次頁を見ていただきたい。 ここに一枚の写真がある。これは羽田海水浴場の開場記念に販 売された絵はがきである。 明治四十四年七月五日、京浜電気鉄道株式会社(現在の京浜急 行)が乗客誘致のために資金を投じて羽田海水浴場を開設してい る。 こ の 写 真 に は、 大 隈 重 信 が 主 と し て 写 っ て い る が、 「 報 知 新 聞社と提携し、同社の主催で、大隈重信や渋沢栄一など来賓を迎 え開場式を挙行」 した。この写真を掲載した 『月刊おとなりさん』 の 記 事 に よ れ ば、 「 開 場 式 で は、 実 践 女 子 学 園 の 創 設 者 で あ る 下 田歌子女史も演説した」とある。また、 『報知七十年』には、 「羽 田扇ヶ浦に、本社主催の海水浴場開場式を行ふ。大隈重信伯、澁 澤榮一男、下田歌子女史といふ當代第一流の顔が揃ひ、頗る豪華 な開場式であつた。それが人氣を煽り、十六日の藪入りには入場 者一萬を超え、羽田始まつて以来の壮観を呈した」とある。こう いう顔ぶれが開場式に祝辞を述べたことが、客の出足にも影響し たような書きぶりである。 大田区臨海部の余暇利用については、明治十七年の八景園の創 設に始まり、明治二十四年には、東京湾初となる大森海水浴場が 開設されている。明治二十七年以降、羽田地区に鉱泉街が形成さ れ、 保 養 歓 楽 地 と し て 発 展 し て い く。 そ れ ら の 評 判 も あ っ て か、 明治三十五年には、美子皇后が八景園内の加納子爵邸を訪れてい る。明治四十四年の羽田海水浴場の開設は、この地区の余暇利用 の頂点に位置する四箇所目の海水浴場として開設されている。 さて、次頁のこの写真、大隈伯から目を転じてよく見ると、卓 上 の 花 の 陰 に 一 人 の 婦 人 が 座 っ て い る こ と が 分 か る が、 ど う や ら、これが下田歌子であるらしいことが分かる。あふれるような 紳士諸氏で真っ黒に見える中で唯一の女性著名人、これが下田歌 子 で あ り、 常 に 歌 子 を 取 り 巻 く 光 景 で あ っ た。 下 田 歌 子 と は、 こ 1 2 3 4 5 6
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ういう風景の中を生きた 「當代第一流」 で 「豪華」 の一端を担う女 性 で あ っ た こ と を、 ま ず、 指 摘 し て お き た い。 下 田 歌 子 は、 明 治四十四年七月十日の 『読売新聞』 には、大きく 『婦人禮法』 につ いて 「下田歌子先生新著製本出来」 と実業之日本社の広告が載り、 人気の著者であることがうかがえる。 こ の 年 、 満 年 齢 で 下 田 歌 子 は 五 十 六 歳 で あ る 。 私 立 実 践 女 学 校 を 創 設 し て 十 年 余 、 渋 谷 を 拠 点 に 、 日 清 関 係 に 女 子 教 育 を 通 じ て 貢 献 、 清 国 の 女 子 留 学 生 を 受 け 入 れ た り 、 要 請 に よ り 蒙 古 カ ラ チ ン 王 国 ( 現 中 華 人 民 共 和 国 ) に 教 え 子 を 推 薦 し て 派 遣 し た り 、 日 英 博 覧 会 に 参 加 し 、 生 徒 た ち の 工 芸 作 品 を 出 品 し た り 、 歌 子 自 身 の 英 文 歌 集 を 発 刊 す る な ど 、 国 際 的 に 活 躍 す る 女 性 著 名 人 で あ っ た 。 つ ま り、 男 性 優 位 の こ う い う 写 真 に 代 表 さ れ る 社 会 を 生 き る、 もしくはこういう風景の中を生き抜くにおいて、男性でなく女性 でありながら、これだけの実績を示しつつ生きていくには、どん な 努 力 と ど ん な 配 慮 が 必 要 で あ っ た か、 ま た、 歌 子 は ど の よ う に 見られていたのかを考えさせる端緒となる写真である。 次 に、 下 田 歌 子 の 氏 名 を 入 れ て パ ワ ー ポ イ ン ト を ク イ ッ ク ス タ ー ト さ せ る と ソ フ ト は、 右 の ス ラ イ ド よ う な 資 料 を 自 動 で 作 る。筆者はタイトル以外に手を入れていない。このスライドによ ると、平尾鉐の生まれ年は嘉永七年となる。私たちは安政元年と 呼び習わしているが、これはどのように考えるべきなのか。 7 8
幸いにして「安政の大地震」についての議論がある。その日付 から推して 「嘉永」 なのか 「安政」 なのかというものである。湯村 哲 男 は、 「 過 去 の 被 害 地 震 の 和 暦 年 代 を 見 る と 改 元 に つ い て の 考 慮がされていない」とし、 「たとえば、 『安政元年の大地震』とい われている古今未曾有の大地震が発生したのは、安政年間ではな く、嘉永 7年 11月 4日であり、この大地震後 11月 27日に改元され て 安 政 と な っ た の で あ る。 し た が つ て、 通 称『 安 政 の 大 地 震 』 は 本来ならば、 『嘉永の大地震』 と称されるべきである」 と述べてい る。 な お、 添 え ら れ た 西 暦 で 見 る と そ の 震 災 日 は、 一 八 五 四 年 十二月二十三日となる。湯村に対し、神田茂は「本邦における被 害地震の日本暦の改元について」において「明治以前は大日本史 料 そ の 他 普 通 の 年 表 は 正 月 1日 に 改 元 を 遡 っ て い る 」 と 述 べ て い る。 「明治以前の改元は、詔勅に 『慶応 4年を明治元年とする』 と い う 意 味 の こ と だ け が 記 さ れ て い て 従 っ て 改 元 前 に 遡 り、 1月 1 日 か ら 明 治 元 年 と 呼 ぶ の で、 す べ て の 歴 史 年 表 は 1月 1日 か ら 改 元 後 の 年 号 を 採 用 す る 」 と あ る。 結 論 と し て 明 治 よ り 以 前 は、 一 月 一 日 に 遡 っ て 改 元 と な る の で、 大 正 以 降 の 改 元 と は、 「 別 の 取り扱いをすべき」 と 「慣例に従うべき」 ことに注意を促しつつ、 「 嘉 永 7年 11月 4日 の 大 地 震 」 は、 た と え 改 元 日 が 十 一 月 二 十 七 日であ っ ても、 「安政の大地震」 とよんで 「差支えない」 としてい る。この頃には、天皇の代替わりによる改元ではなく、天変地異 や 重 大 事 件 が 頻 発 す る と 改 元 を し て い た 経 緯 も あ る。 天 変 地 異 や、時代的に激動期に突入したことを重大視して「安政」を祈っ 9 10
ての改元であ っ たと推測される。 これに則ると下田歌子の誕生日とされるのは、安政元年「 8月 8日」 となるが、西暦に直すと確かに 「1854年 9月 29日」 とな ることも確認しておきたい。 ま た、 明 治 五 年 十 二 月 三 日 を も っ て グ レ ゴ リ オ 暦 の 明 治 六 年 一 月一日とし、旧暦の使用を改め、以降の和暦月日は現行西暦と同 じ に な る が、 そ れ ま で の 日 付 に つ い て は、 読 み 替 え が 必 要 で あ る。 た と え ば、 明 治 五 年 に 平 尾 鉐 は 宮 中 に 出 仕 し て い る が、 そ の 日 付 は 十 月 二 十 三 日 と な っ て い る。 後 年 の 資 料 も 当 時 の 辞 令 の 日 付 を 踏 襲 し て い る よ う な の で、 新 暦 に 統 一 す る 場 合、 実 は 一八七二年十一月二十三日に該当するのではないかというような 問 題 で あ る。 旧 暦 使 用 に よ る 年 譜 上 の 日 付 の ず れ を 新 暦 に 修 正 し、統一していく作業の必要性が生じていることも併せて指摘し ておきたい。 年 譜 作 成 の 観 点 か ら 津 田 梅 子 関 係 資 料 に あ た る こ と が 多 い が、 下田と津田関係資料とを照合すると食い違いも発生する。たとえ ば、 下 田 歌 子 の 桃 夭 女 塾 創 設 に つ い て、 『 津 田 梅 子 文 書 』 や 山 﨑 孝 子『 津 田 梅 子 』 の 年 表 で は、 明 治 14年 と な っ て お り、 他 に も こ れを踏襲する論文があるが、たとえば、実践桜会が長年配布して きた 『下田歌子小伝』 (以下 「小伝」 とする) には、明治 15年 「私立 桃夭学校を創設して、上流子女の教育に当たる」とある。この違 いのもとにあるのは、おそらく 『下田歌子先生伝』 (以下 「先生伝」 11 12 13 14 とする) であると思われる。 「先生伝」 では、以下のような記述が ある。 明治十四年、辛巳の歳の某日、先生はさうした周囲の慫慂 と懇望もだしがたく、意を決してまづ蹶起した。そして別に 業 々 し い 看 板 こ そ、 玄 関 先 に 下 げ は し な か っ た け れ ど、 そ の 麹町區一番町の邸宅を、みづから「桃夭女塾」と呼ぶことに した。 しかし、 『実践女子学園一〇〇年史』では、 「時代の進展に伴っ て、東京や京都で私立の女学校や女塾が次第に設立されるように なり、自分たちの子女も含めて新時代にふさわしい女子の教育を 有能な女性教師の手に託したいという要望」と「平尾家の生計維 持」 という 「家庭内の事情」 から明治十五年に麹町区一番町に住居 を移し、同年三月に「下田学校開業上申書」を提出し、六月に校 名を 「桃夭学校」 と改称したと述べている。本学には、前述の 「下 田学校開業上申書」 と「学校名称改定届」 が保管されており、事実 関 係 は こ れ に よ っ て 確 認 で き る。 し か し な が ら、 長 年 下 田 研 究 の 基本とされてきた「先生伝」に依拠したと考えられるものについ ては、このような違いが発生しているのはやむを得ない。 さ て、 津 田 梅 子 関 係 資 料 と の 照 合 作 業 に よ っ て、 津 田 梅 子 と 下 田 と の 接 点 や 関 係 を 改 め て 知 る こ と が で き る。 二 人 が 出 会 う の は、明治十六年十一月三日のこと、同年十一月二十八日に鹿鳴館 15 16
開館を控えた欧化政策が強力に推し進められている時期に、井上 外務卿官邸で開かれた天長節の夜会において、当時十九歳の津田 梅 子 は、 伊 藤 博 文 を 介 し て 当 時 二 十 九 歳 で あ っ た 下 田 歌 子 に 紹 介 さ れ る。 そ の 後、 津 田 は、 伊 藤 博 文 の 招 き に よ っ て 伊 藤 邸 に 客 分 として滞在し、英語や社交の振る舞いなどを教授していた時期が ある。前年に桃夭女塾を開いたばかりの下田歌子は、英語教育の 重 要 性 を 十 分 認 識 し て お り、 桃 夭 女 塾 の 英 語 教 師 に 津 田 を 懇 望、 伊藤博文の仲介で、津田梅子は明治十七年二月から桃夭女塾で英 語を教授する傍ら、歌子にも英語を教え、代わりに歌子から日本 語 や 習 字 を 習 う こ と に な っ た。 ま た、 こ の 桃 夭 女 塾 の 最 初 の 入 門 生 の 一 人 で あ っ た 辻 村 靖 子 は、 津 田 梅 子 が 後 年 私 塾 を 開 い た 折 に 国語教師として招かれている。 さ ら に 、 華 族 女 学 校 の 開 学 に つ い て 、 山 﨑 孝 子 は 、「 梅 子 が 伊 藤 家 に 滞 在 中 に 宮 内 卿 に 任 ぜ ら れ て い た 伊 藤 と 、 彼 の 意 を 受 け 奔 走 し た 下 田 歌 子 」に よ っ て い る こ と を 指 摘 し 、 明 治 十 八 年 の「 十 月 か ら 授 業 を 始 め 、 十 一 月 に 開 校 式 を 挙 げ た 」 と い う 。 下 田 歌 子 が 夫 猛 雄 を 明 治 十 七 年 五 月 二 十 三 日 に 亡 く し て か ら 、 あ た か も 四 十 九 日 を 待 っ て い た よ う に 七 月 十 日 、 再 び 宮 内 省 御 用 掛 を 拝 命 し 、 華 族 女 学 校 創 設 に 尽 力 を 始 め た の で あ る が 、 美 子 皇 后 の 意 向 だ け で な く 、 山 﨑 が 伊 藤 博 文 の 意 向 を 示 唆 し て い る こ と に は 注 意 を 払 い た い 。 山 﨑 は 、「 開 設 当 初 は 、 学 習 院 女 子 部 か ら 三 十 八 名 に 歌 子 の 桃 夭 女 塾 か ら 約 六 十 名 、 そ れ に 新 し く 入 学 し た も の も 加 え て 生 徒 数 は 全 部 で 百 四 十 三 名 で あ っ た 」 と し て い る が 、 前 17 18 19 身 で あ る 学 習 院 女 子 部 よ り 、 桃 夭 女 塾 か ら の 生 徒 が 多 い こ と も 含 め て 歌 子 の 尽 力 ぶ り が 目 立 つ 。 下 田 が 華 族 女 学 校 の 幹 事 兼 教 授 に 任 じ ら れ た 明 治 十 八 年 九 月 十 四 日 付 で 、 桃 夭 女 塾 の 生 徒 た ち の 移 籍 も 行 わ れ て い る 。 「 小 伝 」 の 華 族 女 学 校 開 設 の 項 に は、 「 幹 事 兼 教 授 に 任 ぜ ら れ、 校 長 事 務 を 代 行 す る 」 と い う 記 載 に な っ て い る。 こ れ は あ た か も 幹 事 で あ る か ら、 別 に 校 長 が あ る に も か か わ ら ず 校 長 事 務 を 代 行 し た よ う な 誤 解 を 与 え る 記 載 で あ る。 山 﨑 は「 初 代 校 長 は 谷 干 た て 城 き で 」「 そ の 後 ほ ど な く 同 年 末 に 内 閣 制 度 制 定 に 伴 な い、 谷 干 城 が 第 一 次 伊 藤 内 閣 の 農 商 務 大 臣 と な っ て 入 閣 し た あ と は 歌 子 が 学監とな っ て校長事務を代行し、翌々年一八八七年 (明治二〇年) に大鳥圭介が二代目の校長に就任した。 」と述べている。すると、 歌子が校長事務を代行したのは、谷校長が大臣の起用を受けたの で、 校 長 業 務 に 支 障 が 出 た か ら で あ る。 山 﨑 の 書 き ぶ り で 行 け ば、歌子が学監に任じられた明治十九年二月十日以降に校長事務 を代行したことになるが、それでいいのかどうか確認が必要にな る。しかし、山﨑の記述は、内閣の動きや人事など、下田歌子の 教 育 者 と し て の 歩 み に 当 時 の 政 治 が 密 接 に 関 わ っ て い た こ と を 明 確に伝えており、歌子が自覚していたか否かにかかわらず、政治 的 に は、 伊 藤 系 の カ ラ ー と し て 見 な さ れ て い た の で は な い か と い うことは、考慮していく必要がある。少なくとも津田梅子関係資 料は、 関わりのあ っ た周辺の人物の動きを立体的に記述しており、 このことは、下田歌子を自立した女性の先駆者として捉える上で 20 21
も非常に重要な視点である。歌子は、当時活躍した他の女性たち と 同 様 に ス キ ャ ン ダ ル 等 に 巻 き 込 ま れ る こ と も あ っ た が、 こ れ に ついても政治力学が絡むのであれば、その意図や狙いはさらに分 かりやすくなるであろう。 ま た、 真 辺 美 佐 に よ れ ば、 「 明 治 二 十 年 一 月 十 七 日 に は、 皇 后 に よ っ て『 女 子 服 制 に 関 す る 思 召 書 』 が 内 閣 各 大 臣・ 勅 任 官 及 び 華族一般に示達され」 、「明治十九年の鹿鳴館における天長節の夜 会をはじめ、これ以降に行われた夜会・宴会では、皇族妃はじめ 参集したほとんどの婦人が洋服を着用した」と指摘している。そ の際、真辺は、村松梢風の 『女傑伝』 を参考に 「それらの夜会・宴 会 に は、 『 社 交 界 の 女 王 』 と 形 容 さ れ た 華 族 女 学 校 学 監 下 田 歌 子 も、毎回のように洋装して出席していた」という一文を加えてい る。下田が「豪華」である理由は、このようなところにもあると 考えられる。 政治力学の問題と関わるのが、大庭みな子が資料とした梅子の 書 簡 で あ る。 そ こ に は、 「 た だ 女 を 悪 者 に す る 風 潮 に、 梅 子 は 不 快な面持ちである」と述べていて、たとえば一八八七年三月十六 日付書簡を用いて、大庭は次のように述べている。 日本の男性は、素人の女には近づかず、女は正当な方法で は男性に近づくことはできない。これでは結婚の相手を自分 で見つけることは不可能である。社会は西欧化された新しい 女の生き方には厳しく、森有礼夫人や捨松や、下田歌子のス 22 23 24 キ ャ ン ダ ル に つ い て も と て も 信 じ ら れ な い と 梅 子 は 首 を 振 っ ている。 実際に下田歌子について触れた梅子の書簡に一八八六年十一月 二十八日付のものがある。この年の二月十日は前述の華族女学校 学監兼教授に任ぜられ、三月から明治二十年四月にかけて『国文 小学読本』全八巻九冊を編纂刊行している時期であり、日付の前 日に当たる二十七日付で正六位に叙されている。梅子も開校当初 か ら 華 族 女 学 校 の 英 語 教 師 で あ っ た が、 当 初 は 教 授 補、 翌 十 九 年 の二月、職制の変更に伴い一時嘱託教師となり、十一月には教授 に任ぜられ、奉任官六等年俸五百円を受けている。つまり、歌子 に と っ て 順 風 満 帆 に 見 え る こ の 時 期 に 梅 子 の 書 い た こ の 書 簡 は、 この時代の女性の生き難さを現代に伝えるものである。 下田夫人は病気で寝ています。彼女の病気の半分以上は世 間 の 噂 の せ い で す。 彼 女 は 気 管 支 炎 を 起 こ し て い る と か で、 気の毒なことです。彼女は有名人なので、そして政府の学校 の ヘ ッ ド で す か ら 敵 も 多 い の で す。 ゴ シ ッ プ は い つ ま で 続 く ことやら。 幸い捨松の噂は下火になりましたが、今では昔のように外 出もしなくなりました。大山将軍はまた地方に旅行中で、捨 松は子供たちと過ごしています。 25
この書簡の後半は大山(山川)捨松の消息であるが、大山元帥 の よ う な 有 力 な 夫 を 持 っ て い る 捨 松 で す ら、 ス キ ャ ン ダ ル に 巻 き 込まれ、いやな噂に悩まされる様子が書かれていて、ましてや特 に後ろ盾のない未亡人の歌子が、どれほど苦しんでいたかが分か る書簡である。梅子は十二月七日付でも日本女性のおかれた不幸 な立場を隠さずに書いていて、そこには歌子や捨松のことにも言 及がある。また一方、そういうことが発生する原因について「政 治 的 な 理 由 が も ち ろ ん あ り ま す 」 と 述 べ、 「 そ の 意 味 で、 私 が 伊 藤 家 に 長 く 留 ま ら ず、 伊 藤 氏 が 総 理 に な っ た の は 良 か っ た と 思 い ます。私は誰にも嫉妬や羨望の目で見られて悪口を言われること もなく、自分の道を進めて幸運でした」 と書いている。大庭は 「奉 任官待遇は下田歌子と津田梅子だけで、歌子は学監(梅子は副校 長という言い方をしている)となり、年俸千五百円かそれ以上と 言 う こ と だ っ た。 」 と 書 き 足 し て い て、 梅 子 の 言 う「 羨 望 や 嫉 妬 」 の中身に、身分地位だけでなく、女だてらに高額の給料をもらう ことについても示唆していると考えられる。つまり、下田歌子の 業 績 を 考 え る 際 に、 華 々 し い 業 績 の 光 の 部 分 だ け で な く、 時 代 を 先駆けていたが故の影の部分をも総合的に見て、きちんとすくい 上 げ る 必 要 が あ る こ と を 教 え ら れ る。 器 の 大 き な 女 性 で は あ っ た ろ う が、 万 能 で は な い 一 人 の 女 性 の 人 生 を 追 う こ と を 考 え れ ば、 下田歌子の光と影の両方を追うことが、男女共同参画社会への先 駆的開拓者の苦労として、新たに見えてくるものがあるだろうと 考えられる。 26 下 田 歌 子 を 考 え る 上 で、 も う 一 つ 重 要 な テ ー マ が あ る。 そ れ は 皇 后 と の 関 係 で あ る。 歌 子 は、 幼 少 期 か ら 和 歌 の 才 に 優 れ、 ま た 時 代 が 幕 末 か ら 明 治 へ と 大 き く う ね る と き に 生 を 受 け た こ と か ら、 奇 し く も 武 家 出 身 の 女 官 と い う 数 奇 な 道 を 歩 む こ と と な っ た。美子皇后との出会いから、歌子という名を賜り、女子教育に 目覚め、皇女教育のために欧米視察に出たことからさらに視野が 広 が っ て、 実 践 女 学 校 の 創 立 を 見 る こ と に な る。 下 田 が、 美 子 皇 后 の 女 官 で あ っ た こ と は よ く 知 ら れ て い る が、 貞 明 皇 后 と の 関 係 が、皇女たちとの関係とは別の意味で非常に重要であると考えら れ る。 原 武 史 は、 『 皇 后 考 』 の 中 で 貞 明 皇 后 の 難 し い 立 場 を、 ま た、男子にしか皇位継承がない故に軽んぜられる皇女たちのこと を書いているが、皇后の立場の難しさと皇室の近代化、並びに世 継ぎ問題と一夫一婦制の確立の難しさにも触れている。 大 正 天 皇 の 皇 后 節 子 は、 「 健 康 申 分 な し 」 と い う こ と で 選 ば れ た妃で、それ以前の伏見宮貞愛親王の第一王女禎 さ ち 子 こ と皇太子の婚 約 解 消 後 に 選 ば れ た が、 容 姿 に 問 題 が あ っ た。 見 た 目 の 問 題 よ り も皇子を生むことが重要だとの判断によると考えられ、歌子自身 の 評 価 も 驚 く ほ ど 消 極 的 で あ っ た こ と が 記 さ れ て い る。 こ の よ う な 歓 迎 さ れ な い 状 況 で 第 一 子 裕 仁 を 生 み、 第 二 子 を 懐 妊 し て か ら 「精神的落ち込み」 がひどくなり、原は、 「このとき、皇后美子 の分身として動いたのが下田歌子であ っ た」 と指摘している。 『皇 后考』に詳しいので、ここでは深く追わないが、元となる資料の 27 28 29
確認は必要である。このときに特筆すべきは、歌子が神功皇后の 講 話 を 行 っ た こ と で あ る。 皇 后 は 天 皇 と は 違 い、 生 ま れ な が ら に 皇后であることはできず、嫁して皇后となる身である。そしてそ の ロ ー ル モ デ ル は、 神 功 皇 后 や 光 明 皇 后 の よ う な 古 い 時 代 か ら と られている。また、原が指摘しているように、歌子が神功皇后の 何を強調して節子皇后に伝えたかも重要である。問題が大きいの で、稿を別に立てることを考えたいが、神功皇后については『愛 国婦人』に掲載された経緯もあり、板垣弘子編の『下田歌子著作 集』にも再録されている。これを契機として節子皇后と歌子の関 係が強くなり、節子皇后に対して裕仁も非常に神経を使う強い存 在 と な っ て い く こ と や、 乃 木 希 典 の よ う に 下 田 歌 子 の 影 響 力 を 嫌 う 人 々 が 出 て く る こ と に も 十 分 に 配 慮 し て 見 て い く 必 要 が あ る。 つ ま り、 美 子 皇 后 の 影 響 下 に あ っ た 歌 子 が、 華 族 女 学 校 で 教 え た こともある節子皇后に影響を与える存在に変わり、節子皇后が歌 子の力を得て、強い皇后に育つにつれ、さまざまな難しさを抱え ることになる。つまりはここにも政治的な力学が働くのである。 そのほか、現在の下田歌子研究の状況を文学的側面から概観す ると、小林修教授 ( 当時) によ っ て平尾鉐の和歌の力量と評判が明 ら か に な っ て き て お り、 宮 中 へ の 出 仕 に 至 る 経 緯 を 明 確 に す る も のともなり得ると考えられ、さらに「歌子」名下賜前後の状況も 明 確 に な り つ つ あ る。 し か し、 『 香 雪 叢 書 』 に お い て も 索 引 等 が なく、研究のための便宜が十分でない。創立一二〇周年を迎えて 30 31 32 も、 下 田 歌 子 が 美 子 皇 后 か ら「 歌 子 」 と い う 名 を 賜 っ た と い う こ と 以 上 に 和 歌 の 名 手 で あ っ た こ と に つ い て の 証 明 が 十 分 で な い だ けでなく、作品群を整理し切れていないのは、問題であり、今年 度は多くこの点についてのご指摘を受けていることを重く受け止 め、 研 究 所 全 体 の 課 題 と し て ほ し い と 願 っ て い る。 ま た、 本 学 国 文学科には、木俣修教授が在籍されていた時代もあり、その薫陶 の 下 に あ っ た 卒 業 生 に は、 是 非 読 解 の 面 で も ご 参 加 願 い た い。 さ らに、速記録が残っ ている下田歌子の 「源氏物語講義」 について、 こ ち ら は、 速 記 の 解 読 が 難 し い 状 況 が 続 い て い る の で、 さ ら に ハ ー ド ル は 高 い が、 A I の 進 歩 に よ り、 く ず し 字 が 読 め る よ う に なりつつある今日、速記についても読める可能性が生まれたと言 えると考えている。この先も諦めることなく、可能性を探り続け るべきであると考える。実践の国文学は、下田歌子の和歌と源氏 物語が源流にあり、そこから下田歌子が執筆した日本語学に関わ る も の、 女 性 の 生 き 方 や 歴 史 に つ な が る も の な ど 裾 野 が 広 が っ て いる。もちろん、下田歌子の学問的守備範囲は広く、家政学や人 間工学のようなものなど、文理をまたいで広く優れた見識を持っ て い る。 そ の こ と も 含 め な が ら 多 方 面 に わ た っ て 研 究 が 発 展 す る ことを望む。 本 稿 で は、 政 治 思 想 的 な 問 題 を 提 起 し て い る が、 下 田 の 関 わ っ た帝国婦人協会、愛国婦人会と、軍国主義の色彩の強い国防婦人 会との違いなども明確にしていかなければならない。戦争未亡人 に 対 す る 福 祉 や 自 立 支 援 な ど の 観 点 が あ っ た た め に、 下 田 の 亡 く
な っ た 昭 和 十 一 年 以 降、 国 防 婦 人 会 に 飲 み 込 ま れ た 可 能 性 は 考 え られるが、戦後の一時期、下田歌子について語り難い時代を持っ たことは、学園の不幸である。 そ の 他 、 歌 子 の 生 涯 に つ い て も 不 明 な 点 が 残 っ て い る 。 た と え ば 、 結 婚 時 期 の 問 題 や 下 田 資 料 内 に あ る 難 読 戸 籍 資 料 に つ い て 、 判 読 で き て も 事 情 が よ く 分 か ら ず 、 歌 子 の 養 子 の 存 在 も 明 確 に な っ て い な い 。 こ の よ う に ま だ ま だ 年 譜 上 の 問 題 も 多 く 抱 え て い る 。 節 子 皇 后 に は 神 功 皇 后 の 力 強 さ を 説 い た 歌 子 で あ っ た が、 歌 子 自身が好んだのは、春日局ではなかろうかという板垣弘子の口頭 での指摘もあり、まだまだ、解明されていないことが多く残され ていることを見定めながら、ひとつひとつ下田歌子の全体像の把 握に取り組んで行きたい。 注 1 『月刊おとなりさん』 (大田区の地域誌:2012年 2月 343号) p . 10 –11 。 な お、 こ の 写 真 の 掲 載 に つ い て は、 こ の 雑 誌 の 発 行 所 で あ る 株 式 会 社 ハ ー ツ & マ イ ン ズ、 西 村 隆 太 氏 か ら 許 可 を 得 て い ること、併せてこの絵はがきの提供者である石田晃浩氏の許可を得 ているものであることを明記しておく。 2 馬場信行「明治後期から昭和初期の京浜電気鉄道による羽田穴守海 水 浴 場 施 設 の 運 営 実 態 及 び 集 客 戦 略 の 研 究 」( 公 益 法 人 日 本 都 市 計 画学会 『都市計画論文集』 vol. 52 No. 3 2017年 10月) 3 前掲書「明治後期から昭和初期の京浜電気鉄道による羽田穴守海水 33 34 浴場施設の運営実態及び集客戦略の研究」 p. 359 4 前掲書 『月刊おとなりさん』 p. 11 5 青木武雄 『報知七十年』 1941年 報知新聞社 p. 55 「明治四十四 年=七月九日」 の項目記事による。 6 岡田智秀・横内憲久・福田朗大「海の利用の変遷からみた大田区臨 海 部 の ま ち づ く り に 関 す る 研 究 」( 『 景 観・ デ ザ イ ン 研 究 講 演 集 』 No. 6 2010年 12月) 7 『読売新聞』 東京版 明治四十四 (1911) 年 7月 10日 月曜日 8 「クイ ッ クスタ ー ト」 機能は、マイクロソフトの Office 365 に付加さ れ て い る 機 能 で あ る と 本 学 情 報 セ ン タ ー よ り ご 教 示 を 受 け た。 出 典 が ウ ィ キ ペ デ ィ ア で あ る の で、 二 〇 一 九 年 十 月 作 成 時 の も の で あ る ことも付記しておく。 9 『地震』 第 2集第 22巻(1969) 253 –255 頁による。 10 『地震』 第 2輯第 23巻(1970) 335 –336 頁による。 11 津田梅子の資料として目を通しているものは、 『津田梅子文書』 (津 田塾大学1980年) 、吉川利一 『津田梅子』 (昭和 5年 2月 婦女新 聞 社、 1 9 9 0 年 中 公 文 庫 )、 山 﨑 孝 子『 津 田 梅 子 』( 昭 和 57 ( 1 9 8 2) 年 7 月 吉 川 弘 文 館 )、 大 庭 み な 子『 津 田 梅 子 』 (1990、 2019年 朝日文庫) など。 12 前掲 『津田梅子文書』 年表 p. 546 、 前掲書、 山﨑孝子 『津田梅子』 p. 107 、略年譜 p. 296 、真部美佐 「昭憲皇太后と華族女学校
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設立 及改革に果たした皇太后の役割を中心に」 2006年 『書陵部紀要』 58 号 宮内庁書陵部 p. 44 13 「 下 田 歌 子 小 伝 」 は 昭 和 57年 実 践 女 子 学 園 が 制 作 し た 小 冊 子。 製 作 当初は学園が学生生徒に配布していたと思われるが、その後、一般 社 団 法 人 教 育 文 化 振 興 実 践 桜 会 が、 新 入 生 に 配 布 を 行 う よ う に な っ た が、 さ ま ざ ま な 問 題 点 が 指 摘 さ れ、 現 在 は、 配 布 さ れ て い な い。 漫画『きらり うたこ」が現在学園から配布されているが、 「小伝」 に換わるものはない状況にある。14 『 下 田 歌 子 先 生 伝 』( 昭 和 18年 10月 故 下 田 校 長 先 生 傳 記 編 纂 所 財 團法人帝國婦人協會實踐女學校内) p. 183 15 『実践女子学園一〇〇年史』 平成 13(2001) 年 3月 p. 12 –19 16 下田資歌子デ ー タベ ー ス、資料番号 876 ・ 877 17 前 掲 書『 津 田 梅 子 文 書 』 年 表、 前 掲 書、 山 﨑 孝 子『 津 田 梅 子 』 p. 107–109 前掲書、大庭みな子 『津田梅子』 p. 118 18 前掲書、山﨑孝子 『津田梅子』 p. 110 、略年譜 p. 296 –297 19 前掲書、山﨑孝子 『津田梅子』 p. 114 –115 20 前掲書、山﨑孝子 『津田梅子』 p. 115 21 加藤靖子 「華族女学校をめぐる政治」 『大学史研究』 第 28号(2019 年 11月、 大 学 史 研 究 会 ) に は、 も っ と 具 体 的 な 政 治 的 動 向 が 記 述 さ れているが、本稿締切後に著者より抜刷恵贈を受けたので、ここで は紹介に留める。 22 前掲書、真辺美佐「昭憲皇太后と華族女学校―設立及改革に果たし た皇太后の役割を中心に」 2006年 『書陵部紀要』 58号、 p. 48 23 奥田実紀 『タ ー タンチ ェ ッ クの文化史』 (2007年 白水社) によれ ば、森鴎外は 「タ ー タンを使っ て身分と性格をにおわした」 とし、そ の 例 に『 青 年 』 の 高 畠 詠 子 を あ げ て い る。 主 人 公 純 一 に と っ て、 詠 子 は、 「 偉 く、 賢 く 英 雄 の よ う に 思 え 」 る 女 性 で あ り、 そ こ で 用 い ら れ て い る タ ー タ ン は、 「 経 済 性、 地 位、 実 力、 流 行 の 先 端 を い く 東京を総合したまさにト ッ プの風格を表現している」 と述べている。 さ ら に「 明 治 期 の 」 タ ー タ ン は、 高 級 で 貴 族 的 な イ メ ー ジ で あ っ た 」 と述べている。高畠詠子は、下田歌子がモデルであることを考えれ ば、やはり 「豪華」 であることが分かる。 24 前掲書、大庭みな子 『津田梅子』 p. 165–166 ・ p. 168 25 前掲書、山﨑孝子 『津田梅子』 p. 117 26 前掲書、大庭みな子 『津田梅子』 p. 168 –170 27 原武史 『皇后考』 2015年講談社、2017年講談社学術文庫 28 前掲書、原武史 『皇后考』 p. 135 –138 29 前掲書、原武史 『皇后考』 p. 164–168 30 原は 『日本政治思想史』 (2017年放送大学教材) でも、同様の内 容を述べている。 ( p. 170–172 ) 31 小林修 「下田歌子の宮中出仕と 〝歌子〟 名下賜についての覚書」 『歌 子』 第 19号(加藤裕一教授退職記念号) 2011年3月 32 小林修「下田歌子の宮中出仕と歌子名下賜前後の考察」 (『明治聖徳 記念学会紀要』 復刊 50号) 、小林修 「上京以前の下田歌子―父・平尾 鍒蔵筆 「己巳九月備忘の記」 より―」 『実践女子大学下田歌子記念女 性総合研究所 年報』 第 5号 2019年 3月 33 藤井忠俊 『国防婦人会―日の丸とカ ッ ポウ着―』 1985年4月 岩 波新書 34 原武史 『〈女帝〉 の日本史』 (2017年 10月NHK出版新書) には、 女 性 天 皇 や 皇 后、 女 性 権 力 者 に 触 れ る 中 で 春 日 局 も 項 目 に 上 が っ て いる。原が、終章で「なぜ女性の政治参加が進まないのか」という 項目を立てていることとともに、下田歌子を考え、日本の女性を考 える上で、大変興味深い問題である。 付記 本 稿 は、 二 〇 一 九 年 十 月 五 日 一 般 社 団 法 人 教 育 文 化 振 興 実 践 桜 会 の 秋 季 運営委員会講演会において、 「下田先生再入門」 と題して講演した内容に 基づいている。 (たかせ・まりこ /下田歌子記念女性総合研究所 兼務研究員・部門長 短期大学部日本語コミ ュ ニケ ー シ ョ ン学科 教授)
Utako Shimoda chronological history study from Umeko Tsuda material and others
TAKASE Mariko
The problems for thinking of Study of the chronological history of Utako Shimoda. First the name of an era and a problem of changing the name of an era. Second, the relation between a lunar calendar and a solar calendar. About the achievements about the 31-syllable Japanese poem (modern tanka) of Utako, proof is not accomplished enough this is not proved enough and there are also no indexes of her tanka. I also have to see the relation between Utako Shimoda and the empress of the Taisho Era as well as a relation between Utako Shimoda and the empress of the Meiji Period. From the news of Umeko Tsuda and Hirobumi Ito, I know movement of Shimoda. In addition, Shimoda might be rolled up in political movement. It’s possible to think Utako Shimoda had her own special viewpoint in the Meiji Taisyo period. We can say that she was a pioneer of gender-equal society.