小川未明の再転向 ――敗戦以後――
著者
増井 真琴
著者別名
MASUI Makoto
雑誌名
東洋大学大学院紀要
巻
53
ページ
21-34
発行年
2016
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00008803/
はじめに 本 稿 は、 先 に 著 し た「 転 向 者・ 小 川 未 明( 上 ) ―― 階 級 闘 争 か ら 八紘一宇へ」 (「日本文学文化」平成二八年二月) 、および「同(下) 」 (「日本文学文化」平成二九年二月刊行予定)の続編という位置づけ である。一連の論考において、私は、大正期、社会主義者だった小 川 未 明 が、 戦 中、 国 家 主 義 者 へ 転 向 し て い く 過 程 を、 彼 の 個 人 史・ 作品の両面を追うことで辿っていった。山中恒が「日本児童文学最 高の作家とされてきた未明の戦時下の言動は 「見てはならないもの」 とされたのである」 (『戦時児童文学論』大月書店、平成二二年一一 月)と指摘するように、従来、未明神話の陰に隠れ、断片的にしか 論じられてこなかった未明の「転向者」としての側面を通史的に明 らかにすることは、先行研究にない、意義のある作業だと考えたか らであ る (注1 ) 。 かいつまんで要約するならば、大正―戦中期の未明の転向は、大 きく三つの観点から特徴づけられるだろう。一つは、資本家階級と 労働者階級間の階級対立の認識が、天皇制イデオロギーたる家族国 家観によって、融解してしまった点。二つは、民衆の受難に寄り添 う反戦意識が、施政者目線のアジア・太平洋戦争賛美によって一掃 された点。三つは、資本主義批判の動機が、格差批判のヒューマニ ズ ム か ら 資 本 主 義 が も た ら す 人 間 性 の 堕 落 へ と シ フ ト し た 点 で あ る。いずれも、ダイナミックな路線転換と言える。 し か し な が ら、 未 明 の 転 向 は こ れ で 終 わ り で は な い。 戦 中、 「 苟 くも生を皇土に享けるものは一木一草と雖も皇土のために役立つべ き」 (「当面の児童文化」 「報知新聞」昭和一五年一二月一日~五日) と 天 皇 制 国 家 へ の 忠 誠 を 説 い て い た 未 明 は、 戦 後、 「 戦 争 が わ る い のだ!」 (「戦争は僕を大人にした」 「童話」昭和二二年二 ・ 三月)と 叫ぶ、反戦と民主主義の提唱者となっていく。あられもない状況追 随、あられもない「再転向」だ。本論が目指すのは、先の小論で触 れることができなかった、戦中―戦後の再転向の軌跡を、丁寧に跡 付けることに他ならない。
小川未明の再転向
――
敗戦以後
――
文学研究科日本文学文化専攻博士前期課程2年
増井
真琴
一、戦後民主主義の影響 大正期、 「正当なる権利によつて、 ブルジョアを脅威せよ!」 (「労 働 祭 に 感 ず 」「 時 事 新 報 」 大 正 一 一 年 五 月 一 日 夕 刊 ) と 階 級 闘 争 を 推 進 し、 戦 中、 「 八 紘 一 宇 の 精 神 こ そ、 全 人 類 を 救 ふ に 足 る も の で あ り ま せ う 」( 「 我 を 思 は ば 国 家 を 思 へ 」『 新 日 本 童 話 』 竹 村 書 房、 昭和一五年六月)と聖戦を礼賛していた小川未明だが、戦争に負け ると、今度は反戦と民主主義の旗振り役となる。電光石火の如き変 わり身の早さだ。本節では、戦後期の未明の足跡を追いたい。 敗戦翌年の昭和二一年三月、未明は児童文学者協会の結成に参加 した。この会は、関英雄・佐藤義美・奈街三郎ら中堅どころの児童 文学作家が主導の下、設立した団体で、未明は中野重治 ・ 坪田譲治 ・ 浜田広介などの大家とともに、創立発起人となっている。会の創立 趣意書は次の通りだ。 日本がいま新しい夜明を迎へようとしてゐる時、児童文学者の 使命もまことに重大であります。軍国主義の教育にゆがめられ た児童の精神を解放し、児童に真の人間性が何であるかを知ら せ、児童の自由な創造的な生活を培ふために清新な文芸の沃野 を拓く事こそわれわれのねがひであります。 「児童文学者協会創立趣意」 (「日本児童文学」 昭和二一年九月) ここで会は、戦前の軍国主義教育を、児童の精神を「ゆがめ」た 元凶として否定している。代わりに対置するのが民主主義で、綱領 に は「 民 主 主 義 的 な 児 童 文 学 を 創 造 し 普 及 す る 」、 規 約 に は「 こ の 会は民主主義文化の建設のために自由で芸術的な児童文学を創造し 普及することを目的とする」と、民主主義を重要視する路線を敷い た( 「日本児童文学」同前) 。GHQによる「上からの革命」が遂行 されていた当時の時代風潮が感じられ る (注2 ) 。 もっとも、未明は前年まで日本少国民文化協会へ所属し、民主主 義を 「敵性文化」 (「解放戦と発足の決意」 日本少国民文化協会編 『少 国民文化論』国民図書刊行会、昭和二〇年二月)呼ばわりしていた 人 物 だ。 国 民 を「 陛 下 の 赤 子 」( 「 日 本 的 童 話 の 提 唱 」「 報 知 新 聞 」 昭和一四年九月二〇~二三、 二五 ・ 二六日)と呼んでもいた。社会主 義から国家主義へと同様、ここには明確な思想的変節がある。だが この変節について、未明の口から反省や後悔の言葉が語られること は、片言隻句としてなかった。 機 関 誌「 日 本 児 童 文 学 」 創 刊 号 で 行 わ れ た、 「 一、 児 童 文 学 の 再 出 発 に 際 し て 作 家 と し て 最 も 反 省 す べ き 点 」「 二、 再 出 発 に 当 つ て の抱負」を問うアンケートへ、 未明は次のような回答を寄せている。 敗戦の結果国民はたしかに卑屈となり無気力となつてゐる。戦 争に責任なき児童も貧血症にかかつてゐる。それをこれまでの やうな生やさしいいい子主義や、通俗文学の類でどうなるもの
でもない。彼等の勇気と明朗性を取戻すものは、独り高き情熱 に燃える芸術の力だけである。此際作家は外的な解放運動の他 に、内的に彼等が自己を発見し、解放に導く任務がある。それ には先づ作家自らの自己革命を必要とするであらう。 「児童文学者の反省と抱負」 (「日本児童文学」 昭和二一年九月) この文章からは、戦中、国策協力を担った点への自省が欠落して いる。 「自己革命」は語られるが、それ以前にあるべき「自己批判」 はない。アンケートへ答えた作家は未明を含めて二七名。編集部は 「 作 家 自 身 の 内 面 的 な 反 省 の 声 を き き た か つ た の で あ る が、 編 集 部 の出題が言葉不足だつたためか、省みて他をいふやうな回答や、あ まりに一般的な原則論を送つてきた回答が多かつたことは遺憾」と 遺憾の意を表明した。また、同号の随想「子供たちへの責任」にお いても、未明は自身の戦争責任に関して、他人事のような発言を繰 り返してい る (注3 ) 。 昭和二四年一〇月、未明は児童文学者協会の初代会長へ就任。期 を見るに敏というべきか、敗戦後の未明は、反戦と民主主義を盛り 込んだ童話・随筆を次々と発表していく。未明は何等の反省なきま ま、 戦後という時代の主潮に便乗して行ったのである。上笙一郎は、 この無反省を後押ししたのは、当の児童文学者協会の作家たちに他 ならないと批判している。 だけれども、私は、皇道主義から民主主義へという思想の変化 が、いささかの自己反省もともなわずにおこなわれてしまった こ と が す べ て 未 明 一 個 の 責 任 で あ る と は 思 わ な い。 そ こ に は、 大衆児童文学の作家をのぞく日本の児童文学者すべてが、当然 負わなければならぬ責任もあったのではないだろうか。具体的 にいえば、昭和二一年三月日本児童文学者協会創立のとき、未 明は選ばれて初代会長の椅子についたのだが、この会の創立趣 旨には、たしか、侵略戦争に協力しなかったことを会員資格と するという一項があったと記憶している。こういう会の会長に 選んだことで、未明を安心させ、そのことが未明の自己検討を はばんでしまったという一面がなかったとはいえない。とすれ ば、 未明を児童文学者協会の会長に選んだ児童文学者たちにも、 当然のこととして一半の責任があったのである。 上笙一郎「戦後の小川未明の思想」 (「日本児童文学」 昭和三六年一〇月) 未 明 の 会 長 就 任 時 期 に つ い て は 上 の 思 い 違 い だ ろ う。 「 侵 略 戦 争 に協力しなかったことを会員資格とするという一項」が趣意書・綱 領・ 規 約 に 明 文 化 さ れ て い た わ け で も な い。 た だ し 関 は、 「 あ の 当 時の時勢のなかでは、やはり戦争中あまりはっきりと軍国主義の片 棒をかついだ人は積極的には誘わないというふうな申し合せを発起
人会でしました」 (関英雄他「座談会 戦後児童文学の諸問題」 「近 代 文 学 」 昭 和 三 四 年 二 月 ) と 語 っ て お り、 「 申 し 合 せ 」 程 度 は あ っ たようだ。いずれにせよ会には、創立総会で「児童文学界の戦争責 任明確化及び戦責出版社七社(講談社、主婦之友社、旺文社、興亜 日本社、 公論社、 山海堂、 家の光協会――引用者注)への不執筆動議」 (「協会ニュース」 「日本児童文学」 昭和二一年九月) を決議しながら、 「無キズの者は少ない」 (関英雄「民主主義文学の三十年」日本児童 文 学 者 協 会 編『 児 童 文 学 の 戦 後 史 』 東 京 書 籍、 昭 和 五 三 年 一 二 月 ) ことを理由に、うやむやにしてしまった経緯がある。同業者の無批 判が未明の無反省にお墨付きを与えたとする上の指摘は頷けよう。 ちなみに、 児童文学者の戦争加担に関しては、 戦後二反長半が、 「と ころが児童文学者の中で、小林多喜二を見つけることは困難であっ た。いや、ついに小林多喜二なしに終戦を迎えたというのが真実で あ ろ う 」( 『 児 童 文 学 の 展 望 』 大 阪 教 育 図 書、 昭 和 四 八 年 八 月 ) と、 全員有罪の烙印を押している。 このような批判なき環境の中で、昭和二〇年代、未明は世俗の権 威を上塗りしていった。昭和二一年一二月、これまでの業績に対し て野間文芸賞を受賞。昭和二六年五月には、小林秀雄とともに芸術 院賞を受賞し た (注4 ) 。昭和二七年一一月には、皇族・高松宮宣仁と、帝 国劇場で、 自作「赤い蝋燭と人魚」の舞踊を鑑賞している。さらに、 昭和二八年一一月には、永井荷風・川端康成とともに芸術院会員へ 推 さ れ た。 同 月、 文 化 功 労 者 と し て 表 彰、 終 身 年 金 を 獲 得 し て い る。 昭 和 二 五 年 一 一 月 に は、 『 小 川 未 明 童 話 全 集 』 全 一 二 巻 が、 昭 和二九年六月には、 小説と感想を収めた 『小川未明作品集』 全五巻が、 それぞれ講談社から発行開始された。敗戦から一〇年、戦後日本に おける未明の社会的地位は、不動のものになったと言えよう。周囲 の要請もあるのか、この頃から半生を振り返る、回顧録的な文章の 執筆が目立つようにな る (注5 ) 。 昭和二〇年代後半に入ると、いわゆる「童話伝統批判」が本格化 する。 これは、 鳥越信ら早大童話会の宣言 「「少年文学」 の旗の下に!」 (「少年文学」昭和二八年九月)に端を発する論争で、未明は古き伝 統童話を象徴する存在として、徹底した批判を浴びた。鳥越・古田 足日・いぬいとみこといった戦後デビューの若手が、その中心的論 客 で あ る。 批 判 の 主 眼 と し て は、 未 明 童 話 に お け る 散 文 性 の 欠 如、 社会変革の意志の欠落、現実の子ども読者の軽視の三点が大きく挙 げられる。論争の詳細やその評価については、本稿のテーマと逸れ るのでこれ以上触れないが、少なくともこの時期、児童文学界とい う狭いコップの中の争いであるにせよ、未明は生涯最大の批判に晒 された。当時の状況を、西本鶏介は「それまで日本児童文学の巨星 と信じて疑わなかった未明があたかも文化大革命のように否定され てしまったのです。未明否定者にあらざれば児童文学者にあらざる といった風潮が、ぼくたちのまわりにうずまいていました」 (「伝統 は 克 服 さ れ た か 未 明・ 広 介・ 譲 治 の 再 評 価 」「 日 本 児 童 文 学 」 昭 和四九年一月)と回想している。
だが、老境へ入った未明が、これらの論戦に応じることはなかっ た。 い や、 で き な か っ た と 言 う べ き か。 未 明 の 次 女・ 岡 上 鈴 江 は、 昭和二七年末、第二の高円寺の家へ移り住んだ時点で、未明は既に 相当程度老化していたと回顧している。 足が思うように軽くあがらず、自分の気持ではあげたつもりの 足が地面につっかかって身体の安定を失い、前のめりになるの だ っ た。 ( 中 略 ) そ の う え、 た だ で さ え は や 口 で わ か り に く い 言語はますます聞きづらくなっていく。父のいっていることが わからず、何度かききかえすうちに、気短かな父はいらいらし て怒鳴りちらしてしまう。かかりつけの医者は定期的に診にき た が、 血 圧 な ど を は か っ た あ と、 い つ も 同 じ よ う に、 「 別 に 異 常はない、かるい脳軟化症だけれど、これは老人病でいたしか た が な い 」 と い い、 「 病 気 を 進 行 さ せ な い た め、 過 労 や 刺 激 を さけ、ルチンをおのみになってください」といって帰っていっ た。 岡上鈴江『父小川未明』 (新評論、昭和四五年五月) 脳軟化症とは脳へ酸素が行き渡らず、 脳の一部が壊死する疾患で、 今でいう脳梗塞のことだ。晩年の未明は、身体の自由が利かず、知 的に衰えていた。当然、創作数は減っている。 またリアリズムをベースにしたそれらの作品は、大正期の社会主 義時代の作品群ほど称賛を集めなかった。晩年に限らず、戦後の未 明童話は、同時代・後世を通して、おおむね評価が低い。例えば川 崎 大 治 は、 「 近 年 小 川 さ ん が、 ま す ま す 生 活 的 な 童 話 に 主 力 を そ そ ぐようになつてから、かえつて作品は、児童から離れるような傾向 にある。そして、初期の空想的社会主義時代のロマンチツクな、激 しい人類愛の熱情にもえた頃の作品に、かえつて、児童は大きな魅 力をかんじている」 (川崎大治他 「現代児童文学作家二十七人論」 「日 本児童文学」 昭和二六年六月) と論評。西本は戦後作品について、 「あ の目をみはるイメージの美しさも、奔放な空想力も影をひそめてし まって」おり、代わりに「説教臭く」 、「もはや戦後を生きる作家で は な 」 か っ た と 論 じ て い る( 「 解 説 」『 定 本 小 川 未 明 童 話 全 集 1 4』 講談社、昭和五二年一二月) 。 昭和三六年五月、 未明は脳出血で倒れ、 死去した。七九歳だった。 死後、昭和天皇から金一封を送られてい る (注6 ) 。 二、 「戦争が悪いのだ!」――反省なき反戦 か く し て、 敗 戦 後 の 小 川 未 明 は、 児 童 文 学 者 協 会 の 結 成 に 参 加。 そ れ ま で の 聖 戦 賛 美 を か な ぐ り 捨 て、 反 戦 と 民 主 主 義 の 唱 導 者 と なって行く。この過程で、過去の戦争責任が問われることはなかっ た。 そ れ ど こ ろ か 未 明 は、 「 日 本 児 童 文 学 の 父 」 と し て 戦 後 社 会 に 地歩を固め、芸術院会員・文化功労者など、数々の栄誉をものにす ることとなる。本節では、戦後の未明の思想傾向を作品に即して分
析してみたい。 八 ・ 一 五 以 後 の 未 明 を 特 徴 づ け る の は、 第 一 に 反 戦 意 識 で あ る。 ただし、大正期の反戦意識が、国家と民衆の利害相反という社会主 義的な――その意味ではやや観念的な――対立図式を根拠としてい たのに対して(拙稿「転向者・小川未明(上) 」参照) 、戦後のそれ は、アジア・太平洋戦争という現実の敗戦体験に基づいている。 「悲しみを知らない噺」 (「社会」昭和二一年九月)は三人称童話。 主人公は、消息不明の出征兵士を息子に持つ「地主」だ。戦争孤児 を 育 て る「 和 尚 」 が、 地 主 宅 を 訪 れ、 孤 児 園 へ の 支 援 を 求 め る の が、 お お よ そ の 物 語 の 筋 で あ る。 和 尚 は、 「 い や、 こ ん ど の 戦 争 で は、お気の毒な方が、どれ程ゐるか知れません。何にしても、戦争 ばかりは、地獄にまさる、この世の地獄ですぞ」と、戦争=「この 世 の 地 獄 」 と い う 見 方 を 披 歴。 戦 後 の 困 窮 に つ い て、 「 子 供 に は 罪 がありません。みんな大人の犯した悪の報いです」と因果応報を語 る。地主もまた、 「和尚さんが、いはれたやうに、子供に罪はない。 凡てが大人の責任なんだ」 と感じ入る。 先の大戦の惨禍に対する生々 しい実感と、一億総懺悔的な雰囲気が濃厚だ。 「 新 し い 町 」( 「 幼 年 ク ラ ブ 」 昭 和 二 二 年 八 月 ) は 三 人 称 童 話。 主 人公は少年「勇吉」だ。勇吉は「おかあさん」と露天で商いをしな が ら、 戦 争 へ 行 っ た 父 の 帰 り を 待 っ て い る。 隣 の 露 天 商 は、 「 ど く へびがすんでいるジャングルで病死した、 おい」 を持つ下駄屋の 「お じいさん」で、勇吉とは仲が良い。ある日、様子のおかしい「せの 高い男」が通りを徘徊し、店を覗いては「ここは、げただな。げた ばかりか。こんなものたべられない」 「ここは、ろうそく、マッチ、 かやりせんこう、 色紙、 みんなたべられないものばかりだ」などと、 食べ物へ異常に執着した様子を見せる。聞けば、この男はニューギ ニアからの帰還者で、戦時中は、蛇やトカゲ、青虫を食べていたら しい。おかあさんは 「おきのどくに、 気がへんなんですね」 と憐れみ、 おじいさんは「せんそうが、わるいんだ」と呼応する。勇吉も「目 にいっぱいなみだを」浮かべる。この作品では、食へ固執する南方 戦 線 の 復 員 兵 の 言 動 を 通 し て、 「 気 が へ ん 」 に な る ほ ど の 後 遺 症 を もたらす、戦争の非惨が強調されている。 「戦争は僕を大人にした」 (「童話」昭和二二年二 ・ 三月)は三人称 童話。主人公は少年「清吉」だ。戦争で未帰還の父、残された母子 と い う 家 族 設 定 は、 「 新 し い 町 」 と 同 様 で あ る。 清 吉 は、 母 の 言 い 付 け で 用 足 し へ 出 向 く 途 中、 悪 童 に「 お 化 」 と 罵 ら れ て 泣 く、 「 お 婆さん」を目撃する。清吉は子どもらを追い払い、お婆さんを慰め ると、彼女は「わたしも、家を焼かれて、身寄りはなし、知り合の ところで、厄介になつてゐるが、寒さのため、持病のリユウマチが で て、 お 薬 を 買 ひ に 行 つ た ……」 と、 涙 な が ら に 身 の 上 を 語 っ た。 父 の い な い 清 吉 以 上 に、 「 お 化 」 は 孤 独 な 境 遇 だ っ た。 清 吉 は 彼 女 の「 あ は れ な 影 を 見 送 つ た 」 後、 「 戦 争 が わ る い の だ!」 と 叫 ぶ。 ここから物語は、かつて空襲の夜、猛火の中、母と逃げ惑い、母が 涙 し た 時 点( 「 お 前、 帰 ら う つ て、 ど こ へ 帰 へ る の。 も う お 家 は な
い ん だ よ 」) へ と 遡 る。 本 編 で は、 戦 後 と 戦 時 下、 二 人 の 女 性 の 涙 を通して、戦争がいかに人間を苦しめるものか、剔抉している。 ことほど左様に、戦後の未明童話にはアジア・太平洋戦争を素材 とした、 反戦意識の横溢したものが多い。 大正期の童話 「野薔薇」 (「大 正日日新聞」大正九年四月一二日夕刊)や「強い大将の話」 (「読売 新聞」大正九年一一月一五~一八日)が、特定の時代、特定の戦争 を名指ししないメルヘンな反戦表象であったのとは、対照的だ。 とは言え、これらの作品には、かつて自身がその戦争へ協力した 過 去 に 対 す る 反 省 が、 致 命 的 な ま で 欠 け て い る。 戦 後、 「 戦 争 が わ る い の だ!」 と 作 中 人 物 に 語 ら せ て い る 未 明 は、 戦 時 中、 「 東 亜 新 秩序」 (近衛文麿内閣)や「大東亜共栄圏」 (東条英機内閣)の理念 に共鳴し、 「然るに今度の事変は、 私達に民族的の自覚を促した。 (中 略)即ち、私達の民族的理想として、東亜新秩序の建設があり、国 防国家の完遂がある。それ故にすべての作家は、 文学行動を通して、 翼賛し協力しなければならぬのだ」 (「新しき児童文学の道」 「都新聞」 昭 和 一 六 年 五 月 一 二 ・ 一 三 日 ) な ど と、 戦 意 高 揚 を 煽 っ て い た の で はなかったか。この思想的変節について無反省の態度を貫いたこと は、未明という人間の大きな特徴だ。 未明は何故、反省しないのだろうか。これは一つに、彼が、物事 を客観的に捉える能力を著しく欠いていたからだと考えられる。続 橋達雄は、未明が「自伝」 (「早稲田文学」明治四五年一月)で、中 学時代のカンニングを「カンニングを陋劣なる理化の教師に発見せ られたため落第した。私は、終生故郷の学校生活に対して憤怒と屈 辱の念を禁じ得ない」と回想している点を捉え、次のような分析を 行っている。 倫理的にみれば、かれのカンニングこそ陋劣な行為である。そ れを反省することなしに、カンニングを発見した相手の陋劣さ を 攻 撃 し て や ま な い。 ( 中 略 ) 幼 い と い え ば ま こ と に 幼 く、 自 我の強い自己中心的発想が鮮明である。 続橋達雄『未明童話の研究』 (明治書院、昭和五二年一月) カンニングの実行者と摘発者、どちらに非があるかと言えば普通 前 者 だ が、 「 自 伝 」 で は 前 者 が 後 者 を「 陋 劣 」 と 非 難 す る 倒 錯 が 生 じている。一言で言えば、 逆ギレだ。続橋はこの一文に着目し、 「こ こからは、自己とか人間あるいは社会のありようを表から裏から眺 めて相対化し、冷静に客観的にそれらを凝視しようとする作家的姿 勢は生まれてこない」と、後年の未明の 感情的な作風 0 0 0 0 0 0 との連続性を 指摘している。 二つに、 保身もあっただろう。高村光太郎が「暗愚小伝」 (「展望」 昭和二二年七月)で自己切開したように、自らの戦争責任を認める ことは、世間から非難を浴び、作家としての栄達を放棄する事態へ 繋がりかねないからだ。その意味で、戦後、童話作家仲間が過去を 咎 め ず、 児 童 文 学 者 協 会 会 長 の 席 ま で 与 え て く れ た こ と は、 「 未 明
を 安 心 さ せ 」( 上 笙 一 郎「 戦 後 の 小 川 未 明 の 思 想 」「 日 本 児 童 文 学 」 昭和三六年一〇月)る、誠に都合のよい展開だったと言えよう。 なお、戦中から戦後へと同様、大正から戦中にかけての転向も相 当激しいが、こちらに関しても未明には反省した形跡がない。未明 の無反省は筋金入りだ。 第二の特徴は、民主主義の推進である。 今 は た し か に 文 学 革 命 の と き で あ る。 戦 後 旧 文 化 は 破 壊 さ れ、 道義、慣習はもとより、秩序は混乱し、善悪の標準すら失われ た。しかるに代るべき新道徳は起つていない。特権階級や金持 が横暴であつて、弱肉強食が平気で行われている限り人権の平 等、分配の公正の事実のあろうはずがなく、真の民主主義はあ りえない。 「現下の所感」 (「児童文学新聞」昭和二五年三月一日) この文章は、児童文学者協会の機関誌「児童文学新聞」第一号へ 寄 せ た 一 文 だ。 副 題 は「 会 長 を 受 諾 し て 」、 一 面 の ト ッ プ 記 事 と し て扱われている。 「特権階級や金持」 の横暴、 「弱肉強食」 の社会を、 「真 の民主主義」の観点から批判しようというのが、 全体の論旨である。 文末では、 「資本力の攻勢」に対して、 「真の民主主義への新しき芽 を 擁 護 し な け れ ば な ら な い 」 と 重 ね て 語 ら れ る。 戦 前、 「 吾 等 の 文 化 は、 民 主 々 義 的 な、 敵 性 文 化 の 類 似 で あ つ て は な ら ぬ の で あ る 」 「 自 由 主 義 時 代 に 感 染 し た る、 心 の 汚 辱 を 一 洗 し て、 真 に 日 本 精 神 に生き、国家に殉ずることである」 (「解放戦と発足の決意」日本少 国民文化協会編『少国民文化論』国民図書刊行会、 昭和二〇年二月) と 民 主 主 義・ 自 由 主 義 を 否 定 し、 「 日 本 の 家 族 制 度 は、 日 本 精 神 を 中軸とする、世界無比のものである。皇道日本は皇室中心の一大家 族 で な い か?」 (「 日 本 的 童 話 の 提 唱 」「 報 知 新 聞 」 昭 和 一 四 年 九 月 二〇~二三、 二五 ・ 二六日)とファナティックな家族国家論を唱えて いた人間と、よもや同一人物とは思われない。 「 心 の 芽 」( 「 少 国 民 の 友 」 昭 和 二 一 年 二 月 ) は 三 人 称 童 話。 主 人 公は青年「正吉」だ。正吉は幼少期、不慮の事故から右足に障害を 負い、 「碌々学校へも行かず」 、町の縫箔屋へ弟子入りする。手先の 器 用 な 正 吉 は、 「 主 人 」 の 代 わ り を す る ほ ど の 腕 前 と な っ た が、 戦 争 の 最 中、 縫 箔 屋 は 商 売 に な ら ず、 ま も な く 閉 店 し ま っ た。 戦 後、 成人となり、 主人と再会した正吉は、 近日行われる総選挙について、 次のような説諭を受ける。 「 こ れ か ら は、 だ ま さ れ て は い け な い し、 強 く な ら な け れ ば な らん。そして、真に、自分達のためになり、力のない者の味方 になる、正しい人間を選挙するのだ。いままでは、そういふあ た り ま へ の こ と す ら 出 来 な か つ た が、 い よ い よ そ れ が で き る、 自由な時代になつたのを、知つてゐるね」 「はい、自由主義の時代でせう」
「 さ う だ、 自 分 が 正 し い と 信 じ た と ほ り に す る、 そ れ が 何 よ り 貴いことなのだよ」 続 け て、 「 金 と か、 学 問 と か い ふ こ と よ り、 何 よ り み ん な が 正 し い考を持つ人間となることが大切なんですね」と問う正吉に、主人 は「それが、民主主義なんだよ」と応答。主人の教えを受けた正吉 は、 以 後 誰 に 投 票 し よ う か、 「 暇 が あ れ ば、 選 挙 候 補 者 の 演 説 を 聞 き歩く」ようになる。本編では、戦中期、痛罵の対象だった民主主 義や自由主義が、青年の指針とすべき理念・価値観として称揚され てい る (注7 ) 。「猫も杓子も自由主義といひ、民主主義といふ」 (本田秋五 「芸術歴史人間」 「近代文学」昭和二一年一月)時代の、典型例 だ (注 8 ) 。 第三の特徴は、私欲への嫌悪である。 今日の商品雑誌の、少からず児童に迎合するごとき傾向は必ず しも、児童の真の趣味娯楽をもって選択したものでなく、むし ろ大人の要求や、興味が反響したといえるものがあります。今 の子供が猟奇的や英雄主義や、冒険や、闘争的のことや、その 他これに類するものを愛好するのは、資本主義的ジャーナリズ ムに感染した大人の心が反映した結果であります。 「童話作家を志す人へ」 (日本児童文芸家協会編『児童文学の書き方』 角川新書、昭和三一年九月) また、金銭にこだわってはいけないということも(幼少期、両 親に――引用者注)厳しく説ききかされていました。よその家 へ使に行って、その御苦労賃にとお菓子などをいただいて帰る ことはありましたが、金銭をもらうことは固く禁じられていま した。ものの考えかたが物質的に偏ることを厳に戒められてい た の で す。 ( 中 略 ) そ う い う 遠 い 日 の こ と を お も う と、 現 代 の 社会にはあまりにも精神教育が欠けているとおもわざるをえま せん。世の中は進んだのかも知れませんが、金がありさえすれ ば何でも出来るという世の中を私は肯定する気にはなれないの です。 「自分を失ってはいけない」 (「社会教育」昭和二六年七月) 「資本主義的ジャーナリズムに感染した大人の心」 「金がありさえ すれば何でも出来るという世の中」 を肯んじ得ない未明。未明には、 物欲・金銭欲・名誉欲など、資本主義が昂進する人間の私欲全般へ の嫌悪がある。濃淡はあれ、この私欲への嫌悪は、大正・戦中・戦 後と一貫していよ う (注9 ) 。だが、大正・戦中期の未明が、私欲の大本た る資本主義を「階級闘争」や「日本精神」のスローガンで直接弾劾 していたのに対し、戦後期の未明は、資本主義そのものへの批判を さほど行わない。代わりに、個人の私欲への惑溺を、精神論的に戒 めようとする傾向がある。 「 金 で 買 え な い 仕 合 せ 」( 「 こ ど も 朝 日 」 昭 和 二 三 年 七 月 ) は 三 人
称 童 話。 主 人 公 は、 「 田 舎 の 貧 し い 家 」 に 生 ま れ 育 っ た「 ヤ ス ケ じ いさん」 だ。ヤスケは少年期に東京へ奉公へ出されて以来、 「人間は、 いつでも正直に、よく働かなければならぬ」という亡き母の教えを 墨守し、 清貧に生きている。ある日、 ヤスケのもとに、 戦後成金の 「サ キチ親方」が現れ、母の思い出の品であるバラの高額売買を持ちか けてきたが( 「おじいさん、 いくらでも金を出しますが、 このばらを、 私にゆずつてくれませんか?」 )、ヤスケは拒否。ヤスケの拒絶を通 して、金に釣られない心の清白が讃えられている。 「託児所のある村」 (「文学教育」 昭和二六年一〇月) は三人称童話。 地方の託児所を舞台とした群像劇だ。 「子供達」や「若い保母さん」 は愉快に過ごしているが、ある日東京から、 「黒い服を着た、役人」 の 一 行 が 見 学 へ 来 る と、 「 冷 た い 空 気 が、 あ た り を 流 れ 」 る。 近 く で 写 生 中 の「 青 年 画 家 」 は、 訝 る 一 行 に、 「 お 役 人 や、 金 持 や、 学 者は、自分等の仲間でない、いつも上の方にいて、命令するものだ と思つているから、きゆうに、いつしょになつて、わらつたり、話 したりすることができぬのです」と説明。自身の画家としての功名 心を問われると、 「とんでもない、 それは名誉欲の強い人のことです」 と否定する。 「しかし、 自然は、 いつ見ても平和で、 美しい。人間も、 まちがつた考えや、欲望さえ持たなければ、互に親しみ合うことが 出 来 て、 美 し い に ち が い が あ り ま せ ん 」。 欲 望 を 絶 っ た 先 に、 美 し い共存共栄の社会が訪れるというのが、画家の主張だ。この主張に は、未明の理想が、よく仮託されていよう。 「 き よ く た だ し く 」( 「 五 年 の 学 習 」 昭 和 三 一 年 一 月 ) は 随 筆。 児 童雑誌の新年号に書かれた一文だ。この随筆で、未明は「きみたち はいま、人生のかどでに立っている。その出発にあたって、きみた ちはじぶんにほこりをもち、 つねに正しい、 美しいものに目をむけ、 きたない、 まちがったものから、 じぶんをまもらなければいけない。 ( 中 略 ) わ る い か ん き ょ う に ま け ず、 美 と 正 義 に か ん げ き す る 人 間 に な ろ う 」 と、 タ イ ト ル 通 り、 「 き よ く た だ し く 」 生 き る よ う、 児 童を鼓舞している。小学生向けの文章だから、対峙すべき「きたな い、 ま ち が っ た も の 」「 わ る い か ん き ょ う 」 が 何 を 指 す の か、 具 体 的には明示されていない。しかし、サキチ親方や役人の一行に象徴 される大人の私欲も、当然、そこに含まれると考えていいだろう。 おわりに 以上見てきた通り、戦中から戦後にかけて、未明は国家主義者か ら反戦民主主義の伝道者へと変貌を遂げる。社会主義の放擲に次ぐ 「 再 転 向 」 だ。 本 稿 で は 最 後 に、 こ の 間 の 未 明 の 再 転 向 を、 大 き く 三つの観点から振り返りたい。 一つは、アジア・太平洋戦争の推進が、反戦の呼号へと反転した 点である。未明は戦中、近衛文麿内閣、東条英機内閣がそれぞれ提 起 し た「 東 亜 新 秩 序 」「 大 東 亜 共 栄 圏 」 の 理 念 に 同 調 し、 ア ジ ア・ 太 平 洋 戦 争 を 積 極 的 に 礼 賛 し て い た。 例 え ば、 「 我 が 日 本 は、 実 に それ故に東亜後進諸民族のために、これまで搾取と暴戻を恣にした
る、米英の鉄鎖を断ち、永遠にその禍根を絶たんとして立上つたの である」 (「解放戦と発足の決意」日本少国民文化協会編『少国民文 化論』国民図書刊行会、昭和二〇年二月)と、連合国との戦いの正 義 性 を 確 信 し て い る。 と こ ろ が、 敗 戦 後 の 未 明 は「 戦 争 ば か り は、 地 獄 に ま さ る、 こ の 世 の 地 獄 で す ぞ 」「 み ん な 大 人 の 犯 し た 悪 の 報 い で す 」( 「 悲 し み を 知 ら な い 噺 」「 社 会 」 昭 和 二 一 年 九 月 ) と、 戦 争の悲劇・愚昧さを、童話の作中人物へ嘆かせるに至った。しかも 自身の戦争責任に関しては、 一言半句たりとも反省の弁を語らない。 無節操とさえ言える、朝令暮改振りだ。 二 つ は、 政 治 体 制 の 理 想 が、 天 皇 を 頂 点 と す る 家 族 国 家 か ら 民 主 主 義 へ シ フ ト し た 点 で あ る。 戦 中 の 未 明 は、 天 皇 を「 国 民 の 父 」 に、国民を「陛下の赤子」に見立て、国家を一つの家族に準える家 族 国 家 観 を 信 奉 し て い た。 例 え ば、 「 日 本 の 家 族 制 度 は、 日 本 精 神 を中軸とする、世界無比のものである。皇道日本は皇室中心の一大 家族でないか? 上下三千年、これがために和協一致が保たれたの で あ る 」( 「 日 本 的 童 話 の 提 唱 」「 報 知 新 聞 」 昭 和 一 四 年 九 月 二 〇 ~ 二三、 二五 ・ 二六日)といった発言がそれである。しかるに、戦後の 未 明 は、 「 真 の 民 主 主 義 へ の 新 し き 芽 を 擁 護 し な け れ ば な ら な い 」 (「現下の所感」 「児童文学新聞」昭和二五年三月一日)と説き、 「暇 があれば、選挙候補者の演説を聞き歩く」 (「心の芽」 「少国民の友」 昭和二一年二月)民主青年を、自作の主人公に据えている。天皇を 核とする家族国家への愛慕は、雲散霧消してしまった。 三つは、資本主義批判の質が、制度に対する弾劾から、個人の私 欲 を 戒 め る 方 向 へ 転 じ た 点 で あ る。 戦 中 の 未 明 は、 資 本 主 義 こ そ、 民衆を堕落させる諸悪の根源と見做し、徹底した痛罵を浴びせてい た。 例 え ば、 「 資 本 主 義 は、 い ろ い ろ の 分 業 を 産 み、 人 間 を 機 械 に 隷属せしめ、 人間を退化せしめたのだ」 (「日本的童話の提唱」同前) と、人間の「退化」の原因を資本主義に帰責させている。翻って戦 後の未明は、資本主義というシステムそのものへの批判を、さほど 行わない。むしろ、人々が資本主義から悪影響を受け、欲望にまみ れた存在とならないよう、個人の 心がけ 0 0 0 を糺そうとする傾向が顕著 である。成金に母の思い出のバラを売り渡さない 「ヤスケじいさん」 (「金で買えない仕合せ」 「こども朝日」昭和二三年七月)や、 「人間 も、まちがつた考えや、欲望さえ持たなければ、互に親しみ合うこ とが出来て、 美しいにちがいがありません」 (「託児所のある村」 「文 学教育」昭和二六年一〇月)と欲望の放棄を説く青年画家は、未明 の反私欲の祈念が具現化した存在だろう。制度の糾弾より、人心の 啓発に、力点が置かれている。 注 1 山 中 恒 の『 戦 時 児 童 文 学 論 』( 大 月 書 店、 平 成 二 二 年 一 一 月 ) は、 昭 和 期 の 未 明 の 国 策 協 力 を 詳 述 し た 労 作 だ が、 本 書 は 戦 中 の 歩 み の み に 焦 点 を 合 わ せ て い る た め、 大 正・ 戦 後 の 足 跡 や、 三 者 の 前 後 比 較 は
論 じ ら れ て い な い。 な お、 未 明 の 変 節 に つ い て は、 鳥 越 信 も「 と も か く こ ん な に は げ し く ゆ れ 動 い た 作 家 は 珍 し い と 思 う が、 も っ と ふ し ぎ な の は、 そ う し た 未 明 へ の 否 定 的・ 批 判 的 な 評 価 は ほ と ん ど な く、 常 に 未 明 は そ の 時 々 の 日 本 児 童 文 学 の 頂 点 に 立 つ 作 家 と し て、 高 い 評 価 を 与 え ら れ て き た 点 で あ る 」( 「 小 川 未 明 」『 鑑 賞 日 本 現 代 文 学 第 3 5 巻 児童文学』角川書店、昭和五七年七月)と指摘している。 2 児 童 文 学 者 協 会 の 綱 領・ 規 約 は、 蔵 原 惟 人・ 中 野 重 治・ 宮 本 百 合 子 ら が 設 立 発 起 人 を 務 め る 新 日 本 文 学 会 の 綱 領 草 案「 民 主 主 義 的 文 学 の 創 造 と そ の 普 及 」、 規 約 草 案「 本 会 ハ 民 主 主 義 文 学 ノ 創 造 ト 普 及 ト ヲ 目 的 ト ス ル 」( 「 新 日 本 文 学 創 刊 準 備 号 」 昭 和 二 一 年 一 月 ) と、 ほ と ん ど 変 わ ら な い。 加 え て 両 団 体 は、 民 主 主 義 文 化 の 建 設 を 目 指 す 日 本 民 主 主 義 文 化 連 盟 へ と も に 加 盟 し て お り、 児 童 文 学 者 協 会 は 菅 忠 道・ 関英雄・奈街三郎の三名を評議員として送っている。 3 「 子 供 た ち へ の 責 任 」( 「 日 本 児 童 文 学 」 昭 和 二 一 年 九 月 ) に は、 「 戦 争 中 は い か な る 言 葉 を も つ て 子 ど も た ち を 教 へ た か。 指 導 者 ら に は 何 の 情 熱 も 信 念 も な く、 た だ 概 念 的 に 国 家 の た め に 犠 牲 に な れ と い ひ、 一 億 一 心 に な ら な け れ ば な ら ぬ と い つ て、 形 式 的 に 朝 晩 に 奉 仕 的 な 仕 事 を 強 制 し て 来 た。 そ し て 日 本 は 一 番 正 し い の で あ る し、 敵 は 残 忍 で あ り 醜 悪 で あ る と い ふ こ と を 言 葉 に 文 章 に 信 ぜ せ し め よ う と し て 来 た。 そ れ が 終 戦 後 の 態 度 は ど う で あ る か、 今 ま で の 敵 を 賛 美 し、 ま ち が つ て ゐ た こ と を 正 し い と い ひ、 ま つ た く 反 対 の こ と を 平 然 と し て 語 つ て ゐ る 」 と、 旧 指 導 者 層 の 戦 争 動 員 お よ び 戦 後 の 変 わ り 身 の 早 さ を 指 弾 す る 叙 述 が あ る。 し か し、 日 本 少 国 民 文 化 協 会 の 役 員 と し て 国 策 協力を担っていた、 自身の振る舞いに関する反省的論及は見られない。 4 未 明 の 次 女・ 岡 上 鈴 江 に よ る と、 芸 術 院 賞 受 賞 に 際 し て は、 大 正 時 代、 未 明 を 監 視 し て い た 特 別 高 等 警 察 の 刑 事 か ら も、 祝 い の 手 紙 が 送 られてきそうだ。 「父と母は感慨無量な面持ち」 (『父小川未明』 新評論、 昭和四五年五月)であったと、岡上は回想している。 5 「 童 話 を 作 っ て 五 十 年 」( 「 文 芸 春 秋 」 昭 和 二 六 年 二 月 )、 「 童 話 に 生 き る 」( 「 中 学 時 代 」 昭 和 二 六 年 八 月 )、 「 人 生 案 内 」( 「 ニ ュ ー エ イ ジ 」 昭 和 二 六 年 一 〇 月 )、 「「 児 童 文 学 」 の 夜 明 け へ 」( 「 読 売 新 聞 」 昭 和 二 八 年 八 月 二 四 日 )、 「 常 に 希 望 を も つ 」( 「 中 学 時 代 」 昭 和 二 九 年 二 月 )、 「 童 話 と 私 」( 「 改 造 」 昭 和 二 九 年 六 月 )、 「 私 の 一 転 機 」( 「 週 刊 朝 日」昭和三三年五月一四日)など。 6 「故小川未明氏に金一封」 (「朝日新聞」昭和三六年五月一三日夕刊) 7 「 心 の 芽 」 の 初 出 誌 で あ る「 少 国 民 の 友 」( 昭 和 二 一 年 二 月 ) を ひ も と く と、 未 明 に 限 ら ず、 全 体 と し て、 民 主 主 義 賛 美 の 色 調 が 濃 厚 で あ る。例えば、 同誌の巻頭論文、 平貞蔵「民主主義とはどういふことか」 で は、 民 主 主 義 と い う 政 治 思 想 の 歴 史 的 来 歴 を 概 観 し た 上 で、 「 連 合 国 か ら さ う い は れ な く と も 民 主 主 義 の 国、 民 主 主 義 的 な 人 間 に な る の が ほ ん た う な の で す。 ( 中 略 ) ま た 国 が ほ ん た う に 進 歩 す る の に も 民 主 主 義 が 最 も よ い の で す 」 と 結 論 付 け て い る。 あ る い は、 米 陸 軍 中 尉 = エ イ リ ー ン・ R・ ド ノ ー ヴ ア ン「 進 駐 軍 よ り お く る 日 本 の 子 ど も た ち へ 」 で は、 「 ア メ リ カ で は、 民 主 々 義 的 精 神 の 漲 つ て ゐ な い と こ
ろ は あ り ま せ ん 」「 ア メ リ カ の 子 供 た ち は、 大 変 程 度 の 高 い 文 明 生 活 の 中 に、 一 人 の 責 任 あ る 社 会 人 と し て 養 成 さ れ て ゐ ま す 」 と、 民 主 主 義 を 実 践 す る ア メ リ カ の 子 ど も の 教 育 レ ベ ル の 高 さ を 褒 め た た え て い る。 8 秋 山 清・ 小 野 十 三 郎 ら が 編 集 責 任 者 を 務 め た 雑 誌「 コ ス モ ス 」 の 創 刊 の 辞 で も、 戦 中・ 戦 後 の 文 学 者 の 変 節 は、 「 敗 戦 の 今 日 で は ま た 風 の 吹 き 廻 し で 猫 も 杓 子 も 民 主 々 義 を 唱 へ 昨 日 ま で 反 動 的 国 家 主 義 の 笛 を 吹 い て ゐ た 者 ま で が 恬 然 と し て 自 由 の 歌 手 に 早 変 り す る と い ふ さ は ぎ で す 」( 「 創 刊 に つ い て 」「 コ ス モ ス 」 昭 和 二 一 年 四 月 ) と 批 判 さ れ て い る。 繰 り 返 し に な る が、 未 明 も ま た、 そ の 一 人 で あ っ た 事 実 は 疑 い得ない。 9 例 え ば、 大 正 期 の 評 論「 新 社 会 の 人 間 た ら し む べ く 」( 「 女 性 」 大 正 一 二 年 三 月 ) に は、 「 私 は、 あ る 金 持 の 細 君 が、 病 気 で 熱 の 高 い 子 供 を 女 中 に 委 し て、 自 分 達 は、 自 動 車 に 乗 つ て 芝 居 を 見 に 行 つ た と い ふ 事 実 を、 あ る 人 か ら 聞 か さ れ た 時 に、 其 時、 私 は、 こ の 無 恥、 薄 情 の 女 を ど ん な に 心 で 憎 ん だ か 知 れ な い。 「 プ ロ レ タ リ ア に は、 そ ん な も の は な い 」 と、 さ へ 私 は、 叫 ん だ の で す 」 と の 記 述 が あ り、 子 ど も の 看 病 よ り「 自 己 享 楽 」 を 優 先 さ せ る ブ ル ジ ョ ア 夫 人 へ の 憎 悪 が 表 明 さ れ て い る。 あ る い は、 昭 和 期 の 評 論「 発 足 点 か ら 出 直 せ 」( 『 新 日 本 童 話』竹村書房、 昭和一五年六月)には、 「独り芸術家だけでなかつたが、 金 に さ へ な り、 同 時 に 虚 名 を 博 さ れ る 場 合 に は、 往 々 人 た る こ と の 矜 持 を 忘 れ て、 裸 に な つ て 踊 る こ と も 辞 さ な か つ た で あ り ま せ う。 世 間 も ま た 新 聞 や 雑 誌 の 上 で 有 名 に さ へ な れ ば、 そ の 人 を 成 功 者 と し て、 特 別 に 扱 ひ、 羨 望 し た の で あ り ま す。 資 本 主 義 が、 人 間 を し て 堕 落 さ せ る こ と、 大 概 此 の 如 く で あ り ま す 」 と の 記 述 が あ り、 金 と 名 声 に 浮 かれる成功者の様子を裸踊りに譬えている。
Re-conversion of Mimei Ogawa
: After Japan’s Defeat in WWII
MASUI, Makoto
This paper is a sequel to "Conversion of Mimei Ogawa" which I wrote in the journal Japanese Literature Culture(2015 / 2016). In those articles, I tried to trace the conversion of Mimei from 1912 to 1945. Although Mimei initially believed in socialism, as soon as the Sino-Japanese War broke out, he discarded the ideology and turned to be an ardent nationalist. As a result, throughout the World War II, he aggressively showed his cooperation to the war. However, Mimei’s conversion did not end at this point. After Japan lost the World War II, he was re-converted. That is to say he quit to be a nationalist and began to advocate the importance of democracy and pacifism. This conversion as well as the former conversion was a surprising turnabout. But, until now, this disgraceful behavior of Mimei, "the father of Japanese children's literature", has not necessarily collected so much attention in the field of research. Therefore, this paper aims to reveal the process of Mimei’s postwar re-conversion by exploring his personal history and literary works. I would like to show how he changed his idea and why such a dramatically change occurred.