handbook 1970 (Jakarta,1971),p.9 をみよ。

7

)

さらに陸軍数略予備軍

(

KOS

TRAD)

の軍費では,45粒のコメと

8

本のフサのついた稲と

1

7

個の実 と

1

7

枚の葉の綿が措かれている。

(6)

西原 :イ ン ドネ シアにみ る統 治 スタイルの連続性 とす るまでほ暫 定憲法 であ った。 59年 以降 ス カル ノは 自己の大統領権限を この憲 法に依拠 して 強化 し, 併せ て45年憲 法を 唱導 す るこ とに よ-)て, それ を国民統合 の シ ンボル としたのであ る。 そ の後数年間 におけ る独立記念演 説 の申で ス カル ノが 「45年憲 法」 に言及 した頻度 の高 さ に よって もそれ を うかが い 知 る ことが で きる。 す なわ ち,59年には52回,6

1

年 には32回 も使 用 してい る。9) 一方, スカル ノの後任者 であ る ス- ル トに も同 じ傾 向がみ られ る。 大統領代行 とな って最初 に行 な った67年 8月の独立 記念演説 で ス-ル トは 「45年憲法」 に55回 も言及 してい る。 そ の後 頻 度は落 ち るが,69年 には16回,71年 には6回,74年 には25回 も使 用 してい る。1966年3月に ス カル ノか ら実質的に権 力を奪 った後, それ を正 当化す るため ス-ル トは 内閣幹部会議長 とし て ラジオ, テ レビ向け演説 を行 ない, 「国民 の責 の望みは, それ(45年憲法)の厳密 な施行に復 帰す る ことであ った。 -I-繰 り返 してい うが45年憲法 の実施は1959年以降効 力を得 た とされ な が らも,

9

3

0

日運動/共 産党分子に よって 序 曲か ら 終 曲 まで逸脱 していたのであ る.」 と述 べ て,彼 自身が45年憲 法 の正当な守護者 であ ることを合意 させ てい る。10) 3. 巨ミンチ ャ ・シ- ラ

(建 国五原則) rパ ンチ ャ ・シ- ラ

J

(Panca Sila) も国民統合 の シンボルの一つ とな ってい る。 これ は 日 本軍政末期 の45年 6月1日, ス カル ノ自身が独立 準備委員会 で テキス トな しに行な った演説が 基礎 にな った もので, 彼 の 自叙伝 には

--・何年 も何年 も,私は この ことを考 え続け て きた の だ。孤独 の フ ロ レスで 数 え 切れ ない時間 を一人 樹 の下 で熟考 し, この神 よ り賜 わ った イ ンス ピ レー シ ョンの実際 の構成 を, 私は tt五 原則" と呼 ぶ に至 っていた

と説 明 してい る。11'五原 則 であ る,唯一神- の信仰, 民主主義 ,民族主義 ,人道主義,社会主義 は,それ ぞれ高貴 な原 則 であろ うが, 相互 に次元 が異 な り, かつ内部矛盾 にみ ちてお り,論

一貫性 に欠け る もので あ る。それは 誰に も拒 絶で きない複数 の理 想を織 り込んだ,原則 の寄せ集め の感 じを与 え るが, 実 は これ こそ ス カル ノの 目指 した tt多様 のなか の統一" の基礎 とな った のであ る。 オ ランダか ら受け継 いだ広大 な国土 内に併存す るさまざまの民族, 文化,思想,宗教 を統合す るス p-ガ 9) こうした頻度を比較する際には,毎年の演説の長さが同じであることが前提である。実際には豪にみ るごとく長さに差異がある。 しかし 「革命

「開発

「経済」などに見 られるごとく,より短い演説によ り高い頻度をみせている場合もあるので, ここでは演説の長短を調整しないで議論をすすめる。

10) PresidentialOrderofllMarch1966ioGeneralSuharto(Jakarta:DepartmentofInformation, 1966;apecialissue002/1966),p.14をみよ。

ll) スカルノ 『スカルノ自伝-シソディ・アダムズに口述』 (黒田春海訳)(角川文庫, 1969年), p.258

をみよ01945年6月 1日のスカルノのパンチャ・シ-ラを提唱した演説のテキス トは,例えばSukarno,

"LahirnjaPantjaSila,"inTjamkanPantjaSilo/ed.PanitiaNasionalPeringatanLahirnjaPantja Sila(Jakarta:Panitia,1964),pp.7-34に収録されている。

(7)

東南 アジア研 究 12巻4号 ソが必要 で あ った。12)そ して この ス ローガ ンは意欲的に国民 の間に浸透 させ られ,45年憲法 と 不可分 の理 念 として把握 され るにいた った。13)先述 の国章 のなかで も, パ ンチ ャ ・シーラは, 星, バ ンテ ン (水牛), パ ンヤ ソ樹 , 鎖 の輪, 稲 と綿 が五 原則 の象徴 とな って描かjtてい る。 全 国浄 々滴 々の政府役所 をは じめ, ホテル,商店, レス トラソ, さては町隅 の道標 の横 な どに もこれが掲 げ られ た。 ス カル ノは59年,63年 の独立記念演説 では ほ とん ど 「パ ンチ ャ ・シ-ラ」 に言及 していないが,61年,65年ではそれ ぞれ17回 と18回 言及 してい る(1 他方 ス- ル トも同様 に パ ンチ ャ ・シー ラを国民統合 の シ ンボル としてい ることは 明 らかであ る。67年 の8月演説 では, なん と94回 も使 用 した ことが これ を裏づけ てい る。 無名の軍人 ス-ル トが ス カス-ル ノ長期政権 を武力で倒 したあ との 正 当性確立策 と しては

,建

国理念 の二大柱であ る45年憲法 とパ ンチ ャ ・シー ラを強 調 し, 軍 部 の 「二重機構 (国防 と政治参加

)

を擁護 し, 軍部が イ ン ドネ シア建 国精神 の正当 な後継者 で あ る ことを 誇示す る必要があ ったのであ る。14' ス カル ノ時代 には

6

1

日が 「パ ンチ ャ ・シー ラの 口」 とな っていたが, ス-ル トはそれを

9

月30日事 件 を粉砕 した10月1日に変更 した。15) ここに もス-ル トが彼 の 「新秩序」 をパ ンチ ャ ・シー ラに置かん としてい る意図が うかが え る。 また ス- ル ト政権T の国営放送は放送終 了時 に 「パ ンチ ャ ・シー ラの歌」 を流 してい ることで も, そ の シンボル性 が察せ られ る。 Ⅲ 政 策 シ ン ボ ル

1

.

「革命」 と 「開発」 ス カル ノとス-ル トは対照的な政 策 を遂行 してい る。 しか し両指導者 ともそ の政 策を シンボ ルに よって表わ し, しか も, さ らに重 要な点 とし, それを ス ロ-ガ ン化 (合 言葉化) してい る。 ス カル ノの 「革命」 (revolusi)とス-ル トの 「開発」 (pembangunan)がそれ であ る。 ス カル ノは 「革命」 な る語 を こよな く愛 した。 有 名な彼 の語句 「私は革命 の ロマ ソテ ィシズ ムに 恋す る人 々の一人 であ る。 す なわ ち,私は革 命 に よって鼓舞 され,私はそれ に よって魅惑 され

12) Kahin,Nationalism andRevolutioninIndonesiap.123をみよ。 スカルノが建国五原則を打ち出 したもう一つの重要な理由は,当時イスラム教勢力の主張 していたイスラム教国家樹立論に反論するこ とにあった.1959年以降スカルノはパンチャ・シ-ラをさらに強 く唱導するが,それについては例えば,

Sukarno,ToBuildtheWorldAnew (Jakarta:DepartmentofForeign Affairs,1960).pp.21-29 お よび Sukarno,ReflectionsupontheIndonesianRevolution(Washington:EmbassyofIndonesia, 1964),pp.9-10を参照。

13) 事実,五原則は1945年憲法の 「前文」に組み込まれた。

14) これについて筆者は先に軍部の国家統一能力との関連で論述を試みた。西原正 「インドネシア<新秩 序>とその政治的近代化

『東南アジア研究』11巻2号 (1973年9月),pp.175-177をみ よ。軍の 「二 重機能」については,例えばA.H.Nasution,ABRZPenegakDemokrasiUUD45 (Jakarta:Seruling Masa,1966)をみ よ。

15) 1967年には,まだ6月1日になっている。ス-ル トのパンチヤ・シーラ記念演説に関しては,例えば PidatoPd.PresidenRebublikIndonesiaPadaPeringaianHariLahirnJ'apanijasila,1Djuni1967 diDjakarta(Jakarta:DepartemenPenerangan,1967;PenerbitanKhususNo.454)をみよ。

(8)

西原 :イ ン ドネ シアにみ る統 治 ス タイルの連続性 る

が これ をいか ん な く裏 づけ てい る。16) ス カル ノ自身, 「偉 大 な革 命指導者 」 とい う称号 を 持 っていた し,

6

3

1

月に 国民治安措 置に関す る大 統領 諮問機 関を 「革 命指導 補佐会 議

(読 長 は ス カル ノ) と呼 ん だ。 また マ レ- シア対 決政策, 国内建 設 資金 として ス カル ノは

64

年政 治 基 金 を設 置 したが, これ に は 「革命基 金

(DanaRevolusi) とい う名称 が与 え られ ていた。 ス カル ノの腹心 (什 リ、スバ ン ドリオ外 相 も当時 「革 命的外交

J

を唱 えていた。 外 交 も 「革 命

的」

で なけ′狛 fな らぬ, と したのであ る.17)独

j

i

f

.記念演 説では ス カル ノは 当然 の こ となが ら 「革 命」 を頻 繁 に用 いた

。63

年 には

21

3

回 に のぼ ってい る。 さ らに これ と併 せ て

,

「闘争」

,

「火」 な どの動 的 な 用語 が ス カル ノ浜説 を色 彩 った。

5

9

年 以降 の演 説は 「われ らの革 命 の再 発 見

(

1

9

5

9

年)

,

r

1

7れ らの革命 の

遣J

(

1

9

6

0

年), 「革 命,社会 主義 ,指導 力

」(

1

9

61

年)

,

「イ ン ドネ シ ア革 命 の叫 び

」(

1

9

6

3

年), 「危険 を おか して生 きる年」

(

1

9

6

4

年) な どと題 が付 き,そ の多 く が

DJ

APEKJ

(

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年)

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年 )

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年)

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」(

1

9

64

午 ) な どに頭字 化 され, ス p- ガ ソ化 され てい った。18) それ に よって 「偉大 な革 命指導者 」 は そ の時 点で の イ ン ドネ シア人 民 (Rakyat)の tt革 命 " 的任務 を シ ンボル と して表現 した ので あ ilEJ /A o ひ るが え って, ス- ル 1、は 「開発」 を旗 印に登場 した。 彼 の独立 記念演 説 の内容分析 が これ を如 実 に措 い てい る

.6

7

年 以 降 「革 命J

,

「闘争」 の頻 度が激減 し,代 わ って 「開発」

,

「経 済」, 「実 行」 な どの語 の使 用数 が急増 してい る。 多 い と きには 「開発」 が

1

4

0

(

1

9

7

1年)

,

「経 済

84

(

71

年), 「実 行」 が

75

(

7

4

年 ) 用い られ てい るので あ る。 また

6

8

年10月に編成 され た 内閣 を 「開 発内閣」 (KabinetPembangunan)と命 名 した こ とに も, 「開発」 を ス ロー ガ ン化 し よ うとす るス- ル ト政権 の意欲 が読 み とる ことが で きる。 さ らに

6

8

年度 に始 まった

5

カ年計 画 を頭字化 して

REPELI

TA」

と してい る こと, ス- ル ト時代 の同国 の切 手 の大半 が

REPE・

LI

TA

を喧伝 す る ものであ る こと,

7

1年 か ら

7

3

年 にかけ て,政 党合 併 を推 進 し,従来 の政党 を 「開 発民主 グル - プJ, 「開 発統一 グル - プ」 の名で ま とめ てい る こと, な ど 「開発」 を愛 して い る点では, ス カル ノの 「革 命」- の陶 酔 に優 る と も劣 ってい ない 。19)

16) 1960年8月17日の独立記念演説におけるセ リフである。原文は,例えば Indonesia,PanityaPembina Djiwa Revolusi,Bahan-BGhdnPokokZndokirinasi,(Jakarta:B.P.Prapantja,1965),p.254をみ

よ。この邦訳は,B・グラント 『インドネシア現代史』 (駒城鋲-釈)(京都 :世界思想社,1968年),

p.70に従 った 。

17) 例えば Subandrio,"RevolutionaryDiplomacy,"inhisIndonesiaontheMarch,(Jakarta:Depart・ mentofForeignAffairs,1963),Vol.ⅠⅠ,pp.266-292をみ よ。また Frederick P.Bunnell,"Guided DemocracyForeignPolicy:1960-1965;PresidentSukarno Movesfrom Non-Alighnmentto Con・ frontation,HIndonesia,No.2(October1966),pp.37-76を参照。

18) この独立演説のなかでおそ らくもっとも重要なものは1959年演説で, スカルノはここで 「政治宣言」 (ManifestoPolitik) (おそ らくマルクス の 「共 産 党宣 言」を想像 したのだろ う) をだ し, これを Manipolと頭字化 した。 19) インドネシア国民党,インドネシア ・クリスチャン党,カ トリック党,ムルパ党, インドネシア独立 擁護連盟の5政党が開発民主 グル-プとな り,ナフグ ト-ル .ウラマ党, インドネシア ・ムス リミソ党, イソ ドネシア ・イスラム連盟党,イスラム教育連盟の4政党が開発統一グループとなったo もっとも, その後,1973年1月にそれぞれインドネシア民主党,開発統一党に改名 して今 日に至っている。 443

(9)

東 南 アジ ア研 究 12巻4号

2. 「指導民主主義」 と rパ ンチ ャ ・シ← ラ民主主義

「革命」 を完遂す る方法 として ス カル ノは 「指導民主主義」 (DemokrasiTerpimpin)とい う構想 を

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5

9

年に確立 した。 ス カル ノは, イ ン ドネ シア人には 古来特有 の決定方 法があ り,そ れは関係者全 員が会 して全会一一一致 (mufakat)に達す るた裾 二討議を重ね るムシ ャワラ ( mu-syawarah)(協議) とい う方法であ る, と した。 彼は, イ ン ドネシアが

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9

5

0

隼以降導 入 した西 欧的 な多数決主義原理 は 「半 数 プ ラス1人 」〟)意思が全体 の意思 とな る

原J

隼 こあ り, イ ン ドネ シア人 には適 しない のだ とした。 さ らに彼は ムシャ ワラ方 法には必ず強 力な り-・ダーが必要で あ る, とした。 こ うして西欧型民 主主義 を取 り入れた

1

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5

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年暫定憲法 を大統領に よ り破棄 し, よ り強 力な大統領権限 を規定 した

4

5

年憲法に復 帰す る措 置の理 由づけを行な ったのであ る。20' そ して この体制 を指導民主主義 とよび, そ の下 におけ る新 しい任 命議 員に よる国会を, ジ ャワ 村落 の伝統 的相互扶 助 の慣 習であ る ゴ トン ・ロヨソ (gotong-rOyOng)にちなんで, rゴ トン ・

ロヨソ国会」 と名づけ た。 独立記念演 説におけ るス カル ノの 「指導民主主義」 の言及頻度 の高 い こと, また

5

9

年演説 のなかでの 「ゴ トン ・ロヨンJ使 用回数 の多い ことが, これ らの政策 シ ンボル性 を物語 ってい る。 指導民主主義を打倒 したはず のス-ル ト政権 が, 基本的 には 同 じ性格 の決定方法を 「パ ソチ ャ ・シ- ラ民主主義」 とい う名の政 策 シンボル と して創 り出 したのは, 極めて興味 深い.21

)6

7

8

月の演説 で ス-ル トは 「パ ンチ ャ ・シー ラ民主主義 とは全会一致 に到達す るため の ムシ ャ ワラを意味す るのだ」 とい ってい るが,22)これは ス カル ノの指導民主主義 の説 明をその まま焼 き直 した ものに過 ぎない。 また スノ、ル ト体制 きっての ブ レー ンであ るア リ・ムル トポ陸軍 少将 (後述)が, 例 えば

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年 に 「イ ン ドネ シアには

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t

5

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%+1"

式 多数決であ る西欧型民主主義 は適 しない,

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5

0

%+1

+A,

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式 で なければ な らない」 と述べ て単純過半数制 を否 認 したが,23' これ もス カル ノ時代 の コピーにはか な らない。 そ して

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3

年に推 進 した政党合併 の過程や,国 会審議 で相当 の混乱 を起 こ した後,軍 部 の圧 力でや っと議決をみた婚 姻法 の成立過程 をみ ると, 指導 民主主義 とほ とん ど変わ らぬ体制 の よ うに見え る。

国民統 合のための組織方式 1. ジ ャワ人文配 イ ン ドネ シア政治 の一大特徴は種 々の次元, 特 に種族次元 の派 閥抗争 にあ る。そ の主 要な も

20) Sukarno,Sukarno:AnAutobiogr上砂hy,pp.278-279とみ よ0

21) Roeder,"ProblemsofLeadership,"inhisTheSmiling General,pp.154-164を参照。

22) 例 えば PidatoKenegardanPd.PresidenRepublikIndonesiaDjenderalSoehariodidepanSidang DPR-GR,16Agustus1967 (Jakarta:PradnjaParamita,1967),p.17,p.20をみよ。文中の表で は1969,71,74年の演説では 「パンチャ・シーラ民主主義」 の使用度はほとんど皆無であるが, 「パン

チャ・シーラ」と 「民主主義」を別個に使用している頻度は依然高い。 「民主主義」の頻度は71年には

15回,74年には10回であった。

(10)

西 原 :イ ン ドネ yアにみ る統 治 ス タ イ/レの連 続 性 のは人 口の7割 を 占め る ジ ャワ人 と非 ジ ャワ人 の問 の緊 張 で あ り,24'そ こでは ジ ャワ人 が常 に 主 役 に な るが, 非 ジ ャワ人 は脇 役 と して重要 な派 閥均 衡 の役 目を果 たす。 この両 勢 力 の均 衡 が 国民 統 合 に とっては きわ め て肝 要 な の で あ る。 よ く言わ れ る ご と く,1959年 までは ス カル ノと い うジ ャワ人 が 大 統飯 で あ った のに対 して, ス マ トラ出身 の- ッタを副大 統領 に してい た のは 典 型 的均 衡 人事 で あ る。 56年 - ッタが 副大 統領 を辞 任 して以来 , ス カル ノ時 代 には 彼 の後継 者 とな る ものは誰 もい なか った の で あ るが, そ れ を補 う均 衡人 事 と して, ス カル ノは1959年7月 ス マ トラ出身 の ナ スチ オ ン陸 軍 中将 を 国軍 参 謀長 兼 国家 治安 相 に昇 格 させ て い る。 ナ ス チ オ ン は ス カル ノ時 代 には ィ ./ ドネ シア国軍 とい う一大 政 治 勢 力 を代 表 す る実 力者 で あ -,た。 も っと もス カル ノは62年3月高潔 で反 共 主義 者 の ナ スチ オ ンを敬 遠 して彼 を 国 防治 安 部 門 調 整 相 に任 命 して陸軍組 織 か ら浮か せ , そ れ に代 わ って ジ ャワ人 の ヤ ニ陸 軍 少将 を 陸 軍 参 謀 長 と して昇 格 させ た。 さ らに1964年8月には ヤ ニを陸軍 司令官 と して起 用す るに至 った。 これ を もって均 衡 人 事 が 崩 れ た と一般 に され るので あ るが , 他方 , 勢 力均 衡 に気 を配 った ス カル ノで あ るか ら, ヤ ニ将軍 の昇 格 こそ が 種族 間 勢 力 の均 衡 策 で あ った と考 えた の だ とい う推 測 も成 り立 つ ので あ る。 この推 測 に よれば , ス カル ノは63年11月以 降, 副首 相 と して ジ ャワ人 の スバ ン ドリオ以 外 に非 ジ ャワ人 の - イル ル ・サ レ- (ス マ トラ人 ) と レイ メナ (ア ソボ ン人 ) を任 命 した の で, 勢 力均 衡 を させ るため 軍 の実 力者 と して ジ ャワの ヤ ニ 将軍 を 昇 格 させ た の だ, とす るので あ る。 ジ ャワ人 支 配 の原 則 は ス- ル ト時 代 に も受 け継 が れ てい る。 まず9月30日事 件 で ヤ ニが暗 殺 され た後, 国民 の尊 敬 を も っ と も 多 く集 め ていた とされ た ナス チ オ ン将軍 が大 統領 の地 位 につ か ず , ジ ャワ人 の ス- ル トが そ の地 位 につ い た のは , ジ ャワ人 支 配 の原 則 にはか な らな い。 そ して ナ ス チ オ ンが暫 定 国民 協議 会議長 に推 され た のは, ジ ャワ人 と非 ジ ャ ワ人 の均 衡 の必 要 か らで あ ろ う。 同 協議 会は

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6

,6

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,6

8

年 に会令 して ス カル ノ体 制 の清算 に重 要 な役 割 を果 た したのは 言 を また ない。 しか し ナ スチ オ ンの任 務 が い ちお う落 着 して ナ ス チ オ ンの陰 が 薄 くな る と, ス- ル ト大 統 領 は 自 らが兼 任 して い た 国 防治 安

の ポ ス トを ス マ トラ出身 のパ ソガべ ア ン陸 軍 大 将 に譲 って, 新 た に種族 間 の人 事 均 衡 に配 慮 した ので あ る。 こ うして非 ジ ャワ人 を高 い政 治 的地 位 につ け てお い て, 今 度 は長 期 間 空 席 とな っていた 副大 統 徽職 に73年3月 ジ ャワ人 で あ る- メ ソ ク ・ブオ ノ9世 を指 名 してい る。 また,197()年 の総 選 挙 法は , 国 会公 選 議 員数 を ジ ャワ島 と非 ジ ャワ島でほ ぼ 同数 にす る とい う画期 的 な 非 ジ ャ ワ人 へ の譲 歩 を行 った。25) こ う した 周到 な配 慮 は ス カル ノ時 代 と全 く変 わ ってい な い ので あ る。 この点は イ ン ドネ シアの統 治

24) ジャワ島と非ジャワ島との問の対立については,例えばJ.D.Legge,CentralAuthorityandRegional AutonomyinIndonesia,1950-1960, (Ithaca:CornellUniversityPress,1961)お よび LeslieH. Palmier,IndonesiaandtheDutch,(London:oxfordUniversityPress,1962)を参照。

25) 1970年総選挙法第2号の7粂 3項によれば,公選議 員総数は360人で,その うちジャワ島議 員は184人, 非ジャワ島議 員は176人である。ちなみに1955年総選挙で成立 した国会では,ジャワ島議員172人,非ジ

ャワ島議 員85人で前著が圧倒的多数を占めていた0

(11)

東南 アジア研 究 12巻4号 者 が国民統合 をほか るた め の組 織 上 の措置 のなか で もっ と も重要 な こ とで あろ {)。26)

2.NASAKOM

と三 大政党制 次 に政治 集 団に対 す る配慮 をみ てみ よ う。 ス カル ノ時代 の三 大政 治勢 力であ った イ ン ドネ シ ア国民党

(

PN

I), ナ フダ トール ・ウラマ党

(

NU)

, イ ソ ドネ シア共 産党

(

PK

I) に よるス カル ノ支持 体制 が ナサ コム

(

NASAKOM)

と呼ば れ た のは, あ ま りに も有 名で あ る。 この体制 を 支 えた ス カル ノ的思考 は典型 的 な折 衷主義 的 発想 で あ って, 相対立す る勢 力をすべ て抱 きこん で翼賛組織 を作 ろ うとす る もので あ った。 異質 の思想 的立 場 を もつ政 治 集団が均衡 状態 を保 っ てい る場 合 ,権 力保持 者 はいず れ の政 治 勢 力 も無視 で きず , 結 局三者 間 の協調体制 を強 い る こ とに な るので あ ろ う。27)具体 的には ス カル ノは ゴ トン ・ロヨソ国会や暫 定 国民協議 会,大統 税 諮 問機 関で あ る最高諮 問会議 な どの国家機 関に, この三 勢 力を代表 させた。28' 1965年 の9月30日事 件 は この三 大政党 の一 角, 共 産党 を一網打尽 に崩壊 させ, ス- ル ト政権 下 に 「新秩 序」 を誕生 させ た ので あ るが, この 「新秩序」 政策 の中に は政党 活動 の制 限 も入 っ ていた。 しか し

7

0

年 に入 る とス- ル トは 三 大政 治 グル ー プに よる政治体 制 を唱 えだ した。三 大 グル - プとは,(1)軍 部 の支配す る ゴル カ-ル (職能 団体),(2)国民党 そ の他 の民族 主義政党 に よる tt物質 面 開発 グル - 7p", お よび(3)ナ フダ ト-ル ・ウ ラマ党, イ ン ドネ シア ・ムス 1)ミソ 覚 (通称 パ ル ムシ) を 中核 とす る "精神 面 開発 グル ー プ" を指 していた.29) これ らの グル - プ は73年 には ゴル カール, イ ン ドネ シア民主党 , 開発統一 党 と呼ばれ るに至 った。 ナサ コム体 制 の三 大政 党 は1959年12月 の政 党 簡素化 令 に よって制 限 された10政党 のなか の3政 党 で あ った が, ス-ル ト政権下 では すべ て の国会議員 は三 つ の党 のいず れか に属す ことに な ってい る。 こ の点では三 大政党制 は ス- ル ト時代 のほ うが よ り徹底 して い る訳 であ る。30)それ を示す 例 と し

26) ス-ル ト政権の軍部内の派閥人事対策については,HaroldCrouch,=The`15thJanuaryAffair'in lndonesia,"DyasonHousePとゆers,I:1(August1974),pp.1-5が洞察ある説明を加えている。

27) このことはマ レーシアにおいても典型的な形相をみせている. 与党である連盟党 (AllianceParty)

とは,マレー人政党 (UMNO), 華人政党 (MCA), およびイ ンド人政党 (MIC)の連立政権である。

1974年8月には, この3政党にさらに6政党を抱 きこんだ国民 戦線を結成 して総選挙にのぞみ,見事圧 勝 した。

28) 1960年のゴ トン・ロヨソ国会成立時では,283議席中,政党関係は130議席を占めていた。その うち,

PNI議酷は44,NU議常は36,PKI議酌ま30であったolndonesia,DPR-GR,Sekretariat,Seperembat

AbadDewanPerれ・akilanRakjatRebublikIndonesia,(Jakarta,1970),p.243をみ よ.また暫定国民 協議会の副議長4人中3人は,PNI,NU,PKIの党首であった。 ちなみに4人 目は陸軍代表でここら に軍部のナサコム体制批判とスカルノ大統領の軍部-の譲歩の一端が うかがえる。最高諮問会議 も同様 に,その45人中6人は上記の3政党の幹部か ら出ていた。

29) 「物質面開発」

,

「精神面開発」の考え方は,すでに1967年になされている。 Pokok-PokokKebidjaks・ anaanKabineiAmperaSelandjuinjaSetelahSidang ZstimewaMPRS/1967danRentjanaPemb a-ngunanSelandjuin3'a,(Jakarta:DepartemenPenerangan,1967I,Penerbitan KhususNo.450),pp. 25-26をみ よ。 30) スカルノ時代にも国会には職能代表が相当数出ていた (1960年では全議席283中152)が, ス-ル ト時 代のようにグル-プとしてまとまっていなかったので, ここでは "泡末 グループ代表''として扱ってい る。またス-ル ト時代にはゴルカール以外に軍部代表が国会に出ているが, ここではゴルカールと一体 のグループとして扱 っている。

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4

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西原 :イ ン ドネシアにみ る統 治 スタイル の連続性 て イ ン ドネ シアの政 府系 の雑 誌 『イ ン ドネ シア ・マ ガ ジ ン』 の

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号 の表 紙 には, 「政治 構 造 の改革」 と題 して, 三 頭立 ての馬 車がそれぞれ ゴル カ-ル, 物質面 開発 グル - プ,精神 面 開発 グル ー プを代表 し, 国章 をに な っで 快走 してい る絵 が措 かれ てい るのは象徴 的 であ る。 ス カル ノもス- ル トも イ ン ドネ シアに お い ては二 大 グル - プの対立 は解 消 しに くいが,三 大 グル ー プで あれば 相互 の対 立 を 低減 させ る可 能性 が大 きい とい う共 通 の判 断 が あ る よ うにみ え る。 これ は先述 の イ ン ドネ シア式 民主主義 に もつ なが る考 え方 で あ って, 二大政党制 は

5

0

%

+1

」 を生みや す いが,三 大政党制 であれば

5

0

%+1

+X」

を生み 出 しやす い訳 であ る。

政策 遊 行 のため の組織方式

1.

官僚組織 の与党化 ス カル ノ大統 領 の出身政 党 で あ る 国民党 員は

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年前 半 では約

3

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0

万人 とされ たが,そ の中 核 は地 方 公務員 で あ った。 政 党 の組織 づ く りが 困難 な場合 ,既 成 の組織 で あ る官僚機 構 に 目を つ け るのは 当然 であ るか も しれ ない。 これ と併 せ て, 国民党 の戦 後 の歴 史 を回顧 してみ る と, 党組 織確立 の過 程 でかつ ては プ リアイ (priai), の ちにパ モ ソ ・プラジ ャ (pamong praja)と 呼 ば れ た 官吏階 級が 国民党 に 入党 して い った ことがわか る。8

1

) 1

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5

年 の 第- 回総選挙 にお い て, 最高得票 を得 た国民党 は, 官僚組織 の地 方末端 であ るデサ (村落) の ル ラ (首長 ) を抱 き 込ん だ ので ttル ラ党" だ とさえ呼ばれ るほ どであ った

.

8

2

) ス カル ノは

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年 以降,社 会 のあ ら ゆ る機 構 の改 造 (ttRetooling") が 必要 であ る と唱 え, そ の改 造 の対象 の一つ に官僚機 構 を入 れ た

。1

9

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5

年憲 法 と指導 民主主義 を支持 しない ものを 解 雇す る方 針を とった。 これ も官 僚機構 の与 党化- の重 要 な措置 とみ て よいであ ろ う.83) 他 方 ス- ル ト政権 も当然 統治す る組 織 を必要 と した。 そ のた め政権 発足 後た だちに既存 のイ デオ ロギ -指 向政 党 を否 認 して, まず 既 存 の tt望 ま し くない"組 織 の解体 に着手 した

3

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)1

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3

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2

日,共 産党 を非合 法化 した後, 国民党 左派 (ア リ ・サ ス トロア ミジ ョヨお よび ス ラ-マ ンに代表 され た いわゆ る

ASU

グル - プ) に対 して も活 動停 止 を命 じ, そ の過程 で

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3

0

日 事 件/共 産矧 謁係者 の摘 発 を行 な った ので, 多 くの国民党 党 員 もこの対象 とな った035)

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31) HerbertFeith,p.139および BernhardDahm,History ofIndonesiaintheTulcntieihCentury

(London:Praeger,1971),p.154をみ よ。

32) Feith,TheDeclineof.,p.432および Dahm,Historyof.,p.172をみ よ。

33) Legge,Indonesia,p.155をみ よ.

34) HerbertFeith,"Suharto'sSearchforaPoliticalFormat,"Indonesia,No.6(October1968),pp. 88-105を参照0

35) 1971年総選挙 で の投票権被剥奪老数は 2,123,747人にのぼ った。 Indonesia,Lembaga Pemilihan Umum,"DaftarW.N.R.I.jangtidakberhakmemilih,TiapDaerahTingkatldiSeluruhIndonesia,"

(mi meo),July29,1971をみ よQ この中には1965年 クーデター関係者,容疑者, 共産党員, 国民党左 派が含まれた。

(13)

東南 アジア研 究 12巻4号 2月に ス-ル トの肝入 りで 結成 された パル ムシも この反共主義路線に 沿 った ものであ った。 1966年か ら1969年頃 までは, 軍指導部は これ らの反共政党 と提携 して統治体制を固め ることを 一時考慮 した よ うであ るが,1971年 の総選挙 を控 えてその戦略を転換 し,1969年末か らは軍部 の育成す る ゴル カール一本で選挙 に臨む ことと した。 1969年12月4日, ア ミル ・マ- ム ッ ド内 務相は省令に よって地方議会 の職 能 グループ議員が政党に加盟す ることを禁止 してい る。1970 年3月の国民党全国大会,10月のパル ムシ全 国大会では, いずれ もス-ル トの側近 ナ ンバー ワ ンを もって任 じる 情報将校 ア リ・ムル トポ准将 (当時)の率い る特別工 作班 (OPSUS)の介入 を うけ て,軍部に都合 の よい党首を選出せ ざるを得 ない とい う羽 目に陥 った。 こ うした既成政 党 の弱体化工作 と併せ て, 軍部は ゴル カ-ルの強化に積極的に取 り組 んだのであ る杭 その中 心的強化策は, ゴル カ-ル構成員を官僚機構 内に求め ることであ った036'1970年末か ら1971年 初めには,地方役所,警察派 出所,自警団な どの tt職能"団体はすべ て ゴル カールに属す ること とな り,全 国の官庁舎前に ゴル カールの党章が掲 げ られた。 中央政府において も各 省 ごとに省 公務員連盟が結成 された。 それが統合 され て全 国公務員連盟がで きた のだが,そ の中核は総選 挙管理 の参謀格であ った ア ミル ・マ- ム ッ ド内務相 の率い る内務省公務員連盟 (KOKARME・ NDAGRI)であ った。総選挙 日 (71年7月3日)が近づ くにつれ 同連盟 の組織強化がな され た よ うで,公務員の家族 も ゴル カールに加入 させ られた。 また4月26日には ジャカル タの約2 万人 にのぼ る隣組長に よる大会が開かれた りした。 後者 の場合,地方 におけ る最末端行政長 で あ るル ラもゴル カール票を集め るよ う指示を上か ら受けた といわれた。 これは まさに1955年 の 選挙 で国民党がル ラ政党 といわれた ことと同 じであ った。 そ して選挙結果は予想 どお り, ゴル カールが公選議席総数360中,272議席,得票率62.8パ -セ ン トで圧倒 的勝利をか ち とったので あ った。 2.憲法外的組織 に よる統治 政策遂行 のための も う一つの組織方式 と して, 二人 のイ ン ドネ シア大統領が ともに1945年憲 法の遵守を唱えなが ら,憲法の規定 した機 関には 形式的権 限を与 え るのみ で,実質的権限は別 に設置 した機関に付与す る傾 向をみせてい る点があ る。 45年憲法下の大統領は規定 上は きわめ て強力権限を与 え られ てい る。 法律制定権 (拒否権を含む), 国務大臣任免権, 三軍最高指揮 権,緊急事 態宣言権 (この場合には法律 と同等の効力を持つ 大統領布告発令権 を伴 う)な どの 広範 囲な行政,立法権 を享受 してい る。 さ らに大統額は5年に一回開かれ る国民 協議会(MPR) に よって選 出 され るので,国会 (DPR)に対 しては強力な立場 で臨む ことがで きる。 国会は必

36) MasashiNishihara,GolkarandtheIndonesian Electionsof1971,(Ithaca:CornellModern lndonesiaProject,1972),pp.17-23;R.William Liddle,"Evolutionfrom Above:NationalLeadership andLocalDevelopmentinIndonesia,"JournalofAsianStudies,XXXII:2(February 1973),pp. 287-309;および R.WilliamLiddle,"The1971ⅠndonesianElections:A View from theVillageノ'

Asia,No.27(Autumn 1972),pp 4118を参照。

4

4

8

(14)

西原 :イ ン ドネシアにみ る統 治 スタイルの連続性 要 な らば大統領 の越権を制限す るため 国民協議会の臨時召集を要求す る決議をす る権利があ る が,今 までの ところ効果的に利用 された ことはない。600人か ら900人 に及ぶ構成員を持つ国民 協議会を迅速に開 くことは きわめて困難 であ るか らであ る。 しか もこの 5年任期 の大統 領は再 選を妨 げ られ ない。) これ らの権限があ りなが ら, ス カル ノは さ らにそれ を越 え る権力 を もっていた。1959年の大 統領令に よって非常事態を宣言 した後, 国会, 国民協議会の議員をいずれ も勅選議員 と し,大 統領 に対 して きわめて脆弱 な立場 におかせた。 国会 内の政党間 の対立 で議事審議が停滞す るの を避け るため ス カル ノは1960年6月政党関係議 員130人 に加えて,機能代表152人を任 命 して後 者 だけで も過半数を抑 え られ る方策を講 じた。 さらに国民協議 会 も翼賛的性格を ます ます強め てい き,1963年には スカル ノを 終身大統餌 とす る決議を採択す るに至 った。協議機 関内に利害 関係 のあ る個人や グル -プを くまな く招請す るのは, スカル ノの唱えた イ ン ドネ シア伝来の ム シャワラ式決定方式 の 実践 であ ったが, この方式が 次第に内閣に も 適用 されたのであ った。 1959年7月直前 の内閣閣僚数は28人 であ ったが, 7月の実働内閣 (KabinetKerja)で43人 と な り,64年9月の 「二大要求内閣」(KabinetDwikora)では77人 に,そ して65年9月には103

人 に達 し, tt百人 内閣" と通称 された。 ここに至 って内閣 も実 務処理 内閣 とい うよ りも,各分 野代表者会合 の性格を帯び るにいた った のであ る。 憲 法の規定す るこれ らの機 関の無能力を補 うため, ス カル ノは 自己の雄弁 に解決を求めた こ とは既述 の とお りであ る。 ス カル ノは さ らに組織面 で も, 国民戦線 とい うス カル ノ支持 の大衆 運動 と,腹心に よる内閣幹 部会,最高作戦司令部 (KOTI), 中央情報局 (BPI) な どの組織を 新設 して統治効果を上げ よ うと した。 国民戦線 (FrontNasional)とは,1960年9月に ス カル ノ大統餅を 最高責 任者 としてで きた 大衆組織で, 指導 され た民主主義に もとず き,1959年 の 「政治宣 言

(Manipol) を遂行す るための もので, 「物質的に も精神的に も 革命勢力の結 集 者」 とな り, かつ 「政府 とU)協力」 をすすめん と した もo)であ る. タテの組織 であ り, 9政 党,大衆団体,職能団体 を包折 してい る点, さらに活動資金 の相当部分を政府が補助 してい る 点で まさに翼賛運動であ った。 例えば 国民戦線は1962年3月には酉 イ リア ン解放闘争 を進め る ための 「三大 国民指令決起大会」, 同年

8

月には, ス カル ノの独立記 念 日演説 であ る 「勝利の 年 の訓示

(Takem)演説 に共鳴す る 「Takem 決起大会」が開かれた。37' ス カル ノは これを 結成 した時,いずれ政党に

たて上げ,一党独裁国家をつ

(

ることを考 え ていた といわれ る.38) ス カル ノ支持者は多 くあ ったが, 彼 の政治

での腹心は,サ レ-, スバ ン ドリオ, レイメナ の三人の[・甘首相であ .)た といわれ るo ス カル ノ自身, 自叙伝の 巾で 「私のす ぐ Fには副首相の スバ ン ドリオ, レイメナ,サ レー の三者 に よる内閣幹部会があ る。 彼 らは私 の助手 であ る。 間 37) 国民戦線については,例えば,石田雄,長井信一 (編)『インドネシアの権力構造とイデオロギ-』 (アジア経済研究所,1969年),pp.234-274をみよ。

38) Jones,Indonesia:ThePossibleDream,p.245をみよ.

(15)

東南 アジア研 究 12巻4号 題が起 った時 には, 私は まず幹部会を召集 して彼 らの意見を き く。J と述べ てい る039)

1

9

5

9

年 以降, 多数 の閣僚 をかか えて 能 率 の落 ちた 内閣を 補強す るためであろ うか, 内閣幹部会を設 け,

記三人 を 任 命 していた。 (サ L,-は

6

3

1

1月, ジ ュア ンダ の死 去後 に そ の地位 につ い た。)サ レ一, スバ ン ドリオには それぞれ ス カル ノの後継 を も くろんだ思惑が あ っての ス カル ノ接 近 であ った とされ てい るが, いずれ も強力 な権 限を与 え られたo サ L,-は鉱工業大臣兼郡 聞統轄大臣 (大 臣を統轄) を務 めたほか,

4

5

年世代」 グル ー プ議長 ,暫定 国民協議会議長 の 地位 につい ていた し, 国民戦線において も活発 な役割 を果 た した。40)スバ ン ドリオは

1

9

5

7

年以 来

1

9

6

6

年 まで外 相であ -)た。 そ の間,

1

9

6

0

年 以降情報局

(

BP

I)を設立,主宰 し,後述 の最高 作戦 司令部

(

KOT

I) お よび最 高経 済作戦 司 令部

(

KOTOE)

の副司令官を も兼ね (司令官はい ずれ もス カル ノ自身), イ ン ドネ シアの外交関係,対外経済関係,な らびに情報 関係を掌握 し, サ レー とともに大統領 の地位 を争 った。 最高作戦 司令部

(

KOT

I)は

,6

1

1

2

月に設置 され た 「酉 イ リア ン解放 最高 司令部」がその任 務 を完遂 した後

,6

3

7

月に改 名 された のであ る (大統領決定第

1

4

2

号)。

KOTI

は 国策 の最高 方針 の決定 と実施 の権 限を保有 していた。

KOTI

は,政治 ,経済,社 会,文化,軍 事 のいずれ の分野に しろ,大統領 があ る分野 を取 り上 げて

KOTI

の任務 に指定すれば,

KOTI

はその分 野 の最高決定機 関 として機 能 し うる ことに な っていた。41' 最高経済作戦司令部

(

KOTOE)

6

2

4

月に 設置 された もので, 経 済面におけ る調整統合, 企 画実施 の最高権限 を 掌握 してい た。42)後者 は

6

5

1

2

月解散 し,

KOTI

に吸収 され てい るが

,4

5

年憲法 の定め る内閣や国会 の機 能 が こ うした憲法外的組織 に完全 に移 っていた ことが分か る。43)既存 の統治機構 が手 の くだ し よ うのない位 に病弊 してい る場合, こ うして新 しい機 関を設け ざるを得 なか った のであ る。 ス カル ノの権 力は強 力であ ったが, 彼 が最後 まで コン トロールで きなか った政 治勢力は ナス チオ ンを筆頭 にお く軍 部の反共派 であ った。 この点では,軍部 出身 の ス-ル トはは じめか ら強 力 な権 力基 盤 の上 に立 つ利 点を もってお り, それが彼 の弁 舌の拙 劣 さを補 ってい る。 しか しこ の ことは ス-ル ト大統領 が 必ず しも憲法 の定 め る機構 にそ って統治 してい る ことを意味す るの ではない。 スカル ノと同様, 憲法外機 関に依存 してい る面 が多い。そ の もっとも顕著 な もの と 39) 前掲 『スカルノ自伝』p.375をみよ。 40) 一説によると,サ レーは,彼自身が 「指導民主主義」構想についてスカルノに基本的影響を与えたの だと主張 していた。Jones,Indonesia,p.434をみよ。 41) 東南アジア調査会 (編) 『インドネシア国軍について』 (東南ア ・中近東資料No.180)(1967年1月 6目付),p.1,4をみ よ。 42) KOTOEの最高司令官はスカルノ,

司令官はス/ミンドリれ レイメナ,サ レーの3人であった。

43) スカルノ時代のこうした機関は KOTI,KOTOEのほか, 国家開発企画機関 (BAPPENAS,1964年 設立,議長スカルノ,副議長スバ ンドリオ, レイメナ,サ L,-),辺境地域経済開発司令部 (KOPEDAI SAN,1963年設立,司令官スバンドリオ), 臨時行政監督司令官 (PEPELRADA, 1964年設立, 〔責任

者未確認〕),自力更生司令部 (KOTARI,1965年9月設立,司令官スカルノ)など,おびただしい機関 設立がつづき,その間相互の機能調整がどれだけ行なわれていたか全 く疑わ しいほどである0

(16)

西原:インドネシアにみる統治スダイJt/の連続性

して, 大統領補佐官制度

(

ASPR

I), 国家情報調 整本 部

(

'

BAKI

N)

, 特別工作班

(

OPSUS)

, お よび治安秩序 回復作 戦司令部

(

KOPKAMTI

B)

があげ られ る。

1

9

6

2

5

月,戦略予備軍

(

KOSTRAD)

の初 代司令官 に任命 された ス-ル トは

9

3

0

日事件 直後 の

1

0月

2

削 こ治安秩序 回復任務を与 え られ,

1

0

1

6

日には 国防相兼陸軍 司令官 に 任命 さ れ,急速 に 自己 の権限 を拡 大 してい った。 そ の過程 で ス-ル トは 自らの任務 を遂行 してい くた め に,数人 の補佐 官 を tt参謀" と して側近 においた

。1

9

6

7年 3

月, ス -ル トが大統俄代行にな った頃 には13人 の将校 が, いわゆ る個人参謀

(

SPR

I) として彼 の手足 とな って動 いていた。W 個人 ス タ ッフと しての任務 は 政策立案 ない し遂行 の 「補佐」 であ るべ きで あ るが, ス-ル トの 信望 を得 て次第 に政 策 「決定

に参画 しは じめた といわれ た。そ の うちの何人 かほ閣議 に も出 席 して

,単

に補 足的発言 だけ でな く, 閣議 決定 に影 響力を与 えだ した といわれた。個人 スタ ッ フはそ の段階 です でに, 実 質上 の内閣 と しての機 能 を果 た しは じめていた よ うであ る。 そ の後 68年6月に個人 補佐 官

(

ASPR

I) と改 名され 13人 か ら5人 に縮減 され たが,そ の権 限は依然 強力 な ものであ った。45)

ASPRI

は グル ー プと して 一体 とな って機能す る とい うよ りほ, 各人 が 自己の任務 を別個に 大統領か ら託 され て,遂 行 していた よ うだ。 なかで も著 名なのは政治情報 を担 当 した ア リ・ム ル トポ陸軍 少将 と,経 済問題 を担 当 した ス ジ ョノ ・フマル ダ ニ陸軍 少将 であ った。 と くに前者 は, 広範 な政治 ,外交分野 に あ って, 大統 領の抱 えた問題 を テキパ キ と処理 ,そ の政治 的手腕 を発揮 したので, 「将来 の大統 領候補

とまで うわ さされ てい るO先述 の ごと く,情報将校 出 身 の ムル トポは独 自の特別工 作

旺 (

OPSUS)

を組織 して

,1

9

71

年 の選挙前 には政 党新聞 な どの 親 ス-ル ト派工 作 を行 な った とされ てい る.46) おそ らくこの ポス トとcT)関連 だ と思われ るが, ムル トポは71年総 選挙 での選挙 管理 委員会

(

LPU)

の資材 調達 の責任 を も与 え られた。 さ らに 選挙 においては,与党 ゴル カ-ルの選挙 対策部長 も務めた。 こ うした トラブル ・シ ュ- メ- と しての任務 は ス カル ノ時代 に もあ った。 ス カル ノ時代 で は, ス カル ノ親 衛隊 チ ャクラ ビラ ワ連隊長 の モ- マ ッ ド・サ ブ-ル陸軍准将が この任 にあた り, ス カル ノはサ ブールを使 って 自分 の意思, 要望 を暗 に伝え させ るのを好 んだ といわれ, こ れ を人 はサ ブ-ル方式

(

Sa

bur

i

s

m)

と呼 んでいた と言われ る。47) 国家情報調整本部

(

BAKI

N)

も強力な権限を もってお り, スカル ノ時代 の スバ ン ドリオ外 相

44) Polomka,"InvisibleGovernment,"inhisIndonesiaSinceSukarno,pp.132-156を参照O

45) 1970年7月学生のASPRI抗議に対 してス-ル ト大統領は釈明し,個人補佐官は閣議に参麻しても, 発言することはないこと,個人補佐官は情報および見解の収集が主任務であって政策決定権がないこと を強調した。 しか しその後 ASPRIの権限の大きさに対する批判は止まず,その非難は74年1月のジャ

カルタ暴動で頂点に達 し, 1月28日ス-ル トはついにASPRI制度を解散するに至った。

46) もともと陸軍戦略予備軍 (KOSTRAD)の車にあ り,マレーシア対決政策の処理,東南アジア諸国連

合 (ASEAN)の結成に力があった。例えば Polomka,p.133をみ よ。

47) Polomka,p.135をみよOサブ-ルのスカルノ賞讃の一例として,Moch・Sabur,Bung KdrnOand fndonesia(Jakarta:n.pリn.d.)を参照O

(17)

東南 アジア研 究 12巻4号 が牛耳 った 中央情報局

(

PB

I) に対応す る立場 にあ る。48)長官は ヨガ ・スガマ陸軍 准将

(

1

9

6

9

-

7

0

年), ス トポ ・ユ ウ ォノ陸軍 少将

(

1

9

7

0

-

7

4

年 1

月), (そ の後再び ヨガ ・スガマが再任) 千 あ るが,ヨガ ・スガマは

SPRI

の メ ンバーであ ー)た。ついでなが ら,ア リ・ムル トポ も

BAKI

N

の副長官 の地位 にあ る。

SPRI

に属 していて, のちに ス-ル ト大統舘 の重 要な職 務についてい る者は このほかに も多 い。例えば スダルモ陸軍 准将

(

1

9

6

3

年当時) は 内閣 き錆己長 (内閣官房長官 に相当) に, アラム シャ陸軍 少将

(

1

9

6

8

年 当時)は国家書 記長 に任 命 された。 スル ヨ陸軍 准将

(

1

9

6

8

6

月当時) は財政担 当

ASPRI

にな った。 この よ うに腹心 の将校 を国家機構 の枢要 なポ ス トにつけ て きた ことは, スノ、ル トがいかに既存 の国家機構 の運 営 を困難 に感 じてい るかを示 してい る。 最後に治安秩序 回復 作戦司令部

(

KOPKAMTI

B)

も憲 法外的機 関 の一つ であ る。

9

3

0日

事件 のお こ した混乱を収拾す る ことを 目的 と して

65

1

2

月に設 置 され た同司令部は, そ の後同 事件 関係容疑者摘 発 の範 囲を広げ て,政 党,公 務 員の

思想

調査を しは じめた

。7

1年 の総選挙 で は候補者 の資格審査 を も担 当 した り

,1

9

7

3

年 の/ミソ ドン反華 商暴動や

7

4

1

月の ジ ャカル タ暴 動 の鎮圧 に あた った の も

KOPKAMTI

B

であ った。 こ うした警察機構 を無祝 して行動を とる

KOPKAMTI

B

が容疑者 を検挙す る と,主 と して特別軍事 法廷

(

MAHMI

LUB)

に よって裁判 す るが, この裁判 自体 も,本来は普通裁 判所 でな され て もよいはず であ る。 それ を軍事法廷 で 処理す る ことは,憲 法規定 の逸脱 であろ う。

1

9

7

3

3

月の国民 協議会は 「国家最

関」

の地位 と機 能 についての決定 (決議第六号) を し, この中で 「最高機 関」 とは,(こ1)大統領,(I))最高諮問会議

(

SDA)

,(C)国民議会 (国会),(d)

会計検査院,(e)最高裁 判所 であ る, と規定 してい る。49) この点か らみ て も, ス-ル ト政権下 の

ASPRI

,

OPSUS

,

BAKI

N

,

KOPKAMTI

B

な どが持つ権 限はそ こか ら逸脱 してい るよ うであ るo この決議 がな され て 後,

7

4

年 の

1

月暴 動があ り, そ の申での反政府批判 に 応 えて政 府は

ASPRI

を廃止 したが,

OPSUS

,

BAKI

N

,

KOPKAMTI

B

な どは依然 として確 固た る地 位を

占め てい る0

1

1

スハ

ル ト統治の将来 国民統治 シ ンボル,政策 シンボル, 国民統 合のため の組織,政策遂 行 のため組織 とい う四つ の観 点か ら,統治 ス タイルをみ る と, イ ン ドネ シアの生 んだ二人 の大統額 には類似点が意外 に 多い ことが分か る。 過 去の研究 においては, ス カル ノとス-ル トとの対照性す なわち彼 らの統 48) BPIは65年12月スバンドリオの指揮下か ら離れた後,66年 8月国家情報司令部 (KIN)と改組され, スノ、ル トがこれを掌握 した。その後,BAKIN とい う名で国防治安省にあった組織を69年12月大統領庖 属とした。

49) Indonesia,Departemen Penerangan,Ketetapan-KeteiaPan Majelis Permusyawaraian Rakyat RepublikIndonesiaTahun1973,(Jakarta:PradnyaParamita,1973),pp.114-115をみよ.

(18)

西原 :イ ン ドネシアにみ る統 治 スタイ7レの連続性 治能 力の非 連続性 が強調 されす ぎた傾 向が あ るよ うに思 え る(。 ここでは非連続性 を否定 す るの では な く,連続性 に注 目す ることに よ一)て イ ン ドネ シア政 治文 化 の一端 を さらに深 く理解 しよ うと した ものであ る。 これ を 要約すれば, (1)ス カル ノもス-ル トも同 じ統合 シンボルを用いて い る こと, (2)政 策 シ ンボルは 異な るが, 両人 とも政 治 用語 を頭 字化 し, ス ローガ ン化す る こと を常 套手段 と してい ること, (3)同 大統舘 とも ムフ ァカ ッ ト (全会一致 )に達す るため の ムシャ ワラ ン (協議)方式を 重視 し, 種

間 の派閥均衡に周到 な配慮 を してい る こと,(4)三 つ の政治 勢力 の存立 を歓迎 してい る こと, (5)官僚機構 を与党組織 の中核 と してい る こと, (6)いずれ も既 存 の行政機構 を充 分には駆使 で きず, 常 に新 しい機 関を設け て, コンセ ンサ ス創 りと政 策遂 行 を試み てい ること, な どであ る。 国民統合 シ ンボルを多 く使 用 してい る点 での連続性 か らいえ ば, かつ て フ イ- ズが ス カル ノにつ いてい った

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ほ, ス-ル トに もほ とん ど同 じ程度 で, あては まる よ うであ る

0

50) ここで見 た イン ドネ シアの統治 ス タイルは決 して イ ン ドネ シア特有 のそれ ではない。 どこの 統治 エ リー トもシ ンボルを用い て国民統 合を計 り, 政策遂行 を もくろむ ものであ る. フ ィリピ ンの マル コスは

1

9

7

2

年 の戒厳 令布告 とともに 「新社会」計画 とい うス p-ガ ンを唱導 して国民 統合 と政 策遂行 を試み, マ レー シアの ラザ ックは 「人種 間 の調

」を, シ ンガポールの 1)- ・ ク ヮソユーは 「多文化社会

J

を ス ローガ ンと して多民族 国家 の国内融合 の促進に精

を注いで い る。 また組織 面 で もイ ン ドネ シアの例は決 して特有 の ものでは ない 。 どこの政治体系 にお い て も統治組織 の形 式 と実体 とは異 な る ものであ る。 表 向 きの組織 とは 異な ・)た派閥に よってで きる よ うで実質的組織 が存在 す る ものであ る。 また既存 の官僚組織が政策遂 行の効果 を もた ら さぬ時,臨時 の組織 や機 関を設置す る ことは, よ く見 られ る現 象 であ る。 とはいえ, イ ン ドネ シアで ス カル ノ, ス-ル トの両政権 にわ た -'て連続 してみ られ る, こ う した傾 向の離著 さは,いか に説 明 され るべ きであろ うか. その第--は, イ ン ドネ シアが基 本 的 に歴 史の浅 い若 い国であ ることに求め られ よ う。独立後30年 しか ない広 大 な多民族 国 と してほ, 統治 の最大 の精 力を国民統 合に 集申せ ざるをえな くな り, そのため に政治 シ ンボルを頻 繁に使 用す るのであろ う。そ の第 二は, ス-ル トは ス カル ノの敷 いた基 本的 な統治 ス タイルの受継者 であ るとす る説 明であ る。 ス カル ノが独立 後20年間,特 に最 後の6,7年 に設け た基本 的 な統 治 ス タイルを, ス-ル トが打 ち壊 して新 たな ス タイルを生み だす よ りは,そ の多 くを継 承す る ことの利 点が大 きい と判断 したか らであ ろ う. もし国民 の被統治観 に変 化が なければ, 指導者 の統治観 もそれ に対応す るのか も-)とも効果的 な統 治 であろ う「) このいずれ の 説 明を とるに して も, ス カル ノ自身は どこに 自己の統治 スタイルを 求めたの か, とい う重 要な疑問が残 る。 スカル ノ自身は 「パ ソチ ャ ・シー ラ

につ いては, 本 稿に引 用 した ごと く, 「

年 も何年 も」考 え続 け て きた 後, さ らに オ ランダ植民地時代 の プロ レス島

50) Feith,TheDeclineof,pp.113-122をみよ.

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